1944年7月24日、米軍がテニヤン島に上陸する ~ 母は手榴弾に飛びついた

 

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海兵隊: CIVILIAN POW -- A Marine interpreter questions the father of the girl and discovers that the Japanese soldiers have told him that Americans would cut their throats.【訳】収容される民間人 ―― 少女の父親を尋問し、日本兵アメリカ人は彼らの喉を掻っ切ると伝えていたことを知る海兵隊通訳兵。 テニアン 1944年7月30日 撮影者: Pfc. C.H. Walker

写真は、手りゅう弾の爆発後、壕から救出された(左から)城間肇さんと妹の千賀子さん。中央は壕に一緒にいた男性。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

母、手投げ弾の盾に

琉球新報「南の島に想う (1) 帰還者の痛みと祈り」

2014年5月25日

 

奥行き2~3Mの暗い壕の中。当時14歳の城間肇さんの家族ら8人がひしめき合っていた。機関銃のパラパラパラという音が遠くで聞こえてい た。

 

突然、壕の入り口をふさぐトタンが開き、何かが投げ 込まれた。 入り口近くにいた 母ウシさんは、とっさに投げ 込まれた物に向かって動いた。城間さんは、そのときの光 景を今も忘れない。 沖縄本島 から南東に約2200キロ、北マリアナ諸島テニアン島に 米軍が上陸して7日目。1944年7月30日の朝だった。

城間さんは、 真和志村(現 在の那覇市与儀から農業移 民として渡った両親の元で30 年にテニアン島で生まれ、島東部のマルポで育った。 牧草 を刈り、父、亀寿さんが耕す 約6のサトウキビ畑の仕事 を手伝う日々を過ごしていた。

 

その生活も4年ごろから、大きく変わっていく。 飛行場建設のための石運びに駆り出されたり、島に配備される日本軍のために畑で野菜を作ったりするようになっ た。学校にはほとんど通わなくなっていた。


戦火は近づき、4年6月半 ばからは爆撃と艦砲射撃が間断なく島に撃ち込まれる。 昼 の間は家の近くの壕に隠れ、 日が暮れたら家でご飯を炊いて食べる日々が続いた。

 

7月24日、米軍は島の北西部から上陸した。米軍の侵攻から逃れるため、城間さん一 家は29日に壕を離れ、30日未明に東海岸近くに見つけた壕に隠れた。

 

壕の中で朝食のおにぎりを食べたのを覚えている。 壕に投げ込まれたのは、米軍の手りゅう弾だった。 入り口近くにいた母は抱いていた生後間もない末っ子の宣彦さんを横 に置き、手りゅう弾に飛び付いた。 家族を守るための行動だったと、城間さんは受け止 めている。母の体は吹き飛び、壕の天井に母の腕がぶら下がっているのを見た。 爆発で、父もけがを負って いた。 「アメリカーは何もしないから、手を上げて出て行きなさい」。父が城間さんに 向かって言い終わる前に、も う1発、手りゅう弾が投げ込まれた。


意識を取り戻したとき、城間さんは米兵に保護されてい た。 一瞬のうちに父と母、弟を失ってから、数時間がたっていた。それから、収容所生活を送った。約3カ月着たままのシャツには両親の血が染 み付いていた。(当銘寿夫)

 

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