沖縄戦 ~ 酒と米軍の事情、酒と日本軍の事情

 

酒飲みである筆者がおまとめする、沖縄戦、酒にまつわる両軍の事情。

 

日米の「酒」意識の違い

沖縄戦の記録を読んでいくと、沖縄守備隊第32軍が頻繁に酒宴を開いていたことに気づく。もちろん、ストレス発散や潤滑油として酒は欠かせない。しかし酒宴の深酒で攻撃への対処が遅れるとしたら、酒を飲みかわしながら立てた総攻撃計画で5000人規模の兵士の命が犠牲になるとしたら、避難住民が砲弾に倒れる中、司令部壕で連日酒宴が催されていたとしたら、どうだろうか。

 

日米で、実は大きな意識差がある文化の一つに、酒がある。

今回は沖縄戦の「酒」に関する話に焦点を当てていきたい。

 

沖縄戦 ~ 酒とアメリカ軍

ポスト禁酒法アメリ

アメリカには、第二次世界大戦以前に、禁酒法時代 (1920年-1933年) という時代があった*1。日本では少し想像することが困難なこの禁酒条項は、背景として、戦時下でのドイツ系ビール企業 (パブスト、シュリッツ、ブラッツ、ミラー等) への反動などもあるが、基本的には、アメリカのピューリタニズム (清教徒主義) 的な節制=節酒 (テンペランス) が高まったものである。

 

1933年、ルーズベルト政権下で禁酒法を無効にする改正条項を可決した後も、廃業に追い込まれた多くのアメリカの蒸留所は復興からは程遠く、第二次世界大戦がはじまっても、多くの蒸留所が、医療用アルコールやペニシリンの製造所、はたまた戦争で使われるベイリー・ブリッジの工場になっていたりした*2

 

1941年、第二次世界大戦参戦時、米軍は若干の酒解禁に舵をきる。ハードリカーは基地内でも禁止されていたが、軍内でビールの配給が開始され、禁酒法後のアメリカ国内のビール業界復興に一役買った*3

 

しかしながら、米海軍に関して言えば、禁酒法に先立つ1914年の規定によって、米海軍の艦内や軍施設内でのいっさいのアルコールの持ち込みや飲酒が完全に禁止され*4、それ以来、現在も医療用の用途を除いてアルコールは基本的にご法度である*5

 

コーヒーを飲む水兵たち。

A Hundred Years Dry: The U.S. Navy's End of Alcohol at Sea - USNI News

 

イギリス太平洋艦隊 - 大活躍のアセット

これと対照的なのは、イギリス海軍のハードリカーの伝統である*6。興味深いことに、「禁酒」のアメリカ海軍と「ハードリカー」のイギリス海軍は、対日戦争で共に「八重山群島の封じ込め」に当たることになった。当初、キング総督は漁夫の利を狙うものとして、イギリス海軍の参入を喜ばなかった。

イギリス海軍は、1944年末になって対日戦争のためのイギリス太平洋艦隊 (BPF)*7 を編成し、3月15日から米海軍指揮下でアイスバーグ作戦に参入した。米海軍キング提督は、これを歓迎せず、米軍が補給 (兵站) の協力をしないことを条件に渋々これを認めたが、キングの条件は現場の海域においてほとんど有名無実化し*8、現場の米海軍は BPF の脆弱な補給をよく補助し、また BPF の六隻の装甲空母*9は、日本のカミカゼ攻撃に対して優れた耐性を実証した。

1945年3月27日『米軍、慶良間列島を次々と制圧』 - 〜シリーズ沖縄戦〜 参照

石垣島宮古島の日本軍拠点封じ込めを主導したイギリス太平洋艦隊。

(イギリス太平洋艦隊TF37の) タスク自体は明確だった。先島群島には、石垣島宮古島という2つの主要な島があり、各島にはそれぞれ3つの飛行場 (註・宮古島平良飛行場、野原飛行場、洲鎌飛行場石垣島平得飛行場平喜名飛行場、白保飛行場) がある。これらが、可能な限り実行不能な状態に保たれなければならないということだった。

Armoured Aircraft Carriers

品行方正な海軍の中で、唯一!?ブル (猛牛) とよばれた強面ハルゼー海軍元帥も、当初はイギリス太平洋艦隊受け入れをひどく嫌ったが、酒好きハルゼーがイギリス太平洋艦隊との「良好な関係」の魅力を拒むことは、とてもできない話だった。

【訳】イギリス海軍は艦内へのアルコールの持ち込みが許されていたため、アメリカの士官たちは常に熱心にイギリス艦隊を訪問した。イギリスはハルゼーを戦艦デューク・オブ・ヨークと戦艦キングジョージ5の名誉士官会員となした。ハードリカーはイギリス太平洋艦隊TF37に大活躍の「アセット」だった。戦艦キング・ジョージ5での乗組員がレーダーのスペアパーツに困ったとき、彼らは近くのアメリ駆逐艦に合図を送り、必要な備品をウィスキー一本と交換できないかと尋ねた。「おいおい、ウイスキーのボトル一本と引き換えなら、あんたたちこの忌まわしい艦、丸ごとやるよ」と拡声器の声がかえってきた。

"Making Good Once More" By Nicholas Evan Sarantakes (Naval History Magazine, February 2024)

上層部の政治的思惑とは裏腹に、ラム酒の助けもあってか、八重山での両軍は良好な関係を保ち、米海軍はイギリス太平洋艦隊の最大の弱点であった補給を助けた。

太平洋における連合国海軍の最高司令官チェスター・W・ニミッツ提督(左)、イギリス太平洋艦隊司令官ブルース・フレイザー卿、米空軍大将スパーツ将軍が、デューク・オブ・ヨークの船中隊とともにラム酒を飲む。

その結果、宮古島石垣島は、重装甲空母を揃えたイギリス太平洋艦隊と、圧倒的補給力を誇るアメリカ太平洋艦隊の両軍によって、完璧に封じ込められ、敵の上陸なきまま、飢餓とマラリアによって死の淵に追い込まれることになった。

 

戦後、海軍の英雄ハルゼーが酒豪であったこと、また艦載機パイロットのために大量のバーボンを艦に持ち込んだことが回想録で明らかになると、海軍規定違反としてキリスト教禁酒団体から大規模な抗議の声がおこるなど*10、酒は国内ではかなりセンシティブな問題であったことがわかる。そのためか、米軍の酒に関する記録写真も非常に少ない。

スターリング島でビールの配給に並ぶ様子、1944年。

How World War II Saved American Beer Brewing | The National WWII Museum | New Orleans

 

日米地位協定と飲酒騒動

こうした歴史的背景もあり、キリスト教保守の根強いアメリカでは、実は今もアルコールへの警戒感は強い。極端な話、スーパーで銃は販売されていても、ハードリカーは販売禁止だ。つまりアメリカでは、銃よりもハードリカーがより危険であり、銃よりもハードリカーの規制が厳しいということになる。

 

酒と米軍にだらしのない国、ニッポン

沖縄では、よく米兵が酒に酔って事件や事故を起こすが、アメリカ本土では、州にもよるが、飲酒は日本よりも相当厳しく規制されている。21歳からの年齢制限、度数、また運転席・助手席に酒類を置いただけでも処罰の対象、また飲酒運転の罰則が非常に厳しいことは常識である。ゆえに、日本に駐留し、飲酒運転でやらかす米軍人・軍属は、安保条約に守られた米軍の地位に甘んじ、酒と米軍に甘い日本を軽んじているのである。

 

 

沖縄戦 ~ 酒と日本軍

日本軍の「酒と女」

一方、沖縄戦における日本軍の飲食事情を見てみよう。

壕の構築など重労働を強いられる兵隊は、米軍上陸以前からろくに食べるものを与えられなかった。いい年をした二等兵でもこの有様であった。

私たちの食事は、とうてい連日の重労働には耐えられない貧しさだった。炊事では、米の不足分を補うためか、桑畑から葉っぱを採って来て飯の中にきざんで入れた。副食物といえば、ほと んど冬瓜や南瓜に豚肉の油が浮いているだけの味噌汁で、桑の葉はのどにつかえて飲み込むのがやっとだった。

… 沖縄へ来てから、二等兵の俸給は戦時手当がついて、月額18円20銭になっていたが、そのうち12円20銭は強制貯蓄で天引され、手に出来るのはやはり6円だけであった。当時、 たぴおか饅頭は一個20銭であった。

渡辺憲央『逃げる兵―サンゴ礁の碑』 (1979年) 28-29頁

しかし、日本軍は兵士に食べさせる食糧はなくても「酒と女」は確保した。戦力維持のためだった。

興味深いのは、兵士たちは日々飢えていたにもかかわらず、酒は飲めたという事実である。酒があったのは、当時の日本政府が、貴重な米の一定量を酒造り用に確保していたからである。酒は兵士たちや一般国民の憂さ晴らし、士気の維持に必要不可欠だった。むろん質は極限まで落ちていたはずだが。

兵士の日記に綴られた、食べ物と酒にみる帝国陸軍の崩壊 『日本大空襲――本土制空基地隊員の日記』|じんぶん堂

地元から防衛隊として嘉手納に配置された住民の話

(嘉手納には) 北海道出身の小倉中尉という課長をはじめ、現役兵らがおりましたが、彼らは、毎晩、酒を飲んで「ここは、これ(女の意味)がいるからたのしみだが、このままでは危ないなあ」と話しあっているのをきいて、ここにいたら、本当に死ぬかも知れないと感じていました

「長参謀長の車を運転」『沖縄県史 第9巻 / 第10巻』 沖縄戦証言 ~ 中部離島 篇 - Battle of Okinawa

将校クラスは酒宴つづき。

当時の那覇は軍人だらけ… この大部隊の移駐は住民の生活にすぐ影響した。ただでさえ悪化している食糧も軍隊が優先那覇市からは野菜の一束さえも見えなくなった。「ところが、うちに宿泊している将校たちは、ぜいたくざんまいで、毎日が会席料理。酒も好みの酒がないと軍用機を仕立てて調達に行く。

琉球新報『戦禍を掘る』 疎開地への手紙 - Battle of Okinawa

 

 

十・十空襲 - 前日の酒宴

「いざ」というときにも酒宴であった。台湾の第十方面軍から米軍北上の動きを報告されていながら*11、十・十空襲の前日、沖縄守備隊第32軍は遅くまで盛大な酒宴を開き、翌朝の米軍機襲来に混乱し、対応もできないまま、各飛行場は壊滅し、那覇は灰燼に帰した。

徳之島、宮古石垣島、大東島などの各地から司令官、参謀など高級幹部を那覇に集め、兵棋演習前日の9日夜、32軍牛島司令官の招待で、波の上にあった沖縄一のホテル・沖縄ホテルで慰労の宴会を催しました。宴会のあとには軍参謀全員の二次会が、市内の料亭でもたれました。それだけではありませんでした。…

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 108-109頁より》

1944年10月10日 『十・十空襲』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

 

首里司令部壕の酒ストック

司令部壕はグルメであった。

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第32軍司令官 牛島満陸軍中将 / 第32軍参謀長 長勇陸軍中将 / 第32軍作戦参謀 八原博通陸軍大佐 

八原作戦参謀の手記

軍司令部内の食生活は、当初のうちは不自由はなかった。管理部長葛野中佐以下関係者の努力で、一千人以上の数か月分の糧秣が、洞窟内に集積してあり、将兵は三度の食事を、定量にとることができた。四月初め、師範付属小学校に格納してあったかん詰め類や調味品を多量に焼失したが、もちろん大勢には影響しなかった。(長)参謀長が、沖縄料理は油っこくていけないと、昨秋わざわざ福岡から呼び寄せられた腕利きの料理人もおれば、佐伯准尉のような料理通もいる。また野戦建築隊から転属した菓子職人もいるというわけで食事は寧ろ贅沢であった。三時のおやつも出るし、小夜食もある。左利きの者にはビール、日本酒、航空用葡萄酒 (註・赤玉ポートワインか) もある。参謀長とっておきのオールドパージョニーウォーカーなどのスコッチさえもご馳走になれる。肉類も、初めのころは、塩漬けの牛、山羊などの肉から魚類まで準備してあった。海軍根拠地隊から、ときどき赤飯、雑煮などのかん詰めを強奪してくる。またその携帯口糧のビスケットは陸軍のものと異なり、美味だったので、黒糖をつけて食えば結構よいおやつになる。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 274、275頁より》

やはり海軍の糧食は陸軍より美味だったようだ。

また、日本酒や葡萄酒の軍用酒以外で注目したいのは舶来物のスコッチである。今でこそオールドパージョニーウォーカーは定番だが、オールドパー1873年岩倉具視の遣欧米使節団が英国から日本に持ち帰った最初のスコッチウイスキーとして明治天皇に献上された。1902年日英同盟締結以降、スコッチが一気にブランデーを追い抜いて人気となるが、ジョニ黒やオールドパーなどは、とても庶民が気軽に飲める酒ではなかったらしい*12。スコッチブームは国産ウイスキーを生み出す一方、1941年真珠湾攻撃で太平洋戦争がはじまると、連合国からの輸入は途絶え、ますます舶来スコッチはレアものとなる。そんなコレクションが司令部壕にストックされていた。

 

5月3日の総攻撃と酒宴

第32軍は総攻撃計画の際も酒を酌み交わしながら取り決めた。米軍では絶対にありえない話である。

5月2日の夜、沖縄守備部隊第32軍の高級指揮官たちが集まって、重大決定を下すための作戦会議を開いていた。酒は流れるようにくみかわされ、会議はしだいに緊迫したものとなり、しばしば激しい口論までとび出した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 297-298頁より》

1945年5月2日 『私もウチナーンチュです』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

酒の勢いもあって決定された総攻撃・逆上陸計画で、夥しい兵士を消失する同時刻、首里の司令部壕では「戦勝前祝会」と称して酒宴が開かれていた。

左右逆上陸隊が、粛々として暗夜の海上を、決死進撃の最中の5月3日夜、戦勝前祝会が牛島、長両将軍の居室になっている壕内で開催された。… 洞窟の中ではあるが、電灯は明るく、食卓の準備も綺麗にできあがり、酒も不足せず、ご馳走はかん詰め材料ながら本職の料理人の手になり、相当なものである。各将軍はアルコールの回るにつれ、朗らかになり、明日の戦いを語り、必勝を論じ、談笑尽きない。盛装の娘たちが、華やかに酒間を斡旋する。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 274、275頁より》 

1945年5月3日 『戦勝前祝会』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

この攻撃で、日本軍の戦力はすでに全兵力の75%を失ったといわれる。

戦死約5000人。第24師団は歩兵の実に60パーセント近くをこの攻撃で失い、砲兵団も米軍の反撃で大損害をこうむり、3分の1になってしまった。

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 83-84頁より》

1945年5月5日 『最後の一人まで』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

 

摩文仁司令部壕の最期と舶来物のスコッチ

長勇参謀長、首里摩文仁司令部壕スコッチコレクションの一部。

 

首里から摩文仁の司令部壕に撤退した後も酒宴は続く。

参謀室は、司令官のすぐ隣だ。将軍は必ず誰かを集めて酒宴を開き、気焔をあげておられる。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 385-386、386頁より》

 

6月21日、摩文仁の司令部壕では最期の時間が迫っており、八原作戦参謀の記録では21日から酒浸りであったことが記録されている。無類のスコッチ好きであった長参謀長は、スコッチウイスキーのストックを摩文仁まで運んだ。5月1日には「最後には軍刀を振るって突撃の覚悟」と八原参謀に語っていた司令官だが、実際には自死の機会を待つばかりであった。

両将軍はまた、ブラック・アンド・ホワイトの残りも賞味した。これは、依然としてスコッチ好きであった長が、首里から自分でもってきたものである。

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 337頁より》

1945年6月21日 『米軍の勝利宣言』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

6月22日。包囲され、飲み水一滴もない状態ですら、酒だけは欠かせなかったようだ。

私は参謀長に、残念ながら山頂の攻略は断念のほかなき旨を報告した。将軍はすでに酒の酔いが回っているらしく、なかなかの上機嫌だ。私の報告など歯牙にもかけず、「まあ一杯飲め」と酒を勧められる。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 431-434頁より》

1945年6月22日 『アメリカ世(ゆ)の始まり』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

6月23日午前4時30分、牛島・長両将軍が摩文仁の司令部壕にて自死する。

23日3時ごろ、軍司令官の命なりと呼びにきた。服装を正して出かける。牛島将軍は略綬を佩用して、服装を整え、膝組んでおられる。長将軍はキング・オブ・キングスのひょうたん型の壺を前にして、すでに一杯傾けておられる。周囲の顔ぶれは概して昨夜と変わりない。私は両将軍に敬礼したが、今や言うべき言葉はない。参謀長は私ウイスキーをすすめ、さらに自ら剣先にパインアップルの切れを刺し、これは両方とも特等品だぞと自慢しつつ、私の口にもってこられた。私はちょっとぎょっとしたが、子供のするようにあーんをしてちょうだいした。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 431-434頁より》

1945年6月23日 『第32軍の終焉』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

 

沖縄戦 全記録 - NHKスペシャル

 

南京攻略戦では13万人の難民を殺しただの、揚子江沿いに避難する女性や子供たちのなかに兵が混じっているとして南京大虐殺をおこしたと豪語し*13、あれだけ突撃作戦を主張しておびただしい兵士を死地に追いやり、全沖縄県民に玉砕をせまった「暴れ馬」「軍ファシスト」といわれた長参謀長、その最期は、死の淵となった摩文仁のただなかで、連日、壕内でレアな敵国産スコッチに酔い吟詠する姿であった。

 

 

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*1:禁酒法に関する憲法修正条項: アメリカの憲法改正のハードルは高い。まず上院・下院両院で3分の2以上の承認を得て発議、そののち、全50州の4分の3以上の承認が必要である。この高いハードルを乗り越え、1919年、禁酒法を定めた憲法修正第18条が承認される。この14年後、フランクリン・ルーズベルトが大統領に当選、1933年に修正第18条を廃止する修正第21条が可決され、禁酒法時代は終焉した。

*2:World War II and Whiskey | Whiskey History | Angel's Envy US

*3:How World War II Saved American Beer Brewing | The National WWII Museum | New Orleans

*4:U.S. Navy: Alcohol in the Navy

*5:A Hundred Years Dry: The U.S. Navy's End of Alcohol at Sea - USNI News

*6:泥酔するという意味のグロッキー (groggy) はイギリス海軍ラム酒シトラス割りに由来する言葉

*7:イギリス太平洋艦隊 (British Pacific Fleet)

*8:実際の洋上では米海軍士官らはイギリス太平洋艦隊に「キング提督の知らないかぎり与えられるものは何でも」提供することができると語り、両軍の関係は良好であった。縦の命令で縛られ、オーティス・ケーリが指摘するような横糸のつながりが欠如する日本の軍隊では、陸軍と海軍、部隊と部隊の分断は時として深刻であったのと比して対照的な事例である。See. Nicholse Sarantkes, "The Short but Brilliant Life of the British  Pacific Fleet", Joint Force Quarterly, National Defense University Press, pp. 85-86.

*9:米海軍の空母は板張りの甲板であったためイギリスの装甲看板よりも艦載機は多く運べるが、特攻の体当たりには弱かった。

*10:MANNERS & MORALS: Down the Hatch - TIME

*11:読谷村史 「戦時記録」下巻 第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦 空襲と艦砲射撃

*12:戦前の日本とウイスキー【その3・全3回】 | WHISKY Magazine Japan

*13:読谷村史 「戦時記録」上巻 序章 近代日本と戦争