「解散」という名の追い出し ~ ふじ学徒隊 ~ 仲里ハルさん証言「目前で友達が撃たれ死亡」(NHKアーカイブス)

 

積徳学徒隊

そのうち、私立積徳高等女学校の生徒25人は、「積徳学徒隊」として組織され、豊見城城址の病院壕で負傷兵の看護などに当たりました。しかし、医薬品や食糧不足のなか、十分な看護はできず、戦死者の埋葬や切り落とされた四肢の処理をさせられることもさせられることも多かったのです。5月下旬の撤退の際は、砲爆撃の雨を受けつつ、患者の肩を支え医療器具などを抱えながら雨季の泥濘を歩くという苛酷な移動でした。
撤退先の本島南部の糸満・糸洲壕に移ってからの6月下旬、学徒隊に解散が命じられました。軍医の小池隊長からは、「決して死んではならない、必ず親元に生きて帰れ」と訓示を受け、生徒隊は壕を脱出しました。しかし、さまよっている間などに米軍の攻撃を受け、4人が命を落としました。そして、積徳高等女学校は、戦後も復活することなく消滅してしまったのです。

 

仲里ハルさん証言「目前で友達が撃たれ死亡」

沖縄積徳高等女学校4年生 仲里ハルさん

1927年    1月、宮古島・下地に生まれる
1938年    日中戦争で父親を亡くす
1941年    那覇市にあった沖縄積徳高等女学校に進学
1944年    10月の空襲で校舎と寄宿舎を焼失する
1945年    3月、陸軍の野戦病院に動員され負傷兵の治療に当たる
        6月、米軍の捕虜になり、収容所へ。その後宮古島へ帰る
        戦後は、宮古島で幼稚園の先生となる

「目前で友達が撃たれ死亡」|戦争|NHKアーカイブス

 

宮古島から那覇の女学校へ

宮古島から那覇の私立積徳高等女学校へ

宮古島から那覇の女学校へ

お父さんが大学の教授を目指している人っていないでしょう? 一部落から1人くらいしかいないでしょう? そういうふうに父が非常に教育にあれしていましたのでね。台湾の高等農林(学校)も出ているよ。

 

Q:例えば、お金もかかりますね? 

那覇に行って…私は本当に、まあジュニア2年から来てはいるけどさ。私なんかのときは、「6・2・4」、学年制度は。分かる?「6・2・4」6か年小学校、2・ジュニア科、あのときは2か年。

 

Q:高等科ですね?

はい、高等科。またそのハイスクールが4か年、「6・2・4」。学年制とか、戦前には「6・2・4」で、あとは「6・3・3」になったの。今までずっと「6・3・3」で、うちなんか1期下からは、ずっと「6・3・3」。だから、お父さんが先生でしょう? いっぱいお金はくるの。私も別にもらう。母ちゃんももらう、遺族として。私は遺児として。私、靖国神社まで行ってるんですよ、母ちゃんと。あのころ、靖国神社に行くというのは、宮古みんなからも、1人、2人だよ。

 

Q:中国ですか? お父さん亡くなったのは。

中国だね、はい。漢口。「漢口陥落」(現在の武漢市の一部で、日中戦争時の昭和13年、日本軍に攻略された)というのがあったさ。あのころは。そこで戦死したから、それで私は、あのとき子どもが、子どもを天皇陛下の命令で行ったんだよ。天皇陛下よ?天皇陛下というのを口で言うだけでも大変だから、昔は。本土から、東京からお父さんの靖国神社に行って帰ってきて、すぐ那覇に来たのね。

 

Q:小学校までは宮古、女学校からは那覇で暮らしていた?

那覇でも私立だよ。うちなんか積徳高は。私立。だから、大典寺ってあるでしょう? あっちがうちなんかの寄宿舎だったの、寮。だから、あっちこっちから来てる人は、たいがい田舎から、離島から来る人、「これ」のある人が来るから、ぜいたくなのよ、みんな。

 

Q:それで宮古から那覇に来たときに…

4名。

 

Q:宮古から4人で?

はい、4名。同期生4名いたけど、まず聞いて。ホントにこの4名が、私1人残してみんな死んだの。台湾に疎開したの。私は学徒看護隊だから私は行かんと。同期生がよ? 同期生が台湾に行ってるわけ。みんなで疎開疎開って言って、ヤマト(日本本土)に行く人、台湾に行く人っていうのがあったから(昭和19年、沖縄から本土や台湾へ子供や老人を中心に疎開が行われた)。私なんか子どもだからなんにも分からないけどね。だから、みんな死んで私1人残っているの。ほんとにどんなに寂しいかな。同期生がいないというのは。本当に。

 

Q:その宮古の同級生は、なぜ亡くなったんですか?

知らないよ。

Q:帰ってこなかったんですね? 結局。

行ってから、もうそのままって。私はもう何も分からないから。私はもう学徒隊になっているから分からない。ただ寂しかった。1人。

 

Q:宮古から那覇に出て来たときに、やはり那覇宮古との違いっていうのは、どんな印象がありました?

やっぱりね、宮古ではあのとき、まだテレビもない、何もない時代でしょう、宮古は。

 

Q:ラジオですね?

はい。だから、こっちに来たらいろんなものが、ラジオが聞こえたりしてるから、やっぱり都会だね~と思った。

 

寄宿舎でのくらし

寄宿舎だから。寮だから。今言ってる大典寺のあれでしょう?私立校っていうのは大典寺と1つでしょう。だから本当にもうねえ、大典寺で私なんか、すぐ寄宿舎に入ったから、なんの心配もない。だから、うちの同期生の3名よ。私は、お家にお金があるでしょう?おかしいけど。お金をくれてるよ、あの人なんかにも。だけど私1人残して台湾まで、何しに行ったんだか。本当に。

 

Q:寄宿舎生活で楽しかったことってなんですか?

寄宿舎では、1日1回は「南無阿弥陀仏」。大典寺に行って拝んで、学校に行くさ。

 

Q:楽しかったことはなんですか?

寄宿舎での生活で。寄宿舎では私はもうこんな人だから、すごく…下里でしょう?「下里、下里」って呼んで、私ね、べべべべ~ってさせるさ。

 

Q:ああ、おしゃべりを。

みんなが結構…人気者ではあったさ。ただ、これは弱いけど。

 

Q:あと寄宿舎生活で、つらかったことはありますか?

もうね、私なんか宮古では、女中から下男から何からいる家でしょう?だから「食べない」って言ったらこれを持ってくる、これを捨てて…こんなことができないさ。一旦出たら、みんな一緒だから。50名だったら50名。一緒だから食べんと許されないの。あんまりおいしくはなかったよ、本当に。

 

Q:ごはんを食べなきゃいけないのがつらかった?

うん。

 

Q:じゃあ例えば、こういう物が足りなくて困ったとか、家に帰りたいとか、ホームシックになったりとかはなかったですか?

ホームシックは、すごかったではないけど、私はこっちに来る前に靖国神社に行ってきているさ。遺児として、参拝してきてる。お母ちゃんは遺族、私は遺児として行ったの、靖国神社に。帰ってきてから私を那覇に連れて来たから。

 

Q:学校の勉強で楽しかったことは…

何もない。

 

Q:勉強大変でした?

ABCDEFG…。私はね、家にオルガンがあったの、昔。だからこれはピアノで、こっちで買った物さ、これ。家にね、戦前にオルガンがあるの、宮古で1か所か2か所だよ。だから私は家にオルガンがあったから、先生が来て時々ならしてた。オルガンよ?そして、うちの家にだけラジオもつけてた。

 

Q:その積徳の学校で大変だったことはなんですか。

積徳の高等女学校で大変だったことはなんですか、学校生活で。もう本当にね、夜だったらもう、5時半…6時からは絶対1歩も外に出られない。教護連盟に捕まったら退学だから。教護連盟って分かる?

1944年10月の十・十空襲で

十・十空襲

十・十空襲では、・・は大きかったよ。私なんかは北部へ逃げたけど。寄宿舎で30何名、いる人だけで北部に行ったんだけどね、ほんとにねえ、それでもただ私は、宮古の母ちゃんのことだけを・・・母ちゃん思いの人だから、母ちゃん、母ちゃんって私1人だけ騒いで。

 

Q:学校は被害はなかったんですか?

学校、何もないさ、もう。十・十空襲で。

 

Q:十・十空襲で焼けたんですか?

みんな隣焼。隣焼というのは分かる? こっちが焼けたらこっちから移ってくる、みんなみんな。那覇は、だからもう、60…80パーセントぐらいね、みんな焼けてるよ。

 

Q:そうすると、校舎が焼けてしまった後、授業はどうなったんですか。

授業やるもんか。授業はないさ。私なんかは、すぐもう、そのときから学校に集まって、それから私なんかはもう、4年制でしょう?「6・2・4」の4年制だから、私なんかは4年生だけは二高女(県立第二高等女学校)と一緒に、東風平にある国民学校・小学校にね、あっちに勉強教えて。こっちなんか一期下だから分からんよ。

 

Q:十・十空襲の後ぐらいから看護教育が始まったんですか?

はい、はい。

 

Q:看護教育、厳しかったですか?

はぁ厳しかったよ。だから今言う人体構造とか、こういうものの右・左、こんなものなんか、とっても勉強して、とっても厳しかった。

 

Q:誰が教育したんですか?

軍の中尉・少尉、こんな人いるさ、みんな軍隊には。みんなお医者さんだよ。

 

Q:軍医さんですね。

軍医。小池勇助っていう、うちなんかの軍医は。

 

Q:それで、看護教育は、テストとかあったんですか?

もうだから、これが人体構造さ。本当にもう、これだけでいくつ?関節は…本当に。これからがまた、右が肺臓でしょう?左は心臓でしょう?これからきて股間、分かるね?股間から、また膝。膝関節、また足関節、指関節、こんなものを勉強するんだよ、いちいち、もう。

 

野戦病院

そこはね、何名・何名・何名っていうのが、みんな防空壕にあれしてるさ。私はね、野戦病院、うちなんか60・・・最初あったんだけど、これが5つぐらいの科になる。私は治療部、外科、治療部・何部・何部って、5つのあれになるさ。私は一番いいところに、一番強いところに行かされたっていうのは、うちの戦死した人だけど、小波津という人だったけど、これがね、頭が一番で級長だった。これが私は宮古からいろんなのが来るでしょう? 小包が。来たからどんどんあげてたから、「ハルちゃん、ハルちゃん」って、私をいつもかわいがって、治療部に入れた。治療部は何と言っても上さ。だから治療部に私を入れて。

 

Q:それぞれ野戦病院に配属されたのは何日ごろって記憶ありますか?

だから、あっちから、東風平の、あっちからね、1か月の(看護教育)予定が19日間で終わったというのに、私なんかそこに行ってすぐ、みんなも、向こうの人なんかが、何名・何名・何名ってみんな準備してあったわけよ。私はもう何にも分からない。私、どんくさいから。みんなにバカにされて。それでも私はこんな人だから、何とも思わん。だからこんなにしてね、私は治療部に入れられて。治療っていうのも本当に、本当にね、治療部というのはね、もう外科のほうだから、あっちで手術もする、治療もする。これで本当に、治療部というのは中心なのよ、外科の。野戦病院の。そこでね、本当にね、治療部では今言ったような人体構造とか、そのガーゼの持ち方とか、何とか、みんなもう決まってるの。だけど、これを覚えるのも大ごと。Q:3月に入ると、アメリカ軍が侵攻してきて、艦砲射撃が始まりましたよね。それ、記憶ありますか?これは皆さん分からんから本当のことを言うと、これ地上戦があるの。地上戦って分かる?アメリカの機動部隊。上からの空爆の飛行機、艦砲射撃・軍艦からの、銃撃からの、これがまた民間から。だからね、上からの空爆と海からの艦砲射撃と、これいくらだと思う?50万人よ?50万人、沖縄の北谷に来てるの。それをみんな分からんでしょう?今の人、戦争をした人、分からない。みんな。50万人のアメリカの機動部隊が入ってきた、沖縄に。北谷の所に。私なんかそのときね、私なんかは後で分かったけど、そのときはもう負傷兵がね、かわいそうに、もうみんな泣いてるの、負傷兵は。出血多量なんかしてるけど、私なんか子どもでしょう?子どもだから、まだ学校も完全に出てない人だから、うちなんかは、かわいそうになって、兵隊さんにはね、「絶対負けないよ、負けないよ」ってね。いつも泣いていた、兵隊さんは。本当に。

 

負傷兵の治療

Q:負傷兵がたくさん来るようになったのは、4月の何日ごろか覚えてますか?

覚えてない。

Q:でも負傷兵はどこから来たんですかね? 浦添とか北の戦地?

北部から。

 

Q:それは徐々にけがをした兵士がやってくるのは覚えていますか?

私なんか、これも見たこともない。ただ私なんかは、自分の部屋、豊見城野戦病院だから、その自分の部屋なの。私なんか6名だから、自分のいる所しか分からないよ。何にも分からないったら。何にも分からない、本当に。ただ「やるぞ」という気持ちが、意気込みは強いわけ。

 

Q:仲里さんは、何をしていたんですか?

負傷兵が来たとき。ガーゼとか包帯とか・・・私はね、治療部のね・・・ お父さんがだいたい戦死でしょう?お父さんのケガも私見てはいないけど、傷・・・たくさんのあれが、みんな出血していたって、お父さんは。だからね、靖国神社まで行ってるよ。お父さんが、本当にこんなにしてるからね、お父さんと引き換えにこの兵隊なんかを見てるの、私。人とは違う。

 

Q:仲里さんは、どういう仕事をしたんですか? 

病院で。うちなんか治療部さ。治療部だからね、何て言うか、血圧の低い人、止血作用は静脈、それから普通は皮下注射、止血作用は皮下注射、静脈は倒れてる人なんか、こういうふうに注射は、みんなやったよ。

 

Q:注射したんですか?

そう。

 

Q:あと包帯巻いたり?

包帯巻くの、専門だった。もう大概内臓を見ない、破裂してる人もいる、頭を半分やられてる人もいるから、本当「母ちゃん、母ちゃん」って「ありがとうねえ、あんたたち、ありがとうねえ」って言うから一緒に泣いてたよ。私なんか本当に。負傷兵に対して優しかった。私は。なぜなら、お父さんが戦死したから。私も優しかった。誰にも。

 

Q:それでも、まだ10代のですね…

そうよ。15、6の子どもでしょう…

Q:怖くなかったですか?

ううん。軍隊というのは怖さがあったら大変さ。何にも怖くない。ただ、絶対負けるもんか、勝利を夢見て頑張ってるのよ、子どもたちが。

 

Q:仕事はきつかったんじゃないですか?

なんにも。きつくもない、怖くもない、ただかわいそう。その兵隊さん方が。見て。本当にかわいそうだから。みんなあっちこっちやられてね、止血して、血が流れてる人なんか、本当にね。苦笑いしてる人もいたよ。

 

Q:治療以外に、ごはんとかはどうしてたんですかね?

みんな、おにぎり。こんなおにぎり、みんな。食べたかねえ、本当に。私は特に小さくて、細くて小さいから、食べるわけよ。食べない人のも、私もらってきて食べてた。Q:最初のうち、ごはんで困ったことってないですか?ごはんがちゃんとこないとか。食べる物がないとか。だから、あんな物も覚えてないよ、あんまり。

 

Q:もう無我夢中だったんですね。

無我夢中だから。ただ、もうね、この負傷した兵隊さんを無事に生かして、日本に、あっちに、家に帰したいと。それだけ。私は特にね、お父さんが中国まで行って戦死でしょう?私は人と変わるの。かわいそうで、かわいそうで。

南下 - 豊見城の壕から糸数の壕へ

南部への撤退

だからそれで、私なんかは、そろそろもう、こっちはね、危ない、豊見城野戦病院はもう危ないっていうことで、糸満の糸洲に、もう撤退していったわけさ。

 

Q:撤退するときのこと、記憶はありますか? 豊見城の壕から撤退するときのことを教えてもらっていいですか。

豊見城は…豊見城から南部へ撤退するのは、もう私なんか治療部でしょう?だから私なんかの治療部は2つに分かれるの。出血してね、動けない人を見に行く、止血剤を持ってやりに行く、この2つがあるから、これをやったり、あれをやったりするから、治療部は忙しいよ。そんなして、文句1つ言わないでしょう? うちなんか。ただ言うとおり、命令するとおり。本当によ。こんなこと、偉い人がいたかね、私なんかみたいな、本当に。

 

Q:でも、この仕事嫌だなとか、そういうことは思わなかったですか?

ううん。軍隊でそんなのがあったら大変さ。「あれをやってこい」って言ったら、死んでもやる。

 

Q:それはなぜでしょう?

教育の力。日本の教育。

 

Q:それは、今振り返ってみると、どんなふうに思いますか?

バカバカしいところもある。だけどそれから、自分たちの何ていうか、あれが本当にね、私は本当に「母ちゃん、母ちゃん」の人だから、私にみんなが言うわけさ。「ハルちゃんは、また母ちゃん、母ちゃんって泣いてるんじゃない?」って言うから。

 

Q:撤退のときのこと教えてもらっていいですか。どんな様子で、豊見城から糸洲へ行ったのかを教えてください。どんな様子でした?(砲撃が)バラバラバラっといったから、みんな伏せして「伏せじゃ!伏せ伏せ!」って言ってやったからさ、その翌日晴れてたから、そこが。そこまで歩いて行った。もう糸洲からの壕は、私はもう何とも言えない。あれはもう誰にも言えない。本当に。

 

Q:豊見城からの(糸洲の壕への)移動はどのくらいかかったんですか?

ひと晩。うん。ひと晩で来てたよ。

 

Q:糸洲の壕っていうか、その自然の洞窟に入って、今度はそこで暮らすようになったんですね?

暮らすようと言って・・・そこでは本当、そうねえ、10日まではいないけど、5~6日はいたんじゃないかな。

 

Q:そのときは患者さんの面倒は見たんですか? 糸洲でも。糸洲でも、患者さんの治療に当たったんですか?

あっちでは、もう、毒ガス・黄リン弾ね、薬を、あっちで。だからもう苦しかった。本当に。

 

Q:攻撃を受けたんですね? 

アメリカ軍の。攻撃はしない。ただ、黄リン弾といって、この毒ガスだけバーッとまかれていったの。

 

Q:アメリカ軍が投げてきたんですよね?

うん。投げるだけ。

 

Q:それはどんな様子でした?

苦しかった。だからあんまり、うちなんかみんな集まったら、今もあっちの話をするけど、みんな覚えてない。本当に。黄リン弾というのがどんなに苦しいか。アッアッていうのもできないよ。

 

Q:苦しかった?亡くなった方もいたんですか? 

糸洲のほうで。私の同期生は、いない。本当にうちの同期生は偉いよ。本当にね、だから同じようにやってね、その白梅の所、東のほうに行ったさ、あれは救急車か、出たっていうけど、うちは1人もいないよ、あんな人。本当に。あっちでね、向こうで1,2,3,4,5,6のときにね、小池勇助隊長がね、あっちでも最後の日には、やられて亡くなったわけさ。もう自爆。自爆やって、そしてね、そのときに隊長がみんなにね、こんなね、「頑張れ」「頑張れ」「頑張れ」って、ダーッと泣きながらよ。私たちなんか、子どもでしょう?「隊長、絶対死んじゃいけないよね?」って言いながら、みんな「頑張れ」・・・これだけ隊長おっしゃって、自分が自決なさった。本当に偉いよ、この小池勇助隊長は。

 

Q:最後、その糸洲の壕であった食事とか記憶ありますか?

だからよ、みんないたらね、「そこで何食べたかね」ってね、みんな言うわけよ。私も分からんよ、何食べたか。

 

Q:記憶がない?

あの、ほら、衛生兵とかがさ、こんな大きな鍋にどろどろっと、何かを炊いているのを覚えているよ。

解散という野戦病院の恐ろしさ

離島からきた学生の多くが親元に帰ることができず多く学徒隊に残った。

解散、そして脱出

もう、これからが野戦病院の恐ろしさ。これからなの。私もこれからよ。何したのは。本当に。本当にもうね、私なんか・・私は宮古、もう1人は八重山、もう1人は久米島、うちなんか3名、非常に友達でね、一緒に寄宿舎にもいたの。ね?大典寺に。一緒で仲良かったけどね、「ハルちゃん」と呼ぶと「キイちゃん」と呼ぶしね、私なんか3名、真っ先に、誰もみんないるのに飛び出たわけよ、3名。飛び出たらね、本当にね、絶対自分で自決したらいけないというふうに隊長がいつもおっしゃっていたから、ただ逃げるだけ、逃げようねということでやったんだけれどもね、そこからが私なんか、もう大変なの。みんないるよ、いるのにね、私なんか3名よ、飛び降りるの。本当に、あまりにも真面目すぎるよ、私なんかの軍隊は。本当に。もう教えたとおり。私なんか、その3名ね、行って、何て言うか全然分からないところにね、入ってしまった。3日目からかな? 本当にこれ言ったらね、もう嫌だ。だからね、入ったらね、そこがね、本当にね、私なんか3名ともね、全然分からん。しかし4日目にね、民間の子が、私のほうへ「助けてー」って来て、「あんた誰ね?」って言ったら、「お父さんもお母さんも、みんな死んだ。みんな爆弾で死んだ。助けて」って言うからね、私は、「嫌だ、そんな子ども」って言ったら、久米島の人が、うちなんかより年上だから、2つも上だから、「いいよ、かわいそうだから一緒に連れて行こう」って言って、本当は3名だけど4名になったの。民間の子入れて。

 

Q:何歳ぐらいの子だったんですか?

中学・・・私なんかより2歳ぐらい下だったはずよ。「ねえさん、ねえさん」と呼んでいたから。その子も入れて、うちなんか4名で、すぐやったら、これがね、本当に何にも知らないところに、うちなんか飛び込んだ。

 

Q:そこ、壕ですか? おうち?

だから違う・・・原野に、この部落。そこはみんな敵陣だよ。そこは敵のアメリカの機動部隊がみんないる所によ、分からんで、そこに飛び込んだの。そのときなんて黙っておれる?アメリカは。私らなんかみんな、バラバラバラバラ・・・ってみんなやられたの。うちなんか、そのとき。最初は民間の子も「やられた」と言って、その後はもう分からないけど、うちなんかはこれでしょ、民間の子は最初にやられたから、3名いるでしょう?そうしたらね、みんなやられたわけよ。久米島の人はヤスムラという、あれはね、「大変だ大変だ、こりゃ大変だ、大変だよ」って言うけど、あんなにしてね、心臓の所にね、パーンって当たって、こんなにしながら死んだ。

 

Q:もうこのお2人も亡くなったんですか? じゃあ助かったのは、仲里さんだけ?

だから私はね、捕虜になったわけよ。みんな、うちなんかは。だけどね、私はこっちの三つ編みがなくなっているけど、私、分からんわけよ、それを。だけどね、物が見えなくなったの。こっちの、多分ね、勉強した以上はこっちの、けい椎、これがね、傷を負ったと思っている。それでね、もう全然見えなかったの、物が。「見えない、見えない」って騒いでたさ。全然見えなかったから、私はアメリカの野戦病院の、アメリカの軍隊に連れられて、私はそこの病院に行ったわけよ。そしたら、私をよ、みんなで、アメリカの軍隊がよ、みんな3名、5名ぐらいの人が、みんなこっちに来たの。アメリカの中にうちらなんか入っていったから、分からんから。そしたらそこに行ってね、私はこっちがやられているとか、何とかかんとかって言っているけど、私は聞きもしないさ。「もう嫌だ、嫌だ」って言って、私はもう非常に気が強いから。これからして、目に来て、物が見えない、私見えなかった。そうしてね、頭も普通じゃない。こんなにこんなにしても、もう普通じゃなかったけどね、アメリカの軍隊がね、私を自分たちの足で蹴っ飛ばして、「あんたはあっちに行け」と言われたよ、私。だから、私何も言わなかったけど、足でぽーんとうちを投げてよ、私がワーワー騒ぐから。

 

Q:暴れたんですか?

うん、暴れたからね。

Q:アメリカ兵を見て、どう思いました?

知らないよ。そんなこと考えるところかよ。私は自分が物が見えないのに、「母ちゃん見えない、母ちゃん見えない、母ちゃん、母ちゃん」って私は叫んでいるのに。こっちのね、けい椎でしょ?こっちは。これからだけどね、物が見えなくなっていたの。

 

Q:それは、実際にどんなケガだったんですか。

分からない。

Q:分からなかった?

じゃ、その目が見えない…だから、二世っていうのがアメリカにはいるでしょう?日本の言葉を言う、日本の兵隊がね。こっちを同じように切ってあげたよ。だから、同じようなおかっぱで。捕虜になってたときは、こっちもこっちも同じようだった。

 

Q:その二世は何か話しかけたんですか?

2世の兵隊は。もう、いろいろ、この人なんかもやっぱり日本の標準語が分かるから、いろんなのを聞くけど、私はもう、こんなにして、気が強かったから。本当に。今思ったら、本当に、小さな子どもが勇ましい格好でね、こんなにこんなにしてね。

大浦崎収容所で先生となる

収容所でのくらし

そこからね、私は日本の二世、あれがね、下里は大丈夫だから、死ぬ面にはなってないから大丈夫だから、あっちに、治療部の所に行かそうって言って、私をば、山原(本島北部)に行かせたよ。

 

Q:じゃあ北部の収容所に移されたんですね。

そうそう、そうそう。

Q:その後収容所をいつごろ出たか、記憶にありますか?

いつごろというのはないけど、そこでね、やんばるのね、何て言ったかな…

 

Q:そこでの生活で記憶に残っていることはありますか?そこでの生活で、覚えてることって何かありますか?

あっちで私、先生したよ、もう。連れていったら、北部の所で、私は先生させられたよ。

 

Q:小学校の?

小学校の先生。そしてまた、私が、これできるでしょ?

Q:オルガン?

そのときはラジオ体操、ターンタタターン…

 

Q:弾いて? 子どもたちに教えたんですか。

そうそう、そうそう。

Q:それは収容所の中の学校ですか?

そうそう、そうそう。そこから私はね、本当にね、本当に運のいい人、私は。そこでね・・・大浦、思い出した、大浦で先生もしてね、そこから私は宮古に来られたよ。

宮古島に帰る

ふるさとの宮古

そこから宮古の船に乗せられて。

 

Q:宮古に帰ったんですか?

うん。だから宮古に行ったら、母ちゃんがもうみんなを集めて、もう親戚みんなで迎えた。

 

Q:うれしかったでしょう? お母さんにお会いしたとき。

私も、もうね、母ちゃんがね、お母ちゃんが何よりもうれしかったって。

Q:仲里さんはどんな気持ちでした? 

お母さんの顔を見たとき本当にもう、母ちゃんにさえ会えればいいっていう気持ちだったから、母ちゃんの顔を見るだけでいいと思っていたけど、母ちゃんに、元気さね、お父ちゃんからも来て、こんなにして、元気だから、もう母ちゃんさえ生きとればいいと思って、「母ちゃん、母ちゃん」もう、みんな母ちゃん、私のほうは。それからは宮古、うちなんか下地だから、あっちからみんなトラックが来て迎えていって、向こうでも宮古の庭で、豚なんか炊いたんじゃないの? 知らないけどやって、部落みんなで集まってお祝いしたさ。

 

Q:仲里さんが帰ってきたことを? それはいつごろですかね? 

昭和20年…分かるかよ。そんなのは分からん。

Q:それで、その後は学校の先生をされたんですか? 

宮古で?違う。その前にね、私はまたそこの部落のね、踊りをやった。学校の。ラジオ体操、これをやったりして。とにかく母ちゃんと会えたからいい。私はもう何も要らない。だから母ちゃんがね、何て言うか、私が帰ってからね、もう何も自分は要らないから、お父さんにありがとう、ありがとうしてね、ハルちゃんが生きて帰ったからって。

 

Q:宮古に帰ってからどういうふうにされたんですか? 

戦後は。2か年ぐらいは、私も小学校にいたけどね。

Q:先生として?

うん。だけど、その後はもう、幼稚園に入った。だって資格、ライセンスを持ってないでしょう? あのころ、もうライセンスも必要だったから。

 

Q:じゃあ幼稚園の先生を今度された。

もう幼稚園の先生、ずっと。ずっとずっと。那覇に来るまで。

 

沖縄戦を振り返って","ただ、お父さんが守ってくれたんじゃないかな、とは思うさ。こんなに、生きて帰るというのは、私の同級生でもいないのに、みんな。

 

Q:学校はもうなくなっちゃいましたよね? 

戦争で。残念でしたね。その、ご自分の学校がなくなってしまったっていうのは。

 

それについて、何か思うことありますか?

でもね、同期生なんかがみんなではいはいするから、もう同級生、下級生だっても私を「下里、下里」ってみんなで歓迎するから、そのときまだ、1人の先生は生きていたの。私が宮古から来るときまでは。

 

Q:同窓会ですね?

子供5人産んでから、私那覇には来てるよ。

 

Q:それで、那覇に来たときに、積徳のときの同窓会とか、先生とかよく集まったんですか?

そう、あの、同窓会が同期会よりも、同窓会ね、学校のこれが非常にはいはいして。今ね、私なんか三越でね、私の同期もね、みんなやっているよ。毎月。

 

Q:今振り返って、沖縄でね、こんなに激しい戦争があって、多くの人が亡くなったことについて、何か思うことありますか? 沖縄戦で大勢の人が死にました。その沖縄戦について、何か思うことはありますか?

ただね、なんで戦争というものは、軍隊、勝手にみんな起こして、軍隊が。だってこの、地上戦っていうの、みんな分からんでしょう?地上戦で、みんなこういうふうにやって、民間の人のことをやった? 何もやってない。日本は。本当に。本当にね、あんなにたくさんの犠牲を出してもね・・・だからね、私、同期生の写真なんかでもね、みんなどこにもいないよ。

 

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