旧那覇市
宮城聡
時 一九七一年一月十四日
場所 東恩納文庫にて
嘉手納○○ (三十一歳)久茂地小学校職員
久茂地、上の山、松山の三小学校の第一回の疎開。それは後で聞いた話だが、その藪を引いたのは校長なんですね。各校長を集めて、三校しか行けないが、ということで抽にした。そうして上の山の校長がまず当てた。非常に大喜びであったらしい。これはそこの教員が話していた。それから松山、久茂地がそれを引き当てて、第一回はその三校だけ。海防艦というのがあったはずだ。しかもそれが普通の商船を改造したやつで、装備は普通の軍艦並みではなかったと思う。人員がそれだけしかまあ収容することができん、人員ははっきり覚えてないんですがね。
そしてそれが多分十九年七月のなかばだったろうと思うんです。ところがこれが無事着いた。軍艦だから早いんですよ。無事九州へついたという知らせでみんなホットしたわけです。二回目が八月の例の対馬丸事件の二十二日。わたしは当時久茂地小学校で、疎開事務を担当していた。それで八月二十一日に市役所各学校の係りが集まったんですよ。その中には当日対馬丸で出発するという教員もいたわけですよね。その連中が、前知らしとでもいうんですか、何か予感がしたんではないかね。わたしに、久茂地はよかったですね、われわれは軍艦ではなく、普通の商船で、何だか気になりますよ、といっていました、二、三名で。そうしてあの船団の中から対馬丸だけやられた。残ったのは各学校で数名の生徒、あとみんな死んだ。
そうして対馬丸で犠牲者を大勢出した結果は、今まで相当応募していた学童疎開というのがね、ほとんど影をひそめた。いくらすすめてもなかなか行かないんですよね。まあ、それでもやっと五六十名ぐらいまとめたのが九月の末頃です。そうして引率教員も最初に行ったのが優秀な若い連中が主であったんでね、これは(若い連中)なかなかいない。それで結局わたしが当てられた。引率教員は各学校一人ずつでわたしもその一人に当てられたわけですね。それが十月十日が久茂地校の二回目の疎開の日だったんです。だからその前日呼ばれた時も、乗り込むことになっている駆逐艦の艦長が、状勢は緊迫しておるから絶対安全という保障はできない、その代り全力を尽してできるだけ無事に届けるようにするから、とはいっていたがね。兎に角不安でしたな。
そして出発が奇しくも十月十日。それがね、従来の疎開は集合が午前五時ですよ、そうして午前八時乗り込み。ところが幸いといいましょうかね、十月十日の疎開の日は、集合が午前九時、乗りくみ開始午前十一時だったんです。もし従来の通りにやっていたら、港で集合しているところで、空襲にあっていたでしょうな。まあ、それは幸いだったといっていいでしょうね。で、わたしも朝早よう起きて疎開出発の準備をうちでしていた。家内が真和志村の銘苅出身だったもんだから、実家へ挨拶に行けといって帰したのが午前六時半頃。
ちょうどその頃、泊高台にある高射砲陣地から高射砲の発射があったわけです。最初空襲とは気がつかなかった。そのころ寒露の季節で鷹が渡っていた。その鷹に向かって高射砲が炸裂するようにわたしは見たんです。それでわたしは、鷹の群に対する実弾発射演習かなと思ったんです。ところが間もなく、爆音が聞こえ、飛行場、あたりが爆撃されておることがわかった。その炸裂する震動がね、松山町のわたしのうちにまで伝わって、二階が相当に揺れましたよ。それで疎開へ行くことになっていたのは、わたしと家内と母なんですよね、弟はすでに東京に行っている。だから家内は実家に挨拶にやって、うちには僕と母と二人残っていた。
それで空襲がはじまったもんだから、わたしは母をおいたまま、学校へ行ったわけです。これは大変だと思ってね。学校へ行ったら小使はお茶を沸かしている。駐屯している兵隊も平素と何も変らん、わたしが空襲だよといっても、ぴんと来ないらしくてね。間もなく指令が来て軍隊は右往左往だったんですが。そのうちに教員が数人集まって来る。空襲の対策というのは結局は何をやっていいか実際わからんですよね。もし焼夷弾でも落ちて来たら、火を消し止めようというくらいのつもりで、学校の中にある素掘りの防空壕にしばらくいたわけです。ところがどうも気になるもんだから学校の近くにある墓地の上にある素掘りの壕に移って行ったんです。
ところが時間が経つにつれて空襲が熾烈になる、そして午前の八時九時の頃は、空襲の中心が那覇港付近だったと思いますがね。大きな炸裂音がする。その炸裂音はね、わたしには、何千何万枚という硝子をいっぺんに割るような音に聞こえおった。パシャッーとい大きな音がね、ドカンという音ではないんですよ。
そうして見ていると、黒煙が立ち上っている、火の手が上っている。だんだん美栄橋あたりに近づいているように見えるんですよね。最初は西(町)東(町)が中心、それが泉崎から久米あたりへって来る気配があるんですね。
まあ、それでわれわれは別に学校がやられているんでもないのでただ見ておるだけ。その中に昼飯時間が来たもんだから飯を食べにうちへ帰ったんです。うちに行ったら母はいない。隣の人に訊いたら、銘苅に行ったという。それで安心したんです。それから飯を食べて、学校へ行ったら、隣に職員の家族がいてね、その家族に飯は食べたかと訊いて見ると、まだという。じゃ、うち行って取って来るからね、というんでまた学校へ下りて行ったんです。ちょうど裏門を入る時に爆音が聞こえたよ。それにかまわず、自転車を置いてあるところまで走って行って、自転車に乗って学校の門を出たとたんに、超低空で機銃掃射がはじまった。耳のそばを機銃弾がかすめて行くんですよ。ヒュウ、ヒュウと。そうして時間は昼すぎになりますけれども、空襲が今度は、久茂地から若狭(町)、松山(町)その一帯に中心が移って来ている。それでわたしは自転車を走らすことができんもんだから学校の塀のそばに自転車を持ったまま立っていた。ちょうど上にガジマルの枝が張っていたので、の陰に身をひそめて立っていた。すぐ隣に電気会社があったんです。そこへ、あの焼夷弾がヒュウヒュウ飛んで行くんですよ。そして火の手が上がる。
それでわたしは空襲の隙を見て、久茂地、今のわたしの家のうしろ付近です。塀沿いに自転車を飛ばして行った。そして、墓地下、今の子供博物館の下がわになるけれども、そこの墓地地帯の近くにかかった時にはもう、飛行機が群がり、進んで行くことができない。それで墓地のそばの古巴梯子があって、その下にしばらく立っていた。
ふと見たら墓の中にいっぱい人がいるんですよ。それでわたしもその中に入ろうと思って、しばらくわたしもそこに入れて下さいな、といって入ったんです。そうしたらひどかったね、焼夷弾投下、もうボンボン来るんですよ。それでわたしは、その墓地の裏がわに弾薬集積所があるのを思い出してね、あれが炸裂したら大変なことになると思って、墓の中にいる人たちに、ここにいたら危いから、もっと安全なところに行きなさいといって、わたしは飛び出て行ったんですよ。そうしてもといた素掘りの壕に入っていたんですがね。
空襲の翌々日、そこを訪ねたら、僕が入っていた墓の真上に爆弾の直撃があったな。ところが不思議なことに、墓は上は亀甲でも破風でも格構はちがいますが、中の構造を見たらね、すべてアーチ。
その爆弾が、勿論小型爆弾だったんだが、爆弾がそのアーチを通っていない。そこで喰い止まっている、下までとうってなかった。墓というものはずいぶん強いなと思いましたね。中を見たら人は一人も死んでいない、だからわたしが出た後に、他の人はみんな出たんだなと思いました。それは翌々日見たことですがね。
そうしてわたしは、素掘りの壕に入ってからはほんとに頭を上げることができんぐらい、飛行機の空襲がひどくなってね、一、二時間くらい、顔も出すことができんほどでした。あんまりひどいんです。時どき機銃が、耳のそばをヒュウーヒュウー飛んで行く。そして午後の三時頃だったかね、一応空襲が止んだので、素掘りの壕から立ち上って見ると、校舎の三か所から火が立ちのぼっていた。わたしは校舎の中に走って行きましたよ。いってみると、学校の付近も火の海。そして学校はこれからまさに焼けようとしている。それでわたしは、ひとりではどうにもなるもんではないと知りながら、やはり学校が最後かと思うと、いたたまれなくなって校舎に入っていった。それから消防器具か何かないかと見わたした。また取り出すべきものもあるんだろうが、まあ、ひとりではどうにもならん。それで一巡して、また素掘りの壕に引っ返して来た。
これは後で聞いた話だがね、ある若い教員が、わたしが校舎へ入って行くのを見て、出るのを見なかったらしい。それで翌日か、翌よく日か、校長のうちに行って、嘉手納先生は学校が焼けはじめてから学校に入って行って、出て来なかった、といったらしい。うちへ帰って行った時、軒下に消炭でね、「宗徳、校長に連絡せよ」と書いてある。何のことかと思って行って見ると、教員が十名ぐらい集まっていたが、みんなびっくりしていた。君元気だったのか、実 はこうこう話があって、君のことを心配していたという。
まあ、そういった話がありましたが、それが三時頃だよね。それ からわたしは、今の浮島通り、あの当時は浮島通りの市場付近はそ の道の両がわとも田や畑。そこを通って、それから今の平和通りに 出た。
ところが、どこもかしこも暗渠という暗渠、墓という墓、すべて いっぱいですよ、人が。それでどうにもならんから、家内の実家に 行こうと思ってね、今の国際劇場がある。その付近を通って行こう と思ったら、両方焼けてとても通れん。熱気で大変ですよね、火 が。とてもつっ切ることができん。それで今の沖縄三越がある、あ の頃あの辺は、ちょっとした丘なんかのある畑ですよ。そこをつっ 切って崇元寺に行こうと、十貫瀬に出た。その十貫瀬も燃えている んですよね。それから人の屋敷の壊れたあとなんかを飛び越えて、 やっと崇元寺に出た。
そこから泊の黄金丘の上に行って、ひと休みして焼け行く那覇 の市街を見ていた。それが午後の四時頃です。
そうしてわたしは家内の実家に出かけて行った。あっちへ行った らね、母が来ていないんですよ。 話では午前十時にはうちを出て銘 苅へ向かっているから、とうに着いていなければならん。まだ来ん というもんだから、大変なことになったと思って、僕は水を一口飲 んで、じゃさがして来るといってすぐ出かけた。さいわいに途中であった。泊と銘苅との中間で。事情を訊いたらね、うちを出て前島 まで行っている所で、空襲にあって、どうしても動くことができん
もんだから、他人の屋敷の素掘りの壕に入っていたと。ただ掘った 壕です。天井がないわけです。そこに何時間ですかね、五、六時間 ぐらい入っていたんでしょう。
とまりたかはし
カダバル
母にあったもんだからもう一安心ということで、僕はうちを見て 来ようといって、そのまま泊の方へ下りて行って、那覇へ向かっ て行った。泊 高橋と潮渡橋との中間のところを泊兼久といい ますがね、今の一号線、そこへ行ったら、両がわ火災で、道は通れ ん。それから潟原へ出て、やっとうちへ辿り着いたら、うちの手 前まで全部焼けて、私のうちが縁がわからまさに焼けようとすると ころであった。それで急ぎ消し止めてうちは無事です。うちで消し 止めたので、うちから後の方は全部助かった。うちのすぐ手前まで は全部焼けたんですがね。それからわたしは、うちの中を少し整理 して、夕方また銘苅に引き返して行ったんです。その晩は銘苅で泊 りました。
これが十月十日のわたしの体験なんですがね。 十月十日の空襲は あまりに衝撃が大きかったか、何か知らんが、恐怖感が無いという のはおかしい話ですが、 そんなに恐いという印象は受けていなかっ たな。
ところが銘苅に一泊した翌日の十一日、その日がほんとに恐かっ たんですよ。空襲の翌日だからまぁ、人心は動揺していたがね。朝 飯をすまして、みんな話し合っているところへ、警察部長命令で ね。午前の十一時頃でした。緊急立ち退き命令、その命令に よる と、敵の機動部隊が接近しつつあり、そして前日の空襲以上のもの がすぐ来るから、安全なところへすぐ避難せよという命令です。
もうその時はほんとに恐しくてね、警察はどこへ行けという当てはないですよ。ただ漠然と国頭の安全なところへ行けという命令 だね。 それで家内の実家の家族、わたしの家族入れて十名ぐらい、 もうみんな大騒ぎだ。どこへ行くというあてはなく、ただ行くというんです。 わたしは反対したんです。 家をあけてどこへ行くかと。 だがみんなは行くというもんだから、じゃわたしひとりは残るとい って、わたしひとり残った。みんなはあてもなくただ行った。
それで私は淋しくもあるし、恐くもあるしね。山羊や牛に草を やったり、ひとり飯も食べて、ほんとに佗びしいことだと思ったん です。それで物笑いになるか知れんが、ひとり竹槍操練しておっ た。
翌日の十二日にわたしは那覇へ下って行ったんですね。 途中で在郷軍人の分会長にあった。在郷軍人もどこへ行ったかわからんとい う話、それで学校へ行ったんですよ。焼け跡を見たら、完全に灰で す。一物も残らん。
その翌日の十三日、また学校へ行った。銘苅に泊っておったんで す、十月いっぱい。 途中で県視学とあったんですよね、県視学は僕の顔を見ると、嘉手納君、なにをボヤボヤしておるんだ、なぜお前、国頭行かないんだ、と僕にいうもんだから、わたしは少しむっとしてね、「教員は勝手に任地を離れていいんですか」と、僕は大声で言った(笑い)。「これから学校へ行くつもりです」(笑い)。 ナンセンスみたように思うんですけれど、あの時は気が張っているもんですから、わたしはこれから学校へ行きますといって、学校へ行ったんです。
その日子供たちが数名来ていました。焼け跡に茫然となってね。 わたしの組の子供も二人来ていた。 わたしは、どうだ学校はこんなになったが、また授業やって見るかといったら、子供たちは賛成し たですよ。君等の付近に生徒はいるかと訊いたらおるという。じゃ 連れて来い、あしたからやるからといって、そうしてはじめたのが 青空学校。まあ正式にやったのは、もう少し後になってからと思う んです。 最初は学校の焼け跡整理を、焼跡整理がついてからは焼跡 を耕して野菜を植える。校具は何もない。ちょうど学校の周囲には 墓が沢山あったので、その墓の庭にね、最低二十名ぐらいは坐れま すから、一学級ごとにそこに入れるんです。墓の壁に消し炭を持って行って、それで字を書いて教える。 体操がすんだらそこにつれて 行って授業をはじめるんです。それがずい分続きましたね。青空学 校、わたしがというよりわたしたちがというのが適当です。 教員も その頃十名くらい集まっていましたからね。 生徒も二百名くらい来 たんですよ。こうして授業をやりました。そうしてさっきいった県視学、やはり視学になっているNKさん、それからKSさん、その 三名はいっしょに県庁へ登庁していたからわれわれが授業している 青空学校を見ておるんです。新聞にも久茂地小学校の青空学校と出 たんです。
それで疎開のことですが、十・十空襲の直前までは、例の対馬丸 の影響を受けて、疎開はすすめてもほとんど行かなくなった。 それ が十・十空襲で徹底的に打ちのめされた。それからはまあみんな、 われ先きにと疎開するといってですね、あとでは船に乗りさえすれ ばいい、という考え方にまで変っていた。商船なんかでとても行けないと思ったものは、機帆船を借りるんです。何名かでね、それをチャーターして行くのもいたんです。とにかく、船に乗って那覇を出さえすればそれでいいというところまで変っていたんです。
それで青空学校の生徒も減って行く。その中から疎開するものもいる。だが大部分の生徒は沖縄に残ったな。国頭にも一部行ったが、学校周辺にいたのが多かった。
そのころB48は連日のごとくくるが、それは馴れっこになって、あれは爆弾も落さん、偵察くらいに思っている。空襲警報はかかるけれども僕等は逃げない、青空学校は一応二月の十五日まではつづいた。
それから県からの指令が出てね、もう情勢が非常に悪化した。これ以上学校の授業が出来んといってね。もう学校解散といったら大袈裟だが、とにかく学校の生徒は父兄と共に、安全のところへ避難するよう、教員も年寄り、女、不具者 (ママ) は安全なところに避難せよ。若い元気なものは、学校の仮事務所に残って、待機せよ、命令があるまでそこで待っておれ、という指令が出て、今の壺屋のね、あれは沖縄陶器という名であった、そこのすぐ上に拝所があった。壺屋で「西の宮」といっているが、そこの広場で学校最後の解散式をやったですよ。空襲が頻繁になるにしたがって、学校の集会場所をそこに移してあった。はじめは学校であったが、もう学校が危険だといってね。それからそのそばには横穴式の壕が沢山あったが、いざという場合は全校生徒を入れるくらいの壕だったんですよ。それで二月十五日に解散した。わたしはそのまま残ったんで、毎日出勤。
それで二月十九日に、県からの命令でわたしは、県教学課に任命されたんです。ただし久茂地小学校訓導、沖縄県教学課嘱託。俸給は学校から貰うんです。それで教学課へ十九日に行ったら、教学課は午前中で終りでね、教学課の職員だったさっきの視学、NKさん、KSさん、それからわたし、もう一人、やはり久茂地の教員だった女の先生でありましたが、その五名、十九日の午後教学課から人口課へ移された。それが当時の二大重点事業というのかね、人口調整、食糧確保ということでね。その総本部に当るのが人口課なんですよ。人口調整のそれが非常に忙しいからというので教学課から廻されて、結局わたしは教学課に勤めるようになったんだが、実際は人口課に行った。
その頃県庁の建物は空襲では難をのがれていた。ところどころがやはり爆風のあおりか、崩れかけているところもあった。今立法院のある瓦屋(地名)、あの辺も民家はほとんどのこっていました。十月十日の空襲で災害受けていない。ところが県庁は分散、あの頃は警察部だけが残っていた。その庁舎内には。
十月十日の空襲直後は、普天間に移動したんですよ。それでわたしは、久茂地小学校から普天間に俸給を取りに行ったことがある、歩いてね、往復。でわたしが人口課に入る頃は、人口課の事務所は、今の那覇高校、戦前の二中の同窓会館跡、焼け跡、そこで人口課の事務をやっていた。わたしは毎日そこへ出勤。教学課は、刑務所の隣りの聾学校であったかな、その事務室を借りているようでした。あそこに半日、あとは二中の同窓会館跡の事務室で、最後まで事務を取っていました。それでわたしは毎日銘苅から通って、那覇には一日一ぺんは出るが、泊るのは銘苅だったんです、ずっと。それで人口課に勤めている時、最初の一週間、わたしは輸送係りというのを仰せつかったんです。どんな仕事かと申しますと、那覇・首里・南部あたりの人たちを、北部へ立ちのきさせる、まあ、疎開だね、それの督励係りということですよ。それでこれには、警察部の輸送の職員、たいてい警部補なんか来ました。それといっしょになって、汽車に乗せたり、トラックに乗せたりして送ってやるんです。それを一週間つとめていた。それでわたしの手帳には、毎日のその委しいメモを書いてあったんです。それは約一週間で、わたしは何月何日島尻の何村、何村、何村が何名、国頭の何村、何村へ移動した。その記録をね、約一週間。
それからつぎの週からは、職をかえられてね。今度は県外疎開の船の交渉。ちょっと心配だったんですが、毎日港へ通う。港の付近は、遮蔽物がない焼野が原になって、飛行機が来たら隠れるところがないんです。港は船が来たら爆弾落されるのは確実。そこへ毎日行くんです。それでわたしは自転車に乗って、毎日、海軍運輸部隊とか、陸軍暁部隊(船舶部隊)、それに商船会社へ。商船会社は、あの頃、那覇農園壺川の、そこへ移していました。そこへ毎日船の消息を聞きに行く。それでその消息をまたメモするんですがね、毎日。例えば今度来る船団は何船団、船は何丸、何丸、トン数は何トン、収容人員は何名、その委しいメモを毎日手帳に書き込んで置く。そういった仕事をずっとやっていました。後になっては毎日ではなくて、時どき行ったようであった。最後までそれをやっておりましたね、別の仕事をやりながら、それ専従ではなくて、そうして疎開の話をしに、あちこち出かけて行くんです。わたしが行ったのは小禄村と玉城村。
小禄村に行った時は吃驚したことがありましたな。あんなに魂消たことはなかったです。どういうことかといいますと、わたしが県庁の車に乗って、出かけて行ったんです。そうしたら、小禄の役場のところに、村民が堵列して並んでいるんです。それでわれわれを迎えるにしては大袈裟。それが村長の部屋に行ったら、そこに奇麗席が設けられておるんです。村長に訊いたら、今日知事が来ることになっている、例の島田知事が。それで堵列して待っている。わたしはそれを知らずに小禄に行った。そういうわけで知事を待ていたが、知事はいつまで待っても来ない、とうとう村長が、知事代理になってくれ、といって、知事席に坐らされた。それから村民が二百名ぐらい集まっておるからそこに行って話をしてくれといわれ、それでわたしはそこの講堂に行って、一時間疎開の講演をした。その中には知っておる顔ぶれがいる。その役を当てられてね、約一時間話して、つぎの一時間は座談会をして、ほんとに吃驚仰天というところだね。
それから、その翌よく日から玉城村へ行ったが、その時はほんとに疲れたね、えらい目にあいましたよ。役場で各字の区長を集めて立ち退きの話をしたんです。そうするとその区長連中がね、もうとにかく村民にいくらすすめても行かない。だから、僕に直接何とかしてくれと言われたわけです。それで僕は正直にそれを引き受けたですよ。そして区長連中といっしょに部落へ出かけて村民と話し合いをしたんです、それからまたつぎの部落に行くというように。そうして一応終ってどこかの字の例の倶楽部というところ、字事務所ですが、そこで夕飯を食べた時は夜の十一時頃、八時頃出かけて行って、夜の十一時頃夕飯をはじめて食べた。またそれからしばらく話ですよね。
そうして玉城村を出る時にはすでに十二時ぐらいですよ。それからわたしは自転車に乗って帰ったら、途中、津嘉山と真玉橋との中間で自転車がパンクした。それを引きずって、うちへ着いたのは午前の五時近くです。翌日はまたいつものとおり出勤でした。それをみんなに話したら、君はあまりに正直すぎるよと言われた。向こうがいうのを一生懸命はい、はい、いって何でもやって来たですからね。そういう経験があります、人口課にいた時。
それからやはり人口課にいた時の経験ですがね、課長の浦崎純氏から、陸軍部隊がトラックを出したり、ずいぶん立ち退きに協力してくれた。その礼状を出したいと思うから憲兵隊へ行って、部隊の所在地を訊いて来てくれといわれた。それでわたしは名刺に、久茂地小学校訓導と名前が印刷されてあったが、それにぺんで、沖縄県人口課と自分で書いてあったんです。行ったら憲兵隊長は大佐で、名前は忘れたが、最初は丁重にもてなしてくれたんですがね、それがその話を切り出したら急に疑い出した、僕を。それからわたしを見て、教員が入口課嘱託というのはおかしいですね、という。しかし僕はねばって、こうこういう事情で・・・・・・と話して、やっと、大きなところだけはさがしてくれましたよ。これは軍の機密に属するものだから絶対言わないといってね、その末端までは教えてくれなかった。やっとそれだけを持って行ったら課長は、それでは役に立たないじゃないか、もっと委しく訊いて来いという。それでわたしは、僕にはこれ以上はできません。もっと必要ならあなた自身で行って下さい、といったんです。後で軍の方に訊いたら、その大きなところを言っただけでもまずかったんだそうです。もし君がスパイだったらどうする、それでも一応スパイ嫌疑をかけられたわけです。だが大きなものだけは、何隊、何隊といってね、訊いて来た。そういうこともありましたよ。
そうして、わたしは三月二十三日に今言った用件で、陸軍のこれまでの協力に対する御礼と、これから後の協力要請、この公文を自分で書いた。
それを持って園比武御嶽の近くの地下壕と、そこに球部隊の本部がある、有名な長参謀長、その参謀長と)もう一つは、首里の第三小学校へ(石部隊の参謀長)三月二十三日に両方の参謀長のところに僕は行くことになっていた。そしてそれをすましたら君は一週間休暇をやるから家族をつれて国頭に行きなさいといわれた。ところが、その二十三日に沖縄攻略作戦がはじまったわけですからね。もうとてもそとへ出られるものでない、その文書を持ったままとうとう行けなかったんです。まあ、それでわたしの入口課の仕事は終りです。
話は前に戻りますが、銘苅に一週間くらいわたしがひとりでおる間に、義弟が帰って来ましたよ。君等はどこへ行っていたかと聞いたら、国頭には行かないで、具志川に行っていたというんですよ。それからうちが何んでもないとわかったもんだから、ひとり二人と帰って来て、二週間ぐらいでみんな戻って来ましたよ。
そうして戦争になる前に、やはりさっき言った各村の国頭に立ち退きというのがあってね、わたしの家族をのぞいて他は、全部山原、喜如嘉へ行っておるんです。それでわたしと家内と母と三名です。
三月二十三日の空襲、上陸作戦がはじまった時は、この銘苅部落は、組踊りで知られている有名な銘苅川(泉名)、銘苅子伝説のあるところ、そこをシグロク(銘苅川を地元の人はシグロクともいう)といっておるんです。そこから流れ出る水と上流から流れる水とで川になっているんです。その川のすぐ下にわたしの家内の実家の田が数千坪あったんです。その対岸の方に岩盤があって、そこにあらかじめ空襲に備えて銘苅部落民が、横穴壕を掘ってあったんです。数十名入るぐらいのね。それでアメリカの上陸作戦がはじまってから、わたしも家族と共に最初の一日、そこに入ったんですよ。ところがも沢山いてむせるから、僕と家内とはここにいてはもう大変だからうちへ帰ろうという。うちとこことは二百メートルぐらい離れていたんです。うちへ帰って家内と二人だけで二階に住んでいる。それから艦砲射撃で二階がゆれるんですよ。弾は遠いけれども。ちょうどその頃、座間味、例の阿嘉島がやられている。どこか東海岸でも艦砲射撃がやられておる、そういう遠いところだが、響くですよ。そしてとに角、家に住まっていたが、母がね、危険だといって恐がるんですよ。危いから壕に行こうといってまた壕へ行ったんです。
その頃高いところへ登って海岸を見たら、もう慶良間から安謝の海岸あたりまでね、アメリカの艦船が、四列横隊をなしておるんです。もうわれわれはすぐ思ったなあ、上陸はここに間違いないとね。そうして向こうの駆逐艦らしいのが、出て来て機関銃でバラバラとやるんですよ。機雷を警戒して、機雷があったらその弾であらかじめ爆発させておこうというわけでしょうね。近づいて来ては機銃掃射をしておる。それをわれわれは高いところから立って見る、いよいよ上陸が近いなと思ったんです。その壕ではNさんも住んでいた。Nさんも向こうには畑地が三万坪ぐらいあって、屋敷もある。それで那覇が焼けたてからNさんも向こうに住んでいた。Nさんが僕に、嘉手納君、もうみんなここにそのままいて、死ぬのならみんないっしょに死んだ方がいいじゃないかといっていた。いけません。もうすぐそこに上陸しますよ。そうすると最初にやられる。見すみす、死ぬとわかりながらそこにいることはいけません。今のうちなら山原に逃げられるからみんな今の中に逃げて下さい。わたしもどこかへ行きますと話した。
それでわたしも山原に行こうかと思ったが、家内が反対した、行かないといって。その頃家内は体が弱っていたんです、歩けないといって。じゃ、ここにいても何だから首里に行こうかと話した。やはり考えが少し浅かったね。首里は最後の陣地だろうと思ったんです。首里が陥ちれば、もう沖縄全部占領される。それで首里と共に死んだ方がいいんじゃないかと考えたんです。山原行こうが、どこへ行こうが、最後に残るのは首里である。だから首里が落とされたら、沖縄は完全に占領だ。首里へ行こうと決めたんだね。
三キロメートルぐらいあるかな、首里の平良町のフシマントウというところへ行ったんですよ。そこにトントンガマといって、大きな自然があるんです。それを見つけたのは義弟でした。義弟はね、当時師範学校で、これは兵籍に編入されている、いわゆる鉄血勤皇隊へ編入された。これが時どきうちに帰りながら、そこに大きな穴があるのを見ていた。そこに大きな壕があるから、そこに入りなさいといってつれに来たわけです。じゃ、そうしようということで入った。ところが、岩盤が薄いんだよね、下に大きな穴がある、そして横穴がない。もしそこに爆弾が落ちたら全員即死、どうも不安でならなかったが、別に行くところがない。そこはじめじめしたところで気持が悪かった。最初は四、五十名くらいいたが、それがいつの間にか人がどんどん入って来て、後には二百四十名くらいいたな。もうその頃からは空気が完全に乾燥していましたね。も人の熱気で乾いてね、わたしは三月二十八日に家族と共に引越して来ていた。
弟は相変らず学校と行動をともにして、そこにはわたしの家族三名。弟というのは家内の弟です。その日の午後六時頃、そのガマ(穴)のそばは首里でも高いところでしてね、慶良間が一眸のもとに見えるわけです。
慶良間沖には、例の敵の艦船がいっぱいいました。そこへ向かっ毎晩のように特攻隊が飛び立って行く。夕方、もう日没すぎだからすぐわかるんです。曳光弾が行くんですね、光ってパンパン、パンパンとね。集中攻撃の音がポンポン、ポンポンと聞こえる。それ真赤に火が上ったりするからね、もう完全に敵艦船の轟沈するのが見えるのです。その壮烈な攻撃を見ていたんです。午後六時すぎ、最初は相当に人がいた、十名ぐらい人がいたと思ったが、立っているのは家内と二人だけ。わたしが振り返ったら、後に兵隊が五、六名ぐらい立っていた。わたしらは何もしていない、ただ見ていただけ。
その攻撃が終ったので、壕に帰ろうと思って引っ返して来たら、うしろに立っていた兵隊の一人が引きとめてね、おじさん、懐中電燈持っていますか、写真機持っていますか、と変なことを訊くもんだから、そんなもの持っていないよ、といって別に気にはしなかった。そうして家内といっしょに壕に帰って行った。
その晩、家内とわたしと、米の配給を貰うつもりで、一中(現在の首里高校)の門のそばに配給所があったが、そこへ行った。また二、三軒連絡するところがあったので、そこへ行った。
夜間われわれ夫婦が外出している時に、われわれを後から見ていた兵隊六名がわたしをスパイだといって、摑まえに来ていたといって聞かされてね。帰って来たら、すぐそばの人に、君をスパイとして摑まえに来ていたぞと聞かされてびっくりしたんですがね、全く思いもかけないことでした。
それからわたしは、覚悟を決めたんですよ。もし逃げたら、いよいよスパイだと嫌疑が深くかかるだけだ、よし、そこにおって、つかまってやろうと思ってね。そして二、三日経ってから、真昼、二時頃だったな、兵隊が四名ぐらい来て、そこでさんざんこずきまわされてね、スパイだといって。それでさっき話した手帳、彼等の目から見たらスパイ容疑の記事ばかり。その手帳に毎日のメモ、まあ、日記ですよね、県人口課にいた時の毎日の日記を書いている。これを彼等は見て、これは何か、とつきつけるんです。わたしは、これはこうこうだ、日記についてはこれは当然つけるべきでつけてあるだけのもの、といったら、彼等は、弁解無用、といって絶対聞き入れてはくれない。
またわたしのカバンの中に例の長参謀長石部隊の参謀長宛の手紙が入れてある、それで行くべき用事を、三月二十三日の攻撃以来ととう行けなかった。今度はこれを出して、これは何か、という。彼等は完全にこれはスパイだといってね、もうそうなってはこっちのいうことはぜんぜん聞いてはくれない。いくら弁解しても弁解無用といってきかん。それでわたしは、言ったですよ。沖縄県立首里高等女学校、工芸学校は後でそういう名に変えてありましたが、そこの運動場に地下壕がある。そこの地下壕に県教学課があるから、あそこに行って、僕のことを訊いて来い、そうしたらわたしの身分がどんなものであることがはっきりわかる。この手帳に書いてある意味もわかる、もしあそこへ行って、誰もわたしを知らんといったら、お前たちがいう通り摑まってやる。そういってから、そのかわり、わたしはどこへも行かん、監視をつけて二、三名いてもいい、どこへも行かん、その返事が来るまでそのままどこへも行かんからといって帰した。
それから二、三日してから僕を掴まえに来た兵隊たちがまた来た。そうしたらその態度が豹変したな。全くの変り方、今までスパイだ何だとさんざんのことを言っていたものが、今度は手の平を返すように、先生先生とおだて上げるんだな(笑い)先生煙草いりますか。と、もう大変のまつり上げようです。後でKさんから聞いた話だが、Kさんの話では、その頃憲兵軍曹という男が来て、僕のことを訊いていた。それに答えるのがKSさん、KSさんが君のことを物すごくほめてやったと。それで今度は、小奴は使い物になると思ったんだろうな。早速わたしはこの壕の隊長にさせられて、専ら士気昂揚に努めた。警察とも連絡があったんでしょうね、巡査部長というのが来て、先生、壕隊長になって下さいという。それで壕隊長になって、それを六班に編成して、班長を置いて、そうして統制して、時どき作業に出すんですね、夜間はスパイを警戒して、入口を警戒するとかね、そういったことが取られたんです。
わたしはこの壕に三月二十八日から四月の末まで約一か月いたんです。四月は三十日頃までいましたな。それから一回だけ爆弾が落ちたことがありましたよ。そのガマの付近にね。その硝煙が壕の中に入って来て大変でした。上の岩盤が見えるんです。それは平たいのがね、それが落ちたらみんな即死だね、それが落ちはしないかと心配だった。
それから四月の半ば過ぎると、まあ二十日頃からですかね、戦車の音が耳の底に響くようになりましたね、そうすると兵隊の連中は、あれは友軍がアメリカの戦車を分捕って来たもんですよといっていた。戦車の無限軌道の音が聞こえて来るんです。
それでちょうどその頃だな、戦艦大和がやられたのは。それで情報が首里署を通してわたしの耳に入って来たんです。ところが事実とは反対だね、大和がやられたのではなく、大和がやったという話。全くかえた情報を僕に言わしたんです。だから後しばらくの我慢だと。いわばわたしも戦犯ですね、わたしもやられたということは全然知らなかった。それで僕も情勢がわからんだから、それをそのままみんなに話して聞かした。
その壕には最後まで、一人も負傷者がなかったわけです。全員無事。四月の末まで、四月二十七日頃ではなかったかな宜野湾、浦添戦線から撤退して来た日本軍がそこを占領した。一般民は出て行け、と命令してですよね。それから兵隊が入って来た。
しかしどうしたのかわたしの家族だけ残された。先生はいっしょにここで残って下さい、というんです。一体僕は何をするか、そうしたら僕は猛烈なアメーバ赤痢に罹ったですよね、大変な。僕は腹を痛めたら、絶食する習慣をもっていた。一日絶食すると癒る、どんなに悪くても二日すればる。だがこのアメーバ赤痢は三日経っても癒らん、もう三日目からはふらふらしている。水もない、その間一物も口にしない、もう最後の四日目からは歩けんぐらいふらふら。そうして四日絶食したんで、やっと癒った。それでも足腰も立たんぐらいふらふらしているもんだから、もう使えないと思ったんだろうな、先生も出て行っていいですよ、となったんです。それでわたしは壕から出て行ったんです。
そうしたら弾が降る、わたしは道を歩けない、疲れてへたばっているから。匐うようにゆっくりゆっくり歩いて、やっと辿りついたところが首里城。実はね、わたしがガマにいた時に、わたしの教え子の師範学校生徒、四、五名、鉄血勤皇隊に編入されて、この連中が毎日わたしの慰問に来る、毎日全員そろってね。その連中が慰問といって煙草を持って来てくれる。まあ、その連中の顔も見たいということもあったんだろうね、やっと師範学校の壕まで辿りついた。
そして体操の先生、与那嶺さんにあって、わたしも入れてくれませんかといったら、どうぞ、といってわたしを入れてくれたんですよ、勤皇鉄血隊の壕に四日入っておりましたな。師範学校の生徒もいっしょにね。その間、ほとんどこの連中は軍歌を高らかに合唱して、まあ悲愴といえば悲愴だったね。ところが四日目になって、配属将校から、そこから退去するのを勧告された。ここは全部兵役に編入していたんです。だから言わばここは兵営と同じで民間人は入れないから貴方は出て行きなさいという。
それでわたしはそこを出て、ちょっと上にあがって行ったんです。上って行ったところは正殿のあるところですからね。首里城の正殿のあるところへ上って行ったら、正殿が焼け落ちて、余嘘がくすぶっておった。五月の初め頃でした。
首里城の中から、歓会門を通って、守礼門を通ったんですが、歩哨が立っていて、そこを絶対に通さんという。それで僕は「金城町に行くんだが通せ」といったら通さん、それでまた引っ返して今の琉大の入口近くですよ、そこへ行って、それから林の中を通って、記念運動場(現在琉大の建物が立っている)のそばの道、そこを通って金城町へ下りて行ったんです。その頃は、攻撃はこうでしたよ。すでに宜野湾は占領されて、浦添も大分占領されているんですから。そこから大体臼砲とか、迫撃砲を撃ち込むんです。時どき散弾が来るですね。それから神山島、チービシからは、臼砲でなかったかね、ポンポン、ポンポンと大鼓をたたくような音ですが、アメリカの砲がチービシに据えつけられて、それから首里城攻撃です。もう音がまるで大鼓をたたく音です、遠くでですね。祭の大鼓でもたたくように、ポンポン、ポンポンと聞こえて来る。上陸した米軍の攻撃は、中頭からの攻撃です。わたしが金城に下りた時は何時頃でしたかな、とにかく午後ですよ。ここは弾の死角になっていると思ったからね、もう今までの疲れと共に、ひとつには睡魔が襲って来た。家族全部で、金城の町に入ったら人っ子一人通らんですね。それである屋敷のガジマルの下で何時間か、ぐっすり眠った。
夕方になって、そこから寒川に出て、松川を通って、一高女近くに出て、その道は今もあります。真和志支所のそばを通り、真和志小学校の前を通り、それから国場を通って、今の沖縄高校の近く、そこを通る時にはもう晩入時か九時頃になっていました。ゆっくりゆっくり。いわゆるルーズベルト提灯という奴よね、照明弾が引っ切りなしで、まるで真昼ですよ。もうぜんぜんそれがつきる間がない。その中を家族三名トボトボと歩いて行った。
そして辿り着いたところが今の沖縄女子短大、裏がわの下にある斜面、仲井間という部落。山手にある何の歩哨線か知らないが、歩哨線があって、そこに衛兵所みたようなのがあった。そこへ泊めてくれといって一泊した。そして民家に行ってね、食べ物をさがしに。あの時は人参の生のを食べた、おいしかったな。そしてそこに一泊して翌日は島尻へ行こうと思った。そうしたら翌日は大雨降りで、また津嘉山街道に弾が落ちるのを見たら、よっぽど覚悟をしておらねばそこは通れん。ひどいんですよね。それで兵隊に訊いたら、一日に何往復もするものがいるが、なかなか当りませんよ。まあ、当るというのは運が悪いんですよ。先生方もそれをあきらめらとれたら、何でもないですよという。
ちょうどその時、衛兵所の伍長という奴が、僕に、スパイの女を摑まえて来たんだが見てくれませんか、というので、僕は、僕が見たってスパイらしい女が判定できるはずはないではないかといった。いや、わたしもスパイではないと言い張ったんだが、摑まえて来たもう一人の伍長が、これはスパイと頑張っておるから、スパイではないという証明さえしてくれたらいいんです、というもんだから、じゃ、行きましょうといって行った。一人は積徳女学校の生徒、一人は首里高等女学校の生徒、両方とも三年ですよ。名前はききませんでしたが、宜野湾のもので、四月一日にアメリカが上陸したので、家族とちりぢりになった。本人たちは、家族が東風平におるというもんだから、山と山との間を通って、繁多川からまっすぐ仲井真に来た、歩哨線があるということ知らなかったんですね、それでそれに引っかかって極まった。摑まえた奴は、てっきりこれはスパイだといってきかない、その時は、わたしが前でやられたように、言い出したら絶対きかない、弁解無用でどうにもならないんですよ。女学生もモンパーを着て防空頭巾で、一般と異ならない、若い女だから、学生だからということも問題ではないです。それで僕は、事情を訊いて見たらスパイ行為は何もしてないから、これは絶対にスパイでないといって、やっと釈放されたですよ。そんなことがあって、そこで一泊した。
そしてわたくしは弾の降る中を。その頃から僕の家内はずい分弱ってね、道行くのもゆっくりしか歩けん。小学校の生徒たちもその道を走って歩くんですよ。わたしは、母も家内も三名肩を組んで、もう当ったら三名いっしょだという、ほんとに決死の覚悟でゆっくその道を歩いた。幸いにわれわれは、弾がよけて通ってくれたな。
その日の夕方、東風平村の世名城まで辿りつきました。ただ歩いた。弾が当ったら運だと諦めてね。東風平への道はその道一本しかないから、隠れもしない。
あの道は一間おきに弾痕があった。津嘉山部落を通った時は弾は長堂部落に集中していた。昼でしたよ。弾そのものは落ちるのが見えないが、落ちたら何か吹っ飛ぶんですよ。あれでわかるんです。音もしますよ。ヒューンとね、これは島尻行って経験してからですがね、大体午前六時半から三十分くらい、午後六時半から三十分くらい、弾の小休止がありますよ、あとで気がついた。何もしらんもんだから、とにかく当ると運だと思って、三人肩を組んで。
その間に僕は、ひめゆり隊にあっていますね、三十名ぐらい。隊を組んでね、そしてやはりその子たちは歌をうたってね、移動するようでしたね、どこかへ。もう部隊だから話はしなかったが。世名城に行った日は、避難民はあまり通らなかったな、わずかしか通らなかった。それで真玉橋から行こうとしたが、真玉橋はすでに爆破されて通れないんですよ、どうしてもその一本しかなかった。まあ、遠廻りすれば、もっと南風原に道があったんですがね、もうそこまで来ると、早く行くには津嘉山街道通らんといかん。宮平廻り、兼城あの辺から行けば何でもなかったですが、わたしはもう早く向こうへ行こうと思って、決死のつもりで津嘉山街道を行った。歩く人はみんな走って通るが、僕等は三名ゆっくり歩くので何かな思ったでしょう。
そして世名城の民家に約一週間泊った。そこでの記憶はあまりないですね、ただ沖縄那覇市出身の現地召集の兵隊が病気になってひょろひょろしておるのをよくあったがね、死んだかもしらんなあれ、名前は山田といっていたがな。
それからすぐ手前の与座に与座には、有名な与座川というのがあるでしょう。すぐそのそばにね、当時高嶺の村長していた金城という人の家があったんです。そこに移った日に、わたしは、その人の家に泊ったんです。その頃そこには弾は全然来ないんです。そういえば、世名城にいる時も弾は来ない、だから比較的のんびりしている。食事もちゃんと釜にたいていた。世名城から与座は約半里あるかないかぐらいです。そうして与座に行った頃にも、たまに榴散弾がくるぐらい。わたしは金城さんのうちに二、三泊ぐらいしたかもしらん。その家族は壕に行って、そこには誰もいない。それでわたしは、そこに泊ってもいいんですかといってね、ちょっと知っていたんですよ。わたしが子供の頃、金城さんが那覇のわたしのうちを借りていたことがある。それでわたしを覚えていてくれたんですよ。その後民家は危いというんで、その近くの墓の中に入っていた。食事は米を持っていましたよ。そこで一番の問題は水だね。水は何で飲むかといえば、あき瓶、一升瓶、キッコー萬でね、あれを一つ二つ持っていたら水に困らんですよ。それで最初は与座川がそばにあるから潤沢につかった。ところがそこから越して墓に入ってから水汲みに行くのが問題だ、いつ何時弾に当るかわからん。それでわたしは、一回こんなのがありますよ。水を汲んで帰って来た。
わたしの隣りの墓にこの連中は郵便局かどこかに勤めていた男だが、名前は何といったか忘れたな、これは二十代のものだがね、ちょうどそれが水汲みから帰る時分榴散弾の音がパラパラっときこえたよ。そしてなかなか帰って来ない、行って見たら、もう死んでいる、やっぱり運ですね。
そしてわたしは自分のいる墓を何か所か変えた。後では糸満の憲兵分隊のいる隣に住んでいた、糸満に憲兵の分遣隊があったんです。それが与座に移って来ていて、わたしは与座での最後はそのそばにいた。ちょうどその頃、高嶺村の兵事がかりが各壕を廻って召集していたが、わたしは年寄りの母をつれている、病気の妻を連れている、こんな状態ではとても召集に応じられないと思っていたので、難題を吹っかけて、将校にするか、将校だったら行くが、軍刀もあるしといってね。
そのうちに家内はだんだん弱って、とうとう五月の三十一日にそこで死んだんです。五月三十日の晩でしたね。それで弾の降る中を、KSさんと、碑まで建てましたよ。戦後それを取りに行ったが、ちゃんと残っていました。遺骨を取りに。硯と筆とを借りて来て、わたしが墨で書きました。その時は、わたしはこう思いましたよ、家内は先きに死んでよかったな、と。あと僕はどこで野垂れ死にするかしらん、誰も死体を収容してくれない、先きに死んだのは、ちゃんとこんなに家族が葬ってくれて、これは幸福だなと思ったんです当時は。今から考えると可哀想ですがね。衰弱ですね、心臓が弱っていたんですね、無理な生活ばかりしてですよ。普通の生活であったらとても死ぬような病気ではなかったんだよ、もともと健康な体でしたから。亡くなる時は何も言いのこしません。あの頃の一番心配は、弾の来ること。だから願いは、弾の来ないところに移ることだったんです。その頃から弾の来るのが激しくなって、人はどんどん南へ行って少くなっていた。その頃はじめて見ましたロケット弾という奴ね。
それからあの辺にいる日本軍の野砲ですが、肉眼で見えるところにいるんですよ、敵が。そこへ向かって大砲を撃つんです。見ていたら傑作ですね、そこへ向かって大砲を撃つんです。撃った瞬間にさっと逃げるんです、みんな。しばらくしたら、電波探知機で察知できるのかな、すぐそこに弾が集中する。そうだから撃ったらすぐ逃げるんです。あんまり弾が集中するので、そこにいたら即死です。そして日本軍から攻撃らしい攻撃は全然ない。それでわたしは家内が死ぬ前ですね、米が切れて、芋は沢山あります。わたしたちは芋を食べるが、家内はどうしても芋は食べない。お粥しか食べられん。米はつかい果してない。それでわたしは、兼城小学校長はよく知っていましたから、兼城まで訪ねて行った。学校の近くの壕に訪ね当てて、米があったらわけてもらいたい、と頼んだ。ところがその頃は米がないから芋を食べていた。借りるところがない、仕方ないから引っ返していた。それで途中でトンボがわたしを見たから、旋徊をはじめた。これが旋徊をはじめたら、必ずそこに弾が来るんですね。それでわたしは急いで、ちょっと小高くなったところへ逃げて行ったら、そこに壕があった、誰も気がつかないところに入って行ったら、そこは日本軍の食糧倉庫で、米も沢山ある。そこへもぐり込んで、米を貰って帰ったんです。それは玄米ですからね、一升瓶に米を入れて、竹で搗くんです。それを長くつづけておると完全に搗けるんですね、それでお粥をつくる。その米取りは一回だけで、その米がなくなる前に家内は死んでいった。米は袋のいっぱい、一斗くらい。
五月の半ばぐらいでしょうね、二十日前後ですかね、その頃KSさんから、憲兵軍曹という男が訪ねて来て、僕についていろいろ訊いたということを聞いたんです。
憲兵隊の壕の近くにわたしがいた頃、KSさんと別れて、五月の二十日すぎていたのではないですかね、五月の二十七日は海軍記念日で、日本の大反攻作戦があるということがあってね、僕はそれを期待しておったです。その前、あの頃は梅雨、例の小満の時期でね、雨が連日のように続いたな。
その頃日本軍のちょっと頭が変な奴がいたな、彼が脱走兵として、憲兵に折檻されておる。角材で殴っておったな、いたいたしくて見ておれなかった。そして何か白状させようとする、頭が変だもんだから、まともなことを言えないんだよな、それでまた殴る。二、三日経ってからだったな、この男が墓の庭の古巴梯子にしばりつけられたまま、まあ、夜中大雨でね、その雨にうたれたまま翌日は死んでいたな。可哀想でした。あの時わたしは軍隊の折檻をはじめて見た。殺されたのは軍服もつけていないので階級はわからなかった。その男は、そんなに若くなかったから、多分招集兵だったと思った。折檻したそ奴、憲兵軍曹だったよ。後でまた、喜屋武岬でいっしょになるが。
与座川というところですね、後では大変でした。あの移動する前あたりから。大変というのは、水汲みに行くと、撃ち込まれるんです。毎晩そこに人が二、三人死ぬんです。そこへ向かって弾が来る、その泉に向かってです。それではねられるものは皆即死でしょう。その血が、与座川の水を汲むところへ血が流れると、間違いなく、翌日はウジが湧くんです。ウジが湧くのは非常に早い、与座川は五月半ば頃からはそうなっていました。うっかり水が汲めない。
それから高嶺村行ってからもう一つ苦労したのがあるな、お粥を炊かなければならない。芋を煮なければならない。鍋は持って行ったと思う、その点ぜんぜん気憶がないね。ただ困るのは火を燃やすこと。それで、煙が立たないようにするためには、炭をつかわねばならない。わたしは余所からコンロを借りて来てね、焼け跡へ行って、炭をいっぱい拾って来る。それでその炭を燃やした。普通の人なら食べないでもいいがわたしは病人がおるから、ちゃんとしてやらねばならん、そのためにはずい分苦労しました。焚き物を捜がす、物を炊く。
わたしは母をつれて、高良上というところを通って、八重瀬を通って、そして反対がわの真栄平というところがあるが、そこに泊ったんです。そこへ二泊しましたね。
その頃ですよ、山部隊長の名義でね、公示されていた。石垣とか民家の壁にね、玉城村とか、佐敷村、あっちへ立ち退きせよ、あの辺は安全だからとね。後で聞いた話だが、玉城、佐敷近ぺんでは、真壁近ぺんに移動せよ、向こうは安全だからと。ちぐはぐなもんだでね、途中でその連中が行きおうて、右往左往しておったそうです。どこへ行けば、一体いいんだといってね。
真栄平では民家の馬小屋です。二泊しました。そしてちょうど真栄平に行った頃ではなかったかね、新垣部落が猛烈に爆撃されていた。そしてわたしは、その真栄平から移動してほんとはどこという当てはないですよね。ただ行きついたところで泊るという形です。それでそこから移動して通る途中で、中頭の何校か、小学校の教頭で安室さんという人にあった。この人はね、わたしが中頭で小学校の教員していた時、体育関係でよく顔を合した。この人は現地召集で兵隊。毛布二枚を、嘉手納君、この毛布を君にくれよう、といってね、安室さんは、新垣部落にいた時、大爆撃された。自分はこの毛布二枚を被って、それで命が助かった。この毛布は嘉例なもんだから、君にくれるといったので貰ったですよ。この人は戦死して帰らんですよ。
そして真壁を通って、波平という部落へ行ったんです。直線距離にしては、真壁から波平まで半里はないでしょう。すぐ見えたんです。わずかだから。そこにはね、約二週間泊りました。
波平という部落へ行った時には、まあ、壕というものは部落にはない。その近くの山には部落民がつくった壕があった。それがおおかた兵隊たちに取られていた。那覇とか、首里から来た避難民たちが、行くところがないから、民間の家の中に避難しているんです。わたしは、便所と石垣の間に自分で囲いをして、そこにまあ、壕のような真似ごとをつくって、そこにいた。そこにも部落のはずれに泉がありましてね、水汲みによく行きました。暗い中にね。ところがある早朝一斗甕を担いでね、水汲みに行った。帰りに道の真中にまるいものがあって、それにつまずいて、倒れてその水甕を割って、汲んで来た水を全部こぼしてしまいました。よく見たら、そのつまずいたのは、生首でした。砲にやられて、首が吹っ飛んで、皮が全部はがれて、まるで肉屋にさげてある肉ですよ。ただ頭部とわかるだけで、もう完全な肉。大変悲惨だったな、懐惨といったが適当でしょうな。
それからね、こんなこともありますよ。爆撃されて、砲撃されて吹っ飛んだ死骸が竹藪に引っかかって、腐ってね、臭気が甚だしい。処置できん。ちょうどその頃、黄燐弾が来て、部落が焼かれたことがありましたよ。その時、焼こうと思ってしたのか、そういうこともありましたよ。
波平にいた頃からは、しょっちゅう攻撃されて、煙が出ているから、その時は堂どうと火を焚いて飯を炊いていましたな。もうその頃からですよ、例の小休止の時間がわかったのは。その間に、サッと芋掘りに行くんです。朝の六時半頃と、夕方の六時半、南京袋にいっぱい芋を掘って来るんです。有りますからね芋は。大豆ね、大豆は戦争中だからそう思ったか知りませんが、あれをお汁に入れたら、まるで鰹節のダシみたような味が出ましたな。それにラッキヨーがある、キャベツの残りがある、葱があるでね、もう食べ物には困らん。芋はふんだんに取れる。米も少しならある。砂糖はある、メリケン粉はある。それでね、饅頭を作ったことがありましたな。まあ、いろいろつくるくらいの材料は持っていた。
そしてわたしは大きな鍋に、持って来ただけの芋を一回に煮るんですよね。そんな戦争の時に三度三度の食事は考えられません。しよっちゅう食べておる。大きな鍋に煮てね。通る人みんなにくれる。また夕方掘りに行って、また煮てそれに入れておく。味噌汁をつくる、味噌汁は兵隊なんか、なかなか飲んだことはないんですしね、負傷兵なんか通る時は、止めては味噌汁を飲ました。非常に喜んでね、生きた心地がしますといってね。
その部落にいた時、恐怖の日があったな。三方から艦砲の集中攻撃をされた。東南西。その攻撃は地面を耕すように来るんですよ。大変な攻撃であった。避難民は右往左往、三時間ほど、そんなに長くはなかった。その時部落のほとんどがやられたんではないかな。
一回はこんなことがありました。わたしの避難場所は屋敷内につくってありまして、そこに家があって、その後が竹藪があった。その竹藪のそばがわたしがいたところ。その家のすぐそば、わたしは竹藪を経だてたすぐそば。距離にして一間ちょっと。そこに艦砲が落ちて炸裂した。もうわたしはあの硝煙の臭いが、頭にこびりついて、臭いが頭にこびりついたというのは変ないい方だが、それが数か月取れなかった。あの臭いが。そしてその時は大変でした。竹藪の竹の葉は全部なくなって、弾は何も来なかったですよ。爆風もそれが遮ってくれてね。それでわたしの家族は安全。しかしその前にあった建物が、壊れてすぐぺちゃんこ。その中に十名ぐらい人がいた。圧さえられて泣き叫んでいるんですよ。それを近くにいた人たちが助けに行った。その時、黄燐弾が飛んで来て、すぐ燃えたですよ、その爆風で壊れた家が。全然手をつけることができん、泣き叫んで灰になった。人間がね。そういうこともあった。大変でしたよ。向こうに行ってからの弾というのはね。
それからこんなことがありましたよ、この部落にいる時にわたしがいる付近に甲辰小学校の六年生とかいっていたな。その子に、甘蔗食べに行こうかといってね、その子と甘蔗取りにいっしょに行ったんです。何か予感というかな、まあ、自分の感でしょうね、いつ弾が飛んで来るか知らんというんで、中頭から見たら死角に当るところで、ここがいいからここで取ろうと取っていたんです。畑で芋掘りとか、野菜取りとか、二十名くらい兵隊も一般民に交じって、取っていた。その時、榴散弾が飛んで来た。僕等のところは立っていたら、頭はやられるかしらんが、伏せたら何でもなかった。その子供を押し倒して僕は伏せたよ。ほんの一瞬ですよね。パラパラー、パラバラーと、三回くらい音を立てて、弾がこう散って来るんですよね。しばらくして顔を上げたら、今まで畑で取っていた人たちが、全員死んでいた、全員。一人も残さず、榴散弾でね。
そうして六月の十八日、二十二日に捕虜になったから、十八日までその部落にいるな。わたしが移動したのは、十八日だったかな、その日の昼すぎには、米軍が真壁部落まで来たんです。もう肉眼で見える。小銃弾が来る。そうしてわたしがいる近くに兵隊が、壕をつくってね、石でうたりして、奇麗につくっていましたよ。これだったら大丈夫だなと思うぐらいの。兵隊は小銃弾が飛んで来るようになったら、もうほんとにどこに行ったか一人もいない。そのあと避難民はどんどんその部落から逃げていた。アメリカ兵がすぐそこまで来ておるからね。
わたしは、今行ったら危いと思った。小休止の時間があるからその頃まで待つ。もう一つ何か浮かんだわけだ。兵隊たちがいたところに何かある、と思っているからね。それから夕方近くまで、待っていた。もうアメリカさんの行動が見えるんですよね、最後までいたのは僕ではなかったかな、そこに。
それでわたしは移動しようと思って、兵隊がいたところに行ったら、食糧がドッサリある。米もいっぱい詰める。罐詰もいっぱいつめる。もういろいろのものを。そこにいた兵隊は一個分隊ぐらいでしたよ。小隊ではない、分隊ぐらい、五、六人ぐらいでした。その連中がどこから持って来たかしらんが、食糧を貯えている。それだけの兵隊で食べるものか、あるいは他のものに補給するものであったか、それはしらんが、それを持たないで、どこかへ逃げている。アメリカ兵がすぐそこへ来ているので、食糧を持つことなど考えない。泡を食って逃げたのだろう。
それで、それをそこに置いておいても腐らすだけ、僕は取ってそこから逃れた。僕は最後までいたからそれをやったのさ。母はわたを信頼して何も言わない。そうしてわたしはその時間を利用して、そこは死角と思ったらゆっくり、遮蔽物が何もないところは母の手を取って小走り、という形で移動した。
その道をそのまま真直ぐ行ったら大渡米須、ひめゆりの塔のあるところですよね。わたしはそこへは行かないで、山をつっ切って行ったんです。あれは何という部落ですかね。とにかくその部落に行きましたよ。行ったら、あれは二十軒くらいもの家、いや屋敷跡に、家は全部焼かれて、屋敷跡といったがいいだろうな、そこに一泊しようかと思いましたが、思いなおして、喜屋武まで直行することにした。
ちょうど喜屋武部落と喜屋武岬へ行く道と別れ道がありますね。そこへ行った時に喜屋武方面から兵隊が二人来た。晩暗い時でした。それで僕等と出合ったら、彼らは他府県出身の兵隊でしたが、どこへ行くんですか、と訊くので、僕は喜屋武に行くんだと言った。そうしたら兵隊たちは、もうあそこは連日のごとく大変な死人が出る、向こうへ行ったら危いですから、行かない方がいいですよ。じゃ、どこへ行ったらいいか、と訊いたら、この道を行くと喜屋武岬の海岸へ出るから、それを行ったら安全です。それでその兵隊に教えられて、僕は喜屋武岬へ行った。
喜屋武岬行ったら、崖になっておるんですよ。そこを下りる。僕は母をつれて、崖の下りやすいところを下りて行った。割り方下りやすいところがありました。わたしは崖を下りて行ったら、泉の流れているところが一か所あったよ。その近くに海軍の望楼があった。あの望楼は、喜屋武岬の真先きといったんではなかったですか。そのすぐそばへ下りて行ったんです。そして、今までの経験では、一番大事なものは水と思っているから、その泉のそばにわたしはおった。
そこに行った時は、わたしは、米はまだ沢山持っている。ミルクも持っている。それから砂糖とか、味噌とか、あるいは石鹸、歯ブラシに至るまで持っている。しかしそこに前からいた人たちは、食べる物は何もない。そこから先、食糧さがしに行くところはない。有るのは海岸の薬しかない。そこでわたしは大きな問題がある。燃やすものですよね、その岩の出られるところに行って、何かの葉の枯れたのを取って来て、燃やして、炊いていました。
二、三日後アメリカが崖の上まで来た。出て来い、出て来いという。海には汽船が浮いていて、マイクで、出てこい、出てこい、という。そして水陸両用戦車がすぐ近くまで来る。もう絶対絶命ですよ。だから兵隊たちは、一般民は早く出て行って下さいというんです。一般民には何もせんはずだから、といってすすめるんです。兵隊が相当いましたよ。そうして二十日すぎからは、自決する音がきこえるんです。手榴弾を炸裂させてね、やるんです、自決。
わたしは最後はね、一つの穴に県庁職員も入れて十二名おりましたよ。それでわたしが手榴弾一箇持っている。軍刀持っている。そのほかに手榴弾持っているのがおる。小さな穴ですからね、手榴弾二つでは全員即死できる。自決するか、最後の評定を開きましたよ。この十二名、死のうと思えば、手榴弾二箇で大丈夫だが、やるか。ところが入間最後になれば考えますよね。それで結局評定の結果は、一応出て見よう。そうすれば、何かまたやる機会が出るかもしらんから、一応手を上げて出て見よう。それで手榴弾を捨てたんです、軍刀もね。
そしてわたしが出たのが六月二十二日、昼だな。十二名、(恥かしいなぁ)ハンケチを振って出ましたよ。上って行ったら、西がわに低いところがありましたが、そこから上って行った。それで米兵につれられて畑の畦道のところでしらべられた。男は全員裸で、女は三名いたがモンペーでそのまま。男は褌一つ。
その時見た死体。わたしは、沖縄に人間がこんなにいたかな、というぐらいの死体でした。一体沖縄に人間が何名残ったかなと思った。ほんとに屍屍累累とはあれでしょうね。それで屍体が何日かしたら、こんなに膨張れるでしょう。水ぶくれや、土左エ門というけれども、もう (そこでは声が非常に感情を昂らせて言われた) 陸の屍体は、紫色になって、膨れてね、すごく大きくなるんです。腐敗寸前は。悪臭が鼻をつく。
そこで十二名調べられた。わたしと、比嘉仁エイという人と、その人は名護の人、それから村吉さんと、その二人は県庁職員でありました。三名は妖しいと思ったのだろうな、他の者はよろしいといって洋服をつけさせた。しかし僕等は、お前たちは服をつけてはいかんという。三名だけ裸のまま荷物を持って、つぎの審問所に連れられて行ったんです。
それで僕は母にこういった。ひょっとしたら教員で捕虜になったのは、僕一人だけ、そうなったらこんなに恥かしいことはないから、嘉手納と名前は言わないで、中村ということにすると。
二回目の審問で、村吉さんと比嘉さんはその後簡単に許された。わたしはどうしても許さないんですね。お前は日本人だろうと繰り返して問う。そのアメリカさんは日本語が非常に巧かったな。襟章見たら小尉のようでした。それがわたしを追及、日本人だろうと。わたしはそうだと言おうと思った、日本人であるから。それでわたしは、かたくなに黙っておった。幸にゆるされた連中みんなで、これは沖縄人ですと証明してくれた。今度は、職業は何であったかときかれました。教員であった、と答えた。それでは天皇を神様として教えたか。教えた。現つ神と出ておるから、その通りに教えた、と答えた。まあ、とにかく、きつい訊問をされたが結局ゆるされましたね。そうしてそのまま行ったら、もう一人教員がいたんですがね、わたしが知っている、それでいくらかホッとした。それでもこの人と僕と二人だろうと思った。早く何とかしなければならんと思っていたんです。その頃わたしはまだ中村です。
そしてその日の中に(二十二日)、糸満街路に沿った豊見城村の伊良波という部落へ。畑の中に金網を囲ってね、南から捕虜になった連中皆、そこに収容していた。そこへ行ってはじめてホットした。七、八十名くらいの教員がいた。その中には有名人もいますからね、そしてこの連中は、ほとんど野嵩に送られた。わたしが野嵩へ行ったら、すでに平良辰雄さん、山城篤男さん、仲宗根政善さんといった方々がいた。
最後の評定開いた時に、捕虜に教員が一人もいなければ、自決するつもりでしたが、卑怯だね、のがれてやっつける機会があるんだと思ったのは嘘で、忘れてしまってね、みんなの顔見たら。
新垣の爆撃は、わたしが波平へ行く前、六月の二、三日ぐらいですが、その前日くらいで、六月の一日ぐらいではなかったですかね、わたしは波平に約二週間いましたから。六月一日前後だろうと思います。
真壁も通った。真壁の部落は、全部焼かれた。真栄平という部落は、人がちょっと残っていました。それで、その間に感じたのは、神経が痲痺して恐くないんですよね。波平の部落に行った時、庭の、畑の真中にガジマルが一本生えているのと、同じなんですがね、人の屋敷ではあるが周りは何もない。そのガジマルの下に真昼、弾が来る中に、筵を敷いて、ぐっすり二時間は眠むったな。それぐらい無神経になって、弾が来るのが恐いという気持は薄らいでいましたよ。あの首里の鉄血勤皇隊の壕、直撃弾食っても絶対安全といわれていた時には、壕から一歩でも出るのは非常に恐いですよね。それが島尻へ行ってあとからは、もう壕はない、隠れるところはないですから、人間はだんだんそれに馴れて来る。もう向こう行ってからは平気で歩く、そうして今のように寝ることができた。真昼でね、弾が来ても、そういうように変って行く。ずっと緊張していたら、恐らく持たんでしょうな。
黄燐弾は、わたしが見たのは、それが炸裂して四方へ散って、そこですぐ燃える。これは飛行機から落すのではなく、艦砲で撃つんです。わたしが見たのは、あの人が圧さえられた家ですね、人を助けようとして二、三人で火を消そうと棒でたたいたんですが、あちこち茅について消すことができなかったですね。
榴散弾は、或る一定の距離へ来ると炸裂するようになっているのではないですか、パラパラと四、五回来るんです。ロケット弾は破裂しないものが、与座で地面に突き立ったことがありましたよ。
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