渡辺憲央「逃げる兵 高射砲は見ていた」
十・十空襲
10月、沖縄の朝夕はめっきり涼しくなり、真っ赤な落日をバックに芒の穂先だけがひっそりと秋風にそよいでいた。その頃から米軍のB29が1機高射砲の届かない上空を、毎日のように飛来するようになった。その都度戦闘姿勢の号令で高射砲にとりついたが、高度1万メートルでは手のほどこしようもなく、中天に画かれる美しい飛行雲をただ眺めているほかなかった。敵機は行きがけの駄賃のように、ときどき大きな爆弾を落として行った。悪夢のような一日がやって来たのは、それから間もなくである。
1944年(昭和19年)10月10日、この朝、私は朝食の準備のため、夜が明けそめる那覇の町並みを蚊蛇平台地から見下ろしていた。朝露を受けてキラキラと光る瓦屋根、家々の軒先からいっせいに立ち昇る白いけむりは朝餉の支度であろうか。けむりはやがて中天に立ち込める真綿のような朝靄と交わり合いながら、薄紫色の霞となっておだやかに棚びくさまは、あたかも、ワイドパネルに描かれた水彩画を見るような美しい風景であった。これが私の瞼に残った最後の那覇の姿であった。
私はドドーンという遠雷のような響きを訊くとともに、音のする北飛行場のあたりを凝視した。飛行場はたちまち火の海となり、上空一面に真っ黒な煙が立ち込めていた。煙の上空に栗つぶのような黒い塊りが動いていたが、黒い塊りはたちまち蜘蛛の子を散らすように飛散したと思う間もなく頭上に現れ、眼下の小禄飛行場に向かっていっせいに爆弾の雨を降らせはじめた。
「敵機だッ!戦闘姿勢」と叫ぶ声に私たちは夢中で台上に駆け上がり、各部隊は6門の高射砲にとりついた。小禄飛行場はすでに火の海になり、グワーン、グワーンと腸がねじ曲げられるような大音響とともに、無数の火柱が上がった。飛行場を使用不能にして、日本機の反撃を封じ込めようとする作戦にちがいない。地上にあるものは、虫けら一匹残れまいと思われるほどの凄まじさであった。中隊の火砲から一弾も発射する隙もない一瞬の出来事である。
《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 42-43頁より》
… 陣地上空に現れた第二波の敵機は、編隊を解くなり私たちの高射砲に向かって急降下、機銃掃射と同時に両翼につけていた爆弾を陣地に向かって叩きつけると、巧みに反転急上昇して飛び去った。爆弾は私たちの頭上を掠めて陣地周辺の集落や砕石場に落下、轟然と火柱を上げた。敵機から撃ち出される真っ赤な曳光弾は砲側付近の岩にはね返って飛散、そのたびに初体験の私たちを恐怖に慄え上がらせた。
敵機は識別表で見たことがあるグラマン、コルセア、カーチスなどの機種で、真っ黒な胴体に描かれた不気味な髑髏や、純白の機体に画かれている女性ヌードの絵は何を意味するのか。敵機は操縦士の顔がはっきり見えるほどに急降下し、銃撃をくり返すと飛鳥のように飛び去った。いずれも、米海軍第5航空艦隊自慢の艦載機群である。私は正直恐ろしさに手足が慄えた。
《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 44頁より》