山里将林 (当時十九歳) 那覇電気通信工事局庶務係に勤める公務員。
沖縄を変えた十・十空襲 山里将林
今日の演習はすごい
昭和十九年十月十日午前六時五十分頃のことでした。いつものように、そろそろ朝食をという時、北の方から「ブウーウン」という小さいながら重みのある爆音が響いてきました。それとほとんど同時に「ドカーンドカーン」と高射砲を射つ音も聞こえました。
戦時中のその頃は、戦闘機も高射砲隊もよく演習をやっていましたので、私はいつもの訓練だろうと出勤の仕度をしていました。
「今日の演習の見事さよ、見てみい!!」と隣の仲村渠仁和さんの声に屋外に出てみました。
青く澄んだ秋空に高く高く蠅みたいに黒い小さな飛行機が何十何百と四機ずつ編隊を組んで整然と北から南の方向に飛んでいます。
ときどき朝日が反射してキラッと輝く機もあります。そして、その半分位の高さの所で高射砲弾が「パッパッ」と炸裂して白い煙を浮かしているのです。
「今日の演習はすごいですね。こんなに沢山の飛行機と、それに向けて実弾を発射するなんて実戦みたいですね」と話しながらみとれていました。
その頃は、南方の占領地では、敵の反攻が激化し、飛行機の消耗がはなはだしく、必要機数が不足しているとのことで「一機でも多く!」と増産の掛け声が強かったのです。
「こんなに何百機もあるのに…。これが南方へ行けばもう大丈夫…」という気持ちで見上げていると、先頭の四機編隊が次々に急降下をはじめました。続いて後続機も機首を下げるとみるや「パッ、パッ」と機銃の光と煙を発し、機腹あたりから豆粒位の黒い固りが落ちてきました。それはまさしく爆弾でした。
「ドカーン」という爆発音が響きわたり、地上からはますます激しく高射砲が射ち上げられ、どうも演習にしてはおかしいと感づく頃、市役所のサイレンが慌ただしく空襲警報を唸りました。その間、時間にして五、六分位はすぎていたでしょうか。恐らく午前七時を少々過ぎた頃ではなかったろうかと思います。
さあ、それからが大変です。今の今まで味方の飛行機と思っていたのが、敵機襲来となったので何をどうしてよいかてんてこ舞いです。急ぎ家財道具を持ち出す者、朝食をとる者、山手の方へ避難する者、炊き出しをする者などさまざまです。
まだ民間には直接被害は出ていないが、日常いくら訓練をつんでいるといっても、初めての経験であるので、上へ下への大騒ぎです。飛行機の爆音、高射砲音、機銃音、爆弾の爆発音など間断なく耳を聾します。
私は急いで朝食をかき込み、高いガジュマルの木に登り、敵機の攻撃している方向をみてみました。
まず目についたのが波上沖に碇泊していた五、六千トン級の日本軍輸送船が、空に船首を向けて直立していました。青い海に船尾を沈めた船の船腹の赤ペンキが目に痛いほど鮮かに映りました。その周辺には、半分沈んだ船体から黒煙を吹き上げている船や、マストだけ波間から突き出ている船など見るも無残な、情景が展開されていました。
一方、小禄飛行場方面からは、ガソリンが燃えているのか、黒煙が天までモウモウと立ち昇り、その上空一帯はアブのように敵戦闘機が群がっていました。
午前七時半頃でしたか敵機は引揚げました。
あれほど響いていた爆音も砲声も爆発音も一斉に止まり、先程までの騒音が嘘だったように静寂に戻りました。それで、私は空襲は終ったと思い、職場へ出勤することにしました。 職場は当時の那覇郵便局の裏手にある電気通信工事局です。
午後から市街地も襲う
泊前道、泊中の橋、前島を通って久茂地まで進みましたが、手に手に荷物をひっさげて避難する人々が行き交うだけで、民間への被害は見当りません。泉崎橋にさしかかりました。橋の傍の川辺に穴があいて泥が飛び散っていました。爆弾が落ちたとかで、電柱が折れており、工事人が復旧作業をしていました。
職場では電話線が被害に遭い、その復旧作業の手配にごった返していました。私は街の状況が見たいので、そっと屋上に上りました。
屋上から目についたのは、小禄飛行場から立ち昇っている黒煙でした。数ヵ所から赤い焔を出しながら、黒煙がモクモクと巻き上って、天空を覆っています。その手前の那覇港には入港中の船が三隻とも沈みかかっており、大阪商船会社の木造二階の建物が燃えていました。それ以外の街並みは、秋の青空のもと、赤い屋根瓦を輝かせて静まりかえっています。
先程の騒々しさは本当に嘘のようです。
そのうち銀色に輝く一機が悠々と飛んで来ました。敵の偵察機だったのでしょうか、しばらくしたら以前にも増して激しい敵機の襲来がありました。あとでわかりましたが、グラマンの第二次攻撃なのです。主目標は飛行場施設と港湾のようでした。
私達は事務室に待機していました。うっかり外へ出たら味方の高射砲の破片でやられます。でも敵機のことが気になりますので五、六人で玄関から空を見上げていた時「ジュー」という音と、「グサッ!」という音がしましたので何だろうと皆で捜しましたら「ジュー」は水たまりに落ちた高射砲の破片、「グサッ!」は板製の門扉にささった破片でした。
それは鋸よりもギザギザの鋭い、真赤に焼けた破片が空から降ったものでした。地上の人にとっては敵の爆弾と同じ危険物です。
午後二時頃からだったでしょうか、敵機は市街地も襲うようになりました。
郵便局右隣りの浜田商店に落ちた焼夷弾から発した火は、北風にあおられて、「アレヨアレヨ」という間に物凄い勢いで燃え広がりました。
その頃、二ヵ月位雨が降っていませんでしたので街全体がカラカラに乾燥していたのでしょうか、火の回りが早いのです。居合わせた職員が一列に並んで、日頃の訓練によるバケツリレーで水をかけました。火焔と黒煙が境界の石垣を越えて風下にいる私達に吹き付けます。熱風で目もあけられません。それでも皆一生懸命バケツリレーを繰り返していましたが、グラマンが私達を見たかどうかは知りませんが「ダダーッ、ダダーッ」と機銃を浴びせました。リレーの列から三メートルくらい離れたコンクリートの敷石がパチパチとはじけましたので、皆列を崩して建物の陰に隠れました。火の勢いは強くなるばかりで、煙と熱風と火の粉がどんどん私達に吹きかかります。それからは消火はとても無理とみておのおの持ち場の「非常持出」を搬出することになりました。
私達は三階に駆け登り、安里主任の指示で先ず現金やプラチナなどの入った金庫を地下室へ運ぶことになりました。同僚の山田さんや長浜さんと共に重たい金庫を三階の階段から地下まで一段一段降ろすのです。その間、上空ではグラマンが耳を聾するばかりに飛び交い、機銃掃射や焼夷弾投下を繰り返しています。
火の海の中で孤立
「この建物に直撃でも食ったら……」と恐怖におびえながら、やっと一階まで運びました。地下室まで降す余裕はありませんので階段の上からみんなで押して落しました。更に引っ返して書類を運ばないといけません。大急ぎで三階に上りましたら、隣の郵便局はもう燃えていました。窓から黒煙が吹き込んできます。煙にむせびながら本棚にある帳簿類を手当り次第に、持てるだけ抱えて地下室へほうり込みました。更に三階へ上ろうとしましたが、もうすでに二階の部屋は燃え出していて通れません。仕方なく同僚三人で地下室の鉄扉を閉じてから玄関へ走りました。東口に出てみますと、先程の浜田商店一帯は盛んに火焔をあげていますし、それが郵便局に延焼したとみえて局舎も燃えています。その方向へはとても逃げられそうもありませんので、西口へまわりました。塀越えに見える状況は、一味亭や善光堂病院と角にある歯科医院も、公会堂もすでに燃えており、あたり一面火の海です。私達はいつの間にか火の海の中に孤立していたのです。熱風と煙で目もあけられません。今まで一緒に作業していた職員の方々はいつの間にかどこに行ったのでしょうか。私達三人以外誰も見当りません。
グラマンは相変わらず上空から襲い、火は風をよんでゴーッと物凄い音を立ててメラメラと赤い舌を出して燃え上っています。籠城するか、脱出できるか。この庁舎の屋上には無線の鉄塔が立っており、攻撃目標にされることも考えられるので脱出することに話が決まりました。
手拭いを水で濡らして顔に当て、三人が一団となって公会堂側の門に走りました。公会堂と市役所庁舎は真っ赤な焔を出して勢いよく燃えています。火花がはじけ、火の粉が舞い上ります。門を左へ曲がると、幸いコンクリート塀が郵便局舎の火勢を防いでいます。しかし塀の高さは肩位しかありません。目を細くあけ、腰をかがめて一気に大通りまで走りました。左側は大門前へ、右側は山形屋前に連なりますが、左側は郵便局や▢マーケットがすでに燃え上っています。その先は煙で見通せません。右側の方へ逃れようとしましたが、そこもすでに火の海です。それで真向いの消防車庫の傍を抜け、布市場を通って旧青山書店の横から仲毛に出ました。両側に木材会社の並ぶ通りですが未だ燃えていません。しかし、人ッ子一人会いません。
グラマンは超低空で頭上を飛び回っています。木造の松田橋を渡って泉崎に入りました。 ここまで無我夢中で走り続けたので橋を渡って安心したのか、無性に喉の乾きを覚えました。橋際にある時計店の店頭には新品時計が沢山飾られたまま誰もいません。大きな壁掛時計がゆっくり振子を動かしているのがひどく異様に感じられました。たしか針は三時すぎを指していたと思います。裏にまわると水が蛇口からジャージャー流れっ放しになっています。
水を腹一杯飲んでやっと人心地がつきました。空には相変らずグラマンが乱舞しているが、泉崎にはまだ被害は出てないようです。
私達三人は城岳の横穴壕に設置されている非常措置局に行くことにしました。グラマンに見つからないように軒下づたいに中島グムイに着きました。そこで異状な情景に出合いました。それは堀の囲りにズラッと寝かされたカーキー服の列でした。その数はざっと百名をこすと思われました。階級章には星がなく赤ベタと記憶していますが、血だらけで、傷の手当も受けないままウンウン唸っている兵の姿はまさに目をおおいたくなるようなものでした。
街全体が火の海
私達三人は無言のまま、グラマンを気にしつつ、走りに走りました。城岳の横穴壕に着いたのは午後四時過ぎでした。そこには安里主任など先に着いていました。大きな握り飯を一個ずつもらい、それを頬張りながら市街地を眺めました。那覇の街は黒煙がモウモウとして、街全体が火の海となっています。その上空をグラマンがわが物顔に反復攻撃していました。
県立二中校舎やその周辺はまだ無傷でした。当時二中校舎は陸軍が利用していましたが、兵士達は任務が違うためかノンビリ空襲を見ているように感じられました。
そのうち壕近くの木造二階建に焼夷弾が落ち、燃え出しました。みんな壕から飛び出して何とか火を消そうとしましたが、またしてもグラマンがダダ……ッと機銃を浴びせました。
みんなクモの子を散らすようにバラバラに逃げました。とうとうその家はなす術もなく、目の前で焼け落ちてしまいました。
午後五時を過ぎた頃、あれ程暴れまわっていたグラマンは姿を消しました。高台から見える那覇の街は昇る黒煙に覆われ、真っ赤な太陽は西に傾いてわれわれの運命を象徴しているかのようでした。
職員は早朝家を出たままなので、各自家族のことが心配になり、技術職員を宿直に残して帰宅することになりました。
壺屋入口の壕のすぐ傍に直撃弾が落ちて、直径二十メートル位の大きな穴があいており、製瓦工場が無惨にもメチャメチャに壊れています。壕入口に居合わせた何人かが重傷を負ったとのことでした。細い坂道を上って牧志にくると、まだくすぶっている家屋の傍に馬が四ツ足を天空に伸ばして死んでいました。その脇には貯蔵してあったのか生芋が焼けてホカホカとした焼き芋がゴロゴロ転っていました。
県道を渡って牧志の本部落に入ったら、家も緑も完全に残っており、空襲の被害は全く見られません。しかし人影は全然なく、まるで別世界に来たような感じでした。
前島も無被害、木造の中の橋も朝のままあり、泊前道周辺も無傷でした。
泊からみる那覇の中心地は、黒煙がモウモウとして、暮れかかった夕空を真っ赤に焦がしており、天に底があれば焦げ落ちないかと思われるほどでした。避難命令が出たのか人通りは全くなく、川岸にたたずんで焼けゆく那覇の街を悲しそうに眺めている一組の老夫婦の姿が印象的でした。
私の住家は無事でした。雨戸はあけ放たれたまま誰もいません。「敵が上陸するから北部へ避難するように」との指示が隣組からあったようです。父が「名護に来い」と書き置きしてありました。
腹が減ってはと思い、一人で夕食の準備をしている所へ仲村渠さんが家財道具を取りに来ました。「上泊で一夜をあかすつもりだ。一緒に行こう」と誘われましたが断って家で寝ることにしました。
那覇の街はますます燃えさかり、空は真っ赤な血の色となり、火の粉は天空に舞い、火炎は雲を焦がし、三百年以上の由緒ある那覇四町をなめつくしています。こうなればもう消火どころではありません。火勢のおもむくまま総てが燃え尽きるまで悪魔の手にゆだねる以外はないでしょう。
一番近い火元まで川を挾んで一キロメートルはあるが、灯火なしで家の中が見えるのですから火事の規模や、その明るさは想像できると思います。
私はその晩、屋根の上から焼けゆく那覇の街をいつまでも眺めていました。
那覇の街はその日から三日三晩、燃えに燃え続けたのです。
当時 十九歳 那覇電気通信工事局庶務係
「那覇市史 市民の戦時・戦後体験記 資料編第3巻7」
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