酒井喜代輔「山下虎雄という自分」を語る ~「楠山忠之『日本のいちばん南にあるぜいたく』情報センター出版局 (1993/10/1)

 

楠山忠之『日本のいちばん南にあるぜいたく ― 不思議空間「八重山」から「もうひとつの日本」が見えてくる』情報センター出版局 (1993/10/1)

 

なんだろうこのタイトルの、上から斜め下のオリエンタリズム・・・

 

p. 160.

 

京都・霊山に建つ陸軍中野学校留魂碑前で。


「わが島を語る」酒井喜代輔

「山下虎雄という自分」を語る

「山下」の本人にインタビューした記事。離島で日本の「終戦」後も軍刀でもって離島を制圧し住民虐殺した「隊長たち」は、戦後も、臆することなく一様に「軍令に従った」「悪いことはしていない」と主張する。戦後の数少ない彼らのスクープ記事は、当時の残虐さだけではなく、終戦後も「悪いことはしていない」「島民に歓迎されている」と主張し、世間から当然の非難を浴びる。

 

波照間島の「山下虎雄」に関しては、彼は、鹿山のような粗雑な陸軍兵曹長とは異なり、人心掌握に秀でた陸軍中野学校のエリート諜報員であり、自分は「間違ったことをしていない」と主張するのに他の隊員たちとは一枚上手である。またその主張に対し、著者は島民と「山下」の主張の違いをファクト的に検証することもなく、遠慮がちに、「山下」の悪事は、「日本軍の誤った判断に基づいた“強制疎開”という「軍命」に帰結するところが大きいように思える」などと書いている著作の構成にも問題がある。

 

実際には、「山下」は八重山の旅団本部が帰村することを許可した後も、住民を疎開地から帰村させなかったため、更なる対立を生んだのであるが。ゆえに「山下」の主張をこちらが読む際には、酒井が人心掌握に秀でた陸軍中野学校のエリート諜報員であるということを前提に、多くの住民の証言とつき合わせ、メタ言語として読むことが必要である。

 

滋賀県守山市 酒井喜代輔

波照間島住民に強制疎開”の「軍命」が出たのは、昭和二〇年が明けて間もなくだった。まだ石垣島住民には軍から「避難せよ」の声(示達)もかからない時期だったが、大本営はそのころ、米軍は沖縄本島とその他の南西諸島、とりわけ先島方面に「上陸の可能性あり」の情報を得ていた。八重山の司令部ではその第一候補地に波照間島を想定、当時同島に滞在していた陸軍中野学校出身の特務員「山下虎雄」こと酒井喜代輔に、波照間島住民の「強制疎開」を「軍命」によって遂行させた。その結果、西表島マラリア猖獗地の一つ、南風見田に移住した住民の一部をはじめ、多くの人びとがマラリアに罹患し、うち四六一名が死亡した。

 

戦後、酒井氏は三たび同島を訪ね、戦争で亡くなった島民のことを思いながら、なつかしい人々と語り合った。だが、最後に訪ねたとき「二度と来るな」と島民に宣告された。マラリア地獄への水先案内人”と色づけされてしまった「山下」だが、問題の「マラリア禍」の責任は一特務員の「山下」一人にあるのではなく、日本軍の誤った判断に基づいた“強制疎開”という「軍命」に帰結するところが大きいように思える。島民が証言する鬼のような”「山下」像と「マラリア禍」の“事実”に対し酒井氏自身は、どう思っているのか、さらに「山下」が見た"事実"とはどんなものだったか


一九九三年三月二四日、私は事前に諒解を得て酒井氏と会った。滋賀県琵琶湖大橋に近い守山市に、酒井氏は住んでいた。「波照間島は第二の故郷」と懐かしげに語り、戦後訪ねた際に島の人びとと撮った写真のアルバムを広げ「この人は誰、こちらは誰」と名前を言い当てながら思い出を語りつづけた。そしてあなたがその気なら詳しく話しましょう、と二日間にわたって、「山下」のこと、「波照間島民強制疎開」のことなどについて胸のうちを吐露した。いくつかの“事実”は島民の証言と相反する内容だった。「信じてもらえるかどうかだが、ぼくは断じて嘘はつかん」と断言。それでも時折、懐かしい波照間島の人びとから“人殺し”とよばれていることを気にかけ、顔を曇らせる場面もあった。

 

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ぼくが中野学校を終えてそのあと、参謀本部から秘密命令をうけて石垣島に来たのは昭和一九年も終わりに近いころだった。ぼくらは参謀部直属の特務員ですが、「離島残置諜者」という任務を負っていたんです。これは中野学校が創立当初から目的とした「諸外国にもぐりこみ、そこで妻をもらい商売を営み、生涯民間人を送る」潜伏諜者の養成に基づくもので、ルバング島に戦後数十年も潜伏していた小野田少尉中野学校出身だった。

 

石垣島で数日過ごしたあと、西表島の祖納に行き、村に残っている男女に軍事教練をし、郷土防衛隊づくりに励んだ。が、じきに波照間島「教員」として赴任するようにと命令があった。九州から沖縄本島に着いたとき、偽名「山下虎雄」と偽の教員免状が与えられていました。

 

波照間島は人口が一三〇〇人ほどの小島で、小学校は一年から高等二年までの全校生で二五〇名、教員は識名信升校長以下一三名。ぼくは小学四年生の担任になった。島にはどこも同じで戦争のために男は徴用で出かけていて女性が多く、ぼくは独身ということもあったのか、親身になり迷惑をかけてはいけないと思ったことと、「残置諜者」として一日も早くその土地の生活にとけこむため、石垣島の女性と見合い結婚をした。この女性とは戦後事情があって別れてしまったが、その責任はいまも深く痛感している。


昭和二〇年の正月明け、ぼくは石垣島の司令部に呼び出され、「波照間島全住民を速やかに西表島疎開させよ」と命じられたんだが、驚いてすぐには「はい」とは言えなかった。しかも、「全島民疎開の後、その住居ならびに建造物一切を焼却、井戸及び飲料に供せられると思考されるものは、これを埋没して、使用不能にすべし」という。ぼくは波照間島は第二の故郷と心に刻んでいたし、島の人がそう簡単に自分の島を捨てるわけにはゆかないことを実感していこれは無茶苦茶だと思って、何度か抗議をした。あまりぼくが「できません」と言うもんで、東畑参謀長は最後に怒って「これは軍命令だ」と軍刀を抜き、「命令がきけんのか」とにらみつけられましたよ。

石垣島の最高司令官である宮崎少将はそのとき、「きみの気持もわからんではないが、八重山に米軍上陸の可能性があると上から通達がきている。その場合、西表島マラリアの島だと米軍は知っているはずだから上陸するはずはない。だが波照間島マラリアがない。安全だ。もし米軍が上陸してきたら島民はどうなる」と静かに説得されましたよ。

たしかに八重山諸島の中では、「米軍上陸」となれば波照間島の可能性は高かった。台湾攻撃の橋頭堡とし地理的にいい地点にあり、島が平だから鉄板を敷けば簡単に艦載機が飛べる。また、水路も大きな艦船が近づける。

 

与那国島は飛行場作りには適さない、難しい条件があったんではないですか...

南西諸島に米軍が上陸する、という情報は実は昭和一九年末に大本営がつかんでいて、沖縄本島の司令部に伝わり、そこから石垣島に来ていたんだが、ぼくらのほうにも、つま無線でも直接参謀本部から「米軍上陸」の報を聞いてはいました。考えてみると、ぼくが波照間島にまわされたのは、この「強制疎開」の任務にあたらせるためだったのかもしれないが、真相は宮崎少将も亡くなられているので尋ねるわけにゆかない。

 

三たび司令部に通い、なんとか「疎開」を免れようとしたが無理だった。もし米軍が上陸したら、小さな島に逃げ場はなく、焼き殺されると思った。悩み抜いた挙げ句、自分がやらなければだれかがやるはずと思い、「軍命」に従った。「疎開先」は西表島でなくてもどこでもよいとぼくは思っていたが、そのへんのことは村の有力者に一任、村民の意見をまとめさせた。その結果が西表島だった。いざ「疎開」となってから、なかにはこの場に及んで「疎開」に反対する者がいたので、一度だけ軍刀を抜いて決断”を迫ったことはあった。

 

疎開」の実行は記憶が不確かだが、三月末ごろに開始し、昼間は敵機が来るので夜間だけ船を出した。一晩一往復。船は一一トン級のカツオ船が三隻だけだった。

 

それにしても石垣島の住民と比べると、石垣では第一次避難が三月、第二次避難が六月一日にあったが島民はほとんど動かなかった。そして「示達」とはいえ、「軍命」と思える強制力をもった「甲号戦備下令」が島民に対して六月一〇日に行なわれると、それまで腰を上げなかった島民がやっと全員指定地に移ったんですから、いかに波照間島の場合は早々と軍部が神経をとがらせたかがわかる。「疎開」が進行する間、ぼくは島の牛馬は飼い主がいなくなるのだから「殺せ」と言わざるをえなかった。だが、その肉を兵として石垣島の日本軍に運ぶために殺させたんだという島民の間違った証言があるのは残念だ。極端な話では、「強制疎開」は波照間島の住民を追い出して、その家畜を日本軍が粗秣にしようとする目的のためだった、と語る人もいてびっくりしている。

 

断じてそんなことはない。少なくともぼくは村の人たちが可愛がっていた農耕に大事な牛馬を餓死させるより一瞬の屠殺を選んだだけだ。ぽくも中野学校に引き抜かれる前は満州関東軍の愛馬部隊にいたから、動物への愛情は人一倍あるつもりだ。島では二頭ばかり射殺したが、あとは辛くて住民に任せた。


それに昭和二〇年の春ごろは、まだまだ石垣島の軍隊には食の余裕はあった。また、日中は空襲の危険がある。波照間島から石垣島まで当時の船で半日かかるような海上を、食糧を積んで輸送したらどうなるか、不可能に近い話だ。ぼくが知っていることは、住民が殺した牛馬は島の中にあったカツオ工場で燻製にして、各人がかめなどに詰め、自分たちの食糧にしている。ただし、余った肉があったとして、それをどう処分したかはぼくは知らない。そのころ、ぼくはそれどころではなく、毎晩島をを発つ人びとと一緒に乗船し、無事西表島に着くよう「作業」を指示していた。海が荒れて、吐いて吐いて吐きまくっても、自分の任務だと考え、毎晩船に乗り、明け方には島にもどって来るくり返しだった。


また、住民が島を去る前に「敵上陸しても使えないように井戸をこわせ、家をこわせ」とぼくが言ったと伝えられているが、たしかに司令部はぼくにそう言ったが、井戸や家は戦争が止めばまた使うから私はこわせとは言わなかった。どうしてこんなに事実に反する話がいくつも伝わったのか不思議でならない。

 

もう一つ、ぼくが西表島でさまよい歩いていた炭坑夫の台湾人を斬殺したといわれているが、これも嘘だ。疎開先にイノシシの肉を持って来て米と交換したいと言うので、細菌謀略かもしれないかと考え、山に連れて行き、その台湾人に「このあたりに二度と来るな」と叩いたが殺してはいない。島民には「殺した」と言ったが、威嚇しただけだった。


波照間島に「赴任」したときは、戦争での命令だから出かけたんだが、そりゃあ涙が出るほど孤独な気分だった。しかし、命を賭けて出かけた土地だから、いまのぼくには波照間は第二の故郷と言いたい。でもそんなことを言ったら「何を言うか」と島の人たちは思うだろうが....。


ぼくとしては戦争の中では「軍命」に抗しきれなかったが、島の人の立場に立って、やれることは精いっぱいやったと思っている。

 

戦後、一九六八年、ぼくが最初に島にもどったとき、島ではおおいに歓迎してくれた。そのときの島民といっしょに撮った写真はいまも大切にもっている。それがのちには「来るな」と宣告されて......。何が島の中に起きたのか。

 

ぼくの友人はこう言うんだ「もし本当に敵が上陸していたら、お前(山下)は島民から感謝されただろうが、幸か不幸か攻めてこなかったために鬼扱いされたのさ」と。ま、ぼくが悪者になることで島のだれかが救われることがあるなら、それもしかたがないが...............。


いずれにしろ、マラリアや他の病気で死んだ人たちのことは一日として忘れたことはない。戦争によって波照間島と出会い、戦争によって引き裂かれてゆく運命を感じはするが、ぼくなりに島の青年を自分の会社に雇ったりして、絆を切らないできている。

 

山下は防衛隊として召集された若者を組織し訓練などを行って命令を実行させた。そのうちの数人は、戦後の経済難のなか、自分の会社に雇ったりした。そのことで、島民から受け入れられている、と主張している。

 

中野学校の特務機関、離島残置工作員に軍令が与えられていたことは確かだろう。しかし、それぞれの島の離島残置工作員をみてみれば、その多くが潜伏するだけで主だった殺戮や暴力に直接的に関わることは少なく、自分の頭で判断し、潜伏した。自分の頭で判断して動くこと、いわば、それが離島残置工作員の仕事だった。

 

その離島残置工作員としての判断において、山下は突出しており、異常なまでの暴力で少年たちに至るまで制裁し、死に至らしめている。八重山の司令部が帰島許可を出していても、山下はがんとして帰らせようとしなかった。それらはすべて山下自身の判断だ。

 

一つ一つ突っ込みどころ満載な独善的傲慢さであるが、例えば、炭坑夫の台湾人を斬殺した、それを目撃した住民は、それを詳しく描写している。山下は、西表島から出ることのできない台湾人を「細菌謀略かもしれないかと考え」「このあたりに二度と来るな」と叩いたが殺してはいないという。飢えに苦しんでいる西表島の台湾人を、ありもしない「細菌謀略」だろうとみなす、そこに山下の恐ろしい恐怖支配の一端を、垣間見ることができるだろう。死屍累々の島で、山下は少年にハエを捕まえるよう命じられ、ハエを集めるのが少ないと暴行し死に至らしめてもいる。

 

もう一つの特徴は、島で住民虐殺を繰り返した「支配者」たちは、多くの場合、島に再来し歓迎を受けた、と主張する。

 

なぜ、彼らは戦後、再び島を訪れたいと思うのだろうか。島にかれらのこころのいったい何を置き忘れてきたのだろうか。それとも、島で感じた支配者の万能感が、身にこびりついて忘れられないのだろうか。

 

「わが島を語る」というタイトルに、もう一度注目していただきたい。

 

部下となした青年を頼りに、なんとか島に潜りこむように再来する。しかしそれが大っぴらになって、大問題となる。山下もそのようにして、村長らが名を連ねる抗議文がかかれた。

 

 

だれも公然と喜んで独裁者を迎えたがる人はいない。

 

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