鉄血勤皇隊は13~19の歳で法的根拠無く動員された。沖縄師範学校男子部では引率の教師24人に導かれ生徒386人が戦場に動員された。そのうち生徒226人、引率教師9人が戦死した。
今回、沖縄戦から40年後の『琉球新報』取材の証言を以下に紹介する。
平仲孝栄さん、当時14才は、教師になりたくて難関である師範学校に入学。しかしそこは教師になるよりも兵隊になることを進める「愛国教育」の現場だった。生徒たちは鉄血勤皇隊として戦場に動員される。
戦争の時代、日本の教育現場では何が起こっていたのか。
1937年12月に内閣直属の諮問機関として教育審議会が設置された。教育審議会は義務教育、中等教育、高等専門教育、師範教育、社会教育などの制度、教育内容・方法におよぶ全面的な改革策を審議し、1941年10月までの間に7つの答申と4つの建議を行った。根本理念は「皇国ノ道ニ則ル国民の錬成」であった。師範学校の改革に関しては、1938年12月8日に「国民学校、師範学校及幼稚園ニ関スル件」の答申がまとめられた。
… 改正 (1943年) 師範教育令第1条は「師範学校ハ皇国ノ道ニ則リテ国民学校教員タルベキ者ノ錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」と定めた。1886年の師範学校令以来、3気質と言われた「順良親愛威重」という語はなくなった。すでに1941年制定の国民学校令第1条は「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」としていた。師範学校の目的は、「皇国民錬成」のための国民学校の教員を養成することとなったのである。
戦禍を掘る 第2部・学徒動員【31】師範学校切り込み兵
(1)凄絶だった戦闘 先生への夢もぐらつく
もう40年も前の出来事を聞こうと、沖縄本島南部の糸満高校を訪ねたのは昨年の暮れも押し詰まってからだった。土曜日の昼下がりとあって、足を入れた進路指導室では数人の生徒が資料などに目を通していた。
仕事の手を休め、間もなく取材に応じてくれたのが平仲孝栄さん(58)=東風平町東風平。体つきのガッチリした平仲さんは同校で保健体育を受け持つかたわら、生徒たちの進路指導を手がけている。
「昔の進路指導と言えば“兵隊に行け”の一辺倒でしたからねえ。学校の配属将校は私たち生徒を見ると、面と向かって“志願しろ”と盛んに勧めたものです」
平仲さんはニガ笑いしながら自分の学生時代を振り返り、話を始めた。ちょうど、大学や就職先のパンフレットに熱心に見入っている生徒たちの姿が目に入り、当時の平仲さんと同じ年ごろだな、と思いながら話に耳を傾けた。
◇ ◇
沖縄戦のあった昭和20年、平仲さんは沖縄師範学校男子部の本科2年に在学中で、3月下旬、第62師団(石部隊)に編入され、最も凄(せい)絶だったといわれる浦添・前田高地の戦闘に参加している。
入学はその4年前の昭和16年春。当時14歳。東風平の学校の高等科2年だった平仲さんは「どうしても先生になりたい」との夢を抱き、県立の教員養成機関である沖縄師範学校一本に絞って受験することになった。
「実家は農業をしていたが、分家で財産などはない。師範一本に絞ったというより、学費の節約できる学校といったらそこしかなかった」平仲さんは、師範学校を選んだもう一つの事情をこう説明してくれた。
「当時のエリート校には一中、二中などもあったが、比較的裕福な家庭の子が多く、勉強したいが経済的にゆとりのない家の子は金をかけずに学べる師範を多く受験したものです」
成績優秀の平仲さんに熱心に師範学校受験を勧めたのは、東風平の学校の照屋永繁先生(のちに首里高女の教員時代、防衛隊として召集されて戦死)だった。照屋先生は「孝栄君なら絶対に師範に受かる」と太鼓判を押し、「父親ともよく相談するよう」アドバイス。当時フィリピンに出稼ぎに行っていた父親に手紙を出すと、間もなく「仕送りするから頑張れ」との返事が届いたという。
やがて平仲さんは師範学校を受験、難関を突破して合格した。「県下から110人ほどしか取らず、一つの学校から1人の合格というのが相場だった」というから喜びもひとしお。
「運が良かったのひと言に尽きます」と平仲さんは当時を振り返る。「合格した生徒は学費として月25円の官費支給がありました。あのころは下宿代が13円くらいでしたからかなりの金額。もう、うれしくてたまりませんでした」
4月、首里当蔵町にあったあこがれの沖縄師範学校の門をくぐった。
だが、初心の「先生になる」という決意は、「教員より将校を目指せ」という配属将校による連日の洗脳で、しだいにぐらついていく。しばらくすると、「卒業したら将校になるぞ」と本気で考えるようになってしまっていた。
(「戦禍を掘る」取材班)1985年1月7日掲載
(2)厳しく軍隊教育 陸軍の現役将校を配属
平仲孝栄さんが入学した沖縄師範学校の校舎は、首里当蔵の龍■池のほとりにあった。入学3年目の昭和18年、官立専門学校に昇格、男子部と女子部に分かれている。それに伴い、学校の目的も開学当初の「教員を養成する所」という単純なものから「皇国の道に則りて国民学校教員たるべき者を練成す」に変わっていた。
学生たちは週に2、3時間、配属将校による教練の授業を受けなければならなかった。いわゆる軍隊教育で、鉄砲の扱い方、攻撃の仕方、さらに軍隊における規律などが厳しくたたき込まれた。
学校に教練教師として配属されていたのは、陸軍の現役将校で、平仲さんら学生にとっては「神様のような存在だった」という。
「将校ににらまれたら卒業式の日に教練合格証がもらえなくなるというので必死でした。教練合格証は卒業後に将校の道へ進むパスポートのようなもの。普通の授業の時よりも力を入れて取り組みました」
配属将校は、ある意味では校長以上の権限を持っていたのである。
師範学校の生徒には卒業後に将校になる道が開かれていた。卒業して幹部候補生制度の甲種試験を受験すると、ほとんどが合格したといわれる。
やがて南方諸島での戦争が激化し、日本軍の戦死者が増えるにつれて将校の数も不足してきた。そこで新たにできたのが特別甲種幹部候補生制度。受験して合格すれば、本土の予備士官学校で1年間の特訓を受け、さらに半年間、見習い士官を務めたのち少尉に昇格できるというものだった。
普通の士官学校の4年に対し、わずか1年半で将校になれるという魅力に、在学中でも受験できる特別なはからいが加わって人気を集めることになった。
「軍は、不足してきた将校を補うとともに若い人たちでも将校になれるという夢を与え、戦意を高揚させるつもりだったのでしょう」と平仲さんは振り返る。
時々、このエリートコース出身で将校目前の見習い士官を見かけることがあったが、平仲さんらはあこがれのまなざしで見とれていたという。「階級上はまだ下士官ですが、服装は既に将校と同じ。日本刀を腰に差し、えり章には普通の下士官と違って座金が入っており、とても輝いて見えた」
毎日のように軍国主義の考えを吹き込まれ、配属将校と顔を合わすたびに「君も将校を目指せ」と言われるものだから、学生たちの考え方が変わっていくのも無理からぬことだったともいえよう。学生たちはいつしか教員志望だったことを忘れてしまっていた。
「配属将校ばかりでなく普通の教科の先生でさえ、先生になるより将校になった方が君のためだ、と勧めていたものです。親友らが次々と在学中に志願していく中で、私も早く将校になるための試験を受けなければと決意を固めていました」。
そのころ、思いもよらぬ那覇10・10空襲が起こった。首里の学校から東風平に里帰りしていた平仲さんは、空襲の3日後、学校からの呼び出しを受けて集合場所の那覇港に向かったが、途中、軽便鉄道の終点・那覇駅(今の旭町のバスターミナル付近)まで来てびっくりした。
「そこから何と海が見えたんです。空襲で建物が壊され、一面はすっかり焼け野原。さすがに、果たしてこれで日本は勝てるのかなあと首をかしげましたよ」
教員志望を捨ててまで将校を目指そうとしていた平仲さん。ショックは大きかったという。
(「戦禍を掘る」取材班)1985年1月8日掲載
(3)連日、歩哨に立つ 「守礼の門」の破壊を目撃
沖縄師範学校では「那覇10・10空襲」の前後から学科の授業はほとんど行われず、生徒たちは陣地構築の作業に連日繰り出されるようになった。空襲のひと月前の昭和19年9月、平仲孝栄さんの1期上に当たる本科3年生が繰り上げ卒業したが、「卒業証書はもらっていないはずです」と平仲さんは言う。
明けて20年。戦争の“足音”が日一日と近づき、不穏な空気の流れる中で平仲さんの気持ちも大きく揺れ動いていた。
国民学校(小学校)の教員になることを夢見て入学したが、学校に配属されていた陸軍現役将校らによる洗脳で将校志望に変更。そして間もなく10・10空襲の惨状を目撃、自信がぐらつきかけていた。
だが、「果たして日本は勝てるのだろうか」などという疑問を声に出して言えるような時代ではなかった。平仲さんは気を取り直し、将校を養成する特別甲種幹部候補生試験を受ける決意を固める。
覚悟にも似た決意だったが、いよいよ受験しようという直前に沖縄戦に突入。師範学徒たちは、新たに組織された鉄血勤皇隊に動員された。平仲さんも切り込み隊に編入されて参戦、将校への道も必然的に閉ざされてしまったのである。
沖縄戦が始まって2、3日目の昭和20年3月下旬、平仲さんは独立歩兵15大隊(石3596部隊)の第1中隊第1小隊に配属された。第1小隊はおよそ30人。那覇・泊の貯水池のすそに墓を利用して掘られた陣地壕があったという。
「小隊に配属された師範学徒は私1人。小隊長だった瀬尾少尉付になりました。瀬尾隊長も東北地方のどこかの師範学校出身だとのことで、随分かわいがってもらいました」
やわらかな物腰で話しかけてくれた隊長。いつも「平仲君、戦争は必ず勝つ。いずれ復学できるから頑張りなさい」と言っていたことが忘れられない思い出になっている。
当時18歳で、一番若い平仲さんの仕事は見張りだった。いわゆる歩哨(ほしょう)と呼ばれるもので、壕周辺の警戒・監視がその任務。監視所は壕から数十メートル離れた小高い丘の上にあり貯水池の入り口に当たっていた。
そこに立つと、前方に広がる海に、既に米軍が上陸している神山島(チービシ)が良く見えたという。
米軍は野戦重砲を据えつけた神山島から昼夜を問わず、ひっきりなしに日本軍司令部のある首里方面を狙って砲撃を続けていた。歩哨に立つ平仲さんを中心点にちょうど弧を描くような感じだった。
平仲さんの記憶では、米軍の訪問は八つ。「8発続けて撃ち、間を置いてまた8発。なぜか、その数を今でも覚えています」
夕方の1時だけ、砲撃がやんだ。それっ、とばかりに日本軍は一斉に夕食のしたくに取りかかる。
「泊付近の集落には当時疎開してガラ空きの家が多く、ジャガイモや缶詰、白砂糖、油などを豊富に見つけることができ、手分けして集めてきたものです。買いだめしていたらしく、床下などにも隠されていました」
一番年下でいろいろ命令されることは苦にならなかったが、腹の立つこともあった。
ひとりで一日中、歩哨に立ち続けることはできないので時々は上等兵らが代わってやることになっていたが、その上等兵らは「貴様は学徒とはいえ甘えは許さん。自分の島を自分で守らんでだれが守るか」などと理屈を言って任務を押しつけたものだった。
「夜中、見回りの週番士官が勤務ぶりをチェックするため、暗やみの中を遠くから『官等級氏名を名乗れ』と叫ぶんです。仕事を押しつけた上等兵の名前を答えると、『ヨーシ』という声が聞こえました」
隊長が親しみやすい人だっただけに「下っ端ほど威張るんだなあと思った」とか。
守礼門が吹っ飛ばされるのを目撃したのは、その数日後だった。
(「戦禍を掘る」取材班)1985年1月9日掲載
http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp
(4)戦況、一段と緊迫 最前線の前田高地へ
守礼門が米軍の砲弾で吹っ飛ばされるのを目撃したころから、戦況には一段と緊迫感がみなぎり、平仲孝栄さんたちの部隊も最前線に投入されることになった。部隊に「浦添城址を奪回すべく直ちに出撃せよ」との命令が下ったのである。
守備についていた那覇・泊の壕から移動を開始したのは昭和20年の4月中旬。首里の末吉、大名を経て浦添の経塚に入り、最前線の前田高地にやって来た。
前田高地と言えば、沖縄戦で最も激しい戦闘が繰り広げられた場所の一つとして知られているが、その激戦の中に平仲さんも加わっていた。
目と鼻の先にいる米軍と必死になって奪い合ったのが浦添城址だった。「夜になると奇襲攻撃隊を編成して浦添城址を奪い取ったものですが、昼になると再び占領され、思い通りにいきませんでした」
切り込み兵として戦闘に加わった平仲さんは、当時の様子を今でも鮮明に覚えている。
「午前4時ごろ奇襲に向かったことがありました。次々と打ち上げられる照明弾で真昼のようでしたがが、私たちは地をはうように少しずつ前進し、敵陣に迫っていきました。ところが、それを察知した敵からの雨のような集中弾を浴びせられたのです。本能的に弾をかわしていましたが、背中をかすめていく瞬間は生きた心地がしませんでした」
平仲さんは弾の音で発射方角や弾着、種類などを判別できた。実践の中で、それこそ命がけの体験で判別能力を磨いていったのである。
命令があるまで発砲を止められていたがそれでも米軍の一方的な攻撃にたまりかね、伏せていた味方の兵隊が発砲することがあった。すると、直ちに報復の“砲弾洪水”。部隊の潜んでいた周辺は爆風で、砂煙が立ち込めていく。気がつくと、発砲した兵隊の姿はなく、どこかに飛び散ってしまっていた。
とにかく敵の戦車はあまりに大きく、日本軍の小銃弾や手投げ弾ではとても対抗できない。急造爆雷を造って肉薄攻撃をやることが、最も効果的だったのである。
10キロ以上もある急造爆雷を背負ってキャタピラ(戦車の車輪の外側にかける帯状の装置)に近づき、すばやく戦車の腹の下に投げ込まなければならないのだが、思うようにはいかないことが多かった。
「一人一戦車」という合言葉の下、数えきれない兵隊が命を落としていった。
平仲さんの部隊も生存者が少なくなっていたが、数人で決死隊を組んでは敵を目がけて突撃していった。白ハチマキを額にしっかりと結んで覚悟を決めた決死隊の人たちは、出て行ったきり二度と帰ってこなかったという。
平仲さんをかわいがってくれた小隊長の瀬尾少尉も何人かを引き連れて出ていったまま、帰らぬ人となった。
「左こめかみに弾を受け即死したといううわさを聞きました。瀬尾少尉はとても紳士的で、良い意味で軍人らしくない人でした。当時の軍隊は“オイッ”とか“コラッ”とか激しい命令口調の人が目立ちましたからねえ」
◇ ◇
平仲さんの案内でかつての激戦地を訪ねた日は、小雨のパラつくあいにくの天気となった。ひっそり閑とした浦添・茶山団地裏手の林で、平仲さんからすさまじかった戦いの話を聞いた。
(「戦禍を掘る」取材班)1985年1月11日掲載
(5)頭の中を「死」が占める ウソで命拾い
浦添城址を望む前田高地一帯は連日の砲火で、すっかり焼け野原になっていた。小隊長の瀬尾少尉を失ってからも平仲孝栄さんらの部隊は必死に米軍に抵抗。日中は壕の中で息を殺していたが、夜になると奇襲作戦に出て敵を目掛けて突入していった。
だが、作戦はことごとく失敗。味方の兵隊は残り少なくなっていき、平仲さんも戦死を覚悟していたという。
そんな矢先、後方の日本軍から「首里に撤退せよ」との命令。5月も半ばを過ぎたころで、前田高地に来ておよそ1カ月がたっていた。
「一連の戦いで数えきれないほどの戦友を失いました。部隊は違いましたが、わが師範学校の学徒兵も何人かがやられ、その短い生涯を終えています」
平仲さんは、民間人の死も多く目撃している。「夕方のひと時、伸びをしようと壕からはい出して近くの仲間地区まで行ったことがありました。屋敷の外には死に絶えている人たちがいっぱいいました。人の気配のすす家を探し、サツマイモをもらったことを覚えています。学生さんなのに大変だねえ、とねぎらいの言葉をかけてもらいました」
前田戦線を無念の涙で引き揚げた平仲さんらは、首里を経て本島南部へ撤退。東風平あたりまで来たころには石部隊はばらばらになり、部隊としての機能はほとんど失っていた。平仲さんは伍長、兵長ら5、6人に付いて行動し、具志頭を通り過ぎて真壁村に入った。
その村の真栄平という集落を歩いていると、垣根越しに「コウエーイ」と平仲さんを呼ぶ声がした。だれだろうと思って屋敷に足を入れ、女の人の声のする台所の方をのぞき込んでびっくり。右足を押さえてうずくまっているのは自分の母親だったのだ。
「入隊して以来、家族の消息はさっぱり知らなかっただけに感激。偶然とはいせ目の前がパッと明るくなった感じでした」
母親は右足に弾の断片が貫通していたらしく、ちょうど伍長が持っていた救急箱から薬を取り出し、手当てをしてやった。その様子を見て、伍長は「お前はもういいから母親のそばについていてあげなさい」と平仲さんを激励、仲間と引き揚げた。
妹2人に、近くに避難してきていた本家の人たちも加わってしばらくは一緒の暮らしが続いたが、ある日、水をくみに出かけた平仲さんはものすごい空襲に見舞われた。「何時間もたってから家族の待つ場所へ戻ったのですが、そこに家族の姿はありませんでした」
再び家族とはぐれてしまい、途方に暮れながら具志頭村のギーザバンタの断崖近くにやってきた。いつの間にか顔見知りになったのが座間味という名の少尉。2人でアダンの木の下に隠れ潜んでいた時、米兵に見つかった頭上から銃を突きつけられた。沖縄戦末期の昭和20年6月19日のことだった。
海岸線を具志頭の港川まで歩かされながら、頭の中にしだいに「死」の文字が浮かぶ。「ああ、とうとう米軍の戦車の下敷きにされてしまうんだなあ」
港川に着くと、捕らえられた人たちが数十人いて、米軍の命令で2世の通訳が取り調べをやっていた。
「通訳は尋問を行い、捕虜を戦いに参加した者と、そうでない民間人とに分けていたのです。私は鉄血勤皇隊ということを強く否定するため口から出まかせを言いました。何度も念を押されましたが、うそを通し、民間人のグループに入れてもらったのです」
結果的には、それが平仲さんのその後の人生を大きく変えていくことになる。数日後、知念の収容先で「小学校の先生をやらないか」という夢のような話が舞い込んだ。
(「戦禍を掘る」取材班)1985年1月12日掲載
(6)2世が厳しく追及 鉄血勤皇隊を強く否定
具志頭の港川に集められた捕虜たちは、そこで米軍の取り調べを受けた。尋問に当たったのは2世の通訳で、平仲孝栄さんにも戦闘に加わったのかどうかを確認した。
最初、現役兵ではないかと疑われたが、キッパリと否定。すると今度は「鉄血勤皇隊だったんだな」と厳しい追及が続く。
ドキッとした平仲さんだったが、とっさに次のように答えた。
「確かに私は師範学校の学生です。でも長いこと病気で休んでいて鉄血勤皇隊には編入されていません。戦争が始まってからはいくぶん体が良くなったので炊事の手伝いくらいはしなければと思い、近くの部隊に加勢に行ったことはありますが…」
平仲さんは思いつくままデマかせを並べ、鉄血勤皇隊ということを強く否定した。通訳は「ウソをつくと銃殺されるぞ」と盛んに念を押したが、かたくなな平仲さんの態度に根負け。結局、参戦した兵隊たちとは別に振り分け、民間人のグループに入れた。
捕虜になった翌日、玉城村の百名まで連行されてきた数十人の民間人は、そこで流れ解散のような形でバラバラになった。平仲さんは住む家を求めて歩き回り、知念の山里地区までやって来た時にバッタリ知人に出会った。
その人のやっかいになることになり、地アックに雨露がしのげるほどの小屋を建て、住み付いた。
「山里にやって来た当時の思い出と言えば、軍作業の死体片付けですね。具志頭まで駆り出され、一帯に散乱している日本兵の死体をくぼ地に集めて石ころをかぶせるんです。弾痕が生々しくて忘れられませんよ」
この作業はとても耐えられず、一遍で嫌になったという。作業中、せっけんがなくなってしまうという出来事があり、米兵から泥棒呼ばわりされて、一層腹が立ち、作業に出ることを拒否している。
そんなことがあってからは、何の目標もなく、ただ漫然と過ごす日々が続いた。干しブドウにイースト菌を混ぜて発酵させた“ドブ酒”だけが楽しみになり、いつも暁になるとホロ酔い状態。「酔ってみじめな気持ちをまぎらせていた」という。
怠惰な生活に明け暮れていたころ、隣近所で親しくしていた山里区長の嶺井藤正さんが「小学校を始めるので先生をやらないか」と夢のような話を持ち掛けてきた。
降ってわいたような話に平仲さんは飛び上がらんばかりの喜びよう。
「元はと言えば教員志望だったんですから断る理由がない。知念市役所に呼ばれて当時の親川市長から辞令をもらった時はうれしさで震えたものです」
昭和20年7月21日、平仲さんらを教員に迎えて山里初等学校が開校した。校舎といえば、空き屋敷に米軍の野戦用テントを張っただけ。教科書はもちろん、ノートや鉛筆さえなかったが、そこには「希望」があった。50人の子どもたちの「未来」と「夢」があふれていた。
平仲さんの担当は国語と算数。「知っていることのすべてを子どもたちに授けてやりたいと夢中でした」。休み時間には米軍おさがりのバレーボールで大いにはしゃいだ。
「あの時の無邪気な子どもたちの姿は永遠に忘れられない」と平仲さん。「私たちが受けた“人殺しの教育”をこの子らには教えていけないと肝に銘じ、以来40年も教師を続けています」と話していた。
(「戦禍を掘る」取材班)
1985年1月14日掲載
6月20日、沖縄で捕虜になった日本兵の最年長と最年少者。左の老人から75歳、16歳と15歳の少年。
http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp
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