『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 2

コンコーダンス用の書きおこしを公開しています。誤字などがありますので、必ず原典をお確かめください。《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 

 

日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。そのうち三カ所の飛行場が宮古島にあった。

10. 海軍 宮古島飛行場 (平良飛行場)

11. 陸軍宮古島中飛行場 (野原飛行場)

12. 陸軍宮古島西飛行場 (洲鎌飛行場)

 

三、戦争にすべてを奪われた民のくらし

 

母と戦争 - 神風特攻隊

平良西里佐久田〇〇(三二歳)

 

    「『いつか、沖縄の宮古島に行くこともあるだろう。そのときは是非、おれのうちを訪ねていってくれ』、そう佐久田君がいいました。そんなことは気にしていなかったんですが、不思議なことに、私はほんとに宮古島にきて、佐久田君の出た宮古中学校に駐屯することになりました。それで、こうしておたずねした次第です。」斎藤という少尉が、挨拶にきました。疎開だ、疎開だと、それまで私を説得して準備をしていた母は、このとき、疎開することをやめてしまいました。

 

そして、毎日のように桟橋通いを始めました。毎日、軍隊がどんどんやってくる、斎藤という一の処にいたという方さえ、宮古にやってきた、そのうちに息子の潤(末っ子でヤマという童名でよばれる)もこの島にやってくるにちがいない。母はそう思ったのです。同じ死ぬんなら、ヤマと抱き合って死にたい、ということで、毎日桟橋通いを続け、とうとう疎開の機を失なってしまいました。

 

うちには、母と私しかおりません。兄弟たちはみな一家を構えて、婚期のおくれた私が、母と一緒にいたわけです。

 

母は、斎藤さんの出現以来、配給の煙草を買う列に並ぶようになりました。「私もタバコを吸うんだ。」ということでした。

 

そうです。今年九十四になりますから、その頃、六十五歳でしたから。米や小豆を買いだめたり、買ったものを干したりしていました。そして、ある日、突然、 ヤマが、自分の眼の前に現われる、ことを期待するかのようでした。

 

豊部隊、球部隊など、沢山の部隊が、何万と宮古にやってきています。そういうことなど細かい近況を書いて、東京の兄の方に手紙を書いて送りました。すると、しばらくして、 その封書は戻ってきました。熊本憲兵隊が検閲して、不合格になったということでした。一々私たちの出す手紙までがしらべられていて、非常時をほんとに感じさせられました。

 

そのうちに空襲があるようになりました。平良の街の東のはしにあたるこの辺も、ほとんど疎開してしまい、この里でも、五軒ほどしか残っていません。私たちは、あのはげしい空襲の六か月の間も、ずっと、 ここにおりました。屋敷の中の菜園の片隅につくった防空壕をたよって、くらしていました。豊坂丸などがやられた日は、初め壕の中に入って、機銃をさけましたが、空襲は海の方だというので、外にでていました。港の上をやっているのがみえました。船などの動きはみえませんでしたが、煙の柱が上にとび上ってくるのが見えました。それからというもの、もう船はこない、ということがわかりました。

 

母は、買いだめてあった煙草を、おとずれてくる兵たいにくれました。小豆で、もてなしてやりました。自分の子どもも、 どこかで、たれかに、こうしてもらっているだろうと考えながらでした。ヤマは飛行機のりになっているということが伝わっておりました。そういうわけで、墜落していくアメリカの飛行機をみても、手をうって喜ぶことはできませんでした。

 

空のはげしい日のことでした。隣りの家族もうちの壕に入っているとき、道を歩いていた一人の将校もかけこんできました。爆風で、壕の中に土がおちてきました。するとどうでしよう。将校がどなるんですよ。こんな不完全な防空壕は役にたたんと、ね。帰るときも、プリプリして、作りなおしておけというんです。ちゃーんと役に立ったんですよね。役に立たんというなら、空襲のさ中にでも、出ていけばよかったのよね。みんなして、笑いこけました。

 

空襲は時間がありましたね。お昼やすみということがあるということもわかるようになりました。飛行機の休み時間は、私たちか水を汲んだり、洗たくしにりする時間ですね。洗たくしたものは、肝ドや、屋敷の周りの木の中に平しました。艦砲射撃のあるロは、空襲がありません。飛行機が一機、高い空をとんでいます。それで安心して、 いつも通っている一〇〇メートルほどはなれた井戸に水くみに行きました。すると、ズシンズシンという音がするんです。兵隊帰りの隣りのおじさんが、 これは軍艦からの砲撃だというて走り去りました。ガラガラガラガラ、ドシャンと、 つるべをなげすてて、うちの方に、一心にかけだしていました。

 

壕はいつばいでした。隣近所の人々が、うちの壕に入っているんです。将校が何といおうと、うちの壕は、隣近所では、 一番の壕でしたね。そこで、西隣りの親子の問答が始まりました。

 

母親が、 「たった一機で、ボンボンやられている。 日本は大まけ。」といいます。
息子が、 「これは艦砲というそうだ。海の上から大砲をうっているんだ。 へんなことをいうと、憲兵にひつばられるよ」と、いいます。
憲兵だって・・・。きいていやしないさ。おまえがいわない限りね。」そう母親がいうと、みんなして、どっと笑いました。

 

そうしているうちに、艦砲ははげしさを増したようです。 こわいものみたさに、壕の入口から顔を出して、東の方をみますと、もうもうたる土けむりです。木の枝が、暴風雨のときのようにおどっています。木の葉がけむりの中で舞っています。すぐ、首をひっこめました。終ったあとでみると、菜園の中に、帳面の大きさほどの破片がっきささっていました。

 

そんなある日、電枉にのぼったりして、下士官が電線をたぐっています。 とうとううちの方にまでやってきます。どうするのかとききますと、軍が使うのだ。民間では電線はもういらんだろうというんです。母がやってきて、屋内だけはとらんでくれと頼みこみました。 いつもうちにきて、面倒をみてやっている兵たいです。ところが、いつもの人とは人がちがったみたいです。

 

非国民ということばを使って有無をいわさせません。とうとう、全部もっていってしまいました。非国民よばわりされると、もう、どうすることもできない世の中でした。隣りのおじさんがきていいます。 「ひどいことをするんだな全   彼らは、自分らの兵舎に電とうをつけるためで、企く戦争とは関係ないことをしてるんだよ。 」と。 その後、 その下士官は、うちに姿をみせませんでした。

 

疎開に行った親るいの畑のいもで作ったでんぶんや、買いだめたり節約したりで貯めた三斗の米とで、私たち母娘は、何とか食いっないで、終戦を迎えました。

 

そのうちに、 アメリカ兵が、近所にも現われるようになりました。 アメリカ兵の一人が、 アダン葉草履をもっている母をみつけて、手真似で、それを呉れろと中します。くれてやると、あの日の丸 (アメリカ煙草ラッキーストライク) を二個おいていきました。

 

うちにはタバコを吸う人もおりません。それで兵隊にくれることにしました。畠の方に行きますと、甘藷を収かくしたあとのいもかづらに三名の兵たいがたかって、芋の葉っぱをむしりとっています。 いたずら好きの私です。木のかげからそっと近すき、 ニ個の日の丸をポイと投げました。物音に、サッと三人は立ち上がり、落ちている日の丸をジット見つめたまま立ちつくしていました。

 

島をうずめていた兵たいは、帰っていきました。港には、台湾から、本土から船が人ってくるようになりました。母の桟橋通いが、始まりました。 ヤマの帰るのをいつかいつかと首をながくして待っています。

 

だが、 一枚の大きな封筒がきました。 ヤマの戦死の公報でした。開いて、私は、 「戦死」と叫んでしまいました。母は、その場に卒倒してしまいました。

 

その日からです。母が毎日泣くようになったのは。みんなといるときは、何かのまちがいだ、ヤマはかならず帰ってくる、そういうて、元気そうにしているんですが、 一人になると、泣いていたんです。天皇はにくいやつだ、私の大事なヤマを殺させていて、自分はのうのうと生きている。天皇がヤマを殺したのだ。そういって泣いてきました。でも、去年あたりからは老衰で分別っかなくなって、天皇のことも忘れてしまったようです。ただしくしくなくばかりです。

 

戦死の公報があっても、位牌も作りませんでした。十何年もして、遺髪が届けられたときも、母には内緒で法事をしましたが、母は知ってはいるんですね。こうして仏壇にヤマの写真をかざってあるのは、母が寝こんでしまったからです。

 

母は、あんたたちのようなヤマと同じ年頃の人をみると、はげしく泣きだします。あまり泣くので、 「そら、ヤマがあんたを呼んでいる」と、いうのですが、また、泣くんですね。 ヤマのために泣くために、戦争をのろうために母は、きようまでも生き続けているようなものです。

 

知覧の方から、特攻隊の碑をつくるから寄付をしろと呼びかけがきました。三か月ほどはためらいました。 いろいろなことを考えましてね。知覧という処は田舎なんでしようね。役場という所なんですから。そこへ、 一万円おくりました。

 

なんでヤマ (故佐久田潤大尉) *1 は、特攻隊など志願したんですかね。結局馬鹿で、大死にさせられたんですね。あんな天皇のために何で、生命をすてる必要があるというんですかね。

 

空襲も終りに近ずいた頃でした。奇妙な恰好をした兵たいが私のうちにやってきました。下駄をはいた兵たいです。気が狂ったんですね。歌をうたいながら、町中の方に歩いていきました。連絡をうけたのか、下十官がやってきて、そのあとを追っていきました。

 

異郷まできて、気を狂わしたのは何かね。あんたはどう思うの。

 

空襲下に出産して   

平良町西里 砂 (28歳)

市内の無差別爆撃

夫を郷土防衛隊にとられ、昭和二十年三月二十八日に次女のお産をしました。 お産にそなえて、非常用食糧としての砂糖麦粉それに薪まで用意しました。家に面どうを見てくれる人手もなく、小さい子供達をかかえて出産真近かの体を案じてか、夫は夜ふけてから山北部落の部隊を抜け出て来るのですが、分隊長がつれもどしに来るのです。 「事情はわかるが兵隊のきまりだから」といって連れて帰るのです。すでに二人の子がいました。上の女の子は小学一年生でしたが、空襲が始まって以来、学校も一学期だけ出たきりで行けなくなった。女の子の下に四つになる男の子がいました。 臨月もせまって子供たちのめんどうを見きれなくなり親せきの家にあずける事にしました。 二人の子をつれてたずねた親せきは家にいません。防空壕にいると近所の人から聞きその壕はどこかたずねたら墓だという。子供を連れて墓まで行きました。墓の入り口はひくく、お腹の大きい私にはしやがんで入る事ができません。入り口をのぞきました。ふだんはよく縁起をかつぐその一家が棺おけと一緒に住んでいるのです。骨つほを背にして座っていました。身重の人がこんな所に入ってはいかんというし、子供だけ頼んで預ってもらいました。

食糧事情も悪くく、体のおとろえもあって大変難産をしました。生れたばかりの赤子のそばに寝ている時、空襲が来ました。足がはれて歩く事が出来ないのです。近くの壕に逃げる気力も、体力もないまま、赤子を抱きかかえて頭からふとんをかぶりじっとしているしか方法がないのです。夫は四、五日帰って来ません。

四月一日、今日はいつもよりたくさん飛行機が来ているからあぶないと近所の人に抱きかかえられ壕に入りました。今の琉球銀行の駐車所の所までよろめく様にたどりつきました。警防団の人たちが血だらけになって石垣をとびこえて壕へ逃げこんで来ます。新世界映画館が爆弾でくずれ落ち、下敷きになった人が助けを求めてうめいている。あれは源河さんの声ではないかという、機銃掃射が激しくて近づく事さえできないという、その頃から市内の無差別爆撃が始まりました。家に戻ると、窓ガラスは割れてくずれおち鏡台は倒れてこなごなになっていました。暗くなってから夫が部隊から逃げて帰って来ました。市の中心街は人は住めないという事で盛加ガーに行く事になりました。

途中、外間座お嶽の近辺は煙がくすぶり続け焼け残った家々もペシャンコになり、人間でいえば腸がとび出した様な状態になっていました。盛加ガーの井戸の洞窟は避難して来た人々でいつばいです。壕の湿気にやられて体が次第に弱って行き、顔のむくみが出ていました。私にきこえる距離で、〃この人はもつかねえ〃という声がきこえるのです。わたしの事です。 いつ死ぬか分らんにしても生れたばかりの赤子より先に死ぬわけにはいかんと、自分自身にいいきかせ、 その想いの精神力だけでもちこたえました。この壕の奥には兵隊たちがいて中は弾薬庫になっている。ここにいてはあぶないという事で、町の南部上角内会で焼けのこった家をかりる事になりましたが、相次ぐ空襲で町はずれの家も危険となり山北部落に疎開する事になりました。

出産十日目、夫か馬を借りて来ました。当時の金で百円出し、ようやく借りる事が出来たそうです。畳五枚と身のまわりの物とお産もすんで親せきから引きとってきた子供二人をのせ、赤子を抱いて私ものりました。道はまっくらです。夫は馬車をおり、道にあけられた爆弾穴に落ちこまぬ様、城辺街道を誘導します。夜七時すぎに出発して、爆弾穴をさけて遠まわりしたり、 カイ中電灯もなく真暗な道を六時間近くかかって山北へたどりつきました。今なら車でとばせばニ十分くらいの距離ですが。農村地帯にはまだ家の中の生活がありました。家の中で湿気の充満する壕に入らす、静養するひと時力ありました。

山北へたどりついた翌日の夜、夫は部隊を抜け出して、壕に残して来た荷物をとりに行きました。あとかたもなく荷物は形をとどめす、吹きとばされていたそうです。直撃弾が壕に命中してくすれおち何もないと戻って来ました。運が良かったのです。若しそこにいたら、命を失う所でした。

山北部落ではもっと堅固な壕を作る必要があると部落の北方スナ部落でバタと通称している所に各家から人が出て壕掘り作業が進められていました。お産あがりだから作業には出なくとも良い、その代りお茶を沸してもって来いと作業を免除してくれました。

食糧がだんだん不足して来ました。道をへだてた私たちの借家の向い側に部隊がありました。そこの兵隊達が、たむろして酒をのんでいました。 そのつまみが、オーミガタ (羽のないいなご) で、うまそうに喰べているのです。私もオーミガタをつかまえて来て料理して見ました。それまでには国のためという気持があったし喰うものがなくともしかたがないとカタッムリをとったり野の草をつんで来たりしていろいろ喰べていたのですが、オーミガタだけは、ロに入れてもゴワゴワと喉に引っかかっておりて行かないのです。お産あがりの体に栄養らしいたべものがない時に近所の人が見かねてか、卵を三コくれました。あんまりありがたくておしいただく様にして戴き、これをお汁にすれば少しはお乳が出ると思うと、涙がこほれる思いで大事にとっておいた着物をお礼に差しあげました。

浜から上がって来る時の漁師がチン (石鯛)を一匹釣って来るのを見て、頼のみこんで五円で買って来たと夫がもって来ました。そのお汁で、むくんでぐったりしていた体に体力がっき始めました。子供も、生れた時にうぶ湯を使わせたきりで以来一度も風呂に入れた事もなく、色は真黒になっているのです。可哀相に思いながらも弱った体で水汲みに行く事自体が昼間は空襲があって危険です。夜遠くはなれた村のはずれまで汲みに行きました。水がめの半分汲んでおけば何とか一日はもちます。 お茶の葉もなくなり朝 茶を沸して飲むという、日常生活の習慣さえもなくなり、さゆを飲んでいました。さゆさえ飲むひまもなくなり起きるとすぐに子供たちをせきたてなから壕に行く生活に変わりました。空襲が早朝から終日始まる様になったのです。マッチもなくなり、夜のうち小さな火種をもらって来、時間をかけてふうふう吹きながら何時間もかかって明日の食物を作ります、朝早く壕の近くの木の枝につるしておきます。食事時になってとりに行くと、黒アリがいっぱいたかっていました。空腹感が日常化している子どもはアリごとふかしいもをたべていました。

五月四日午前十一時すぎ頃、地響きと共に大きな爆弾の音がしました。 いつもと違う様子に目をかしげ近くの壕に逃げました。あとから壕にことびこんで来た人が、部落の兵隊が破片にやられて何名も死んでいるというのです。それが艦砲射撃だと分ったのは壕を出てからです。

その夜、小さな子供たちをかかえては、どこへ逃げても逃げきれるものではないとあきらめて家にいました。隣家の娘さんが、甲戦備下令だから女、子供の非戦争員は非常食をもって夜のあけぬうち部落外に避難するようにと伝えに来ました。驚かされ通しの生活の中でもその時ばかりはもう胸がどきどきして生れたばかりの赤子もよちょち歩きさえせすに死ぬのかと思うと可哀そうでなりません。

その時です「何といって来たか」と隣室の家主のおじいがきく。 「甲戦備だと、上陸して来るといっている」と伝えると、びつくりしてとび起き、あちらの部屋へ行こうとしたのかこちらへ来ようとしてか、やみの中でゴッーンと勢いよく、額を柱にぶつけてしまいました。眼から火花でもとんだのでしよう。 「アガアガ、 アガ、 フタイやうとしニャーン」とくり返しています。部隊を抜け出して来た夫が、 「亭主のおじいがフタイをおとして探しかねている」いうのです。死を前にしているのに思わず吹き出してしまいました。もう死ぬのだと覚悟しているのにおじいは手さぐりで大事にとっておいたらしくマッチを探し、神だなの前で、 カンテラランプのあかりをつけお金をかぞえているのです。「おじいはグショーにお金をもって行くつもりだ」と夫がいう。兵隊たちにいろんな物を売って、おじいさんはお金を貯めていました。明日は死ぬのだというのに、くらがりの中で額を落し、ほの暗い灯の下でお金をかぞえている姿が、何ともちぐはぐでおかしくてなりません。 お腹の皮がよじれるまで笑ってしまいました。そして考えました。これはこの世での笑いおさめだ。戦争が始まってから一度も心から笑った事がなかった。そういえば子供たちの笑った顔を久しく見ていなかった。戦争とは可愛いそだちざかりの子供たちさえも、笑わなくなるのだと気がつきました。 この世の笑いおさめにおじいのおかしな状景にぶつかり心ゆくまで笑ったし、もう良いではないかといいきかせながらも、何としても、生きたいのです。むずかる子供たちを引きおこし、帯しんで作ったリックサックに、着がえ一枚と先祖の位牌を入れてれて背負わせました。もう一人の子にはハッタイ粉の非常食を入れて、せきたてながら、壕へ急ぎました。壕は部落中の人でいつばいです。

明日は海上からだけではなく、落下傘部隊がおりて来る。おりて来た時は、ふらふらしているから、女子供でも動けるものは壕から出て、竹やりで突きなさいと部落の部隊長がいったという。あほらしい話とその話を聞いていました。撃墜された飛行機から 
山北の北の海上に落下傘で脱出した飛行士を大きな飛行機が飛んで来て、くさりの様なものをおろしてゆうゆうとつれて行く。何もわからん私たちでも、こんな戦争はもう負けると思っていました。いったいこれは何のための戦争かと考える様になっていました。日本軍が宮古に来た当初は甘藷の供出なども喜んでしていたらしい部落の人たちも、 「いもはないよー兵隊さん」といって、かくしたりしていた。兵隊が別の部隊と食糧のうばい合いをして対立してけんかして るという話も聞いていました。

あの時生れた娘はもう二十八歳になりました。生れる前から墓穴をのぞかされ、生れてて四日目の島の行事の赤ちゃんのためのユーカダキマスもせず、乳さえも充分にのませられずそれでも上陸してこなかったおかげでまっくろなあかにまみれながらも育ちました。島におきた戦争のみじめさを私たちの世代は知っているだけに平和のありがたさをしみじみと感じるのです。

 

私は開業医でした

平良町下里 奥平恵寛 (三三歳)

上里先生や柴田先生のお年のいったお二人と、原先生とを加え 三人を除いて、残りの島の医者、 私を含めて六人は、昭和二十年 二月に召集をうけました。入隊したのは陸軍病院ではなく、新里国民学校(今の上野小学校) 隣りの豊原部付近にいた歩兵部隊でした。もっとも軍医予備員としての入隊でしたがね。私は、兵役は丙種だったんですよ。 入隊すると、小隊に配属されて、普通の兵と一緒の生活をしましたが、兵の生活は、それはもうみじめなものでした。井戸の水をくんでいましたがね、当番を出してくんでいましたが ね、部落の中にいながら飲み水にも不自由しますし、食べ物の方は それこそ大変なものでした。

あとで陸軍病院の方に行ったんですが、医者としての所見なんで すがね、軍の宮古での死者の大部分は戦病死なんですね。 それも、 マラリア赤痢など伝染病で、バタバタたおれたわけですが、そのもとはといえば、何といっても栄養失調なんですよ。それはもう衰弱しきっていてね。

軍医予備員として歩兵隊に入隊して、私たちだけ特別な教育を受けたんですが、 歩兵としての基本的教育なんですね。 これには抗議しましたよ。 「私たちは医者であって、医者には医者としてのやることがある。どうせ軍隊で使うというんでしたら、陸軍病院に配属しろ」といいましたね。

アメリカの機動部隊がウルシー基地を出て沖縄へ向った、というので、いよいよ宮古に上陸するんだという情報が入ったんですね。 それで戦闘準備ということになったが、そのときも意見しました よ。「私たちは歩兵としては何も役に立たないから陸軍病院にまわせ」とね。そしたら言うことがふるっていた。

「とつげきぐらいできるでしょう。 突撃さえできればいいですよ」 といって、きき入れてくれません。 「ええ、 できますとも。 銃に銃剣さえつければね。」と。

そのとき見たんですがね、私の見る限り、この部隊には何もないんですな。弾薬はなかったんですよ。 あるにはあるかも知れませんがね、いざというときにも見せません。 小隊の中には機関銃などと いうのも見えないし、銃も満足にありません。 あしたはもう敵がすぐくるかも知れない、というのにですよ。戦力のなさを痛感しましたよ。

ふだん、みんな天幕の中に住んでいます。 壕も掘って準備してあ ります。ところが、その壕たるや、おそまつで、一人やっと入れるもの。これで戦闘ができるのかと、思いましたね。 戦車でもくる と、ひとたまりもない子どもだましのようなものでしたよ。

二週間ほどして、私たちは陸軍病院に移りました。 今度は、軍医 としての教育を一週間程受け、一応みんな召集解除になりました。 しかし、六名のうち、福嶺先生と友利先生は再召集され、その後ずっと陸軍病院で働きましたね。私たちは、住民の診療に当れ、ということになって、 二度と召集されることはありませんでした。 帰ってきて、町内の下里の自分の医院で診療していましたが、隣りが爆弾でやられ、私の建物も、軍に接収されました。

その後は、平良の町の人たちが疎開している添道の方にうつり、民家を借りて、診療に従事しました。

 

 

発電所主任、現場残留を命ぜられる

平良町西仲 下地○○ (四八歳)

宮古電灯会社は、昭和十八年頃には電力の国家統制で、 九州配電 沖縄支店宮古出張所と変更されていました。 平良市西仲のサッフィ浜の発電所主任として、そこの財産管理を命ぜられました。当初、 四人いた現場職員も次第に台湾あたりへ疎明を命ぜられ、とうとう 私一人になりました。

百馬力ディゼルエンジンと六四キロワットの発電機が一基と六十 馬力の木炭ガスで動かすガスエンジンがそこの財産のすべてです。 石垣島産の木炭を一晩で十俵も使っていたガスエンジンは当時は 経費がかかりすぎるとして使用していませんでした。

デイゼル油も軍部の統制下にありましたし、日ぼつから二時間だ けの送電をしていました。空襲にそなえて発電所建物のすべての窓に部厚い黒いカーテンをかけるのですから、ただでさえ温度の上がる建物は、それはもう、 蒸し風呂のような暑さになります。

そのうち、夜間送電にさえ事かく燃料をさいて、昼間発電機をうごかし、進駐して来た日本軍隊の輸送用トラックのバッテリーの充電 を命ぜらました。 燃料在庫が少ないから、 夜間送電の時についでに充電するからというのですが軍が燃料は提供するからと、自分たちでドラムを運んで来るのです。 ことわるわけにはいきません。 そのうち陸軍だけでなく、海軍の警備隊や、あとは航空隊の整備隊も毎日バッテリーを運んで来るようになりました。お陰で、夜間だけの勤務が昼夜兼務となりました。 それでも俸給は百円也と変わりま せん。三か月に一度はエンジンを分解して整備する仕事も、人手が ないため一人でしなければならなくなりどうしても二人がかりしな ければならない時は、家内を呼んで来て、 チェンブロックを揚げさせてピストンリングをはめこむ等、 夫婦で分解、組立ての作業をし ました。たいへん、つらい立場に立されていました。

昭和二十年四月、バッテリ充電のためエンジンを始動している最中、空襲を受け、エンジンを止める間もないまま、近くの墓地に使用されていた洞窟の中へ逃げこみました。 発電所やそこに隣接している造船所をねらったと思われる機銃掃射を受け投下された爆弾が それて、十メートル離れた海岸に落ち、浜辺で漁をしてた人は逃 げおくれて即死してしまいました。地上のデイゼルエンジンの音は飛行機から聞えるわけはないしそれでも、同じ自然内に避難して いた町内会の人たちが、発電所のエンジンの音を聞きつけて、爆撃したと、抗議するのです。 あとで聞くと、二百メートル東方に畝岡鉄工所があり、そこの門の所に将校用のピカピカの乗用車が、桑の 木のそばに止めたままになっていたのが上空から発見されたのだ、という事でおさまりました。あの時は、隣接していた壕の真上にロケットの直撃弾を落され、自然壕の岩板の厚さが、ロケット弾の貫通にカ耐えてくれたおかげで、全員即死をまぬがれたのです。仲屋町内会の人たちが一一十名くらい入っていました。

あの日四月九日の空襲は特に猛烈を極め町のほとんどは大火災を起こし、軍事施設だけでなく、町の民家で形を原形のまま保って建っている家は、数えられる程度となり、仲 屋内で全焼した家が十四軒ありました。

私の家は、前述鉄工所と道路をへだてて隣接していました。発電所から帰って見ると、家がもとあった場所にないのです。数メ1トルの南方にずれ、倒壊していました。
道路の真中に爆弾がおち、大きな穴があけられていました。その爆風で、家ごともちあげられ、圧縮されたマッチ箱の様になっていました。ひくい石垣をへだてて、その着弾地点北方には鉄工所構内に掘られた壕があって、五世帯の人が入っていました。 五メートル北方にずれると、壕の真上に直撃弾となる所です。

鉄工所を使用していた兵隊たちが機関銃をすえて対空撃射をしていた頃があったのですが、不思議に、思うのは、彼たちが、山の方へ引きはらった翌日からそこら一帯の猛爆撃が始まった事です。軍隊のタイミングの良さに、感心するやら、それと知らずに、その引きはらったあとの壕に避難した近所の人たちが、あやうく全滅しそうになった事に腹だたしくなるやら、複雑な気持になりました。

戦時下の物資不足が民間の日常で、食糧営団配給制だった玄米もなくなっていた頃でも軍隊内部の輸送隊関係には食糧に事欠く事はなかった様です。当時は手に入れようにも物がなかったのに一斗入り食用油メリケン粉を連んで来て吾が家にあずけ、宴会の用意を家内に頼んでいました。島では見た事もなかった航空食糧の缶すめなどもって来たり、米俵を運んで来ておはぎを作らしたりしていました。

息子2人を兵隊にとられて、息子たちも、よその土地で、だれかの世話になっているかも知れぬと 思い、バッテリ充電に来た兵隊の世話をしたのが、きっかけで知らぬ間に、兵隊たちの私設の酒保の役割をもおわされた形になっていました。そのおこばれにあずかった事も事実で、戦争が終るまで、食事に事かく程の食糧には困まりませんでした。

用中という海軍航空隊の飛行機整備要員だった曹長が、サイバン島の生きのこりだといっていましたが、南方では日本はやられている。日本は必ず負けるともらしていました。その人が連れて来た若い飛行兵が、中学を山て出征して行った吾が家の息子たちの残していった本などを借りて行ったりしていました。借りた本を返し乍ら、明日はいよいよ征くといって、もう二度と会えないともらしていました。宮古島をとびたって台湾沖で飛行機ごと、つつこんだのだと整備兵はあとでいっていました。

戦争が次第に悪化して行くのがわかるにつれ、せめて女学校一年生だった末娘だけでも、本土疎開させておけば良かったと思ったのですが、もうおそいのです。昭和十九年度に漲水港沖に停泊したまま海上が潜水艦が出没して出港できないとして一週間も足どめをくっている船に、 ボートで毎日食事と水を運んでいるうちに、暑い船底で、汗だくになって、 ぐったりしている娘を見ると、 一度は手ばなす気になったものの、死ぬなら一緒に死のうと、下船させて来たのです。

昭和ニ十年五月四日、艦砲攻撃を受けた日に、家に出人していた兵隊たちが、トラックをよこして、明日は上陸して来るから、家族は部隊の近くに置いた方が良いといって、家内と娘二人、それに知人の家族三世帯を、野原越、戦闘司令所の近くへ移動させました。各家族、分散させて、天幕舎の中にその晩は泊められた様です。まわりはゲートルを巻いたままの兵隊の中で、この人たちが守ってくれると思いながらも家内は二人の娘をかかえてとうとう一睡もせず一晩をすごし、背をよせあったまま、座して夜を明した様です。

翌朝近在する盛加部落の農家を借りて疎開生活が始まりました。町の中は、ほとんど人が見あたらなくなり、なるべく島の中央部に行った方が、少しでも生きのびられると、夜、もてるだけの荷物を背おって移動して行く人の列が続いていました。私は町の北方四キロの所、添道部落に本家の両親を疎開させてあったので、そこへ身のまわりの品と家財道具を運びました。 一晩に四往復しているうちに夜が明けてしまいました。

翌日、予想されていた米軍の上陸はなかったのですが、間もなく無人化した町の商店街あたりには、残された家具などをもち出し、運びさる人々が出没して、全く無警察状態が続いていました。

戦争が終って、武装解除が始まる段になってから、未使用の銅線と、タイヤーをトラック一台分積んで来て、世話になったお礼にあげるというのですが、終戦の放心状態の中でこんなものをもらっても廃墟の町ではどうしょうもないとこれをことわりました。 あとで聞いたのですが平二小学のN先生が、 もらいうけて、もうけたと話していました。

軍部の中枢にはかなりの資材食糧があったと

補給が絶えた島の中で、軍部の中枢あたりにはかなりの資材食糧が保管されていた様です。21年頃旧制宮古中学校あたりでは、払い下げの軍用食糧をめぐって、教師と生徒達の間でトラブルが起こりストライキ事件などが起きたりしていました。隠匿された払い下げの乾パンがあるはずと、電活線を切断して、校長住宅を、 生徒たちかとりかこみ、瞥察が介人して、 さわぎが大きくなったり、食糧不足の中で世の中が混とんとしていました 。

車隊に徴発されて、数少なくなっている農家の馬の盗難事件かひんぴんと起こり、 とうとうその犯人は捕えられ、それが意外にも若い娘で、どうやって馬を屠殺したのか不思議がっていると馬の頭に袋をかぶせカマで一撃を加えて殺すのだと公判の席で自供して、世間をおどろかせました。戦争が終ってから、胃袋の戦いが新たに始まったのです

 

 

宮古木工はズルイ」とたたかれた

平良町下里 (当時地盛 ) 狩俣○○ (四三歳)

白いモモ

年をとってしまって、何月のことだったかよくおばえていませんがねえ。私がうまれ育ち、そしてくらしてきたのは地盛という処です。そこは海軍飛行場と(陸軍)中飛行場とのちょうどまん中にありますので、運がよかったと思います。九十何戸も家がありましたが、焼けた家は一戸もありませんでした。死んだ人もいなかったとおぼえています。

東となりの山中部落も、ちょうど同じような条件なのですが、ここでは大きな不幸がありましたね。戦争中の想い出で、一番心に残っているのは、そのときみたものです。

その日は、山中部落の国仲家に、私たち夫婦は行きました。国仲家の嫁にゆくという約東してあった娘と、その母親が空襲で死んだときいてかけつけたわけなんです。国仲家は私の従兄の家に当ります。死んだ2人は、 それはもうかわいそうな死に方をしていました。母親の方は、舌を出して死んでいましたし、その長女の方は、 ロからも鼻からも血をふいて死んでいました。十九歳の女の子の白いふともものあらわになっていたのが、いまでも、かなしみをさそいます。親せき一同で、 オーダ (もっこ)にのせてとむらいをすませました。
 そのあと、国仲家で、おくやみなどいって休んでいました。すると、また空襲です。国仲家の夫婦は自分らの家の防空壕に入りました。その頃どこのうちにもあった家庭用のものです。屋敷の外に穴をほります。 一一坪ほどの広さの方形の穴を、深さ四尺五寸ほどほり、その上に板をのせ、土を山盛りにしたという簡素なものでした。 そこに大切な味そがめなどは入れておきました。私たち集まっていた親せきの者は、そこへ入れませんので、馬小屋の中にかくれました。

すごく大きな音がして、気づいたら、防空壕の方に直撃がおちていました。行ってみたら、それはもう見るにたえない死に方をしています。夫の方には、首から上がありません。女の方ははらわたがとびだしています。

そうです。私の耳がこんなに遠くなったのは、 そのときからです

 

宮古木工はズルイ

防術隊に 集され、手りゅう弾を投げる訓練をうけたこともありましたが、それは、わずかの期間でした。

私が、戦争に劦力させられた一番大きなものは、西表島で、満一か月働いたことでしよう。昭和十八年の九月頃です。軍の作業がまにあわず、大工や木工が徴用されました。ダンべーにのせられて西表島に渡りました。各市町村から行きましたが、私たち平良町出身は第一宮古木工班といいました。

私たちの班は、 イシヌッヅ家(平良)のイヌス兄を班長にして十三名でした。自浜という処に住んで、毎日兵舎つくり木工作業です。白浜からダンべーで運ばれていき、高い嶺に上って木をきりました。そして兵舎をつくります。

そのときの想い出に、十五夜の夜のことがあります。私は酒はのめませんが、十五夜だというので、軍から給与された酒をのんでさわいでいる皆といっしょにいました。 そのうちに、キナのカマレ というのがおって大声で叫んでいました。 そこへ衛兵がやってきてけんかとなったわけです。すると、そこへ下士官がやってきて、大声で、
宮古木工はズルイ。戦時下で何だ。」と、どなりました。

班長を立たせて、ほおをぶってきました。銃の頭で、頭を二度もたたきました。班長のイヌス兄は抗議しました。 「何だ、おれも軍隊生活をやったことがある。君がたたいたのは不当だ。説諭からやるべきだ。」と。

そこで、軍曹は、 一列にならべて、 「それでは戦争はできん。」といい、次々にみんなをたたきました。 一列に並べて両方のほおをたたきました。それは、とてもくやしいことでした。みんなで、 「お前のせいだ。」と、キナのカマレーをたたきました。

一か月分の手当は八重山(石垣) の郵便局でもらいました。 一日当り四円計算で三十五日分もらいました。かえってきてからは、縄あつめ仕事をしました。城辺町一円を古自転車をこいで、縄集めをしました。

 

兵たいの出入り

戦争中、私のうちには、よく兵隊たちがやってきました。近くに山砲の部隊がありましたが、 (サツマ)イモはもちろんですが、ラッキョウをつくっても、そこの下級兵たちがあさってしまったものです。可哀そうなものでしたよ。

うちにくる兵隊は、何をくれ、これをくれと、よくせがみました。大野上等兵という炊事班長は、これらの兵隊に、 「乞食をするな。 」と注意していました。

将校係は、交換する品物をもって、食いにきました。靴下などをもってきました。山中の方にいた部隊はそれほどこまっていなかったようです。中野という倉庫係りの班長は、わざわざ米や石油や馬肉などをもってきてくれました。

桜井班長も下級兵に注意する方でした。 この豊部隊の桜井班長は、しかし、 ひどいことをしましたよ。運搬に使うからといって、私の馬を借りていきましたがね。 いつまでも返さないので、部隊に請求しましたが、そのままになってしまいました。

自分のカで馬を買う力もないので、思案にくれてしまいました。戦争が終ったあと、五円模合をおこして、それで来間島から三歳馬を買いました。

兵隊といえば、当時女学生だったうちの娘の髪をひつばったわるいやつもいましたね。

 

戦病死した息子

私には寛次という息子がいました。うちではマッといっていました。子どもの頃から体が弱く、病気がちな子でした。それが、身体検査もしないまま、入隊させられました。鵬和十九年の頃と覚えていますが、官古部隊でした。

初め山中部落にいましたが、ついでソバ嶺の丘の方に移っていました。 そのうちに空襲がはげしくなりました。 マツは、 スガーニ部落の西側の製糖小屋の処で、爆風に当りました。

それから、病気が重くなりました。入院させられたのは、野原越にあった衛生部隊でしたね。胃の病気だということでした。
「退院させてくれ。」
「うちで療養させてくれ。」と、願いましたが、うけいれられず、とうとう衛生部隊で死んでしまいました。

戦病死ということになり、今でも恩給をもらっています。ほんとに親孝行な子だったのに...

 

 


「ありがためいわく」な時代

上野村字宮国 宮 国 清(五十六歳)

空爆の中の漁労班 - 見せしめの刑罰

昭和十九年五月の初め頃、すでにできていた海軍飛行場のほかに 新たに始められたツンマーの陸軍飛行場作業にかり出されました。 毎日モッコで土運びをやらされていたある日、宮部落の隣組長を 兼ねて防団長をしている私に、漁撈班を組織して魚をとり軍に納 めるよう、陸軍命令が出ました。

漁業経験のある者を十名選び、飛行場作業のかわりに魚とりを しました。 初めのうちは週二円くらいくれましたが、そのうち飛行 場前まで馬車で運んだ魚を兵隊はただで持って行くようになりまし た。

十月十日に始まった空襲以来、宮国部落は宮古島の東南海岸部に 位置しているせいか艦載機の通路になっていた。部落東部の海岸線 には陸軍が陣地を作ってあった。 爆音が聞えたかと思うと、海上を低空でとんで来た飛行機がいきなり部落に銃撃を加え、 崎原家の娘はまだ学童でしたが、妹をおぶっていて機銃弾を受けてたおれまし た。おぶっていた姉の方は即死し、背中の乳ばなれしたばかりの娘が助かったのです。とっさの事とて、近くの道ばたにあったガジュマルの木の下に逃げこんだ老婆は足を撃ち抜かれ不具者(ママ)となり、戦後もびっこ(ママ)を引い ていました。

十九年三月以後は特に空襲がひどくなり、部内にも無差別爆撃 が始まりました。焼夷弾が落ちると、あっという間にカヤぶきの家 など焼けてしまう。 兵隊たちはそれを消すのを手伝おうともしない。
海にもぐって魚とりをしている最中に空襲機が来て、逃げ場もなく海の中で銃撃を加えられ、命からがら逃げ帰る事が相次いで起り ました。

四月の初め頃だったと思います。特にその日は早朝から空襲が激 しかったのです。隣組長という立場で、漁労班の人選をまかされた私は、一家の生活の支えとなる人たちを海で死なせたら、それこそ魚どころではな い。 その責任は皆、私にある。「もう魚とりには行くな」といいま した。こんな激しい空襲にさらされているのだから、当然日本軍も分ってくれるはずだと思っていました。

海におりなくなって二日目でした。兵隊を三人従えた将校が馬に乗り吾が家の庭先へ入って来ました。 はじめのうちは、何か用が あるのかと思っていましたが、馬からおりるなり、 「魚をとらんでも良いといったのはお前か!」 大声でどなり、私の頬をぶんなぐり、よろめく私を足げにするのです。 家の者たちが驚き、泣き叫ぶ 声で、隣近所の人たちが何事が起きたかと集まって来ました。 あっ というまに三十人位集まっていたと思います。 「家族を前にしてな ぐるとは何事か!」 「魚と命がかえられるか!」人々の罵声が飛びかいただならぬさわぎとなりました。 将校の手が腰へのび、拳銃を 抜き出しました。私は撃たれる、もう殺されると思ったが、銃口は空へ向けられ、ものすごい音を出しました。人々の声が一瞬静まり ました。だが部落の人々も激昂していたのです。

「あんたがたのその様なやり方部落民は不満をもっている。 アメリカの空襲で殺される前に、お前たちに殺されるんだったらお前たちを殺して死ぬ。 一人でやれば罪にもなるだろうが、皆でやる んだから!お前が先に撃ったんだから!」と殺気だった部落の人々 その将校と兵隊をかこんでしまった。しばらく激論が続き、その 日はその将校と兵隊たちはそのまま引きあげて行きました。

命びろいしたと安堵していると、翌日の夜ふけ十時頃だったと思 います。人々は寝静まっていました。 兵隊が五人程で、寝ている私を引きたてたのです。 夜道を物もいわさず学校南にあるタカヤマの陣地の中へつれて行かれました。 雑木林の中にある松木にうしろ手に縛りつけたまま放置したのです。 翌朝、早朝から始まった空襲機の機銃弾が目の前にある岩にはじけるのに、網をほどいてもくれず、逃げる事もできません。顔見知りの兵隊が、水を飲ませて呉れましたが、陣地の中でもう、このまま死んでしまうのだと覚悟し ました。縛られたままの腕はしびれ、夜が来ました。空腹のため意識がもうろうとしていました。物音に気がつくと、甥の一郎が縄をほどいていました。 くやしいやら、 情ないやらで思わず涙がほろほろと流れたのを覚えています。

民間人立入禁止だった陣地の中へ部落代表の人たちがおしかけて行き、連れて帰る事を承諾させたといっていました。

ピストルでおどした将校はサカヨリ中尉といっていました。 戦争が終ったあとで聴いた話だが、 サカヨリは復員船でヤマトに帰る途 海の中へとって投げられて死んだと聞いたが真偽の程はたしかではない。

沖縄差別

兵隊たちは島に来た初めの頃は、この島の人は文字は書けるかなどと質問したり、見下げた様な態度でいた。

飛行場滑走路の舗装用石粉掘りを砂川の採石場でやらされまし た。宮国部落にチビャーという屋号の家がありそこの友利イシタ氏を若い少尉と伍長が、 びんたをはったり蹴ったりしているのです。 五十六歳の人にはとても一人で持ち上げられない大きな石を、 必ず一人でもてというので私の力ではだめだとイシタさんがいったのが原因です。 石粉掘の作業を止めて部落の人が皆でその伍長と少尉をとりかこみました。体の弱い老人を何故いじめると、そんな無理を 強いるのならお前たちをも殺してやると逆におどしたのです。 監督 の軍人は作業現場にその二人だけだったし、色あおざめてその場は それで納まった。

所が、翌日、集合場所の飛行場前で、前日石採掘り作業に行った 人々の中から、 宮園部落の人だけ前に出ろと整列させた上、さんざ こんなぐられた。

「お国のため」の戦争ならと、空襲が始まって八か月間防空壕に入った事がなかった。木に登って見張り役をしたり、道を歩く者を大声で避難させたり、部落の警防団長の任務に忠実でありたいと思っていた。軍から牛を買うから集めろと命令され、部落中の牛を名嘉山公民館に集めた。兵隊が勝手な値段を決めて、金の代りに債券を渡たす。それが領収書をも兼ねていて、それで終り。 三百七十円で牛を売ったのだが、結局、 一銭ももらっていない。牛がいなくなると耕作用の馬を輜重用といって徴発して行った。 それもつぶして喰ったらしく、戦争が終っても返してこなかった。

「アリガタメイワク」としかいいようのないひどい時代だった。宮国部落だけで、空襲で死んだ人が三人、負傷した人が六名はいた。

 

 

 

父を連行された家庭

城辺村七又 砂 川 盟 子 (十三歳)

昭和十九年。小学校高等科の一年生でした。福嶺小学校は長間部落から移動して来た騎兵隊にとられてしまい、ミナコジや新城のブムャーで分散授業を受けました。

二十年三月に終了式は学校の講堂で行ないましたが、式の最中に空襲があって、式を中止し、逃げ帰った。

四月になると校舎は度重なる銃撃を受けて穴だらけになり、校舎が目立ちすぎるから攻撃されやすといってその一部をこわし始めました。学校裏の松林には騎兵隊の馬がたくさんつないでありましたが、松林の馬の群をめがけて、機銃掃射を加えていました。馬糧の入っている麻袋が弾で穴だらけになり、こほれ落ちたライ麦が青い芽を出しました。林の中の草を喰べつくした馬が、松の樹皮を喰いちぎり松の木はだが白く館出していました。馬糧もなくなり、草もなくなり繋がれたままのやせ細ったの町がわすかばかりの草をあらそって、かみつき合い、けんかをしてたのを覚えています。学校近辺に近よる事が危険な状態となり、校舎は兵隊がどんどんこわして行くし、もう四月以降は授業は全く行なわれなくなりました。食糧と衣類が不足し、ほろをまとい  いもの切りほし粉末をとかしたおかゆの様なものを作り喰いつないでいました。

そんなある日、軍用トラックが家の門でとまり、 「砂川の家はここか」といいながら四、 五人はいって来ました。その中の一人が土間の所へ入るなり、父の類をなぐりつけました。父はひざますいて座っていました。力いつばい、叩れた父が倒れ、正座し直したら、又なぐるのです。私はおそろしくなって母にすがりつき大声で泣き出しました。母が私に静まれ、というのですが何の事か何故、父があの様ななぐられ方をするのか私にはわからないのです。 そのうち着がえるという父をそのままで良いと引きたてて行きました。 トラックに乗せられて、父は着のみ着のままで寒さの中をつれさられました。 「今日穴掘り作業に行かなかった」とあおい顔をした母がいうのです。 朝、食事もとらさずに立たせてあるだろうからと弁当をもって行く様に母にいわれ、ミナコシの登り坂の道まで行った時、父が兵隊の車にのせられて来ました。 「オイ」と弱々しい声をかけながらすれちがうのです。 あの兵隊たちが兵舎にしている城辺の学校まで行っても父にはこの弁当はたべさせられないし、そこの坂道から引きかえして来ました。元気の良い父があの様な声を出すまで、顔がすっかりやつれきって、自力で歩く事が出来なくなるまでいためつけたのです。泣きながらイモのべントウを下げて、帰って来ました。私より先に車で運ばれて来た父は、頭から蒲団をかぶり寝ていました。はれ上った顔を子供に見せたくなかったのでしよう。

 

七又部落

城辺村七又 砂川○○ (三十六歳)

昭和十八年十二月頃軍の命令で、 良の東海岸に上陸して来る戦車を落とすためといって、細長い穴掘り作業に毎日かり出されました。徴用といってどんな事情があっても、連日の強制作業です。

昭和十四年、多良間豆をまいている頃(旧三月頃)はじめて召集令状が来て以来、私の半生は家族と一緒にいる期間より、軍隊にとられている期間の方が長かった。そのため、子供たちの養育費にも事かく程、家は貧しかった。ヤミ酒作ってもうけている人もいるんだし、下地あたりにヤミ米があるという話を聞いて、それを仲買いしに行ったのです。壕掘り作業を一日休みました。長い軍隊生活をした私にとって兵隊のこわさも、ばからしさも、上海上陸以来の戦争の体験から知っているつもりでした。 金をとるなら、それで得た利益から払ってやろうと、いう気になっていました。

そしたら、家にのりこんで来た兵隊になぐりつけられた上、家から連れ出されました。城辺の青年学校の南向きの門の所で、不動の姿勢で、保良落の人も一緒に五名程、立たされた上、 銃の基底部で、足をなぐるのです。 つづけざまびんたをはられ、くらくらして、うしろへ倒れると、 立ちとがれという。今度は石垣の所へ立たたされ、そこからっきおとす。夜になると手を伸ばさせ、その上に椅子をのせ一晩中立っておれという。とても寒かった。夜がふけると今度は、逃げ出すと思ったのか、兵舎の中に入れて、ひざまずかす。特に兵隊の中にヤナンザ (悪い奴)が一人いて、そいつがひどかった。一睡もさせす、翌明、家に帰れというか、歩く事はおろか立ちあがる事も出来んのです。部落へ見せつけもあったのだろう。軍用車にのせられて、家に運こばれた。

現役時代に中国大陸では「沖縄野郎」といじめられた事もあったが、この様なごうもんの経験はなかったし今でも思い出したくない。

自爆攻撃の訓練

あの事があって、しばらくしたら、待命召集が来ました。スナマスパリ (字東仲添)に、たこつほの形をした個人壕掘り、戦車を落とす穴掘り、その擬装作業、対戦車攻撃訓練をさせられました。戦車の下部は弱いから個人壕の中にいて、それをめがけて爆雷を投げろという。模擬爆電は箱に砂をつめて、本物の戦車で、訓練するのです。上陛して来たら、壕の中にいて、射撃、手榴弾の投げ方は、こうしろと教えるのです。敵の航空機が、グライダーを引っぱって来て、それをはなつ。 それから落下傘がおりて来る。集結したら彼らは強いから、地上におりる前に追って行って、銃剣で突く様にと教えられました。

食糧は、玄米とツノム (象虫の事)が同量 くらい。 つぶだけを選んで喰べるわけにも行かず、黒いチャン ポン飯。 シャリシャリという音がします。 それも二十年の六月頃ま でで、それもなくなると食糧を自給自足せよという命令が出て、毎日、いもを植えた。 植えて間もない、まだ未熟ないもを掘ったりし た。おかずは、時々徴発して来たらしい馬の肉が出たりした。 植えたいもが熟さないうちに二十年八月十五日が来て、戦争は終った。

戦争中は食糧供出を軍から命ぜられて初めのうちはいうなりに応じていたが、区長をしていた砂川恵昌氏は、部落内に割り当てて来た野菜、イモなどが不足して来たし、 微発命令を拒否した。 集めようにも物がないといった。 その日の夜、 部落の西側にあるウンヌ ヤーの前の兵舎から着剣した兵隊が、部落に向ったという知らせが あった。 砂川恵は家を脱出していた。無人の砂川恵の家を兵隊は包囲して、クビヤド (ススキを摘んで作った戸)の間から、 床下にかくれていると思ったのか家を銃剣で刺していた。夜、 くらがりの中でプスプスというかわいた音が西どなりの家から聞こえていた。

 

七又部落

城辺村七又 砂川○○ (三十八歳)

味噌をくれ、いもをくれと毎日の様に

昭和十九年十月十日の空襲以来、 部落地部の畑のそばに小屋 を作って昼はそこに住んでいた。 干しいもを団子にして、畑のニンニクを抜いて来て、 味噌にまぶしてそれが毎日の食事だった。 夜になると家に帰り、麦をひいていもと麦粉をまぜユニクマイを作 明日の食糧を確保しておく。 それも初めのうちで、二十年の初 め頃からは、部落に食らしいたべものがなかったが、兵隊は、味噌をくれ、いもをくれと毎日の様に来た。 食事を作っていたら、戸を開けて入って来ようとするので、戸をワイーとつかまえて(しっ かりおさえて) あげさせまいと、番していた。兵隊のやり方はさもしかった。 初めのうちは、家の食事など分けたりもしていたが、ウンヌヤーの前にあった飯上げ班から兵隊が二人でオークにかついで 二人で食事を運ぶ。 うしろの者が手ずかみで喰い、 次に前の者が交 替して喰う。きたないやり方だった。兵隊もうえ死にしたのがいたが、民間人はそてつを喰って、はれたり、しぼんだりして死んで行った。この部落民もそれを喰って死んだ人がいる。そてつは、よく腐蝕してからでないと毒があるのに、それが乾燥する前に喰ったりして死んだ。

又部落には爆弾が四つ落ちた。 その爆風で、 わたしの家はめちゃくちゃになり、柱に今でも破片が無数に入っている。 大城長栄の家は焼夷弾で、 馬小屋ごと母屋も全焼した。 大城政良は馬を盗ま れ、農家にとっては、大事な馬だったし、空襲の合い間にまだ農作業の出来る頃だったから畑を売って、買って来た。その馬を徴発された。 わたしの所の山羊も盗まれ、馬は根間前の部隊が微発し て行った。五か月後戦争が終って返して来たが、肥っていためす馬が、骨と皮ばかりになって、 よろめきながら返されて来た。 隣の福部落では、母と子が機銃弾をうけて死んでいる。

戦後、 学校裏の松林を採切する事になったが、無数の機銃弾が入っていて、ノコの歯が入らないままそのまま立枯れていたが、台風でみなたおれてしまった。

自衛隊というのが来るらしいが、あれはまた戦争準備をしでかす のではないのか。

 

戦時下の保良部落

城辺村字保良 平良○○ (三十九歳)

昭和十九年五月中飛行場の工事が始まり六十一歳の父が作業に 行っていた。 老人では体がもたんというので、私も病弱な体だが父と代って滑走路の整地作業に徴用された。資材の運搬作業で、馬車班として、自家用の荷馬車もろともの徴用です。 強行作業で夜は家にも帰さずあかりをつけて夜明けまでの作業はつらかった。 あなたの島の人々を守るためだと言われ文句 も言えない。

そのうち、大野山の水源地あたりから資材運びを命ぜられて、 そ れが砲弾だと判りびっくりした。 途中で爆発せんかと車のガタピシ を気にしながら命のちぢむ思いをした。道は悪いしおまけにせま い。 今のタイヤの車と違って、鉄製車の馬車で夕方六時に中飛行場にたどりついた時は緊張してぐったりつかれてしまった。おまけに手間賃もない。

十月十日の空襲が始まる頃は整地作業がほぼ終った。 耕作用の馬 が馬車ごと使用されてしまい隣家の馬をかりて来て農作業をしていた。部落北部にある畑一帯に川村隊という中隊が駐屯して、山林の松木陣地擬装のためといって見さかいなくなぎたおした。 父も軍あがりだったが腹にすえかねて、中隊長に抗議したら、根こそぎ伐採は止めた。 畑の中に自家用の井戸がありました。 所が一コ中隊 の兵隊が次から次へと使うと、自分で掘った井戸の水なのに使う事が出来なかった。 農作業の時空襲があったらと、その時のために防空壕も掘って用意したが、それも兵隊が使って私たちには入ること ができなかった。そのうち植えつけた甘藷が荒されたが、文句をいうと君たちを守りに来たのだという。父も体が不自由になるし畑を手伝う長男も十六歳で徴用されるし、二町歩の畑を一人で耕すのに空襲のはげしい日などは一日一食だけの日もあった。部落の新城さんが畑の除草作業中に、機銃掃射を受けて、腹部をやられた。 傷口をふさぐつもりで兵隊が腹をおさえると胃や腸がとび出して来た。おどろいて七又のうらにいた軍医の所へタンカにのせて運ぶ途中に死亡した。

前田隊が会場(公民館)に来た頃には空襲は一段とはげしくなり 牛の飼料の草刈りにさえ行けなくなりそのうち部落の中に無差別に爆弾を落し始めた。

朝食をとっていると、いきなり機銃掃射をあびせられた。西側の コンクリートの水タンクに弾がはじける音がした。屋根をつきぬけ 弾が入り口の柱につきささる。 座にいた長女は悲鳴をあげて泣きだす。 まだ小さかった二男、三男四男の手を引いて、庭先のま でたどるのにころんでは起きあんまりおどろいて腰を抜かし足が思う様に歩けない。 全くどもを抜かれた。空飛ぶ飛行機がいきなり撃って来る事をだれも見たことがなく知らなかったし、近所に住んでいた姉のカニメガは、壕の入り口に爆弾をおとされ、生きうめになった。飛行機が去ったあと部落の人や前田隊の兵隊たちが加勢して、かき出して壕の入り口をあけ、助け出したが、左の類に破片がささり顔中血だらけに息もたえだえになってうめいていた。最近、プルで壕のあとを整地したら、姉の使っていた横櫛が出て来た。

 

青年学校

城辺村字保良 平良○○ (十六歳)

青年学校の最下級生で軍事教練を受けました。青年学校は十五歳から二十歳までの五年制でした。上級生は仮想敵陣地をホフク前進で攻撃する訓練、下級生は伝令の訓練をするのです。青年学校の最下級生で軍事訓練を受けそのあと福南部落の西のバダ (谷) で戦車の避難壕掘りの作業に徴用された。横穴式に山の斜面を掘り松木を伐採してそれで壕の入口を擬装するのです。戦車はニ十台くらいしました。そこの作業がすむと中飛行場西飛行場の作業につれて行かれた。

昭和十九年九月頃下地にあった西飛行場では保良から通うのに遠すぎるため沖縄製糖の倉庫に麦わらをしいて、それが寝る時も唯一の敷物です。朝六時起床、人員点呼、軍人勅諭をとなえ、それから日が暮れるまで地ならし、土運び作業が始まるのです。支給されるわずかばかりの食事では腹がへって寝る事も出来ず夜九時の点呼終るのを待つて、 一応寝るふりをするのです。

上野村に親戚がいるのを思い出し、夜中に脱出しました。 オーハリまで夜道を歩いて行きました。空腹もひどかったが、なま水をのむ事と水浴をマラリア予防のためといって禁止されていたので、そこで水を浴びる事でくたくたになった体がいきかえる思いでした。腹いつばいにいもを喰ってそれから帰り不寝番にとがめられぬよう便所からもどるふりして寝るのです。毛布が足りないからチョチンガー (麻の砂糖入れの袋)をかさねて、それをかぶりました。栄養失調と過労からマラリアにかかる人が続出しました。徴用二十日目にとうとう私もマラリアかかりました。寒気がしたかと うと高い熱が出てガタカタふるえ、とまらないのです。衛生兵が薬を飲ますが、それでも治らず一週間もすぎる頃には、やせほそってしまって、父が馬に乗って魚と馬肉をもって来ましたが、それを喰べる気力もなくなっていました。意識がもうろうとしている毎日が続きました。家に帰って養生しろと帰宅命令が出て馬車にのせられ保良に帰って来ました。家で療養したのですが、薬もろくにないし、バショウの幹をつついてそれで冷やしたり、そのしるを歙まされたりしているうちに、倉庫の生活よりは吾が家は環境も良いし、少しずつ良くなりました。所が部落の字長が時々見まわりに来て、良くなったら又、作業に行く様にと、軍のいいつけだからといっていました。そのうち空襲が、一層激しくなると保良部落の南西方面にあるチビビスカアブ (穴) や東部のナナカサアプに避難しました。 ナナカサアプは四メートルくらいはしごをおろしそこから横穴式になっている自然の洞穴です。空気の流通が悪く、 二日もいると人の顔色があおくなります。

特に小さい子供たちは、目に見えて顔色が悪くなるのがわかりました。そこにさえも入れない人たちは、保良泉の下の大きな岩のかげに避難生活をしていました。


空襲

城辺村字保良平良○○(四六歳)

昭和十九年十月十日の初空襲で屋根を機銃弾が穴だらけにしたので瓦を焼いている所もないしあちこちから古瓦をさがして来て修理したのもっかの間、今度は焼夷弾で家ごと、家財道具ごと根こそぎ焼かれてしまいました。軍の徴用で、部落北部の陣地に松木を運ぶ作業を命ぜられ部落内に煙が上るのを見たが帰って見ると家がない。長女の栄子は福里の野戦病院に見習い看護婦で徴用されているし、幸い、小さい子供たち四人は畑に遊びに行っていたとの事で、無事だったが、家内が一人で家にいてもち出すべきものももち出せず、身一つで庭の壕に逃げるがせいいっぱいだったという。

空襲があって、焼い弾がおちたら、 つかんで庭に投げて、それに砂袋をかぶせろなどと防空訓練と称して教えていたが、とてもかぶせる余裕などありません。焼い弾を落したあと、機銃掃射をするのですから。家内も、あぶない所を命びろいしたのです。私の外に家を焼かれた人は、平良武男氏、砂川良雄氏、新城よし正氏、砂川金徳氏、下地義一氏宅など外三軒がその後の空襲で全焼した。燃えないまでも松川寛喜さん宅には屋敷の東側に爆弾が落ち家をめちゃめちゃにされました。

二十年五月四日の艦砲で攻撃を受けた時、ずらりと並んだ十三隻の黒い軍艦から一せいに包て引・力)逹ガんで来るのです。部落中の人がもてるだけの荷物をかかえて、 ころびながら壕に逃げるのです。ものすごい地ひびきでした。兵隊たちはとりばりて (意気消沈して)もう上陸されるのだというし、もし、上陸されていたら、島出身の防衛隊の者が、魚の釣餌みたいに、最前線に立たされて、まっさきにやられていたであろう。その日は部落は直接の被害は受けなかったが、十九年十月十日以来、部落でも機銃弾で、死者やケガ人が数多く出ました。 日本軍弾薬運びの事故にまきこまれて爆死した幼児などもいます。

 

主婦

城辺村字保良 上 里○○ (四十歳)

保良弾薬庫の爆発事故

部落の中央部に兵隊が壕を掘っていた。壕掘りの責任者が木山軍曹という人で、その人の名で、部落の人は木山壕と呼んでいました。夫は特命召集で宮原へつれて行かれるし畑仕事も私がしなければ喰って行けない。平良みつえさんという子守をやとい、 二歳になる末の子の弘子をあずけた。昭和十九年二月十三日、夕方畑仕事から帰って乳を飲ませ、すこし遊んでおいでといって、夕飯の仕度をしていた。しばらくすると、部落中が地響きする様な爆弾の様な音がした。飛行機の音もきこえんのにどうしたのだろうと思っていたら、 うちの子が、と知らせて来るのです。足がくぎづけされた様に動けなくなり立ちすくんでしまった。

木山壕には弾薬が入っていて、それを移動するため五、六人の兵隊が弾薬箱を荷車につんで運んでいた様です。子守の子を使って兵隊は卵などもを買わしていた事があったし、仲良くなった子供は、その兵隊たちのあとを追って遊んでいたのです。 ごとごと押している荷車の安全ヒモがはずれ、弾薬箱が路面に落ち、爆発したのです。荷車のあとかたもなくふっとばされた現場は、道ばたの立木も黒くこげていました。現場から遠くはなれた所に、子守りと共にふきとばされて弘子はたおれていました。ぐったりした吾が子をかかえて、狂乱状態で家につれて来ましたが、 ほとんど即死だったのです。 子守の平良みつえちゃんも四、 五日してなくなりました。 五人の男の子の末っ子に生れた女の子で、夫はようやく娘が出来たと喜び自分の名の弘をとって弘子と名づけ自から髪の手入れをして女の子らしく育てるのだといってオカッパにしてやったり、オシロイをつけてやったり、たいへんなかわいがり様だったのです。娘が死んだ翌日、夫が帰って来ました。寝がえりをうちながら弘子弘子と呼びつづけるのです。やけ酒を飲み、墓に通いつづけるのです。気がふれた様になって、それがもとで、病の床にふし、 二十年五月には夫も死んでしまいました。

シゲマツ、村山という二人の兵隊も即死したが、生き残った南軍曹という人が後日見舞に来て耳はきこえなくなり自分みたいに不具者 (ママ) になるよりはよかったかも知れないと慰めていた。いくら慰めても死んだ幼子は帰って来ない。ガタピシの悪い道路を危険物を運ぶのに子供たちを遠ぎける事さえしなかった。部落のまんなかに弾薬を入れる壕を掘るくらいだから。
その後、子守をしていた子には、戦争協力者といって、年金が出ている様ですが、 私の子にはない。私の子のいのちは別ものだろうか。

 

七歳の記憶

平良町 友 利 ○○ (七歳)

空襲は一年生の半ば頃に始まった。(昭和十九年十月十日) 学校は兵舎にとられ、疎開して空屋になった家が町の中にたくさんあったしそこで授業をした。北小学校の東の通りを北へまっすぐ行って交叉するあたりの茅貰の家で、幽霊が出そうな気持の悪い所で、その通りは持に陰気な感じがしていた。小さい椅子を肌にして、バショウの葉を乾燥して編んだ坐布団を床に敷いて勉強した。最初の空襲はちょうど勉強中に「空襲警軒」があり、かおる先生の家の通りを逃げ帰った。無事に家へ帰りついたが、それから学安はずっと休み、 一年の終りの修了式は町の東部の飲料水泉として使用されていたムイカガーの広い洞窟の上で行われ、 その時いっ空襲があるか危険だからといって母にとめられて私は行かなかった。 「総代で呼ばれたのに、行けなくて残念だったねー。」と四年生だった兄に言われたのを覚えている。空襲はますます激しくなって、二十年の初め頃は特に激しさを増し、 五目頃の梅雨時に艦砲射撃を受けて、雨に濡れながらその・夜宀具暗な道をタナバリに逃げた。 それも初めての事であとで艦砲射撃とわかったのですが、私たち家族はいつもの調子で防空壕に入りたがらない父をおいて、庭さきの壕に入ったが、地響がだいぶひどくなってきたので近くのおたけの大きな福木の下にある隣組防空壕へ逃げた。 いつになくその日は激しく「ドン」という音がして、 ふわっと体が浮くような耳をさすような爆風があって、一瞬皆かたまって抱き合った。その時母が「あれはただごとではない。ああ、ウャ (父) スティサイが。」といった。さすかの母も「アガイーウヤはスティ。」と何度も言った。 「これが艦砲射 というものか。 と恵勇兄が言った。 「ウヤはスティよステイ 。」といって、家へ戻ってみると、さすがの父もしょげかえっていた。 「アガイーウャ (父)はモウケドオク」といっておふくろは泣いて喜んていた。私たちが壕へ逃げたあとも父はゆうゆうとしていたらしいが、ファッとの音にこれはただごとではないと驚いたらしい。隣組の話合いで各家庭は防空壕を作ることを義務づけられてしたが、 おやじがそんなものはいらないと言うのを、おふくろは皆が作るものは作りなさいと言って強引に作らせた防空壕で、父は命びろいした。そこはふだん使うことはなく食糧倉庫のようになって味噌がめなどが入れてあった。そこへ父は駈込んだらしいが、間に合わず腰のあたりを爆風にやられ黒く内出血のあとはかなり長いこと残っていた。 その時四斗ほどの大豆の俵を担いで逃げ込んだとのことで「いざとなると、人問はアリャーミーン (ありもしない、 たいした)タヤ(ちから)が出る」と父は言っていた。それから避難となると父は一緒に逃げるようになった。

艦砲射撃を受ける前に 家は十・十空襲で壁一板は殆ど裂け、ヤリギン (破れ着物)を見るようで家の柱には機銃弾の貫通したあとが今でも残っている。 「ウカース(こわい)弾が。ピスキ (穴をあけて) ピリウキバ (いったんだよ) イーバードゥ (よかった) クマンナ (ここには) ウリウカン (おらなくて) これがあたればスニドク.(死んでいるよ)」と兄が言っ偵察機。弾の貫通したあとは人間の指が入る程度のギザギザのまるい穴で兄は指を突込んでみたりしていた。家の壁のほとんどがなくなっていたので今まで見えなかった海がぐ近くに見えた。艦砲射撃の前に三月頃隣の天那教の大きな建物もやけてなくなり、家族を台湾陳開にやった若旦那がひとり残っていた。おやじもおふくろも信心深く天理教を信じると良い事があると言われ、毎朝毎晩なり響く祈りの太鼓の音に目を覚し、 一日の無事を「天理教のみことー」にたくして拝んでいたのに、あまりにも無残に空襲にやられたのをみて天理教の威厳もがた落ちとなり、さすがのおとなしいおやじも「ナウュガミ (そんなもの) オガマッティ (拝むものか)。」と言った。母も「アカンバ (ああもういやだ) オガマン」といっていた。天理教の焼けあとの庭には爆風で飛んだ大豆が雨にふられたりして芽を出していたので、おふくろはそれを拾い集めて味噌あえにして食べさせてくれた。おふくろが天理教の若主人に「あんたとこのマミナ (もやし)を食べているよ。」と言うと、若主人は「こんなにひどい空襲にあって悔しい、天理教教会が焼けて苦しい。」と言って泣いていた。 「マンティ(ほんとに)カサマスムスャーナー (やりきれない)」とおふくろもあんなこと言っていたあとなのにつられて二人して泣いていた。
日頃、頼母しいと見ていた若主人が毎晩焼けあとにたたずんで浪花節様の歌をうたいながらさめざめと泣いているのをきいたことを子供心に覚えている。

連日の空襲にあって町は焼かれ、夕方から雨が降り出した。しとしとと降り続ける真暗な夜道を人々は荷物をまとめて田舎の親戚縁者をたよって引越して行った。母は落着かない様子で門の所へ出たり戻ったりして「アガイ](ああ)バガサト(わが里)や焼きにやーんゅー残念なもの」とふるえながら言っていた。

昭和十九年八月頃、島にはおれないということで私たちも台湾へ疎開することになっていた。トランクとか柳行李とかよその家にあるような気の利いたものもなかったし麻袋に衣類を入れ始めた。父は島に留るというので母が泣きながら「残念なむぬゃーあんたはひとりでツクルー(ほっねん)としているべきか」といい、父は「他の家も男は皆そうしているし宿命だから・・」と言っていた。半ば強制的に軍から疎開命令が出ていたし、行くか、行かないかで家の中は揉めぬいていた。そこへ「どうして父をひとりおいて行くのか、私たちだけが行くのか」と、 一言いったら、 「もう皆行かん。」ということにきまった。幼児の声は神の声という信仰みたいなのがあったからだと思う。当然行くべきものと半ば決まっていたから帰って来て「どうしたのか」と父がきく。 「ヒデがそう言っているから行かん事にした」と言うと、父はにつこり笑って「そうだったか」とその日かってそんな事は無かったのに私をだっこして寝た。 「カヌシャガマヨー (かわい娘よ) 」と言って。何時も母に抱かれて寝ていたが、父と一諸に寝たのはその晩が初めてでした。

台湾疎開をとり止めた私たちは近くのサッフィ海岸の波打際に面したかなり奥行きの深い自然洞窟に幾組かの隣家の人々と一しょに避難した。洞窺は墓に使われていたらしく骨壷がいつばいつまっていてそれを枕辺に置いて寝た。恐かったが空襲に来る飛行機はもっと恐かった。時々敵機が去るのを待って浜辺で釣をする老人がいたが爆風を受けてうつぶせになって死んでいたという。すごく恐ろしいと思った。おふくろが「釣に行って人が死んだので、海辺へ行くな。」と言った。人々もその頃になると釣りになど出なくなった。
軍用船にのっていたTさんの家は裕福で、珍らしいお菓子などをもらって食べたことがある。墓の中でお産があって赤ん坊の布団もその頃には珍しい花模様のはなやかなものだった。空襲の合い間に布団を下すと、ちょうちょうがとんで来てその布団にとまった。ああ布団の模様の花にちょうちょうが止まっているよ、おもしろいね。」とはしゃいだ。それは小学校二年生の私にとってしめっほい墓穴生活でのただ一つのほのほのとしたのどかな思い出。今こうして平和な時代に軍備だ、自衛隊という政府のやりかたにもう少し衿を正して考えなくてはと思う。いやな戦争を想い出すことにさえ背中が冷えるおもいです。

 

四、戦時下の教育

学校現場の状況

空襲さけ朝夕だけの分散作業

平良町西里 山 内 朝 源 (三九歳)

台湾疎開者を引率する

軍はやってくるし敵のグラマンが時々上空に姿を現わすようになって、私ら男子教員は夜間勤務を命せられました。平一校の屋根にのほり監視をしました。ある晩、敵機襲来だといって警戒警報が発せられました。 すぐ屋根からおりて校長室へ行くと、 池村校長はク御真影〃をどうしようかと心配する、私らは日ごろの訓練通り砂袋を準備したりバケツに水を汲んで並べたり、竹槍をそろえたりしました。さいわいその夜はそれですんだけれども、確かにそのころ (昭和十九年七月)から人心の動揺がみられるようになりました。役場からは、敵の上陸もあるかもしれないから、女や子どもたちはどうしても疎開しなければいかんと、本土疎開・台湾疎開について町内会を通して呼びかけていました。学童疎開の通知もきました。校長は引率には「若くて元気なもの」をと、個別によんで説得を始めました。私もよばれたが、一夜考えさせてくれと言って返事をひかえました。家には六十歳をこす母がいるし、五年生をかしらに六人の子どもがいる、これだけの家族をつれて寒いところで過ごせるだろうかと迷ったものでした。 一方では弟や妹が台湾で教員をしていて、疎開するなら台湾へ来たらというさそい等もあったので、翌日ことわりました。それでもなお再考をうながされました。結局、平一校からの学童疎開は三十名余りで、引率は高里先生に決まりました。

一般の人は待ち切れなくなって縁故疎開をはじめました。台湾へ行くのが多かったです。いわゆる集団疎開は縁故のない年より、婦女子が多かった。そうこうしているうちに今度は台湾行きの学童疎開を編成するはなしが出て、これは希望者が多かったようです。台湾ならばよかろうということで私は引率を引きうけることにしました。ところが校長からたびたび県の学務部長に電報照会するけど、なかなか返事がこない。大分あとになってから台湾への学童疎開は認めないという返事がきました。次に出口町内会から台湾へ行く一般疎開者の引率者がいないから引き受けてくれと、町内会長に言われました。この方は家族も行くことだし、よかろうとあっさり引き受けました。ところが校長に休暇をだしに行ったら「必らず帰ってくるんだよ」と念を押すのです。勿論帰ってくるつもりでした。

出発したのは八月の末、暁丸とかいったようにおばえています。各町内会ごとに疎開団を編成、責任者がついていたが、私が引率した出口町内会は年よりや婦女子ばかり六十人くらい。おばあさんなんかはみんなアダン葉ゾウリをはいて、小さな水ガメを持つのもいました。一斗ぐらいは入る水ガメ。台湾にはマラリアがあるから宮古の水を持っていかんと厄いと言ってね。それを頭にのせて、さらにナベや茶碗、もういろいろなものを持てるだけ持ったおばあさんがつづいていました。それにことばは方言しかわからない。途中は敵の飛行機や潜水艦を避けるとかで夜間航海。昼は石垣に隠れた 、与那国に隠れたりで、ようやくキールンに着いたのは宮古を出て七日めでした。その間、たくさんの人が船酔いするし、小さい子どもは甲板でうろうろしたりで大変でした。キールンのまちはまだ空襲をうけておらず、りっばなものでした。おばあさんたちは、りっばなまちだ、りっばな建物だ」とよろこんでいたが、いざ上陸となると、水ガメを頭にのせて、ゾウリは脇にはさんではだしになって歩きだす。 「アタラカカイバ、サバア、ムタダカア、ナラン」 (ゾウリは勿体ないから持っ)と言ってね。そういうかっこうで市街を行列、市役所の案内で大きなお寺のようなところで休憩しました。

そこで宜蘭から迎えに来ていた妹に家族を託して、私は疎開者をつれて汽車に乗り嘉義をへて台南へ行きました。市役所の案内で長仙楼とかいう大きな料理屋に泊まりました。そこで一一泊して、あとは一便さきに宮古から来ていた長田さんたちに頼んで帰ることにしましたが、家族のいる宜蘭によって、学校に電報をうちました。 こちらには学童の疎開もたくさんいるしできるだけ止どまりたいと。そしたら「ぜひもどれ」判コを押した公用電報が返ってきました。

それに家内の兄の亀川恵信(医師)が「学校から公用電報がきているのだからもどれ。家族のことは心配するな。日本はきっと勝っから、勝ったら迎えにこい」と言うし、とうとううしろ髪をひかれる思いで帰ることにしました。

スオウから池間の漁船宝山丸が出るときいて、それで帰ることにしましたが、何日も天気のつごうで出ず、そのつど宜蘭とスオウを往復しました。そのとき疎開者を訪問して帰る長浜恵信さんや下地一雄さんらと一緒になりました。三~四日めの夕方ようやく出港したが、その晩から大変なしけになりました。与那国を過ぎるあたりから船は木の葉のようにゆれる。若い船長だったが、 「これは台風だ!」という。何しろ無線もなにもないから台風だろうが突然やってくるわけです。上砂降りはともなう。海水はどんどん入りこむ。三十人くらいの乗客はみんな船酔いで、どんどんあげていました。そこへ船長が「みなさん、もう覚悟してください」という。焔きました。 これはあげるどころじゃない。それからみんなはハチマキをしめて、どうしたらいいかと船長に聞くと、石垣島が見えるはすだが一向に見えん、船の位置がはっきりしないという。そのうち夜明けが近いのか、前方にかすかに島影がみえてきました。もうどこでもし、いから着けてくれと言って、船を戊蘿にのしあげて下船しました。

石垣島のずーっと北の端で、小さな部落がありました。伊原間と言ったかな。宮古の人も1~2軒いました。台風の過ぎるまで二晩いました。そこで牛をニ頭つぶして食べて元気をつけ、二~三斤ずつはおみやげにもしました。嵐もしすまっていざ帰ろうとしたら、スクリューが折れている。修理のできるところではなし、そのまま出発しました。しかしちっとも進まない。早朝に出て、翌日夕方遅くなってから漲水港 現在とのみや商会の下)に着きました。四十時間はかかったように思います。

親越の坂をのばりきったところて、あっとおどろきました。 一か月余りまえ宮古を出たときはあれほどきれいに立ち並んでいた平良のまちがすっかり焼けてしまい、ずっと東まで見渡す限り焼野が原。十・十空襲の後に帰ったことになるわけです。出口町内会一帯も焼けていたが、さいわい私の家は建っていました。しかし家族はだれもいないし、親戚の上里忠勝 (医師) のところに仲間入り。 これから新たな宮古での生活が始まりました。


空襲下分散授業で死を覚悟

学校は軍に接収されました。疎開しなかった子どもを集めて勉強はあちこちに分散してやりました。校長が大三俵の下地徹さんの家を借りていたのでそこを職員室というより学校事務所のようにして通いました。生徒は仲間御嶽、亀川医者の家、アツママ御嶽等と分散していたが、私は高等科(女生徒のみ)をうけもっていて神屋の立津元康さんの家に机、腰掛をもちこんで勉強しました。しかし空襲警報や警戒警報が出れば休みだし、ふだんは五~六人、多いときでも十人くらいしかこなかったです。平一校全体が集るときは事務所からも近い仲間御嶽の松林を利用しました。勉強の途中で空襲警がくれば庭の防空壕に入ったが、これでは親も不安だったのでしよう。生徒はだんだんこなくなりました。来ても朝とは限らず、昼きたり、夕方きたりで不規則でした。

時間割も本を読むとか、算数の計算をするといったていどで一定しない。勿論学用品もなかったし、服装もボロボロ、だれもが食べものにだけ気をとられていました。

いろいろな理由ー多くは経済的な理由ーで疎開しなかった平良のまちの人びとも、空襲がはげしくなるにともなって、島のなかで縁故をたよって疎開を始めました。添道、久松、下地、城辺とあちこちに散っていきました。伊良部に疎開した人たちもいます。多くの人は市街地がやられると思っていましたから。ばくらがやってきた防空演習は何の役にもたたなかったですね。焼夷弾が落ちてももう消すより逃げるのが普通でした。そんなぐあいでまちを歩く人もほとんどなく、また灯火管制をされていたので、まったくさびしいものでした。ただ夜も昼もなく敵機だけが飛んでいました。

寄宿さきの上里医者の一家が 昭和十九年の末には添道に疎開したので、私も一緒にうつりました。そこから平良へ歩いて通いましたが、空襲をさけてなるべく朝早く出て、日暮れてから帰りました。上里医院も爆 でめちゃくちゃにやられました。

そんなころ私にも防衛隊召集の赤紙がきました。しまった、いよいよ家族どころじゃなくなった、何とか元気でいるところだけでも知らさなければと思ったが、すでに郵便も電信も郡外へは機能がマヒしていました。上里医者に相談したら、よし自分にまかせろといって、航空隊にたのんで台湾行きの軍用機に託送してもらいましたが、あとで聞いたら手紙一つ家族にはとどいていなかったそうです。それで台湾の家族の間では米軍の沖繩上陸を聞いたとき、もうお父さんもダメだと覚悟を決めていたということでした。
私ももうそのころには覚悟を決めていました。受けもちの生徒たちも「どうせ死ぬなら、先生と一緒に死んでもいい」と言ったりしてね。まだ米軍がどこに上陸するかははっきりしないころで、私も米軍が上陸したらこの子たちと一緒に死のう・・。そんな気持になっていました。そのくせ寄宿さきの上里医者が悲観的なことを言うと「いや日本は勝ちますよ」と言ったりしていました。上里医者は「考えてもみなさい。 ここまでアメリカが攻めてくろのに勝てるはずがないじゃないか。ここは日本だよ。敵が日本まで来ているのに勝てるはずはない。」こう言って全然相手にしないのです。

御真影の当番というのもありました。 宮古各学校の御真影を野原の司令部近くの洞窟に安置して、毎日二人ずつ交替で当番しました。 朝から夕方までと、夕方から翌朝までの十二時間当番で、夜は洞窟のなかでローソクをつけての当番でした。そこへ通う のが大変でした。あの辺一帯は軍が相当駐屯していたせいか敵の飛 行機の攻撃もすごいものでした。 往復はとてもこわくて、穴に入っ たり松林に隠れたりで、当番はみんなひやひやしたものです。 校長たちの御真影にたいする尊敬はそれは大変なものでした。それ だけに当番についてはやかましくいわれ、空襲下を通いつづけま た。戦後間もなく御真影は全の校長立ち会いで焼いたそうですが、 多くの校長が声をあげて泣いていたということでした。

戦意喪失の兵士たち

民間はもう生きるだけが精いっぱいの日々でしたが軍もひどかっ た。 空家になった民家に入って畳などをかっぱらっていく。まるで盗みあいでした。 それに芋や食べものを盗んでいく。 兵はみんな栄養失調になっていました。 添道にいた一般兵卒はみなひょろひょろ やせているのに、小隊長とか中隊長というのはふとっていてね。 そういうひょろひょろやせた兵卒をムチでたたいて壕掘りをさせてい ました。ムチでたたかれて盲目になった兵隊を、 使いみちがないか穴でも掘れといってね、手さぐりで穴掘りしているのをうしろか ピシピをたたく。 軍隊とはこんなにもこわいものなのかと、おそ ろしくなったこともあります。

添道には海軍の部隊もいたが、そこで沖縄特攻に行くんだという少年航空兵を何度もみました。 あすは特攻機で飛ぶんだといって酒盛りをしている。翌日の未明にはもう練習機みたいな飛行機がよろよろと飛んでいく。まったく頼りない飛び方で。下で見送っている兵隊は「沖縄島には敵機動部隊がたくさんいるそうだから、奴なんかはあと一時間のいのちだ。 つぎはぼくらの番かな」 とはなしたり していました。 食べものもろくになく、戦闘力ももう心細い。 気の毒なものでした。これでほんとうに戦争ができるのだろうか、これ が日本の兵隊なんだろうかと思ったりしました。 だから上里医者が 「もう戦争は駄目だ」と言うのを聞いて、確かにこれでは頼りない なと思ったこともあります。

ところが参謀や連隊本部なんかは非常に強気でした。自分たちに は式高射砲というのがある、実際に敵機を落したことがあると言 って強気なところをみせる。 確かに一度は落したこともあるそうで すが、そのときつかまえた一人か二人の捕虜を銃殺したというはなしも聞きました。 こうして士気を高揚するためにさかんに大丈夫ま 大丈夫だといってはいたが、実際毎日みる兵隊はとても戦争できるような状態ではなかったですね。

輸送船は平良でもたびたび爆撃されています。 食糧もやられる し、武器弾薬を積んだ船もやられる。 はじめは敵機がくるとこちら もってはいたがそのうち沈黙して駄目でした。手りゅう弾さえな いと言っていました。 隊長は防衛隊の分まではないとさえ言ったり していたのですからね。

しかし部隊によってもいろいろ差はあったようです。壜詰をもっている部隊もいました。 海軍はわりとぜいたくだと言われていたが、陸軍でも野原の上原の本家の庭に糧をたくさん積んであったようで、兵隊はそれを盗んできてサツマ芋や味噌と交換したりし ていました。海軍は毎週一回台湾から飛行機で運んでいると言っていましたが。

海軍は家を貸しても気前がよかった。 私も上医者の世話で家を したけど月に五十円でした。 そのころの給料がやっぱりそのくら いだったんですから、なかなかいい家賃でした。

水道人夫になり台湾引揚げの船賃かせぐ

敗戦については、十六日か十七日かに学校事務所で校長にきかさ れました。 かねて 「絶対不敗、日本は神国なり」と言いつづけてき 校長から聞かされたときは、信じられない気持でした。敗戦のは なしが一般に広まってきたころの兵隊のよろこびは大変なものでした。やせこけた兵隊たちが、故郷に帰れるといってうれしそうには なしていました。

九月のはじめごろ、 場から戦争は終ったのだ、疎開を迎えに行ける人は心配しないで行ってこいとの発表があって、漁船で台湾 へわたりました。 家族は宜蘭からさらに台中のインリンというとこ ろに疎開していました。 いざ帰ろうとしたら今度は船がたりな い。 池間の漁船だが、運賃は一人四百円、それに荷物も柳行李一個 四百円。こちらは十人家族に、 ぼろとはいえ柳行李は七つ八つはあ る。とても間に合わない。 仕方がないから母と妹の二人だけ荷物をもってさきに帰した。 それから私は船をかせぐためにキールンで 水道人夫になってはたらいた。 家内は子どもと一緒に駅の近くで今川焼を焼いて売ったり、煉火の漆喰をわって一個いくらと売ってわずかずつかせぎ、 安い船のくるのを待っていました。 そのとき栄丸 の遭難を聞いたが、従弟もそのとき死にました。

昭和二十年もくれて翌二十一年一月、ようやく平良町の石原町長 が疎開者の引揚船を仕立てて迎えにきてくれました。それで一家そ ろってただで乗せてもらい、ようやく四か月ぶりで宮古に帰ること ができました。

 

沖縄を軍に理解させる

平良町東下地(四二歳)

兵隊相手に郷土史を講演

わたしは昭和十八年の四月に来間国民学校から砂川国民学校に転勤しました。 二~三か月後の六~七月ごろはじめて軍隊が宮古にき たと思います。はじめのうちはあちこちに防空壕をつくったりして いたが、 城辺村では砂川の南と新里の境界附近やザラツキ嶺の下、 西城国民学校のうしろあたりに掘っていました。その軍は何回か にわかれて何千、何万と入ってきたと思うが、はじめて城辺村にきた兵隊たちはまるで外国にでも来たかのように「沖縄人は普通語がわかるか」「沖縄人は何人種か、支那人の子孫か」などと変なこと ばかり言っていました。 部隊長はじめ将校がそんなことを言って いたのです。 そこで私の家で酒やサカナを出して歓迎会をひらき誤解を解くことにしました。 部隊長の梶少佐はじめ将校が十名くらいきました。

そこで私はかねて研究していた沖縄県の言語や民俗、本土と沖繩県の歴史的な関係等について説明しました。そうすると梶少佐がびつくりしたような顔をして、城辺村役場に准士官以上を全員集めるからそこで改めてあんたの研究したものをはなしてくれ、講習をしてくれと言われた。城辺村役場には三十名余りの将校連が集ったが、本土と沖縄が同一民族であることを「古事記」の記述や万葉語等を引用してはなしました。 「言海」の「大八州の神つままぎかねてさらにタイコウとなりて美人をまぎとる」などを引用、宮古方言とむすびつけてしゃべりました。なかにはいま考えたら眉っばともいえる滝沢馬琴の為朝渡来等についてもとりあげたが、当時はウソも方便どころか本気でそう考えたし、いかに沖縄県を正しく知ってもらうか一生懸命でした。原紙を切ってプリントにしてくばりもしました。それからは軍の官古に対する態度はいくらか変ってきたように思います。

また歓迎の意味をこめて学芸会も催したが、軍と学校の合同演芸会の形式でやったように思います。運動場に舞台を装置して児童も出れば兵隊も出るというふうにしてやりました。このときは山砲隊の兵隊は全員来て、職員にもいろいろおごってくれたようにおほえています。こういうふうにして兵隊とも非常にしたしくなりました。私は昭和十九年十一月に城辺国民学校の垣花校長が視学になって官古支庁に転勤したので後任として城辺校にうつったが、そのとき兵隊たちが転勤を非常に惜しがってくれました。

馬車で転勤の途中大空襲にあう

転勤の辞令が出たことを聞いたのは十一月の二十日過ぎでした。家財道具を馬車に積んで砂川を出発したのは十一一月上旬の未明。夜明けとともに敵機の大空襲が始まり途い可ー回か石垣のかげに隠れたり木の下に身をひそめたりして、ようやく城辺校の校長住宅にたどりついたのは夜の十時ごろでしこー。引っ越しの日が敵の大空襲にあたってしまい、ほんとうに生命からがら逃げたものです。 一里半そこらの道のりなのに十数時間以上もかかりました。砂川校はその年の四月に科学教育研究校の指定をうけて飛行機の模型や望遠鏡とか戦時関係のいろいろな教材教具を購入して研究をつづけ、研究発表会の準備をしていました。それらの科学教材はすべて校長住宅の一一番座においてあったが、城辺校に転勤して三日めに空襲があって爆弾が落ち、残っていた家財とともに全部やられてしまいました。校内に立っていた歩哨も戦死するなど大変なことになってしまいました。もしも引越しが少しでも遅れていたらと思うと何がしあわせかわからぬものだと思いました。おかげでばくはクカンヌファ(神みの子)と言われたりしたものです。

城辺校にうつってからは空 つづきで授業もろくろくできない。またこのころ学校は職員室だけを除いてすべて軍にとられ陸軍病院に転用されていました。このため授業は各部落の青年会場に散在してすすめました。職員室といっても学校の南側の青年会場のようなところで、職員は一応朝はみんなここに集り、空襲がないときはそこから各分教場に出かけていきます。十何か所かにわかれていたと思います。しかし空襲が多くほとんど授業はできませんでした。村役場の裏に石粉をとった跡があってそこに防空壕をつくり、たいていの人はそこで難をさけていました。

ほくは家族六人で校長住宅にいたが、空襲がくると一日中、あるいは夜通し役場裏の防空壕ですごしました。住宅で寝ているとき未明に空襲でもあると相当こたえました。子どもは六年生をかしらに女の子ばかり四人、小さい子どもらをたたき起こして防空壕までかけ込むのは大変です。空襲を知らせるサイレンは学校にいる軍隊がならしていたが、 一か所だけでなくあっちこっちでも鳴っていました。建物がめだつのか学枚にはよく爆弾が落ちました。しかしどういうものか校舎には命中せす、たいてい学枚周辺で爆発していました。学校隣りの民間の庭に落ちたときなどは大変でした。真昼間一一間四方くらいの小さな茅ぶき家に子どもらが十何名遊んでいるとき、 ニ五〇キロ爆弾が半間くらいはなれたところに落ちたのです。反対側のデイゴの大木が根こそぎ倒れ、そこら一帯めちやめちゃにされたのに、もっとも近くにある茅ぶきはどうもなく十名余りの子どもたちはみんなたすかりました。おそらく爆発するときの方向が茅ぶき屋に平行していただろうということでした。あれこそ奇跡だと思います。

しかしあんまり学校周辺にばかり爆弾が落ちるものだから、あとは軍も警戒してあちこちの防空壕に分散して行きました。しばらく学校はそのままになっていたが、このままにしておいたら危いといって村会議員の玄仁たちが枚舎をこわしはじめました。ぼくは校舎をこわすのは反対で役場まで抗議に行ったけど聞いてもらえなかったです。玄仁たちは自分たちの防空壕に使うつもりでこわしたらし   このころはもう近く終戦だそうだという噂もきかれていたのでずいぶん反対したけど駄目でした。それから一~ニか月したら終戦になりました。

終戦のはなしは沖細戦が終らないころから聞こえていました。将校のなかにはロ本は完全に負けるというのもいました。福里良夫君なんかは、日本は必らず負けると言っていたが、ぼくはそんなことはない絶対勝っと言ったものです。ところが福里君の言う通り負けてしまって、ばくは徹底した軍国主義だったのかなと自分ながら思ったりしたものです。

日本人のなかにスパイがいる

照明弾があがるたびに車はどこかにスパイがいると言って大騒ぎをしました。夜中、照明弾があがったぞと叫ぶのでみんなでそこら中を包囲する。時限爆弾と言ったりしていたけど、何でも時間をきって照明弾があがると 日は必らず大空襲になる。しかしみんながあがったという森を包囲するともう誰もいない。軍隊はスパイがうちあげているのだと言っていました。沖縄戦ではハワイの二世がスバイになって夜こっそり潜水艦からきてスパイ活動をしているそうだとの噂が宮古でもきかれていました。だからほくは照明弾があがるのを沖の軍艦からみておって翌日空襲するのだろうと思っていました。軍はべつに地元の人がスパイをしているとは言わなかったが、日本人が敵の滯水艦から夜こっそり上陸してきて民間や兵隊のなかにまぎれこんでスパイ活動をしていると言っていたのは確かです。

とにかく正体不明の時限照明弾で、犯人は全然あがりませんでした。「御真影」を安置してある野原越の防空壕の近くからあがったりするんだから、 とにかく不思議でたまらなかったです。兵隊たちも不思議がっていました。ばくも夜中に大声で叫んでみんなで包囲したが誰もいない。スパイがっかまったという話は一回も聞いたことはありません。

食糧不足とマラリアに苦しむ
食糧不足で兵隊も開墾したり民家の畑を借りてサツマ芋を植えたりしていました。それでも足りなかったから蛇も食べ、蛙も食べていました。あとは民家をも荒す。しかしもしも民間のものが軍のものをとろうものなら大変です。 一度などは十五歳くらいの男の子が芋ヅルを盗んだといって、真夏の炎天下に電信柱にうしろ手にしばりつけられたことがあります。城辺校の西南の角の電して許してもらいました。

またあると、きは作業に出ないといって青年学校の女生徒三人を指揮台に立たせて罰していたこともあります。これも炎熱下に両手を高くあげさせて可哀そうだったので、 このときもおねがいして許してもらいました。作業といっても軍の畑を耕したり防空壕を掘ったりすることですから、暑くてたまらなかったのだろうと思います。

福里はもともとマラリアのないことで知られていたのに、戦争中は実にマラリアが多かったです。 ばくの家族も五人かかりました。栄養が悪いからかかりやすかったのだろうけど、 アメリカが、マラリア菌をまいたんだろうと思っていました。東という親切な軍医がいていつも注射をしてくれました。 この人は終戦後もめんどうをみてくれました。ところがこの東軍医は城辺校の職員で嘉手刈千代という美人の女教員をぜひ自分の嫁に相談してくれと言うのです。 一応はなしてみたけど、 「もし向うにも奥さんがいて、現地妻のようにされたら困る」とことわられました。ほくはいつも家族に注射してもらっているし、困ったなと思ったが仕方がなかったです。
マ司令部への翻訳にあたる
終戦近くなってほくも栄養失調とマラリアでたおれました。東軍医のお世話になったが、少し元気が出てきたら宮古支庁によばれ、翻訳をさせられました。学校のことはやらんでいいから宮古郡のためにはたらいてくれということで、東京の総司令部のマッカ]サ] 元師あての文書を翻訳しました。松本という通訳もいたが、この人には直接宮古に関する翻訳はさせず、もつばらほくがやりました。多くは食糧配給に関するものだったように思います。支庁は空襲で焼け、農業試験場にうつっていました。攴庁長は納戸粂吉と言いました。三か月ぐらい学支には行か 平良から試験場に通いました。ときには通訳もさせられたが、よく筆談でしました。翻訳は無報酬でやったように思います。
終戦の月の八月三十一日に野原越で〃御真影〃焼いたときにはマラリアで寝ていたため城辺校からは教頭の奥平平茂がばくの代理で出席しました。

 

 

 

下地かおる日記抄

下地かおる氏は、博文館発行の中型当用日記を用いて昭和十七年 ~一一十一年の満五か年、日記を書きのこしている。もともと氏は、師範学校在学中から日記の習慣があり、この五年間一冊に用いたのは、十七年を終えた段階で同様な日記を入手できなかったことに原囚するものらしい。同じページの余白、らん外を使って公私さまざまなことがらがぎっしり書きしるされている。
ここでは昭和十九年十月から一一十年九月までの一か年におさえて、主として戦争と学校にかかわる記述のみをぬき書きした。このころ氏は砂川国民学校長から城辺国民学校長に転勤している。

 

<以下、省略>