公文書管理法が施行されて六年。
しかし南スーダン自衛隊の「日報」が「破棄」されたとか、働き方改革のデータが改ざんされていたとか、森友学園スキャンダルの文書が改ざんされたとか、最近殊にそうした公文書隠蔽事象が連続してまかりとおっている。
実は
なにもそれは今始まったことではない。
敗戦後、日本軍と政府は膨大な記録を焼却した。
あるいは特攻隊などの学徒動員の現場記録すら、
膨大な数の資料が歴史から消しさられていった。
証拠隠滅したうえで、
しらっと、なかったとか言いはじめる。
実際にはそんなひどいことはしてないない、
などと言いだすわけだ。
記録は大切である。
戦争したがる奴らは、常に記録を消したがる。
だから記録にはバックアップが必要だ。
今回ご紹介するのは
朝鮮人軍夫としてキム・ギョンデさん。
家畜のように扱われ、
どれだけひどい徴用であったか、
そして、いざ米軍がやってきたら、日本の軍人は、戦わずして次々と睡眠剤をのんで死んでいった。
朝鮮人軍夫がなんとしても生き残ろうとした一方で、日本兵たちは次々と薬を飲んで並んで眠るようにして死んでいった。
なぜなのか。
今また、私たちは黙って死を選ぶ道を歩んでいるのではないのか。
時代の声を聞いてみたい。
太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。昭和20年3月に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出した。
この沖縄戦では、日本の植民地だった朝鮮半島から動員された多くの人々が犠牲になっている。その数は、1万人にもなると言われるが今もその実態はわからない。
沖縄戦で、初めて米軍が上陸した慶良間諸島の阿嘉島にも、朝鮮半島からやってきた“朝鮮人軍夫”と呼ばれた人々がいた。
おもに、キョンサン北道から連れてこられた若者で、那覇港での荷役作業に従事した後、阿嘉島に配備されていた特攻隊・陸軍海上挺身隊のために荷揚げ作業や舟艇の揚げ降ろしに当たらされた。
「内鮮一体」の掛け声の下、彼らは「創氏改名」で日本名になって日本軍のために働きながら、作業は過酷なうえに食べるものは兵士よりも粗末、といった差別的な扱いに苦しんだ。貧しい食事で過酷な仕事に従事させられた朝鮮人軍夫の中には、脱走を図るものが出たほか、住民の農作物を盗んだものもいた。稲を盗んだ軍夫が軍によって銃殺刑に処せられるという事件も起こった。
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#朝鮮人軍夫の沖縄戦
— 沖縄戦シリーズ (@ospreyfuanclub2) 2018年2月3日
“家畜のように扱われた”
キム・ギョンデさん#阿嘉島https://t.co/okxm8q2D2I
1. 沖縄へ
Q:キムさんが徴用されたとき、ご家族は何人でしたか。
そのときは7人くらい、7人。両親、兄弟、あわせて7人でした。
Q:キムさんは長男ですか。
いいえ、2番目です。
Q:結婚はなさったんですか。
はい。その当時生まれた息子が今70才のはずです。正月が過ぎたら70才になります。
Q:当時、沖縄に行く前は、学校には通わず家で農作業をしていたんですか。
書堂(李朝時代の両班階級の子弟専用の私塾)に行っていました。
Q:ああ、書堂に通ったんですか。それから、家では農作業をして・・・。キムさんが徴用されて故郷を離れたとき、誰かが来て志願を勧めたりしたんですか。
そんなことなかったんです。村長が役場から特命が下されたと言ってました。わが村から2人が選ばれたんですけど、他の1人は耳が遠いので行かないですんで、私1人で行きました。
「徴発」というのは、人に対する「徴発」はなかったというんです。人が人を徴発・・家畜や品物などを徴発しましたが、人を徴発したことはなかったと言うんです。日本人がそんなふうに・・・。
Q:当時、キムさんが徴用されたとき、朝鮮人という認識はなかったんですね。
そうです。それがまあ、「徴発」というのは、(日本人が)私たちを物扱いして(沖縄に)行かせたと思います。
それは、「徴発」というのは物品に対する行為であって、人に対する行為ではないんです。私たちは日本を散々怨みました。私たちを家畜扱いしたんです。人間扱いされていないと恨みました。同じ人間としてではなく家畜のように扱われ、日本を恨みました。
私たち同胞が集まったら、様々なことを言っていたんです。日本人を散々恨んだりして、自分がしっかりしていなかったので、ここ(沖縄)まで連れてこられたと悔しがったりしたんです。
2. 那覇での荷役仕事
那覇市内で生活しました、最初は。そこで貨物を船に積み込んだり、荷降ろしをしたり、数か月間しました。その後、山に入って壕を掘ったりするような仕事をさせられました。
Q:那覇市で生活していたのに、どうして山の中に入ったんですか。
それは米軍による空襲があって、市内の神社を除いて家々が全部焼かれてしまって。
1軒を除いて。その当時、プサン(釜山)と同じくらいの大きさの街だったんですけど、1軒を除いて全部焼き尽くされてしまったんです。
最初の空襲によって、市内の家は1軒を除いて全部焼かれてしまったんです。それほどひどかったんです。
Q:急に飛行機が現れて空襲が始まったんですか。
そうです。飛行機も1,2機ではなく、数編隊と言うほど、何千機か数え切れない。カラスの群れのように。
船も家も・・最初は船だけ攻撃し、それから家を。1軒を除いて全部焼かれてしまったんです。プサン市と同じくらいの大きさの都市が焼き尽くされてしまったんです。
Q:那覇市での空襲は何日間続いたんですか。毎晩のように・・・。
違います。市内が焼き尽くされたんです。その後は飛行機が飛んできても、人が見つかったら、野でも山でも人の姿が見えたら、爆弾を落としたりしたんですけど、その後は飛び回るだけで、爆弾を落とすようなことはなかったんです。大勢の人が死にました。爆撃に見舞われた人は皆死にました。
Q:キョンサン(慶山)から行った人々の中で死んだ人は何人くらいですか。
ここの(慰霊碑に)書かれているのが21人、21人が死にました。
Q:キョンサンから一緒に沖縄に行った人々の中でも、死んだ人が多かったんですか。
多くの人が死にました。キョンサン(慶山)というより、ワチョン面(瓦村・慶山市北部にある村)から来た人々が、たくさん死にました。
Q:キムさんも空襲によって死ぬかもしれないと思ったんでしょうね。
そうです。飛行機が1,2機ならいざしらず、数え知れないほど飛んできて爆弾を落としたんです。人を見つけたら、10機、20機が(爆弾を)落としまくったんです。
3. 阿嘉島へ
阿嘉島は、(那覇)市内で数か月間滞在してから。阿嘉島では数か月間生活したと思います。
Q:阿嘉島ではどんなことをしていたんですか。
壕を掘ったり、山に入って壕を掘るようなことをしました。
Q:そしたら、キムさんは船に乗って沖縄に着いてから阿嘉島の方に移ったんですか。
Q:阿嘉島では壕を掘ることのほかに、何をしたんですか。
壕も1,2か所じゃなくて、数か所に。完全に掘った壕も、未完成のままの壕もありました。
Q:壕はどうして掘ったんですか。
それは日本軍が避難するために掘ったでしょう。
Q:キムさんも掘ったんじゃないですか。
そうです。日本軍が万が一の際に避難するために、数か所の壕を掘りました。
Q:阿嘉島に着いたとき、爆撃はなかったんですか。
そこに行ってからも、爆撃はあったんです。
4. 貧しい食事
Q:お腹が空いて、彼らから盗んで食べたりしたことはなかったんですか。
そんなことをした人がいなかったとは言えませんけど、私はツルニンジンを採取して食べたりしました。いくらお腹が空いていたとしても、盗むようなことはしたくなかったんです。全く、そんなことはしたくなかったんです。
その当時もらった月給が11ウォンでした。11ウォン。11ウォンもらったんですけど、1日1ウオン分の食べ物でも買って食べられたら、飢えに耐えられたはずですけど、それでも11日間は食べられても、(残りの)19日間くらいは飢えることになりますね。
それほど飢えていましたが、サトウキビといって、それを壕の中で一つでも食べられれば、お腹が一杯になります。全部食べきれないほど、本当にまあ。そこ(阿嘉島)での農業はサトウキビを栽培することでした。
日本人は優遇されたり・・食べ物で差別されることほど悲しいことはないんです。私たちが徴用された当時、農業をしたら、 米1升が1日分の食事の量です。(阿嘉島では)米1合を炊いたら1食分ですが、(部隊の)配給所に行ったら、3合(3食分)どころか1合だったかな。その1合も、一気に配給すればよかったんですけど、日本兵が米を横取りして、米2合を3等分して(2/3合を私たちに)配給したんです。ですから、食べ盛りな年頃なのに、それだけでは耐えられないんじゃないですか。そのときは、よく飢えていたんです。
日本人の下で働いていたときは、本当にお腹が空いていたんです。1日、家で、1升分のご飯を食べなければならないのに、3合、1日に3合。それも定量を全部配ればいいんだけど、食糧係の人が(私たち分まで)自分たちで食べてしまい、1合にも満たない米しか配給しませんでした。
日本人はそれほどひどかったんです。
心の中では恨んでいましたけど、そのときは(口に出すことは)できず、じっと耐えていました。
Q:心の中で恨んだとおっしゃいましたけど、主にどんなことを恨んだんですか。
これは国(朝鮮)を奪われたため、こんな羽目になったと思ったんです。朝鮮という国は滅びて私は日本人になったんです。
Q:差別を受けたときのお気持ちはどうでしたか。日本人だと思って戦場に行ったのに、どうして差別を受けるんだというような・・・。
それは、国を奪われた国民だから受ける差別だと、自分は思っていたんです。
5. 自決した日本兵
Q:山に隠れて生活していたとき、朝鮮人だけ集まって生活しましたか。それとも、日本兵も一緒に生活しましたか。
一緒に生活しなかったんです。空襲があってから、自決する人が多かったんです。睡眠剤を飲んで。日本の軍人は睡眠剤を飲んでほとんど死にました。睡眠剤を飲んで眠ったまま死にました。
Q:睡眠剤を飲んで自決したのを、キムさんが自ら目撃したんですか。
はい、目撃しました。でも、朝鮮人にまで睡眠剤を配るようなこともなく、(日本の)軍人は、まるで寝ているかのように並んで死んでいました。
ろくに戦ったこともなかったんです。(米軍を相手に)戦っても勝てないんです。
私たち、一緒に沖縄に行った(朝鮮人が)睡眠剤を飲むはずないでしょう。何としてでも生き残ろうとしていたので、自殺なんか・・・。
日本軍は全く(米軍に)対抗できないと思ったらしく、睡眠剤を飲みました。
Q:日本人兵士と会話したこともありますか。
もちろんです。
Q:日本人と一緒に。
はい。よく会話しましたよ。
Q:主にどんなことを話されましたか。
日本兵たちは大東亜戦争は勝てないと話しました。勝てないと話して(いる彼らと)一緒に生活していたんですけど・・・。
Q:もしかして、キムさんと親しかった人も死にましたか、日本人の中で。
そうです。少尉、中尉、大尉まで一緒に生活していたんですけど、彼らは皆自決しました。
その光景を目にして思ったのは、何としてでも生き残ろうとしたにもかかわらず、(不幸にも)死に見舞われたのは仕方ないとしても、なぜ自決なんかするんだろうということでした。
6. 投降
6人が一緒に生活していたのですが、互いに話し合って投降しようと。それで、6人が一緒に投降することで意見が一致したんですけど、いざ山から出るとき1人が来なかったんです。
無理やり誘うわけにもいかないので、5人が一緒に投降したんです。
Q:キムさんは皆が集まって話し合ったとおっしゃいました。話し合ったことについて話してください。
死を覚悟して投降しようと。そういうことを話し合ったんです。
Q:日本兵はいなかったんですか。
日本兵の多くは自殺して。睡眠剤を飲んでですね。壕の中で。まるで寝ているかのように並んで死んでいったんです。
Q:阿嘉島で一緒に生活していた5人が投降した時、米軍は歓迎してくれましたか。
そうです。喜んで、歓迎してくれました。
Q:キムさんは、そのとき初めて米軍を見たんですね。
いや、(山に)隠れていたときに、よく見ました。米軍があちこち歩き回っているのを。
Q:投降したら、もしかして米軍が何か悪いことをしはしまいかと、考えたことないんですか。
(米軍は)何回も放送を流したんです。投降するなら危害を加えることはないと、何回も放送したんです。
Q:投降して(収容所に)行ったら、その中に、朝鮮人は多かったですか。
多かったです。私たちが一番遅れて投降したと言われたんです。先に投降した人たちが全部集まっていました。空襲によって(多くの人が)死んでから、私たちが最後まで逃げ回っていたようです。
Q:キムさんは捕虜になって、その後、帰国したんですね。故郷に帰ってきたときのお気持ちはどうでしたか。
それは、とても嬉しかったんです。