座間味守備隊の場合 - 梅澤隊と7人の朝鮮人慰安婦
座間味守備隊の場合 - 梅澤隊と7人の朝鮮人慰安婦
那覇市内でひっそりと生涯を終えた女性のこと。女性はペ・ポンギさん。ペさんは1944年、朝鮮半島から渡嘉敷島に連れて行かれ、日本軍の慰安婦として働かされました。「南の島に行けば、お金が儲かる」そう言われたのです。彼女の存在が知られたのは戦後30年も経ってからでした。キムさん「サトウキビ畑の中に農具を入れる掘立小屋がある。そういう所で生活していました。一人間として、一女性としては考えられない精神状態と言いますか。人間忌避症にかからざるを得ない状況だった。誰が行ってもまともに話そうとしない。会おうとしない」
奉奇 (ペ・ポンギ) さんら51人は鹿児島から軍の輸送船で10・10空襲後の那覇に来た。焼けた無人の病院でそれぞれの行き先が決められた。那覇に20人、大東島に10人、慶良間の座間味、阿嘉、渡嘉敷に7人ずつである。慶良間にはこの21人以外に「慰安婦」はいなかった。奉奇 (ペ・ポンギ) さんらはマライ丸で那覇に来て、慶良間に向かったに違いない。< 中略 > 奉奇さんは、8月26日、カズコとともに武装解除式に臨んだ後、座間味を経て屋嘉の捕虜収容所へ、さらに民間人用の石川収容所に移された。しばらくしてからそこでトミヨに会った。ひとりは将校と自決し、ふたりは空襲下、身を縮めている時に死亡したといい、生き残った3人と石川収容所にいると語った。日本兵といっしょに屋嘉収容所にいる「おやじ」に会いたいが、米軍がなかなか会わせてくれないとも話していた。
梅澤氏は、〈朝鮮慰安婦〉を座間味島に送って来たのは〈軍司令部〉であったと記しており、慰安婦たちが軍の管理下に置かれていたことがうかがえる。それにしても、梅澤氏の筆致からは、遠く沖縄の地に送られて来て戦争に巻き込まれた朝鮮人の慰安婦たちに対し、島の最高指揮官であった者としての慚愧の念や反省の念、心の痛みはまるで感じられない。梅澤氏が〈女傑の店主〉〈女傑の主人〉と記す女性は、川田文子著『赤瓦の家 朝鮮からきた従軍慰安婦』(筑摩書房)によれば、日本名でイケガミ・トミヨと呼ばれていた朝鮮人の女性で、〈大柄な美しい容姿で島の人々に強い印象を残し〉たという。トミヨは各島の慰安所の元締めをしていた男の内妻であった。座間味島には慰安婦たちを管理する〃帳場〃と呼ばれる男が付いて来ず、トミヨが〃帳場〃の役を務めていた。(『赤瓦の家』192頁)。
また、関根清著『血塗られた珊瑚礁 一衛生兵の沖縄戦記』(JCA出版)によれば、米軍の攻撃を受けて4月11日に負傷した梅沢隊長は、6月の中旬に米軍に捕らえられて捕虜となるが、その間一人の慰安婦が梅沢隊長に付き添っていた、とされる。梅澤氏自らも記し、川田氏も座間味島で聞き取った話として前掲書で記しているが、付き添っていたのはこのイケガミ・トミヨという女性である。
Natives on Zamami Shima, Ryukyu Islands. Helen Tomio, Geisha girl found with Jap Major.
座間味島の地元民。日本軍の少佐と共に見つかった芸者ガールのヘレン・トミオ。座間味島 (1945年 5月31日)
米国立公文書館所蔵の4月21日付の3人の「慰安婦」の写真7枚の中の1枚。慰安所からも激しい戦火からも解放され、満面の笑顔だ。「琉球の座間味島で発見された日本軍朝鮮女性の芸者ガール。日本によってこの島に連れて来られた」とのキャプションが付されている。沖縄公文書館で見ることができる。
《『70年余を経た複郭陣地跡と「慰安婦」の写真』川田文子》
Natives on Zamami Shima, Ryukyu Islands.
さらに、2016年、同館でトミヨの写真ともう1枚の写真が公開された。トミヨと座間味の3人にミッちゃんとアイコと思われる少女が加わった写真だ。6人のうち3人は高校生ぐらいの年齢だ。1944年11月から1945年3月23日、慶良間空襲が始まる直前まで、将兵の酷使に耐えた女性たちである。
《『70年余を経た複郭陣地跡と「慰安婦」の写真』川田文子》