恩納岳で生き抜く

敗残兵の夏

沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 254-256頁より

 

…すでに8月15日もすぎていたと思うが、ある夕暮どき、山麓近くの田んぼで穂をつむ戦友を残して、私は大胆にも、あたりはまだ明るいというのに、1人で蟹を捕らえるために海岸への軍用道路を飛びこえた。このとき那覇方面からジープが1台疾走してくるのに出会ってしまった。危い!距離300メートル、しまった!と思ったがもう戻ることは不可能だ。「見つかったら殺される」わたしは突嗟にブルドーザーで海中に横倒しされている松の枝の中に退避した。

 

「どうか見つからないでくれ」祈るような数秒。米兵に対する恐怖の心臓が時計の秒針のように激しくうつ。と、ジープは私の3メートルくらい高い頭上で停った。見つかったのだ。中から自動小銃を手にした大男が出てきた。私は拳銃の引き鉄に手をかけたが、少しでも海中に身をすくめるように観念の眼を閉じた。熱帯疥癬の体に波がザブンと打ちよせては返す。自動小銃をいじくっているような金属音がきこえてくる。絶対絶命、こんどこそ殺されると思った私はだれにも知られず、こんなみじめな姿で死んでゆくいとおしさに、妙に肉親の面影が浮んできた。どれほど時間が経ったかわからない、私の一生でこれほど長い時間はなかったろう。そのうち米兵は用便をすますとジープを始動して名護方面に走り去っていった。

 

まったく奇蹟的なできごとである。救われたのだ。わたしは死の緊張からグッタリとなった夕闇のその場で、目に見えぬ運命の神、亡き戦友の霊に心から祈らずにはいられなかった。米兵がなぜ私を射殺しなかったかは、いまもって解けぬ謎である。

 

谷茶の浜に再三出没する日本敗残兵はきっと米軍のリストにも載っていた筈だ。やがてこうした大胆な行動は、みずから敵の掃討戦をまねく結果となった。それから1週間くらい経ったある日の朝、静寂だった谷茶部落の山麓一帯にかけて、自動小銃の音がけたたましく鳴りだした。

 

パパパパーン、ダダダダー

 

戦場に生きる者にとって銃声は研ぎすましている音だ。私たちは「掃討戦だ」と気がついて緊張した。その音は山麓から次第に私たちの潜んでいる山上の谷間の方まで近づいてきた。私たちもあわてて世帯道具のナベ、カマ、食糧などを背負い、小屋からぬけだして背後の灌木林や、雑草の生えている稜線に避難路をもとめた。ところが、山の稜線の小径には、萱で結んだ厳重な包囲網が形成されていた。敵はこんな近くまできていたわけである。私たちはその萱で結んである下をかい潜って泳ぐように屋嘉岳の方に逃げた。敵は50メートルくらい高所にいて、追いたてられてくる敗残兵をまるで兎射ちでもするように、樹木の枝葉をふるわせるように機銃を射ちこんできた。みんな黙ってひそんでいると、付近に生えている蘇鉄の幹を銃弾が貫いて、枝葉が2、3枚ばさりと地に落ちた。まったく生きた心持ちもしないような激しい掃討戦であったが、このときも私たちは、敵からわずかばかりの至近距離に潜んでいて助かった。私たちの谷間の避難小屋は無事だった。

 

だが、この掃討戦で麓の方の谷間にいた敗残兵は全滅した。私たちがいつか月夜の晩に田圃の穂つみで出会ったことのある石部隊の兵隊も全滅をくった。その中で籾干しに小屋を離れた1人だけ奇蹟的に助かった。その晩に、暗がりの中をその兵隊は、私たちの小屋の灯りをたよりに沢の下方からよろめくようにざわざわと登って、助けを求めてきたのである。その兵隊はまるで悪夢から醒めきらぬように、恐怖が抜けきらない表情で黙りこくっていた。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 254-256頁より》