『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 米須 ( 1 )

 

以下、沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。 

摩文仁村 米須(1)(PDF形式:1.3MB)PDFを別ウィンドウで開きます

 

… 倍以上お願いした。しかし、各個人の記録は、特異なものというのではなく、むしろあの戦争体験者としては、みんなが経験したことといっていい。そうではあっても、心を留めて読めば、各人各様、戦争の実体を現わしていることはわかる。

 

 

米須集落の人口と戦争の犠牲者数

米須部落は、旧真壁村字真壁と伯仲する南部の人口戸数において一、二を唱えられる部落であったようで、戦前戸数が約20戸、人口在住者が1,500名を越したそうである。

 

この部落民が戦後の長い捕虜生活を過ごして、やがてわが部落へ帰られるという捕虜収容集団生活は近くの旧真壁村名城であった。沖縄戦生き残り全部の米須部落民が名城に集まった。恐らく沖縄にいた生存者米須部落のものは、一人も漏れなく名城に集まったことと思う。北部に疎開していた人たちも、わが部落への帰心、矢の如くと古い形容をしてもいいと思われる。

 

その人数が、あまりにも少い、わずか100名きっちりで、武部隊へ召集されていた11名が台湾から帰って来たので、121名になったことを、みんながはっきり記憶していた。


米須の戦後人口は、350人から400人の間であったそうだが、他府県疎開、在住していなかった他府県や外地移住者たちも帰って来たので、やっとそれだけの人口となったのであろう。米須部落に、米軍上陸の四月一日当時にいた人で、生き残ることができたのは40人以内ではなかろうか、という方もいた。米須部落の人口1,500中、戦争の犠牲になった人命は、1,200人は越すのではないかと思われる。

 

一家全滅が、270戸の47%に達している、驚かざるを得ない悲惨事である。もし、一人しか生き残っていない戸数を加えると、6、70%に達するのではあるまいか。

 

一応各人の談話後、戦前の部落の一方のはしから一家全滅の家名と人員を35軒のところまで思い出して貰った。

新屋徳前ン喜納

崎山

新上久保田

新久保田

徳新屋喜屋武金
金久

新屋前上徳門

新屋喜屋武小

西新名嘉

新屋西久保田

前名嘉

新名嘉

喜納

久保田

新徳門

徳新屋前上徳門

徳東徳門

金城小

新屋前祝女殿内

徳新屋前祝女殿内

知念当

前仲ン徳門

徳前喜納山城

徳新屋西徳門

西徳門

新屋東喜納山城

屋久保田小

徳久保田小

新徳前喜納山城

新屋新前徳門

新仲門

久保田新屋

前徳門

三男新徳山城

前新屋久保田

計34戸 159名

 

この一家全滅人員は、一戸について四・五人強だから247戸の47%は120戸で、その一家全滅総人員は、前記の割合から計算すると500人を越すことになる。1,500の字民中全滅家族だけで、500人を越す、一人あるいは二人残った戸数の犠牲者を加えると、最初に述べた九名家族中一人だけ生き残っている例などと思い較べて、米須の犠牲が、1,100名あるいは1,200百名と推定して、大体間違いないように思われる。

 

ひめゆりの塔は、日本全国に知れわたり、参拝者は他都道府県の人たちも、沖縄地元の人たちも、毎日参拝し、いつ行っても新鮮な花が供えられている。このひめゆりの塔所在地の米須部落の二十六、七年後の今日に心を留めて見る人がどれだけいるだろうか。あの空き屋敷、一家全滅して、そこに家を再建して、それ等の家の祖先、位牌を崇める人がいないところもあるかもしれない。ちよっと気をつけたら車の中からさえあまりに空き屋敷の多いのが見られる。


米須の部落の各屋敷内を初め付近一帯の遺骨は、万をもって数えることを記録の中にも出ていて、遺骨は何年間に亘って大量に収骨され、今日もあちこちからまだ拾集されるそうである。

 

終戦三、四年、芋蔓が異常に繁茂し、南瓜のような大きな芋が出たが、そこには、人間の遺骨がきまってあったということで、茅などの異常繁殖の場所には、鍬を入れたら必ず人骨が出たとみんなが話した。

 

波平幸進(三十歳) サイパン引揚

1946年1月にサイパンから引き揚げ

南洋から引き揚げて来たのは、一月の六日(昭和二十一年)でしたから、六日に名城に入り込んで来て、一月の八日に現在の自分の家へ来たわけですよ。それも、名城から直接大通りからは歩けない。福地にはアメリカ兵のキャンプがあるし、小波蔵の部落を越えて洲越えて波平のうしろから、現在のひめゆりの塔のうしろ、山手の方から上って来たわけですよ。ひめゆりの塔の山を上って来て部落に入って来たら、石垣という石垣は全部崩れているので、どこの屋敷やら見当がつかないんですよ。想像で、ああ、この辺はどこの屋敷だったなと、木も全部焼けて、野原になっていますから、わからないわけです。


わたしとは同年生で、わたしの親の屋敷の隣りの仲宗根という屋敷へ来たら、二十名くらい転んでいるんですよ、死体が。それでどこの屋敷も同じかなと思ってあちこち歩き廻ったんですが、どこの屋敷も五名から六、七名、十名やら、死体が並んでいるんですよ。後はさびしくなって自分は引っ返しましたが、見られたものではなかったです。

 

それから名城で三か月ぐらいだったですか、三、四か月は暮したでしょうね。それから米須に引っ越し命令が下ったもんですから、ちょうどあの時は、南洋から連れて来たうちの長女がハシカでだらけですよ。顔、頭、足の先まで、見られたもんじゃなかったんです。自分の子だが、あんまり臭いがひどいので負んぶしきれないで、僕のお母さんが、わたしが負んぶするからお前は荷物を担いで行きなさい、と言われたもんだからそうしました。

 

だがその子が、水疱瘡とハシカにいっぺんにかかって重態なもんですからね。この子は大丈夫かなと、わたしはうしろを向き向きに来ましたがね。それで村に来て一か月くらいしたら、ぱっとその水疱瘡とハシカが枯れたんですよ、その疵が。でも枯れても疵は真黒ですよ、疥癬の痛みたように。その子が一生涯これでは大変だがなと思っていたんですが、年が経つにつれて、次第しだいには取れて行ったんですよ。

 

それで自分としてはボツボツやって行こうと心を定めてやっていましたが、部落へ帰って二か年目に後の家内を貰って、まあ働いたわけですよ。それから後は何事もなく来たわけです。


南洋から来て、部落はたしか、どこも松やいろいろの木があったのに、真白くなっているのを、強く感じました。それから部落に帰ってですね、来て当時、兎が三千円、豚が一万円と価格がついて来るんですよ。それもお金のある方は買うことができるが、われわれにはどうしても手がでない、高値で買うことはできなかったんですが、後十年後には、肉一、二斤でも各戸で食べることができるだろうかという思いまでしていたんですがね、後十年といわず五、六年したらあちこち分け合って御馳走になる時期が来たんですよ。

 

ほんとに米須の場合は、何百戸といううちが建っていたのに、うちが一戸もない屋敷も平坦になっているし、山城さんのうちは崩されていたんです。

 

たった一軒は残っていましたがね。三和の町役所の命令で崩されました。あのうちの材料は三和役所に使ったんです。あれも惜しかったです。あれは全部、槇とイクという木で作った立派な家でしたからね。でも、主はいますよ。主はいますが命令ですから、崩されて、取り上げられてしまったんです。今の米須を見たら戦前以上ですが、あの当時は何ともいえないもんでした。

 

引きならされて、全然境界もない土地、認定員さん方がちゃんとして下さったのは、有難いと思います。一坪、二坪の差は出たと思いますが、そう間違いはなかったと思います。米須は八名でした、認定委員は。戦前の図面は何もありませんでした。そんな広い畑を平坦にしてあったんですからね。

 

各部落から認定委員は出ました。山城加那さんもあの時は大変御苦労されたんではなかったですか(山城さんは、その方の三和村全部の指導員であった由)。坪数は、戦前より大きくなっていたのでないですかね。

 

註 戦前の坪は大きく取られていたので、全部の家が、坪数は広くなったとの話し合いが出た。三和村全体が、図面も土地台帳も皆無で、これを戦前の所有土地を、場所と坪数を正確にする仕事は困難なことだったようだが、案外、巧く行ったようにみんなが話し合っていた。そうして土地台帳と図面作製をしたことも話された。

サイパン1944年6月10日

註2 波平さんのサイパンでの日本在住民の苦が、沖縄県民の戦争記録と似ているので、参考記録として、一齣を挿入する。

 

十九年の六月十日だったでしょうね。空襲を受けたわけ。その時われわれ在郷軍人分会は連隊に集まっていたが、心配でならなかったので、連隊からうちに飛んで来たわけです。もう上陸、空襲になるから、また、前もって海軍甲板下士官を、僕は知っていましたよ。それで僕は、家を見て来るから時間を与えて下さいと甲板下士官に願ったんです。そうしたら、いきなさいと許可を与えてくれたわけです。

 

その下士官は、陸戦隊の部下を扱う人でした。それでうちへ行って見たら、家族は誰もいない。うちの後には防空壕がある、乳洞が。カナリラ鐘乳洞といって、その鐘乳洞に行って見たら家内や子供がいた。それで、別に変ったことはないかと訊いたら、みんな無事だという。だが心配になるのは、もう二、三日後にはお産だということになっていますからね。その日からちょうど六日間は食糧取ったり、水を汲んで置いたりしました。


そうしたらこのカナリラ鍾乳洞には、軍の病院ができたわけ。大きな鍾乳洞ですからね、で、千人くらい入れる。その時に、僕はこの部落の内容はよく知っていました。それで軍の病院の方から、あなたはこの部落のことをよく知っておるので、水を考えてくれないか、といわれた。


このサイパンというところは水がとても不自由のところなんです。地下タンクでしたが、艦砲射撃で、全部そのタンクは割れてないんですからね。それでちょうど僕が知ったところのうちに、タンクの半分くらいありましたね。それで屋敷の木の根にロープをくくりつけて、一斗を持って行ってそのタンクの中に僕が下りて、上の方には女の方に頼んで引き上げて貰ったんです。そうしたら、そばに立っている避難民が、全部飲んでしまうんですよ、その水は。でも僕は、一時間くらいそのタンクの中に入っていました。みんな喉が乾いているから、腹いっぱい飲ましてから、一斗罐のいっぱい汲んで、病院へ持って行ったんですがね。

 

そうしたら、病院の病人がドンドン、ドンドン入って来るんです、負傷者が。入って来ながら、明日は、たしかにあしたは上陸して来る、この鐘乳洞は占領される、民間人は突破しなさい、という命令ですよ。残ったのが約三十名くらいの負傷兵だけです。あくる日の晩まわって行って見ましたら、榴弾や瓦斯弾を投げ込まれて、そのまま死んでいました。それから戦車の音がドンドンすごいんですからね、みんなジャングルの中へ逃げるんですよ。僕は家族みんな「伏せ」させたわけです。だが機銃弾で三つになる子供の足の中を貫通して、それから家内の右の臀から機銃弾が入って、左のお臀から出たわけですよ。そうして左手のこの指(母指)がなくなっておるんです。頭の皮がこれくらい、ぱっと取られたわけ。それでわたしは、妻の手をしばりつけて、あまり出血がひどいもんですからね、こっちで倒れさせては大変だからと思って、ようやく一昼夜かかって、兄貴の防空壕をたよって行ったら、あくる日は、兄貴もそこから突破していなかったんです。

 

僕は言いましたよ、兄貴に。「あなたたちは子供もないし助かるまで助かって...............僕等はこの防空壕にいるから、後は考えてくれね、といって兄貴等夫婦を行かしたわけですよ、後の始末をして貰うために。僕はその前に足をやられて、しばりつけてあったんです。関節だったら歩けないがすねの中間だったので歩けたんです。

 

それで兄貴を突破させて、その翌る日は妻がお産したんです。お産は軽くやった。だが女がお産の時の後産といいますか、体力がないもんですから、それを出すことができない、運も悪くて。三時間くらい経ったら、そのまま息を引き取ってしまったんです。その日は妻が亡くなって、翌る日は三つになる子が亡くなって、赤ちゃんは四日目の晩に命が落ちましたがね。四日間何にも与えないで、生きていましたがね、赤ちゃんは。

 

それで妻が死んで七日目に、妻子が死んだと聞いたといって兄貴が僕のところへさがして来たんですよ。「だが戦争だから、あなたがたが来る希望ならこっちへ来なさい、食糧はいくらか取れるから、だが行きたいなら行きなさい」と僕は言いましたよ。そうしたら、兄貴たちは、「お互様だから、ここで子供の面倒を見てあげよう」といって止まりましたがね。それで、ちょうど今二十九歳になる長女です、嫁に行っていますがね。その子があんまり元気なもんですから、しめ殺さなかったんですよ、うちは。その子は下痢もしないでですね、余所の子は下痢して、ポコポコ全部死んでしまうんです。この子は、草の葉っぱまで食わしたが、下痢しないんですよ。あんまり元気だもんですからね、もう余所の子から見たらうちの子は元気ぴんぴんだからそれよりも生きて後まで生き残った方がいいと思って後では、僕は死ぬ気にもならなかったわけです、その子の顔を見て。

 

それで六月の十日の空襲から約三か月経った九月十二日ですか、捕虜取られたわけです。捕虜取られて、その時からは、褌もないんですよ。恥もないで。着た着物はまるでバラバラでしよう、ジャングルの中から何か月も逃げ廻っていますから。

 

それで、知った朝鮮の人に最初あったわけですよ。沖縄の日本人は、いないわけです。それで知った朝鮮の人が、「ああ、あなた元気だったね」、「うん、元気だった、あなたの家族は全部元気か」、「うちは、家族全部元気だ」と話し合ったが、その朝鮮の人は、日本人みたいだったんですからね、前はお互い交際していました。それであの人が、ズボン四枚に、上衣四着持って来て、それから着物ができたが、自分は一滴も着けないですよ。全部といてしまって、子供の着物に直して、余所の奥さんに縫って貰ってですよ。それでも僕は約三百二、三十円椰に縫い込んであったので、その金はアメリカーに取られずにすんだわけ。その金があったので助りましたがね、僕は。日本金をアメリカーに上げれば、ドンドン品物は入るわけですよ。

 

作業をその後やらされたとのことだが、沖縄の戦後処置と住民捕虜の扱いは似ていたようである。

 

山城加那 (四十一歳) 防衛隊

徴用 - 恩納岳の食糧運搬

最初軍に徴用されたのは、新暦の七月でありました。恩納村の山田の山奥に、食糧運搬でしたが、朝の八時にこっちを出かけたら、翌日の八時にこっちに戻って来て、一日は休む。また翌朝の八時に出かけてその翌日の八時に帰って来るというようにやっていたんです。その食糧運びを一週間ほどやって、またその後、壕の材料ですね、軍の准尉が班長になって、三十台くらいの馬車が並んで、宜野湾の普天間で昼飯を食べて、向こうから読谷村の知名役所まで行って、向こうで夕飯を食べてですね、山田の方へ行って、そこで材料を積んで朝の八時にはここに着きおったんですよ。

防衛召集 - 運玉森~弁ヶ岳の戦い

この馬隊というのは、一か所に持って来るのではなくて、何台は真壁、何台は豊見城といって分配してやりおったんです。十月十日の空襲までは、ずっとそれをつづけておりましたが、その後に防衛召集が来まして、馬車も馬もいっしょに召集されましてね、富盛の方へ行ったんですよ。富盛で自分等が寝る飯場をつくって、昼中は竹槍を持って訓練してですね、それから空襲が盛んにやって来て、それにつづいて北部の方から米軍が上陸したということになったので、石部隊が最初に第一線に出て、それが浦添(村)前田で敗けたので、交代として山部隊が行ったんですよ。自分等は、星もつけてあるので、二等兵としていっしょに行って、運玉森でやりました。山部隊の陣地は新川というところにありましたが、昼中はそこの壕にいて、夜は出て行って、浦添アメリカに占領されたというので、自分等は、弁ヶ岳の方へ行くことになって、向こうで一週間くらいやりましたが、そこでもできないといってまた新川に戻りました。

 

そうしたらアメリカは馬天(佐敷村)の方からも来るし、那覇からも来て、三方から新川は囲まれて、袋の鼠みたように、もう出ることもできないし、運玉森にその晩は行きましたが、そこからも逃げて来て、その晩に南へ逃げなければならなくなりました。

 

最初新川へ行きました時は、負傷兵を新川の野戦病院へ運んで来ましたよ。その途中に艦砲が落ちた。われわれの分隊は三十名でありましたが、四人で一組でありましたよ。一番前の組が、直撃に当ったんです。担いで来る時ですね、自分等は道から歩いたら、また直撃を喰うから畑の中を通ろうといって、畑の中を通って歩いたら、隣りのものがまたやられたんです。助けてくれえ、というが夜で誰も助けませんよ。艦砲がドンドン雨のように落ちて来るんだかそうして病人を担いで来て、また明る日も運玉森へ負傷兵を運びに行ったら、迫撃砲を目の前で撃つんですよ、アメリカがですね。その時の自分の分隊長は上等兵でありましたが、友軍だ進みなさいというんですよ。わたしたちは、あれは敵だからといって、木の葉を被って伏せして置こうといっていたんですよ。そんなら自分が行って見ようと先頭になって、三間くらい前になって行ったら手榴弾でやられて、すぐ二間ぐらい上から飛んで散りおったんですよ、その兵隊はね。

 

それからもう逃げなければいかんといって、いっしょに逃げたらやられるから一人ひとり逃げようといって、自分の新川の陣地の方へ。照明弾が上る時は、われわれは運玉森の頂上だから、上からくるくる転げて下まで落ちて、照明弾が消えた時また、走って歩いて、また照明弾が上ったら伏せて、そうして陣地まで帰りましたが、その後からは怪我人運びには行かなかったんですよ。運玉森からの負傷兵運搬はそういうわけで一回しかできなかったんです。その時は運玉森の友軍の壕はすべて潰されて、兵隊はもういなかったんです。

 

そうして弁ケ岳というところは、もう友軍は鉄砲は持っているが坐り込んでいて、何もやらないんですよ。弁ケ岳へ行く時は、爆弾でしょうね重かったから。力のない人は棒にくくりつけて二人で持って、力のある人は、一人で背中にくっつけて持つんですが六十キログラムぐらいはあったでしょうな。そうして運んでいる途中、飛行機から花火みたようなのが落ちるんですよ。その時は、爆弾といっしょに散ってしまうなという気持ちで、苦しい思いでしたが、そして行ったんですが、わたしは、考えなければいかんと思って、わたしは首が動かなくなっているということを隊長にいったんですね、そうしたら、「お前たちの土地を守るのにそれくらいは何でもないから頑張れ、死んだら国のためである」と隊長はいっておるんですよ。そういうが、首は動かないんだから一日くらい休ましたら、また動くかもしれないから一日くらいは休まして下さいといった。そんなら軍医のところへ行って手術して来なさい、というので、そうしたら軍医は穴の中にいますよ。その人は頭をつかまえて、ゆがんでいる(右か左に片向けていたこと)のを直そうとするんですが、わたしはまげているのだから、直そうとすると、あいた、あいた、痛い、痛いといって、わざとまげているんだから、そうしたら軍医は、一日くらい休んだらお前できるかというから、一日くらい休ましたら明日から出て働きますからもう一日は休まして下さい、というて、野戦病院の奥へ入って行って休んでいました。

 

自分の分隊はこの晩で全部全滅しましたよ。弁ヶ岳へ上ろうとしていた一班、二班自分の分隊は夕飯を食べようとしている途中に直撃を受けて、全部やられたそうです。うちは行かないんだから見てはいませんが、自分の分隊は、もう一人も戻って来ないんですよ、全部やられて。

 

そうしたら、休んでいるが、それから通知も来ないんですよ。そうして、新川の壕にいる、生きているもの全部、豊見城の長堂に戻って来ましたよ。そこには兵隊は全くいませんから、夜は出て食糧をさがして来てですね、そうして向こうに一週間くらいとまっていました。その後、四方八方包囲されておるから、もう今日南部へ下らないと全滅するからということで、真栄里の前の壕に下って来ました。その長堂から下る時ですね、一人ずつ患者を負んぶせよという命令がありましたので、自分は、いやだといいました。そうしたら軍曹が剣を抜いて、上官の命をきかないかといって切ろうとしておったよ。それでわたしは逃げましたが、また戻って来て、そんなら負んぶしますといって、いっしょに真栄里まで来ましたがね。途中で罐詰を開けて食べてしまいました。箱の中の数量は減っても、箱数があたっていれば同じもんだから、歩きながら食べないと歩けないといってみんなやりましたがね、三十名余りの人間全部罐詰一箱ずつ与えて、その真栄里の前の陣地へ運んだ。

伊敷の野戦病院

真栄里の前の陣地へ来たら、糸満の北がわからアメリカ軍の海陸用戦車といいますか、ドンドン上陸やりますよ。上陸やるのが見えるんだから。夜は連隊本部の壕掘りに行って、昼はめいめい隠れていて蛸壺掘りですね。約十五日間くらい、そういう生活でした。そうしてアメリカの軍艦からこっち見えるんだから自分の入っているそばに直撃が落ちたんです。そうして破片でわたしはこっち、鼻やられたんです。鼻のこっちがゆるゆるになっていましたよ。そうして手でそこをおさえて、陸軍の野戦病院の方へ逃げて行って、薬をつけて絆創膏でくっつけて、隠れておりましたが、それから三日という時に、お医者さんが、歩ける人間は解散するから、歩けない人は仕方がない、めいめい自爆しなさいと。そうしたら歩けない人間は泣いておる。みんな大声を出して泣いていましたよ。歩ける人間は、溝のそばなどからもお尻でいざっても出て行きおったんですがね。

 

うちは逃げて真壁の後の米須の前の壕へ最初は行きましたが、向こうへ着いた時は、もうちょうど夜が明けていました。朝の六時頃でありましたが鉄砲も捨てて、家族のところへ行かねばならないと思って甘蔗畑から逃げて来ましたが、逃げて来て、二日という時に捕虜取られました。野戦病院は、真栄里の前の伊敷の川ですよ。あの川が野戦病院になっておりました。伊敷の人がつかっている井戸のそばに壕があります。自然壕で大きな壕ですが、名はないですね。

米須で捕虜に - 伊良波収容所まで歩かされる

六月の二十日の十時頃、米須の前ので掴まえられましたがね。家族は、部落の後におりましたが、わたしが逃げて来た時は、兵隊に、こっちから出ないと斬ってしまうぞ、といわれたから、父親だけは歩けないのでこの壕に残して来たそうですよ。そうしてわたしは逃げて来て、朝、もう家族は全部壕のそとへ出ていたんだから、それで、こっちにいては全滅するから壕をさがして来ようといって、家族はちょっとした盛り土の陰に隠れさせて置いてですね、そうしてわたしは壊さがしに行く時、もう八時をすぎていたが、敵の飛行機が機銃で、道から歩くもんだからパラパラやりおったんですから、甘蔗畑の中に、死んだ振りして倒れていて、寝ておったんです。そうして飛行機がもう静かになったから、起きてさがしに行ったら、その壕に三十戸数くらいの家族が入っていましたよ。もうこちらは入ることができないよ、といわれましたが、まあ命を助かることですから、われわれは立っておってもいいので、一晩だけ泊めてくれといって、この壕に入っていて、明けた朝捕虜になりました。

 

捕虜になる時は、最初は、わたくしは兵隊の服装だから、出て行ったら殺されるから、妻子にお前等は出て行けといって出しましたが、あとで殺しはしないから出て来いというので、真裸なって軍の猿股一本つけて出て行きました。そうしたら、兵隊であったかと訊くので兵隊ではないといった、そんなら防衛隊であったか、いや防衛隊でもないとわたしはいうたんですよ。そうしたら、二人の米兵が胸に鉄砲を突きつけておるのだから、もう死ぬのだな、もう死んでもいいから、と思って、わたしは兵隊ではない、農民であった、と日本語でいうたら、「ウソツイタラ、カゾクゼンブ、コロス」こんなにいったので、「殺すなら殺せ、わたしは農民であった」といってがんばったから、その時には「糸満行け」というたんです。そうして、子供一人は必ず負んぶしなさいといって、七つくらいにな子供を負んぶして行ったんですよ。こっちから伊良波までずっと歩き通しで。


伊良波でまた調べますよ。途中でですね。女の方には食べ物をやるんですよ。わたしも腹がへっておるので食べたいもんですから、少しくれといったら、「ノウ」といってくれないんですね。くれなかったからそのまま裸になって歩いたんですが、溝に水溜りがあったんですよ。それで負んぶしている子供の顔があまり汚れていましたので、石鹸をつけて、その子供の顔をこの水溜りで洗ってやっていたんです。そうしたら靴を穿いている足で、わたしをうんと蹴るんですよ。何んでこっちでそんなことをやるか、といって。それでわたしはもう逃げたです、裸になって。そうしたら後で追いかけて来て、石鹸は持って来てくれてあった。そうしてわたしは後を見ないよ、列組んでいる女の中に入り込んでね、自分ひとりになると撃たれるから裸かになって女の中に入っていましたよ。

 

捕虜になる時、わたしは家族に、びくびくしないでお前たちは行きなさい、わたしはもう死ぬかもしれんからね、子供たちを立派に育てなさいね、とそれだけは言うてありましたよ。


米軍が食事を与えた時、最初は女たちも、子供たちも、毒が入っておるといって食べませんでしたよ。米兵が食べて見せたから、んな食べるようになりました。わたくしは、途中でも、伊良波でも米軍はくれませんでした。

 

わたしは、山原へ行く時から人から貰って食べた。米軍は少しもくれませんでした。
伊原から糸満までも歩いて、糸満から伊良波までも全部歩いてですよ。糸満までは家族といっしょだったが、糸満で別べつになったんです。伊良波へ行ってからは防衛隊の中に入れられたんですよ。伊良波へ行ってから、沖縄の通弁が、嘘言ったらお前死刑になるといておるんですよ。その時わたしは四十二歳でしたかね、体格で兵隊に行っていると見られたんでしょうね。わたしはしらを切って、わたしは嘘を言わない、兵隊でもない、防衛隊でもないよ、と沖縄の通弁に言ったですが、そうしたら、嘘を言ったらすぐわかるからね、嘘言うと死刑になるよと沖縄の通弁がいうんですよ。そうしたら、飯もくれないで裸で三日おりましたよ。水だけは与えました。

宜野座収容所から前原収容所へ

山原へトラックに乗せられて行くことになったので、わたしは知った人もいないし、逃げようかと思ったんですが、最初は金武のですね、大山の方に。ぶらぶら遊んでおる中にまた避難民が来たので惣慶の方に。惣慶では豚小屋に床を敷いて寝泊りやっておったんですよ。そうして向こうで班をつくって、わたしは班長として、何万人という人が集まっておるんだから、避難民の小屋を作らんといかんといって、三十人ずつ班を作って材木伐り出しに班長として行きましたよ。配給の罐詰は、普通の人は一つだがわたしは班長だから二つ、そうして一週間に一回ずつ、宜野座の病院に三十名ずつ掃除しに連れて行きおったんです。僕は、班長は、二箇ずつ握り飯をくれおったんですよ、普通の人夫は一箇ずつですけれど。その時は肥るような気持でしたよ。それで自分一人大きな握り飯を二つ食べるわけにいきませんから、病室を廻って、自分の部落の病人や年寄りなんかが入っておったんですよ。それでそういう人に分けて上げたんですよ、一つは。


わたしの長女の学校での友達といって、惣慶の事務所に事務取っている娘さんがおったんですが、その女の子が、あなた山城さんではないですかというので、そうだよ、といったら、あなた方の竹子さんは具志川村の前原のトンガマーというところにいらっしゃいますので、あなたあそこへ行かれる方がいいですよというから、ああそうか、わたしはあちらこちら手紙は出しておるが、どこへ行っておるのかと思って、もうこっちに捕虜なっているのだがといった。そうしたらこの娘さんが、そんならわたしが手続きを取りますから早く行きなさい、といったので、お願いしますといって、その翌日、前原の方へ疎開しましたがね。向こうは御馳走がうんとありましたよ。山原はもう何もなかったんです。それでいろいろの草なども食べていましたよ(前原から、泡瀬へ行って家族といっしょになったようである)。

馬を盗ませる日本軍

言い漏らしたことを少し話します。わたしは馬隊の班長をやっておりましたが、民間の牛を取って来てですね、馬もおりますがね。同じ友軍であっても、盗みに行きますよ。当番の者が牛を二頭盗ましたので、わたしが炊事軍曹にたたかれましたがね。班長たるものが役に立たないで、牛を盗ますかといって、顔をたたかれて、どうもこうもできないくらいたたかれましたがね。それでわたしはその時の自分の班の当番に、お前は眠っていたために牛を盗ましたのだから、今晩の中に他の隊から牛を盗んで来いといいつけたので、その晩にまた牛二頭盗んで来てありました。そうしてわたしは寝たんですよ。寝たら自分の帽子を取られてしまって、もう大変なことになったと思ったんだが、星もとられてしまっている。防衛隊とは言わさないで、これ見なさい、星がついている二等兵であるといっていたんですが、その星を盗まれていよいよ大変なことになったと、困ったことがありました。同じ軍隊だがこの方(同席の大屋さんたちは八重瀬の上で、わたしたちは輜重兵で富盛の道のそばに壕を掘っておりました。

重傷兵の運搬

重傷者の兵隊についても、知っておるだけ話しましょう。破片でやられた負傷者、足なんかやられているのを、こっちへ運んで来たが、最後は捨てて来ましたよ、弾に当った人を。それを運ぶのが危いから。それから陣地に来て、負傷兵をわたくしたちに運んで来なさいといいましたよ。それで自分の分隊でないからわたしたちは出来ないと断りました。そうしたらその分隊が行って運んで来ました。運んで来たら、もう足が切れて皮だけにかかっているのだから、それで壕の中の枠の柱を抱いていて、水飲ましてくれとしきりに水を求めるので、軍医が、これは出血したかと、訊くんですが、運んで来た人が、まあ出血は相当にしていました、というたら、そんなら水をやりなさい、といって、水を欲しがるだけやってから注射やりおったんです。出血はしておっても、大して出血していなかったといったら、その人には全然水を飲まなかったです。そうして治療やりおったんですが、そういう人は、戦はここまで来ておるし、こういう人は、歩いて逃げることはできないから、そのまま全滅したんではないかと思います。自分等が見た範囲では、そんなものでありました。

残っていた家を CP が取り壊す

米須は名城へ移動しましたから、こっちの遺骨収集は真和志村の人がやりました。最初に入っていましたのでね。わたしは自分のうちは残っておったんですよ。うちを見に来たら豚小屋ですね、豚小屋の方に五、六名人間が焼かれてあったんですよ。自分のうちは瓦葺だったし残っておったので幸いだと思ったんです。真和志村の作業隊がですね、三十人ほど、CPといってその時いましたね、その方がたが来てうちは崩すといって来たから、崩すのを止めてくれ、せっかくわたしの家は残っているんだからといったら、今頃、お前の家といってあるか、これはすべてアメリカのものだから崩して、これは配給してお前たちの家は造るんだ、だから崩すよといって、崩そうとしおったんですよ。


それでわたしが一人の手を掴まえて、人の財産に手をつける法があるか、戦さは敗けておるから、自分の財産は後は自分のものになるのだから手をつけてくれるな、といったら、三十名の作業班がそとに出て、手をつけなかったんだが、CPを呼びに行って五、六名CPが来たんです。

 

そして「どこに坐っているか、捕えて金網に入れよう」というので、わたしは、捕えられて金網に一週間も十日も入れられてはたまらないからといって真壁の方へ逃げたんですよ。そうしたら追駆けて来たんですが、わたしは駆け足は早いので摑まえられませんでしたが、もう仕方ないから壊させてしまったんです。わたしの家は上の方ですので一軒だけ残っていたわけです。

魂魄の塔

最初わたしは、部落を廻ったり土地を廻ったりしに来たわけですよ、名城に来てからですね。一日来たらCPが道の境界に監視しているので、そんなところから来たら摑まえられるから畑道からうちへ廻って行って見たら、その時までまだ遺骨収集はしてなかったんです、最初だから。魂の塔は真和志の人々が作ったんです。真和志の人々が収骨したのが一万何千人といっていたんです。あの魂魄塔ですね、あれ最初は上は開けてあったんです。頭だけ入れてあったんですが、開けて金歯なんか、またアメリカ兵が頭蓋骨など取って行くので三和村の役所の方で蓋を閉めましたがね。わたしたちが引越して行ってから。


註、わたくしは(筆者)昭和三十一年東京から三十六年振りに帰郷して魂魄の塔に参拝した。紫の屋根になった東面の中ほどに収骨口があって、中の遺骨が見えないくらい、まだ上部には余裕が大分あった。一年後の翌年また参拝したら、納骨口がって、も早や納骨する余裕がないようであった。その納骨口は、さらに一年後参拝した時にセメントで塗り込めてあった。

 

その残りをこの部落が遺骨を収集しました。人の屋敷にあるものなんかをですね、部落で収集したのも相当に出ました。最初に来た時には、全部ありました。もう白骨になっているのもあるし、そのまま軍の洋服をつけて、靴も穿いているのもありました。皮骨だけ残って、骨と皮ですね、肉は腐って骨と皮がくっついているのがありましたが、それはどういうわけかといいますと、出血の多いものは腐れないそうですよ。兵隊は四、五人も重なり合って、ミーラのようになって転んでいました。それは、ずいぶんありましたよ。米須のうしろの按司墓といってありますが、その墓には約一か年位臭いがありましたよ。あれは字民が魂魄塔に持って行ったんです。

 

最初にわたしが部落に来た時の部落の遺骨は、大変でした。わたしの家の中にも二人亡くなっていましたが、豚小屋にいた六、七人はガソリンで焼かれておりました。あれは、男と女とわかりましたがね。女の方は髪と櫛が残っていました。首里の方だったそうですが、終戦後遺骨を取りに見えました。家族がいっしょにいたそうです。うちはタンクがありますが、それに隠れていたそうです。タンクは今でも修繕もしないで使っていますからね、タンクの中にいれば助かったんだが、タンクは暑いといって出たのでやられてタンクにいた人は助かっていますよ。家の後に艦砲の直撃を受けておりますからね、その破片でやられただろうと思うんですよ。


拝み屋なんかもつれて七、八年前に、首里から見えていましたが、あの後からは見えません。どういう方で、なんという姓名ということもわかりません。

 

大田ハル(二十五歳)主婦

3人の子どもをかかえて

三月二十三日、空襲がはじまりましたから、個人で部落の裏の山の下に壕をつくってありましたから、向こうへ逃げました。八人家族です。男はみんな防衛隊に行って、女と年寄りと子供、自分は六つをかしらに数え四つになるのと、八か月の乳飲み児をかかえてですね、お母さん、主人の妹が二人、こうして七、八名逃げたわけです。

 

その日は向こうで一日過して、二日目から艦砲射撃ですね。前の海は真黒くなるまで、アメリカの船が浮かんでいるんです。そうしたらその翌日からこの米須部落は、どんどん火が燃えているんですね。自分たちの家も三日目からは焼き払われて、何もないんです。そうして四日目の時ですね、友軍の兵隊が、どうせ米須の浜から上陸するのだから一日や二日でも生き延びた方がいい、真壁.の村避難壕に避難しなさいといったというので、うちらはこんなに子供と年寄りを抱えて困りますから、もういいんです。いっしよにこっちの壕で死んだ方がいい、といったんですが、そうではないですよ、子供たちが可哀想じゃないか、悪いことは言わない、というので、そうでしようかね、といってゆっくり準備して行きました。真壁の部落の近くには壕が二つ三つもあるが、そうして上の方は大きな城で大勢の人が入るということであったが、そこもいっぱいになって入られないというので、自分たちは細い道から行ったから、狭い道の片一方に並んで坐った。


自分は、八か月の子を抱えて、両方の腋に子供を抱かえて、坐っていたんです。そうしたら上の方から若い夫婦が、自分たちより年は上だが、子供はできてなかったから、身軽で夫は小さい釜に御飯、妻は小さい鍋にお汁を沸かしてね、うちら親類ですからね、揆拶してもただ笑って通って行ったんですよ。

 

それを見てわたしは、もう苦しくなって、昔の人が生まない子にあわれを語る人はいない、というのはほんとだね、子供を抱えて身動きもできないでしよう。ほんとに苦しい思いをしましたよ。註、子供を持ったことのない人には子供を生んで育てている人の苦労はわからない、という意味であろう。(いや、子どもがいなければ子どもの哀れを語ることもない、子どもがいるゆえの哀しみを語っている。)

 

そこに十曰くらいいましたかね、そこでは暮し方(生活)ができないので、また元の壕へ戻って行ったんです。そうしたら、わたくしたちが蓄えてあった避難用の食物を、友軍が全部平らげてしまって何にもしていないのですよ。大豆を煎ってですね、砂糖を入れておむすびをつくって、甕の中に、またお米も入れて置いてあったら、全部平らげて、散らかし放だい散らかしてあるんですよ。漬物類も、大根漬、ニンニク漬、ラッキョー漬など、友軍の兵隊が全部平らげて、何にも残してはないのです。

 

でも仕方がないから、自分のでしよう、こっちで生活することになったから、夜、夕方大抵六時頃から食糧集めに出たら、そのころはキャベツや人参の時期なんですね。それを集めたり、お芋なんか掘って来た。食糧はあったんですけれども、八重瀬岳の米倉庫が焼けたという噂を聞いたから、笊にカマスを敷いて、番で担ぎに行ったんです。わたしと十六歳になる妹娘がおりましたので、向こうでみんないいところをわけ合って、それを嫌に持って来て、奇麗にして、それとお芋とを食べました。少し曇り天気だなという日は弾があんまり来ないで、いい生活だったんです。

 

水もどんどん流れるところがありますので、行水をして、洗濯もし、いい生活をした。朝は早い時はトンボも飛ばないから、朝も出るんですね。またトンボ小が来る頃からは、壕の中に入った。あのトンボ小が来ると、かならず弾がザァーと来るんですよね。だからあれをよく注意して見ないといけない。

日本軍の占領 - 壕の追い出し

自分たちは麦も植えてあったので、自分たちの麦苅りに行って、もう準備して担ごうとする時、低空して来て、ダ、ダ、ダーと土ほこりを立てるんですけれど、でも運がよければ当らないですね。こういうふうに生活していたんですけれど、何か月くらいいましたかね、友軍が南へ南へと下って来た。そうして壕を出るようにいうんです。
「こっちは友軍が占領するからあなたがたは出て行きなさい」「それでは、今からわれわれは出て行ったらどこへ行きますか」「民間は石垣の陰でも木の下でも結構だ、兵隊がいなかったら、国はどうして守って行けるか

「どうしても厭ならどうしますか」

「たたき切るまでだ」
そういっていました。

 

わたしたちのの隣りにおじいさんとおばあさん、孫一人いてうちの部落の人ですけれど、長男は防衛隊にいっている。このおじいさんおばあさんはどうしても出ない、入りたければ殺してから入りなさいといったそうです。そうしたらたたき切ってやろうかな、と長い剣を持っている兵隊が言っていたそうです。だからうちらも吃驚して出る準備をしました。その時からおばさんもいらっしゃらななって、自分たちばかりだったんです。おばあさんは壕のそばで艦砲に当った。その時は非常に激しかったですからね。

 

出て行く時、子供は畚に坐らしてですね、トランク一つありましたから、トランクの上に子供を坐らして、またちょっと食糧があったのですがね、麴に入れて。
「へえ、おばさん、今から、そんなもの担いてどこ行くんですか
「わかるもんですか」といったら「なにいい」といって手の掌を喰わそうとしたから、「何んですって、あなた方ばかりが兵隊ではなくってよ、うちらも、主人もお舅さんも防衛隊に行っているから女が子供を抱えて途方に暮れているんですよ」といったら、知らん振りで逃げて行くんですよ。

 

でも占領されているもんですから、仕方がないから、また部落へ上って行った。自分たちの屋敷には、豚小屋をコンクリートでやってありましたし、それからタンクは水を全部出して、そこに衣類と食糧類を入れてあったら、うちに戻って来て見たら、友軍の兵隊が大きく穴をあけて、それを敷いてこっちで生活していたようで着物を全部腐らして、つかえるものは何にもなかったんです。

 

そしてこっちでも、出たり入ったりしている間に、どんどん激しくなったので、ここでも生活出来なくなりました。それで裏の山のてっぺんの岩と岩の間に、戸を持って行ってですね、上に擬装しそこに生活していたんです。

 

ここも激しくなったので、さがさなくてはといって、そとへ出たんです。その山道を出る時に、同じ部落の人と出合ったもんですから少しの間立って話をしたらですね、自分たちが話して一足二足歩いたかなと思った時に大きな弾がずどんと落ちて、煙が立ちこめているから振り返って見たらあの人、立ち話した人は見えなくなっているんです。


そして壕をさがして、見当らなかったので、また引き返して来たんです。それでさっきの人はどうなったかなと思って見たんですけれど影も形も何にもなかったから、こっちで亡くなったのかどうかわからないんです。しかしこの人が、戦争で亡くなったことは確かです。道を歩く時も、こんなに危なかったんです。すぐだったんですけれど。こんなに激しくなったのは六月の十七日頃だったでしよう。主人も、激しくなって解散なったからといって戻って来たんですからね、わたしたちをさがして。
それから、どうせこっちではいられないからといって、伊原の今のひめゆりの塔の南がわのですね、あっちは、第二野戦病院だったとかいっていましたけれど、藪の中に入っていたんですよ。そこに子供たちもつれて行って一晩そこですごして、またもとの様に戻って行ったら、そこは大きな石が転がっていて、昨晩そこにいたら、自分たちは全滅していたんだなと思ったんです。

 

また、うち等の壕の下には、また朝鮮人の兵隊さんたちが六人くらい、それに中部あたりの娘が一人いましたがね、十九歳くらいの娘がいっしょにいましたよ。
その朝鮮人のひとりが、「おばさんも罪な人やなあ。そんな子供を沢山つくって、作る時には面白かったんやろうがなぁ」とわらいおったんですがな。「可哀想じゃないか、どうせ沖縄は玉砕なるんだから」なんとかいっておりましたけれどもね、その人たちはどうなったかしりません。

 

そこから引き上げて、野戦病院の壕に引っ越して行きました。そうしたら、六月の十九日から黄燐弾を毎朝二回も三回も入口から投げるんですよ。そうしたら窒息するみたいに呼吸もできないんですよ。四、五十人くらい住民はいたんですけれど、それでみんなはもっと下へもっと下へもぐり込んだんですね。

 

うちは乳呑み児を抱えているもんだから泣きもするし、みんなにすまないとも思うし、みんなから下りて来るなとも言われておるし、上の子供二人と、そうして一週間飲まず食わずで四名おりましたよ、うち等は。野戦病院は上の方ですけれど十畳ぐらいの広場でした。こっちに自分等が入って行った時は、看護婦たちは、喜屋武の方へ突破して行って、空っぽになっていました。

 

でも上で生活する人はいない、みんな下に下りてですね、恐いもんですから、毎日毎日黄燐弾を投げ入れるもんですから、みんな苦しいから下へ下りて行ったが、自分たち親子四人は上に坐って、仕方がないんですから、また子供が泣くもんですから、うちの子供が泣いたら下から怒鳴るんですから、子供が泣いたら住民だなあといって、いいはずなんだがなと思ったんですが、仕方ないでしよう。一番最初に黄燐弾を投げられた時には、水を汲んで桶につめてあるから、それに着物を突っ込んで濡らした着物をうちの家族にやってくれといってうちの主人が手渡ししたけれども、前の人が取ってしまってうちには届かないわけさね。そうして四つになる子も少し小さいから低いところに煙は来ないわけ、煙は上に上がるはず。自分たちは窒息しそうでも自分は片手は口と鼻、片手は乳呑み子、上の方はまた叔母さんが、こうしてみんな口をおさえておるけれどこの四つになる子は静かで何ともいわないので気になって、そうしてうちが少しイキができるようになってから正次と呼んだら、「はい、うん」というので元気だねと胸を撫で下してね、最初の日は。一日に三回も四回も投げ入れるので、何回くらい黄燐弾を投げ入れられたかわからない。

 

「デテコイ、デテコイ」というが、壕ではあんまりよく聞こえない。病人は自分たちの近くに寝ているから、病人たちが、「デテコイ、デテコイ」といっておるといっておったけれどもね、みんな恐がって出ないもの。みんな下へ下りて行って。

 

ちょうど一週間目の朝ですね、昼だったかな。上の方に、出口の方にですね、爆弾だったんでしようかなあ。土ほこりも立って、破片も飛ぶし、飯盒も小石もわたしのところに飛んで来て、わたしの乳呑み児はその時に亡くなったんです。破片に当ったんです。そうしたらみんなびっくりして、もう出よう、出ようといって、その日に出る覚悟をしたんですよ。そうしたらわたしはね、何で出るくらいなら一日や二日、もっと早く出なかったか、そうしたらうちの子は死ななくてよかった(涙声になる)わたしはそう思いました(泣く、涙を拭いてつづける)。

 

一番最初に出た人は、家族づれで突破するというていたんだが、四、五十人アメリカの兵隊が来るから、どうしても突破はできないといってまた壕の中に戻って来たんです。そうしたら壕の上に整列して出ていたんですけれど恐くなって、うちは子持ちだからといっ最初にまた下りて来たんです、壕の中に。

 

そうしたら、「デテコイネエチャン、ナンデモナイ、デテコイ、デテコイ」といって、アメリカの兵隊が子供たちを一人ずつまた上に上げたんで、自分たちは出て行ったんですがね。そうしたらまたうちのおじさんは教員なさっておりましたから、スクール・テーチャーといいましたから、日本語できる兵隊さんと話しをして、病人がここに四名寝ていますが出したらいかがですか、といったら、OKし、着物も食べ物もありますから取って来ましようねといったらOKして、向こうには二食しかないからといってOKしてもらい全部出して来ましたですね。

 

最初はですね、こちらから捕虜される時には一応みんな出て男の方は裸にしてですね、男はこっちに、女と子供はあっちに一列に整列させて、そしたら銃を構えておるんですよ。そうして、何のために出て来たか、男が撃たれてしまったら女はどうして生活できるかといっていたら、撃つのは止めて、女のところに来て、「オカネ出セ、アメリカノカネ上等、出セ」といったからみんな腹巻きの中に入れてあるのをみな出して、うちは奉公袋に入れてあったから、これを持っていたら兵隊さんだといって大変だから、壕の中に入れて置こうといって四千円もあの時のお金であったが、持って来てなかったんです。取ることはできなかったんです、恐くて。自分たちはトランク一個持っていますけれども、わたしのもの一枚、子供たちのもの一枚、こんなもので着のみ着のままです。布団がわを持とうとしたら、「コレ、汚イ、アメリカ上等アルコレ捨テナサイ」といって持たせませんでしたの。アメリカの兵隊でしたが、日本語ができました。

 

それから米須の前につれて行ってですね、あそこに幕舎がありましたから、アメリカの兵隊さんが罐詰やらお菓子やら持って来て食べさせた。またお年寄りと子供はトラックを持って来て先につれて行ってしまって、若い男の人は、病人を担つぎにまた壕の中に戻って来たんです。子供と年寄りと引き離すわけだなあといって心配しておったんですけれど、やっぱり伊良波でですね、先になって待っておったんです。

 

出た最初は、一列に整列させて鉄砲をつきつけていますので、殺す考えだなと、みんな慨え上っておりました。男を裸にしたのは、手榴弾でも持っておるのではないかと思ったんでしよう。

8月25日 - 子どもが死んで投降

壕を出ることになったのは、手榴弾を投げられて、わたしの子供が死んだので、壕の中で殺されるより、出て殺すなら殺された方がいいとみんなが相談して出たんです。その時がわたしには一番苦しかったんです。出るならもう一日か二日早く出れば子供を死なさなくてよかったんじゃないかと、わたしは反抗したんです。

 

壕に入っていた時十九日の朝でしたが、水を汲んで帰る時、兵隊が怪我をして血をだらだらしておりまして、水を下さい、といっていましたが、ひどい怪我をして出血している人には水を飲ましてはいけないと聞いていましたので飲ましませんでしたが、自分たちが捕虜になって行く時、その兵隊さんがその場所にそのまま死んでおるんです。それを見た時、わたしは死ぬならあの時水を飲みたいだけ飲まして置けばよかったと後悔しました。

 

その行く道すがら、伊原部落(旧摩文仁村)の木の下あたりは、枕を並べてね、家族づれでしょうかね、七、八人も安心して眠っているみたようでした。またイレー(現在字伊原の一部)の東がわの井戸のそばには、大きくふくれた兵隊さんが寝ているしね。そうし池のそばにも何十人という人が転がっているし、道は、みんな死人でした。米須部落も相当の人でしたよ。自分たちは、伊原の東の壕から出たんだから、部落は伊原からしか見ないんだけれどもね。もう伊原の部落から、あちらこちらから釜に米を入れたままひっくり返して、また着物もそばにあって、立派な着物を取ろうと思えばいくらでも死んでいる人のものを取ることができました。死んだ人のそんなものが散らかっていました。

 

そうしてこんなにして波平の後まで病人担いで、そこからトラックで伊良波へ。トラックの中で、全身焼どして、ちよっと動く度に痛い痛いして泣くのは見られませんでした。

野嵩収容所の軍作業 - 宜野湾の家屋の解体

普天間飛行場やキャンプ瑞慶覧など密集する米軍基地の中におかれた野嵩は、民間人を基地の軍作業に動員していた。

伊良波から野嵩へ行きましたが、野嵩には宜野湾のうちを壊わす作業の人しか置きませんので、うちは女ばかりですから、一月くらいは野窩にいましたが、古知屋開墾に移動させられました。

古知屋収容所の軍作業 - 「白か黒か」

古知屋収容所では、住居もなく、住民を移送した後から第27海軍建設大隊が指揮し住居の設置が始まる。茅集めや材木の切り出し、住居の建設が行われた。

あっちは食糧もないし、うちは自分たちで仮小屋をつくって、地面に茅を敷いて寝起きするのでしたが、トランクに羽織を入れて持っていましたので、これを布団の代りに被ったりして暮しておりました。

 

そのころ茅刈り作業がありましてね、ずっとずっと山奥へ行って茅刈り作業をしていましたら、名護のアメリカの兵隊が来ましてですね、うちと、七十近くになるおばさんと、少し知り合いであったもんですから、下におりて行って、茅の多いところで茅苅っておりました。そうしたら名護から来たアメリカ兵二人来てですね、うちのところでぐずぐずいっていたんです。だから言葉がわからないもんだから慄え上って、知らん顔をして芽を刈っておりました。そうしたら上に登って、二十二、三くらいの娘を二人ですね、引っ張って来るんですよ。そして二人大きな声を出して泣いてね、わあわあ泣かして、一人は、二人は死んでもいっしょだよ、といって泣くし、一人はどうせ仕方がないじゃないかと割り切っているしね。一人はわあわあ泣いて、「助けてえ」といって、死ぬならいしょだよと大きな声を出して、それを聞いてからは、自分たちは、高い山に木が沢山生えているけれども、こっちからどうして歩いて登ったかしらないよ。名護から来たアメリカ兵にですよ。

 

そうしてMPに云ったんですよ、白か黒かときくんですよ、MPは。白といったらなかなか行かないんです、一人では。そうしてMPも目をキョロキョロさせてさがして、そうですね、半時間くらい経ったんじゃないですかね、名護からの兵隊が五、六名になっているんですよ。やっと助け上げて来たんですが、もうあの時、わしらがもう少し若かったら、深い谷底であったから大変だったんです。

 

そんな恐しい生活をくり返しかえして苦労しました。二人の娘は恥かしめられはしなかったんです。一対一ですから、あの木につかまったりこの木につかまったりして引っ張り合っていました。掘立て小屋をつくって、苦しい生活でした。作業に出ても握り飯一箇ずつ貰うだけでした。

 

お母さん(姑)は、破片で頭ですからそんなに苦しくなく亡くなったと思います。うちの隣りの東がわの壕も直撃を受けてですね、自分たちの壕は少し下だったしね、あの時だったんだろうと思うんですが、お母さんがやられたのは。あの壕にいた人はみんなやられました。お母さんは、壕の口でわたしたちは、中にいましたから。

 

黄燐弾でやられてから、一週間くらいいた。わたしたちが出たのは、八月二十五日ですから、水を飲まさなかった兵隊は、水を飲ましてくれといっていた五日くらい後、捕虜になった時そこに死んでいたのを見たわけです。

 

山城のぶ (二十歳) 志村大隊本部炊事

最初は武部隊に、区長さんが連絡がありましたので、それは十月十日の空襲前だったんです。半月位は働いて、山部隊に引きつぎされたんですよ。それで山部隊に入って、あなたたちはずっと炊事して下さい、といわれましたから、女五名働いたわけですよ。昼は米を搗いたり夜は水汲んだり御飯を炊いたりして、昼は毎日米搗きばかり、長い間働いたんです。わたくしたちは山部隊の本部だったんですよ。

 

戦争が激しくなったら、各中隊から一線部隊が本部に入って来て、送り出すんですよ。こっちも山部隊の本部から一線部隊に出たわけです。兵隊さんも二、三名残って、山城(旧喜屋武村)の志村部隊の本部の壕で働いたんです。

 

後で移動して、米須のクシンカーの壕に来たわけですよ。あっちでずっと炊事しました。壕の中にかまどをつくったり、米を搗いたり、水を汲んだりして御飯炊きをやりましたが、アメリカの上陸するまでずっと御飯炊きをやっていたわけですよ。

 

その後で山部隊と石部隊が入れ代ったのでやはり引きつづいて、石部隊の炊事をやったんです。われわれ炊事をしているものは、ずっとの中にいて炊事をしていますので、そとの状況はよくわからないんですよ。水も壕とくっついたところにありましたので、水汲んでいる時でもそとの状況はわかりません。

6月19日の解散と馬乗り

六月十九日の晩に解散になりました、兵隊さんも。それで壕を出ようとしたら、馬乗りしているんでしよう、アメリカーが。それで兵隊さんは先に出て、わたしたちは後に出ようとしたら、出ようとする兵隊さんが、みんなやられるんですよ。それで大変だから、炊事壕にまた戻って行きました。

 

壕で二、三日暮していたら、アメリカーが入って来て、われわれの壕が弾でやられたんです。兵隊もいっしょに火は消しましたが、あの時は、女五名ここに生活しています。御飯もないし、水汲みも出来ないし、大変だったんですよ。そこで怪我しました。怪我しているので、この壕では治療もできないので、突破するつもりでそとに出たら歩けないんですよ、四名。五名の中から一人はそのまま死んだんです。壕の中にアメリカーに弾を入れられた時に、即死ではありませんで、物は言いましたが、わたしも足、こんなに怪我して破片がまだ入っているんですよ。

 

四名出たら、一人はまた手をやられたのです。それで米須学校の門のところに泊って、別の壕へ夜明け前に行こうとしたら、この人は出血が激しくて、もうわたくしはどうしても行けないから、水を


飲んで死ぬ、というので一人だけ残して別れたんですよ。この人はその日に捕虜取られて、宜野座の病院へ行って、そこで無くなっているんですよ(片方の手が切断される。徳元文子さんの記録にも出ている)。

 

三名は壕さがしにあちこち歩いているうちに一人は頭、一人は足の指を怪我しました。一人は足の指を無くして、ゆっくりゆっくりは歩けるが、二人は歩けないんですよ。壕をさがして歩くが、どこに壕があるか、わからないんです。それで、こっちで眠ったり、あっちでも眠った。して、もう髪も土といっしょになって滅茶苦茶なんですよ。一人は看護婦(徳元文子さんを指している)であったので、鋏を持っているから二人交代して髪も切って、丸坊主になったんですよ。

アマンソー壕で一か月

それから三名、大渡(旧摩文仁村)の後のアマンソー壕というところへ行ったんですよ。その壕には死んだ人がいっぱいしていたが、この壕に入ったんですよ、わたしたち三名。それでこっちで一人は破傷風になって死んだんですよ。そうしたら二人になりました。この二人は生きても死んでもいっしょだから、水もないし食べるものもないし、わたしが匐って畑に行って、芋も取って、甘蔗も取って、それを食べて約一か月位暮していたんですよ。煮たものはちっとも食べないで、水と生ま芋だけかじってですよ。

 

破傷風で一人は死んだから、この死んだ人のそばで、二人約一か月くらい暮していたんですよ。どうしてもこんなにしていてはいけないから、そとに出て、太陽も見てから二人はいっしょに死んでいいからといって、そとへ出たんですよ。そうしたら人も見えないし、飛行機も静かになって、何もいないんですよ。そうして二人は大渡部落へ行ったわけですよ。あっちへ行って太陽も見てから、坐っていたんですよ、二人。

 

そうしたらアメリカーがトラックを運転して私たちの前方を通るのです。手を上げたがアメリカーは乗せません。またもトラックが通るので四つの手を上げたが、またも乗せない。三回目に乗せるといって止めたんですね、上りなさいといって手真似でやるわけです。だけれども怪我をしているから上ることができませんよ。それでわたしがゆっくり汗もだらだらかきながら先きに上って、また一人は手をつかまえて上ったわけですよ。

 

具志頭を通って、それから百名に収容されたんですよ。あっちに行く途中、ガムをくれたんですが、毒が入っておるといって食べないといって手でやったら、自分から食べて見せましたよ。またわたしたちも貰ったが、包みのまま食べないで持って行きました。

 

百名へ行ったら、知った人もいない、親類もだれもいない、二人米須へ行って死んだ方がいいね、といって泣いておったんですよ。頭から背中、足へかけてやられてアマンソー壕にいましたが、百名へ行っても何も出来ないで、田圃へ水汲みに行くのにも二人喧嘩したりして、配給だけ食べて生きていました。

 

百名へ行って、軍病院で治療しました。アマンソーは大渡の後にありますが、大へん大きな壕ですよ。わたしたちが行った時は、死んだ人はいっぱいでしたが、生きた人は一人もいないんですよ。今五名の中から三名は生きています。

 

アマンソー壕に入ったらウジ虫がドンドン出るんですよ。この足のウジ虫を取ると、この足がウジ虫がむずむずするんですよ。わたしたち二人はウジ虫が出たが、死んだ人はウジ虫は出ませんでした。四、五日したらあれは破傷風になって死んだわけ。わたしたち二人は、ウジが出ているので、破傷風にはならなかったですよ。わたしたち二人は、罐詰の空罐に水を溜めて、それに塩を入れてかけたらウジは出るんですよ。ウジ虫はね、大へん大きかったんですよ。

 

わたしは、戦前にお父さんお母さんは本土へ行っていましたので、わたしたちは、おばあさんに育てられていたんですよ。兄さんと嫁さんと。それでうちは、おばあさんも、兄さんたちも全部亡くなったんですよ、戦争のために。それでわたし一人生き残っていました。お父さんとお母さんが本土から帰ってから家族がいっしょに暮らすことができました。

 

壕にいた時は、生芋と甘蔗と水を飲んでいましたが、わたし一人が、這って芋と甘蔗を取りに行くのです。一人は足の怪我がわたしよりひどくて歩くことができませんから、わたくし一人で行くんですよ。それが夜でしよう。二つの足怪我ですから、四つの足(手のこと)で歩くわけです。匐ってですね。兵隊が手榴弾も持たしてあったんですよ。非常に苦しい立場になったらこれでやりなさいといって。もう苦しいのでやろうとわたしがいう時は、あれが止める、あれがやろうという時は、わたしが止める。あとはこの榴弾は捨てました出る日に。一人は死んで一人は死にそこねてはいけないからというので、やりませんでした。三、四回死のうとしました。

 

註 この方たちが解散になったのは六月十九日で、その後もしばらくこの壕にとどまっていたというので、牛島、長の日本軍最高幹部はとっくに自刃して、軍隊も避難民も大体捕虜になっている頃である。大渡の後のアマンソー壕に三人が行ったのは七月になってからだろう。

 

アマンソーには、沢山の死人が入っていたという。その死人ばかりで、生きた人間が一人もいない大きい壕に、しかも真夜の中をやはりまっくらな壕に、女三人だけが入っている。その上、一人は破傷風で死んで、死体のそばに二人の女が一月以上もそこにいた。死人を乗り越えて夜になって四つん匐で芋や甘蔗をとりに行く。生きた人は捕虜になって人間が一人もいなくなった世界で、夜の暗の中を創って芋を掘っている気持ち、死人ばかりの真暗な壕に女一人だけ、食糧あさりに行った一人の仲間を待っている時の気持ち、この二人の一か月の生活を想像すると鬼気が迫るといった感じである。

 

戦争、砲弾、爆弾より恐いものはないのであろう。死人の骨幽霊などといったものも、砲弾の力には消滅するらしい。

 

大屋清昌 (三十五歳) 防衛隊

生存者2人の防衛隊 - 弾丸運びと斬り込みで

若い男は大抵徴用に取られていたが、十九年(昭和)の四月二十日頃からは、地元に残っている女といわず、男といわず、兵隊の壕建設や、歩兵陣地、高射砲陣地などの建設、それに戦車断崖などの作業が毎日つづけられた。兵隊の陣地や壕掘りは、男は鶴で土を掘ったり、女たちは土を運んだり、戦車断崖の建造にも石を運んだり積んだり、ずっと年末までつづけ、年が明けると、軍の作業はいろいろと、ますます激しくなる一方であった。

わたくしは二十年の二月に召集されまして富盛の八重瀬の方へ行きました。そこでは、竹槍訓練などをしました。

 

そうして5月16日か、首里新川の一戦場に移動しました。移動は一度にやるのではなくて、分隊によって、三回にも四回にもやったわけでありますが、自分等は五月十六日だったんですよ。爆弾を背負って一夜の中に行きましたが、その途中で、難民の三十四、五くらいに見える女、母親が子供四、五名を抱いて、このまま道のそばに死んでいるのを見た時は、戦争が何ともいえない恐ろしいものだと思いました。馬も死んでいたが、生きている馬の二倍三倍になって見えるんです。

 

そうして歩いている時に照明弾が上るでしょう。そういう時には、死んでいる人の上にも、死んでいる馬の横にも伏せをやるのです。そして夜中歩いて、新川というところへ行きつきました。

 

行く途中、避難民の死んだのは、ところどころで見ましたよ。それで爆弾を背負って、竹槍を持って行ったんですが、新川へ行って、三十名余りのものの竹槍を壕の前に立ててあったんですよ。そうしたら敵の砲弾で一晩でそれはやられてしまったんだ、人間は何ともありません。

 

自分たちは、弁ヶ岳と、運玉森へ担架輸送していましたが、自分の戦友が、その途中で砲弾の破片で腕を切られて、後方へ下りましたが、われわれは五月の二十九か三十日頃まで新川にいました。その中に無線も全然きかなくなって、あなたがた、お互、壕に下ろうじゃないかというときに部隊命令もあったんですね。お互に壕に下ったわけですよ。無線はこれで連絡をとるのですが、上がらず、次第に切れて来て、全然きかなくなるので、行動もできないわけですよ。

 

新川での食物は米は相当ありますが、炊いて食べることはできません。カンパンといって、菓子みたいなものですが、これを一袋二曰くらいですね、水は泥水なんか飲んで後方に下りましたが、新川では、後から来る車で水を持って来ました。

 

それから真栄里の前の壕に集結しまして、あの時に、病人がおるから、伝令三名はあなた方に命じるから八重瀬へ行って来いということで、三名、八重瀬へ自分の戦友を連れに行きました。行く時は、朝の飛行機がしきりに飛んでいる時で、盛んに弾も撃ちましたが、その弾の激しく落ちる中を通って、八重瀬へ行きましたら七、八名そこにいて、晩の八時半頃いっしょに真栄里へ行きまして、点呼もすましました。

 

その翌日、伊敷部落で点呼を取ってから、一線に各おの配置されてですね。真栄平の八重瀬の下で、一線切り込みですから、十名くらいずつ弾薬持って、手榴弾持って、配置されて、二、三日向こうで滞在した。そうすると、敵は赤・青・白で煙幕をはるんですよ。これは真壁の部落だろうと思ったんですがね、後から見たら。そうしたら弾も一つも来ないですよ。味方がいるので、弾を落してはいけないということではなかったかと思います。

 

それでわれわれは、連絡も全然できないでもう今度は解散した方がいいと思っていると、敵に見つかって、八名から生き残ったのは二名ですよ。六名はやられてしまったんです。

 

自分は、自分の家内をさがして、米須の学校の東がわの自然へ行きまして、家内や子供にあいました。それでこの壕に二、三日滞在しましたが、そこを出ることになって、女の子を二人、六つになる子は背中に、四つなる子は前にかかえて、家内はまた、小さい子んぶして、海岸へ抜けたわけですよ。

投降 - 野嵩収容所へ

それから手榴弾を持って、自分の親類七、八名といっしょに、自爆やろうかという子供もおったが、自爆はしない方がいい、という意見が多かったですね、敵に捕えられても死ぬ、自爆しても死ぬ。それでわたしは自爆して死んだ方がよくはないかと思ったんですよ。

 

家内や、家内の女親たちは、捕えられて死ぬならよかろう、自分では死なない方がいいといって、女は手をあげて出た。でるときの気持ちは、目の前でトラクターで敷き殺されるという気持で出ました。自分等といっしょになっている兵隊もいましたが、これは引きわかして、あなた方は、僕らといっしょに来なさいといって、真壁の前のコメスキというところがあるでしょう、向こうに集まった。

 

あの時は僕は防衛隊の下着を着ていたでしょう、それで、あなたは防衛隊だ、というので、いいえ、僕は防衛隊ではありませんといったら、下着をさして、これは••••••といいましたので、これは大変だといってです、この池に捨てていいかと訊いたら、それでいいといったので、この池に全部捨てたわけですよ。都合のいいことに親類のおばさんが、自分の子供の褌を持っていたので、これと防衛隊のものと取り替えて、それで防衛隊の方には行かないで、こっちから糸満まで歩いて行って、糸満からは、車で伊良波まで行って、伊良波で一晩泊って野へ行きました。

 

野嵩で戦争は終ったわけですがね。あの時、自分たちの部落のことを想ったんです。誰だれは元気で生きることができたかね、とひとりひとり思い出した時は、何とも言ようのない気持でした。

 

その後、百余名の班長になってですね、軍作業の班長で、みんなを連れて作業をするわけですが、着る物が、何にもないから、アメリカさんが捨ててある洋服でもあれば、洗濯すればいいのだから、そういうのを拾って着るという情けない有様もありました。

名城収容所

野嵩に収容されていてから、また名城(旧真壁村)に収容されましたが、わたくしは名城に収容された翌る日に自分の部落へ行って見たんですよ。「これは自分の部落ではない、木も草もない、」自分の屋敷も分からなかったんですよ。その場合の気持はほんとに、何んとも言ようのない気持でした。戦争というものは、恐ろしいもんだ、と何となくたまらない気持ちになったんですよ。

 

六人の戦友が死んだのは、アメリカ軍が真壁あたり、真栄平もですかね、あの青・黄・白の煙幕を張ってあった前の日でした。軍曹が天皇陛下からの恩賜の煙草を三本ずつ配ったので、それをみんなが吸ったんですね。そうしたら、煙が出るでしょう。やられたんですよ。一発来たから、またも三発は来るんだからと思って逃げたんですよ。やられた子供(青年)は、彼等は全部やられてしまったんです、物も言わないで。二人はまあ、水を飲ましてくれんかというので、後方へ下る時は、野戦病院へつれて行くから心配するな、と

 

いったら、水だけは飲ましてくれというので、水を飲めといって水飲まして、逃げて来たわけですがね。この二人には、あなた方を捨てて行くわけではないからといったが、単なる気やすめの言葉で、あの時はそれより仕方なかったんです。
一人の戦友が、もう死ぬより生きた方がいいのではないか、家内たちも見た方がいいじゃないか、自由解散しようといってやったわけですが、その時は日本軍はそういうふうになっていたんです。解散した時にはもう八名から二名だけ生きていたんです。

 

山城よし (三十歳)

ひめゆりの塔の南側の壕

わたしたち家族は、ひめゆりの塔の南がわに自然壕がありしてそこを掃除してありましたので、空襲が来たから、早く壕の中へ行きましょうといって、荷物なんかまとめて行ったんです。

 

いつもは、空襲警報が鳴ると壕へ行って、解除になると出て家に帰っていたわけですけれど、一晩壕の中に入っていても解除のサイレンが鳴らないから、これはどうしたのかねと思ってみんな壕の中で、心配していると、二日目からは艦砲射撃が始まったわけですよね。それでその日も出られない、その翌日も出られない。そこでこうしてはいけないから、食べるだけはどうしてもうちから持って来なければいけないということで、夜はあまり艦砲射撃もありませんでしたから、夜になってから、うちから荷物や食糧なんか集めて、の中に持って行ったんです。三日目にはもう米須というのは全部焼け野原になってですね、うちの木も全部燃えているんですよ。


その時、役所の方から壕の中へも、敵の上陸は前の海岸から来るから、山原の方へ逃げなさいというふうな伝令が来たもんですから、これはもう大変なことになったと思った。うちのおじいさんの弟おじいさんの家には、馬車が有りました。そのおじいさんの馬車に荷物を積んで、子供たちの手を取って、この大通りの方を通っていると、どこもかも焼け野原になって、大変大きな木が燃えているんですから、その火の中を、あつい、あついといいながら、うちのおじいさんの弟の家族や、親戚の人たちといっしょに、山原まではできなくても、どこか行けるところまでは行きましょうといって行きました。けれども東風平村ですかね、金良・長堂(豊見城村)といいますか、向こうまで行きましたら、向こうからもまた艦砲射撃が来ましたもんですから、これでは前にも進めないし、どうしようといって途方に暮れていましたけども、もう引っ返すほかはない、これでは、どこへ行っても同じだ、前の方はもっと危いから後戻りしようということになりまして、今度は八重瀬岳の方へ行ったんです。

八重瀬岳の高良で

そこにはうちの主人が防衛隊の小隊長になっていました。うちの主人は元兵隊で、昭和十四年に応召されまして、支那事変から大東亜戦争まで、働いて来ていましたから、戦争のことは黍しくわかっておりまして、防衛隊の小隊長をしていますので、隊長にお願いしまして、いい壕を見つけて、そこに親戚みんながいたわけなんです
そこにいるまでは、食糧も夜は米須へ行って取って八重瀬の方へ持って行って、昼はまあ、壕の中にいて、毎晩のように夜は出て行って食糧集めたんですね。

 

ある時、昼だったんですが、その日は雨が降りましてあまり飛行機が飛びませんでしたが、八重瀬岳の隣りに高良というところがありましてね、小さい部落があるんですよ。そこのうちへ行って御飯を炊いていますと、大尉以上の方だったでしょうねこの兵隊さん、大きな日本刀持って、皮の長雨靴を穿いて、そこに二人休んでおられましたよ。その方たちが、「おばさん、なぜ疎開しませんでしたか」といわれましたので、「疎開手続もしまして、那覇まで行ったんですけれど、最後の疎開でありましたので、潜水艦というものが船を撃沈させるのでできないと聞きましたもんですから、那覇から引っ返したんですよ」といったら、「なぜ山原にでも行きませんでしたか」とまたおっしゃるので「同じ沖縄ならどこでも同じではありませんか、山原へ行っても沖縄は小さいし、どこでも戦争は激しいと思いましたので行きませんでしたよ」といいましたら、「いいえ、山原の方は山が多くて戦争はできないから、山原の方へ行けばよかったんですよ。もうあしたからは、この八重瀬は、火の海となってから出ることもできないが、食糧はどのくらい集めているか」と問われたんです。「はい、わたしたちは三か月くらいの食糧は集めてあります」といったら、「これは偉い、兵隊も一か月の食糧がないのに、あなた方は三か月の食糧を集めてあるなら、うんと頑張りなさい」といわれたんです。

日本兵に壕を追いだされ、食糧も奪われる

そのお話のようにその翌日から激しくなりまして、そとにも出られなくなったんです。そうしてその時は、運玉森というところで、とても激しい戦争だと聞いていたもんですから、運玉森が落ちたから、今度は八重瀬岳に来るという話が出ましてうちの主人も、もうこれ以上こっちにいることはできないから、自分の部落の壕に入りなさい、といいました。それでその晩にまた親戚みんな荷物をまとめて、米須に帰り、ひめゆりの塔の南がわの壕に入っていたんですよ。

 

そこで十日間くらい生活して、夜はやっぱり出て行って、食糧集めなんかして一日の御飯つくったりおかず作ったりして、やっておりました。

 

それから戦さは激しくなりまして、もう日本の兵隊さんは、武器も持たないでドンドン、ドンドン南の方へ下るんですよね。それで、うちの壕にも入り込んで来ました。その兵隊さんたちは武器を持っていませんし、中には▢の兵隊さんもいれば、食べ物もぜんぜん持っておりません。その兵隊さんが、「兵隊というものは最後まで残って戦わなければいけない、壕から出て行け、出て行って住民なんか艦砲に当れ」というんですよね。


それを聞いた時はわたしは憤慨してですね、今まで兵隊さんたちも苦しいたたかいをしているのを見て、御飯炊く時でも、おばさん砂糖ありませんかという時などは、砂糖をわけ与えて、御飯もいっしょに食べましょうねといって、わけて食べていました、といって、今は苦しいけれども最後は勝ちますよね、といって慰め合ってやって来ましたのに、最後になったら、住民というものは兵隊さんに、こんなにされるもんかね、と思いながら着のみ着のままでわたしたち出されたんですよ、この壕から。

 

その時、鰹節とお米を少し持って出ようとしたら、これも、君たちが食べるもんではない、兵隊が食べるものだ、君たちはそのまま出て行け、といわれたので「はい」といって出たんですけれど、それでまた小さい壕でもさがして入らないといけないといって、米須の部落の前の小山の中に小さい壕を見出して、そこに隠れていたんです。


それで食糧がないもんですから、昼も構わず、芋掘りに出て行ったんですよ。うちの姉さんと、もう一人の叔母さんと、芋と笊を持って芋掘りに行くところをですね。昼ですから艦砲が目の前に来て、わたしたちは頭から土を被されてしまったんですよ。それで棒も笊もそこに置いて大変だといって逃げようとしたらその通りでまた兵隊さんが、「君たちは伏せないか、もっと来るぞ、伏せよ、伏せよ」といわれましたが、もう恐くて、一生懸命走って壕の中へ入ってしまったんですが、その時わたしは耳もやられてしまった、と思いました。耳が四、五日の間、ぜんぜん聞こえませんでしたので、もう聾(ママ)になってしまったのかね、と思ったんですけれど、だんだん聞こえるようになって、今は普通どおりになっております。

投降、糸満へ集められ、船で那覇軍港へ

それから四、五日、その壕におりましたら、艦砲も来ないし、何も来なくなって、静かになったんですね。それで本土から兵隊さんが来て、戦さは勝つんだね、とみんな喜んでいたんですよ。そうし上から出て、子供たちもつれて涼んでいたんです。そうした畑の間の細い道からも自動車なんかも走っていれば、兵隊さんも歩くんですね。それで、これは日本の兵隊さんだといって喜んでいたんですよ。そうして日本の兵隊さんがこんなにゆっくり歩いているんだから戦争は勝っているんだね、とわたしたちは、喜んでおったのです。

 

そうしたら翌日ですよ、わたしたちがまだ起きない前ですから六時頃ですがね、そこのところに手榴弾をドンとやったんですよね。それで、みんな、ハッと目をさましたんですが、その時に犠牲者も出ましたよ、この壕の中から。うちのおじいさんは、こっちをやられ血もだらだらしていましたが、「出て来い、出て来い」といっ「出てこい」といって、すでにアメリカーが来ているんですよね、そこに。「出て来い、出て来い」といいましたもんですから、うちのおじいさんに、出て行って見なさいといったら、おじいさんが先に手を上げて出て行ったら、もう壕の中には入らさないんですよね。そして、うちの家族みんな出て来いよ、出て来ないとまたも手榴弾入れるんだってよ、とおじいさんも喚いているんですね、そとに出て。

 

それじゃ、みんな出ましょう、これは敗けたのかね、と思ってね、みんな捕虜されるのかね、とみんな慄えてわあわあと泣いてですね、それで壕から出たんですけれども何も持たさないんですね。「ハダカデ出ナサイ、アメリカハ食べモノアル、着物アル、心配ラナイ、出テュイ」そういうんですよね。

 

それで子供たちを抱いて、そのまま出て行ったんですよ。そうしてちょっと歩いて行ったら、そこで罐詰なんか、いろんな食べ物を、男には煙草をくれるし、女子供には、罐詰やお菓子なんかいろんなものをくれようとするんです。そうしたら、これ毒が入っているから、食べないでおきなさい、あなたたち死ぬよ、死ぬよ、といって、食べさせないようにしたんですよね。そうしたらアメリカーはそれを開けて、自分が食べて見せたんです。そうしたら子供たちは安心して、喜んで食べていました。


それからまた、「マカベからイトマン行キナサイ、着物アル、食べ物アル」と言われました。その通り、真壁から糸満の方へ行ったんですが、真壁の前の池なんかには、二つ三つくらいの可愛い子が死んで浮かんでいるのもいるし、また大人が、俯せに背中を出して死んでいるのもいるし、道を行きながら、死人がですね、まあ死人の山ですよね、そこのところを通って、こんなにも死んでしまったのかねと思ってね、見て泣きながら通って行ったんです。

 

その道のそばで、親もいない、捨て児にされたもんですかね、二つ三つくらいになる子が泣いているのを見たですね。これもアメリカ兵が抱いて、ひとりで歩いている元気な人に抱かせて、足の立たないおばあさんやおじいさんが道のそばに坐っていると、若い人をつれて来てまた負んぶさせて、こんなにして糸満へ行ったんです
そうして糸満へ行って、女と子供と年寄りはいっしょにさせて、若い人たちは別にしていたんですよ。それでわたしたちは、上陸用舟艇といいますかね、海の中から陸に上って来るのがありますが、それに五十人くらいずつ乗せられて海に出るんですよ。
その場合の自分たちの話ですよね、こっちで殺すのは何だから、海の中につれて行って、みんな流してしもうんだ、溺れさせて、アメリカーが見物にするんだ、という噂が出たんですよね。それで、みんなわあわあ泣いたですね。こんなに流されるよりは自分等の部落ので死んだ方がよかったのに、といってみんな泣いているんですよ。

 

その時うちの次男は六つでしたからね、わたしは泣きませんでしたが、その子は、わたしのそばでわあわあ泣くんですよ。わたしは、「お前、何で男の子がこんなに泣くか、歯が痛いのか」といったら、「歯は痛くない」、「それでは、なぜ泣くのか」といったら、「みんな海に溺れさせるというから、お母さん、僕は泳げないよ、僕は死ぬんだね」というから、「いや、死なないよ、お母さんは泳ぎは上手だから、お母さんがお前もこうして抱いて、三つなる女の子も二人を抱いても、お母さんは足を動かして陸に上るよ、心配しないで泣かないで」とわたしはそんなに言ったんですよね。そんなに話したが、沖の方へ行ったら、大きな軍艦にそのまま入って行くんですよね。


そうしたら、どこへこれはつれて行くのかね、これは。このままアメリカに連れて行って、沖縄人はこんなものだといってあっちで見せ物にしてあっちで焼いてしもうんだという話もまた、出たんですよね。それで、もう死ぬんだねと思って諦めていたんですが、けれど、大きい船の中に乗せられて、どこを通って行ったかわかりませんが、また船の後の方が開いて、今度はまた陸に上って行ったんですよ。

 

それで、死なないで生きることができるんだねと喜びました。そこは楚辺の浜といいましたかね、向こうに集まったら、大勢の捕虜民がここにいるんですよ。そこでアメリカ兵に並べられて、トラックに乗せられた。その時また罐詰を二箱この人数で貰って、中城の安谷屋というところへ行ったんですよ。

安谷屋民間人収容所

安谷屋の部落は焼けないで、家が残っていたんですよ。それで人の家に、あなたたちはこっち、あなたたちはこっちというふうにわけられて、それから配給も貰ったんですけれど、おもにそれは罐詰類ですね。米なんかはないですから、でも命が助かっただけはよかったと思いまして、その時からそとに出て、拾った鍋なんかでいろんなものを炊いて食べて、安全だったんですねえ。弾も来ないし安心してもよかったんです。


それからほかに移されて捕虜生活をやっていましたが、そこへ行ってからは死人がですね、今日はどれだけ、今日もどれだけといって、若い男の人たちはこの死んだ人たちを埋める穴掘りですね。そこで一日何十人という死ぬだけの人を埋めて土を被せて、またわたくしたちは農作業やらされたんです。この死んだ人は栄養失調と怪我人だったと思いますが、毎日毎日亡くなる人は何十人というので、穴を掘るのが間に合ないくらいだったような話でありました。

漢那民間人収容所の中川へ移動

そこに十日くらいいましたが、また移動して金武村の中川というところに行きました。そこへ行ったら、配給もないし、食べ物は向こうのようにない。そこでは、栄養失調がまただんだん増えたわけですよ。配給ではどうしても足りないので、山羊が食べる草は、どんなでもわたしたちは食べました。また海へ行って、ホンダワラを取って来て、これを罐詰といっしょに煮て食べたりしました。うちは仮小屋で地べたに茅を刈りて来ていて、まるで動物の生活ですね。そういう生活を半年くらいしまして、名城へ移動しました。金武の中川は、人家がちょっとしかありませんから、山の中の道のそばに仮小屋をつくって、床がないですから、茅を敷いて寝起きしました。

 

冬になっても被り物は、毛布なんかありません。アメリカ兵は着物がある、食べ物があるといったが、そんな配給はなくて着のみ着のままですからね。それで自分たちで作業しながら、南京米袋などを拾って来て、それを縫い合して被っておったんですよ。

名城収容所に帰る

名城はコンセットでしたから、板切れを敷いて、被るのはやはり南京米袋を敷いたり被ったり山原よりはよかったんです。山原では味噌も塩もないので、海も違いが海の潮を汲んで来て、それで味をつけて食べましたよ。桑の葉なんかはうまかったんですね。

 

久保田次郎 (三十歳)

摩文仁国民学校訓導として

国民学校(小学校)三年以上の児童はほとんど毎日軍へ協力の作業に出た。授業と作業と巧くあんばいを取らねばならなかった。最初は道路の補修だったが、後になると、戦車断崖の不運び、石集めで、戦車断崖は、戦車が走れないように石垣を積んで妨害する作業である。だんだん児童たちの授業らしい授業は軍作業のためにできなくなった。


疎開は十九年にやったが、大部分は学童は残っていたので、砲陣地の建設などの作業にも出された。増産は人手がないで、畑の空いているところは耕して、食糧を作った。


十・十空襲の後、山部隊になってから、裏の山にいて、陣地構築をしていたが、そこにいる将校を使って、防衛隊の訓練に当らしていた。自分たちは、青年学校の訓練に当っていたが、山部隊の大尉が援助訓練をしてくれた。大隊本部は旧高嶺村になるが、大城丘というところにあった。将校といっしょにそこへ行ったことがあったが、自分たちには、大隊長は、慇懃に対したが、将校たちは滅茶苦茶に叱られていた。

 

昭和二十年の三月六日に、自分たちは、白紙召集された。摩文仁村の助役も在郷軍人だったので、いっしょに召集されたが、軍籍の階級が自分が上だったので、約九十名くらいの者を引きつれて、東風平村の富盛の東、八重瀬岳の一段上った松林に行った。作業は戦車断崖の構築で、訓練は竹槍訓練で、防衛隊は仕事に行く時でも、竹槍は全員必ず持つように命じられた。

 

三月二十三日に空襲がはじまった。恐い物見たさに、丘に上って、見ましたが、まだ艦砲は撃たなかった。港川沖に軍艦はいたが、富盛へ行った時に艦砲が撃たれた。しかし恐い実感はそうなかった。

 

四月一日に、アメリカが上陸したことはわからなった。僕たちは、八重瀬の稜線に墓が沢山あるが、その墓を幾つかを改造してその中に、弾薬、砲弾、爆薬を沢山蔵してあったが、防衛隊はそれをトラックに積んで、南風原の新川に行った。新川に持って行った弾薬は、そのままにして置いては危いから、畑の中の穴に埋めて置いた。墓の中にある物を出してそこにも入れた。僕が今考えるのに、敵は港川から来ると思って、南がわの新川に置いたと思われる。

 

それはちょっと前のことだが、僕が八重瀬にいるので、僕の妻子、家族がそこへさがして来た。それで隊長に願って、林の中の壕を与えて貰った。そこは油脂類を入れる倉庫のつもりだったらしいが、空いていた。それから艦砲が来るようになったので、墓を一つ与えて貰った。大きな厨子甕なんかも並んでいたが、奥の方は空いているから、墓も恐いと思わなかった。死んだ人と仲よくいるという気持だった。

 

新川に最初に弾薬輸送した帰り、七、八台のトラックが、五十メートルくらい間隔をおいて、走っていたが、将校が助手台に乗っていた。運転の兵隊が横腹をやられて、内臓が出ていた。死が迫った時、最後の言葉は、「お母さん」といった。新川への弾薬運びは一度だけで、防衛隊だけ豊見城村の長堂に移動したが、運玉からの負傷者を新川の近くの野戦病院へ運んだ。それは四、五日つづいた。

 

また第一線に行って、病院に勤めた。弁ヶ岳へ食糧も運んだが、新川の後、大名、宮城の線は、迫撃砲が雨のように撃ち込まれて、魔の十字路と兵隊たちが言っている十字路があった。運玉からは、毎晩十数名の後送者があった。

 

そこ一帯では、弾に当る人が引っきりなしに出た。いっしょに行動していた喜屋武の人が片足を股から切られた。波平の山城氏は、即死した。後頭部は全部取られて、顔の皮が残っていた。骨も顔だけはあった。

 

やはり新川の病院で別の日のことでしたが、病院の近くで、隊から来た上等兵が背中をやられて、そこで即死ではなかった。日本軍は後退で南に下って、僕等も伊敷に来たが、仕事らしい仕事は伊敷ではしなかった。道路の調査は命じられたが、軍では、移動するので、地方人が壕にいるものは出せと命令された。これは真壁の東のアンガー壕というところだった。そこには、真壁で指導した隊長が、両膝やられて、お互に頑張ろうなあ、といっていた。

伊良波から楚辺捕虜収容所、屋嘉収容所からハワイへ

僕が捕虜になったのは、六月二十二日であったが、捕って行く時、真裸の女が、大きくなって、倒れていた。やられて三、四日はたっていただろうな。それから伊敷の壕の近くもひどかった。それは、他に見た人も話していたが、伊敷の前の畑は、畑全体が死人、手と足をみんな出していたといっていた。土が浅いためか、あるいは土を浅くかけたためかであろう。胴体だけ埋めて。


一般の避難民、中頭や首里などから来た人たちは壕がないので、学校の裏に割り取りがあるが、そこが唯一の避難所だった。橋の下などにもいたが、米須へ家族をさがしに来た時は、学校の道に艦砲に当った人などが頭が切れているのもいた。どこを歩いても死臭がひどかった。動物の死んだのもいただろうが、ほとんど人間の死んだ臭いだ。

 

伊良波で家族と引き離されて、豊見城の田頭に一晩泊められて、それから読谷飛行場につれられ、そのつぎが屋嘉へ、屋嘉からハワイへ連れられて行った。

 

久保田清 (二十九歳) 防衛隊

1945年2月に防衛召集 - 名城の特攻艇基地に

防衛召集を受けまして、何日の何時に糸満小学校へ集合ということで、時間通りに行きました。昭和二十年の二月で日はよく憶えていませんが、集まった防衛隊は何百人、あるいは千という数の大勢の人間でしたが、これは島尻出身者だけであったと思います。あまり人数が多いので、最初は一応帰すのではないかと思いましたが、そのまま、糸満小学校に一泊して、名城 (旧真壁村) の船舶特攻隊に配置されました。

 

自分たちの仕事は、特攻隊の乗る特攻船といいますかね、それを夜間に、担いで海へ運んだり、またそれを壊に戻したり、特攻隊が出る前の準備中、海の中に入ってつかまえていたりするのです。特攻船は大勢の人で担いで出します。一人乗りですが機械が据えつけられておるし、爆弾も積んでいますので、重いんです。

 

夜中この特攻船を出して海の中でつかまえていますが、そのうちに夜が明けますから、またもとのところへ運んで擬装します。特攻船は、名城の海岸は砂浜でありますから、海とそう遠いところに置くのではなくて、砂を掘って入れて、木の葉などで擬装して置くのです。

 

自分たちが行って四日目ぐらいから、ほんとに出撃するといって四、五隻浮べましたが、真中くらい(海上途中)から帰って来るんです。機械が故障したとか、波が荒かったとか何とか言って戻って来ました。全部戻って来て、また明日ということになりますが、明日が来ると、自分たちは船を担いで出して、海の中でつかまえていますが、また途中から戻って来て、自分たちはそれを担いでに入れて擬装します。

 

その頃、アメリカの軍艦は、慶良間沖には来ているという話でありましたが、自分たちのいた名城の船舶特攻隊では、一隻も敵艦へ当ったもの、つまり一つも成功しなかったと思います。その中に、空襲されて、船は全部焼かれてしまいました。

 

わたしたちがこの特攻隊を見ていますと、どうも出ないようにしていた感じがありました。それで船が焼かれたのでわたしたちは仕事がありませんから、わたしたちは南風原(村)の方へ行きました。宮城(同字)の西がわの丘だったんですが、そこへ行ったら、わたしたちは炊事当番です。その丘の下はほとんど墓なんですね。戦死者を埋めた墓のそばには爆弾の穴があって、そこには水がいっぱい溜っているんです。この水を利用しましたが、この水の中にも死んだ人が何人腐っているかわかりませんが、表面は油が浮いていました。この水で御飯も炊いたのです。


炊事はしばらくしかやりませんでした。そうして今度は、食物を取りに行くようになりました。それで三名行ったわけですね、長時間が経っても来ないもんだから、つぎに自分たちが行ったわけです。行ったら、首と頭は別べつですね、頭は鉄兜に入っている。糸満の人ですけれども、いまだにその時のことがはっきり思い出されます。三名全部やられていました。

 

自分たちは、使役といいますかね、何かをさせられるんです。運玉へ弾薬運びもしました。わしたちが行った時からは非常に激しくなってですよね、弾薬運びも一回しか行きませんで、高良(東風平村)の方へ移転命令が下ったんです。

 

高良へ行ってからは、糧秣輸送だったんです。高良には、糧秣が沢山積まれてあったんですからそれを配布する仕事です。その途中わたしは怪我したんですけれど、怪我したので、そこにわたしは何時間いたかわからないが、医者の治療もないし、二日位は全然動けませんでした。腰ですが盲貫だったんですね。四、五年前にこちらから出したんです。壕に十日くらいいたでしょうね。

 

高良の壕が明日は馬乗りされるというので、負傷者は、歩ける人は勝手に出て行って、動けない人は、そのままいなさい、という命令が下ったわけです。それでわたしは、家族と長らく別れていますので、その時からは歩けるようになっていたので、家族の壕へ行きました。米須に戻ったわけです。

 

壕は学校のすぐそばで、いつも家族は、そこにいた。ここはあの時は安全地帯ですからね。みんな大元気だと思って来たんですけれど、わたしが来た時に、母がやられているし、家内が、三日前とか、家内が死んだのは、話を聞いたら、ある部隊が、その壕を利用するように来ましたので、地方民は兵隊が入ってから入るんだということで、そとで待機している間に、足をやられて死んだということでありました。

 

わたしは壕の奥へ行きましたら父が、子供等三名、孫に当るものたちを前にしているんですね、そうしたら父が、おまえはもう行かないでもいいな、というので、もうわたしは怪我をしているから行かないでもいいです、といったら喜んでですね、お母さんも亡くなっているし、おまえの妻も亡くなっている、行かなくてもよかったら幸いだ、といったんです。さらに父が言った言葉に、「この鰹節は持っているんだけれどもね、水と取りかえてくれないかと壕の中にいる人みんなに廻って言ったけれど、全然替えてくれな君は行かないでいいならよかったね」と水は全然飲んでいないで非常に欲しいようであったので、暗川(クラ川)というところに水を汲みに行ったんだけれども、行く途中の死体は、もう死体の上から歩くくらいであったんです。米須の後に橋がありますが橋の下にいた人たちは直撃受けてですね、手、頭、足なんか散らばっておるんですよ。

 

そういうところを歩いて、水を運んで持って行った時、この洞窟の中の両わきには、負傷兵が転がっているんですけれど、こんな者たちのためにわたしの家内は死んだのか、と思っているので、水くれないかというけれども、何をいうか馬鹿野郎といって、くれないで家族のところに辿りついたんです。そうしたらこの水はまた、この付近でいっときに無くなってですね。一斗罐を持って行って途中で持って来る間にこぼれるから八分くらいはあったんですね。水汲みに行った時刻は、米軍の艦砲や爆撃が休んだ時でしょう、静かだったですから。それで行きにはあんまり人が道に死んでいるので、歩き難いので帰りは道を変えて来ました。

 

わたしの父の話にですね、お母さんは飯炊きに行って死んでいるんだから、君が行けるならば、行って見なさいといったので、わたしは親のことですからね、死ぬならいっしょに死んでもいいというような覚悟ですから、早速行ったわけです。部落ですけれどもね。行ったら、碗を抱いてですね、ごはんとお釜は別の避難者が取ってなかったんですけれども、お母さんは坐ったままだったんです。坐って、後に下ったら伏せがおくれるから、多分頭をやられたのではないかと思うんですね(坐っていたというので緑風によるのではないかと推察されるが、弾でやられても無で亡くなったり、大きな怪我でも生命に別条なかったりいろいろあるので必ずしも爆風ともいえないそうである)。それでわたしはあれから、仕様がないから、いい場所をさがして葬ろうと思って、ちょうど艦砲の穴があったので、向こうに運んで行って、ゆっくり屋根をつくってですね、上に。その時弾もドンドン落ちるんですけれども、母といっしょならいいんだと、ゆっくり瓦を上に乗せて屋根もつくったりして埋葬して、家族のところに戻って行ったわけです。

 

また水も無いんですから今度は、フクラシ川という井戸が部落の前にあるわけです。ここも水を運ぶ途中にやられたのでしょうなあ、四、五名死んでいたですよ。この井戸は、石なのか人間なのか、さわるものがあったが、それをよけて汲んだんですが、この水は、いっ時はおいしいようにあったんですが、翌日になったら腐って、臭くて飲まれないんですよ。

 

命が惜しくて生きるために洞窟の奥にいるわけでしょう。それでしばらくっていたらこの洞窟の上に、弾が落ちたんですよ。それで、洞窟の天井から、石ころがバラバラ落ちるわけですよ。ちょっとわたしこっちやられたんですよ。あの時にわたし考えました。若し死ぬのであったら、こんな洞窟の中で死ぬより、海岸へ行って、いい空気を吸って、奇麗な泉(海岸に地下川の清水が、南部にはあちこちにある)の水を飲んで死んだ方がいいじゃないか、と腹をきめたわけですね。

 

それで親戚の人たちに、わたしはこう考えていますが、あなたがたはどう考えていますかと訊いたら、わたしたちもいっしょに行こう、というので海岸へ行ったわけですよ。海岸へ行った当時は、阿檀などもひどく焼き払われて何も無いので、こちらは飯も炊いて食べることができるのだろうと思って、トクメイフタというところのお父さんと二人で、夜は何の空襲もないし、米も残っているから、スー川(泉の名)へ行って、水なんか運びつつ、お米も洗って来ようではないかといったら、このお父さんも喜んでいっしょに行ったわけですよ。このお父さんは壕も最後までいっしょにいた方でしたからね。それでわたしは、スー川へ行って米も洗って、鰹節も食事の段取したわけですよ。

 

そのお父さんは、ちょっと釜の蓋を洗うために、大事な釜が無くなったんですよ。それで洗われたかと思ってそれをさがしに下に行かれて、わたしは二、三分くらい先に、出発したけれども、わたしが家族のところへ戻って長らくたっても来ないわけですよね。珍らしいこと、どうしたのか、と思ったんですが、ことにその時またポンポン弾を撃ちおったんですよ。それで直撃でやられたのではないかという懸念もあったんですよ。御飯を炊いて食べようと思っていたんですが、海岸だけに激しいんですよ。穴の中間に艦砲が当って、破片がボンボン落ちるしね。

 

その時、一人の子供は二か所怪我しますし、わたしも怪我しましたが、長男を自分の体でかばっていましたので、これは無でありましたが、わたしの叔父の妻が重傷を負いますし、また父も足を怪我しました。そうして、いっしょに米洗いに行った余所のお父さんは、いつまでも帰って来ません。それから、艦砲が止まってからご飯は炊くことができましたよ。


そこには住むことはできません。そこから五十メーートルくらい南へ行ったら軍がちゃんと射撃場として穴を掘ってありますよ。それでこっちに荷物を運び入れました。最後に、米一升と、鰹節一つと、また砂糖湯薬罐一ぱいと、これだけは最後まであったんです。


一応、着換えなども向こうへ運んで、最後に砂糖湯を入れてある薬罐と、洗ってあった米の入っているまだ炊いてない釜を取りに来た場合にですよ、わたしが、後一分したら、向こう着くわけですよね、一間半くらいですから。またうちの父は、杖をついてよちよち北から歩いて来るし、わたしは北へ向かって行く途中、あと一分の時間で向こうへ行こうとする時、ちょうどこの釜に直撃が当ったわけですよ。もう無いわけですよ、二人共伏せて怪我は無かったんですけれどね。珍らしいことですよね、この釜をさがしたら十メートルぐらい西がわに飛んでいましたけれど、マシキ(釜の底の中央)が取られて穴があいていました。もう米もなくなって、それまでわたしは、飯も二、三日の間全然食べてませんでしたからね。二、三日振り飯も食べようと思ったのが、食べられなくなったんです。それからまたこの、壕に全部運んで、父と子供たちはこちらにおいて、わたしは考えたわけですよ。何とかしてこれから玉城付近へ行けないかなあ、と思ったわけですよ。一応様子を見て来ようねといって、親のところを離れました。あれまで計算した金が、細かいのを入れないで二千円でしたがね。この現金を持っていましたが、父に、金を枕にして死ぬという時期になっていますよ、といいました。

 

それから二百メートルくらい東へ行ったんです。兵隊なんかも向こうに集まっていましたが、ますます東は激しく全然行けないんだと言って行ける可能性がなかったわけですね。それで帰りに、あんなに喜んだことはありません、もう死ぬのは楽なことだと思って。それで帰って行く場合に、あのいっしょに米を洗いに行ったおじさんの死体をはっきり見ましたがね。あのよそのお父さんの死体を。その晩にわたしは、手を合せたんですけれどね。わたしは、そのおじさんに、あなたみたように早くあの世へ行かして下さいと、お願いしましたがね。

 

それからうちの父のところに行ったら、お金はアメリカさんが来て全部持って行ったよ、ということですよ。その時までアメリカ軍はまだわたしを見ていないですよ。百メートルくらい道がわを裸になって行くのが見えるわけですよ。もうしまったという時期になって、自決するほかはない、と思って、二つになる次男、長男が八つになりおったんですが、もう君たちは、この世に生れて、あのアメリカ軍にやられて死ぬより、もういっしょに死のうね、といってわたしは桑の木の棒があったもんだから、それを持ったわけですよ。もう死のうねといって、そうしたら長男の方が、「死ぬのは厭やだよ、死なない方がいい」というんですよ。その時わたしは、この子供等を棒でつぶして、自分はまた手榴弾でやろうと思ったんですよ。

 

しかし一番珍らしいことは、わたしが感じたのはこの時雨が降ったんですよね、こういう時になっても雨に濡れるのに、家があったらな、と思ったんです。下の方にインガーという洞窟があるんですが、インガー洞窟へ家族全部行って、こちらは雨が降っても濡れないなと思ったんですが、その翌日はアメリカ軍が来て、出て来い、出て来い、というのでわたし一人飛び出たわけですよ。長男も長女もついて来ましたが、次男は父といっしょに、泣いているんですけれど、わたしも怪我しているし、その子はどうすることもできず、そのままにして来たんですけれど。

 

これから三百メートルくらい行った。お菓子なんか子供にくれるし、それからわたしは残した次男をつれに行き度くてならないから、言葉は通じないが、手真似で、小さいのがおるからあれをつれて来たいといったが、ぜんぜん許可してくれないで、それはどうなったかわかりません。

 

註、久保田清さんの家族は、妊娠九か月の子供まで入れて九名、その中生存者は三名、妊娠九か月の妻(二九歳)。父、母、次男、弟(防衛隊)、弟の妻。その六名が戦争の犠牲になる。

 

儀間かつ (二十四歳)

うちの主人は、昭和十八年六月四日に熊本に召集されて、また次男坊が十二月十五日に生れたんですよ、十八年の呼吸を詰まらして)。上の子が数え五歳で、三歳に二歳だったです。役所の方から国頭の方に疎開するよう連絡が来ていましたが、十九年には戦死公報が来てですよ、北支から。二十年の三月四日には、疎開があったんです。自分では頼る人がいないから希望だったんだが、お父さんが反対だったんです。遺骨が来たので、主人のお父さんがです。

 

隣りの人が国頭の仲間というところに三月四日に疎開して、あの当時は村の荷馬車を出してですね。荷物を積んで行って、四、五日して、こっちよりはいいといって食糧取りに来ていたので、その時に、自分の荷物を積んで子供たちもいっしょに、隣りのお父さんと荷馬車に乗って行きました。恩納村の仲間には村の役所の世話係りも二人いたんですよ。

 

読谷の喜納の学校に一晩泊ってですね。このお父さんは、荷馬車を今日の中に持って行かなければいけないからといって、わたしたちは喜納の学校に泊ったんです。またあっちから連絡があって、子供たちは馬車に乗せる時は、自分は一人の子供を負んぶして、馬車といっしょに歩いて、ようやく仲間についたら、わたしたちが連れて行った家族は、伊武部の兵舎に行っていたんです、七家族は。この人たちは兄弟が三人だったんですからね。それでわたしも伊武部に行って、はじめはあっちで防空壕はいっしょに掘ったけれども、あっちの防空壕は土ですからね。

 

あっちはアメリカは四月二日に上陸して、五日頃からはアメリカ兵が山の中に入って来たんですよ。晩おうちに帰ったらアメリカ兵が来てですね、だからみんな逃げ廻って、あの時、五歳になる子も立派に歩き得ないが、わたしは、二歳と三歳の年子があったから、二人を負んぶして、追いつけないで、みんなに捨てられて、二晩は山の中に自分たち四人泊って、防空壕に食糧を置いてあるからそれを取って来ようと思って行ったんですが、そこに待っていると、あの人たちも食糧取りに来るだろうと思って待っていたんですよ。そうしたら来たんですよ。そうして隣の家族たちといっしょに、一里半くらいの奥山に行っていたんですよ。

 

それから十四、五日くらいしたらまたアメリカ兵がこっちに沢山来てですね。あの時、子供にわたしは坐っていておっぱいを飲ましていたんです。みんなは逃げてしまったが、わたしは帯を取って負んぶする暇もなくて、二人の手を捕まえて、帯は手に持っていたんです。そうして歩いたが、五歳になる子供が歩くことができないで、お母さんお母さん、といって、いましたが、わたしたちの前にアメリカ兵が三名待っているんです。そうしてこの子供におっぱい飲ましていたから四名大きな声を出して泣き出してですね。

 

そうしたら一人は、四ボイルのケイスですね、これを持って、この子供たちにくれようとしたが、わたしは毒が入っているから食べるなよ、といって手で子供に知らしたが、その時から六日間みんなに離れてあの人たちがどこに行ったかわからなくなって、六日間は何も食べませんでした。アメリカ兵は子供たちと四名が泣いたので、アメリカの兵隊は、何もしないで行きました。

 

その時は、小満芒種で雨が四日間降りつづき着たまま雨に濡れて、四名家族が、七日目に、夜ですよ、防空壕から荷物を取って来て、自分たち四名が眠っていた上の方に休んでいたそうです。それでわたしたちの子供が夜泣いたから、儀間(隣家の方)の人たちは、あっちの子供たちが泣いているものといって、カツオ、カツオと呼びましたから、「はい」といったら、あなたたちそこにいるんですか、今日はできないから、明日の朝連れに来るから、あしたまで待っていなさいよ、といいましたので、ほんとですか、あしたはつれに来なさいよ、と頼みました。山の中でですね。あの時までは、山の中で四名いっしょに死のうか、と諦めていたんですよ。

 

あの夜はね、みんなは生きているが、わたくしたちはこんなにして、みんないっしょだったのに、わたしたち四名こんなに、何も食べないで、夜の明けるのを待って、夜が白みかけたので、小さい子はんぶして、一人は前から抱いて、五歳になる子は歩かして、川に行って水を飲まして、あのお父さんたちが呼んだら返事をするんだよといって、そうして荷物を取って帰りにですね。「おむすび」をみんなから集めて、大きいの四つ持って来てあったんです。隣のおじさんとおばさんがです。


「あんたたちこれまで何か食べたか」といいましたので、「いいえ」といったら、「あなたたちそんなに長い間何も食べないでは」といって、道まではおじさんが、三歳になる子を負んぶしてつれて行って、わたしは二歳になる子を負んぶして、行ったのです。


一里半くらいあった山奥に行ったらうちの食糧はなくなって何もありませんからね。行った日はあっちからもこっちからもご飯も持って来てひもじくなかったんですが、そのつぎの日からは何もないんですからね。こんなにして生きていても何の甲斐もない、と思ったんですが、あっちは馬車馬を持っていましたからね、馬に喰わすといって、澱粉を取ったかすを叺に入れて持って行ってあったんですよ。

 

これを、おいしいものではないが命繋ぎだから、これを食べてね、といってくれてあったから、それを水につけて、罐詰の空確に炊いて食べました。また子供たちは、米を一升二合くらい人から貰ってあったんです。湯呑みの一杯ずつ一日に、それだけを三名にあげて、自分も食糧がないからおっぱいも出ないので二つになる子が、あまり泣きはしないが、そうぞうしくてですね、あの時からまたアメリカ兵が山に入って来るものですから、おのおの別べつに切り抜けるようにといって、夜はいっしょですが、昼は別々に避難しました。あなたたちは子供が声を立てるから、ずっと遠くの方に行っていなさいよ、といって、離れておったんです。


自分たちは七月十九日に捕虜になったんですが、六月二十九日かね、島尻は安全だからというので、島尻に行くよ、ということになりました。六十名余りだったです、村の疎開者は。集まって係からこういう話があったといってですね、島尻に行くといって、夜の九時から朝の六時まで、夜中歩いて、喜瀬武原を越えてですね、恩納山に行ったんです。そうしたら、あの時は荷物も着換えもですが、それを頭に載せて、子供二人を負んぶして、また五歳になる子供には、小さい急須を持たしてあったんです。転んで泣いたら死ぬよ、捨てて行くよ、といって歩かしたんです。山道は狭いので、手も持ってやれませんからね、三歳になる子は栄養不良で恩納山で亡くなりました。


伊武部山ではですね。一か月くらいしたから芋も掘られました。朝の三時頃から、見えないところまで松明をつけて歩いて、芋を掘ってまた太陽が上ったら山へ逃げて山に帰りおったんです。あの時は、芋を煮て食べたり、大きな芋は、芋汁を作って上げたりしてよかったのに、島尻は安全といって恩納山に行ったら、恩納山では、島尻は激戦場になっているんだと知らされました。そののち恩納山では、芋掘りもできなかったですよ。


十三日間は、人が捨ててあるのを拾って、潮水を汲んで来て食べたりしてですね、後では潮水も汲むことができませんでした。どういう間違いでしたか、島尻は安全だ、もううちに帰るというので恩納山には来たんですが、恩納山に来たら島尻は激戦場だから行くことはできない、だがこっちまで来たからもうめいめいだよといって、子持ちは二人だったんでですから、二人はいっしょだったんです。隠れるのも、恩納山では。


十二日目にですね、屋嘉の人で三十六になるおじさんが、姉さん、この三名あなたの子ですか、といっていたから、「はい」といったら、「日本はね、もう見込がないから、わたしは七名家族ですが、妻と子供五名は石川に行っているが、石川は米の配給も豆の配給もあるらしいからね、あなたたちがこんなに避難しても何も取り切れないから、あっちへ行って、道はあっちだから、朝の八時までに着くようにあっちに行きなさいよ」とわたしたち二人に教えたんです。またおばさんも山原の人がいたんです。このおばさんもともに、七月十九日にですね、屋嘉というところに出ました。食べるものはないで、ひもじいから、芋の夢があったから、これをあさって、小さい芋を取って生で噛って、屋嘉ですかあの防衛隊がいたところは。あっちまで行って、子供も負んぶして歩いて、行ったから、あっちからはまたトラックに乗せられて捕虜になりました。


捕虜になってトラックに乗ってから、箱に入ったもの(レーション食糧)をくれたので食べたら大変おいしいんです。トラックに乗っている人が、食べて何でもないことを教えました。それで、あの山の中でくれようとしたのはこれと同じものだった、こんなおいしいものだのに、子供たちに食べるなといって、その時のことを思いました。

 

恩納山で三つなる子は亡くしましたが恩納山にいて十三日目に捕虜に取られましたから。三つになる子は、恩納山でお腹が大きくなってですね、手足は小さくなって、栄養失調でした。女の子でしたがね。

 

恩納山で亡くなった子供は隣りのおじさんがいましたのでおじさんを呼んで来て葬りましたので、遺骨はよくわかりました。また隣りのおじさんの家族は、先きに行ったんです。六月二十三日か、捕虜なって、あっちは伊武部から行ったんだそうです。

 

それでわたしがあのおじさんに、屋嘉の人から聞いたことを、こうこう言っていますよ、といったんです。そうしたらおじさんは、わたしの家内もあうかあわないかしらないが、といってわたしに二円預けてですね、わたしの家内にあったら渡してくれ、あわない場合はあなた使いなさい、持っていれば何かなるだろうから、持たしていましたが、石川に行ったらあのおばさんたちは石川におって、そうしてわたしたちが来たといったら、おむすびも持って来てですね、この晩は、晩だから配給はなかったので、あのおばさんたちが持って来たのを食べて、翌日から配給があったんです。

 

石川の配給は一日に一人一合五勺、切升で。翌日は芋一斤ずつ、一日おきにそのように配給されました。それにウズラ豆も、五勺。あっち行ったらですね、星も見える、子供が泣いても何でもないといってですね、こんなところもあったのにそんなに長らく山におったか、とくやしかったですよ。

 

おじいさんと姉さんは、もう生きていても何ののぞみもないといって、そとに出て行って、飛行機から弾を落されて亡くなったそうです。おばあさんはうちの防空壕で亡くなったそうです。

 

おじいさんは、わたしの主人も戦死していないし、わたしたちもいないというので、生きていても甲斐がないといって、そとに出ていたそうです。七十三歳になっていました。

 

五つになっていた子は、今では大学を卒業して、八重山高校に二か年勤めて今は工業高校に勤めています。長男は農業していますが、子供が三人できて、七名家族であります。

 

徳元たみ(三十一歳)主婦

主人は一月に防衛召集されました。訓練召集ということでありましたが、戦争がこっち向かっているということで、もううちに帰りませんでした。上の子供が九つで、つぎが七っと下が四つの三人でした。わたしは妊娠して七か月なっていました。(涙声になる)わたしはどうしてこの子供たちを守ることができるかと思ったんですが呼吸を呑みながら)、みんなお母さんのいうことをきいてよといいましてね。

 

それから三月二十九日の空襲が、糠に入って、その時は、自分の実家の人たちもいっしょであったから、自分の心もいくらかよかったんですが、またほかの壕の生活、米須の裏に壕がありました。小さい洞窟でありましたが、四、五軒親類方の人が入っていました。自分の家が焼けない間は、自分の畑に行って食糧を取って、自分の家で煮て、壕に持って行くようにして暮らしていたんですよ。

 

戦争前からも、港川から上陸するんですってよ。こっちにはいられないんだってよ。八重瀬岳に行こう、早く八重瀬岳に行った方がいいよ、というんです。それでこっちには兵隊さんが来て、あなた方はなぜ疎開をしなかったか、こんなに住民が邪魔なってという兵隊さんもいたんですよ。

 

それで兵隊さんは後退でこっちに来ましたから、壕から兵隊に追い出されました。前の方からも港川からも上陸するというからどっちに行こうかと迷っている時に、子供等が、みんな八重瀬岳に行くよ、八重瀬岳に行った方がいいよ、というので、そうかといって、自分の実家もいっしょに八重瀬の方に行きました。あっちはまだ焼けない家もありました。それでいい家に入って、前の方にいい畑がありますのでそこに芋を作って、それを一杯とって笊に入れて、薪木も甘蔗がらがありますからそれを持って、芋を入れた笊の上には野菜も持って、それを頭にのせて、腹は大きくて(妊娠していることあの当時の苦労だったら誰にも言えない立場でした。

 

それで八重瀬ので、もう四月かね、三月かね、十四、五日ぐらいになってお産をしたら、片隅でお産をして、妹たちが赤ゃんヘソも繋いで、四、五日くらいは赤ちゃんは生きておりました。赤ちゃんは、浴びせないといかんから、妹たちに水を汲んで来るようにいいましたら、泥水ですよ姉さん、といいましたが、いいよ、泥水でもいいから早く汲んで来なさい。バケツのいっぱいでもいいから早く汲んで来て、薬罐につよく吸めたら浴びせることができるから、早く汲んで来て頂戴いと、自分は寝ているから、妹たちにいって、汲んで来て小さい盥に入れて浴びさせてから、この赤ちゃんは四、五日くらいはいたんですが、お臍から破傷風になって、五時間くらいは泣き通しでした。それでこの赤ちゃんどうして泣くのかねと思っていたら、次第に泣かなくなったんですよ。おっぱい飲まそうとしても赤ちゃんの顎が強くて開かないんですよ。おばあさん方もいられたが、おっぱいも飲まないならいいよ、幸いだよ、赤ちゃんは欲しいのではあるが・・・、とみんな言いました。こんな赤ちゃんなんか早く死んだ方がいいやと親類方も、みんな喜んだんです。次郎先生は、隣りでもあるし、同級生でもありますからね、お産の見舞に来られて、あの時の印象はいつまでも心に残っています。お産をやって十日くらい経って、十三日になったら、子供たちが目をキョロキョロしてこっちに坐っていますから、妹たちばかり使ってもいかないから、自分はモンペをつけて、もうしっかりして行こうねといってね、十三日になったら自分の部落に来て、前の畑に、芋はこっちにあるから、あの時は人のものからは取られませんでした。


だから自分の畑に来て、芋ものいっぱいとって、またこれも頭にのせて、あの時はお産して後ですからね、おなかに子供が入っておる時は、どんな荷物も重くなくて持てるが、ふらふらして、あの当時の苦しみはいつまでも忘れられません。

 

ですけれど、八重瀬岳も、また戦争が激しくなってね、首里の運玉森からこっちへ向かっているからあなた方は早く部落のに行きなさい、また兵隊さんがこっちにも来て、兵隊にあなた方下りなさいといって追われて、部落のもとの癡に戻りました。

 

わたしたちを追い出した兵隊たちは、戦さに出たのか、おりませんでしたので、もとの壕に入ることができました。それから一週間ばかりしたら、また兵隊さんが来て、あなたがたは移動しなきいよ、早く移動しなさいよ、というので、もうこっちしか壕はないのにどこへ壕さがしに行くかね、と思ってね、そうして、じっとしていたら、うちの実家のお父さんが、うちの墓に行こうね、といったので、そうね、墓に行った方がいいね、といって、自分等の墓へ行くことにしました。自分等の墓に行ったら、墓には兵隊さんがいっぱいいましてね。その隣りにまたオド墓といって、昔のお墓ですが、口も開いたままで、遺骨もありましたがね。そこは兵隊が利用していなかったので、もうこちらに当分入っておこうね、でも海からの艦砲射撃でこっちは一番危いね、と話しましたが、もうどこへも行くところがありませんから、こっちにいるほかはないから入っておこうねと入っていました。

 

こっちに一週間くらいいたら、またも兵隊さんが来て、「あなたがたは早く出なさい、あなたがたは何でこっちにいるのか、早く出なさい、出ないとこの手榴弾でやるよ」といった。それでまたどこへ行ったらいいかねと考えて、「アカシンゴーに行ったら壕が沢山あるんだってよ」という。わたしはあの時からお産もすんでしまって男と同じだから、びくびくはしないよ、今度こそは、死ぬか生きるかだから、といってまたアカシンゴーに壕をさがしに行った。壕さがして自分のさがしてあった時は人に取られて、うち行って帰って来るまでに取られてしまっていたので、東徳門といういとこが先きになって壕をさがしてあったんですよ。そうしたら、これは次男という名で呼んでいたので、貴方の壕の片隅に立ちどうしでもいいから入れてね次男、命だけは助けてくれよ、今一時だから、といって入ったわけですよ。そうして入ったら奥は大きい穴があって四、五軒も入れるようなところだったから、こっちに一か月くらいいましたよ。健児の塔のすぐそばですよ、西がわ。あっちは雨が降っても雨漏りもしないで、長らくいてもこっちは自分の家にいるようなもんだねと話し合いました。司令官の壕からは三百、四百メ・トルくらい離れています。


この壕に行った時は大変ひどかったんです。食糧取りにも行けなくなってね。芋葛と砂糖を水に溶かして、子供たちに飲まして、ま大豆も持っていましたから、これを煮て。二十二、二十三日は、煮ることができませんでした。今から考えると司令官が自決するまでの二日くらいは煮ることができませんでした。そのあとからは、こっちに竈を並べて、煙は立たないかな、とみんなが見て夕方になってから食べ物を炊きました。


司令官の壕が攻撃される二日間は、とても激しかったから、芋葛と砂糖を水に溶かして子供たちに与えていたんです。その時は炊事はできませんでしたよ。

 

九月に出ましたから、玉砕してから三か月くらいそこにいましたよ。あれからも苦労して食糧さがしに、わたしは男と同じで、子供たち三人抱えておるから、妹たちは、あなたの子供たちが食べるのだから、いっしょに早く行かないかというから、真壁の壕をさがしたり、真栄平の壕をさがしたり、食べ物があるかと思って。また畑から、里芋の葉を取って来て食べたり、また芋の葉を取って来て食べたり、また他人の防空壕から豆ですね、豆のあるところからは豆をさがして、これを煮て食べたり、こういうようにして二、三か月は暮していたんです。

 

でもアメリカさんが、こちらの前にテントを作っていたんですよ。五時後からはアメリカさんはいないから、うちは薄暗くなってから、取りに出て行くんです。
その頃にも友軍の兵隊さんがいて、「日本は絶対に負けないよ。絶対負けないよ、また日本から来るよ、」といって、アメリカの飛行機が飛んでいると、日本の飛行機でなね、といって、友軍の兵隊さんが出さなかったんです。

 

そうして、無条件降服して、それからも長らくしてから出ましたからね。九月の十四、五日くらいだったでしょう。

 

それからわたしたちを隣りの方が、「あなたがたもう出ないか、戦さはもう負けたってよ、もう出なさいよ、さがしに来ているよ」といっていましたので、みんなは、これはわたしたちのを敵に見せるために来たんだといって、悪口を言っていたんですよ。そうしたらこの方は、あなたがたはでないならいいよ、といって出て行きました。

 

その人が来て二、三日くらいして、わたしは出ようかなという気持もあったが、アメリカーでなく二世という人がさがしに来られて、こっちに大きな字を書いてあったんですよ。「これも日本人だが、こんなにまでしていて大変だね」といったが、みんなは出ない方がいいよといって、まごまごしてたんですよ。だがこんなにいつまでも壕生活をしていては、子供たちのお腹が、もう大きくなっていたんですよ。ゴージ(栄養失調にそういっていたらしい)だといって、大変だから戦車で轢き殺すという話があったんですが、轢き殺すなら戦さだからいいさ、もう出た方がいいさ、といって出たんです。

 

ところがうちの四男、分家しているわたしの弟が、あなた方出なさい、わたしは行かないよ、といって、出なかったんですよ。自分の妻も子も出ているが、自分ひとり残って、来なかったんですよ。男は睾丸を取られて女はアメリカ兵にいたずらされる、オモチヤになるという話がありましたから。わたしは行かないからあなたがたはいらっしゃいといって出ませんでしたが、四日くらいして後に出ていますよ。

 

それから摩文仁のチン川といったですかね、捕虜取られてからはあっちに行ったが、アメリカーは、お菓子も食べなさい、罐詰も食べなさい、といったがこれは毒が入っておる、といって食べなかったら、アメリカーが食べて見せてから食べなさい、食べなさいといったので、子供たちは食べた、ひもじいもんですから。わたしたちは食べませんでしたが、これはどうなるもんかね、と思っていました。

 

友軍の兵隊さんは、はじめは、日本から来て、アメリカを負かす、絶対に日本は負けないといって、出たら戦車に轢き殺される、女は、アメリカ兵のオモチャにされるから絶対出てはいかんといっていましたが、後で二世が来ていろいろ聞かして、わたしたちが出る時になったら、いっしょに出て捕虜されましたよ。

 

水は、崖みたようなところの岩に溜っていましたが、底から湧くところがありました。そこは、岩の上で、一人が上にあがって汲んでから、下の人に渡して汲みました。水はありはしましたが汲むのは苦労しました。

 

年寄りは生きてはいらっしゃったが、戦争がこっち(その)に来てからは、誰も見ないでね、徳呪殿内よ、それからナカミーテラのおばあさんたち、自分等はこっちで死んでいいからといって、このような年寄りはいつ死んだかわかりませんが、死んでしまいましたよ。わたしたちのの隣りの蝶にですよ。この方たちは下痢をしてね、こっちにはいっしょにできなかったので、この方たちは、別べつにした方がいいといって、年寄り三人は、近所には、お子さんもいたが、見ることができなくて死んでしまいましたよ。壕かそとに出て捕虜にはなりませんから、多分食べるものもないから、そのまま亡くなったと思います。うちのおじいさんは弾に当って亡くなりました。

 

わたしたちは、親類四、五軒でいっしょに一つの壕にいました。こちらは壕は沢山ありましたから、兵隊は壕は別のでしたよ。アメリカは早くから出て来い、出て来いと呼んでいましたが、何だ、かんだと、デマがありましたから、悪い話を聞かされて出なかったんです。それは、兵隊からいろいろ聞されていましたからね。

 

わたしの主人は、そのまま帰りません。どこで亡くなったかわかりません。わたくしの妹たちは、生活を長らくさせたためか、二人とも胸を悪くして、戦争後亡くなりました。捕虜に取られてからコザの病院に入りましたが、年明けて間もなく亡くなりました。


壕から出て芋を掘りに行きます時ですね、米須部落の周囲はどこに芋があるとわかりますからね、また大渡の前でも、あっち(壙)から近いですから、どこにあるといって、四、五軒の方がた、十人くらいいっしょになって、鍬を持って、男といっしょに食糧さがしに、アメリカさんは五時には帰って行きますから、五時後から行って、夜取ります。壕の生活が長いですから。

 

戦さにはね、わたくしお産して後からこちらの壕生活している時は、子供たちに食糧与えるという時は、もう水汲んだり、あっちのハンタブというところから、こちらのスー川に水汲みに男の方といっしょに、一斗罐を頭に載せて、うちに帰る時は、七分ぐらいしか残ってはいないでしょう。もう爆撃がドンドン来るので今度こそは死んでもいいというふうに、壕もないから死ぬ思いをしました。それから壊に来たら、今日も食べ物を取って来たよ子供たちといってね、御飯はないから芋を食べながら、お母さんは今日も命は助かったよ、と話しながら食べましたよいっしょに。水汲みに行って食糧取りに行っても、わたしは男といっしょですからね。照明弾が上ったら艦砲が来ますよ、また海からもね、機銃も来ますよ。陸から迫撃砲が飛んで来るのが見えます。

 

当間(屋号)のそばに道があったでしょう、あの道に沢山転んでいましたよ。あれは珍らしいなと思っていたんですよ。一列に並んでみんな寝ていたよ。近所の人でしたからわかりましたよ。モンペ着けている方は、女の方でしたがこちらの方ではなかったんです。避難民の方がただったと思うんです。

 

また二、三日くらい経って、食糧運びに来たら、アメリカさんが、もう占領していたから、片づけてその人たちは無くなくっていたんですよ。戦車が当間の下に二台あったようですね、戦車と自動車と、うちも十人くらい食糧取りに男の方といっしょに行ったんですよ。そうしたら、前になっている人が電波探知機というんですか、あれを踏んで、わたしは一番後だったんですよ。こっちは戦車の臭いが、ガソリンの臭いがしたんですよ。こっちは臭いよ、臭いよと二度いった時に、前の人がこの線を踏んで、パンパンパンパン撃って来るんですよ。あれは何メートルといって撃つからしりませんね。甘蔗のすぐこっちから歩いていた人がみんな倒れて、うちは、すぐそばに伏せたからね。助かって来ましたがね。一晩の中に四人がね、やられてしまいました。メーカシラ(屋号)の長男、徳門(屋号)の蒲(幼名)、ナク屋(屋号)のお父さんたちはあの時亡くなった。電波探知機に引っかけたので機銃射撃でしょう。わたしの方には弾は来ないで、前の方に弾は落ちていたんですよ。だから前の人が、やられたんですよ。それは二十三日の当時ですから警戒していたんではないですかね。道には戦車もおりますから畑道を歩いていたが、わたしは溝のところを歩いていて、伏せましたが、前の人たちは畑道の上を歩いていたと思います。わたしは、道を歩くと機銃掃射が来るように思いましたよ。甘蔗は焼かれて幹ばかりが残っていって、それでも引っかかりましたから、溝を歩きました。それでずっとじっとして伏せしておって、静かになったので姉さんといっしょに自分の壕に帰って来ましたよ。食糧は取らないで匐い匐いして、六月の二十五、六日に。待ち伏せしていたのだと後で思いました、大きな声をして歩いていましたよ。


捕虜されてから百名に行きました。百名から名城に行って、米須には名城から来ました。わたくしの子供は、上が九つで、つぎは七つで末っ子が四つでありました。
三人の幼児を抱えた三十一歳の戦争未亡人である徳元さんのその後の生活は、尋常ならないものがあったと推察したが、時間の都合があって、それは割愛せざるを得なかったことは残念であった。

 

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