豊見城村平良の海軍砲台 ~ 琉球新報「戦禍を掘る・1300発の不発弾]

琉球新報「戦禍を掘る・1300発の不発弾]

身近な場所での戦闘想起 ~ 平良に10カ所の壕

 豊見城村平良の橋りょう工事現場で18日、大量の砲弾、薬きょうなどが見つかり付近住民を驚かせたが、19日の撤去作業終了まで75ミリ砲弾293発、同薬きょう65個、155ミリ薬きょう667個、信管271個が運び出された。一度にこれだけの不発弾、薬きょうなどが発見されたケースはこれまでになく、改めて沖縄戦の残した傷跡を見せつけられる思いがする。

 

 「詳しい日時は覚えていませんが、避難を余儀なくされたころ、村長から子供たちは北部に疎開させるよう通達がありました。平良部落は五十数戸あり、通達を受け私は各戸を回りました。私自身は子供をやらせたくありませんでしたが、立場上それは許されず、当時11歳の長男と10歳の二男を手放しました。20人くらいの子供たちが北部に避難したと思います。残りは戦闘が激しくなったころ平良を離れ、ほとんど南部方面をさまよっています」

 

 沖縄戦当時、平良部落の区長を務めていた大城蒲戸さん(80)=豊見城村平良=はその当時のことをこのように語っている。

 

 昭和19年の10・10空襲の後は今回不発弾が発見された場所付近に部落の人たちが十数カ所の壕を掘っている。そこには当初、武部隊がいたが、米軍が台湾に上陸するものと思い、台湾へと移動している。その後、海軍の橋本隊が現れ、陣地を構築している。砲台は2門用意され、大城さんによると、橋本隊が2、3発撃つ米軍側からは十数発もの弾が飛んできたという。

 

 平良部落の人たちは米軍上陸に控えて壕掘りをしているが、ほとんど利用することなく、戦況が厳しくなると糸満の波平や喜屋武方面に逃げていった。大城さんによると、壕の中で避難したのはお年寄りやけがをした人で日本軍が南部に後退した後、米軍に捕虜となったようで、今はその人たちはいないという。平良部落の人たちは壕掘り用の道具をもって激戦の南部方面に逃げており、ほとんどの家族が犠牲者を出している。なかには一家全滅もあり、住む人のない屋敷が残されているところもある。

 

 大城さんは同部落の3家族と小禄出身の一家を合わせて4家族で波平に逃げ、民家の空き家で一時避難している際に米軍の攻撃を受け、一度に13人が死んだという。すぐにその場を離れて、また平良に戻った。大城さんは「最初は具志頭方面に逃げるつもりでいましたが、既に米軍によって攻められていることが分かり、あちらこちらを転々としました。その間も弾は撃ち込まれていましたが、不思議とかすり傷さえ負いませんでした。行く先々で死んでいる人たちは多かったのですが…」と語る。

 

 平良部落の人たちは戦闘準備で日本軍の手伝いをしているが、戦況は知らされることはなく、また軍人に対して尋ねることもできずにいた。状況が厳しくなったころには、住民はばらばらに避難しており、日本軍とともに行動した者はいなかったもようである。そのため、橋本隊がどのように戦っていたかを正確に知る者はいない。今回、不発弾が発見されたことで「やはりあの場所から…」と予想した者はなく、砲台がどこに設置され、弾がどこに保管されていたのか分かっていなかった。ただ、今回発見された場所の谷をはさんだ向かい側からは、戦後回収する人たちがいたという。

 

 大城さんは思わぬ不発弾発見で当時のことを思い出しながら語ったが、話の途中で何度も「戦争はたいへんですよ」と繰り返していた。20日の夕方は公民館で老人会の集まりがあり、話題がそのことに及ぶと、それぞれの人が命からがら激しい砲弾の中をくぐり抜けてきたと話していた。壕らしい壕は民間人は入れず、自らが壕を掘ったりして南部方面をさまよったという。今回の発見によって身近な場所で展開された戦闘のもようが当時、戦争を体験した人たちにイメージとして浮かび上がった。同時に一つの区切りをつけ、若い人たちに語り継ぐきっかけをもつくったことだろう。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年7月23日掲載

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■