Exodus ~ 朝鮮人軍夫を連れた大脱出

【作成中】

 

日本を覆う軍国主義プロパガンダと恐怖政治に対し、知性で抵抗を試みた者たちもいた。こうした知性と勇気を持ち合わせた名もなき英雄たちに光をあて、証言をとり掘り起こしていく作業はもっと必要なのではないか。

 

徹底して叩きこまれたデマや洗脳にながされず、

指揮系統朝鮮人軍夫をごっそりと引き連れて投降した将兵は何人かいる。日本の兵士に話を持ち掛けるよりも、苦しみの中で意に添わぬ戦争のただ中に連れてこられ、日本軍の恐ろしい仕打ちにあい、酷い状況に追い込まれている軍夫たちと大脱出を試みるほうがリスクは少ない。

 

そんな大脱出をこころみた将兵についての記録を集めておきたい。

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/neverforget1945/20210211/20210211150837.png

米軍慶良間上陸あす26日で70年 座間味で慰霊祭 | 沖縄タイムス 

 

阿嘉島の場合

海上挺進第2戦隊(野田義彦少佐 / 阿嘉島慶留間島

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/neverforget1945/20200302/20200302034850.png

米艦船チェンデラー号横のAV-10船に乗った日本人捕虜。米海軍兵により阿嘉島付近で捕らえられた(1945年3月31日撮影)

Jap prisoners in AV-10 motor launch along side USS CHANDELEUR (AV-10). Japs were captured by US Navy men on near by Aka Shima Island Kerama Retto Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

3月20日、染谷少尉が朝鮮人軍夫を連れて投降

まともではない時代には、まともなものが変わり者だとされる。朝鮮人軍夫だけではなく、住民や、部下の兵士に対しても尋常ではないリンチと処刑を加えた野田隊。沈みゆく泥船からどのように脱出すべきか、何人かの兵士は命がけで脱出した。

 

軍隊には変わり者がいろいろいました。戦隊は別として基地隊とか整備隊の兵隊は召集兵がほとんどですからあまり戦闘意欲はなかっただろうと思います。

 

私の知っている少尉で染谷さんという人がいて、私の母が婦人会に関係していましたから、ちょいちょい家にやってきたんですが、「阿嘉の人は、いったい日本が勝つと思っているのかなあ」と言ったりしたもんです。当時の私たちには、日本が負けるなどとは考えてもみなかったのですから、日本の将校ともあろうものが、よくもそんなことが言えるものだとびっくりしたのを覚えています。この少尉は普段の態度からして軍人らしくなくて、部落の中を下駄を履いて歩いたり、隊長室で膝まずぎさせられているのを見たこともあります。

 

25日の晩も、染谷さんは私の家にやってきて、タンスの中から衣類を出したり、荷造りをしたりして、避難の手伝いをしてくれたんですが、この人は艦砲が始まっても酒を飲んでいて、集結命令が来ても、「ああ、僕はもう行かん」と言って動かないんですよ。その翌日、軍隊が上陸してくると、彼は朝鮮人軍夫20名ぐらいを引き連れて、白い旗を掲げて真っ先に投降して言ったんです。

 

この少尉が後で米軍の舟艇に乗って、スピーカーで投降を呼びかけてくるわけです。舟艇のスピーカーから「糸井軍医殿。僕もおかげで碁が達者になりました。今度やってみませんか」などと話しかけてくるんです。先に話した、特攻艇が4隻出撃したという情報も、こうしてこの捕虜になった少尉が知らせてきたわけです。 

     

鈴木隊の中隊長をしていた小森中尉白昼堂々と米軍の捕虜になっていった人です。私が漁撈班にはいったころで、阿嘉の浜で魚をとっていたところ、座間味の方からまっすぐこちらへ舟艇が向ってくるんです。私らは岩陰にかくれて様子をうかがっていたところ、山から小森中尉が雑のうを肩にかついで、ゆうゆうと下りてくるわけです。舟艇が浜に着くと中尉はそれに乗って去っていったもんです。この中尉は終戦のときはハロー帽(米兵帽)をかぶり、ピストルをさげて米軍に協力していました。

 

これにはいろいろないきさつがあって、小森中尉は野田隊長にうらみをもって敵前逃亡をやったんだろう、という評判でした。そのいきさつというのは部下のA班長の処刑の一件のことです。「この兵長は最初の戦闘で背中に迫撃砲で穴をあけられて、医務室で治療を受けていました。私は、そのときは医務室勤務にまわされていましたから、よく知っているわけです。

 

この兵長はちょいちょい他人の飯を盗むんです。私らも何度も盗まれました。初めのうちは誰の仕業かわからんかったんですが、あるとき防衛隊の人たちが、彼らの飯盒を盗んでいく兵長をみつけたんですね。これが二ノ木主計中尉に知られて、本部にひっぱっていかれたんです。したたか殴りころしたうえで銃殺にしたそうです。

 

処刑の日に、小森中尉が泣きながらA兵長と話しているのを私はそばで聞いていました。将校運用のなかでもA兵長の処刑に反対した者が多かったそうです。野田隊長の命令でそうなったんですね。

      

兵長には、最後の食事だと言って、ギン飯に青竹の箸を立てたのを出してあったんですが、ぜんぜん手をつけませんでした。その前で小森中尉が泣きながらA兵長を慰めているわけです。「君はただ少し先になるだけだ。ぼくらもすぐ死ぬんだから」と言っていました。後で、野田隊長は、A兵長は敵前逃亡の罪で処刑したのだと言っていましたが、私はそうとは知りませんでした。

 

そういうわけで、悠々と投降していった小森中尉は前まえから野田隊長にすごく反感をもっているようでした。あれは腹いせで投降したんだろうと思います。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)p. 707 》

阿嘉島は座間味と同じように米軍の攻撃を受けたが、座間味より被害は少なく、3月26日に米軍の一部が上陸したが、月末になると島から撤退をして、慶良間の米軍基地が座間味に設置されて、そこから小型舟艇で昼間だけ偵察に来て、島に上陸し夕方になると大挙していた。米軍の阿嘉上陸の時、一人の日本軍将校が多数の朝鮮人軍夫と米軍に投降した。その時の将校がこの S 少尉である。

 S 少尉のことは阿嘉島でも米軍上陸の3月26日から行方がわからなくなったので、島内のどこかで戦死したのではないかと言われていたが、将校自らが投降した事が明らかになると、士気にも関わるので内密になっていた。

《関根清『血塗られた珊瑚礁 - 一衛生兵の沖縄戦記』JCA出版 (1980年) p.215》

 

染谷少尉 - 米軍捕虜調書からわかること

染谷少尉は、米軍が阿嘉島に上陸した3月26日の2日後の3月28日、進んで米軍に投降している。尋問調書には、「米軍が、阿嘉島に上陸した時、抵抗は無益だと判断し、捕虜になるのを決めた。米軍戦車が、彼の潜む壕を封鎖しようとした時、進んで投降した」。

染谷少尉は、米第24軍団情報部にて4月15日、4月20日と2度にわたり尋問を受けている。最初の尋問の際、彼は偽名を使い、情報を隠していた。2度目の尋問では、偽名を使用したことや情報を秘匿したことを米軍に詫び、改めて事実を話し始めた。

彼は、1930年代初期に大学を卒業しており、その時代は大学の自由な雰囲気が残っており、自由にものを考える時間があったという。彼は、戦前から「親米派」であるが、新時代で成長した士官らは、軍国主義に染まり国に対しては絶対服従であったと次のように述べている。

「捕虜が言うには、自分は長い間軍閥に対し反対してきた。そのため (軍閥を) 打ち倒すことが、何にも増して必要だと主張している。また自分が投降したのは、自決しても『何の意味もないからだ』と考えたからだと述べている。彼は、アッツ島やタラワ島以来一般的になった玉砕主義 (The doctrine of Death to the Last man) には反対だという。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版2015年196-197頁》

 

米軍の情報部と共に投降交渉をとりつける

1945(昭和20)年6月5日、米第10軍情報機関CICA, G-2, 10th Army, HQ)は、阿嘉島日本軍守備隊の降伏を勧めるため、降伏交渉団(以下、交渉団)を組織した。交渉団のメンバーは団長のクラーク中佐のほかに、…オズボーン海軍中尉、…スチュワート海軍中尉、日系2世の…オダ軍曹、それに日本兵捕虜の染谷…少尉(阿嘉島日本軍守備隊)と神山…中尉(座間味島日本軍守備隊)の5人だった。

一行は6月10日、座間味島米軍守備隊司令部に阿嘉島行きの許可を求めた。6月12日、同司令部の許可を得た5人は、午後遅く軍の郵便物輸送艇で座間味島に渡り、その足で同守備隊司令部に出向き、降伏交渉の諸準備にとりかかった。

この作戦は日本兵捕虜の協力に負うところが大きかったが、その中でも特に米軍の間で「まれに見る進歩的な日本兵」として知られていた染谷少尉の働きが大きかった。同少尉は阿嘉島日本軍守備隊について熟知し、山中に潜んだ日本兵や住民らの悲惨な状況、とりわけ飢餓状態のまま放置されている住民・一般兵・朝鮮人軍夫の惨状に強い懸念を抱いていて、この作戦こそが彼らを救出するまたとない機会だと決めていた。(179頁)

…降伏交渉団は6月13日〜19日までの7日間、阿嘉島の8つの海岸で大音量の拡声器を使用して日米会談の開催を日本語で呼び掛けた。放送は主として染谷少尉が担当した。…日本軍も住民も、放送には興味は抱いているようだったが、投降する気配は全くなかった。ところが、呼び掛け最終日の6月19日、交渉団はついに日本軍側と海岸で接触することができた。(180頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇/元就出版社) 179-180頁より》

染谷少尉は、阿嘉島に上陸し竹田少尉に直に降伏交渉の設定を提案する。また同時に、既に捕虜になっている座間味の梅澤にも交渉を持ちかけた。

とっさのことで言葉も通ぜず、双方で騒いでいるとき、海岸に接岸していた発動艇から、米軍の服装をした日本人が、「竹田少尉しばらくでした。私です」と声をかけられた。それは、まぎれもなくS少尉であったので、竹田少尉は奮然として口をつぐんだが、今目の前に起きたことを解決しなければならず、怒りを押さえて、S少尉から米軍に兵隊を放してくれるように頼んだ。S少尉の口利きで、その兵隊はもらい下げることができた。S少尉はそのとき、現在の状況について詳しく竹田少尉に説明し、隣りの座間味島では多くの兵隊が投降していることを告げ、梅澤第一戦隊長も重傷を負って米軍に収容されたことを話した。

竹田少尉は、そうしたことを話すS少尉に対して、忘れかけていた怒りを新らしく覚えたのだったが、それを押えて聞いたのだ。

数日前、自からの名を明して投降をすすめたS少尉を目の前にして、日本軍人の恥を忘れたかのような幹候出身の将校が今ここに実在していることについて、さめやらぬ侮辱と怒りを消すことはできなかったが、S少尉は、

「竹田少尉、実は......」と米軍からの申入れについて語ったのだ。それによると、来たる二十六日午前、米軍の慶良間方面司令部のクラーク中佐が、現在の戦況の説明をするから、阿嘉島の日本軍も戦隊長と幹部の将校が、双方軍使として、大谷海岸で会見をしたいから、ということであった。

「私も近日中本島に送られるものと思う。もう二度と会えないが、隊の皆さんもぜひ生命は大切にして下さい」と言い、その日のことについてはよろしくお願いしたいと言った。

「これは少ないが、戦隊長に」と、幾箱かの米国製の煙草を渡したのだ。竹田少尉も、戦隊長にかならず伝える旨を約して、その日は双方別れた。

《関根清『血塗られた珊瑚礁―一衛生兵の沖縄戦記』 JCA出版 (1981年) 218-219頁 》

その後も、阿嘉島での日米会談のことについて米軍から通達が続けられている間に、米軍もそれについて準備していて、嘉手納の収容所に居る座間味の第一戦隊長である梅澤少佐に、阿嘉島で行なわれる会談に立合せて、戦況状態の話をすれば、ある程度は阿嘉島の日本軍も信じるであろうということになり、その依頼を座間味で戦友救出にたずさわっていた者から、梅澤少佐に頼んでみてはということになり、S少尉が訪ねてきたのだった。S少尉はそれまでのことを話し、「自分は近いうちにアメリカ本土へ送られるものと思うが、あとのことはあなたがたでよろしく頼みたい」と、つけ加えた。S少尉と岩橋一等兵は、次の日医務室際にある傷病者天幕に梅澤少佐を訪ね、事の成行を説明した。

梅澤少佐もその頃には、米軍の行き届いた治療により、左足肘の傷も順調に快方に向い、ギブスをはめてはいたが、杖を突いて立ち上がれるようになっていた。

二人の話を聞いた梅澤少佐は、これを納得したのだ。

《関根清『血塗られた珊瑚礁―一衛生兵の沖縄戦記』 JCA出版 (1981年)  200-201頁 》

実際の交渉

『…6月26日午前9時、交渉団一行はウタハの浜に拡声器と黄色の旗を携えて上陸した。…午前11時頃、ついに、正装した野田少佐が2人の軍曹と数人の武装護衛兵を伴って交渉団の前に姿を現した。日本軍の警備兵は交渉現場には直接姿を見せなかったが、そこから約35ヤード(約32メートル)ほど離れた茂みの中で警戒に当たっていた。一方、米軍側の護衛兵は海岸から300ヤード(約274メートル)ほど沖に停泊している歩兵上陸用舟艇の中で警戒の任に当たっていた。』(188頁)

『…クラーク中佐が会談の口火を切った。同少佐は野田少佐に対し、戦況、特に沖縄本島における日本軍の敗北について話した。その上で、戦争終結後の日本軍兵士の役割に触れ、「平和な日本の再建のためには野田少佐や若い有能な部下将兵の貢献が必要であり、無意味な自決や餓死を待つのではなく、生きる勇気を持つことが大切である。このことが天皇に忠誠を尽くす最善の方法でもある」と力説し、阿嘉島日本軍守備隊の降伏を勧めた

一方、野田少佐の会談冒頭の発言は、「米軍は武力による阿嘉島の占領を企んでいるのではないか。もし、そうだとすれば、それは軍事基地の強化が狙いなのか」というものだった。…これに対し、クラーク中佐は、交渉団は座間味島米軍守備隊とは組織上直接には関係ないので、この件については返答しかねると答えるとともに、慶良間諸島のほかの島々はすべて米軍の支配下にあり、軍事基地も十分確保できている、とつけ加え日本軍側の不安の払拭に努めた。…その後、野田、梅沢の両少佐は、……2人だけで話し合いを持つことになった。』(189頁)

『…野田少佐は「結論を出すにはもう少し時間が欲しい」とクラーク中佐に伝えた。しかし、同少佐は、呼び掛けを開始して2週間も経っており、検討する時間は十分あったはずだとし、…野田少佐は…次の日の午前10時に最終回答を提示したいとの新たな提案を行い了承された。』(190頁)

『日米会談2日目の6月27日午前9時、交渉団は座間味島米軍守備隊から派遣された護衛兵を伴い、歩兵上陸艇でウタハの海岸に向け出発した。9時30分、ウタハの浜に到着し、…10時15分、竹田少尉と2人の軍曹からなる日本軍側の交渉団一行が現れた。しかし、その中に野田少佐の姿はなかった。…竹田少尉は「野田少佐がこの場に直接出席できないのは残念だが」と前置きしながら、野田少佐の回答をクラーク中佐に手渡した。…回答の内容は次のとおりだった。

… 回答

1. 天皇やその代理の者からの命令が無い限り、降伏はできない。これは全軍の総意である。

2. 阿嘉島に対する米軍の攻撃には反撃する。ただし、軍事行動を行わない限り、日本軍は米兵がビーチや港内において貝拾いや海水浴を楽しむ分には、何ら危害を与えることはない。

3. 座間味島に収容された阿嘉島の帰島については、私は、米軍の要請に従い、住民の解放に関し、そのような約束をしたけれど、阿嘉島に未だ残っている住民は座間味島に住むことに反対している。従って、私はその要求を受け入れることは出来ない。…』(194-195頁)

『…竹田副官は、…野田少佐の心境を次のように伝えた。

野田少佐は米軍側の誠意や善意も十分理解している。できることなら、生き延びて国際社会で尊敬される新生日本の建設のために尽くしたいのだが、残念ながら軍紀および武士道精神に反する行為を受け入れることはできない。また、降伏を受け入れることは、下された命令と長年受けてきた教育にも反する。竹田副官は、このように、野田少佐の苦しい心境を伝えた後、米軍側の理解を求めた。…このようにして、2日間にわたって行われた日米会談は、残念ながら決裂した。』(196頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇/元就出版社) 188、189、190、194-195、196頁より》

 

 

渡嘉敷島の場合

海上挺進第3戦隊(戦隊長: 赤松嘉次大尉)

6月30日、渡嘉敷の曾根一等兵

6月30日に10人以上の軍夫が集団で脱走する事件が起きた。主導したのは第3中隊に所属していた曾根一等兵であった。手口が鮮やかだったために、炊事班長として軍夫を使っていた元防衛隊員の大城良平氏や軍夫の捜索隊長だった知念朝睦氏は曾根が堪能な朝鮮語を駆使して福田軍夫長と綿密な打ち合わせをした上で実行したと思っていたが、実はそうではなかった。

《伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』(2020/2/1) p. 224》

もはや、二三四高地で生存も危ういほどの飢餓に耐え、砲弾の下をかいくぐって任務を遂行することに何の意味も見出せなかった。犬死にしたくはなかった。今、米軍に投降すれば生命を落さずにすむ。戦友にもそう呼びかけたかった。だが、徹底した皇国思想、軍国教育を叩き込まれている日本兵に米軍への投降を呼びかけるのは危険だった。この期に及んで、未だに神国日本は必ず勝つ、と狂信している者も少なくなく、客観的な見通しをおくびに出すことさえはばかられた。実際、誰れが密告したのか、中隊長に呼び出されて、「貴様、悲観論を吹聴しとるというではないか」と、鼻先に軍刀をつきつけられたこともあった。日本兵には明かせない。けれど、なるべく多くの者と、ともに生きたかった。…(中略)...

6月29日夜、曾根氏は芋や芋の葉の入った袋を背にした軍夫らを率いて阿波連を発った。一キロほど行くと、渡嘉志久(とかしく)の浜が見える峠にさしかかる。「決行は今夜だ」そう決意したのは、暗がりの中で鈍くたゆたう海を峠から見下ろした時だ。…(中略)... まず、軍夫長フクダに決行を打明けた。そして、軍夫たちへの呼びかけを依頼した。曾根氏は朝鮮語がまったく分らなかったし、軍夫も日本語が通じる者はごく少数だった。また、軍夫個々の気性も、どのような考えを持っているのかも、知らなかった。あまりつき合いのない曾根氏が直接呼びかけたのでは軍夫はかえって警戒する。時間もなかった。…(中略)... フクダとは肝胆相照らす間柄というわけではなかったが、以前からつき合いはあった。そして、その日、同じ糧秣運搬の任務を負い、曾根氏の指揮下にあった。フクダは朝鮮人であったが、日本語が堪能だったため軍夫長に選ばれていたのだ。フクダが自分の配下十数名を連れて来るまで三十分もあったかどうか。その中に女が混っていた。…(中略)... 軍夫長と軍夫だけでは歩哨線は通過できないが、日本兵である曾根氏が引率していたため、歩哨は何の疑念も抱かなかった。一行は難なく監視哨を通過した。その後も追手は来なかった。…(中略)... 本部ではまだ、曾根氏と軍夫らの逃亡には気づいてはいなかったのである。曾根氏が率いた一行、軍夫長と軍夫約二十名、それに慰安所にいた女は、米軍の上陸用舟艇に無事乗船した。

《川田文子『赤瓦の家』(2020/6/17) 》

 

 

 

 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

 

  1. ◆ 美しい壺日記 ◆ 渡嘉敷島での軍夫の逃亡事件と第三戦隊による処刑(上)
  2. ◆ 美しい壺日記 ◆ 渡嘉敷島での軍夫の逃亡事件と第三戦隊による処刑(下)