儀同保『ある沖縄戦 慶良間戦記』(1992年)

 

儀同保『ある沖縄戦 慶良間戦記』(1992年)

 

 

儀同保

1926年4月20日新潟県中魚沼郡川西町生まれ。1947年専検合格、代用教員を務める。1944年4月、船舶特幹隊に第1期で入隊し海上挺進第2戦隊員として阿嘉島の野田隊にに所属。8月、捕虜収容所に入り、46年1月に復員。その後、司法試験に合格。1960年から東京で弁護士。

 

著書

 

捕虜収容所

阿嘉島に配属された儀同保 (新潟出身18歳) の回想:

夜が明けると、早々にわれわれのいる柵のまわりに人が集まってきた。その人垣の向こうには三角形のカーキ色のテントが並んでみえ、右手には点々と船と飛行艇が浮かんでいる海が、そしてその向こうに低く長く続く陸地と、2、3の島が見えた。

 

集まってきた群衆の大半は帽子はかぶっていても半裸体で、そのズボンの腿と尻に、また上衣を着ている者は胸と背に、どれもこれも〝PW〟と黒く大きくしるされていた。それらの者は、われわれが島で見合ってきた人間とはまるで異なっていて、その皮膚は茶色に焼け、水滴をはねのける程に脂肪の光沢があり、肩に、胸に、隆々とした筋肉がついていた。

 

その中に、かつて阿嘉島にいた朝鮮の軍属の顔が見え、特別な眼付を示しながら早口に同僚と話していた。また、同じく戦闘中に島から脱出した基地隊・整備中隊の兵隊も多くがここに来ており、こちら側からも仲間を見出して話合っている姿も見られた。

 

そのうち、上衣をつけた者達が、われわれが入ってきたゲートに並び、次々とくるトラックに20人くらいずつ乗り組んで出て行った。

《「戦争と平和 市民の記録 ⑮ ある沖縄戦 慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 211-214頁》

 

陽が高くなると、熱線が容赦なく照射し、下の砂は焼けて苦痛になってきた。

ようやく柵の外の見物人が散って行った頃、入口の方で野太い声がした。

見ると、サングラスをかけ、ハンチングに似た米軍の作業帽をかぶり、鼻ひげを生やした力士のような体格の日本人がいて、背の高い米軍将校と下士官の服装に眼鏡をかけた小柄な日本人が並んで立っていた。

 

ひげの男は、われわれに向って、

これから持物の検査をする。5人ずつ出ろ

と、東北弁とわかる声で号令をかけた。疲れ切っている私には、こうした先輩格の捕虜の号令に対しても反撥するだけの気力もなかった。

 

柵の中央を東西に通じている広い通路に出た。毛布か携帯用テントの上に持ち物を全部展示するのを、米軍将校が点検するのであったが、その傍らについている眼鏡の小柄な下士官は、日本人二世の通訳係であった。

 

刃物の所持はいっさい禁じられたが、滑稽なのは、煙草を吸う連中が、島の海岸で拾った吸い殻や、海水でふやけたものを天日で乾かして空瓶に入れたものであった。米軍将校はそれが何であるかわからないらしく、通訳に説明を求めていた、わかると呆れとも軽蔑ともわからない笑いを浮かべた。

 

装具検査が終わった頃、朝鮮人の一団が、日の丸を黒く塗って、まわりに羽のようなものを描いた旗を立て、口々に何か言いながら近づいてきた。その先頭の一人が大声でこちらに叫ぶと、これに応じて私の近くにいた同じ中隊の仲間である兪村が、「おう」と声をあげて出て行った。彼らは取り囲んで、数人が尋問口調で話しているようであったが、すぐ彼はその群れに組みこまれ、歓声をあげながら引揚げて行った。それが一年の間同じ中隊長直轄として暮らしてきた彼との最後であった。

李氏朝鮮の旗は日本の日の丸をすこし書き加えることで朝鮮の旗に加工することができた。兪村はおそらく、朝鮮人軍夫ではなく、日本の士官学校などを出た朝鮮人の日本軍将校かもしれない。ごく少数ではあるが存在した朝鮮人の日本軍将校は、朝鮮人軍夫を使役する立場にあり、軍夫とは微妙な関係にありながら、収容所では同じ民族の朝鮮人の区域に収容された。

 

そのうち誰かが先輩の捕虜から聞いてきたらしく〝ポツダム宣言〟とか〝無条件降伏〟という言葉や、または〝朝鮮が独立したのだ〟という話もあったが、急には事態がのみこめなかった。

 

しかし、時の経過と共に、いろいろなことが耳に入ってきた。たとえば〝天皇は戦争の責任をとって退位することになる〟ということや、〝日本は幾つかの州か邦に分割されることになる〟という話、〝沖縄はアメリカの保護の下に、独立国にされる〟等々であった。それらは、われわれにとっては予想もしなかった情報であったが、そうしたことを聞き集めてくると、なるほど無条件降伏というものは、単に日本軍の歴史上始めてのものという漠然とした認識以上に、これから先は大変なことになるのだなあ、とおよそのことがのみこめるようになった。

 

そうした大きな情報から、一方では小さな事項についての情報もあった中で、われわれにも直接関係がある最も興味を持ったことは、慶留間で戦死したものと思っていた篠崎や松本が、大下少尉と共に舟艇で出撃して沖縄本島に来、首里近辺の戦闘で戦死したという話であり、これからは慶良間海峡で米軍の艦船に対して攻撃し、駆逐艦1隻、輸送船2隻を沈めた功績が大本営発表となり、特別進級としたというのであった。

 

まもなく米軍の衛生兵が2人来て広場に連れて行き、10数人ずつ並ばせて衣類の全部をとるように指示した。われわれが身にまとっているものは、シャツから褌(ふんどし)に至るまで、垢としらみの跡などで汚れに汚れていた。褌一つになる(もっとも褌のない者も相当いた・・)と、衛生兵は首を振って全部とれという仕ぐさをし、素裸になって並ぶと全身白い粉(これはDDT)をふりかけ、皮膚病の者には塗り薬を渡した。脱いだものは、目の前でガソリンを撒いて点火した

 

先輩の捕虜が持ってきた米軍の古着を着ると、手も脚も20センチ程も余り、かかしのような格好になった。

《「戦争と平和 市民の記録 ⑮ ある沖縄戦 慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 211-214頁》

 

午後、同じ慶良間の渡嘉敷島に残っていた第3戦隊が、隊長以下集団で投降してきた。彼らは、われわれに比べるとまだ服装も整い体力ある身体つきをして、一応軍隊らしい形を保っていた。

 

… 長い1日も終わろうとしていたが、われわれの入るテントが決まらず、終日何もない砂地の上におかれて焼きつくような陽に照らされたので、弱い者はぐったりと倒れ込み、まだ元気のある者も気がイラ立つらしく、立ったり坐ったりを繰り返していた。

 

夜に入っても、ここを囲った有刺鉄線の外に数ヵ所の高い監視所があって、強い電光のサーチライトが点ぜられているため、収容所の中は明るかった。

 

その夜半、裏山の方角から機関銃の音が聞こえ、砂地の上に段ボール紙を敷いて寝ている上を、〝ピューン〟と流れ弾の音が走った。

 

古参の者の話によると、この裏山の奥にはまだ陸軍少佐に率いられた2、3百人の日本兵がいるということで、銃音のするたびに、「友軍は、中々やるなあ」とか、「脱走してもう一戦やってみるか」という声などが聞こえた。』

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 214-215頁》

 

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慶良間列島で投降した日本兵(撮影日不明)

Japs that surrendered at Kerama Retto, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

島にいた時の、食物についての危機的・絶望的状態からみれば、収容所の中は天国の生活であった。1日3回、定刻になると、〝Kレーション〟というボール紙箱に包んだ米軍の野戦用携帯食糧が1個ずつ配給された。その箱の中には、更に蠟で厚く包んだボール紙の箱に詰め合わせになっており、記号〝B〟(ブレックファスト)の場合には、ビスケット4枚、コーヒー1袋、角砂糖4個、煙草4本入り1箱、フルーツバー1本、卵の缶詰1個、チューインガム1枚が入っていた。

また〝D〟(ディナー)の場合は、缶詰はチーズ、コーヒーの代わりにレモネードパウダー、チョコレートかキャラメル、その他はBと同じ、〝S〟(サパー)の場合は、缶詰が豚のひき肉で、コーヒーの代わりにスープパウダーが入っていた。(後になると、これよりやや高級の〝Cレーション〟と呼ばれる、2個で1食分となっていて中味はKとほぼ同じだが、肉の方はいろいろな種類のある缶詰に変った。いずれにしても、日本軍の乾パンに金平糖という携帯食糧からみると比較にもならないご馳走であった)

 

私は身体が弱っていた上に、マラリヤのためのだるさがとれないせいもあって、チーズは口にできなかった(私としては、チーズなど口にするのは、はじめてのことであったが・・)ので、チーズ缶は他の者の卵かひき肉缶と交換してもらっていた。もっとも、日本兵でチーズを見るのもはじめてというのは、私だけではなく、従って新来の捕虜はいずれも入所当初にはこれをもて余していたが古参の捕虜達は慣れたもので、チーズはパクパク食い、またKレーションの内箱にある蠟を缶の蓋などで掻き落として貯め、これを燃料として大きな空缶の中に入れ、上に針金で作った五徳をかけ、手に入れた米軍の野戦用の金属コップまたはフライパンをのせて、肉缶とビスケットを一緒に煮たり、コーヒーを沸かして飲むなどしていた。(ただし米軍は、テントの中でこうした火を用いることを厳禁しており、抜打ちの検査で現場を発見すると3日間くらい〝食事止め〟の体罰を科した)新参のわれわれは、とてもこんな技も道具もまたその余裕もなかったので、手数をかけることもせずに、そのまま生水をのみながら食うだけであった。

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 217-218頁》

 

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写真 (1)(2)(3) 朝食用、昼食用、夕食用のKレーション。卵やハムなどの缶詰は直径7cmx3cm程度。Kレーション - Wikipedia

写真 (4) 屋嘉収容所で捕虜に配られるKレーションの段ボール、右から朝食用、昼食用、夕食用で12人分ある。屋嘉捕虜収容所の日本人兵士 - YouTube

 

若い兵士の自殺

28日夕方、阿嘉から一緒にきた同じ中隊の岩見が、ゲートで搬水車にとび込んで死んだ。

 

この日、共同で生活している渡辺と夕食のKレーションを平らげた頃、誰からともなく〝ゲートで若い兵隊が自殺した〟という噂が伝わってきた。実を言えば、私はその時に〝あるいは彼が・・〟と直感したのであった。それには思い当るものがあった。彼はこの収容所に入った時からすでに強度のノイローゼ症状を呈していた。同じ島からの仲間のうち、身体の弱っている5、6人が一団となっていたのだが、どういう理由か、その中で一つ年下である私だけを頼りにし、常々、

「俺はお前だけが頼りなのだ、他の者は信用できない、お前が一緒にいてくれないと死んでしまいそうだ」

と言い、日中でも私のあとについて廻ったりしていた。他の者と食物のことでトラブルを起こして文句を言われてから後、一層そうした様子が甚だしくなっていた。ある夜中にも眠っている私を起こし、仮設便所(長さ十数メートルもあったが・・)の裏の暗い場所に連れ出し、

「俺は駄目だ、もう生きて帰れない」

と言った。私は、

「もう戦争は終わったんだ、何も心配することはないから、よく眠ることが大切だ」と言ってなだめた。

 

しかし、翌日の夜にもまた同じことをくり返した。こんなことを続けられては私の方が頭がおかしくなってしまうし、患者だけの中隊に引渡した方が彼のためにもいいだろうと、日本の衛生兵で米軍の手伝いをしている者に、引取りにきてくれと頼んだ。

 

2名の衛生兵がきて、彼を連れて行こうとした時にも、激しく拒み、大勢の中で私の腕にすがって大声をあげて泣いた。気の毒には思ったが、私自身衰弱している身では、とうてい彼の面倒をみることはできないので、無理に引渡したのであった。だから〝若い兵隊の自殺〟と聞いたとき、すぐ彼では・・と思ったのである。

 

30分もすると、〝阿嘉島の特幹がいたらゲート近くの医務室にきてくれ〟と言って衛生兵が廻ってきた。私は、〝やはり彼だったのだなあ〟と、せめて彼の最期をみてやろうかと、フラつく足で出かけていった。

 

自殺者は予想通り彼であった。頭をタイヤでひかれたとのことで、耳と目と鼻から流れ出た血が顔の半面に砂と一緒にこびりついていた。衛生兵が鋏と白紙を持ってきて、周りにいるわれわれに向って、誰か髪と爪を切って包むようにいった。

 

集まった中に、数日前まで岩見のすぐ上官であったM少尉がいた。私は彼に、「あなたの部下だったんだから、切ってやってくれませんか」と言った。しかし彼は手を出そうとしなかった。彼は、戦闘中は結核が再発したらしいことを理由に、まったく戦闘に出たことはなく、ずっと医務室壕の近くの壕に寝たきりで、自分の部下から食事も運んでもらっていたはずであった。その彼が、直接の部下の死体に手を触れることを拒んだのを見て、私はかっとし、自分でも思わなかったほどの荒い語気で、

「お前は、戦闘中あんなに酷使していながら、切ってやれないというのかっ」

と言い、〝俺がやる〟と鋏を手にすると、岩見の頭髪の血のついている部分を切った。枯れた竹のように節くれ立った手には、爪はほとんどなかった。衛生兵は顔をしかめ、〝そこは余りにひどいから〟といったので改めて血のついていない部分を切り直したが、すでに栄養失調の病状で、髪は赤茶けていた。

 

〝これから車ですぐ裏山の麓まで行き埋葬するから、4人ほどきてくれ〟と通訳が言った。私はMの顔を見たが、彼は厭なのか、または先ほど私にいわれたのが気にさわったのか、口を突き出した顔で横を向き、自分が行くとはいわなかった。

 

結局、私とそして負傷した脚を引きずっている糟谷ともう1人の3人で、担架をかつぎゲートの外にある車に乗った。それには銃を持った米兵2人と二世の通訳が待っていて、われわれの顔を見た兵隊が〝ボーイ〟といった。

 

私は頭上の星を見ながら〝北はどっちだろうか〟と通訳に尋ねた。どうしてかと彼が聞いたので、

「できれば、内地の方に頭を向けて埋めてやりたいが・・」

と言うと、〝いいだろう〟と彼はいった。米兵は私を指して通訳に尋ねた。彼が説明すると兵隊は首を大きく動かして了解の態度を示した。』

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 218-221頁》

 

捕虜収容所の英会話教室

阿嘉島海上挺進第2戦に所属していた兵隊の回想

私のいたテントに変わった男がいた。体駆は大きく年齢は30を越えているだろうと思われたが、鼻の下から顎にかけて長いひげを蓄え、周囲の者とはほとんど口もきかないで、日中も坐ったきり黙然としていた。

それが、ある時、私と渡辺の傍にきて低い声で話しかけた。「俺は、ある事情でこの兵隊のテントにいるが、本当は曹長なのだ、俺達は軍隊生活と戦争に自分の運命のすべてをかけたようなものだが、お前達は事情が違う。すべてはこれからだ。何だったらアメリカの将校に頼んで、日本に帰らずにアメリカにでも行くことを考えてみたらどうか」と言った。こんなことは全く考えもしなかったことだったが、哲人めいたその顔や、圧倒するようなもののいい方に、改めてそういうことも・・と考えさせられるものがあった。

しかし、やはり自分の父母に生きていることを知らせ、そして一度は顔をみせて・・と思った。

だが、いわれるまでもなく、これから内地に帰れば、自分の生涯の方向そのための方法を考えねばならぬわれわれとしては、何もしないでただ日を送ることよりは、この間にも何かをやろうかと2人で話合った結果、まず英会話を勉強しようということで、キャンプの本部に行った。

そこでの説明は、収容所内では初級と上級の2つが行われていて、どちらも夜に希望者に実施しているとのことだったので、まず初級から出かけて行った。この方は砂場にボール紙を敷き、10数人が捕虜のうちの日本人講師を中に単語の発音などを繰返していた。〝これじゃあまったくの初歩でつまらんから上級に行こう〟と、翌日はハイクラスの方に出た。こちらは日系の二世がアメリカの新聞を読んで聞かせていた。少し程度が過ぎるように思った。

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 221-223頁》

 

コザの戦病院 - マラリア赤痢

阿嘉島から屋嘉収容所に送られ、マラリヤ感染が悪化した日本兵捕虜、野戦病院に入院となった。

第88野戦病院は、現在の沖縄市の北方、美里村の台地にあった。

私の入ったテントは、東か西の端なのか思い出せないが、とにかくテント群の一番端にあり、伝染性の病気でもあるマラリア赤痢、皮膚病などの患者だけが収容されていた。

簡単な検査があり、米軍の衛生兵にそのテントの一番入口に近い寝台を〝ここだ〟と指されると、すぐ横になった。

ホスピタルと名はついていても、ところどころ藷の葉などが生え繁っている赤土の台地に、大型のテントが幾つか張られてあるだけのものであった。その一つの中に3、40人が米軍の野戦用の折りたたみのベッドに、頭を通路に向けて何列か並んでいるのだった。

間もなく、日本人の軍医と米人の軍医と、そして米軍の衛生兵が来て脈をとり、注射器で採血したあと、軍医は蚊帳を張るように衛生兵に指示した。ベッドの四隅に70センチ程の棒を立て、これに吊るして蚊帳が張られた。そして衛生兵は数粒のキニーネと、緩和剤と思われる白い錠剤をひと握りも私の手に乗せ、全部一回でのむようにいい、私が時間をかけながらそれをのみ終わるまで、近くで見ていた。

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 224-225頁》

入院して4日目に、前回と同じように4度目の熱が出たあと、マラリアの症状は止まった。しかし、この頃からアメーバ赤痢の症状が出てきた。血便とも粘便ともつかぬものが、暇にまかせて数えたところでは1日53回にも及んだ。こうした状態では食欲は全くなく、Kレーションの中から角砂糖だけを抜き取って、舌の上でとろけさせるだけの日が続いた。私の枕許にはレーションの箱が煉瓦のように積まれた。

隣に寝ている住民の患者が、遠慮がちに「このレーション、食べないなら私にくれませんか。」といった。私は〝角砂糖のほかは、みな持って行ってくれ〟と言うと、喜んで1日おきくらいにくる身内の者に、それを渡していた。

便の始末は、最初のうちは便器を用いてテントの外で足し、50メートルほど離れた仮設便所まで捨てに行っていたが、その途中でも何回か使用せねばならぬようになり、やむなく便器を1個ベッドの下に借用しておいた。ところが、このテントの牢名主のような顔をして、他の者に大声で文句を言っていた兵隊が、

「手めえ、便器を独り占めにするない。使ったら洗って外にかけておけ」

と私に向かってどなった。私もそれはわかっているのだが、動くとすぐ尻の方がいかれてしまう状態なので、もはや方法もないと諦めて、腰にバスタオルを巻き、毛布で身体を包んでたれ流しの状態になった。

これが2日も続くと、牢名主もさすがに同情したのか、または私に気合を入れ過ぎたのを気がとがめたのか、衛生兵に、

あそこの若いのが、あぶないようだから何とかしてやってくれ

と私を指して言った。ようやく米人の軍医と衛生兵、それに前とは違う元気のいい若い日本人の軍医が来たが、日本人の軍医は入って来て私を見るなり、顔をしかめただけで手をかけようともしなかった。

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 225-226頁》

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コザ付近にある軍政病院。北向き。

Military Government Hospital area located near Koza, looking north.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

この頃は、皆が眼を覚める時刻になっても、一向に動こうとしない者がボツボツとあって、ほとんど夜中のうちに便をたれ流しにしたまま息絶えており、隣りの者も気付かないことが多かった。そうなるとすぐテントの外に出し、収容所から来る捕虜の作業員達が近くの藷畑に埋めてしまうのである。何日かに一人は確実に発生するそうした者を見ていると、〝やっと阿嘉島生き延びて来たのに、俺もここで終わるかもしれない〟と、いささか心細い日日での連続で、他の者の目にも私の状態がもうそれに近いものに映っていたようであった。

こうした身心共に病み衰えて、ズルズルと絶望状態になりかけているのを、ようやく食い止めることが出来たのは、19歳という肉体のもつ復元力であった。

熱の一週間とそれに続く下痢の一週間で、瘠せることの限度まで来た時に、ようやく僅かながら食欲が出て来た。

やっと立上れるようになった頃、このキャンプに看護婦兼雑役のために来ている沖縄の娘が、放置されたままの私に同情して、洗たく場からたらいを持って来て水浴させ、便で鼻もちならぬタオルなども洗ってくれた。

私は感謝の意を表すために、積み重ねてあったレーションを渡した。そして、もし出来るなら米と梅干と味噌を見つけてもらいたいと頼んだ。米はとにかくとして、この戦場のあとの沖縄の地では、味噌や梅干はとうてい不可能な望みと思っていたのだが、どこでどうやって見つけたのか、2、3日すると少量ながら米と味噌を持って来てくれた。

一方私のあとを追うように、これも赤痢の疑いで送られて来た渡辺が、偶然隣りのテントに入ってきたので、彼に粥を作ってくれるように頼んで、子供のころから変わった好物としていた、粥に味噌を入れて掻き廻したものを、少量ながら口にすることができた。これが回復のきっかけとなったようで、下旬になってようやく、ふらつかずに歩けるようになった。

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 226-227頁》

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米海軍: Okinawa. Native nurses with Navy doctors.
海軍の医師と一緒に写る地元看護師。沖縄にて。1945年 9月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

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