Exodus ~ 朝鮮人軍夫を連れた大脱出

【メモ作成中】

 

日本を覆う軍国主義プロパガンダと恐怖政治に対し、知性で抵抗を試みた者たちもいた。こうした知性と勇気を持ち合わせた名もなき英雄たちに光をあて、証言をとり掘り起こしていく作業はもっと必要なのではないか。

 

朝鮮人軍夫をごっそりと引き連れて投降した将兵は何人かいる。日本の兵士に話を持ち掛けるよりも、苦しみの中で意に添わぬ戦争のただ中に連れてこられ、日本軍の恐ろしい仕打ちにあい、酷い状況に追い込まれている軍夫たちと大脱出を試みるほうがリスクは少ない。

 

そんな大脱出をこころみた将兵についての記録を集めておきたい。

 

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米艦船チェンデラー号横のAV-10船に乗った日本人捕虜。米海軍兵により阿嘉島付近で捕らえられた(1945年3月31日撮影)

Jap prisoners in AV-10 motor launch along side USS CHANDELEUR (AV-10). Japs were captured by US Navy men on near by Aka Shima Island Kerama Retto Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

3月27日、阿嘉島の染谷少尉

軍隊には変わり者がいろいろいました。戦隊は別として基地隊とか整備隊の兵隊は召集兵がほとんどですからあまり戦闘意欲はなかっただろうと思います。

私の知っている少尉で染谷さんという人がいて、私の母が婦人会に関係していましたから、ちょいちょい家にやってきたんですが、「阿嘉の人は、いったい日本が勝つと思っているのかなあ」と言ったりしたもんです。当時の私たちには、日本が負けるなどとは考えてもみなかったのですから、日本の将校ともあろうものが、よくもそんなことが言えるものだとびっくりしたのを覚えています。この少尉は普段の態度からして軍人らしくなくて、部落の中を下駄を履いて歩いたり、隊長室で膝まずぎさせられているのを見たこともあります。

25日の晩も、染谷さんは私の家にやってきて、タンスの中から衣類を出したり、荷造りをしたりして、避難の手伝いをしてくれたんですが、この人は艦砲が始まっても酒を飲んでいて、集結命令が来ても、「ああ、僕はもう行かん」と言って動かないんですよ。その翌日、軍隊が上陸してくると、彼は朝鮮人軍夫20名ぐらいを引き連れて、白い旗を掲げて真っ先に投降して言ったんです。

この少尉が後で米軍の舟艇に乗って、スピーカーで投降を呼びかけてくるわけです。剪定のスピーカーから「糸井軍医殿。僕もおかげで碁が達者になりました。今度やってみませんか」などと話しかけてくるんです。先に話した、特攻艇が4隻出撃したという情報も、こうしてこの捕虜になった少尉が知らせてきたわけです。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)p. 707 》

阿嘉島は座間味と同じように米軍の攻撃を受けたが、座間味より被害は少なく、3月26日に米軍の一部が上陸したが、月末になると島から撤退をして、慶良間の米軍基地が座間味に設置されて、そこから小型舟艇で昼間だけ偵察に来て、島に上陸し夕方になると大挙していた。米軍の阿嘉上陸の時、一人の日本軍将校が多数の朝鮮人軍夫と米軍に投降した。その時の将校がこの S 少尉である。

 S 少尉のことは阿嘉島でも米軍上陸の3月26日から行方がわからなくなったので、島内のどこかで戦死したのではないかと言われていたが、将校自らが投降した事が明らかになると、士気にも関わるので内密になっていた。

《関根清『血塗られた珊瑚礁 - 一衛生兵の沖縄戦記』JCA出版 (1980年) p.215》

 

6月30日、渡嘉敷の曾根一等兵

6月30日に10人以上の軍夫が集団で脱走する事件が起きた。主導したのは第3中隊に所属していた曾根一等兵であった。手口が鮮やかだったために、炊事班長として軍夫を使っていた元防衛隊員の大城良平氏や軍夫の捜索隊長だった知念朝睦氏は曾根が堪能な朝鮮語を駆使して福田軍夫長と綿密な打ち合わせをした上で実行したと思っていたが、実はそうではなかった。

《伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』(2020/2/1) p. 224》

もはや、二三四高地で生存も危ういほどの飢餓に耐え、砲弾の下をかいくぐって任務を遂行することに何の意味も見出せなかった。犬死にしたくはなかった。今、米軍に投降すれば生命を落さずにすむ。戦友にもそう呼びかけたかった。だが、徹底した皇国思想、軍国教育を叩き込まれている日本兵に米軍への投降を呼びかけるのは危険だった。この期に及んで、未だに神国日本は必ず勝つ、と狂信している者も少なくなく、客観的な見通しをおくびに出すことさえはばかられた。実際、誰れが密告したのか、中隊長に呼び出されて、「貴様、悲観論を吹聴しとるというではないか」と、鼻先に軍刀をつきつけられたこともあった。日本兵には明かせない。けれど、なるべく多くの者と、ともに生きたかった。…(中略)...

6月29日夜、曾根氏は芋や芋の葉の入った袋を背にした軍夫らを率いて阿波連を発った。一キロほど行くと、渡嘉志久(とかしく)の浜が見える峠にさしかかる。「決行は今夜だ」そう決意したのは、暗がりの中で鈍くたゆたう海を峠から見下ろした時だ。…(中略)... まず、軍夫長フクダに決行を打明けた。そして、軍夫たちへの呼びかけを依頼した。曾根氏は朝鮮語がまったく分らなかったし、軍夫も日本語が通じる者はごく少数だった。また、軍夫個々の気性も、どのような考えを持っているのかも、知らなかった。あまりつき合いのない曾根氏が直接呼びかけたのでは軍夫はかえって警戒する。時間もなかった。…(中略)... フクダとは肝胆相照らす間柄というわけではなかったが、以前からつき合いはあった。そして、その日、同じ糧秣運搬の任務を負い、曾根氏の指揮下にあった。フクダは朝鮮人であったが、日本語が堪能だったため軍夫長に選ばれていたのだ。フクダが自分の配下十数名を連れて来るまで三十分もあったかどうか。その中に女が混っていた。…(中略)... 軍夫長と軍夫だけでは歩哨線は通過できないが、日本兵である曾根氏が引率していたため、歩哨は何の疑念も抱かなかった。一行は難なく監視哨を通過した。その後も追手は来なかった。…(中略)... 本部ではまだ、曾根氏と軍夫らの逃亡には気づいてはいなかったのである。曾根氏が率いた一行、軍夫長と軍夫約二十名、それに慰安所にいた女は、米軍の上陸用舟艇に無事乗船した。

《川田文子『赤瓦の家』(2020/6/17) 》

 

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  1. ◆ 美しい壺日記 ◆ 渡嘉敷島での軍夫の逃亡事件と第三戦隊による処刑(上)
  2. ◆ 美しい壺日記 ◆ 渡嘉敷島での軍夫の逃亡事件と第三戦隊による処刑(下)