飯田邦彦「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(1982年)

 

十・十空襲

蜻蛉が群れをなして飛ぶ秋日和がつづいたある日、突然、B29が1機ま昼の青空の中をかげろうのように身を透かせながら飛翔してゆき、兵隊たちが「あれよ、あれよ」といってる間に、高射砲もとどかない1万メートルの飛行場上空をまっすぐに島の南から北へとび去った。

そんなこともあり飛行場作業、通信任務がつづけられていた10月10日、…私たちが朝食後の一服のときであった。突然、北方の読谷飛行場方面から、

グワグワン、グワグワン!

という一大音響がとどろき渡った。「すわ!」と、私たちがおどろいてみつめる読谷飛行場あたりにはパッと黒煙が挙がり、みる間にピカピカッと電気溶接のような火花がつづいたかと思ったら、轟然たる爆発音がとどろき渡った。たちまち日の出の美しい空は真黒になって大黒煙が濛々とたちのぼり、友軍の対空砲火が吠えるように「グワン、グワン」射ちだした。…上空には早や山犬のようにどう猛そうな、真黒と真白の機体には星のマークがついているまぎれもない米機、グラマンF4F、カーチスが4機ずつの編隊を組んで、ハヤテのように読谷飛行場めざして殺到してゆく、そして日輪を背にして白い翼がサッと陽にキラメクと真逆様に飛行場目がけて突っ込み、機関砲、ロケット弾の雨を降らせる。

投弾、掃射がおわると敵は風に舞う木の葉のように、対空砲火の弾幕をあざ笑うかのようにヒラリと機体をかわして射程外の残波岬沖の海上に這うようにぬけ、また編隊をがっしり組んで同じ目標にのしかかっている。(70-71頁)

… 熊蜂のような米機は220高地の稜線をかすめて走り、次々と機影をまして一方的な攻撃がつづく。高射砲弾は高く、あるいは低く炸裂するが、敵機はその間を縫って去り、また攻撃をつづける。一機として撃墜できない。耳がひき千切れるような轟音と共にドラム缶入りの燃料が燃えつづけ、弾薬は誘爆をつづけてドドドドッと断末魔のような地ひびきが襲った。(71-72頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 70-71、71-72頁より》

第二波、第三波と幾百機ともいう艦載機の空襲は全島にひろがっているらしい。黒煙は日をさえぎって、轟音がとどろいていた。

第四波がはじまったのは午前11時ごろ。敵機はこんど、わが嘉手納飛行場の爆撃も開始した。「ドドドドー」大爆発音が身近に地面を震わせる。…米機の間隙を縫って緑の中にある本部事務室の通信所に駈けつけた。通信所は安泰であった。(73頁)

… 島田准尉をはじめ、本木曹長、新岡軍曹などが鉄帽を冠り、刻々と入ってくる通信情報に耳を傾けているが、誰も寂として声なく、深く生い茂った榕樹の空間から敵空襲を見守っている。前方の空を北の方からゴマ粒のような幾つもの編隊群が那覇首里方面を一直線に目指しているのをみていると、そのうちの最後尾の編隊群の先頭機がサッと陽にきらめくや、ほとんど、直角に近い急降下で私たちの方に向かって突っ込んできた。

「敵機だ逃げろ」

というが早いか、みなは慌てて庭先にある防空壕に飛び込んだ。同時に「ダダーン」という落雷のような大音響と共に私たちは防空壕の中で地面に叩きつけられた。雨のような土砂が頭から降りかかった。

「近かったなあ今のは」

恐怖で誰も顔がこわばっていた。

…2 秒間、早く投下されたために私たちをそれた爆弾は、70メートルくらい前方の民家に命中して家族7名が爆死した。… 付近はガジュマルの大木がスルメのようにひき裂かれて、生々しく、血の匂いが胸をつき、人間の肉片に銀蠅がいっぱいたかっていた。わが嘉手納飛行場周辺で最初に犠牲となった一家である。

大空襲は終日つづいて敵機がまったく視界からとび去ったのは夕陽が沈むころであった。(74-75頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 73、74-75頁より》

 

谷茶の掃討

…すでに8月15日もすぎていたと思うが、ある夕暮どき、山麓近くの田んぼで穂をつむ戦友を残して、私は大胆にも、あたりはまだ明るいというのに、1人で蟹を捕らえるために海岸への軍用道路を飛びこえた。このとき那覇方面からジープが1台疾走してくるのに出会ってしまった。危い!距離300メートル、しまった!と思ったがもう戻ることは不可能だ。「見つかったら殺される」わたしは突嗟にブルドーザーで海中に横倒しされている松の枝の中に退避した。

 

「どうか見つからないでくれ」祈るような数秒。米兵に対する恐怖の心臓が時計の秒針のように激しくうつ。と、ジープは私の3メートルくらい高い頭上で停った。見つかったのだ。中から自動小銃を手にした大男が出てきた。私は拳銃の引き鉄に手をかけたが、少しでも海中に身をすくめるように観念の眼を閉じた。熱帯疥癬の体に波がザブンと打ちよせては返す。自動小銃をいじくっているような金属音がきこえてくる。絶対絶命、こんどこそ殺されると思った私はだれにも知られず、こんなみじめな姿で死んでゆくいとおしさに、妙に肉親の面影が浮んできた。どれほど時間が経ったかわからない、私の一生でこれほど長い時間はなかったろう。そのうち米兵は用便をすますとジープを始動して名護方面に走り去っていった。

 

まったく奇蹟的なできごとである。救われたのだ。わたしは死の緊張からグッタリとなった夕闇のその場で、目に見えぬ運命の神、亡き戦友の霊に心から祈らずにはいられなかった。米兵がなぜ私を射殺しなかったかは、いまもって解けぬ謎である。

 

谷茶の浜に再三出没する日本敗残兵はきっと米軍のリストにも載っていた筈だ。やがてこうした大胆な行動は、みずから敵の掃討戦をまねく結果となった。それから1週間くらい経ったある日の朝、静寂だった谷茶部落の山麓一帯にかけて、自動小銃の音がけたたましく鳴りだした。

 

パパパパーン、ダダダダー

 

戦場に生きる者にとって銃声は研ぎすましている音だ。私たちは「掃討戦だ」と気がついて緊張した。その音は山麓から次第に私たちの潜んでいる山上の谷間の方まで近づいてきた。私たちもあわてて世帯道具のナベ、カマ、食糧などを背負い、小屋からぬけだして背後の灌木林や、雑草の生えている稜線に避難路をもとめた。ところが、山の稜線の小径には、萱で結んだ厳重な包囲網が形成されていた。敵はこんな近くまできていたわけである。私たちはその萱で結んである下をかい潜って泳ぐように屋嘉岳の方に逃げた。敵は50メートルくらい高所にいて、追いたてられてくる敗残兵をまるで兎射ちでもするように、樹木の枝葉をふるわせるように機銃を射ちこんできた。みんな黙ってひそんでいると、付近に生えている蘇鉄の幹を銃弾が貫いて、枝葉が2、3枚ばさりと地に落ちた。まったく生きた心持ちもしないような激しい掃討戦であったが、このときも私たちは、敵からわずかばかりの至近距離に潜んでいて助かった。私たちの谷間の避難小屋は無事だった。

 

だが、この掃討戦で麓の方の谷間にいた敗残兵は全滅した。私たちがいつか月夜の晩に田圃の穂つみで出会ったことのある石部隊の兵隊も全滅をくった。その中で籾干しに小屋を離れた1人だけ奇蹟的に助かった。その晩に、暗がりの中をその兵隊は、私たちの小屋の灯りをたよりに沢の下方からよろめくようにざわざわと登って、助けを求めてきたのである。その兵隊はまるで悪夢から醒めきらぬように、恐怖が抜けきらない表情で黙りこくっていた。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 254-256頁より》

 

 

 

投降へ

恩納岳に潜み、いつの日か遊撃戦を展開するはずだった敗残兵たちは、前日の9月6日、既に捕虜となっていた日本兵の呼びかけに応じ、投降することを決めた。

翌朝早く、小寺少尉はニコニコしながら約束どおり、私たちを山に迎えにきてくれた。持っている武器は全部捨てさせられた。

私は戦友の肩につかまり、かすかな気力をかきたてながらヨロヨロと、指定された谷茶部落の投降地への一歩一歩を踏みだした。いちどでいいから昼間、大手を振って歩いてみたい」と思った、米軍への恐怖の小径を今日は昼間、しかも小寺少尉ひとりを信じて投降してゆく気持ちには、まだ不安がないでもなかった。

アメリカ兵は自動小銃こそ持っていたが、私たちのトラックを待たせ、チューインガムをかみながら、これまで敵であったという態度をすこしもみせなかった。

かんたんな身体検査を受けた後、私たちはトラックに乗せられた。そのとき、反対側からジープが1台疾走してきて停まり、中から半ズボン、開襟シャツに防暑帽をかむった恰幅のよい老齢の日系二世らしいひとりが降り立ってから「いよう、まだいたんだな・・・」と微笑しながら、サングラスをはずして車上の私たちを眺め廻した。その顔に私は、「どこかでみた顔だ」と、胸がつかれる思いに頭をひねってやっと思い当った。米軍協力の特別功労者として、ジープまであてがわれているその人こそは、つい4カ月前の恩納岳戦のおりに、「地理案内は私たちがいたします」といって、岩波大尉に決起をうながしたことのある白髪が頭に霜をおく恩納村村長の古山氏その人ではないか。私は瞬間、まるでハンマーか斧で頭の脳天を力いっぱい殴られたような衝撃をおぼえ、目の前が真暗になるようだった。

トラックはやがて私たちの思い出の地、谷茶を離れ、仲泊を左折して島の最狭部を縦貫している東西横断道路を走って、東海岸に出た。眼下は金武湾だ。さまざまな船やヨットが浮かんでいるのが見える。左手には石川部落があってトラックはそこに立ち寄ったから、米軍保護下の住民区を垣間見ることができた。小寺少尉の説明でいまここは「沖縄の首都」になっているそうだ。屋根のとんでしまった家には米軍のテントをかけて、何万人も住んでいた。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 259-260頁より》

 

土のようだった住民の顔は、男も女ももう生色をとりかえしていた。…やがてトラック上の異様な風態をしている私たちを見ようとして、子供たちや娘さんたちが大ぜいゲートのところまで出てきた。…嘉手納飛行場の通信任務として、沖縄の大ぜいの人たちから顔を知られている私は、命ながらえた恥ずかしさに私は顔をおおっていた

私は戦闘中に悲惨であった避難民たちの面影を浮かべ、こんなにあたたかい保護がくわえられるのなら、なぜもっとはやく・・と心がくもる思いがした。そして、荒廃した島の人たちに幸あれと祈らずにおれなかった

トラックは金武湾岸を北上してゆく。

…遂に「屋嘉」にきたのだ。

どの顔も土のよう、おちくぼんだ目だけが、狼のようにけわしく光っている。鼻をつくウミのにおいに、ゴム手袋をして身体検査をするMPは思わず鼻を押え、目をそむけた。

素裸にされてDDTをかけられたあと、PW(戦争捕虜)と墨書された服に着かえされ、私たちは一人ひとり写真を撮られたうえ、調書に署名させられた。

収容所はみどりの山々を背にして、海岸よりのやや開けた砂地にあった。周囲には二重に鉄条網が張りめぐらされて、正面と周囲、四カ所に監視哨がそびえている。

この鉄条網のなかに整然と天幕がならび、高級参謀の八原博道大佐以下、7千名の同胞が収容されていると聞いて、私はおどろいた。10万人あまりの軍隊から、たった7千名、あとは戦死を遂げてしまったか、斬り込み自殺、敗走中での死亡、海上での溺死、あるいは地方民への変装潜行、日本軍10万壊滅というわけだ。それにしてもよくも7千人の者が捕虜になったものだ。沖縄玉砕劇もこれで幕がおりた。この7千人はたしかに幸運なものたちであったが、私はいろいろと考え、複雑な感情におそわれた。

その人たちが、みな安心しきった表情でいるのが不思議でたまらなかった。私たちは敗戦の虚脱感の中でこの日から米軍の寛大な保護のもとに、この同胞たちの仲間入りをした。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 260-261頁より》