『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 南風原村

 

 

以下、沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。  

⇨ 内閣府ホームページ 証言集: 沖縄戦関係資料閲覧室

 

 

ていました。


あの頃からは、一人上等兵が交じっておりましたが、どこかの戦争にも出たといっていましたが、悲観していましたよ。この上等兵は、わしらの今までの戦争の経験から見て、日本は必ず敗けておると、もう勝ち目は絶対にない、ということを言っていました。それから、中島という軍曹に、お前はそんなことをいうか、と上からいじめられておりましたがね、見ていなさいよ、必ず負けるから、今までの戦争で、わたしは何回も戦争には行っているが、こんなにみじめなことはないと。

 

それでわしらのところで、四、五十名の兵隊があちこちで、いろんな仕事をやっておりますがね、銃が一つしかなかったですよ、これだけの兵隊で。何も兵器はないからね、向こうは思う存分何もかも兵器を持っておる。これでどうして戦ができるか、子供と大人の喧嘩よりもっと大きな開きがある。絶対勝つ見込みはない、といっていましたよ。うちにいた二小隊でした。軍曹は中島とわかっていますが、この上等兵の名は忘れましたね、あちこちの戦争に出て来たようすでしたよ。

 

学童疎開の場合は、校長が与那原の出身で上原敏ハンさんですがね、旧役所は宮平の今、大同印刷のあるところですよ。向こうに生徒を沢山集めて、父兄も来て貰って、向こうでいろいろのことを説明してですね、子供だから、戦の邪魔になるから、どうしても戦は勝つのだから、向こうへ行っておいで、若い方、力のある方は、充分に力を発揮させて勝ち戦をするように、それであなたがたを連れて行くのだからといって、校長が一応訓辞していましたがね。その生徒数は、二百名くらい集まっておったと思うんです。わたしの家からも二名行っております。宮崎・熊本へ学童は行っていますね。

 

国頭疎開は、宜野座村古知屋と惣慶ですが、わたしは、みんなが疎開してから二回向こうへ行って見て来ていますが、そんなに多く行っているようには憶えていませんがね。千名というような大勢行っているという感じはなかったんですがね。

 

註 食糧はわたしが行った時には、持って行ったものがありました。その頃は食糧については問題はありません。問題は終戦ですな。食糧は、こっちから持たれる分は疎開者に持っていっているんです。こっちは畑はあるが、あっちは畑がないでしょう。こっちでは何とか畑があるから出来るから、ある食糧は、疎開者のところへ持たそうということで、ある程度の食糧は持って行っているんです。註、国頭疎開宜野座村の古知屋と惣慶へは老幼一般民が行っているが、千人くらいという方もいるが、新垣さんが、疎開地を村職員として訪ねたところでは、千人にはずっと遠かった感じだった、と言っておられる。皆さんの発言を聞いていたわたしの感じでも、南風原村民の戦争前疎開は、千人をかなり下廻る数ではなかったかと思われた。

 

神谷安盛 国頭疎開の際、わたしたちは、学校としての仕事のない場合はですね、芋を担いで持って行きおったんですね。土曜日に準備して、日曜日明け方に出かけて、夕方に向こうに着くんです。向こうでも配給を貰ったが、足りないから持って行ったんです。米も自分自分で持って行きました。

 

註、村全体として、米を持って行ったのではなかったことが、皆さんから発言された。当時十四歳の少年神谷さんが米ではなく芋を南風原から惣慶、あるいは現在の松田である古知屋まで担いで持って行ったことは、いろいろ考えさせられる。南風原村は水田が少なかったのか、少年の担いで運んだ芋は五人家族なら二日の食糧程度だろう。現在、那覇、惣慶間五十六キロメートルだから、南風原から近い道を通って五〇キロメートルを越すだろう、芋を担いだ少年が十二、三里の遠路を行く姿を見る思いを浮ばす。

 

与座庄三郎

与座庄三郎 (五十二歳) 村助役

百名収容所

わたしの三男は師範の二部で、四男は一中の四年であった。これらは首里城の下の壕を掘っていたが、食糧がないから帰りなさいといわれたので、帰って来ましたといって帰って来ましたが、これが四月の末頃ですな。

 

南風原村は、宮平の後の方に部隊長がおられたが、南風原村は艦砲が激しく落ちるから、村民全体、役場もいっしょに、玉城村疎開しなさい、という命令がありました。村長はじめ役場職員も、区長も集めての命令でした。それで四月の九日に玉城村の親慶原おやけぼるに壕をさがして、家族がいっしょにいました。


そうしたら、与那原(旧大里村)の警察から、村民がまだ疎開しないから、村長はじめ役場職員は帰って来て疎開指導をするようにということで、村長も村職員も戻されたですね。家族は親慶原に残して。それで、村民に疎開するように伝達をしました。

 

南風原の役所の敷地の西側に、役所の壕を堅固に作ってあったが、そこへ当間重剛さんも師範学校の田中先生という方も、この壕に一週間くらい滞在しておられました。
そうするうちに、四月十九日(五月では?)頃になったら、敵は上与那原まで来ているので、早く玉城の方へ行きなさい、という伝達が来た。それで役場吏員全部諸道具を持って、玉城の親慶原に移動しました。

 

親慶原に二日いたら、友軍の隊長みたようなものが来て、アメリカ兵は稲福まで来ているので、そこは危険だから、島尻の南部に下りなさいという伝達があったんですね。

 

それで何もかも持って、家族全部、具志頭の安里まで行きました。そうしたら今度は、駐在巡査が来て、ここは危いから、こっちの部落民もいっしょに大里村の東がわ、玉城村に移転しなさい、と伝達して廻っていたので、われわれは、親類、字の方みんなで二十三名ぐらいいっしょであったが、軍司令官の命令というので、引っ返すことにした。

 

そうしたら途中の具志頭村新城部落で、防衛隊が玉城方面から南の方へ帰るのがいたが、あそこもアメリカ兵がいっぱいいる、大変ですよ、行かない方がいいですよ、といった。それを聞いて、南部方面へ行って、戦死したのが大分いた。僕等は、沖縄の軍司令官の命令であるので、あそこへ行った。そうして一夜明かしたらアメリカ兵が侵入している。艦砲も飛んで来ない、弾も落ちない。岩の中に隠れている。昼は隠れて夜は出て、食糧をあさっておる。そうして十四日くらいやっていたら、アメリカの兵隊の監視を受けておりました。

 

そうしての中で五時間くらい話し合った結果、出て行った方がいい、ということになって、みんな出て行って百名に収容されて、あそこで配給も受けて、半年間おって戦争を終りましたがな。沖縄の軍司令官の命令ということを守ったので、艦砲も落さないで、何の怪我もなかった。

 

註、与座さんの南風原撤退は、日は九日に違いないようだが、みなさんの記憶とは一か月の違いがある。四月九日は、南風原村は平穏で、与那原にアメリカ軍は入っていないことが記録でもはっきりしている。アメリカ軍は四月九日には、やっと中城村の津覇を落しているので、与那原にアメリカ軍が来たのは、五月の二十二日頃だから、一か月、月を間違って、ちょうど日は符合する。


それから師範学校にいた息子が、食糧がないから帰れといわれて帰ったというのも、恐らく首里城が陥ちる切迫した五月二十四、五日で、あろうとみんなが、推定して、これも一か月の記憶ちがいでないかという話し合いがあった。

 

与座さんは、家は津嘉山だが、村役場の壕にずっと泊り込み、津嘉山付近が、首里からの撤退を狙われて、各種火器の米軍攻撃が激しく死人がひどかったということは、話には聞いたが、見てはいないとのことである。

 

赤嶺保信

(三十五歳) 農業技手

壕がない

日にちは、はっきり記憶していないかもしりませんが、記憶していることをお話いたします。


わたしの場合は、米軍が上陸した後もずっと役所にいて、二日に一回くらいは、うちへ帰っていました。その頃、近接の学校のところに掘り割がありましたが、そこに兵隊七人死んでいるのを見つけました。それから一ぺんは、家に帰るために道を通っていると、アメリカ飛行機が、編隊で運玉森を激しく爆撃していました。編隊は、十五、六機からなっていたように思いました。

 

わたしは連絡のために、二回ほど陸軍病院に行ったが、その中には一時しか坐っていられません、臭気がひどくて。わたしが陸軍病院に行ったのは、四月の末頃と五月半ば頃であったと思いますがね。日中道を通っていると、人の姿がまったく見られません。それは昼は壕の中にみんながいますから、道を通ってもしんとしていました。

 

先きに与座さんが話されたのと日にちは違いますが、わたしは五月二十四日に、玉城村の船越に下りたと思うんです。村長、助役さん方は、親慶原に行っておるから、もし連絡ができるなら、連絡してくれということでありました。わたしは、家族が船越に疎開していましたので、船越に行きましたが、連絡して置くつもりで、村長や助役さん方の壕をさがしましたが、それが、見当らないで、戻ったんですよ。


船越の方も爆撃はありました。そうしますと、隣り部落の糸数に、アメリカの兵隊がきたということを、友軍の連絡将校が、壕をまわって伝達していました。

 

それでは、南へ下ろうということで、真壁村の真壁まで行きましたが、豊見城村の饒波部落は、戦争がないと人から聞かされましたので、その饒波部落の方へ行きました。そうしたら、そこには敵が来ないと聞いたのとはちがって、部落の人たちから、あなたたちは、敵がこっちへ来たというのに、ここへ来るか、といって、部落の人たちもいっしょに、着いた晩にまた戻って、高嶺村、今の糸満町の国吉まで引っ返しました。そこにもいられなかったので、近く真栄里部落へ移動しましたが、わたしたちが行った頃からは、わたしたちが入る壕といってはさがされません。それで昼中他人の家の中に入っていました。そこはタバルバルといっておったですがね、艦砲が、前の畑に落ちたんですが、破片が飛んで来まして、そこで兄さんを一人亡くしました。わたしの兄さんは、喉の上部の顎骨の下に破片が当りまして、ぜんぜん口はきくことができませんでした。あ、あー二、三度言っただけで、結局即死同様でした。死体は夕方近いところに葬ったんですが、その一晩はそこに泊って、翌日には洲へ行きました。わたしの兄さんがやられた時には、糸満町の女の人もやはり破片でやられて、亡くなりました。


糸洲では、わたしといっしょのもの、また親戚のものもいっしょになって、みんなで二十二名になりました。これだけの人数が、いっしょになったので、といってはないのですから、石垣から、道の方まで石を積んで、その上には木の葉で擬装して入っていました。

 

ちょっと離れたところに、もともとあった囲われたようなところですが、壕ではなかったんです、これは。そこに親戚や部落の方がたが六、七人入っておりましたが、そこにいる方が二人破片で怪我した。わたしは繃帯持ってくれるようにいわれたので、繃帯は鞄に入れて、壕の近くに置いてありましたので、これを持って行って、怪我をした方の介抱をしておりました。

 

そうしたらちょうどわたしがその方たちを介抱している時に、自分の壕に直撃弾が落ちて来たわけです。それで、行って見たら、まだ生きたのがおりまして、物を言うのもおりました。なにしろ小さくつくった壕の中に、そんな沢山入っておりますからね。誰が怪我しておるか、誰が怪我していないのかわからんのです。生きているのはみんなわめいていました。早く出してくれ、早く出してくれというんですがね。しかしどうすることもできないので、自分で出ることができるものは、出て来なさいと呼びかけて、出られる分は一応出しましたが、出て来たのは四人でありました。そのうちの一人の方は三十分くらい生きていましたが亡くなりました。それからこの方の夫は、二日くらいは生きていたようであります。この男の方は、竹藪の中にいて、結局亡くなったそうでありますが、わたくしの弟の妻と、兄さんの子供と、わたしと合して三人だけは、この二十二人の人数から助かりました。兄さんは、真栄里で喉と顎をやられた兄、次男兄の長男でありますが、その頃十五、六になっていました。弟というのは、わたくしは四男ですが、五男のことです。半時間くらい生きていたこの方と二日くらい生きていて死んだこの方の夫は、わたしの長男兄さんの妻の実家の方で、一門ではないが、やはり親戚です。

 

わたしは、もうそこからは一応退いて、別の屋敷の門に行ったんですが、その門の入口は大きな石垣が積まれていましたから、入りましたら、石垣は高く積み重ねられていましたので、そこに休んで、その間、と行ったり来たりして、状況を見ていましたが、半時間ほど後は全部もう駄目ですね。弟の妻は、そこから、わたしが休んでいた門に行くほんのいっときの間ですが、足をやられて、跛になっています。


壕の中でやられているものは、坐って眠っているような格好のもいるし、倒れているようなのもいましたが、わたしのお母さんは、もう全部頭の骨が無くなっているような気がしたんです。何か皮だけがですね、縮まってしまって、骨は無くなっているような。その前の晩に、大きな石で積んで囲ってあったんですが、弾がその石に当って、その石が全部にばらまかれてしまったのではないかと思いますね。わたしのお母さんは、その石の近くにいたので、頭の骨がなくなって、顔は小さくなって、顔の格好はありましたが、頭はほとんど形がなくなっていました。


註、頭蓋骨が砲弾や破片でもぎ取られた場合、死人の顔の肉が左右から中央部によって来て、角錐形になるという例が他の座談会でもあったと名嘉所長の話があった。

 

その時亡くなった家族はですね、お母さんに、一番上の兄さんの妻と二人の娘、それに妹もです。二十一歳で結婚はしていましたが結婚して直きに夫は防衛隊に行きましたので子供はいません。わたしの妻子は、北部に疎開させていましたので、いっしょではありませんでした。

 

次男兄の妻は、その壕ではなかったんです。あれは自分の親たちのにいたと思うんです。近い親戚で一番最初に亡くなったのは、あの真栄里で顎をやられて亡くなった次男兄の娘でした。それはずっと前で、船越から、前川を通って行く時に、足に破片が当って、よくならないで亡くなったんです。五つになる女の子でありました。


十九人が一度に死んだ時の弾は艦砲だったと思うんですね。それは、朝は早かったですよ、六時か七時頃だったかと思うんですがね。その時、弾はひどかったですね、弟の妻をつれて逃げる時、ほんのいっ時に怪我して跛になっていますし、その怪我はさっきお話申し上げた門のところでした。弾はあっちからもこっちからも、ちこちから飛んで来るから、あんなに激しいことは、ほかになかったのではないですかな。

 

われわれは、弟の妻と甥とわたしと三人は、後の壕に残っていたわたしが介抱して上げた方がたといっしょになって、今度は焼け跡の屋敷の方に、これは前から屋敷の真中に掘られていて、木の枝などで被われているところへ、一応避難していたんです。木の繁った屋敷で、ガジマルの枝でその壕は被われていたんです。

 

そうしていたら、隣り屋敷に先輩の当時の村長金城栄礼さんと、小学校の先生も長年されて県庁のどこかにいられた大城さんがおられたんです。お二人の顔が見えましたので、直撃で亡くなった連中の葬り方をお願いすることにしました。それで夕方になったら、トンボといっていましたが、上空からあれが、しょっちゅうぐるぐる廻っていましたが、五時頃からはほとんど射撃は止めておりました。その間で夕飯を仕度するという行動をしていました。その時もトンボは絶えず、ぐるぐる二つか三つか廻っておりましたが、弾が来なかったから、隣の大城先生に村長さん、ほかにももう二人いっしょになって、片づけましたがね。これを、この人はここ、この人はここ、と戦争が終ってから遺骨を各自の墓に納めなければならないと思って、墓の一つの人たちは一ところに、たしか四つだったと思ってるんですが、区分して葬ったんです。

 

前にお話し申し上げました屋敷内に壕掘って、ガジマルで擬装したそこに一応いたわけですがね、その翌日でしたかな、敵が後の高い山に来たわけですね。そうしておると、結局その方がたといっしょに、そこにおるわけだが、わたしはまた、一人あちこちへ行くのに出たり入ったりしておるわけです。他の人たちは全部そこに入って、どこへも行かないでじっとしておるんですね。それで、敵はそこまで来ておるがどうするかといったら、もうわれわれは、どこへも行かない、怪我もしておるしというんです。もう歩く気力がないような感じしましたがね。それではわたしひとり行きましょうといったら、あなたひとり逃げなさい、というんですから、それでわたしは、出て行くことになったわけです。

 

弟の妻は、現在元気ではありますが、跛になっているような怪我をしていましたし、次男兄さんの長男も、あんな九死に一生を得ているのですから、わたしといっしょに行こうという気持もないようで、二人は怪我していた、後の壕にいた人たちといっしょに、あの焼け跡の屋敷の壕に残して置きました。

 

怪我した部落の人というのは、一人は若い女で、骨折していましたし、年取ったお爺さんの方は、頭をやられていましたが、この女の方は、この疵のためであったか、また後で弾にやられたのか、戦争がすむまでに亡くなってしまいました。

 

わたしは、糸数の部落を出ると、前の部落ですがね、何んといったかな、(多分、福地であろう)すぐ前の部落だった。そこではまた、うちの村の出身の方がたとあいましてですね、そうしたら、向こうももう立ち退き準備をしておるもんですから、わたしはその方と別れて、一人で行きました。道はどこかわからないが、摩文仁の方向へ向かって、どこの人かわからない知らない人たちといっしょに歩きました。

 

そして摩文仁まで行って、摩文仁から海辺に下りて、今の摩文仁が丘の東がわの海辺だったと思うんですがね。そうしたら、一応は自分の部落に帰ろうという気持ちになって、そう思っているところに、同じ南風原の者が四名いっしょになりました。一人はわたしと同じ部落、一人は兼城部落、一人は神里のものでした。わたしと四名がいっしょにょになって、そこから、具志頭に入って、大屯という部落がありますがね、もう四時頃になっていたと思うんです。そこに陣地らしいのがあるので、どうしようかということになったんです。そうしたら、わたしと同じ喜屋武部落のものが一箇手榴弾を持っていたんですね、それをわたしが預って、それでわたしが先頭になって行ったんです。そうしたら、陣地の中に飛び込んでしまったんです。そこで四名とも縦列に並んで、わたしが真先きに、二番、三番、四番とつづいて、行ったんです。わたしは戦争には馴れていますので、警戒しながら上って行ったんですね。戦争の経験というのは、上海事変にも行ったし、支那事変も行ったんです。それで上って行ったら、平坦なところがあったが、そこに少し凹んだところがあったんです。それでわたしが坂を上って、少し歩き出した時に、照明弾が落ちたんですね。わたしのそばで明るく燃えているんですよ。それでわたしは、そういう事情には馴れていたから、すぐにそこのくぼみに伏せたんですね。それから二番の人はわたしについて来る、三番の人も坂を上ってわたしについている。その時です。機関銃で、わたしの頭の上をヒュウヒュウやったんですがね。わたしの後の二人はそこで即死。一人は大声で、天皇陛下万歳を叫んで死んだんですがね。後の一人はまだそこまで上って来ないで、弾が来るもんだから伏せて、真中になっていた二人がやられて、わたしと四番目は助かったわけです。それから照明弾が止んだもんだから、後へ下って、ずっと下って行って、田圃の中の甘蔗畑へ行っていました。そこで夜を明かしたんですが、ね、夜が明けて直きでしたから、そこで動かないでいようと話しました。手榴弾を持っているので、いくらか心強く思っていたわけです。七時頃になっていましたがね、アメリカ兵が、釣り皮で肩に小銃をかけて持ち、われわれのところへ向かって来るんです。田圃の畦道みたようなところから。それで来るもんですから、手榴弾を持っていますから、わたしはいっょののに、もう死のうではないか、といったが、向こうは返事をしないんですね。それで、わたしは、それじやわたし一人やろうといって、わたしは手榴弾の信管を抜いて、穿いているのは地下足袋でしたがね。地下足袋に手榴弾の尻をつついて爆発させようとしたら、これが故障していて、爆発しないんですね。これが駄目だとわかったので、甘蔗畑に埋めて、甘蔗の枯葉で被りてわからないようにしました。そうするうちにアメリカ兵がそこまで来ているんですよ。それで二人で手を上げて出たら、向こうはびっくりしてですね、肩にかけていましたからですね(小銃を肩にかけて持っている意)それからアメリカ軍のところに連れて行かれたんですが、荷物があるから取らしてくれといったら、いや、あなた方は行くな、わたしが行くからと言って、一人が甘蔗畑の方へ荷物を取りに行った。その時、手榴弾を持っていたら大変だったと思いました。

四人がいっしょになったのは、多分、ギーザバンタの海で、わたしは一人で波打ち際や岩の中を歩いていましたが、その時にいっしょになって、あの崖を舞い上ったのだと思います。いっしょになった時、兼城部落のものは二人でありましたが、一人はわれわれといっしょに行くのをいやだといってですね、一人でどこかへ行きましたが、これは戦争が終ってもとうとう帰りませんでした。
わたしたち四人の中、機関銃にやられたのは、一人はわたしと同部落の喜屋武のもので、一人は神里部落のものでした。四人いっしょになったので、一応自分たちの南風原へ行って、それから国頭へ突破しようと話し合って、その結果がアメリカの陣地へ飛び込んで行ったわけです。

 

そのまま捕虜になって行ったら、陣地のある部隊、そこはわたしたちが向かって歩いていたところでした。

 

そうして捕虜になったら、煙草をくれるんです。それで、われわれはどうせ死ぬのだ、殺されるんだから、煙草をのみましょうといって、吸いました。

 

今になって見ると、手榴弾が故障で爆発しなかったのはよかったと思っています。運がよかったと思いますが、あの当時は、死ぬということは何んともそう考えませんでした。戦争にたびたび行っているので、軍人精神というものがあったんでしょうね。捕虜になってからも殺されるものと思ったんですが、もう恐がったり深く考えたりもしませんでしたね。

 

捕虜なってから具志頭であったんですが、病院の収容者ですね、アメリカ軍医などが捕虜になって来るのを治療しておったんですな。弱って駄目だといったものは、アメリカの軍医も、あまり心に留めて診てくれないような感じがありましたね。与那原の方で、少だったと思うのですがね、われわれはわかっておるもんだから、兼城の先輩、この方にあの方を治療してくれと頼んだが、いや、あれは兵隊だからやらない、といってそのまま死んでおるんですよ。病院には相当弱ったのが来ていますからね、今の具志頭の学校付近、学校の裏になっていると思うんですが、ここに穴を掘ってですね、機械で掘った大きな穴を二か所だったと思うんですが、そこく病院から持って行って、その穴に投げ入れていました。治療したら、遮ったのもいます。途中で死んだものは、もう病院へはつれて来ません。

 

ギーザバンクから大屯に来る時は、夜間で野原を、あちこち歩き廻って、自分たちの村へ突破しようとしているので、死人などは見ることができません。照明弾が上って、絶えず逃げ隠れるので、それが消えたら駆け出すといったぐあいですから。


捕虜になって具志頭には二、三日おって、それから佐敷へ行きましたが、わたしはもともと防衛隊でもなかったから、兵隊、民間人の区別についての厳しい調べということはなかった。佐敷では相当長い間いましたね。その時、親慶原に行って、兵隊か民間かの調べがありました。

 

この戦争の体験は、ゆっくり思い出したらいろいろあると思うんですが、特に今思いつく印象に残ったのはですな。糸満の照屋を通った場合がありますがね、向こうで避難していた時、川が流れていたと思うんですが、その川のところを、ずっと爆弾落してそこを攻撃している状況ですね。入り変り立ちかわり、飛行機で真黒い煙を立てて、そこは兵隊がいたのではないかと思いますがね。そこから行って糸満の浜を通って国吉に行く場合に、途中に、艦砲でたおれたもんだと思うが、道端にひどいなあと思って見たのはですな、若い女らしいが、ちょうど胸から上は全然ないんですがね、真白いパンツをつけたままですね。われわれが通る道のすぐそばに倒れておるんですから、何ともいえぬ感じしました。

 

それは、糸満から国吉へ行く坂道のところでした。それと一人になって摩文仁あたりを通っている場合に、女の方でしたが、はらわたをえぐり出したように仰向けではなく、少し横向きで、大変苦しい死に方をしたなと思いました。見ただけでも、気の毒でありましたな。この人は四十以上の年だろうと思いましたが、唯だ一人だけでした。結局はですね、こういう人が出た時は、いっしょに歩いている人もその人を連れては行こうとしないで、逃げるのが実状ではなかったかなと思いますがね。自分等も危い、また来はしないかということもあるので。摩文仁の部落の前で石垣の陰でした。そういうのを見たらいつまでも記憶に残りますね。

 

そういうのを見ると、弾は激しいから、自分もそういうようにされるのだと、走って通って行きますね。その時わたしも、そこを通る場合、わたしの近くの方に弾が飛んで来て、黒い煙でわたしの方にもかかって来ましたので、やられたのでないかと思って、体をあちこちさわって見ましたが、別に何もなかったです。服は白い土を被って払いましたがね。摩文仁の部落入口です。それは後戻りして畑の中に行って一応体をたしかめてから、ちょっと岩のそばに行って見たら、左の足の首に弾が入っていましたが、一週間くらいずっと痛みました。佐敷村へ行ってから医者に見て貰ったが、わからないといっていました。それからあと、別に痛みもしません。も今はほとんど癒っています。

 

それから部落は、夜通っているのでよくわかりませんが、前川から通った翌日ですがね、晩の五時頃になったので、われわれもそこに泊って、晩飯にしようというところに、津嘉山出身の主婦だったですがね、子供は三名だったと思うんですが、子供等はいっしょに来ているつもりのものが、その子供等は来ないで、途中でどこに行っているかわからないということであったが、その母さんは戻って連れに行く気力がなかったのであったのか、連れに行かないままに、そこで炊事しているのを見ました。三名連れて来たが来ないというので、連れに行って来なさい、と言っても行かないんです。

 

もう、おのおの自分じぶんで歩くより仕方がない、という気分らしいんですね。一人は負んぶさせてあったが来ないというんです。このお母さんは。来るだろうという期待も、別に持っているようには見えない。われわれのところへ来たので、訊いて見たら、そういうことで、お母さんが腹が空いて行くことができなかったのか、そのへんのことはわからんですね。ずっと炊事していたが、子供たちは来ませんでしたよ。そのお母さんは、荷物は沢山、持てるだけ持っている格好でしたよ。おんぶさせて、ついて来いといってあったが来ない、というのがいかにも、おのおの自分じぶんだという気持ちに見えたんですが、わたしたちが連れて来い、といったら、はっきり、もう別べつだということも言いましたよ。戦争というものは、親子でも、めいめいだな、という感じをしたんですがね。

 

糸洲へ行った日にその話を聞かされたんですが、見に行きはしませんでしたがね。わたしたちがいた壕の隣りのつぎの隣りの大きな家だったんです。わたしたちが行くと、ここも大変ですよ、一度に百五十名一ぺんにやられておるんですよ、と言っておったんですがね。この死体は多分そのまま、葬るということもできなかったはずです。

 

この死んだ人ですがね、わたしたちのことですが、朝にやられましたが、大変ですよ、夕方の五時頃行った時には、銀蝿がいっぱいたかっているんです。銀蠅がどこから来るのか、早いんですよ、いっぱいたかっておるんです。それからわたしが繃帯したお爺さんですね、額のちょっと上をやられていましたが、翌日にはですね、蛆が出ているんですよ、少しくぼんでいて、それがなかなか取りにくいんですよ。取っても取っても出て来るんですね、これも早いですよ、生きている人だが、蛆がわき出るんです。この人はこの前まで生きていて、亡くなったんですがね、その時わたしは石油を持っていたので試しに石油をつけて見たんです。そうしたらそれからは出ませんでしたね。

 

註、お話はここで止めて頂いたが、現村長で、一見何ら戦争と関係があったようには思われなかったが、話して貰ったら、ご自分は上海事件、支那事変の第一線で生死の間を生き抜かれ、糸数の壕というより部落の道路で、当時まだ六十五、六歳にしかなっていないお母さんが、砲火で無惨な亡くなり方をしていられる、夫は防衛隊にとられた結婚したばかりの二十一歳の妹がお母さんと同時に艦砲の犠牲になったが、その時は、長兄の奥さんとその二人の子供が全滅した。長兄は海軍で病を得て亡くなり、したがって本家は全滅である、次兄は真栄里で悲惨な最後を遂げたが、その娘はそれよりも先に途中で破片で犠牲になっている。


糸洲の壕で助かった弟の妻はにはなったが、次兄の長男息子とともに二人だけは助かって、焼け跡のあの壕に残っていて捕虜になった。一撃で亡くなった十九名は、全部近親又は姻戚関係の人びとであった。三男(すぐの兄)は支那事変で戦死しているが、自分は実家の人たちといっしょで、一人息子と共に助かっているとのことである。訊き漏らしたが、五男(自の夫の弟)も防衛隊から帰ることができたか。

 

新垣孝太郎

(三十八歳)村物資配給係

戦争に協力できるものだけ残れ

当時家族は十五名ぐらいと思いますが、そのうち六名ぐらいは疎開しておるんです。それで、そこには戦争に協力できるものだけ残れという。命令的で、父母とわたしらが残ったわけですが、次男の家族は疎開させてありましたが、戦争になったもんですから、わたしたちといっしょになってですね、それから四男が商業学校に先生していましたが、これが夫婦いっしょになって、古堅の方に自分の妹が嫁いでいましたので、そういう関係で古堅をたよって、しばらく向こうの壕に家族を置いて、連絡を密にして、おって、いつも家族の状況はわかっておったわけです。

 

そうして今村長さんも、与座さんもおっしゃったように、役所の行動はいっしょだから、もうぜひ役所も立ち退きなさいということを、村長さんが五月になってから言われたので、それで役所は立ち退いたわけですよ。

 

立ち退いたら、最初は、うちの家族が古堅にいるもんだから、古堅の方に行ったら、こっちの壕は少し危険だから役所の壕に行きなさいという命令があるということで、もとの大里村の役所のうしろは高い山ですがね、そこに役所の壕として、大勢の人が収容できるでありましたがね。百四、五十名の人が入っていたと思いますが、沢山の人が入っておりましたよ。そこの中で一週間くらいいましたら、そこももう危険だから、ということになりました。アメリカの兵隊が与那原方面まで上って来ておるという情報がありましたよ。それで玉城村の親慶原に家族六名いっしょに行ったら、ちょうど中城村の久場の人でありましたが、そこの家族も四、五名いっしょになってですね。壕を掘って、そこで長いこと壕生活しておりましたが、あの時までは平穏でありました。そうしたら軍から、アメリカの下駄ばきの飛行機、あれは偵察機ということで、あれが来たらそこは危いから、明りも見せるなとか、ほかに出ていかんとか、いろいろ非常に厳しい命令があったわけですよ。それでそこの山の下には、輜重隊であったのか、最初のうちは擬装して、馬も沢山おりました。だんだん攻撃がひどなって、どうにもならんという状態になって、それからは馬も殺していましたよ。艦砲や爆撃はなかったが、トンボはよく来て、機銃攻撃はたびたびあったですよ。あのクンノーイ(北谷村)の学校の先生しておられた何平助さんといわれたですかな、役所の壕でいっしょだったでしょう。わたしは壕の下の方にあの時いましたが、あの平助さんは機銃にやられて、役所の壕で死にましたよ。


うちの方は全部行っただけ、頑丈な壕であったから、無事に入っておりましたがね。それから、ここも危険ということで、玉城城趾の下の中山という山の中に行ったんです。そこへ行って二、三日したら、夜の十時頃ほかへ出て状況を見たら、鉄砲を担いだ兵隊が十四、五名も歩いて来るもんだから、わたしらは友軍と思ったんです。それでこちらは服装も見たことがないし、また服の色もわからないでしょう。友軍も来たなと思ってゆっくりかまえて何も警戒もしないで近寄って見たらアメリカーになっているんですね。そうしてその日は一日中雨が降ったんですが、山の中はいいとして、しまって声も出さないように、煙も出さないようにと話し合って、一日中ずぶ濡れで、そのまま飯も食べないでおりました。そしてその山の周囲からだんだんだんだん毎日前進して行って、ぜんぜん大きな騒ぎがここではなかったわけです。一人二人かは山の中でですね、山の中の自然の水溜りの場所があったのでそういうところで洗濯したり、芋洗ったり、山の中だからしょっちゅうやっていましたがね、洗濯して着物を干して、そこで機銃に当って死んだのもおりましたよ。それくらいのことで、どっちかといえば、こっちはアメリカが入って来ていたので安全地帯になっていたんです。艦砲の音も何もない、もっとも安全地帯になっておりました。

百名収容所

そうしてうちは山の中にしばらくおりましたが、おやじは、よくほかに出るもんですからね、食糧さがしとか何とか。それでわたしはいつも不安に思っておったのです、ところがおやじは真先きにアメリカーに見つかてしまって、そしてアメリカーに引っ張られて行ったわけですよ。

 

それで引っ張られて行って、百名でほかに出て状況を見たら、先きにお話し申し上げたように、何万という避難民が収容されて、食糧の配給も豊かで、普通の生活以上にやっていますし、偉い人たちもみんな向こうに集まって、もう仕方がないからということで捕虜になっている、それでおやじはその翌日だったと思うが、わたしにそれを知らして出るように誘われて、わたしも出て行ったんですがね。おやじは、母もつぎの弟の家族もみんないっしょで、わたしと下の弟が残っていて、後で出て行ったんです。父は、わたしたち二人の兄弟が残っているもんだから、二人をつれに来たわけです。わしらも最初はですね、自分の兄弟も戦争に出ている。子供も戦争に出ているのに、捕虜になるのは、兄弟や子供の敵になることだから、どうしても出て行かない。もうここで死んでもいいから、どうなってもいいからお父さんは早く帰りなさいといったんですよ。しかしどうしても帰らない。三時間ばかりここでいたんですが最後にはどうせ君等がいなければ、わたしはたよりも何もいないし、そうするよりは、ここでいっしょに死んだ方がいいといって泣いておったんですよ、それでわたしたちも、もうどんなことがあっても、おやじにそんな苦しい思いをさせてはいかんからという気持ちになったが、三時間ばかりかかったですよ。わたしがどうしても出ないと頑張ってね。

カナアミ

それでおやじといっしょに出て行ったら、向こうでは、おやじがいう通り、偉い方がたもいて、みんな普通の生活に移っておるわけですよ。そこで、百名には、部落の人二、三十人がいっしょになっていましたが、それから一か月くらい経ってからですね、若い捕虜民は全部集まれということです。今村長さんがおっしゃった百名の今の小学校のあるところですね、向こうは畑だったんです。向こうに杭を打って、針金で囲ってですね、何千人という若い男を出して、防衛隊とか、軍人とか、一般民とか、それをえり分けてですね、わたしは三日目に出ました。どうしてわたしが早く出たかといえば、奥村という二世がですね、百名にいた時に、一般民に通訳して、配給する時などにその奥村という二世とよく知り合っていたんですよ。そうしたら金網の中に集めて調べている者だちに毎朝、隊長から訓辞があったわけですよ。ちょうど三日目に、その訓辞が終わって、この隊長の大尉と助手の奥村という二世を追っかけて行って、あなた方は、避難民の中から防衛隊とか軍人とかから情報を調べるためにこんなところにおいてあるんだし、もう今からどこにも逃げられないから、うちに帰して避難民の苦しんでいる者に、食糧の配給したり、いろいろの仕事が沢山あるから、そんなことをさせたらどんなもんですかということを奥村という二世に話したら、隊長が訊きおったんですよ。この人は何という人かと問いおったですよ。通訳で説明したら、それならそうしなさいということで、簡単にすぐうちに帰されましたよ。

 

ところが今の農連会長の前の会長していた新垣孝吉はわたしの弟ですが、これが分会長などしていた関係で、系累ということでまたわたしは、一か月くらいほうり込まれましたよ。弟なども一か月くらい畑の中の金網の中にずっとこめられて非常に苦しい生活をしておりました。しかしわたしは、たしかに軍と関係がなかったということがはっきりして、許されて、部落の人たち二、三十人が共同生活をして、酷い苦労はしませんでしたよ。

妻子を宜野座収容所から呼び寄せる

妻子は、惣慶に行っておりますから、食糧難で非常に苦しんだそうです。それでわたしは、一般民であるということで班長なんかしまして、腕章をつけて、軍からの証明で、妻子のいるところへ、アメリカの船で、面会に行きましたよ。馬天から船を出して、大浦湾に船を着けてアメリカーに連れて行って貰ったんです。あれはアメリカーが証明するんです。これはどこそこから、どういう事情で来たと証明して、妻子とも話して、間もなくいっしょになりましたがね。向こうから呼んで来て、大体百名で、七、八か月おったでしょうね。

CP ~ 帰村の手続き

百名では男の体格のあるものはみんなCPです。わたしは組長をしていたんだが、君はCPになりなさいということで、洋服二着靴二足ですね、わたしはすぐ警察に呼ばれて、CPとして使われました。最初は組長をして、その班の配給物資を取ったり、病気したり、栄養不良になったものに物資を取って上げたりしてですね、そういう仕事をやっていましたが、体の大きいものは、無学であろうが、何であろうが、すべてCP。そうしてすぐ警察へ連れて行かれた。それで百名でそういう仕事をしておりましたが、CPというのは、移動がある時は、それが優先するわけです。それが百名からだんだん各市町村に帰すわけですね、あの時に南風原は、壕のところに全部まとめて、三十名くらい先遣隊を送って、だんだん南風原村のものは南風原村だけ、みんなその辺に集めるわけ。そういうふうにしてですね。ちょうど大見武に、大里、与那原、南風原村じゃありませんがね。わしらは警察におるもんだから、三十名先遣隊として移して、それから毎日まいにち、南風原村民は一か所にまとめるわけですよ。そこに纏めてですね、そうして仮の南風原村役所みたようなものが、つくられて、普通に戻って、移動して現在になっているわけです。

 

うちは犠牲になったのはですね、わたしの長男が当時師範学校の本科の三年です。今師範健児の塔にいますがね。また、わたしの弟商業学校の先生していましたがね、これが防衛召集されて、犠牲になりましたが、ほかはみんな無事にこの戦争を生き抜くことができました。子供二人は宮崎に疎開させてありましたし、小さい子は妻と宜野座の方に疎開させてありましたので、犠牲は少なかったですな。農業の先生というのはですね、役所の壕でわたしらといっしょでありましたが、あの人は地方事務所勤務であったね、当時は、親慶原でわたしのいる壕とちょっと離れた岩がありましたがね、岩陰に女の子がおりましたな。地方事務所の何であったか、いつも二人しょっちゅういっしょでありましたがね、娘ではなくて知り合いであったらしい。非常に臆病であったらしいですね、それで弾の音がしたら入り込めばいいのに、反対に、恐れて飛び出してやられたということをききましたがね。弾の音をきくと非常に慄えておったそうですな、後で聞いたんですが。何平助といったですかな。非常に体の大きな男でしたがな、臆病だったらしいですな。

百名の病院 - ダンプカーでおろされる病人や遺体

百名で捕虜収容所にいた時のことですが、わしらは収容所に入ったので仕事を分担されて、言いつけられるんですが、そして作業をさせられるが、わたしは病院の手伝いに行ったんです。それで病院ではあちこちから集めて来る避難民に飯をくれたり、ここで御飯を炊きますから、お握りを配給したり、いろんな手伝いをさせられておったんですがね。その下には、広場があったんだが、ここには摩文仁方面から避難民の負傷者とか死んだのをダンプカーでどんどん積んで来て、あのコーラルをこぼすように下すんですがね。死んだのも栄養不良のものも、負傷者も、重態のもですね。こういうものは、下すとちょっと生きておるのも死んでおるのも、まるで砂利をこぼすように落すんです。落すと息を止めるのもおるしね、しばらくは生きていて死ぬのもおるし、また、やっと生きているのもいるので、病院へ連れて行くのもおるし、死んだものは死んだものだけではなくて、ある程度のものは、みんなまじっていっしょに積んで来るんです。一台に十五、六人、二十人くらいですね。

 

一回こんなことがありましたよ。わたしは炊事班を作って、団体で御飯を炊いて、連れて来る避難民とか何とかに食糧をやるんですがね、その場合にわたしは握り飯を渡しておったが、この握り飯を渡す時間が過ぎてからですね、若い女の子が、避難民ですね、二人車に乗せられて来ておったんです。当時、十七、八、二十歳くらいの娘たちですがね、パンツも二人共つけてないで、若い女ですがね、体中が汚れて、顔も垢だらけで、汗でもかいて爪でいたら、型ができるくらいで、あたりまえなら最も娘盛りの若い女たちですよ。それがパンツなんかもつけてないんですよ。その前の恥のことなんかもまったく思わないですよ。わしに握り飯下さいといってですね。栄養不良になっているので、着物は着ているが、帯はしめることができないで、恥もわからないんですね。それで真先きに要求するのは飯を下さいというんです。ところが、飯時分はすんでいるので飯は無くなっているんですね。二十歳前後になっている乙女たちですがね。飯は時分過ぎているので無いといったら、子供泣きに泣いて、どんなことがあっても握り飯を下さいということで、それでわたしは炊事場へ行って、幸いに残っている飯があったので、二つ握飯をつくってやりましたよ。まるで子供のように泣いていましたよ。あの時名を覚えていたら、後でわかっただろうがなと思いましたよ。あんなになると背に腹はかえられない、まったく動物になっているんですね。

 

この病院は、百名にできたアメリカの病院ですよ。遠いところからも負傷者や、病人や死んだものもダンプカーで積んで来たんで百名では、死んだ人は、作業班というのがあって、一人ひとり別べつに埋めましたよ。それが毎日まい日でした。病院の手伝いといっしょになって、あっちはみんな一人ひとりでした。


百名では、作業班が二、三十名おりますからね、それは毎日ダンプカーで何十名と積んで来るから裏の山に穴を掘って、一人びとり埋めるんですよ。わたしは、その交通整理に出ましたが、アメリカ兵も十日ばかりは毎日出て、死体処理を監督しましたな。アメリカの兵隊も犠牲者があるんですよ。それでアメリカーはどうするかといえば、寝台ですね、担架ですね、あれに二名三名寝かして新しい毛布を被せて、死んだ人とはちょっとわからないんですよ。アメリカーの犠牲もありましたよ。百名では、どこへ持って行くかわかりませんでしたよ。アメリカーも相当の犠牲があって、その車が通って行きました。わたしが立っている時も三台くらい見たことがあったが、他のCPも見たというのがおりまして、アメリカーも犠牲が相当にあるなと話したことがありましたよ。

 

島尻全体のアメリカーの死体が、百名へ集められるので、アメリカ兵の死体をわたしたちが見たのでしょうね。犠牲は日本ばかりではないな、と話したこともありましたよ。

 

もう南風原に帰れるようになってからですがね、残っている甘旧式の製糖場の車を修繕して、それを人間が手押しして甘蔗を搾って、砂糖箱を作って入れて、四角の煉瓦のようにしてですね。あの当時ですよ、砂糖一斤四十五円という相場が出たのは、そうして、早く自分の部落に移動してやっているようなものは、大里の田原屋取りというところがありますが、あそこなどは早く自分の部落に帰ったので、甘蔗を早目につくってですね。馬も何もなくて、手押しで砂糖を作って、経済力を上げはじめることになった。こういう屋取りが、真先きに経済の復活を図ったですね。

 

大城徳盛

(二十歳)武部隊召集

武部隊 ~ 台湾で

わたしは武部隊でしたので、十九年の末でしたか、それとももう二十年になっていたんですか、台湾の方へ行きました。台湾では戦争はありませんでしたが、沖縄が玉砕した情報はわかりました。


二十一年の三月頃でありましたが、沖縄のものは、沖縄へ帰ることができるそうだという噂がありまして、そうしたら、沖縄のものだけ基隆に集結しました。

 

基隆から乗船して、八重山に送られて来ましたが、八重山に三か月くらいいました。

 

それから五月の二十五日に沖縄に帰りましたが、インノミ屋取りへ最初に来まして、三日くらいそこに滞在しました。言葉がわからないもんですから、手真似で、大見武へ行きました。


インヌミ屋取りから大見武へ行く道を通った時の感想は、それはまったく変って、自分の屋敷さえわからなかったくらいで、何ともいえないものでした。
言葉がわからないから手真似でやるもんですから知念の方に行って、それから東風平に出て、自分の部落は照屋ですから、この辺来たら、その日は雨降りでしたが、ちょうど農作業班が、雨が降って仕事ができないもんだからうちに引き上げるところでみんなにあって、照屋の部落は向こうにおりますよといわれて、わかったんです。南風原の山やまは木が一本もないし、家もほとんどまだ無かったです。作業は自由ではなかったですか。

 

前に役所にいましたから、すぐ役所に行ったら、また役所にいることになって、五月の二十九日から役所に勤めることになったんです。役所は大見武にあったわけです。

 

役所では、わたしは戸籍をやることになりました。大見武にいるといっても、目取真にもいて二か所にわかれていましたから、人口の調査は直きにはできませんでした。

 

わたしが八重山に行ったのは、戦友と二人で、民間の人たちが八重山へ行くというからいっしょに行こうではないかといって、ポンポン船で行ったわけです。そうしたら向こうも仕事がないもんですから心苦しく思いながらも、しばらく御世話になっていようということになったんですが、それから農作業へ出ることになって、一日五円の日当で、農作業をやっていました。

 

遺骨は、わたしが帰る頃はほとんど片づいていました。しかし与那原境、西原境、大名など特に運玉森などの激戦地には、兵隊の遺骨はずっと後までも、片づかないのがあったでしょうなあ。

 

神谷安盛

(十四歳)開南中学一年

開南中学

わたしは三月二十三日まではですね、野戦高射砲の操作を手伝っておったんですよ。三月二十三日の艦砲射撃がはじまったので、学級が寄り合って北部に行くことになったんですよ。それでうちの連中は宜野座に下りて、帰りを待っていたが、迎えに来ないんですよ。島尻には帰りたいが、待っていても迎えには来ないもんだから、どうしようかと思っていたんです。四月の四日頃ですか、読谷の警備隊が晩に来たんですよ。どこに行くかと訊くから、島尻に行こうと思うといったら、中部がアメリカ軍に占領されて行かれないというので、そうですかということになったんです。


四月の十一日頃ですか、アメリカさんの斥候が来たんですよ。わたしたちはにいるんですが、何だか聞き馴れない声がするがと思って木に昇って見たらアメリカさんだから、それから山に行くことにしたが、その時、年寄りが逃げる時に、歩けないもんだから、道のそばに壕があったのでそこに入ったんですね、そうしたら抱いている赤坊が泣くもんだから、口を塞ぐつもりなのが、鼻をおさえて、窒息させて死なしてしまったことがありましたがね。

 

それでわたしは一応山の中に入って、それから古知屋へ行って、久志の方に行こうとしたら、沖縄の人だったと思うんですがね、アメリカの宣伝ビラですか、それを配って歩くんですよ。沖縄はもう全部アメリカに占領されておるから、どこにも逃げないで捕虜に出なさい、というチラシを配っているんです。その人はネクタイもちゃんとしめて、ズボンも折目がきちんとした人で、日本人であるのか、二世であるのか見当がつきませんでした。あるいは二世だったかもしれませんね、一人だけで山の中を歩いていましたが、武器は何も持っていませんでした。

 

それでわたしは困ったことになったと思って引っ返したが、その翌日は、山の上へ登って見たら、宣伝の通りアメリカの船がいっぱい海をおうておるんですね。それで仕様ないもんですから一応部落に出たんですが、そうしたら、アメリカさんがお金を持って来て、女の子をつれて来いというんですね、それでわたしは逃げて山に戻って行きました。

宜野座民間人収容所

それから南部戦線が終った七月頃ですかね、捕虜になって、それで今の宜野座高校の敷地になっているところに公民館があったんですが、そこの庭の方に全部並べて、二世が、軍人は前に出なさいといって、わたしは軍人ではないから出なかったです。そうしたら二世が、着剣ですか、あの剣を持って来て、日本人なら切腹して見せなさい、というんですね。


それから、近くに作られてあった金網の中に放り込まれたが、大体千人くらいいたと思いました。そうして、作業へ毎日出されましたね。
山にいた時の食事は、わたしは何も持たないから、甘蔗を畑から取って来るとか、民家からも取って来ました。つまり盗んでも来るわけです。
宜野座では、後から戻って来た負傷者の男の方はですね、米軍の病院、それはテント小屋ですが、全部寝台の上に並べて、裸にするんですね。それでわたしはいやで逃げましたがね。それで負傷で死ぬ人もおりましたが、多くは栄養失調で死ぬ人が多かったですね。

 

こんなのがありましたね、妊娠している女を夫が病院に連れて来ま したが、女の方は栄養失調になっているんですね。それを何とかし て下さいと頼んでいたが、後で沖縄の方(医者のようである)が見 えてからは、治療を親切にやっているような気がしました。

 

わたしは、四月、五月から、ずっと捕虜になる前まで山に入って いました。

 

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