首里司令部壕の女性たち ~「特殊軍属」とは

 

多くの記録や証言が語る、首里司令部壕の女性たち

第32軍の将校向けに設置され、「慰安婦」とみられる女性らが働かされた「偕行社」に関する記述は、日本軍の史料や元将兵らの手記などにある。

琉球新報 2021年1月6日 『32軍司令部に「特殊軍属」動員した「偕行社」とは 史実解明の焦点に 沖縄県も情報収集』

 

1945年の米軍による首里司令壕の調査

1945年の米軍による首里司令壕の調査によると、第五坑口の近くに女性たちの部屋があり、また台所がある。

5月10日に第32軍司令部は「女子雇傭人」へ転属命令を発した。第24師団への転属命令を受けたのは、第一梯団の幕僚部・軍医部の筆生(書記)・打字手(タイピスト)の21人、第二梯団の管理部などの筆生・雑使の17人、第三梯団の「若藤及病院」の27人、第四梯団の偕行社の14人、その他34人の計113人。
(出典:「球日命第一〇七号」〔昭和20年5月10日〕『司令部 日々命令 昭和20年3月~5月』〔沖台-沖縄-41〕防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵)

沖縄県文化振興会「第5回 第32軍司令部壕保存・公開検討委員会文 献調査最終報告 (令和4年3月28日)

 

琉球新報 2021年1月6日 『沖縄戦、32軍司令部に「特殊軍属」~ 留守名簿に記載 本土の女性ら動員、識者「慰安婦」と指摘』

沖縄戦、32軍司令部に「特殊軍属」 留守名簿に記載 本土の女性ら動員、識者「慰安婦」と指摘
琉球新報 2021年1月6日

 

 日本軍が芸者などを本土から沖縄に連れてきて設置した「偕行社」にいたとみられる女性らが、沖縄戦を指揮した第32軍司令部の「特殊軍属」として動員されていたことが分かった。32軍が1944年末から45年初めにかけて作成した「第32軍司令部 (球第1616部隊) 留守名簿」に記されているのを、沖縄大学地域研究所特別研究員の沖本富貴子さん(70)=八重瀬町=が見つけた。この「特殊軍属」について、別の沖縄戦識者は「慰安婦」「慰安所」と同じ意味とみている。

 

 

 関東学院大林博史教授(現代史)は「軍や外務省の公文書では、いわゆる『慰安婦』を『特殊婦女』『特種婦女』『特殊慰安婦』『特種慰安婦』と呼ぶ例がいくつもある。『特殊軍属』は慰安婦のことを指していると考えて間違いないだろう」と指摘した。

 

 「第62師団会報綴(つづり)」(1944年12月21日)によると、偕行社は「将校や高等文官の親睦を図り、戦力を高揚する」ことを目的に設置され、宴会部屋が大小あった。沖本さんによると、これまでの沖縄戦研究では偕行社の詳細な実態は分からず、32軍司令部所属であることも明らかでなかった。偕行社に関わったとみられる氏名は14人分あった。

 

 32軍司令部軍医大迫亘氏の著書によると、大迫氏が特務活動の一つとして偕行社を設置大分県の芸者らを連れてきて、最初は当時の農業訓練所、現在の南部農林高校(豊見城市長堂)にあった。偕行社の要員はのちに首里城地下の32軍司令部壕などに移動した。

 

 留守名簿は、陸軍省の指示で各部隊が作成した。戦後、留守名簿を厚生労働省が保管していた。2012年度から国立公文書館に順次移管された。32軍司令部の留守名簿は1944年に作成され、1029人の将兵や軍属らの氏名なども記されている。沖本さんは17年に請求し、同年、公開を許可された。

 

 偕行社とみられる14人の氏名は2ページ分に記載され、名簿の右上に「特殊軍属」「特種軍属」と記されていた。1人には「偕行社附属調理人」の記載もあった。14人のうち9人が「戦死」と記されていた。留守名簿にある他の「雇員(こいん)」や「筆生(ひっせい)(事務員)」は月給も記されているが、偕行社の14人のうち8人は「軍属(無給)」と記されていた。

 

 沖縄戦研究者の石原昌家沖縄国際大名誉教授は「32軍司令部は、偕行社の『慰安婦』を『特殊軍属』という名称にすり替え、あげくの果ては死に追いやった。その非道な実態を浮き彫りにする史料だ」と述べた。

 

(中村万里子) 

沖縄戦、32軍司令部に「特殊軍属」 留守名簿に記載 本土の女性ら動員、識者「慰安婦」と指摘 - 琉球新報

 

軍が設置した「偕行社」の女性たちだけではなく、沖縄の辻 (花街) の料亭「若藤」のじゅりたちもいたことも記録されている。

 

児島襄『指揮官』1974年 38ページ

首里の司令部壕は、発電設備を持ち、一トン爆弾の直撃にも耐える強固さを誇っていた。牛島中将以下約千人に近い要員、 一部避難民が住んでいたが、その千人が三ヶ月以上生活できる食糧も確保されていた。 酒類 も日本酒、ビール、 航空用ブドウ酒、 さらに長参謀長備えつけのスコッチ・ウィスキーと、豊富だった。
缶詰は、その箱をならべて寝台代わりにするほど貯えられ、長参謀長が前年、福岡から呼びよせた日本料理人が機会に応じて 料理の腕をふるい、野戦建築隊配属の菓子職人も勤務していた。


床屋もいた。その床屋、沖縄県民の比嘉仁才が、いう。
「二週間に一回くらい、 軍司令官と参謀長の散髪とヒゲ剃りをしてさしあげるんですが、 牛島閣下は、ご苦労さま、 といって刈りよいように坐ってくださいますが、 長閣下は、 床屋か、 とじろりと見て、 をうちながら首をひょいと横にだして、やれ、と こうです。 恐かったですよ」


女性もいた。司令部勤務の女性職員が司令官、参謀長、参謀に当番として配属されていたほか、さらに偕行社の芸妓十数人、那覇の花柳街辻町の料亭「若藤」の遊女十数人が居住していた。もっとも壕内に部屋はなく、司令官、参謀長も通路にそっ た横穴を居室代わりにしていたので、遊女たちに ”職業的サービス" の御用はなく、炊事の手伝いなどをしていた。


したがって、酒あり、タバコあり、そしてとにかく女性もいるというわけで、司令部壕内の生活は、一応は完備していたが、米軍が進出してくるにしたがい、用便のための外出も困難になり、湿度が高く通風の悪い環境は将兵の体力を衰えさせ た。


四月下旬には、米軍は首里北方約二キロにせまった。 前線からは損害と後退の報告が相次ぎ、司令部壕に避難してくる負傷者 もふえた。穴居生活に耐えかねて脳神経に異常をきたしたとみえ、一人の大尉が坑道に「南無妙法蓮華経」の旗を立て、ウチワダイコを連打しながら、 意味不明の説法を口走るようになった。しかも、荒武者タイプの参謀木村正治中佐が、 その説法に耳をかたむけている。

 

境内の衛生環境はますます悪化し、ほとんどの将兵が下痢に悩んだ。 兵たちは長参謀長の口ぐせである「敵わが中に入れ り」をもじって「敵わが腹中に入れり、われにわかに下痢せんとす」 といっていたが、そのような軽口の声も、少なくなった。 長参謀長は、 四月二十九日、参謀全員を集めて総攻撃を提案した。

 

「現状をもって推移すれば、軍の戦力はロウソクのごとく消磨し、軍の運命のつきることは明白である。 よろしく、攻撃戦力を 保有している時機に攻勢をとり、 運命の打開策すべきである」参謀たちは、即座に賛成した。 参謀神直道少佐によれば、当時、参謀たちは第三十二軍の戦闘能力について 「組織的な統一ある作戦は五月十五日をもって限度とする」と判定していた。

児島襄『指揮官』1974年 38ページ

 

兵士たちが利用する慰安所とは異なり、隊長クラスになると、それぞれ個人的に担当の女性をきめていた。ましてや司令官や参謀クラスでは、特別な「特殊軍属」に付き添われていた。