福地曠昭「強制連行された朝鮮人の沖縄戦」

 

沖縄戦では日本植民地だった朝鮮から軍夫として約1万5千人(あるいは約3万人とも)が連行されたと推定されている。彼らは「牛馬以下にあつかわれて」、酷使され、その大半が戦没したと考えられている。軍夫というのは軍の命令にしたがって陣地構築飛行場建設に従事する。軍属とはかなり違った立場である。

 

総数がはっきりしないのは、当時の朝鮮人に対する不当で蔑視的な考え方が根強かったという側面と深く関係しているのであろう。戦火で記録類が焼失したなどという事情があったと考えられもするが、第一、正確な記録がとられていたかどうか怪しい。…

 

沖縄で軍夫として使役された者に対する待遇は、ごく一部を除いて極端に悪かった。坑内作業や輸送運搬など、腹の空く重労働をさせながら、動員された日本人と同量の食糧を供給しなかった。日本人労務者も満腹するほどの食糧を支給されたわけではないが、日本人よりうんと少なく支給した。空腹の朝鮮人はやむなく近くの畑に忍び寄って芋を盗んだりすることになるが、農家から苦情が殺到し、それが朝鮮人に対する暴行となり、現行犯ともなると罰と称して木に縛りつけて、兵隊が棍棒で殴りつけることもあった。それでなくとも、沖縄県民も含めて当時の日本人は、朝鮮人を一段低く見る差別意識が強かった。労働中の朝鮮人軍夫に対する遊び半分のような暴力沙汰は日常茶飯事だったのである。

 

朝鮮人軍夫に対するいわれなきスパイ容疑による虐殺が頻繁した。金武特殊潜航艇の基地として豪堀りに従事していたなかから7人がスパイ容疑で虐殺されたし、渡嘉敷ではスパイ容疑で5人、窃盗容疑で2人が殺されている。

 

そのほか慶良間列島では「『脱走をはかった』『食糧を盗んだ』とかの理由で、野田隊関ヶ原処刑場と呼ばれる座間味村の阿護の浜で13人の軍夫を処刑した。また部隊本部の下に約50人を監禁し、逃げ出した者をつかんで阿護の浜で処刑している

(福地曠昭「強制連行された朝鮮人沖縄戦」『別冊歴史読本』戦記シリーズ18「沖縄 日本軍最期の決戦」(1992年所収)

 

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