海野福寿、権丙卓 『恨 : 朝鮮人軍夫の沖縄戦』河出書房新社 (1987年)

 

 

 海野福寿、権丙卓 『恨 : 朝鮮人軍夫の沖縄戦河出書房新社 (1987年)

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pp. 223-228

く生きした「死亡区分」にいう戦死したのではなく「刑死」である
同じ時「処刑」された慶山郡出身者三人のうち金相吉(創氏名金海相吉)も「戦死」扱いされていたが、黄末祥(長田末祥)と許秉昌(蘇生したが)は死亡認定さえされていない。つまり「処刑」の事実は復員部隊によって報告されていなかったのである。

 

しかも驚くべきことは、千有亀も、金相吉も、他の死没者とともに靖国神社に合祀されていることである。「特水勤一〇三(球八八八六)朝鮮人状況不明者名簿」(厚生省援護局調査資料室所蔵)の死没者欄には、「合祀済」という鮮やかなゴム印が並んでいる。

 

植民地時代、日帝は、天皇制国家が生み出した国家神道の神社を朝鮮各地に設立し、それへの参拝を強要した。天皇家の皇祖を祀る神社は、朝鮮人の民族精神を抹殺することを狙った「皇民化運動」の象徴だった。神社不参拝学校は閉廃校を命ぜられ、参拝拒否者は「不敬罪」を適用されて処罰されもした。それゆえ、解放を機に多くの朝鮮人が各地の神社を打ちこわし、焼き払ったのである。

 

このような歴史的経緯について日本政府は一点の反省もなく、創氏名を今に至るまで押しつけ、天皇崇拝と軍国主義のシンボルである靖国神社朝鮮人を祀るとは。
人びとは、かつて心髄に打ちこまれた屈辱にもまさる屈辱を覚え、怒りと苦痛に身もだえる。「処刑」者の無念は晴れることがない。

 

慶良間諸島で米軍の捕虜となった元水勤隊軍夫たちは、座間味の収容所にまとめて収容され、後に一部は希望によりハワイに移され、残りの者は沖縄本島の石川収容所 (金武村屋嘉、屋嘉収容所ともいう) へ移送された。そこには日本の兵隊も収容され、朝鮮人とは別に柵で仕切られたキャンプにいた。朝鮮人慰安婦も入ってきたと伝えられた。

 

有刺鉄線で囲まれた捕虜収容所の中ではあったが、朝鮮人は自由な雰囲気で自律的な生活を始めていた。座間味島で両手に機銃の貫通銃創を負った朴正葉の傷は、米軍野戦病院で治癒し、阿嘉島で足に怪我をした申吉淳(安心面琴江洞)もすぐによくなって同胞との生活に復帰した。


日本軍の兵隊と朝鮮人との立場は、まったく逆転していた。かつて軍夫を奴隷のようにこき使い、虐待した日本軍将兵に対し応分の報復を加えることもできたし、事実そのようなことも行なわれたが、リンチを恐れ、ぺこぺこ媚びたり、卑屈な愛想笑いをする彼らをぶちのめしたところで、死んだ同胞が還ってくるものでもなかった。

 

その日本兵以上に同僚を苦しめた、慶州出身の金某も失神するほどの処罰を受けたが、寛大に許された。しかし、健康を回復した彼は仲間はずれにされながらも、いつの間にか英語を覚え、隣りに収容されていた慰安婦を米軍に斡旋し、またまた同僚の顰蹙を買った。

六月ごろ、彼らは屋慶名(?)の収容所へ送られた。日本軍捕虜とのトラブルを避ける米軍の配慮ともいわれている。屋慶名収容所は朝鮮人専用で一六〇〇人が収容された。二〇〇人ずつの中隊が八中隊あった。そこでは学兵として出征した趙千暎(全羅北道益山)、釜鍾錫(ソウル)、尹光秀(不詳)らの将校も一緒だった。同胞たちは、そこで学兵から母国語を習い、英語を教わりながら日本の敗戦を待っていたのである。

うるま市与那城の屋慶名?

8月15日

その日、八月一五日。収容所は祖国光復の喜びにはじけた。

「大韓独立万歳」
「朝鮮独立、万歳」


日の丸の下半分をインキで染めた俄かづくりの太極旗がひるがえった。いわれなき戦争にかり出され、数十人の僚友を失った彼らだが、帰国の喜びは悲しみに増まして大きかった。だが、もっと大きな感激は祖国の尊さを味わったことだった。

 

ふたたび祖国の受難と屈辱の歴史をくり返してはならない、という意志は、生き残った二五一人の慶山郡出身者により「太平洋同志会」を誕生させた。一九四六年一月二日、金敬培が撰んだ「太平洋同志会録序文」は祖国復興への願いをつぎのように謳っている。


我等は東方礼儀の国に生まれ、紅塵を捨てて農事を生業とし、修身斉家のため山間僻地に隠棲せしところ、折しも人類社会は日を逐うて複雑化し、また生存競争はその激しさを増すかたわら、植民地政策はさらに脅威を加えたり。奴は他国を盗み取り、三千里の亜土をアジア大陸侵略の足場となしたる、三千万民族は倭奴の奴隷に成り下りたり。


君なく、父なき民族に零落せんか、失いたる祖国を取戻すべく排日排斥に必死の努力を注ぐも、赤手空拳の弱小民族はその権勢ともに敵わず、未だ悲惨なる奴隷の境地を脱し得ず。


時に、世界は洋の東西を問わず第二次世界大戦の渦中に巻込まれ、宇宙は擾乱の巻と化せり。憐れなる哉わが民族。奴隷の絆を引きずり、血汗を流せし五穀をも強制供出せしめられ、草根木皮の連命は三旬九食にも足らず。行けども山また山の揚句には、愛国の血潮も渡る青壮年を有無を言わせず強制徴発し、呢わしき銃剣を担わしめ、南に北に大東亜戦争の火中に投じたり。


我等もまた強制徴発され、奴隷の闘冠を帽せられ、恐ろしき鎖に繋がれ、恋しき父母の膝下を辞し、故郷の山河を後にして釜山港に着きたれば、伝い落つる涙は乾く暇もなし。奴器の軍艦に乗せられ万傾滄波に漂わんか。思い出ずるはただ故郷の父母兄弟のみ。さらば美しき故国のふたたび見えん東海の潮よ。時局愁詳なれば何時の日にか再会を期せんや


遅々たる船足は何処へ向うとも知れず。無心の鷗のみ空を飛び交うばかりなり。時は甲申年六月上旬、数千里の波を越え沖縄島に上陸す。見慣れぬ山河、聞き慣れぬ声音、山林は鬱蒼として、奴翠の犬の如く群り居るを見る。奴輩の鎖に繋がれ、引きずられるままの奴隷の日暮しは、げに一刻も三秋の断腸の思いこそすれ。祖国よ来れ。銀盆の月光が忍び寄るがごとく祖国よ来。奴輩の圧迫は日増しに烈しさを加え、千仭の谷の奥すら悲しげに突くも、何故に我が祖国は速に来らざるや。無窮華の花咲く綿繍江山には何時の日ふたたび巡り会え得るや。

 

光陰矢の如く何時しか一年も過ぬれば、時は乙酉年の春三月も間近なり。米軍上陸し、激戦の繰り広げられんか、海上に山の如き軍艦の幾重にも島を囲みて集中射撃を加え、空を半ば覆いしB二九爆撃機に天日も影暗く、流れ落つる焼夷弾、爆弾は霰の如く、陸には小銃、機関銃、大砲の弾の夕立の烈しきに似て降り注ぎたり。問わん哉蒼天。何故にぞ、沖縄の島々は一朝一夕にして火の海と化し、屍体山を覆い、流血は川を成すや。倭奴の死に作れるは、これ自業自得なるも、憐れなる我が同胞の数多く仆るるはそもそも理不尽なり。共に死なんか、犬死なり。後日を期して生道を求め地に潜らんか、身は土竜にあらず。天に飛んか、鷹にもあらず。広き天地に粟粒の小軀を隠す術なし。死のうに故郷恋しく、生くるに九死に一生も得難し。東奔西走の果は薄日も差し入らぬ岩穴に身を潜め、草根木皮にて命を繋ぎ、露にて渇を癒し、西山落日には涙を流したり。夜重ね来れど限りなく昼重ね往きても終りなし

そもそも男子と生まれ戦場に死するは、毫も悔むべきにはあらず。また祖国の為に身を捧ぐは国民の本分を尽すことならんが、ただ奴器の巻添えにては死しても、なおその怨恨千年に残るべし。

 

問わん哉青山。古今この方、英雄豪傑の何人か地下に永眠れるや。もし後世にて人問わば、我もその一人に数えしめよ。さにもあらずと心を持直し、必死に生道を計り巡らす。諺に曰く、桑田碧海に変じても立瀬はありと。

 

折しも米軍の宣伝放送を聞くるに、これぞ唯一なる生道とばかり手に手を取りて、太極旗を押し立て、大韓民族万歳を叫びつつ米軍艦艇に走り寄れば、聖徳なる米軍は直ちに発砲を中止し、精細しく審査の上、我等を捕虜収容所に収容せり。

 

三間の草ことごとく灰燼に帰するも、南京虫の跡絶えたるを喜ぶごとく、倭奴の滅亡こそ我等が幸せなりしを覚ゆる。

これまさに紅塵に背を向け、竹の杖に草鞋ばき、琴を背負いて南湖を巡り帰れば、蘆花の季節の鷗は我を友と呼べるがごとき、あな嬉しき境地なり。

年々歳々花相似ず、年々歳々人同しからず。三春は年ごとに巡り来ると雖も、憐れなり我が同志、怨を抱きて戦死し永久に帰るを知らず。生き残れる我等は聖徳なる米軍に命を託し、厚き待遇に日々過せしに、天地陰陽大自然の成行きは、遂に八月一五日解放の鐘を鳴らしたり。囚の身をも顧みず、万歳、万歳の連呼は大韓民国の自由独立を祝福せり。

 

光陰は雷のごとく、歳月は余を待たず。既に九秋を過ぐるも帰国かなわぬ我が同志、遙かなる空を流るる雲を眺め、故国独立の顕れならんなどと思いつつ、消息も跡絶えし南国万里に臥し、思いを故国の山野に馳せるなり。

 

大韓民国の聖主は何処におわしますや。重なる雲の彼方の海は一層碧さを増し、空に懸れる銀河がゆるりと回るも、寝つかれぬ我が同志、箸をきて望郷を歌える中、にわかに奴隷生活を脱け、九死に一生を得し推移の証左を遺したくはなりぬ。時に丙戌年正月二日初庚の佳き夜なり。

 

誰某となく集いし同志は、太の字、同の字を識に取りて太平洋同志会を発足、創立したり。

 

心せよ同志、誓うべし会員諸氏、何時の日にか帰国の叶いし朝、我等祖国発展に献身し、愛民愛族に奉じて、自由の種を子孫万代に播かん事を。堂上の鶴髪は千年を寿ぎ、膝下の児孫は万世に栄え、末永く万宗の禄を戴き、世々年々春風に桃李花咲く時節には、山水景色の秀でたる処に同志各位漏れなく集い、千年の長恨を抱きて戦死せし我等が同志の御霊を祀り、死地にて互いに過せし波襴の曲節を千秋万代に至るもやよ忘れず、昔を想い、国家復興に全身全霊を捧げん事を。また同志諸位誓うべし。

丙戌(一九四六)年正月初二日

太平洋同志会員金敬培謹撰
(松谷・崔善浩嶺南大教授訳)

 

1946年1月、ハワイへ行った者は仁川港へ、ついで2月、沖縄に留まった者は釜山港へ帰り、夢にまで見た母峰を望みつつ、家族の待つ家へと急いだのである。

 

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