山田有昻「屋嘉収容所」~ 那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時戦後体験記・戦後編』(1981)


屋嘉捕虜収容所

山田有昻

囲には監視哨のが六、七ヵ所設けられてあった。夜になればサーチライトが輝き、四六時中監視は厳重であった。

 

棚への出入口は北寄りに一個所で通路の中央に検問所がありMPが立哨していた。柵内は中央に十位の通路があり、その両側を八カ所に区切り、計十六区に仕切られてあったと記憶している。入口から右側一番柵が診療所で、歯科医の平良進氏が皆の面倒を見てくれていた。二番柵には朝鮮人がいた。三番目から五番目までは沖縄の柵で、六、七、八は日本兵に割り当てられていた。

 

左側一番目が送られて来た捕虜の受け入れ区分とか取調べをするところで、二番目が将校用で、三番目は何か共同で使用する場所にしてあり、米飯の炊事場にも使った記憶がある。四番から八番まで総て日本兵用であった。随分経ってから奥の突き当りに水浴場も設けられた。

 

チーズやバターを食べて下痢

MPの事務所や詰め所、宿舎は、収容所の外側入口に近い方にあり、小川が外濠の感じで流れているところにあった。その近くに食糧や物資の幕舎もあった。収容所が屋嘉へ移ってすぐの作業は自分の幕舎を立てることから始まり、捨て穴掘り、溝掘りなどで、便所は米兵が先に作ってあった。一杯になるとそのまま埋め、新しい穴を掘って作る、それは我々の仕事であった。便所は腰かけ式で一列に並び、背中合わせに両方から出来るようになっていた。

 

材料の板はクレゾールが茶黒く踏み込んでいて衛生的だと感じた。腰かけ式は馴れないものだから上にあがって用を済ませるのが随分いたが、MPに怒られて次第に馴れた。DDTを浴びてもシラミが生きていて、褌やパンツの縫目にくっつき、なかなか退治が難しかった。そこで煮沸を考えつき、空罐にシラミの付いているものを入れ焼穴を釣堀りのように取り囲んでの太公望然はユーモラスな光景だった。

 

食べ物もろくにとらないで入って来た多くの者は、配給のレーションでは満腹感がせず、全部食べた上に他人から貰って補っていた。殆どが食べ馴れないチーズ、パターを残していたので、それを貰って食べるので下痢をおこすのが多かった。次第にレーションに馴れると残すようになった。カロリーからすれば米兵の軍事行動に耐えられるだけの熱量はあるのだから当然で、もって来た。

 

レーションにはKとCがあって殆どがKレーションで、たまにCレーションが配られた。Cのことを将校用とか海軍用とかいっていて上質の方だった。朝、昼、晩、内容は異っていて栄養面のバランスも考慮されているのには、つくづく持てる国の様を見せつけられるようだった。作業は収容所内のものと、外へ出るのがあった。外というと米軍の駐留地に行って清掃作業が主だったらしく、その他雑用をして、帰りはレーション一個余分に貰い、途中で芋の葉などを土産に採って来て、夕食のお汁の中味にしていた。外部作業は地方人(一般住民のことで各保護地区からいろいろの作業に男女が来ていた)に会えることで身内や知人の消息を知り、また伝えることが一番の楽しみで、次に緑の野菜代用品を土産に持ち帰ることであった。

宮城嗣吉の武勇伝はたくさんある

複雑な心境の敗戦の日

外部作業を楽しみにしているが、作業に出るのは毎日でなく、日本兵と交互に出るのが普通だった。ところがある日、両方から出ることになった。沖縄側が出口に並んだら、日本側の作業に当方が割り込んだと思ったのだろう、体軀の大きな男が出て来て、文句をいいながら押し返そうとして争いになりかけた。そこへ宮城嗣吉、堀川徳栄、森田孟陸の諸氏が静めに入った。ところが例の男は身体の小さい宮城氏をあなどり、なぐりかかって来た。日本兵の中には沖縄人を軽蔑する態度を示すのがいた。その男もそんな風に、先に手を出した。宮城氏も仕方なく殴り返して喧嘩となり、双方が騒然として、加勢に出ようとした。森田、堀川両氏が割って中に入り、「これは二人だけの問題だ」と加勢しようとするものを押し返して二人だけで争わせた。この争いは当然宮城氏に軍配が揚がり、相手に詫びさせ、ことはおさまった。このことがあってから沖縄の空手の威力を認識するようになりおとなしい態度を示すようになった。

戦闘疲労

収容されたものの中には精神異常者と認められるのが二十人近くもいた。うつ症、分裂症、精、てんかん神経症といろいろのものがいて、症状も重症、軽症さまざまで発作的に暴力をふるう危険な者もいたし、からかわれ、いたずらされる気の毒なものもいた。いずれにしても集団の共同生活には適合しない人達だった。それで柵内に別の柵を囲って保護することにした。その世話を引き受けてくれたのが久手堅憲栄氏(現・阪急繊維KK専務)であった。砲爆撃下に晒された精神的ショックによる症状のものが最も多かったような気がした。落ち着くにつれ精神の安定をとりもどし、快癒したのが相当いた。

脱走者の射殺

収容所生活の中で秩序を乱したり、喧嘩、暴力など振った者には時にはMPから重労働の罰が課された。罰法は砂地に一定の穴を掘らせるととであった。決められた深さの穴を掘らせることであったが、その深さに近くなると周囲の砂が崩れ浅くなる、それをまた掘らなければいけないという風な罰であったが、沖縄側では一人か二人位が適用された。収容所脱出を図って失敗した事件が二回程あった。一回は施設が整備しない頃で、逃げようとしたのも精神病者で、丸裸で有刺鉄線を中途までくぐりぬけていたが早く発見され、傷も負わず、銃撃もされずに無事引きもどされた。二回目は夜中、内囲いと外囲いの間の輪状有刺鉄線までくぐった時監視兵に発見され、楼上からのサーチライトに照し出され射殺された。その時のそれ弾が幕舎内に寝ていた者の大腿部を貫通し病院へ移送されるという事故があった。

 

朝鮮人に親切だった米兵

敗残兵の襲撃

こんなこともあった。八月上旬の夜中のことと記憶するが、収容所山寄りの南側で突如、銃声が起り襲撃かと思った。米兵は直ぐその方向へ集結された。ところが別に攻撃は続かなかった。そのかわり北側の倉庫に当てられているテントが襲われた。それは友軍の兵隊が恩納岳から下りて来て誘導作戦を展開して戦果を挙げたらしいとのことだった。

朝鮮人、沖縄人、日本人

収容所内における米兵の我々捕虜に対する処遇態度は、朝鮮人に対しては何となく特別扱いの感がするほど親切で、次は我々沖縄人に対しても親切で、何かと我々の要求も受け入れてくれた。例えば米飯が欲しいといったら米を配給してくれたし、炊事道具と炊事場の設備までしてくれた。米兵から人気のなかったのは日本兵で、敵国意識が強く何かとその態度が現われていた。沖縄側に対する米兵の考え方は、琉球は明治になって日本に屈従させられたものと理解しているらしかった。それで我々に同情しての取り扱いと受けとれた。私の点呼日誌は七月十四日から記されているが、八月十五日終戦の日には千百十五人になっている。敗戦と知ったその日の心境は複雑なもので、戦争が終ったという安ど感と、敗れた悔しさ、屈辱感、張りつめていた気持ちからの虚脱、しかも隣柵の朝鮮人の戦勝祝いに等しい鳴り物入りのお祭りさわぎ、たとえようのない気持ちで静まりかえっていた。我々の気持ちと他府県の人達の気持ちは同じだったと思った。敗戦の衝撃は大きかったが、一応みんな冷静な態度で受けとめて表面的には平静だった。

 

私は毎日の点呼時に一応の注意を話していた。捕虜になったからといって自暴自棄にならないように、作業に出ても収容所内でも「沖縄人は」と蔑まれる行動をしないように、沖縄人として毅然たる態度を忘れないようにして貰いたいと強調していた。皆よく理解してくれた。お蔭で収容所々長のMP将校、下士官から信頼を受け、処遇も良くしてくれた。

 

例えばPWは、一切の凶器となるものを収容所内に持ち込むことは禁じられていて、安全剃刀の刃でも駄目だった。ところが私に毎朝ひげを剃るようにと折たたみの剃刀を持って来て貸してくれた。暫くは済むと持ち帰っていたが、いつしかそのまま私の手許に置いたっきりにしてくれた。お蔭で他の連中もひげが当てられるようになった。

 

遅かった「神風」

沖縄戦終結直後の頃と思う。宮城嗣吉、森田孟睦、堀川徳栄の諸氏が小禄の海軍を中心に、住民の救出作戦に身を挺して活躍し、住民と兵を多数救出してくれたことがあった。救出に出かけるとき、宮城氏が私の帽子を借りて行ったが、帰りは紛失してしまっていた。理由を聞いた「壕に入りかけた時、中から手榴弾を投げられ、爆風で吹っ飛んでしまいましたよ」と笑って話していた。幸いに怪我もせず、多くの人命を救出してくれたとその勇気に感心したものである。


終戦と決まってからは、日が経つにつれて皆の気持ちも和やかになり毎日の生活も明るくなって来た。外部作業の往き帰りにも次第に家族や知人の消息が判るようになり、多くの希望が湧いて来た。

 

解放されるまでの収容所生活を楽しくするためにいろいろのことが考え出された。無より有を生み出すいろいろな細工、まず空きカン三味線だ。さおを折たたみ寝台の木で仕上げ、落下傘の紐で絃をつけた。またKレーションのバンドで小刀、鋏、剃刀を作ったり、水筒にレーションの中の干果物を発酵させて酒を作ったりしていた。

 

スポーツは相撲を堀川氏が少年や青年に指導してくれた。そして時々大会を催し賞品にレーションを出した。バレーボールの沖縄対日本の試合は、常に沖縄の勝ちであった。わがチームには、学生時代から明治神宮の大会に出場した体験者の城間辰蔵氏らがいたから、MPチームでも歯が立たなかった。野球はグランドが狭く、試合らしいのは出来なかったが、キャッチボールなどをした。

 

演芸会で生き延びた喜び味わう

廃物利用のアイデアを開催したいとMP隊長に相談したら、柵外の彼等のテントを一つ貸してくれた。ひまのある連中は思い思いに作品を展示してMP達をびっくりさせた。レーションのボール箱で山原船の模型を精巧に作り、そのバンドで鋏、小刀、剃刀を仕上げ、切紙細工で美事な風景画、木の彫刻、彫刻したパイプ、落下傘の布地に金城安太郎氏の琉球美人画が描かれたもの、例のカンカン三味線などもいろいろと出品された。それに金賞、銀賞、銅賞と順位を付け賞品は相変わらずKレーションであった。

 

MPの要望で、宮城嗣吉氏が空手を披露紹介して深い感銘を与えたとともあった。三味線が出来てから演芸の気運も盛り上がり、日本側と競演することになった。舞台も作り、衣装から小道具までちゃんと作り上げてあった。

 

衣装は落下傘の白布地やガーゼを染め上げて見事な出来ばえだった。何でも京都西陣の染もの屋がいて、染料に赤はマーキュロー、黄はアテブリン、その他草木から作ったもので染めたと聞いた。縫い上げも立派なものだった。私も「かじゃで風」を踊り、例の「PW無情」「屋嘉の数え歌」も発表されたと記憶する。演芸会は大盛会で将校も下士官も兵も全員が一つに溶け合って、素晴らしい雰囲気をかもし、生きた喜びを味わっているように感じられた。

 

収容所生活中の出来事とは相前後するが、九月中旬と十月初旬に大暴風があった。沖縄全土が大変だったと思うが、我々は広っぱにテント張りで避難する所もなく、テントが吹き飛ばないように懸命にくるまっているのがせいぜいだった。十月の暴風は大きく、米軍のコンセットも壊れ、金武湾に来ていた米軍水上機が沢山破損しているのが見られた。遅かりし〝神風と恨めしく思われたものである。

 

BackHome

私の点呼日誌を見ると、収容所から病院送りとなったものが総員で二百二十四人となっている。入院前に死亡したのが二人とあるが氏名、出身地が書いてないのは残念なことである。病院から帰って来たのが百六十八人で、差引き五十六人は病院に入ったままでその後の消息は不明である。

 

一度知花の野戦病院に入院させたPW達の様子を調べに行ったことがあるが、はからずも池宮城秀意氏が入院されているのに出逢った。元気ではあったが足の自由がきかず歩けないとのことだった。

 

それから暫く後のことだったと思う。当間重民氏がトラックで収容所に連れて来られた。随分衰弱して危険な状態であることは素人の私にも判るほどだった。一緒について来た人は私の先輩、嘉数詠文氏であったが、南部の壕でずっと一緒だったそうである。MP隊長らも当間氏の重態を認め、トラックから降すことなく知花の野戦病院に転送された。

 

収容所内の将校舎には、与那原部隊以来随分世話になった親友の志新太郎君が真部山で左手の指を吹っ飛ばされはしたが、幸いに生き抜いて来ていた。彼が入って来た時は涙が出るほど嬉しかった。西銘生一郎氏もいた。

 

将校の彼らが収容所から本土へ送り帰されたのは、私達が解放されるよりも先であった(彼には熊本に疎開していた妻子へ便りを託したら届けてくれてあった)。せめてもの土産に、レーションの中味だけを携帯袋につめて上げた。日本中が敗戦で食糧難に喘いでいるだろうと思ったからだった。

 

こんなこともあった。慶良間から来た日本兵が、自分達の将校をリンチした事件があった。何でも部下や住民にむごいことをして来た人だと聞いた。

 

捕虜解放で徹夜の名簿作成

十月中旬、MP隊長から「解放するから全員の名を十二部出して貰いたいが何時出来るか」といわれた。私は独断で明日と答えた。名簿は氏名、出身地、階級、行く先(引受人氏名)、年齢をローマ字と漢字で併記、アルファベット順に作るようにと指示された。早速紙と鉛筆、ローソクを要求し、各中隊の幹部を集め、そのことを伝え作成方法を指示し、直ちに作成にとりかかった。皆が解放を一日千秋の思いで待っていただけに張り切って精を出してくれた。千六百人余の名簿十二部を作るのに皆が徹夜して頑張り、遂に夜明けまでに完成した。朝の点呼に十二冊を提出したら、MPはよもや出来るとは思わなかったのだろう、驚きと感の声を発し褒めてくれた。

 

このことは沖縄人の面目をほどこした大仕事で、彼等の信頼を大きくかち得た。信頼の現われは、こんなことにも示された。彼等が帰国の際、お土産にしたいので日本の軍刀や銃などを探しに行きたいから、一緒に行ってくれないかといわれ、ついて行ったことが二、三回ある。久志の山奥から有銘部落、文仁の海岸を探し回った。その時も完全に単独行動で監視なし、絶対信頼をされていると痛感し、その信頼を裏切ることは出来なかった。

沖縄人捕虜の一部解放

十二冊の名簿は各住民保護地区に送られた。その名簿によって引受人から申し出のあった者は解放されることになり、第一陣が10月25日28人解放された。日誌には「BackHome」と記されている。10月31日までに443人が家族、知人の許へ帰っている。10月28日にハワイから帰って来た者が1,069人収容されている。11月1日から私が解放された11月17日までには殆ど解放され、130人が残っていた。彼等は離島出身者が殆どであった。


私が出るに当って後を山城安次郎氏(現沖縄テレビ社長)に引き継ぎ、石川市へ出ることになった。私の引受人は志喜屋孝信先生と崎浜秀主氏になっていただいていたことが石川市に行ってからわかった。

 

「屋嘉節」が出来る

確か九月ごろと思うが、例の「PW無情」は金城守堅氏が作詞して私の所へ添削を頼みに来た。指揮班には先輩の新城朝保氏(当時名護警察署長)も相談役としていたので三人で話し合い次の歌詞に決めた。

 

「PW無情」(屋嘉節)
一、うらみしゃや沖縄 戦場(いくさば)にさらち
世間うまん人(ちゅ)の 袖よぬらち 浮世無情 (うちゆむぞう) なむん

二、涙ので登る 恩納山奥に
うまん人共に戦しのじ 浮世無情なむん

 

三、勝戦願がて 山ぐまいさしが
なまやとらわりて屋嘉に立ちゅさ あわりなむん