山田有昻「屋嘉収容所」~ 那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時戦後体験記・戦後編』(1981)

 

山田有昻さん

県庁職員、召集され伊江島の戦争を経験した山田さん。捕虜になった後も英語で米兵との間にたち人々を支えた。

残された当時のメモ。貴重すぎる。

 山田有昂さんが屋嘉捕虜収容所内で記したメモ(左)作業の分担などを決めた組織図(右)上のページが「うらみしゃや沖縄 戦場にさらち」で始まる「PW無情」の歌詞

 

手記や有彦さんによると、有昂さんは伊江島の守備隊に配属され、45年4月21日、守備隊が全滅した激戦を体験した。隊全滅後も銃撃や手りゅう弾、ガス弾などの米軍の攻撃から逃げ惑い、一人また一人と仲間を失った。島からの脱出を何度も試みるも失敗し、5月21日に米軍の捕虜となった。

 嘉手納の収容所を経て6月中旬、屋嘉に移され、11月17日の解放までを過ごした。捕虜は沖縄人、日本人、朝鮮人と3組に分けられ、有昂さんは沖縄人捕虜隊長を任された。

 メモ帳は米軍が配ったKレーション(携帯食料)の紙箱を表紙に使った手製で、2冊ある。捕虜の出入所数や作業分担の組織図を記録した。戦争のむなしさや捕虜生活の悲しさに触れ、戦後沖縄で愛された歌「PW無情」の歌詞もつづられている。捕虜仲間だった金城守堅さんの詞を基に、有昂さんらが補作したという。 

つらい捕虜生活 克明に 屋嘉収容所・元捕虜隊長山田さん メモと手記 遺族、金武町教委に寄贈 - 琉球新報

 

山田有昻「屋嘉捕虜収容所」

那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時戦後体験記・戦後編』(1981) から抜粋

 

伊江島の井川隊、捕虜になる

昭和十五年七月、私は沖縄県庁から警視庁へ出向を命ぜられ、警視庁属として亀戸健康保険出張所を経て、向島出張所勤務中に召集令状を受け、昭和十八年十一月下旬、沖縄中城湾要塞司令部歩兵隊に入隊した。三十五、六歳の老初年兵も何とか教育を終え、検閲がすむと二ツ星になった。

 

この歩兵隊は一個中隊で、中隊長は平良真太郎中尉(那覇市垣花出身)であった。その他隊の幹部には志垣新太郎中尉那覇市久茂地出身で二中時代からの親友)石原文二中尉(那覇市泉崎出身で二中の同級生石原文雄氏の弟)、橋本勇二少尉(東京都出身)、浜田光政准尉(鹿児島県出身)、藤元曹長(鹿児島県出身)、真栄城玄松曹長(北谷村出身)らがいた。

 

我々は幾度か編成替えが行なわれ、私は名護で独立混成旅団鈴木少将麾下宇土部隊井川隊平良隊(中隊長・平良真太郎中尉)に配属された。昭和十九年十月十日の空襲時には、崎本部小学校に駐屯していた。その夜から後方の山に陣地構築が始まり、十二月一日には荒天を突いて伊江島へ移駐することになった。我々の任務は、伊江島飛行場の守備で、他に飛行場大隊田村隊と防衛隊で約二千名がそれに当たった。

 

昭和二十年一月二十二日が伊江島最初の本格的な空襲で、三月になってからもあり、その後艦船の進攻で本島とともに伊江島もとりまかれて艦砲射撃も始まり、空襲も更にひどくなった。

 

四月一日の本島上陸、四月十六日払暁の伊江島上陸により、我々は四月二十一日まで死闘を続け、遂に守備隊は全滅となった。その日から本島への脱出を計画したが、ドラム罐筏の失敗、くり舟奪取失敗、最後の頼みとする孟宗竹筏の失敗で万事休す。まる一ヵ月の逃避行を断念し、苦労をともにした八人の同志と相談して米軍に投降することに決めた。その直後一青年を仲間に加え計九人で投降すべく急ごしらえの白旗を掲げ、米兵のいる所へ行った。

 

リーダー格になっていた私は、覚えているだけの英単語を並べ、ブロークンイングリッシュで我々の意思を何とか訴えた。まさか十六、七年前に習った英語が役に立つとは予想だにしなかった。既に連絡してあったらしく一台の(積)トラックにMPの腕章を付けた二人の米兵が乗って来た。

 

直ぐに彼等に引き渡され、トラックに乗せられた。一人は助手台に、一人は我々と一緒に後部に乗り、監視されつつそこを出発した。我々と同乗したMPは何となく物やさしく、取り扱いも親切で人相もよく、先程この米兵とは比較にならない人柄を感じ気に入った。それですっかり安心し、また変な英語で「Have you cigarette」といって見た。奴さんびっくりして袋のまま煙草を出してくれた。皆に一本ずつ渡し、私は貰わずに彼に返した。君はといって差し出したので「No,Thankyou」というと笑って引っ込めた。実は私も吸いたかったが、我慢して日本人の「武士は食わねど」といった気持ちを示したかった。


彼は私の片言英語に喜んでいろいろと話しかけてくる。そうなるとサッパリ駄目である。ところが話の中で彼が日の丸の旗を欲しがっていることがわかった。しかしあいにく何も持っていないのでその旨答えた。

伊江島の捕虜収容所

そのうち村民達が収容保護されていると聞いていた西崎部落の近くへ来た。話の通り多くの村民が収容されキャンプを営んでいた。我々が来るのを見て、ガヤガヤしながら多くの人が囲いの金網に顔を寄せて来た。中には手を振りながら大声で呼んでいるのもいた。しかし我々は捕虜になったことが何となく恥ずかしく、うつむき、出来るだけ顔を見られないようにしながらその場を通り過ぎた。

 

そこを少し行くと収容所の事務所があった。捕虜の取扱いもそこでしていた。事務所の北側に金網囲いがあり、大きな幕舎が二棟建てられてあって、これが軍隊関係捕虜の収容所だった。そこに入る前に色々取り調べがあった。調べは日系二世の米兵が当たり一人一人日本語で調べられた。

 

調べが終るまでは仮の金網囲いで待たされていたが、先程のMPが私の面白い英語を彼の同僚に話したのか、人気者にして仕舞った。米兵がかわるがわる来て英語のテストをして喜んでいる。ABCを読めとか、自分の名を書いて来て読ませるとかして褒美に煙草をくれた。

 

取り調べで一番先に聞いたことは「どうして将校の幕舎を知っていたか」ということで、私には何のことだかわからなかった。良く聞いて見ると、私が初めに呼び止めて英語で話した人が将校だったとのことだった。一応の調べがすんで収容所に連れて行かれたが、そこには既に先客三十四人がいた。しかもその中で班長格を務めているのがペルー帰りの戦友玉城君だった。

 

我々九人の新参を加え総員四十三人になった。これで完全な米軍捕虜「PW」として登録された。それは最後の攻撃の日から一ヵ月目の昭和二十年五月二十一日の夕食時前のことであった。

 

初めての食事に期待をしていたら米兵がすんでからその後に並び、同じものを当番兵が配ってくれる。米兵にはメス・キットという幾つかに区切られた平べったいお盆のようなものに品別に入れるが、我々のは空罐を利用し、一緒くたに混ぜてもらうのであった。どうせ腹の中では一緒になるからと思えばありがたく、米軍はおいしいものを食べているなと、物資の豊かさに今更ながら驚いた。

特攻機が収容所付近を爆撃

五月二十二日か、三日の夜、日本の特攻機が数機攻撃して爆弾を何回繰り返し投下して行った。機銃掃射も繰り返されたが、米兵は殆ど防空壕か空墓へ逃げ込み、我々には幕舎から出るな、というだけだった。幸いにして我々の所には何の被害もなかったが、友軍の弾にやられるのかなと変な不安にかられた夜だった。

 

翌朝食事がすむと作業だといってかり出された。二十人位が作業の穴掘りについた。穴は長方形のもので埋葬のためのものらしく十二、三個掘った。何でも昨夜の空襲で戦死者が出たとのことだった。私は穴掘りをせず、皆への伝達係で米兵の指示を伝えるだけだったが、それは投降の際の片言英語のお蔭だった。

伊江島住民の移送

伊江島の民間人は慶良間諸島

五月二十四日頃と記憶するが、伊江島の住民が全員慶良間(渡嘉敷島)へ移動させられた。戦火をくぐりやっと生き延びた村人達が、自分達の島を追われ、どんな所か知らない他島へ移される哀れな姿を見た。それはかつて見た映画の「ノアの方舟」を思い出させる光景だった。砂浜にのし上げた巨大で不格好なLSTが大きな船首の口を開け約三千の村人を呑んで行く、老人も子供も男も女も、殆どが身の回りの包みを抱え、生き残った山羊などの家畜を引っ張りながら必死で船に乗り込んで行った。

捕虜収容所へ

軍人・軍属は屋嘉収容所へ

一日は学校用地の作業にも行った。運動場の爆弾跡の整地だったが、校門前に米軍戦車が二台爆破されてあった。それは私の直属上官浜田准尉の宿舎当番や身の回りの世話をしていた女性が、准尉や中隊長の戦死を聞いて弔い合戦に、同僚と戦車攻撃に挺身自爆した戦果と聞いた。それは確か伊江島の人達が渡嘉敷島へ移された翌日だった。我々捕虜も伊江島から移されることになった。

 

LSTの船倉に入れられた四十人余のものは行く先も判らず、うす暗い中で不安にかられながらスクリューのシャフト回転を見つめていた。時間のたつのを計って遠くへ連れられて行くのか、近くであるのか判断しようとしていたら案外早く回転速度が遅くなり、やがてガガガッと船底を擦る音がして停止した。沖縄本島のどこかだと直感しホッとした。

日本、沖縄、朝鮮人を区別 (嘉手納捕虜収容所)

降ろされたところは砂辺の浜だった。米軍が沖縄への上陸作戦を敢行したところである。野国辺りの壊された部落跡を過ぎ、県道近くに収容所が出来ていて七百人位の捕虜が収容されていた。収容所では日本人、沖縄人、朝鮮人と区別して取扱っていたが日本人、沖縄人と差別することにはいささか抵抗を感じた。しかし米兵の我々に対する感情は我々が考えていることとは大分違っているようであった。沖縄は琉球で、日本とは別のように認識していると思われた。そのために日本兵にはジャツプと馬鹿にした呼び方をするが、我々には「オキナワン」と正しく呼び同情的であるように思われた(注・これから文章の中に出てくる他府県人については「他府県人」と書きたいが、米兵が呼んでいたように「日本人」と書くことにする)。

海軍記念日特攻機が夜襲

収容所の幕舎は日本人、沖縄人、朝鮮人別になっていて、総隊長には英語の話せる朝鮮人が任命されていばっていた。収容所の金網は県道に接し、トラックで南部や首里方面に出撃する米兵は、我々に向って大きな声で「トゥジョウイーセイ」と罵声を浴びせて行く。後でその意味は「東条糞くらえ」ということだと聞いた。収容所はちょうど滑走路の直下に当り、爆撃機の米兵が手を振って出撃するのを見た。米兵の捕虜に対する取扱いは朝鮮人に対しては一番好意的で次に沖縄人、日本人に対しては露骨に「ジャップ」「ジャップ」と敵意を見せていた。

6月10日頃、第一次ハワイ移送 - 180人の沖縄人捕虜

五月二十七日の海軍記念日は、何か起りはしないかと思っていたら案の定、特攻機の夜襲があって、読谷飛行場方向に照明弾が上り爆発音が聞こえ、高射砲が吠えていた。その頃から捕虜は数を増して収容所の狭さを感じて来た。そのためか沖縄人を百八十人ハワイへ送ると人選があった。私は洩れた方だが、決められた者の中から五人逃亡者が出て沖縄人全員約三百人がひどい目に逢った。一張の大テントに押し込められ、一歩でもテント外へ出ることを禁じ、用便も空罐を持ち込んで始末する有様で二日位続いた。逃亡者の内二人が射殺され、変りはてた姿でジープのトレーラーで運ばれて来た。沖縄人代表三、四人が呼び出されてそれを見せられ、逃亡したらこの姿になるぞと警告された。死亡した人は伊江島出身で内間、玉城という人で、渡慶次という人は生死不明、知念仲井間という人は逃亡に成功したと聞いた。選ばれた連中は六月十日頃ハワイへ出港したらしい。

6月中旬、設営中の屋嘉収容所に移される

二重の有刺鉄線を張りめぐらされた屋嘉捕虜収容所。ここでは本土、沖縄、朝鮮人と区別して収容されていた。写真左端の有刺鉄線外側には警備の戦車が配備されている。(1945年6月下旬ごろ)

 

同じ頃狭さを感じていた収容所は移動することになった。手荷物といっても配られた個人用野戦テントとレーション位で、トラックにサッと分乗させられ、収容所を出発したが、通る道々は余りにも変貌し、何処を通っているか見当がつかなかった。やっと石川を過ぎるとき金武方向へ進んでいることが判った。

 

行き着いた所は屋嘉の部落で収容所は設営中で、海岸沿いが半分有刺鉄線で囲われて、山沿いの方は美しい福木の並木や囲いもあり、家も点在していたが、全部ブルドーザーで敷きならし障害物のない砂原にしてしまった。

 

移動した日はテント張りもせず砂の上に寝た。ふと目を覚すと丘のあった方向に月が出ていて丘が無くなっていた。夜が明けてから確めて見ると、やはり丘がけずり取られ道が開けられていた。ブルドーザーの威力を今更ながら見せ付けられた。

 

六月中旬からはどんどん収容者が増えて来た。殆どが南部戦線からの人達である。
屋嘉に移る前から沖縄兵、日本兵朝鮮人と編成され、我々は二個中隊を編成した。一中隊は屋宜君(恩納出身)二中隊は私が隊長になって世話を見ていた。

6月27日頃、第二次ハワイ移送 - 1,500名

捕虜受け入れに逼迫する収容所。

南部からの受け入れは日増しに多くなり、六月二十日頃には沖縄の人だけで千六百名を越すようになった。そこでまたハワイ送りの千五百名が決定した。私も行く積りで数の中に入っていたら、係りの米兵に止められてしまい、屋宜君が行くことになった。その頃は島尻南部に攻め立てられた友軍が最後の抵抗をしている時で、そこから送られて来る捕虜は負傷したものも多く、また丸裸に等しいもの、ボロボロに汚れた姿のもの総べてのものが疲れ切っていた。


負傷した傷口からは蛆がわいて出るのもいるし、中には破傷風の症状が出ているのもいた。毎日行う朝夕の点呼には全員並べられ全捕虜を数え終るまで立たされるので負傷者や病人で点呼中に死亡するのも何人か出た。


沖縄戦の終った頃は、収容所は未完成の上に送られてくる捕虜は多く、沖縄出身、他府県出身もゴッチャ混ぜで、受け入れするだけが精一杯で、受け入れたら入り口で米兵と共にDDTを頭から振りかけ、服を支給して出身別に各隊へ配置した。支給された服は米軍のお古だが、殆どがダブダブで、それに上衣とズボンの前と後にPWと大書したものであった。PWは(PrisonerofWar)の略である。

 

先に選ばれた千五百人のハワイ行きは六月二十七日に出発したそうである。

7月中旬、第三次ハワイ移送 - 1,600名

沖縄戦終結後は、収容所に送られて来るのが更に大幅に増え、七月の初め頃には六、七千人になっていただろう。その中からまた沖縄出身者の第三次ハワイ送りが選ばれた。その時、県出身者は千六百人位で、残った者は受け入れ準備の者と負傷者、病人だけだった。

 

指揮班本部の編成で秩序確立

第三次のハワイ行きは七月中旬頃発ったそうで、その中には崎浜秀雄君、嘉陽安男君らがいた。第三次を送り出してからは、これまでの一カ月余に亘る収容所生活で受け入れから朝夕の点呼、昼中の作業割当てなど要領を得たので、受け入れ準備と配置編成の強化を考えた。まず指揮班本部を作り次のような編成をしておいた。

各班の内は班長の人数各班には班長を置いた。その下に中隊を編成して人員を二百五十人とし、五個小隊にした。各隊長、班長は陸海軍の下士官以上か旧制中学校卒業以上のものを当てることにした。一個小隊を五十人としたのは点呼のとき数え易いようにするためで、係の米兵(MP)の中には計算の出来ないのがいて困らされることがあったのでそのようにした。


伊江島からのブロークン英語のお蔭で私が総隊長になり、副官(副隊長)は青木一夫(本名城間辰蔵氏)と当真嗣英君、通訳野崎真一氏、神谷氏、安里氏が私を補佐してくれた。請求班長に上間清栄氏(後中部病院医業課長)と与儀朝清氏、配給班長神山氏、炊事班長宮城氏、作業班長森田孟睦氏(睦建設社長)と金城氏(後沖縄工高教諭)、衛生班長渡久地政仁氏(後県会議員)と糸数氏であった。特設班には特に意を使った。それは死線を越えてきたさまざまな人達の気持ちをどうセーブしつつ共同生活を和やかにさせて行くかということであった。中には自棄になって暴力を振い乱暴する者、決めたことに従わず秩序を乱す者などいろいろと問題が起ったので、時には腕力を必要とすることもあった。

 

そんな中で秩序を保ち和やかな気持ちで、楽しく暮すためにスポーツや娯楽を考え、仲間喧嘩などのないよう巡視し、指導面に心を配ることに重点をおいた。その主班長には岸本幸宏氏(後琉大教授)になって貰い、補佐班長に宮城嗣吉氏(現・沖映社長)、堀川徳栄氏(現・沖縄トヨタ副社長)、桑江氏が当たり一応態勢を整えた。

7月14日時点での屋嘉収容所

厳重な監視の中の捕虜収容所

七月十四日以降については、私の手許に当時、毎朝の点呼をとった記録があるので収容者の出入りは判然としている。第三次のハワイ送り出しの時百人位だったのが、七月十四日は六百三十九人になっていてその日の夕方は六百六十三人に増している。入所者の送られた先の地名や人数、出て行った者の送り先、病院とか、日本兵柵内に移された者等が記されてある。日本兵が沖縄出身と偽り、それがばれて移されるものが随分いた。逆に沖縄出身で日本兵だと偽り本土へ送られることを期待して日本兵柵内にもぐり込んでいるのもいた。


福山朝計君(福山商事社長)のように、日本兵と決めつけられたのに対し、自分は沖縄出身だと頑張り、遂に私が面接、テストをして判定を下すようなこともあった。朝計君は県立二中を卒業してから満洲に行き、そこで軍隊に入隊、転進して伊江島の飛行場大隊田村隊の下士官として来ていたらしく、長いこと方言を使わなかったのが間違われた原因だった。

 

会ってみると彼が小学校生の時野球が好きで二中のグラウンドで球ひろいなどして遊んでいたことや、二中入学後野球選手になったことなどを思い出し、彼を我々の所へ引き取った。

 

収容所がほぼ完成したのは七月中旬以降で元の屋嘉部落全体が敷きならされて平坦な砂原となり、そこを二重に有刺鉄線で囲み、その間に丸く巻かれた有刺鉄線が幾重にも置かれ逃げられないようにしてあり、周囲には監視哨のが六、七ヵ所設けられてあった。夜になればサーチライトが輝き、四六時中監視は厳重であった。

 

棚への出入口は北寄りに一個所で通路の中央に検問所がありMPが立哨していた。柵内は中央に十位の通路があり、その両側を八カ所に区切り、計十六区に仕切られてあったと記憶している。入口から右側一番柵が診療所で、歯科医の平良進氏が皆の面倒を見てくれていた。二番柵には朝鮮人がいた。三番目から五番目までは沖縄の柵で、六、七、八は日本兵に割り当てられていた。

 

左側一番目が送られて来た捕虜の受け入れ区分とか取調べをするところで、二番目が将校用で、三番目は何か共同で使用する場所にしてあり、米飯の炊事場にも使った記憶がある。四番から八番まで総て日本兵用であった。随分経ってから奥の突き当りに水浴場も設けられた。

収容所のレーション

チーズやバターを食べて下痢

MPの事務所や詰め所、宿舎は、収容所の外側入口に近い方にあり、小川が外濠の感じで流れているところにあった。その近くに食糧や物資の幕舎もあった。収容所が屋嘉へ移ってすぐの作業は自分の幕舎を立てることから始まり、捨て穴掘り、溝掘りなどで、便所は米兵が先に作ってあった。一杯になるとそのまま埋め、新しい穴を掘って作る、それは我々の仕事であった。便所は腰かけ式で一列に並び、背中合わせに両方から出来るようになっていた。

 

材料の板はクレゾールが茶黒く踏み込んでいて衛生的だと感じた。腰かけ式は馴れないものだから上にあがって用を済ませるのが随分いたが、MPに怒られて次第に馴れた。DDTを浴びてもシラミが生きていて、褌やパンツの縫目にくっつき、なかなか退治が難しかった。そこで煮沸を考えつき、空罐にシラミの付いているものを入れ焼穴を釣堀りのように取り囲んでの太公望然はユーモラスな光景だった。

 

食べ物もろくにとらないで入って来た多くの者は、配給のレーションでは満腹感がせず、全部食べた上に他人から貰って補っていた。殆どが食べ馴れないチーズ、パターを残していたので、それを貰って食べるので下痢をおこすのが多かった。次第にレーションに馴れると残すようになった。カロリーからすれば米兵の軍事行動に耐えられるだけの熱量はあるのだから当然で、もって来た。

 

レーションにはKとCがあって殆どがKレーションで、たまにCレーションが配られた。Cのことを将校用とか海軍用とかいっていて上質の方だった。朝、昼、晩、内容は異っていて栄養面のバランスも考慮されているのには、つくづく持てる国の様を見せつけられるようだった。作業は収容所内のものと、外へ出るのがあった。外というと米軍の駐留地に行って清掃作業が主だったらしく、その他雑用をして、帰りはレーション一個余分に貰い、途中で芋の葉などを土産に採って来て、夕食のお汁の中味にしていた。外部作業は地方人(一般住民のことで各保護地区からいろいろの作業に男女が来ていた)に会えることで身内や知人の消息を知り、また伝えることが一番の楽しみで、次に緑の野菜代用品を土産に持ち帰ることであった。

宮城嗣吉の武勇伝はたくさんある

複雑な心境の敗戦の日

外部作業を楽しみにしているが、作業に出るのは毎日でなく、日本兵と交互に出るのが普通だった。ところがある日、両方から出ることになった。沖縄側が出口に並んだら、日本側の作業に当方が割り込んだと思ったのだろう、体軀の大きな男が出て来て、文句をいいながら押し返そうとして争いになりかけた。そこへ宮城嗣吉、堀川徳栄、森田孟陸の諸氏が静めに入った。ところが例の男は身体の小さい宮城氏をあなどり、なぐりかかって来た。日本兵の中には沖縄人を軽蔑する態度を示すのがいた。その男もそんな風に、先に手を出した。宮城氏も仕方なく殴り返して喧嘩となり、双方が騒然として、加勢に出ようとした。森田、堀川両氏が割って中に入り、「これは二人だけの問題だ」と加勢しようとするものを押し返して二人だけで争わせた。この争いは当然宮城氏に軍配が揚がり、相手に詫びさせ、ことはおさまった。このことがあってから沖縄の空手の威力を認識するようになりおとなしい態度を示すようになった。

戦闘疲労症、脱走者の射殺、敗残兵の襲撃

収容されたものの中には精神異常者と認められるのが二十人近くもいた。うつ症、分裂症、精、てんかん神経症といろいろのものがいて、症状も重症、軽症さまざまで発作的に暴力をふるう危険な者もいたし、からかわれ、いたずらされる気の毒なものもいた。いずれにしても集団の共同生活には適合しない人達だった。それで柵内に別の柵を囲って保護することにした。その世話を引き受けてくれたのが久手堅憲栄氏(現・阪急繊維KK専務)であった。砲爆撃下に晒された精神的ショックによる症状のものが最も多かったような気がした。落ち着くにつれ精神の安定をとりもどし、快癒したのが相当いた。

収容所生活の中で秩序を乱したり、喧嘩、暴力など振った者には時にはMPから重労働の罰が課された。罰法は砂地に一定の穴を掘らせるととであった。決められた深さの穴を掘らせることであったが、その深さに近くなると周囲の砂が崩れ浅くなる、それをまた掘らなければいけないという風な罰であったが、沖縄側では一人か二人位が適用された。収容所脱出を図って失敗した事件が二回程あった。一回は施設が整備しない頃で、逃げようとしたのも精神病者で、丸裸で有刺鉄線を中途までくぐりぬけていたが早く発見され、傷も負わず、銃撃もされずに無事引きもどされた。二回目は夜中、内囲いと外囲いの間の輪状有刺鉄線までくぐった時監視兵に発見され、楼上からのサーチライトに照し出され射殺された。その時のそれ弾が幕舎内に寝ていた者の大腿部を貫通し病院へ移送されるという事故があった。

こんなこともあった。八月上旬の夜中のことと記憶するが、収容所山寄りの南側で突如、銃声が起り襲撃かと思った。米兵は直ぐその方向へ集結された。ところが別に攻撃は続かなかった。そのかわり北側の倉庫に当てられているテントが襲われた。それは友軍の兵隊が恩納岳から下りて来て誘導作戦を展開して戦果を挙げたらしいとのことだった。

朝鮮人に親切だった米兵

収容所内における米兵の我々捕虜に対する処遇態度は、朝鮮人に対しては何となく特別扱いの感がするほど親切で、次は我々沖縄人に対しても親切で、何かと我々の要求も受け入れてくれた。例えば米飯が欲しいといったら米を配給してくれたし、炊事道具と炊事場の設備までしてくれた。米兵から人気のなかったのは日本兵で、敵国意識が強く何かとその態度が現われていた。沖縄側に対する米兵の考え方は、琉球は明治になって日本に屈従させられたものと理解しているらしかった。それで我々に同情しての取り扱いと受けとれた。私の点呼日誌は七月十四日から記されているが、八月十五日終戦の日には千百十五人になっている。敗戦と知ったその日の心境は複雑なもので、戦争が終ったという安ど感と、敗れた悔しさ、屈辱感、張りつめていた気持ちからの虚脱、しかも隣柵の朝鮮人の戦勝祝いに等しい鳴り物入りのお祭りさわぎ、たとえようのない気持ちで静まりかえっていた。我々の気持ちと他府県の人達の気持ちは同じだったと思った。敗戦の衝撃は大きかったが、一応みんな冷静な態度で受けとめて表面的には平静だった。

 

私は毎日の点呼時に一応の注意を話していた。捕虜になったからといって自暴自棄にならないように、作業に出ても収容所内でも「沖縄人は」と蔑まれる行動をしないように、沖縄人として毅然たる態度を忘れないようにして貰いたいと強調していた。皆よく理解してくれた。お蔭で収容所々長のMP将校、下士官から信頼を受け、処遇も良くしてくれた。

 

例えばPWは、一切の凶器となるものを収容所内に持ち込むことは禁じられていて、安全剃刀の刃でも駄目だった。ところが私に毎朝ひげを剃るようにと折たたみの剃刀を持って来て貸してくれた。暫くは済むと持ち帰っていたが、いつしかそのまま私の手許に置いたっきりにしてくれた。お蔭で他の連中もひげが当てられるようになった。

屋嘉収容所の演芸会

 

遅かった「神風」

沖縄戦終結直後の頃と思う。宮城嗣吉、森田孟睦、堀川徳栄の諸氏が小禄の海軍を中心に、住民の救出作戦に身を挺して活躍し、住民と兵を多数救出してくれたことがあった。救出に出かけるとき、宮城氏が私の帽子を借りて行ったが、帰りは紛失してしまっていた。理由を聞いた「壕に入りかけた時、中から手榴弾を投げられ、爆風で吹っ飛んでしまいましたよ」と笑って話していた。幸いに怪我もせず、多くの人命を救出してくれたとその勇気に感心したものである。


終戦と決まってからは、日が経つにつれて皆の気持ちも和やかになり毎日の生活も明るくなって来た。外部作業の往き帰りにも次第に家族や知人の消息が判るようになり、多くの希望が湧いて来た。

 

解放されるまでの収容所生活を楽しくするためにいろいろのことが考え出された。無より有を生み出すいろいろな細工、まず空きカン三味線だ。さおを折たたみ寝台の木で仕上げ、落下傘の紐で絃をつけた。またKレーションのバンドで小刀、鋏、剃刀を作ったり、水筒にレーションの中の干果物を発酵させて酒を作ったりしていた。

 

スポーツは相撲を堀川氏が少年や青年に指導してくれた。そして時々大会を催し賞品にレーションを出した。バレーボールの沖縄対日本の試合は、常に沖縄の勝ちであった。わがチームには、学生時代から明治神宮の大会に出場した体験者の城間辰蔵氏らがいたから、MPチームでも歯が立たなかった。野球はグランドが狭く、試合らしいのは出来なかったが、キャッチボールなどをした。

演芸会で生き延びた喜び味わう

廃物利用のアイデアを開催したいとMP隊長に相談したら、柵外の彼等のテントを一つ貸してくれた。ひまのある連中は思い思いに作品を展示してMP達をびっくりさせた。レーションのボール箱で山原船の模型を精巧に作り、そのバンドで鋏、小刀、剃刀を仕上げ、切紙細工で美事な風景画、木の彫刻、彫刻したパイプ、落下傘の布地に金城安太郎氏の琉球美人画が描かれたもの、例のカンカン三味線などもいろいろと出品された。それに金賞、銀賞、銅賞と順位を付け賞品は相変わらずKレーションであった。

 

MPの要望で、宮城嗣吉氏が空手を披露紹介して深い感銘を与えたとともあった。三味線が出来てから演芸の気運も盛り上がり、日本側と競演することになった。舞台も作り、衣装から小道具までちゃんと作り上げてあった。

 

衣装は落下傘の白布地やガーゼを染め上げて見事な出来ばえだった。何でも京都西陣の染もの屋がいて、染料に赤はマーキュロー、黄はアテブリン、その他草木から作ったもので染めたと聞いた。縫い上げも立派なものだった。私も「かじゃで風」を踊り、例の「PW無情」「屋嘉の数え歌」も発表されたと記憶する。演芸会は大盛会で将校も下士官も兵も全員が一つに溶け合って、素晴らしい雰囲気をかもし、生きた喜びを味わっているように感じられた。

 

収容所生活中の出来事とは相前後するが、九月中旬と十月初旬に大暴風があった。沖縄全土が大変だったと思うが、我々は広っぱにテント張りで避難する所もなく、テントが吹き飛ばないように懸命にくるまっているのがせいぜいだった。十月の暴風は大きく、米軍のコンセットも壊れ、金武湾に来ていた米軍水上機が沢山破損しているのが見られた。遅かりし〝神風と恨めしく思われたものである。

 

病院と収容所

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私の点呼日誌を見ると、収容所から病院送りとなったものが総員で二百二十四人となっている。入院前に死亡したのが二人とあるが氏名、出身地が書いてないのは残念なことである。病院から帰って来たのが百六十八人で、差引き五十六人は病院に入ったままでその後の消息は不明である。

 

一度知花の野戦病院に入院させたPW達の様子を調べに行ったことがあるが、はからずも池宮城秀意氏が入院されているのに出逢った。元気ではあったが足の自由がきかず歩けないとのことだった。

 

それから暫く後のことだったと思う。当間重民氏がトラックで収容所に連れて来られた。随分衰弱して危険な状態であることは素人の私にも判るほどだった。一緒について来た人は私の先輩、嘉数詠文氏であったが、南部の壕でずっと一緒だったそうである。MP隊長らも当間氏の重態を認め、トラックから降すことなく知花の野戦病院に転送された。

早い復員 収容所内の将校舎

収容所内の将校舎には、与那原部隊以来随分世話になった親友の志新太郎君が真部山で左手の指を吹っ飛ばされはしたが、幸いに生き抜いて来ていた。彼が入って来た時は涙が出るほど嬉しかった。西銘生一郎氏もいた。

 

将校の彼らが収容所から本土へ送り帰されたのは、私達が解放されるよりも先であった(彼には熊本に疎開していた妻子へ便りを託したら届けてくれてあった)。せめてもの土産に、レーションの中味だけを携帯袋につめて上げた。日本中が敗戦で食糧難に喘いでいるだろうと思ったからだった。

 

こんなこともあった。慶良間から来た日本兵が、自分達の将校をリンチした事件があった。何でも部下や住民にむごいことをして来た人だと聞いた。

 

捕虜解放で徹夜の名簿作成

十月中旬、MP隊長から「解放するから全員の名を十二部出して貰いたいが何時出来るか」といわれた。私は独断で明日と答えた。名簿は氏名、出身地、階級、行く先(引受人氏名)、年齢をローマ字と漢字で併記、アルファベット順に作るようにと指示された。早速紙と鉛筆、ローソクを要求し、各中隊の幹部を集め、そのことを伝え作成方法を指示し、直ちに作成にとりかかった。皆が解放を一日千秋の思いで待っていただけに張り切って精を出してくれた。千六百人余の名簿十二部を作るのに皆が徹夜して頑張り、遂に夜明けまでに完成した。朝の点呼に十二冊を提出したら、MPはよもや出来るとは思わなかったのだろう、驚きと感の声を発し褒めてくれた。

 

このことは沖縄人の面目をほどこした大仕事で、彼等の信頼を大きくかち得た。信頼の現われは、こんなことにも示された。彼等が帰国の際、お土産にしたいので日本の軍刀や銃などを探しに行きたいから、一緒に行ってくれないかといわれ、ついて行ったことが二、三回ある。久志の山奥から有銘部落、文仁の海岸を探し回った。その時も完全に単独行動で監視なし、絶対信頼をされていると痛感し、その信頼を裏切ることは出来なかった。

沖縄人捕虜の一部解放

十二冊の名簿は各住民保護地区に送られた。その名簿によって引受人から申し出のあった者は解放されることになり、第一陣が10月25日28人解放された。日誌には「BackHome」と記されている。10月31日までに443人が家族、知人の許へ帰っている。10月28日にハワイから帰って来た者が1,069人収容されている。11月1日から私が解放された11月17日までには殆ど解放され、130人が残っていた。彼等は離島出身者が殆どであった。


私が出るに当って後を山城安次郎氏(現沖縄テレビ社長)に引き継ぎ、石川市へ出ることになった。私の引受人は志喜屋孝信先生と崎浜秀主氏になっていただいていたことが石川市に行ってからわかった。

「屋嘉節」が出来る

確か九月ごろと思うが、例の「PW無情」は金城守堅氏が作詞して私の所へ添削を頼みに来た。指揮班には先輩の新城朝保氏(当時名護警察署長)も相談役としていたので三人で話し合い次の歌詞に決めた。

 

「PW無情」(屋嘉節)
一、うらみしゃや沖縄 戦場(いくさば)にさらち

世間うまん人(ちゅ)の 袖よぬらち 浮世無情 (うちゆむぞう) なむん

二、涙ので登(ぬぶ)る 恩納(うんな)山奥(うく)に

うまん人共に戦しのじ 浮世無情なむん

 

三、勝戦願(かちいくさに)がて 山ぐまいさしが

なまやとらわりて屋嘉に泣(な)ちゅさ PW あわりなむん

 

四、あわり屋嘉村の 暗の夜(ゆ)の烏(からし)

便(ゆるび)り無(ね)んむんぬ 鳴ちゅが心気(しんち) PWあわりなむん

五、石川(いしちゃ)かやぶちや 無蔵(むぞ)が住(し)み所(どくる)
わんやましうちぬ 砂地枕(しなじまくら) PWあわりなむん

六、ましうちの生活(くらし) 知らさていすしが
夢路(ゆみじ) かゆわちょて 節(しち)ど待ちゅる PWあわりなむん

七、煙草手にとやい 忘らていすしが
思むくとやまさて うてんちかん PWあわりなむん

八、戦てるむんの ねらんどんありば
あわりくの姿 ならんたしが PWあわりなむん


 

裸同然で捕虜になり、欲得を忘れての収容所生活は、共に悲しみ、共に喜び、いたわり合って来た短い月日であったが終生忘れることの出来 ない体験だったと思う。
解放が始まり、毎日毎日希望に燃えながら、 支給された携帯袋に土産 のレーションを詰めて帰って行く、 しかし、心なしか友と別れて行く姿 は淋しさを感じさせた。あの時浮かんだ歌が手帳に記されてある。

 

むれなして渡り来にける つばくらの
生活の巣に別れ行くかな
夏すぎて 秋風吹けば はらからの
別れ行く日の 近づくぞかなし

 

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