「27年間ヤミに葬られていた・沖縄のソンミ事件」(サンデー毎日1972年4月2日) を再読する

 

鹿山事件 - 1971年スクープ記事の背景

1945年の沖縄戦当時、久米島には海軍の電波基地が建設され、鹿山正隊長 (兵曹長) と30人ほどの鹿山隊がいた。米軍の上陸作戦から外れ、本来であれば戦闘から離れた場所にありながら、この島で鹿山隊は20人もの住民を虐殺している。しかも、通信基地のため、部隊は戦況をほぼ把握していたと考えられるが、惨殺事件のどれもが、6月23日の沖縄戦の組織的戦闘の終結、そして8月15日の玉音放送終戦」後に連続しておこっている。

 

この鹿山事件が日本で問題となったのは、サンデー毎日の1972年4月2日のスクープ記事からである。

 

現在、鹿山事件を考える際に見逃されがちなのは、鹿山事件が「問題」となった背景には、1971年の「沖縄返還協定問題」「久米島自衛隊移駐問題」問題があったということである。つまり、「本土復帰」「核抜き・本土並み」をうたいながら、当時の福岡防衛施設局長発言のような「沖縄を甘やかすな、過保護にするな、肥満児にするな」といったような基地負担押しつけの本土の本音とエゴが表れ始める。

 

鹿山事件にもまともに向きあうことを拒絶する国が、返還協定の名のもとに久米島の宇江城岳に再び自衛隊久米島分屯基地」を置くという。これはどういうことなのか、戦後の「鹿山事件」に本土はどう向き合うのか、という問題であった。

 

こうした背景を念頭に置きながら、今回、サンデー毎日の当時のスクープ記事を3回に分けて再読していきたいと思う。

NHK 沖縄・久米島の戦争より

 

第一弾はサンデー毎日創刊50周年記念の特ダネ記事

「27年間ヤミに葬られていた・沖縄のソンミ事件」

最初の鹿山スクープは、K元海軍兵曹長 として登場する。

 

「27年間ヤミに葬られていた・沖縄のソンミ事件」

(サンデー毎日1972年4月2日)

久米島の日本軍は米軍と戦わずして住民と「戦争」していた

久米島同胞”大量処刑”はこうして行なわれた

 こんな残酷な事件が、二十七年間もヤミに葬られたまま放置されていいものだろうか。

 われわれ本誌編集部は、連合赤軍事件や自衛隊の沖縄移駐先取りが世間の耳目を奪っていたおりもおり、戦時下、沖縄・久米島で起こった海軍守備隊による"同胞大量処刑"の事実を知った。最初は断片的な内容だったが、特別取材班(沖縄現地=大島幸夫、本土=栗田登ほか)を編成して調べていくうち、この恐るべき"沖縄のソンミ事件"の全容がわかり、指揮者のK元海軍兵曹長の所在も突きとめた。

 

 ここにみられるものは、連合赤軍と同じく、人間の生命に対するおそれの感覚の、完全なマヒである。

      
日本の軍隊は人間じゃない

「人間じゃない!オ二でしたですよ、日本の軍隊は……みんなオ二に殺されたんですよ」

 

安里正次郎の惨殺と、若い妻カネの死

安里さんが惨殺された後、妻のカネさんはパニックになるが、それも陸軍兵の渡辺憲央氏によると、いったん落ち着いていたと記されている。しかしその後しばらくして、突然カネさんの姿が消え、水死体となっていた。

陸軍兵で久米島に逃げてきた渡辺憲央氏は、命の恩人でもある安里の妻カネさんを「大柄な美しい娘」「映画女優市川春代に似たグラマーなカネさん」「久米島小町」と記し、同じく敗残兵の高橋氏とともに魅了され、彼女に対してあらぬ幻想を抱いてしまうほど美しかったことが記されている。

家族ぐるみで皆殺しする鹿山隊、16歳の島の少女ですら暴行し妊娠させる鹿山である。当時の安里カネさんの一種異常なパニックの背景には、何らかの形で彼らが接触あるいは脅迫し、つけねらっていたのではないかとも思う。

二十七年前の"黒い記憶"。

 久米島具志川村鳥島に住むトウフ店主婦、糸数和さん(50)は、内親の非業の死をトツトツと語った。いまなお消えやらぬ深い悲しみと怒りに、ほおを涙でぬらしながら、声をふるわせながら。

 

 昭和二十年当時、糸数さんの妹、カネさんは久米島郵便局の電信保守係、安里正次郎さんと結婚して、隣村の仲里村山城に住んでいた。

 

正次耶さんは上陸した米軍につかまったですよ。自宅から避難壕に逃げる途中だったそうですが、すぐ米兵に山の中の日本軍にあてた降伏勧告状を特って行けと命令されたですよ。断れば殺されるからと思って山に行ったら、日本軍にスパイと決めつけられて、隊長に銃殺されたですよ」

 

 山から帰らぬ夫を心配して、若妻のカネさんは夜も寝ない日を過ごした。軍からの報告はなにもなかった。そのうち、旧本軍の手で殺されたことが、だれからともなく知らされ、カネさんの姿も、人目を避けるように、消えた。投身自殺をとげたのだ。

 

「スパイとなれば、そのウワサだけで家族全員皆殺しにしてしまうのが日本軍のやり口でしたからね。妹は私たち親類にまで迷惑をかけまいとして家出したですよ。山田川ヘ入水自殺したのは、家出から一週間目でした。逃げ回わった果てに……妹も日本軍に殺されたと同じです。そのショックで母も寝込んてしまって、まもなく死んでしまったですよ。正次郎さんも妹も親切ないい人だったのに……

 

スパイなぞしてないのに……虫ケラ同然に殺すなんてあまりにもひどいですよ」
 言葉はなん度も涙に途切れた。そして鳴咽のなかから糸数さんは繰返しいうのだった。「日本軍がにくいてすよ」

 

1972年、久米島自衛隊移駐問題と鹿山隊の戦争犯罪

忘れてはならないことは、1972年当時にスキャンダルとなった久米島の「鹿山問題」は、「沖縄返還協定」「久米島自衛隊移駐問題」とリンクしていたということである。1944年、鹿山隊が久米島北部の宇江城岳、通称ウフクビリ山に通信施設や兵舎などを構築。戦後、米軍が施設跡を米軍基地「久米島航空通信施設」となす。1972年の沖縄返還協定でその米軍施設が自衛隊に移管されるという話になる。つまり鹿山隊の跡に、沖縄返還協定の名の下で、自衛隊がつるりと収まるわけである。鹿山隊の戦争犯罪も追及されないまま、これはありえない、という話だ。

 久米島那覇市の西方約百キロ、東支那海に浮かぶ離島である。面積約五十五平方キロ。島の名にふさわしく、昔から米の島(二期作)、ツムギの島として知られ、近年はサトウキビが産業の主役。西の具志川村(人口約五千三百人)、東の仲里村(人口約三千二百人)に分かれ、このところ過疎化現象がつのっている。

 

 島に着いて、まず目についたのは、そこかしこに張られた自衛隊移駐反対」と「三六〇円復帰要求」のビラであった。

 

日本軍がまた沖縄にやってくる。なんのためにくるのでしょうか。道を作ってやる、病人を運んでやるとキレイなこと言ったって、つまりは軍隊でしょう。沖縄の人はもうごまかされませんよ」島民の一人は、自衛隊をはっきり「日本軍」と呼んで不信感をあらわにした。日本の軍隊と闘いただけでゾッとする、というのだ戦時下、久米島に駐とんしていた旧日本軍は、海軍分遣隊の約四十人だった。隊長はK兵曹長

 

 隊の任務は、島の北部にある大岳山頂にレーダー基地を設置し、米軍の動きを沖縄本島に知らせることにあったため、武装は小銃と機関銃程度のチヤチなもの。圧倒的な米軍を迎え撃つ戦力など、はじめからなかったといっていい。

 

6月26日、米軍上陸後の住民虐殺

米軍上陸の夜、鹿山は16歳の少女を襲い、その翌日には、中学生から老人女性まで9人を惨殺し、火を放ち、また陣地を捨てて南側の山奥に引きこもる。封鎖された離島の軍は、どのように変容していくのか。

残酷だった憶病隊長

 沖縄戦は昭和二十年三月二十四日、米軍の慶良間列島(久米島の東)上陸から本格化する。久米島にも米軍の空襲は連日のようにくりかえされる。五月中旬ごろから島民の多くは避難壕にこもりどおし。6月26日、米軍はついに久米島ヘ。第三十二軍司令官牛島満中将、参謀長長勇中将が摩文仁岳で自決、沖縄本島の組織的戦闘が終わってから、三日後のことである。

 

 島の東岸、仲里村銭田のイーフ浜に無血上陸した米軍約千人は、なんの抵抗も受けずアッという間に島の大半を制圧、上陸二日後の二十八日には占領宣告の星条旗が地区の要所に立てられた。当時、銭田地区の警防団にいた古堅宗清さん(68)は「見渡すかぎりの水平線は全部、米軍の艦船でしたよ。上陸は午前三時ごろでしたか。住民はあらかじめ山に避難してました。日本軍ですか?住民から食糧ばかり強奪していって、山の奥深く隠れたきり。私らはK隊長を「憶病隊長」と呼んでアテにもしませんでしたよ」と米軍上陸の模様を語る。

 

 "憶病隊長"は"残酷隊長"でもあった。米軍を恐れたK隊長は、それ以上に島民の裏切りを恐れたのだ。極度な被害盲想にとらわれたK隊長指揮下の日本軍は島民の協力をとりつけるために、恐怖支配の策に出る。同胞に対する"連続処刑″である。

 

 第一の犠牲者は、前述した仲里村山城の郵便局員、安里正次郎さん。米軍上陸の翌日、六月二十七日のことであった。

 

 その二日後の二十九日、こんどは具志川村北原で、小橋川共興区長、糸数盛保副区長(同区警防団長)、同区民・比嘉カメさんの家族四人、同・宮城栄明さんの家族三の合計九人が、宮城さんの自宅に強制的に集めかれ、斬殺のうえ家ぐるみ焼打ちにあう。

 

 九人斬殺焼打ちの理由は「友軍のスパイ行為」。一片の弁明も許されない一方的な処刑だった。

 

 そのいきさつは――。米軍の本上陸に先立つ六月十四日午後十一時ごろ、米軍斥候兵十四、五人が夜陰にまぎれて北原地区に仮上陸し、牧場の一軒家に住む宮城英明さんの義弟にあたる中学生と、村はずれの比嘉カメさんらを"拉致"して引揚げた。

 

 これを知った日本側守備隊は、防団本部を通じて「拉致された者が帰ってきたら、自宅にも入れず、ただちに軍に引渡せ。この命令にそむいた場合は、その家族は、ちろん、区長、区警防団長も銃殺に処す」と"軍布告を表示した。

 

 やがて、米軍が上陸を開始し、拉致された人たちもジープで送り返されてきた。敵軍の上陸で、すっかり度を失っていた図民たちは、軍布告を守る余裕などあるはずがない。

 

 すると、三日後の夜十一時ごろ、K守備隊は、クダンの中学生からおじいさん、おばあさん、区長、警防団長らを避難壊から連行し、残酷な処刑を執行したのだ。
 翌朝、焼打ち現場にかけつけた区民がまみえることができたのは、黒こげに変わり果てた遺体の数々だった。

 

米軍よりおそろしい

「顔も身体も焼けつくされて、バンドの金具でやっと弟であることがわかったですよ。胸に銃剣で刺されたらしい穴が三つほどあいていたです。まじめで一徹な弟だったですよ。万一のときは友軍と行動を共にすると、戦時訓練も真っ先にやっていた子で……スパイ容疑で日本軍に殺されたと知ってから、くやしいやら、情けないやら、泣くに泣けなかったですよ」糸数盛保さんの実兄、新恒盛孝さん(57)は、こう語ってくちびるをかんだ。

 

「それから、私たちは敵の米軍より味方の日本軍のほうが恐ろしくなったですよ。こわくて焼け跡から遺骨も拾うこともできない。仕方なく死体は一ヵ月も放置したまま。海岸ぞいの米軍と山の中の日本軍にはさまれて私たちはニヵ月以上も、自然の鍾乳洞を利用し避難壕の奥深く隠れていました。食糧も不足して、壕の中で餓死したり、病死した老人もいたんです」と、現在の北原区長、仲真良成さん(58)は、悪夢のようなホラ穴生活を思い起こす。

 

気に入らない部下の処刑と自死

鹿山は、自分は16歳の少女を山に連れ込んで隠れたまま、地元の防衛隊員や、部隊の中でも住民から好かれていた兵士を選んで無謀な斬り込みを命じ、そのため2名が戦死。その命令を実行しないとして一人を「処刑」した。

K隊長の暴虐ぶりは隊内にも向けられた。

 在郷軍人分会長で具志川村役所の勧業主任をしていた内間仁広さん(78)が当時つけていた警防団日誌や戦争日記によると、K隊長から「だらしないしと反感を買った兵二人が殺害され、兵三人が自殺させられている。

 

「血走った友軍は敵に対する行動はせず、米軍上陸後はただ住民がスパイ行動をしないかと目を光らせ、鬼畜にもまさることのみを繰返しては自分の部下を斬るとかまったく野蛮人的行動をしている」(内間さんの戦争日記)

 

 七月二日、浜川昌俊具志川村長が米軍に狙撃されて死ぬ。同月五日、K隊長は「斬込み」と称して部下五、六人を米軍に向かわせた。銃器はニ、三丁だけ。残りは竹ヤリであった。米軍が通る道に待伏せして戦車に攻撃をしかけたが、機関銃掃射を受けて内田常雄兵曹と村の仲宗根寿・義勇隊員の二人が戦死、他の隊員二人も負傷した。

 

 記録にみるかぎり日本海軍守備隊の戦闘らしい抵抗は、あとにも先にもこれ一回きりである。

 

皇軍いまや全く山賊と化し

 具志川村農業会会長をしていた故吉浜智政さんは、七月九日付の戦争日記につぎのように書いている。

 

「"退山する者は殺害する"という隊長の言葉で、(避難壕からの)下山を恐れていると、米軍から"住民は一日も早く帰宅して農耕すべし。さもなくば日本軍とみなし、山を掃討する"と布告が発せられた。民衆は山にも居れず、里にも居れずで、右往左往するばかり。ああ、信頼していた皇軍、いま完全に山賊と化し、民衆の安住を妨害す。耕さねば、日一日と窮迫する食糧の現状をも知らず、目己の安逸をのみむさぼる」

終戦」後の住民虐殺

終戦後にも鹿山隊は住民10人を惨殺。泣きわめく子どもをめった刺しにして、地元の警防団に遺体を埋めさせた。

 終戦の日――八月十五日は、この島にもやってくる。だが、日本側守備隊の住民殺りくは、まだ終わらず、十八日夜には仲里村イーフ浜で仲村渠(なかんたかり)明男さん夫婦と二歳の幼児の一家三人が虐殺された。さらに二日後の二十日には、具志川村上江洲と鳥島谷川昇さんという和名を持つ朝鮮人一家七人も。そして、お定まりの放火――。


 仲村渠さんは、元海軍軍人として沖縄本島で勇戦し、日本軍敗退ののちは、金武村屋嘉の収容所に入れられていた。その仲村渠さんを、久米島上陸のため、米軍が案内役として起用しようと考えた。

 

 それも「案内役がいなければ、艦砲射撃で援護したうえでなければ、上陸できない」といった具合の説得である。住民の生命を守るため、仲村渠さんが引受けたのは当然だった。

 

 こうして彼は米軍と一緒に生まれ故郷の久米島に上陸。むだな犠牲をさけるため、住民に降伏を説いてまわっていた。それが、K隊長の怒りを招いたのだ。

 

 仲村渠さんも身の危険を感じて、ミノカサで顔を隠し、行動は夜だけという慎重な毎日、万一のとぎ、危害が及んでは、いけないからと、島の実家や親類宅にも立寄らなかった。

 

 それでも日本軍はしつこく仲村渠さんを追回した。そして終戦後、イーフ浜にひっそり設けられていた隠れ家をかぎつけた日本守備隊 は、村民に変装までして、ここを襲い、二歳の赤ちゃんまで殺したのである。 事件は日本軍への島民の怒りをいっそう激しいものにした。戦後、「義人仲村渠明男」と題する村芝居が上演されたほどだ。そのとき、客席は日本軍へのにくしみの声と受難の涙で埋まったという。

 

泣きわめく子を切りきざむ

 谷川さん一家七人殺しもまた残酷をきわめる。

 

 谷川さんは沖縄本島上本部村から久米島に流浪してきた貧しいスクラッブ商だった。妻は上本部村出身者といわれる。子供が五人、朝鮮人迫害と重なって、スパイの汚名を着せられた。日本軍の魔手が迫ってくるのにおびえながらも、島から逃げるに逃げられなかった。

 

 上江洲の自宅を夜襲されて妻と子供四人を殺された谷川ざんは必死に末っ子の幼児をおぶって鳥島まで逃げのびたらしい。だが、海岸まで待伏せしていた日本軍につかまり殺害された。 目撃者の一人、糸数重光さん(42)=鳥島在住、漁業=の話は鬼気せまる。

 

「こうこうと明るい月夜の晩だったですよ。村民に変装した日本兵が十人ぐらいで砂浜へ谷川さんの死体を捨てたんです。そのうち兵隊の一人が小さな子供を抱えてきて死体のそばに置いたと思ったら、死体にとりすがってワアワア泣く、その子供に軍刀を浴びせたんですよ。何回も何回もトドメを刺すように切りぎさんでいました。私はもう恐ろしくてひざがガグガグして……日本軍に死体の処理を命じられた私たち警防団員は、泣きながら海岸に穴を掘って埋めたんです。子供の断末魔の悲鳴がいまも耳に残るようで……本当にかわいそうだったですね」

鹿山隊が久米島の戦争をひきおこした

 結局、K兵曹長指揮下の日本軍が殺害した民間人は、明らかな直接殺害だけでも二十人に上る。自殺などの間接殺害を含めると二十四人。日本軍の横暴さえなければ、約四十人の壕内病死や餓死も大半は防げたはずだ。隊内処刑や自殺まで合わせれば、なんと七十人もの尊い人命が、一兵曹長のサジ加減ひとつと、それに加担した日本軍兵士によって奪われたことになる。小さな離島に残した日本軍のツメ跡はあまりにも深かったのだ。

 

 内間さんら当時の関係者の記録によれば、終戦後も島民を殺し続けたK隊長は、さらに村農業会会長ら村の指導者の"殺害予定リスト"まて作っていたという。

 

 九月一日、沖縄本島からやってきた上官の命令で、久米島の日本軍はようやく山を降りて米軍に降伏した。ホッとしたのは、米軍以上に島民たちであった。

 

虐殺者の27年後、戦慄の鹿山デビュー

クリ舟で久米島まで逃げてきた陸軍兵、渡辺憲央さんと高橋さんは久米島住民と仲村渠さんに命を救われた。本土に復員した彼らは、その後も久米島の虐殺者、鹿山の戦争犯罪とその消息を追い続けた。

それから二十七年後――。

 日本軍による"同胞大量処刑"の事実を、執念に燃えて追跡してた二人の旧陸軍兵士が登場する。

 

 ひとりは大阪市に住むカメラマンW氏、ひとりは北九州市の公務員T氏である。ともに元陸軍一等兵。同じ高射砲隊の通信班に属し、沖縄本島での戦闘に参加した、五月の末には戦線を離脱、クリ舟で久米島に漂着し、ここで米に投降したという体験の持主である。

 

「K隊長らがやらたことは、すべて見聞していますし、いくら戦時下の出来ごととはいえ、とても許す気になれないのです。それに、私たちが個人的にも、たいへん世話になった郵便局長の家でもムコさんの電信兵が殺されたし、若いヨメさんも自殺してしまった。それから、私たちがナカンダカリと呼んでいた仲村渠さんにしてもそうです。あの人のおかげで、私たち二人は安全に米軍に投降できたのに、やはり殺されてしまった。つまり、Kは私たちの恩人を殺してしまった相手でもあるわけです。ですから、私たちは、ただのひと言でもいいから、彼の口から謝罪の言葉をききたい。久米島の人たちに申訳ないことをした、そういわせたくって、戦後ずっと、彼の行方を捜してたわけなんです」

 

 本誌編集部が特別取材班を編成したのは、二人の、この執念が、ある伝手を通じてもたらされてからである。

 

 K隊長の出身地が徳島県であることは、やがてわかった。しかし、それ以上、調べるにも、手がかりになるフルネームさえ、明らかでない。

 

 そこで厚生省や徳島県厚生課にある膨大な資料を入念にめくっていくうち、当時、久米島にいた海軍守備隊の輪郭がつかめてきた。もう、こうなったら、糸をたぐるだけである。

 

鹿山、27年目のインタビュー

小禄海軍の大田司令官が鹿山を離島の小さな通信施設につかせたのは一種の厄介払いだったかもしれないが、沖縄で陰湿な住民虐殺に手を染めていく敗残兵には、実は海軍兵が多かった。

部下を処刑

住民にうけがよかった兵士や沖縄出身兵を斬り込みに命じ、従わない兵を刺殺。

 K氏は、徳島市の中心部からタクシーで五十分ほどのところに住んでいた。

 

 厚ぼったい黒いシャツに黒の背広。質間に応ずる態度には、悪びれた様子はない。

 

命令違反の部下も刺殺した

 ――はじめに、久米島での日本軍の編成などについて説明していだだきたい。

 「私が久米島へ行ったのは、十九年の八月でなかったかな。那覇で司令官から、久米島へ行け、全部まかすといわれて、行ったんです。兵員は三十四人いました。正確には名簿を見ないとわからんが、下士官はあちらで任官したものも入れて、たしか四人ではなかったかな。兵は発電設備の兵、電波探知機の兵、それに看護兵もひとりおりました。敵が一個旅団上陸してきたので、兵隊を三分して行動することにしたんです。電探もやられてしまったし、ひとつにまとまっていては具合が悪いと考えたからです。おったところは、島の南西部の一番高い山です。陸軍は、飛行機で不時着した人、輸送船がやられて上がってきた人たちです」

 

 ――あなたの隊で何人戦死したか?

「四人です。四人だけです。米軍が上陸して二十四日に決戦をやったとき、下士官一、兵一が撃たれて死にました。それから、もうひとりの兵隊は歩哨に立っていて、やられたのです」

 

 ――ひとり足りないが、その人は?  沖縄出身の兵隊で、あなたが木にしばりつけ、リンチを加えた結果、死んだのでは? もう少しはっきりいうと。あなたが斬り込み命令を出し、それをなかなか実行に移さなかった下士官ひとりと、久米島出身の兵二人を木にしばりつけて、なぐりになぐったと証言を得ているんですが。

「それはですね。沖縄出身者ではないし,木にしばりつけたのでもない。先任下士官ひとりを命令遡反でもって、刺殺してしまった。殺したわけです。軍隊の処置としてね。それは、まあ、夜間斬り込み隊を編成してね。その先任下士官を指揮官にして行動を起こさせたんですよ。一週間ぐらい余裕を与え、そのあいだに敵情を偵察させ、一番機会のいいときに決行するよう命令しておいた。それなのに、十日たっても二週間たっても行動を起こさん。そこで、ついていた部下が、その先任下士官の行動に対して、ゴウゴウと非難の声をあげはじめた。処刑せざるをえない状況だったのです。他の見せしめにどうにもならんで殺した。階級は上等兵曹で、当時四十二、三かな。ただ、報告は戦死ということにしておきました」

軍人の誇りとは - 殺し過ぎて記憶もぶれる

谷川家の子ども五人を含む7人も殺しておきながら、記憶にないという。

ワシには軍人の誇りがある
 
 ――つぎに、あなたは、久米島の住民を数回にわたって処刑しているといわれるが、真実? 具体的にいえば、小橋川・北原区長、糸数盛保同区警防団長を含め、二家族九人の殺害と、その家への放火。そして、安里電信保守係の殺害。まず、この二つにかぎってお聞きするが、間違いはありませんか?

「そのとおりです。これはその、スパイ行為ということでね。前者は、私直接には行きませんでしたが、軍隊を派遣してやらせたわけです。処刑は銃剣でやるように命令しました。突くようにね」

 

 ――突殺して、放火した?

「ええ、火葬にしました。家と一緒にね。それから、あと片づけをするように、村長に命じました。ええーと、ワシの見解はね。当時、スパイ行為に対して厳然たる措置をとらなければ、アメリカ軍にやられるより先に、島民にやられてしまうということだったんだ。
 なにしろ、ワシの部下は三十何人、島民は一万人もおりましたからね。島民が向こう側に行ってしまっては、ひとたまりもない。だから、島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも、断固たる処置が必要だった。島民を掌握するために、ワシはやったのです」

 

 ――安里電信保守係は、どうしたのです?  ビストルで撃ってドブに蹴落としたといわれているが……。

「それはですね、ドブではないですよ。ちゃんと見張所の近くに埋める穴を掘って、そこに銃殺して埋めたということなんだ。これは私自ら、その拳銃で処刑しました。ええ、拳銃を一発撃ってね。一発では死にませんから、苦しんでいる。かわいそうだから、兵隊にちゃんと銃に着剣させといて、両側からこうやって息を引きとらせたんですよ。ドブのなかへ蹴落としただなんて」といって笑う

 

 ――安里氏に若い奥さんがいて、やはりなくなっている。あなたが処刑したのか?

「それは記憶にないです」

 

 ――仲村渠氏一家、それに谷川昇氏一家の処刑も本当なんですか?

「ええ。まあ、スパイ行為で、何人かあったと思います。谷川というのは朝鮮系で家族は二人だったか、三人だったか。命令して部下にやらせたのです。ワシが直接やったのは電信保守係だけですが、その男はですよ。ワシの拳銃で撃たれたあと「どうも、ありがとうございました」と謝辞を述べてから、銃剣で息を引きとったんだ」

 

 ――殺されるのに、ありがとう、なんていいますかね……。

「日本国民で、しかも公務員がですよ。スパイ行為をして、指揮官に直接に拳銃で撃たれたんだ。罪をみとめたわけですよ、だから悔いなど残りません、と」

 

 ――いま、あなたはどう思ってますか?

「少しも弁明はしません。私は日本軍人として、最高指揮官として、当時の処置に間違いがあったとは、ぜんぜん思っていないからです。それが現在になって、法的に、人道的に悪いといわれても、それは時代の流れとして仕方がない。
 いまは戦争を罪悪視する平和な時代だから、あれも犯罪と思われるかもしらんが、ワシは無いことをしたと考えていないから、良心の呵責(かしゃく)もない。ワシは日本軍人としての誇りを持っていますよ」

 

 この一連の事件を取材するうち、われわれは<人間とは何か!その奥底に流れるもの>に深い懐疑を抱かずにはいられなかった。

 

むろん、これは一指揮者の、個人的な性格次元の段階で、説明がつく問題ではなかろう。
 

人間の恐ろしさ  これをつくづく知るのみである。

 

日本の「戦後の虐殺」と戦後

鹿山隊34人、そのうち4人が戦死、そのうち1人は仲間によって処刑された。住民虐殺だけではなく、仲間内でも殺しあう、鹿山は久米島を「いち植民地」と呼んだが、彼らはいったいどんな「植民地」で、いったいどんな「戦争」をやってきたのか。戦後、日本は自らの歴史にちゃんと向きあい検証し、記録を残すべきであった。

鹿山隊は9月に米軍に投降、武装解除する。

 

わずか30名の久米島の海軍が、直接的に20名の住民と1名の兵士を虐殺した。そして何事もなかったように、なんの責任も問われず、日本の戦後を生きていく。日本独特の、責任を明らかにしない社会というものは、これほど無責任で無慈悲、恥知らずで残忍な戦争を生み出すのである。

 

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