「安東丸」事件とは
日本軍は、生き残った朝鮮人乗組員まで陸の孤島に置き去りにした。
1944年の暮れ頃、当時西表島内離島に本部を置いていた重砲兵第一中隊が、西表島船浮湾沖に漂流していた小さな木造船安東丸を発見、曳船した。中国の大連から九州へ大豆類を運ぶ途中、済州島付近で機関故障し、漂流したといわれ、乗組員の人数や国籍は証言者によって違うが、朝鮮人、中国人で、10人余がいたものと思われる。積み荷はすべて没収され、乗組員は強制労働にかり出され、過酷な労働と粗末な食事のために6、7人(2人ともいう)が死亡した。部隊は8月の敗戦の報を聞くと、生き残った乗組員を西表島西岸の鹿川(廃村)へ連れてゆき食料も与えず放置。やがて衰弱し動けなくなり、飢えとマラリアで次々と死亡した。後に散乱していた遺骨は洞窟近くに埋葬されたが、台風時の大潮に流され、現在は不明になったといわれている。
大田静男著『八重山の戦争』
昭和20年6月ごろ、村山さんが避難した西表島の祖納で、山の木の上から見た安東丸が米軍機に爆撃される様子。 村山さんが生まれた西表島の船浮は天然の良港で、昭和16年8月から軍事要塞化の工事が始まり、昭和19年11月には、軍から島の住民(6年生以下の子どもたちと女性)のすべてに避難命令が出された。当時10歳だった村山さんは父と姉と3人で近くの集落へ疎開。祖納の山の上からは白浜港に座礁していた貨物船安東丸に毎日のように米軍機が爆弾を落としに来ているのが見えた。この船には朝鮮半島の人たちが乗船し攻撃を受けた時は船を降りていたが、日本軍に重労働を課され大勢がマラリアや栄養失調で死んだといわれている。戦後、船浮に戻った村山さんは攻撃によって地形までもが変わってしまった故郷の姿に驚いた。「人間の殺し合いだけでなく、自然さえも破壊する戦争は二度と起こして欲しくない」。村山さんは心からそう願っている。
安東丸とは
日本陸軍が作らせた穀物輸送船。日本の植民地であった満州・朝鮮半島から穀物を積みあげ日本に輸送する船だった。このような「ジャンク船」は無防備で満州と日本との間を往復させられ、植民地の食糧を日本へと送らせた。
食料を運ぶ船は「ジャンク船」と呼ばれ、日本陸軍が中国北東部の安東市で、それこそ中学生も動員して造らせた食料運搬船でした。その写真が佐賀県唐津市の近代図書館にありました。全長は32メートル前後だったと記されています。
西口公章さん「昔の帆船ですね、それに乗せて日本本土の仙崎(山口県)とか唐津(佐賀県)とか、そこに集積地というんですか、食料を貯めるとこを軍が作って、ここに武器もほとんど持たずに運ばしている。大連の方から下りてきて、済州島、対馬近海から佐賀の唐津にくるルートなんですけど、だから対馬なんかにもたくさん漂着してるんですよ」その一隻が西表島に漂着したのだろうと、西口さんはみています。
1944年の年末ごろ、漂流した安東丸は、西表島の西海岸、内離島と白浜湾のあたりにある陸軍の船浮要塞の小野部隊によって「保護」される。
西表島の船浮要塞 - 小野部隊
日本軍は1941年6月から西表島の船浮湾周辺の土地を強制接収し船浮要塞を構築していた。1944年9月、他の中隊が石垣島に移駐し、唯一、西表守備隊として内離島に残っていた重砲兵第8連隊第1中隊 (中隊長小野藤一)が、漂流している安東丸を拿捕する。
「離島の戦争遺跡・国境をめぐる国際交流から平和教育を考える」琉球大学リポジトリ (2007) pdf から地名を書き入れ
戦況が風雲急を告げるなかで、1944年(昭和一九)10月12日には初めての空襲があり、炭鉱で繁栄していた白浜は、米軍の空爆によって全焼するという壊滅的な打撃を受けた。しかし、米軍に反撃すべき要塞の装備は旧式で、高射砲などは一発も放つことがなかったといわれる。
1944年11月には、船浮集落の住民は他所に強制移住させられている。
このような生活のあと、郷里の船浮部落に帰ってみると、家は床や戸もなく、修理がたいへんであった。そして、その後も戦後の食難の苦しい時代がつづいた。
穀物は収奪され、乗組員は軍夫として使役された
小野部隊は「安東丸」の穀物を収奪した。
… 現地召集部隊の上等兵で、石垣市選管委員長の石垣長英さんも「軍は、各部落の婦人会に、積荷の大豆と塩を割り当て、みそを作らせた。みそは全部、軍に納めた」
乗組員のその後に関してはさまざま話が伝わるが、軍は彼らを収容しひどい強制労働に従事させ、「敗戦」になると、彼らを陸の孤島と呼ばれる鹿川に置き去りにしたという点で一致している。
駐屯部隊(小野部隊)はスパイ容疑で十数名の乗組員を下船させ、炭坑の島だった内離島・外離島に軟禁、軍夫として酷使した。このとき、満州に出征して帰郷、郷土隊に入隊していた祖納の山城孫勇さんが満州語と朝鮮語の片ことで話しかけている(後出「わが島を語る」参照)。船長のみは中国人で石垣島に送られたという説もあるが、細かいことは明らかではない。というのは、船浮の人たちも第三次避難命令で東部地区に一時疎開していたため、戦後に村にもどってきてはじめて全員消えていたことを知ったからだ。
楠山忠之『日本のいちばん南にあるぜいたく』情報センター出版局 (1993/10/1) 172頁
乗組員たちは、舟浮要塞の陣地構築や、弾薬運びなど、危険な労働作業を強いられていたと言います。
大田静男さん「食料はわずかお粥のようなものを茶碗の一杯ぐらいづつ、本当にみじめな食事だったというふうに、それを見ていた西表の人たちが話されておりました」
なぜ小野隊は乗組員を鹿川にうち捨てたのか
敗戦後、島を引き上げる小野隊は、あとで面倒くさいことにならないように「証拠隠滅」をはかったのではないか。そしてそれは、残念ながら成功したかのように思える。このように日本軍は、都合の悪い証拠を残さないようにしながら、なんでも思うが儘にした。
… 事実の骨格となる話としては、飢えと強制労働のために何人かがマラリアで死亡、敗戦が目前となると生き残り組は船浮の後背地になる鹿川に連行され、海岸の洞窟に放置させられた。飢え死寸前だった彼らは逃亡もできず、そのまま白骨と化した、という。その遺体を見たという老人にも私は会った。鹿川は船の遭難が多い難所である。軍が「石垣島事件」同様、後難をおそれて秘かに遭難死"を装わせようとしたのではないかという噂がある。
楠山忠之『日本のいちばん南にあるぜいたく』情報センター出版局 (1993/10/1) 173頁
船浮要塞の司令部のすぐ隣に隣接して、また要塞のあちこちに慰安所が作られ、多くの女性たちが囲い込まれていた。
炭坑労働者で軍に酷使させられた台湾人の証言
また、昭和十九年頃、白浜には慰安所がありました。そこの慰安婦は10人位だったが、台湾、朝鮮、沖縄の方から来ており、中でも朝鮮人が多かった。美ぼうの者は、憲兵や上官の者がわがものにしていた。確か空襲の始まった頃までもおったように覚えているが彼女たちが、どうなったかは全く知りません。
山城孫勇「あれはいわれない罪を着せての工作としか思えない」
西表島・祖納 山城孫勇
小野部隊に防衛隊として召集された住民の証言。
僕は徴兵で九州から満州に渡り、鴨緑江の近くで駐屯生活を送ったが、昭和一九年四月に那覇に戻ってきた。まだまったく戦争の影もなく、半年後には那覇大空襲が始まるなんて考えてもみなかった。物資が豊富で、やっぱり沖縄はいいなあ、と思った。西表島、祖納の村に帰ってくると、ひと息つく間もなく郷土防衛隊の一とされ外離島の砲兵隊(重砲兵第八職隊第一中隊)に配属となった。隊長は小野(藤一郎大尉)という人だった。食は玄米が余るほどあるのに、僕ら兵隊にさえ食べさせてもらえなかった。お腹が空くとアダンの実や芯を食用にした。味は芋と同じだった。
その年の終わりごろ、西表島の仲良港(西部白浜近く)にエンジントラブルで漂着した船があった。「安東丸」といって、大豆、豆かす、あら塩、トウモロコシなどを積んで大連から九州に向かっていた船だった。船員は一七名くらい。朝鮮人だったと思う。日本軍(小野部隊)はこの船をスパイ船として拿捕、乗組員全を僕らが守備していた外離島に収容した。
島の中では彼らと一、二度話せる機会があったが、試しに朝鮮語で「ムル(水)」と言ったら通じた。また、「ヤンジローメーユー(たばこあるか)」と尋ねると、これも相手は理解した。「ヤンジャー」は満州語だ。当時の満州にも朝鮮人が強制連行されていたので、そうした朝鮮人は両方の言葉がわかったにちがいない。翌年(昭和二〇年)六月ごろ、餓死寸前の彼ら五、六人を島から連れ出し、山越えさせて鹿川に連行、海岸の洞窟に放置した。その後に見た人の話では、細く黒くなったミイラのような遺体があったということだが・・・・・軍の司令部があった内離島にも彼らの仲間の墓標が建っているが......。
楠山忠之『日本のいちばん南にあるぜいたく』情報センター出版局 (1993/10/1) 175頁
遺体の収容
松山忠夫(石垣の特設警備工兵隊から帰ってきた祖納出身者)がイノシシ狩りに行ったとき遺骨を拾って洞窟近くに埋葬。その時は6~7体ではなかったかと証言している。
住民は強制移住せられており、ほとんど「安東丸」事件の全容は不明のまま。
最もこの事件の全容を知りえているのは、日本陸軍の船浮要塞に駐屯し「安東丸」を拿捕した重砲兵第8連隊第1中隊と中隊長小野藤一大尉であるが、すべての証拠を消滅させ、おそらくは八重山の降伏後、収容所を経て、生きて日本に復員したはずである。
沖縄県では、住民の証言を克明に記録し、戦争の記憶と向き合ってきたが、日本はどうだろうか。元軍人・軍属の聞き取り調査はどれだけ丁寧に取り組まれてきたのか。
戦争時代の加害の所業は、なかったことに、という日本の風潮は、日本軍が占領地でいったい何をしてきたのか、一つ一つの事例において克明に解明していく事すらを放棄している。まさに内向きの戦後、内向きのメディアである。
この内離島の海岸に20年前、船の残骸が確認されました。これが当時、撮影撮された写真です。
船の残骸は放置されたまま、遺棄の真相も解き明かされることなく、そのうえで、また再び、八重山の自衛隊配備、ミサイル基地建設が強行されている。
大田静男さん「戦前の軍隊のやってきたものと、現在行っている自衛隊配備計画とは、何も変わっていないということですね。歴史の教訓から本当に学んでいるのかと言いたいですね」
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■