1945年6月18日 『バックナー中将、戦死』
バックナー中将の死
バックナーは第10軍司令官として沖縄攻略アイスバーグ作戦を指揮してきた。
ニミッツ司令部18日23時30分の公表:
「米第10軍司令官中将バックナー(沖縄本島米軍陸上最高指揮官)は海兵第8戦闘連隊の先頭を観戦中、18日13時15分日本側砲弾により即死した」
6月18日の昼すぎ、第10軍司令官バックナー中将は、真壁付近に布陣する第2海兵師団の前線観測所に立ち寄って海兵隊のさいごの進撃状況を視察中、日本軍の47ミリ対戦車砲の一弾が岩の下部に命中し、相次いで五発の砲弾がとんできた。砲弾の破片か、岩の破片かが同中将の胸にあたり彼は10分後に絶命した。
米軍の司令官は、「天岩戸戦闘指令所」にこもった第32軍の司令官とは異なり、時に危険すぎるほどの前線に自ら赴いた。
LAST PHOTOGRAPH OF GEN BUCKNER: This is the last pix taken of LtGen Simon Bolivar Buckner, extreme right, commanding general, 10th Army, who was killed on Okinawa June 18 when hit by an enemy shell. The general is shown at a forward observation post of the USMC 6thDiv during an attack. A few minutes later, he was killed.【訳】バックナー中将最後の写真。6月18日に日本軍の砲撃により沖縄で戦死した第10陸軍司令官バックナー中将(右端)の最後の写真。中将は攻撃のさなか第6海兵師団の前線監視所におり、数分後に殺された。
バックナー中将は、前線へおもむく途中、第6海兵師団第32連隊のH・ロバーツ海兵大佐から「日本軍陣地からかなりの側射弾が飛来するので前線視察は見合すよう」に警告されたばかりであった。しかも警告を発したロバーツ大佐も1時間ほど後に狙撃されて戦死した。その他、日本軍の砲撃で第96師団の副師団長C・M・イーズリー准将も倒れた。
A GENERAL DIES---The body of Lt. Gen. Simon B. Buckner, commanding general of the 10th Army, who was killed by enemy shellfire while observing in the front lines, arrives by ambulance jeep at an aerial evacuation collection center.【訳】中将の戦死——前線視察中に日本軍の砲撃により戦死した米第10軍総司令官バックナー中将の遺体が、航空後送センターに傷病者搬送ジープで到着。(1945年6月18日撮影)
誰がバックナー中将を狙ったか
…活動的で頑健なバックナー司令官は、戦闘の第一線にきわめて近い地点への訪問を延期するようにという要請に耳を傾けなかった。彼はあらたに戦場に投入された連隊の連隊長やその他の高級将校を伴って、島の南西端の断崖や岩の多い海岸がよく見える前進観測所へやってきた。… 自信に満ち、非常な努力家で、戦いに勝利を得つつあった彼は、第10軍司令官という地位がはまり役であると思われたが、数週間後には、アメリカ陸軍の指導的な地位にあるごく少数の将軍の一人として本国へ帰還し、日本本土に対する進攻においてもっと大きな作戦を指揮する準備をすることになると思われていた。
真栄里…には、アメリカ軍の射弾観測用の眼鏡にほかにもうひとつ、日本軍からの捕獲品の砲隊鏡が設置されていた。それらの眼鏡は、約1ヤードはなれた大きな2つの丸石の間に設置してあった。それは、さらに南寄りの高地にいた、日本軍の野戦重砲兵第1聯隊の最後の砲に対して掩護するためのものであった。
その野戦重砲中隊は、最後の高地へ後退する際に典型的といえるような大きな損害をこうむっていた。…アメリカ軍の連日の集中射撃によって砲手は脅威を受け、軍の誇りであった砲は破壊され、中には1発も射撃しないうちに破壊されたものもあった。今は、中隊の火砲12門のうち1門だけが残っていた…。
ちょうど午後1時を過ぎた頃、かろうじて生き残っていたこの隊の1人が北方の高地に目を向けて、双眼鏡の焦点を合わせてみると、驚くべきことに、明らかに高い地位にあると思われる敵の将校数名が立っているのが見えた。この将校たちは眼鏡で、今いる位置とは反対側、つまり東側の海岸にある牛島将軍の司令部の方向を見ているようだった。バックナー中将は、見晴らしの良い観測所に1時間ほどいて立ち去ろうとしているところだった。…射撃指揮に熟達した日本軍の指揮官が、最後まで残った砲に、重要な将校の一群という魅力的な目標に対して射撃を命じた。戦砲中隊の残りの者は、急いで洞窟の中に入った。「われわれが1発撃つと、向こうから、1千発の『お返し』を受けることがよくわかっていた」からである。
その砲からは5発発射された。…砲弾の1発が、防護用の大きな丸石にひとつにあたり、飛び散った石の破片が砲弾の破片とともにバックナーの胸部と腹部に食い込んだ。出血がひどかったので、彼を救護所に後送することはできなかった。一行に随行していた衛生兵が必死になって止血に努めたが、バックナーは10分後に落命した。
砲弾の破片ではなく、小銃による狙撃によるものだという日本側の証言もある。
沖縄攻撃の米軍最高指揮官、第10軍司令官サイモン・B・バックナー中将は1945年(昭和20年)6月18日に戦死した。場所は糸満市真栄里。米軍の公式発表は、日本軍の砲撃によるものとしているが、「私の部下の狙撃によるものだ」…。
歩兵第32連隊の見習士官の証言:
「その日の午後1時すぎ、昼食をすまして壕を出ようとした。久しぶりの好天、新鮮な空気が吸いたかったからだ。壕内の陰気さったらないのだ。監視兵の小野一等兵に声をかけた。軽い冗談でもいいたいような気になっていた。小野は口を閉じ、右手の人さし指を、右前方百数十メートルの小高い丘の上に指した。見ると、ジープから3人の米軍将校が降り立った。『小野、鉄帽(鉄カブト)をかぶれ』と林良広主計中尉。『撃っちゃいましょうか』と小野。『命令がなければ撃つな』と私。3人の米軍将校の中で、一番かっぷくのいい、年配の人が左手で帽子をぬぎ、右手でズボンのポケットからハンカチを取り出した。頭を下げ、顔から額の汗をぬぐい上げながら頭を後ろにそらした。一瞬、小野は撃った。その将校はどうと倒れた。2人の若い将校がかけ寄って抱き上げ、ジープにのせて、さっと立ち去った」
「小野一等兵は東京出身、翌19日戦死した。快活な男で、私は彼とは一週間行動を共にした。狙撃兵ではない。使用したのは99式砲兵銃だ」
《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 200-201頁より》
バックナー中将戦死之跡
上の最期の写真と同じく、小高い丘の上にある。
米第十軍司令官サイモン・B・バックナー中将は1945年6月18日午後1時15分、戦闘指揮中にこの地で戦死した。これは2013年現在に至るまで、アメリカ軍史上において最高位の階級で戦死した事例である。1952年に米軍の手により記念碑が建立されたが、1974年にキャンプフォスターに移設されたため、1975年6月に沖縄県慰霊奉賛会により現在の碑が建立された。
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