「むちゃくちゃだけど、兵隊には絶対服従さ」 ~ 賀谷支隊 (独立歩兵第12大隊) の遅滞戦闘に動員された少年たち

 

賀谷支隊と防衛隊

数えで17歳。というと、だいたい16歳ぐらい。何もわからないまま、日本軍の壮絶な遅滞戦闘にかり出され、命を奪われていった少年たちがいた。

 

1945年4月1日、無血上陸をはたした米軍の矢面に置かれたのは、特設第一連隊と賀谷支隊。特設第一連隊は、本来は飛行場の建設施設管理部隊であるため、武器装備もほとんどなく、沖縄人や沖縄の学徒で構成されていた。歴戦の強豪とよばれた賀谷支隊にも、また地元の青年学校から動員されていた少年たちがいた。

 

賀谷支隊と特設警備第224中隊 

賀谷支隊
  独立歩兵第12大隊    

配属部隊

  特設警備第224中隊     

  海軍第11砲台      

『沖縄方面陸軍作戦』277頁

 

実際、無血上陸した地点に配置された賀谷支隊は、先鋭の賀谷支隊 (独立歩兵第12大隊) 以外に、上に見るように、「特設警備第224中隊」という名の防衛隊が組み込まれた。

 

特設警備隊とは、少数の将校を常置したうえで、臨時召集として地元の住民を防衛召集して編成した部隊で、賀谷支隊に呼び出されて気がついたら前線に、という地元住民も多かったことだろう。その実数はどこに記されているのだろうか。不明のままである。

 

賀谷支隊配下に置かれ、多く臨時召集された沖縄人の防衛隊員からなる特設警備第224中隊は、米軍上陸の混乱の中で賀谷支隊 (独立歩兵第12大隊) 本体から切り離され特設第1連隊と同じ運命をたどったと考えられている。

 

これらの部隊の中で唯一、本来の地上戦闘部隊である (賀谷支隊の) 第12大隊は、最も南に位置し、米軍に抵抗しながら南の第62師団の主陣地に後退することとなっていたが、それ以外の部隊は、最前線にとり残される形で配備されていた

林博史沖縄戦における軍隊と民衆 ― 防衛隊にみる沖縄戦

 

そうして4月5日、賀谷支隊本体の第12大隊は計画的に退却し主力部隊に合流した。つまり意図的に地元の防衛隊員などで構成された部隊を盾にして主力部隊を温存させていたのだ。

 

捨て石の防衛隊

沖縄タイムス記事から

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タイトルに「日本兵が次々と死亡」と書かれているが、この記事は、タイトルが正確ではない。証言の中で実際に次々と戦死していく兵士は、将校幹部クラス以外は、「沖縄の兵隊」「沖縄の初年兵」「防衛隊」の父、であることに注意を喚起したい。これが第32軍が命じた、地元の住民を盾として捨て石にした遅滞部隊の現実であった。

 

気をつけて読みたいのは、少年が前線に送られたのは米軍が上陸した後の、4月2日であったということだ。

 

日本兵 目前で次々死亡
語れども 語れども うまんちゅの戦争体験

新垣盛宏さん、89歳、 宜野湾市

沖縄タイムス 1919年3月3日

 

1945年は数えで17歳。宜野湾村の喜友名に住んでいた。 普天間国民学校を卒業して、宜野湾、普天間、嘉数の3校が合併した青年学校に通った。軍隊の教育勅語五箇条の御誓文を 勉強した。他の時間は訓練。 木銃持って構えたり伏せたり、やってたね。当時、喜友名部落の空襲の伝令役だった人が防衛隊に取られて、自分に役目が回ってきた。だけど、危ないからやらなかったよ。

 

命令で部隊に同行

ある日、賀谷部隊の隊長命令で若者が集められ、部隊に同行することになった。普天間 *1のイシジャー山に機関銃の弾、弾薬を運搬した。

 

米軍が本島に上陸した翌4月2日の夕方普天満宮の裏に集まって、イシジャー山に行かされた。もうボンボンと弾が飛んできて、とても危険な状況だっ た。沖縄の兵隊が目の前で胸を撃たれて死んだ。岩陰に隠れていたけど佐久間兵長が「出なさい」と。むちゃくちゃだけど、兵隊には絶対服従さ。

 

するとその近くで艦砲が破裂した。 佐久間兵長と近くにいた沖縄の初年兵は即死。私には小指の先ほどの破片が左大腿骨辺りに刺さり大変な出血をした。 佐久間兵長が腰に掛けていたタオルを取って、足を縛って応急処置をしたよ。

 

野嵩の自然壕に避難すると、ここには兵隊がいっぱいいた。軍病院で治療を受けたが、 ナイフで傷口を切られた。 本当に痛かった。「家族の元に戻りなさい」 と言われ、喜友名部落の上にあるチチサブーというガマに移ったが、家族はいなかった。

 

ここで捕虜になった。壕にいる時に「出てこい」と言われ、トラックに乗せられて。もうパニックにな っていた。4月6日ごろだった と思う。そしてハンビーの収容所 (臨時北谷収容所) に連れて行かれた。 そこで家族と再会できた。それから野嵩の収容所 (臨時野嵩収容所) に移った。


父の遺骨掘り出す
野嵩はまだまだ激戦のさなか で、流れ弾も飛んでいて、危険だった。どうやって死ぬか、殺されるか。捕虜になってからもそれしか頭になかった。収容所からどうやって逃げようか考えていたよ。米軍はブルドーザーで穴を掘っていて「ここに埋められるんだな」と見ていた。日本軍に見つかっても、反逆者として殺されるんじゃないかと不安だった。


その後は安慶田の収容所に移 された。 安慶田では仕事もあっ たし、缶詰も、配給もあった。 戦争が終わると、普天間に移った。ここで、同じ喜友名部落の 人から、防衛隊に出ていた父の死を聞いた。父と一緒に行動していて前田で亡くなったと。戦後1年ぐらいだったか、この人と父の遺骨を取りに行った。その場所で印鑑やたばこも一緒に 出てきて、父だと分かった。掘 起こす時、親にくわを向けなければならなかったあの苦しみは、何とも言えない。

 

イシジャー山で亡くなった沖縄の兵隊は1人は島袋、1人は照屋といったと思う。「身内ではないか」と写真を持って訪ねて来る人もいたが、顔まで分からなかった。

 

戦争は思い出したくもない。 私の米寿のお祝いで親族が集ま った時、未来に平和をつないでほしいと話したよ。戦争がいつまでもない、平和な世の中であ ってほしい。


(中部報道部・勝浦大輔) 毎週日曜日掲載

 

どうやって死ぬべきか・・・、沖縄の現実は、米軍に捕虜として残虐に殺されるか、日本軍に反逆者として殺されるか、その極限のダブルバインドの中に住民を追い込み、選択肢のない状態にさせた。

 

日本兵よりも沖縄の住民からなる防衛隊や学徒隊は、日本兵よりもより過酷な任務を背負わされ、戦死者数はとびぬけて多い。

 

そこにも第32軍の、沖縄の土地だけではない、住民そのものを「皇軍」の砦として利用し、捨て駒にした「持久戦略」の汚さがあった。

 

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青年学校とは、1926年に設立された軍事教育機関「青年訓練所」を前身としてもち、1935年の青年学校令で、「男女青年に対し、その心を鍛錬し、徳性を涵養すると同時に職業および実際生活に必要な知識・技能を授け国民としての資質を向上させる」ことを目的として全国に設立された。「皇国青年を練成する」ことを目標とし、優秀な兵士を育成するねらいがあった。教育勅語五箇条の御誓文を叩きこまれ、木銃で敵を倒す訓練をした。

 

やがて日本の戦争が沖縄にやってくると、日本軍は、沖縄の青年学校からも多くの少年を召集。何の説明もなく、何もわからない少年達たちを戦場に投入していった。

 

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