座間味島 梅澤隊長の沖縄戦

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2] に加筆

 

  1. 海上挺進第1戦隊 (隊長: 梅澤祐) - 座間味
  2. 海上挺進第2戦隊 (隊長: 野田義彦) - 阿嘉島・慶留間島
  3. 海上挺進第3戦隊 (隊長: 赤松嘉次) - 渡嘉敷

 

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《伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』紫峰出版 (2020) 8頁》

 

座間味 - 梅澤祐隊長の沖縄戦

3月25日 忠魂碑前に集合という命令

3月26日 朝、朝鮮人軍夫にも集合命令が出されたが、彼らは集合しなかった。住民177人の集団死がおこる。

4月上旬 住民3人の処刑

4月上旬 兵士2人をチシの浜で処刑

4月20日 掃討戦により部隊が事実上解散

6月8日 梅澤隊長が慰安婦のトミヨと共に捕虜となる

6月26日 阿嘉島の投降交渉

 

3月26日の夜 - 朝鮮人軍府の証言

米軍の猛攻の前に、日本軍は一矢を報いることもなく敗走し、戦隊本部は各島の中央高地に後退した。

前掲『沖縄方面陸軍作戦』によれば、米軍上陸後の座間味島阿嘉島戦隊本部の動向はおよそつぎのようである。

座間味島では、戦隊長梅沢裕少佐が各中隊に特攻艇の破壊と隊員の中央高地(番所山、一四三メートル)への集結を命令。集結が遅れた第三中隊は米軍と遭遇して交戦、多数が戦死。その夜、午前零時を期し防衛隊、住民青年女子をふくむ第一・第二中隊が斬込み攻撃を行ない、ほぼ全滅。翌二七日、米軍が高月山、阿佐部落に進出したため戦隊本部は番所山陣地から北東約一キロメートルの山間に後退した。

阿嘉島では、中央高地(中岳、一六七メートル、当時戦隊長名にちなんで「野田山」と呼ぶ)付近の赤上原に戦隊本部を移動。隊長野田義彦少佐は二六日夜半に全員斬込みと特攻艇の出撃を命令。住民の義勇隊員を含む総員出撃で、軍夫100人は特攻艇の泛水に動員された。しかし斬り込みは失敗し、特攻艇の出撃も米軍に阻まれて中止。翌二七日夜、ふたたび特攻艇出撃を企図したが、特攻艇が破壊されていたため断念し、以後、中岳付近陣地で持久戦に入る。

以上は海上挺進戦隊(特攻隊)を中心とした「戦闘記録」であり、水勤隊をふくむ全部隊がこれに従ったのではない。算を乱した日本軍を統率する能力はすでに失われていた。したがって軍夫たちの体験は一人ひとり異なっている。

二六日、座間味部落から東の山をこえた所の小さな湾で緊張した朝を迎えた千沢基、金東研(押梁面新空洞)、安命岩(慈仁面西部洞)ら水勤隊第三小隊第二分隊員は、空襲と艦砲射撃が開始されると、山すその大きな洞窟壕に入って難を避けた。そこには兵隊や軍夫のほかに防衛隊員らしい住民など200人あまりが身を潜めていた。間断ない攻撃のため外部の状況を知ることができない彼らは、銃砲声の遠近で米軍が身近に迫ったことを判断し、いつ火炎放射器の真赤な炎が壕口をのぞくかおびえていた。

砲声が遠のいた夜が訪れ、助かったことに胸をなで下ろしていると日本軍将校が現われ、焦燥している人びとに向って狂気のように、しかし絶望的な声を絞って告げた。「大日本帝国は神国である。万世一系の皇統は決して滅びることはない。鬼畜米英が物量をたのんで、いま、あのように攻撃を加えてきたがかならず撃退されるであろう。神風が吹くに違いない。援軍がくるだろう。その時に備えて全員番所山陣地に集結せよ

兵隊たちは将校に従って壕からそっと出て行った。軍夫たちは互いに顔を見合わせ同行すべきかどうか迷っていたが、千沢基ら数人は壕を出て、ちかくの特攻艇秘匿壕に身を隠した。山へ登るよりその方が安全だと思ったからである。

《 海野福寿・権丙卓『恨(ハン)―朝鮮人軍夫の沖縄戦河出書房新社 (1987) 188-189頁》

 

座間味村助役の宮里盛秀さんの妹二人の証言

「軍命受けた」助役明言/妹2人が初めて証言

沖縄タイムス

2007年7月6日(金) 朝刊 1面
座間味「集団自決」45年3月25日夜

 

 沖縄戦時下、座間味村で起きた「集団自決(強制集団死)」で、当時の助役が「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」と話していたことが、助役の妹二人の証言で六日までに分かった。当事者が初めて証言した。「集団自決」の軍関与が教科書検定で削除され、軍命の有無をめぐる裁判が進む中、日本軍の軍命を示す新証言として注目される。(編集委員・謝花直美)

 

 証言したのは「集団自決」で亡くなった当時の座間味村助役の宮里盛秀さんの妹・宮平春子さん(80)=座間味村=と宮村トキ子さん(75)=沖縄市

 

 座間味島への米軍上陸が目前となった一九四五年三月二十五日夜。春子さんら家族と親族計三十人が避難する座間味集落内の家族壕に、盛秀さんが来た。父・盛永さんに対し「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するよう言われている。間違いなく上陸になる。国の命令だから、潔く一緒に自決しましょう」というのを春子さんが聞いた。午後十一時半に忠魂碑前に集合することになったことも伝えた。

 

 集合時間が近づき、壕から出る際、トキ子さんの目前で、盛永さんは盛秀さんを引き留めようとした。盛秀さんは「お父さん、軍から命令が来ているんです。もう、いよいよですよ」と答えた。

 

 その後、盛秀さんは産業組合壕へ移動。同壕の「集団自決」で盛秀さんら家族を含め六十七人が亡くなった。

 

 当時、盛秀さんは防衛隊長も兼ね、軍の命令が村や住民に出されるときには、盛秀さんを通した。

 

 春子さんもトキ子さんも、沖縄県史や座間味村史の編集作業が行われた七〇―八〇年代に同島におらず、証言の機会がなかった。

 

 座間味島の「集団自決」の軍命を巡り、岩波書店大江健三郎さんが名誉棄損で訴えられた「集団自決」訴訟では、元戦隊長が、助役が軍命を出したと主張。さらに訴訟資料を参考に文科省教科書検定で、「集団自決」記述に修正意見がつき、日本軍関与が削除されている。

 

「軍の命令だ」と兄はいって3人のわが子を手にかけ“自決”した

沖縄 – 全日本民医連

なぜ今になって、軍の命令をなかったことにするのか。真実は曲げられない。

 あまりにつらい記憶のため、これまで口を開かなかった人たちが体験を語り始めています。宮平春子さん(82)もその一人。県民集会でメッセージを代読してもらいました。慶良間諸島座間味島に住んでいます。

 戦前、座間味島は半農半漁の静かな島でした。一九四四年九月、日本軍は慶良間諸島座間味島慶留間島などを、特攻艇の秘密基地にしました。座間味島に 上陸した日本軍はおよそ一四〇〇人。村人は特攻艇を隠す壕掘りや食糧確保に動員され、女性も軍の経理や炊事、看護などの軍属として働いていました。

 

 住民は否応なく軍の秘密も知ることとなり、他の島にいくにも許可が必要、自由な移動もできなくなりました。

 

 一九四五年三月二三日、米軍の空襲で島の建物はほとんどが破壊炎上しました。海は米艦船で埋め尽くされ、島々は完全包囲されました。二四日も空襲が続 き、二五日には艦砲射撃も始まりました。住民たちは小さな島で逃げ場を失い、避難壕を転々としていました。 

 

 住民には、日本兵から手榴弾が配られていました。「鬼畜」のアメリカに捕まったら「男は八つ裂きにされ、女は強姦されて殺される」だから捕まる前に潔く「自決しなさい」と。

 

 米軍上陸の前夜、「三月二五日、忠魂碑前に集合」という命令が出ました。忠魂碑は、毎月八日の大詔奉戴日に戦意高揚の儀式がおこなわれていた特別の場所 でした。いよいよ最期の時がきた。住民は子どもたちに晴れ着を着せ、大切にとっておいた白米を炊き、食べさせました。

 

産業組合壕で67人が「自決」
 春子さん(当時19歳)も、家族と親族三〇人で壕を転々と逃げ回り、二五日が暮れたころ、産業組合壕の近くに掘っておいた宮里家の壕にたどり着きました。そこに村の助役で兵事主任兼防衛隊長だった兄・宮里盛秀(当時33歳)が戻ってきました。
 兄は思い詰めたようすで、憔悴しきっていました。父・盛永のそばに来ると「米軍の上陸は免れない。軍の命令で玉砕することになっているから、一緒に死の う」というのを春子さんはハッキリ聞いていました。「いや、私死にたくない」と思いましたが、口に出せませんでした。
 兄の盛秀は「迷惑ばっかりかけ親不孝でしたが、あの世で孝行を尽くします」といい、父と別れの水杯をしました。盛秀には七歳を頭に四人の子どもがいまし た。盛秀は大粒の涙をこぼし「ここまで育てたのに悔しい。自分が手にかけるなんて。ゴメンね。お父さんも一緒だからね」と、子どもたちをぐっと抱きしめま した。兄の嗚咽が暗い壕に広がりました。最後の握り飯をほおばっていた子どもたちは、目を白黒させていました。
 忠魂碑に向かった一家は、忠魂碑から引き返してくる住民から「照明弾が落ち、忠魂碑にはもう誰もいない」と知らされます。産業組合壕で自決しようと戻っ てみると、産業組合壕はすでにいっぱいで三〇人の親族全員が入ることはできず、兄夫妻と三人の子だけが入りました。
 壕に入れなかった春子さんたちは、宮里家の壕に戻りました。これが兄との最後の別れとなりました。この夜、産業組合壕では村長、助役、収入役など一五家族・六七人が「集団自決」。うち二六人は小学生以下でした。
 春子さんたちは死にきれず、数カ月にわたって逃げ回り、米軍に降伏しました。
 「この話をすると目の前に(あのときの)子どもたちの姿が現れて、自分も胸がいっぱいになってしまうのです。かわいい子どもを手にかけたときにはどんな 思いであれした(殺した)のかねと思うと涙が出ますよ」と声を詰まらせました。
 春子さんはこの体験を他人に話すことはありませんでした。兄の盛秀が「自決の命令を出した」という人もいましたが、反論もしませんでした。あまりにもつらい記憶がよみがえってくるからです。


兄をだまして証文に判を

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座間味集落の外れにある忠魂碑。1945年3月25日、
住民はここに集合せよと命令を受けた

 その春子さんが口を開いたのには、理由があります。
 文科省の検定意見は、座間味島の戦隊長であった梅澤裕元少佐らが「軍命はなかった」として裁判をおこしていることをあげ、書き換えを指示しています。
 しかし事実はどうだったか。
 梅澤元少佐は、米軍上陸後、次々と突撃命令を出し、多くの将兵を死に追いやり、米軍に軍事機密を知られてはならないと、住民をスパイ容疑で虐殺し、自決へと追い込んだ責任者です。


 梅澤自身は、朝鮮人慰安婦を連れて壕を転々と逃げ回り、四月一〇日、各隊に独自行動を命令。部隊を事実上、解散してしまいました。本人は自決もせず生き延び、米軍に捕まったときも朝鮮人慰安婦といっしょでした。住民から石を投げられ、米軍に保護されながらトラックに乗せられ連行されたのです。

 

 その梅澤元少佐が一九八七年、座間味を訪れました。「軍命はなかった。住民は自発的に集団自決した」という証文をとるためでした。
 彼は、元助役で兵事主任だった宮里盛秀さんの弟の幸延さん、つまり春子さんのすぐ上の兄と会い、「一筆書いてほしい」と頼みます。幸延さんは拒みまし た。そもそも当時、幸延さんは徴兵で福岡におり、座間味にはいなかったのです。ところがその夜…。以下、『母の遺したもの』(宮城晴美著、高文研)を引用 します。


 「M・Y氏(宮村幸延氏=森住注)の元戦友という、福岡県出身の二人の男性が、慰霊祭の写真を撮りに来たついでにと、泡盛を持参してM・Y氏を訪ねて来 た。戦友とはいっても所属が異なるため、それほど親しい関係ではないし、またなぜ、この二人が座間味の慰霊祭を撮影するのか疑問に思いながらも、はるばる 遠いところから来てくれたと、M・Y氏は招き入れた。何時間飲み続けたか、M・Y氏が泥酔しているところに梅澤氏が紙を一枚持ってやってきた。家人の話で は朝七時頃になっていたという。『決して迷惑はかけないから』と、三たび押印を頼んだ。上機嫌でもあったM・Y氏は、実印を取り出し、今度は押印したので ある」

 

無念の死を無駄にできない

 その二一日後、神戸新聞に「座間味の集団自決に梅澤氏の命令はなかった」という記事が掲載され ました。さらに二〇〇五年、梅澤元少佐と渡嘉敷島の戦隊長だった元大尉の遺族が、名誉毀損されたとして『沖縄ノート』の出版元岩波書店と著者大江健三郎氏 を相手取り、裁判をおこしたのです。その証拠として幸延さんに判を押させた文書が提出されました。

 

 梅澤元少佐は幸延さんを二重三重に貶めたのです。この事実を知らされ、さらに、ことし文部科学省の検定で「沖縄戦の集団自決(強制集団死)」から「軍命」が削除されると知った春子さんは、もう、怒り心頭でした。

 

 「あのとき長兄は、『軍の命令だ』とハッキリいっていた。兄がいった真実を曲げられたら、また悲惨な戦争が繰り返される。兄の無念の死を、無駄にさせて はいけない。下の兄を酔わせたうえだまして判を押させ、それを証拠にするなんて汚い。絶対に許せないよ」

「軍の命令だ」と兄はいって3人のわが子を手にかけ“自決”した 沖縄 – 全日本民医連

 

米軍が沖縄戦で記録する ex-geisha girl とは慰安婦のことである。

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座間味島の地元民。日本軍の少佐と共に見つかった芸者ガールのヘレン・トミオ。(1945年5月31日撮影)

Natives on Zamami Shima, Ryukyu Islands. Helen Tomio, Geisha girl found with Jap Major.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

※撮影日が6月である可能性

 

住民だけではなく、兵士にも虐待を重ねていた梅澤は、この後、捕虜収容所でも、また病院でも「お礼参り」されることになる。

 

米軍は特攻機対策として座間味島にレーダーと高射砲を設置。座間味で投降勧告と掃討作戦を行う。

 

 

 

3月28日に投降し座間味の収容所にいた岩橋一徳らは積極的に米軍と交渉し部隊の投降交渉計画をすすめる。6月10日過ぎには梅澤らと共に屋嘉捕虜収容所に送られた。

捕虜収容で大きな役割を果たしたのが通信兵だった岩橋一徳氏である。同氏は東京帝大経済学部卒のインテリで、当時26歳、一等兵として座間味に来ていたが、戦況は絶望的と考え予定通り米軍上陸直後に投降した。慶良間諸島での捕虜第1号である。4月末頃には、山中に残っている戦友を迎えに行きたいという動きが収容所の捕虜の間に出てきた。岩橋氏は高い英語コミュニケーション能力を発揮して米軍上層部に意見具申し、日本兵捕虜だけによる降伏勧告、梅澤戦隊長の捕獲を実施させることに成功した。

米軍の梅澤戦隊長の取り扱いは鄭重で、収容した翌日午前に米軍部隊長が梅澤戦隊長を病室に訪ねて懇談した。軍刀も手の届かぬ高いところであったが安置されており、プライドを傷つけないよう配慮していた。岩橋氏も午後、梅澤氏を訪問して懇談した。梅澤氏は「米軍は敗者に対して実に寛大だ。中国人も寛大だが、日本人はその点大変恥ずかしいくらい狭量だ」と感慨をこめて語ったという。岩橋氏は翌日も梅澤戦隊長を訪問し、部隊員宛に降伏勧告の手紙を書くよう依頼した。戦隊長はこれを了承し、この手紙はこの後の捕虜収容作戦で非常に役立った。

米軍の扱いが鄭重だったのは、岩橋氏がそれを米軍幹部に要請したこともあるが、もともとその方針だったと見られる。米軍が日本兵捕虜を鄭重に処遇し、彼らから多くの機密事項をひきだしたことが知られているからである。ただし鄭重さのレベルは、《きわめて協力的に軍事情報を提供した》として梅澤氏に愛人トミヨ氏が会う機会を設けているので、破格といえるかもしれない。)

なお、6月26日に阿嘉島大谷海岸で米軍クラーク中佐と野田戦隊長が会談するが、その場に梅澤戦隊長も同席し、野田戦隊長に降伏を勧めた。

《 伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』紫峰出版 (2020) 233頁 》

Letter from three Japanese officers urging Lt. Ono to surrender on Okinawa, 1945 (title)

田豊、岩橋一徳、日高福夫らの投稿勧告文の草稿

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University of Southern California