飯田邦彦「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(1982年)

 

恩納岳に潜み、いつの日か遊撃戦を展開するはずだった敗残兵たちは、前日の9月6日、既に捕虜となっていた日本兵の呼びかけに応じ、投降することを決めた。

翌朝早く、小寺少尉はニコニコしながら約束どおり、私たちを山に迎えにきてくれた。持っている武器は全部捨てさせられた。

私は戦友の肩につかまり、かすかな気力をかきたてながらヨロヨロと、指定された谷茶部落の投降地への一歩一歩を踏みだした。いちどでいいから昼間、大手を振って歩いてみたい」と思った、米軍への恐怖の小径を今日は昼間、しかも小寺少尉ひとりを信じて投降してゆく気持ちには、まだ不安がないでもなかった。

アメリカ兵は自動小銃こそ持っていたが、私たちのトラックを待たせ、チューインガムをかみながら、これまで敵であったという態度をすこしもみせなかった。

かんたんな身体検査を受けた後、私たちはトラックに乗せられた。そのとき、反対側からジープが1台疾走してきて停まり、中から半ズボン、開襟シャツに防暑帽をかむった恰幅のよい老齢の日系二世らしいひとりが降り立ってから「いよう、まだいたんだな・・・」と微笑しながら、サングラスをはずして車上の私たちを眺め廻した。その顔に私は、「どこかでみた顔だ」と、胸がつかれる思いに頭をひねってやっと思い当った。米軍協力の特別功労者として、ジープまであてがわれているその人こそは、つい4カ月前の恩納岳戦のおりに、「地理案内は私たちがいたします」といって、岩波大尉に決起をうながしたことのある白髪が頭に霜をおく恩納村村長の古山氏その人ではないか。私は瞬間、まるでハンマーか斧で頭の脳天を力いっぱい殴られたような衝撃をおぼえ、目の前が真暗になるようだった。

トラックはやがて私たちの思い出の地、谷茶を離れ、仲泊を左折して島の最狭部を縦貫している東西横断道路を走って、東海岸に出た。眼下は金武湾だ。さまざまな船やヨットが浮かんでいるのが見える。左手には石川部落があってトラックはそこに立ち寄ったから、米軍保護下の住民区を垣間見ることができた。小寺少尉の説明でいまここは「沖縄の首都」になっているそうだ。屋根のとんでしまった家には米軍のテントをかけて、何万人も住んでいた。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 259-260頁より》

 

土のようだった住民の顔は、男も女ももう生色をとりかえしていた。…やがてトラック上の異様な風態をしている私たちを見ようとして、子供たちや娘さんたちが大ぜいゲートのところまで出てきた。…嘉手納飛行場の通信任務として、沖縄の大ぜいの人たちから顔を知られている私は、命ながらえた恥ずかしさに私は顔をおおっていた

私は戦闘中に悲惨であった避難民たちの面影を浮かべ、こんなにあたたかい保護がくわえられるのなら、なぜもっとはやく・・と心がくもる思いがした。そして、荒廃した島の人たちに幸あれと祈らずにおれなかった

トラックは金武湾岸を北上してゆく。

…遂に「屋嘉」にきたのだ。

どの顔も土のよう、おちくぼんだ目だけが、狼のようにけわしく光っている。鼻をつくウミのにおいに、ゴム手袋をして身体検査をするMPは思わず鼻を押え、目をそむけた。

素裸にされてDDTをかけられたあと、PW(戦争捕虜)と墨書された服に着かえされ、私たちは一人ひとり写真を撮られたうえ、調書に署名させられた。

収容所はみどりの山々を背にして、海岸よりのやや開けた砂地にあった。周囲には二重に鉄条網が張りめぐらされて、正面と周囲、四カ所に監視哨がそびえている。

この鉄条網のなかに整然と天幕がならび、高級参謀の八原博道大佐以下、7千名の同胞が収容されていると聞いて、私はおどろいた。10万人あまりの軍隊から、たった7千名、あとは戦死を遂げてしまったか、斬り込み自殺、敗走中での死亡、海上での溺死、あるいは地方民への変装潜行、日本軍10万壊滅というわけだ。それにしてもよくも7千人の者が捕虜になったものだ。沖縄玉砕劇もこれで幕がおりた。この7千人はたしかに幸運なものたちであったが、私はいろいろと考え、複雑な感情におそわれた。

その人たちが、みな安心しきった表情でいるのが不思議でたまらなかった。私たちは敗戦の虚脱感の中でこの日から米軍の寛大な保護のもとに、この同胞たちの仲間入りをした。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 260-261頁より》