『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 本部半島編 2

 

徴用と供出

本部町具志堅石嘉波源竹(五三歳)

公務に就いている者は徴用を免れたが、私などは四回も伊江島行きを命じられた。徴用は、三週間ぐらいであったが、作業がきつい上に、食事も不足がちで、いつも腹ぺこであった。食事は殆んど芋であったが、虫食いか、さもなければ汁の出てくるような芋ばかりであった。だから、まともに働く気も起こらなかったし、スコップやつるはしを肩にして、ぼんやりとつっ立っていることが多かった。監督がいる間は作業をしているふりをして、いなくなるとつとめてサボったものだった。


このような徴用を四回もやらされたが、間もなく、村の先輩たちから、徴用で苦しむよりは区長にでもなったらどうかと勧められたので、渡りに船だということであっさりそれを引き受けた。

 

ところが、意外にも、そのために軍と民間との板挟みとなり、随分苦い思いをさせられた。三度三度の食事にも困っている村人たちに、軍命として供出を強要したこともたびたびであったし、また、徴用を済ませて、帰宅したばかりの人々に対して、情容赦もなく、直ちに伊江島行きを命じたこともあった。そのために、随分、村の人たちから反撥を買ったし、苦情を持ち込まれない日は殆んどなかった。

 

日本軍のための食糧調達

米軍が上陸して来た時、私たちは、村の近くの壕に隠れていたがそのうちに艦砲が激しくなったので、みんなと一緒に山奥に逃げ込んだ。そこでも私は、区長として、山の中に潜んでいた日本軍に利用された。それは、食糧調達係ともいうべきもので、村人たちが砲火の下をくぐって担いで来た食糧を、運命によってかき集める役割であった。たしか曹長だったと覚えているが、夜中にこっそり現われては、「極秘だぞ」などといって供出を命ずるのであった。事実、村の人たちも、ようやく食いつないで生きている状態であったが、そのたびに私は、無理じいにかき集めなくてはならなかった。私たちのいた避難小舎には、昼は米兵も来ていたし、もしも日本軍と通じていることが露見したら、村中の者が殺される恐れすらあということで、いつも戦々恐々であった。

 

捕虜となって久志へ

やがて米軍は、避難民に対して、四時間以内に下山するよう勧告して来たので、私たちもついに下山することを決意した。そして300人々は、みんな今帰仁に向かったのであったが、その時の光景たるや、渡久地から今帰仁に至る県道は、いつ果てるとも知れぬ人の波また波であった。老人も子供たちも、持てるだけの荷物を担いだ頭に乗せたりして、蛇々と行列をなしていた。

 

そして今泊に着いた私たちは、そこに一泊して、その翌日に久志へ連れて行かれた。それ以来、久志には六か月間もいたが、ひどい食糧難が続いて、栄養失調やマラリアで倒れる者が続出した。私たちも、一か月ぐらいは芋の葉を摘んで食べていたが、間もなくその芋さえもなくなって、海のばかり食べていた。殆んどの人々は越境して具志堅へ食糧を取りに帰っていたが、私は、たくさんの子供をかかえていたので、そうするわけにもいかず、とうとう一番下の子供を栄養失調で亡くしてしまった。

 

マラリアと食糧難
久志から戻ってからも、私の家族はみんなマラリアで寝込んでしまった。久志での耐乏生活の疲れがどっと出たのであった。また、家も焼けてなくなっていたので、しばらくはテント小舎にいたが、三、四か月もかけて資材をそろえ、家族総出で茅を刈り集めて、ようやく山羊小舎のような住居を作ることができた。

 

もちろん、村に帰っても、食糧事情はいっこうに好転せず、子供らをたくさんかかえていたこともあって、かなり長い間、蘇鉄を食べて過ごさなくてはならなかった。

 

今帰仁村の戦時状況(座談会)

今帰仁村

字湧川 糸数昌徳(三六歳)

字越地 宮里政正(四二歳)

字諸志 島袋松一(三一歳)

字天底 与那文子(四十歳)

字諸志 内間敏(二四歳)

糸数 戦争も近づくとわたしらは役所に詰っきりでですね、家族ほったらかしておったんですよ。最後まで役所にいた。戦争期間は県との連絡がストップしましたからね、もう上陸するときには。当間重剛さんが沖縄県の翼賛会事務局長でしたが、あの人の指令ばっかりしかなかったです。知事以上の権限のように感じました。ぽくら今帰仁村翼賛会の委員でしたので、役所に最後に当間重剛さんか指令がきて、軍と行動を共にして、村民の保護にあたるようにしなさいと、最後の指令がきたんですよね。ちょっとの間だったんですよ。ぼくらが集まってどうするか、この指令でもう最後というもんだから、それじゃもう、その指令対策をどうするかといって、もう誰も対策について発言する人いなかったわけです。兼次々長の玉城精さんが、村民とともに軍も一緒になって山に避難しよう、そして米軍が来たときには、もう竹槍で突っこんで互いに死のうと言ったので、みんなももうそうしようと、それでもうみんな解散してですね、うちに帰ったわけですよ。それが最後の日ですよ。名護あたりは上陸していた。するとあとで、精喜校長が生きとったもんだから、あんた死のうと言ったんだが、死んでいないじゃないかといって笑った。だが、しかしあれひとことでですね、非常に生きてましたね。

 

宮里 子ども連れて、山にはいって自分らで防空壕掘って。それか赤ん坊連れて、子ども六名連れて八名家族で疎開で羽地いったら、一軒家に百二十六名でしょう。狭いところで庇にムシロしいて半年。カバーさがして、蚊は多いし、子どもは蚊にかまれてー。

 

糸数 今帰仁村疎開学童が全部命びろいしたです。謝花喜睦さんといって、渡喜仁の人でね、その喜睦さんが殺されてです。その頃は状況非常に悪くなっておるので、運送船でやってはこれはもう保障できないのでー。那覇の警部で今帰仁出身の謝花喜福という方から軍艦にのせるから、明日すぐ出してくれないかと電話連絡があったんです。それでもう駆けまわってですね、もう準備もそこそこでいいから、軍艦にのせて、乗りなさいといっておくったら全員命びろいしたんですよ。対馬丸みたいなものに乗せられたら全部犠牲になって、疎開学童の命はなかったでしょう。

 

宮里 疎開先から帰ってきてからですね、人間が変わったですね。

 

糸数 わたしがその学童を連れて日本に行くように命令されておったんです。わたしがですね。それを玉城の新垣正男という役所の会計係のひとが、ぼくと交代してくれないかねえ、家族が疎開するのでわたしはひとりになるから交代してくださいよと、もう泣きつかれたもんだから、わたしもう自分ひとり行く準備しておったもんだから、家内が非常に心配しておったもんだから、帰ってこないかもしれないから、あがた覚悟をしなさいよと言うておったもんだから、あんたがもう家族がそんなにであれば交代していいよと。あれの家族は一緒に出発したんですが無事につきました。それからは今帰仁疎開者担当としてこっちからも給料送っていました。宮崎であとから亡くなりました。

村民が一番苦しかったのはですね、駐屯部隊の徴用ですよ。今度は何人、今度は何人といって、役所に、出せといって、これを徴用係、この方がさしておったわけよ。松一さんが。そしたら、いっぺん出しえないでですね、何十名といってきてあるの、それだけ出しえないで、そうして連れて行ったら、もう海軍に、貴様これでも役所吏員か、やめろとね。顔なぐろうとしよったといって、もう泣いて帰ってきてるわけ。もう村長に、わたしこの仕事、絶対できませんから、今日ぎりでやめますといってを書いて出しているわけですよ。あんたがやめたらこの仕事だれがもやりきれないから、わしも激励して、やりなさいやりなさいと言ってさしたんですが、もう、あれこわがって、役所の行き帰りあれにみられたらやられるとばかりしか思っていませんからね。あれ、会うのもこわがってからね。もう帰ったらまた、はや割りあてされるのを許してくれと家にいっぱいしているし、こっち来たらまた役所にあれのところにいっぱいするし、非常に立場を失ってね。伊江島に徴用やったときに、もう伊江島、空襲されたわけですね。そうしてもう連絡不通になっているから、もうどうなっているかわけわからない。親連中でも娘全部徴用で向こうにあれがやってるもんだから、今うちの子ども返せといって泣きつかれてよ、全部母親に。あれもう伊江島に行きましたよ。命を賭して。

 

島袋 二回行ってきましたですがね。もうあそこの者と協力するという。どうしても戦争は勝たなければならないというみんなの気持がなければですね。とても、あそこで一日でも作業できないです。なぜかというと、もう十月十日の空襲でさえも全部畜舎も焼かれ、家にもはいれないですから。また知りあいになった人でないと、懇意な人でないと泊ることもできない。だいたいもう誰か、団体なんか、青年学校とかね、全部墓にはいって。むこうの墓はこのうちぐらいのところがありますね。もっと大きなのもありますね。天井は高いしですね。そしてもうとてもー。みなそこにはいって、寝泊りしとったんですが。この中やっぱり湿気あるでしょう。あの若いひとたちでなければなかなかそうした生活はできなかったですよ。

 

糸数 藷もみんな割りあてですから。野菜も、向こうまで行くまでには相当品物がいたんでですね、藷なんかー。

 

宮里 運ぶのは軍の舟艇があったですね。本部まで荷馬車で、それから舟艇ー。

 

糸数 農業会があって、向こうでも集荷して、伊江島まで民間や駐部隊に配給するんです。が、向こうは、伊江島というところは水は非常に少ないわけなんです。井戸水も海の水混ぜてー。手足を洗うのも、水浴びするのもみな溜池の水で、非常にみじめです。

 

宮里 井上大隊などは、わたしのうち学校から近いので、毎晩十人ぐらいずつ来よったですね。


糸数 陸軍は食糧なかったですよ。

 

宮里 大晦日の日にですね、藷もらいに十五名ぐらい来ていたです。

 

島袋 食糧は充分あるのはあったんですよ。だが、戦闘になった場合のために、非常に節約したんです。飯盒のいっぱいのメシをですね、だいたい三、四名ぐらいでわけてやりよったらしいです。だかどうしても足りない。陣地作業にいくとき、民間に藷があるわけだから、それからたくさんもらってー。みな兵隊で、内緒で。公けにすると上のほうから兵隊を、それはもうひどいめにあわされよったらしいですが。

 

糸数 食べもの食べるの、いっぺん見たがね、御飯の上に味噌を、生味噌このくらい食べよった。


宮里 田中中隊長といってね、太った人、しょっちゅう家往復して、これお酒でもあったらまた飲む。それから沖縄のうた教えたり。藷もあげたらね、おいしいといった。あの人がうたつくってね、沖縄のうさがみて知る栗の味、うさがみというのは敬語ですがね。その人も伊江島いかれてね苦労しとったよ。

 

島袋 うちらの関係ではね、伊江島にもーこれ地元の人ですからね、ひとりも犠牲者なかったね。ただ馬力徴用ですね、ひとり青年が十月十日の空襲でー。

 

与那 けが人は、十・十空襲では、村民のけが人はいなかったんじゃないかと思うんですよ。石川さんは三月の空襲でー。

 

糸数 役所に夜明けに来てですね、帰りに空襲にあって、この大井川の橋のたもとに、竹藪の中に隠れているのをやられてですね。準備体制がよかったと思っておったわけですね。その当時、県の斡旋で防空体制について講演してもらいましたが、その講師だったラバウルから帰った将校の指導によってですね、たて穴を全部横穴に、三か月で全部かえて、防空壕の整備が非常によかったと。また土質上、みなサンゴ礁でしょう。サンゴ礁だから直撃あたっても生きるわけですね、いい場所見つけて掘りました。

 

島袋 久志の大浦崎といって、今あそこにアメリカ部隊ができていますね。辺野古の上に大浦崎といって、あそこに今帰仁からも、平敷からも、それから本部、伊江島からもちょっと、ここに強制収容されたわけです。みな出てこいといって、これ集めなさいといってですね、沖縄戦も終ってじき二、三日ぐらい六月の二十三日頃だったと思うんですがね。そのときもういよいよ船に乗せられて、どとか南洋かどっかに、それから海のまん中かどっかに沈められるというデマがとんで、それで衣類・食糧とかもてるだけもって、ひとかたまりになってですね、アメリカのトラックでみな乗せられてー。本部廻りしていった。これはもう最後だからと思って、もうあきらめていたですね。そしたらもうみんな恐怖というの何も感じないらしかったな。湖辺底に大きな船が四、五隻あるわけですよ。もういよいよあの船に乗せられるなと思って、わたしらもね、あきらめとったんですよ。そしたら許田からずっと山の方にあがっていくんですよ。着いたところが大浦崎で、あそこはもうハゲ山で、木も、高木もないぐらいですからな。みんなむこうでおろされて、行ったらテントもはられて、辺野古の上のほうです。下のほうではLSTで食糧運んでいる。もうテントで部落みんな、二百人ぐらい集団で、暑くてねえ。夏だからめいめいで木を燃やして、煙だして蚊ふせいで。マラリアでねえ。墓は毎日四、五人ぐらい入れていた。わたしはむこうで役所で今帰仁村役所があった、村長もむこうです。

 

宮里 むこうから帰ってきたらですね、村の有志全部集まれということで、玉城の公民館にですね。百人以上集まったかね。その席上です、アメリカの将校がきて、長田盛徳を今帰仁村長に命ずと言ってね、村長に命じたわけ。それからね、友軍にねらわれてね。友軍は山に隠れてますからね。盛徳さん殺すといってね。長田さんは、兼次校に米軍がいたので、むこうに行っておった。与那嶺静光という人、あの人が毎日弁当もって越地まわりしてね、兼次校に長田盛徳さんの弁当もって毎日その人また殺されたですね。長田盛徳さんは、友軍が引き返してくるうちに、裏から逃げて危機一髪で助かったという。


糸数 そのときまではまだ戦争中ですからね、はやかったですよ。

 

宮里 そのときは久志はまだ全貫帰ってこないよ、あのとき。村長選挙もね。久志も一緒に帰ってきてから、村長選挙にしようといっとったんだが、それ待たんでね、すぐ長田さん、村長に選ばれたでしょう。


島袋 全部はまだ帰らないとき。

 

宮里 あとで文句でてね。なぜ村民全部久志から帰ってから選挙せんのかと、親泊の連中が押し寄せてきてよ、十名ぐらい。そのころ総務課長していたから、わたしね、ひどいめにあったよ。なぜ村民全部集めてしないかといってね。公文はわたしが出しとるからね。

 

糸数 それから分村問題でてね。西はもうお膳立てしたところに、あれはあれらでやってるわけですからね。膳立てしてあるわけ。長松本吉英も決めて。そこに久志から全員帰って、そして対等合併でなく吸収合併みたいな形になったものだから、むこう怒って分村するとー。西は西、もう村つくらといってね。分村問題もでたです

 

島袋 むこう、わたしら行ったら、もう毎日マラリアで、年寄りはみな倒れてですね、年寄りはほとんどもうー。

 

宮里 謝花喜睦さんという渡喜仁の人ですね、殺された。あの人は兵事主任ですね、村の。あの人ぐらい友軍に協力した人はいないんだろうとー。

 

糸数 あれ、軍関係もたしとったから、自分の野菜を持ってきてくれる、バナナを持ってきてくれる、アヒルを殺してくれる、軍の将中に相当な資材を出してやってるんですがね。最後殺されたですよ。


宮里 長田盛徳さんの隣りであり、友人でですね、与那嶺静光さんが自分のうちで殺されたんです。アメリカの将校が村長を命ずるでしょう。やらなければやられるから。当時友軍は全部山ですね。

 

島袋 あのとき集まった、村長命じられたとき集まった人、百人ぐらいですね。全部友軍の手帳に載ったそうです。

 

糸数 も、マブヤマも弱かったので全滅してるんだが、中南部はちょうど激戦中ですからね。そのときにここは後方陣地になっておるときにー。

 

島袋 ここは(名護は) 休養地になっておったんです。あっちで戦闘して疲れたらこっちで休むという。


糸数 軍と相談して、マブヤマの宇土部隊は弱くてすぐ降参しましたからね、わしらは最後まで山に残っておったんですが。今帰仁整理するときですね、そういった連中、戦闘中にもかかわらず、はやアメリカの軍と一緒になってからに、村をつくるとかなんとかいうもんだから、それで全部整理するといってからに、名簿を持って歩きよったんですよね。それをわたしに見せて、誰々を殺す、みんな殺すといって、手帳にねー。あんた方、誤解ですよ。これはね、宮里政安さんは戦前から料亭をもって、料亭の女をたくさんかかえておるので、そして一般の婦女子が米軍に強姦されて、たいへんなことになるので、それでその女を (米軍に) 提供して慰安所をつくって、婦女子を護ろうという精神からでたものであってですね、決してスパイ活動ではない。こんなにりっばな、住民を護ろうとする考え方に対してね、あんた方もうこれ整理するのか、大変ですよといったら、事実か、そうか、スパイでないかっていってね、追及、わしにさんざんしたんですよ。絶対もう。あんまり早かったので。みんなこっちで村民の若いの徴用して、カンパンなんかに行かして仕事させる計画なんかしておったもんだから、みなスパイだといって、今帰仁整理するといって、みな犠牲者になっとるわけですよ。

 

島袋 米軍の憲兵隊、今泊の馬場におったんですよ。孫一さんのうちのあたりに上里という店があった、そこが憲兵隊長の事務所だった。


糸数 長田盛徳さんもわたしも山から探して歩きよったです。あれが村長になるから、ぼくも役所人だから、役所にでてからどうするって、ぼく山から探して歩きよったー。今頃なんかでたら、もう友軍は今帰仁整理するという計画たててるのに、もうすぐやられると思って、わたし逃げまわって、あれらに会わなかったですよ。あのときなんか、あれらと行動をともにしたらね、すぐやられておる―いくらわたしが山で釈明してもね、きかなかったですね。

 

宮里 気づかなかったらやられていた。こわかったですね。長盛さんのときも危機一髪だった。喜睦さんとも知り合いの人ですよ。アクセントで日本兵とわかってすぐ逃げた。


糸数 役所に電話ひとつしかないでですね、役所の職員がスパイをその電話でしはせんかといって、拳銃さげて電話口のところにね、ひとりは警戒しどおしですよ、将校が。役所の職員を疑って。そのときは電話は、村には郵便局と役所しかなかったから。湧川に上陸する寸前ですよ。

 

宮里 友軍こわくて。上陸してからアメリカはね、洗濯物もってくるですよ。洗濯しなさいといって。これもう、洗濯するの、友軍がみたらね。すぐやられますからね。これもう一番こわかったですよ。

 

糸数 友軍は、敗残兵はずっといたですよ。

 

島袋 宇土部隊はね、マブヤマにおったわけですから、あの八重岳の下。一、二回ぐらい戦闘したかしらんが、ここはもうあれだから、こちらに転戦したわけです。羽地多野に、大宜味、国頭の山に。そしたもんだからアメリカ軍。。。

 

宮里 宇土部隊、海軍ともう最後は宇土部隊と一緒になったわけです。陸軍と海軍みな一緒になってですね、こっち宇土部隊が全滅したといってー。陸軍はマブヤマ、海軍は運天。白石部隊は潜航艇一。

 

糸数 井上大隊はこっちから離れて、泊(那覇)でですね、白兵戦で全滅してるんです。

 

宮里 こっちはもう十月十日の空襲で相当やられて、相当やられたんです。

 

糸数 上陸前にあれら、船は全滅してるんですよ。もう一隻ものこらない。

 

島袋 上陸前にこっちから特殊潜航艇ですかね、魚雷艇という、ビゅーツというて、もうここは、沖縄は、あんた、アメリカの軍艦で全部まかれておるわけですからね。ここ伊江島と本部との間に、もアメリカ軍艦、もう集中してるわけですからね。ああ、これもう十四、五隻ぐらいおったですよ。そこにむかって、むこうから攻撃に行きましたね、よく行きましたよね。行って、そして攻撃してー。


宮里 もう魚雷艇というのも、ただもう肉弾みたいな、ベニア板でつくってですね、魚雷は十米ぐらいの、こんな大きな魚雷二つかかえて、敵艦船のところまで千米ぐらい近づいていって、そして火の玉を空に打ちあげるわけですよ。そしたら夜であるもんだから、友軍機がきているというふうにだまして、高射砲ばかりバンバン撃たせて、そして横っ腹からあれらの魚雷を、千米から発射して引き返してくる作戦であったわけです。これ、はじめは敵もうまくだまされて、火の玉ばかりに向かって高射砲を発射して、横っ腹からあれらにやられるのわからないで、大戦果をあげて、凱歌をあげて帰りよったんだが、最後はもう、これらの作戦すっかりあれらにわかられてしまってですね、もうちゃあんと磁石で、探知機でどこにきてるか、ここにきてるか、前もってやられて、そして沈没させられて泳いで帰ってくる者もおるし、もうあと役に立たないようになって、また基地もあれらに発見されて、上陸前に船は全滅したですな。

 

糸数 いちばんはじめ上陸したのは、ぼくの地元の湧川ですけど、ぼくらもわからないでですね、自分の防空壕のうしろでピストルの音がするもんだから、おかしいねえ、沖の機銃とか大砲の音ばっかりだが、もういよいよ地上でビストルの音がするもんだから、あやしいなあと思って、防空壕の上にあがってみたら、もう米軍がたくさん来てるわけですね。そしたら、すぐにはわからないもんだから、みんな壕の中におるもんだから、わからないで、壕の入口まで米軍がきたところもあるんですよね。湧川に安仁屋という首里かのほうから来た人の親戚の方で仲松という人の壕の中におって、もう米軍がすぐ防空壕の前にヒョッコリ現われたもんだから、鍬とってきてすぐ闘ったわけ。すぐそこで射殺されてですね、それからもうクモの子のように全部壕からでて、真昼ですよ、山に行ったんですよ。そんなときには、ほかのひとはみな、米軍が湧川に上陸していることを知って、ぼくらが行くときには最後で、もうみんな行ってるわけ、村民は山にいった。


宮里 精神がその精神であるので、わたしも子ども五名連れて家内にもー。わたしは羽地行ってからよ、二か月ぐらいして、友軍全部が投降してね、銃剣全部没収されてよ、かえされたよ。


糸数 わしはマブヤマにしか友軍いないからといって、乙羽の頂上からずっと伊豆味に向って行ったら、向こうからもうどんどんこっちへ帰ってくるわけさ。あっちへ行ったらもうすぐあんた死ぬよ、もう戦死者こんなにだよ、もう友軍もむこうにいないよ、全部もう全滅したよ。そうかといって、また引きかえしてね、こっちへきて、で、最後まで山におったんだが、もうみんないないし、うちにきたら友軍が仲宗根の橋で斬り込みした、海軍が斬り込みしたといってね、米軍怒ってからに、それから今帰仁の掃討戦だといって、翌日わたしこの掃蕩戦にひっかかってしまってね。子ども抱いていたのに、十名ぐらいの米軍がすぐぼくをとりまいて、訊問を始めたわけです。あのときだけは死ぬと思ったね。


島袋 事務所の前のモウ、消防の前のアメリカは衛兵で警戒して、兄さんと玉城ヒロシ先生と新城さんの四名、機銃撃たれて、命からがら逃げて、朝未明にうちの方に来た。散兵して部落にきてー。

 

宮里 越地の人が久志からね、許可されてね、もどってきたらしいが、ちょうど宮里政族さんらが出て湧川に来る時分に、米軍将校に手榴弾投げてよ、湧川の南海の塔の前あたりで、友軍が投げたらしい。それからもう米軍が五十名ぐらい、わたしの部落(越地)にね、全部着剣して、わたしのわっていたよ。わからない通訳連れて軍人が歩いてくるんですよ。そして便所もタンスも剣であけて、配給あった国民服のズボンもってきて、これ兵隊のものでないかといって、全部調べられた。そしてようやく足が悪いから軍人でないと許されたよ。今帰仁校に米軍がおるときに、山から夜友軍がきてり込みしたら、その翌日はもう総動員のアメリカーが散開してね、わたしの部落ね、一軒一軒しらみつぶしに調べたよ。


糸数 あのとき政安さんがね、あれは米軍とずっと前から一緒になってつかう「良民証」もらって、馬車もって、堂々たるもんであったよ。もうあれ堂々と歩けるわけ。そしたらぼくらのとこ塩あるもんだから、その塩をもらうために馬車をもって、水罐ですね、あのアメリカが使っておった水曜、それを置いている家にわたしがおったわけさ。これが一番悪かった。友軍ではないというんだが、もうその水曜をみつけて、きみ、これは米軍のもんだ、これ盗んできたー。もう十名ぐらいで、わたしまん中において、全部銃をもって構えたもんだから、これで撃ったらあれらもあたるから、今は撃たないだろうと。そしたらわたしひとり前方にたてて、十米ぐらいうしろで立ち撃ちをしたもんだから、ダメだ、観念せんといかんなと思った。そしてもう神様にー。もう無念でですね。あのときは無念で無念で仕方なかったんだが、もうこれは逃がれられないと思って頭骨あたって即死をお願いして、もう神様にね。心のうちで即死をお願いしまして。すると子どもがきて泣きついたわけですね。そしたら米軍が、わしの子か他人の子かを確認していたらしい。しばらく議論していたが。


そして銃をつきつけられて歩かされた。そこに道が二つあるわけさ。どっから歩いていいかわけがわからないものだから、そのときはわたしは田んぼにこうしてすわっているわけ。もうやられるということは覚悟しているもんだから、この道に行きますか、この道に行きますか、振りむいたら米兵は一斉にしりぞいて、びっくりしてからに逃げてね、向こうへいってまた銃を構えているわけ。そして田んぼ道にでたら、もう山から全部、友軍探しているアメリカの兵隊が百名ぐらいになっていた。それから、わたしが友軍であるか一般人であるか、裸にして調べるわけ。わたしは役所へ勤めているもんだから、靴マメはあるしですね、農業はしていないから手マメはないんですよ。米軍は半分半分別れておって議論しているわけです。片一方は友軍でない、片一方は友軍であると議論しているらしい。一時間ぐらい待たされて、さんざんやられてからに、あとは二世だったでしょうね、ちょっと背の小さいのがきてからに、肩をたたいて帰れと合図したんですよ。うしろからやられるかなと思って、もう振りむいたらまたやられはせんかと思って、もう振りむきもしないで、どうなったかわからないが、わざとゆっくりゆっくりと帰ったら、わたしを許してそのあとすぐ、沢岻の安定さんと安治さんという人が、逃げるために二人やられてですね、ぼくのように落ちつけば、あれらも射殺されないで逃げたと思うんだが、もうこれ保護できないと観念して、こんなところにおっては安心できないので、わたしはもう運天原ですね、屋我地の、愛楽園が非常に安全だというもんだから、むこういって、泉さんといって事務長しとったから、屋我地の村長兼愛楽園の事務長しておったから、わたし泉さんにお願いして、むこうにわたしの親戚の家があって、主人が出征していなかったんで、そこの長男だといって、泉さんにお願いして、もうずっとそこにおったんですが。すると家内やおじの連中が、もう羽地にきても大丈夫だから、きなさいといって、わざわざ呼びにきておるもんだから、むこうに行って。おじは我部祖河収容所の警察署長しとったんですが、何か仕事あったら仕事させてください、こうしとったらまた米軍に会ったらいけないからといったんです。すると、一応カンパン (田井等の収容所。若いものだけ集めて捕虜みたいにして使った) 行ってこないとどうにもならないね、すぐ発覚するから、一回は、カンパンに行っていなさい、ぼくがアメリカに相談して出すからというんです。もう、そこへ行くぐらいなら、ぼくもうせめて屋我地に帰るといったんですよ。そこも行かんで、ようやくむこうで設営隊に入って。良民証もまだ若いのでもらいに行けないで、六十のおじいさんにお金くれて、あれからもらってくるんです。わたしの分もらってきなさいと言って五十円金あげたら、喜んであれがもらってきとったですよ。六十歳といってつけておるんだが、わたし三十台だから、カードの年令書いてあるところ、中に折り曲げてですね、そしてここにさげて行きよったんですよ。さあ、これまた検査あるわけ、米軍の隊長がひとり来て。その券がですよ、これ発覚していよいよカンパンにやられるなあと思って。もう若い者全部、きみダメダメといってカンパンにやるもんですからね、誰もってきて。その組になるのは間違いだと思ってところがあとは塩浜さんという呉我(収容所)の村長が、もう時間がないのでね、非常に急いでおるので、来いとぼくにいうもんだから、これ幸いだと思って、もう折ったところは見せないで、そしたら、もう券を非常に大事にしてあるもんだから、オ、上等、オ、上等だといってね、帰してもらったんですよ。命びろいしたと思っておったら、木の蔭でこわがって出きれない者が、エッどうしてのがれたね、どうしてのがれたねとぼくのところに集まってきておった。もうそれ言ったために、あれらに言われて、来いといわれたら大変だと思って、教えもしないでですね。

 

島袋 白髪ですよ。若い人でよく白髪が多い人がありますね。こういった人はもう年をごまかしてね、オッケー、オッケーだったんですがね。


糸数 我喜屋宗助という方、ここに三本白髪の髪があるわけですがね、これをわざとこうしてうえにだしてですよ、こうしてわざと中に隠れているのうえにだして、これでもう大丈夫だろうと。白髪、非常にうらやましかったです。

 

内間 また聞きですが、うちの家内から聞いてみると、うちのヤス子のために一家が助かったという話です。うちのヤス子はあの時分、三歳ぐらいだったと思うんですがね、うち七名家族でした。上陸されてから、山のほうから、伊豆味から、湧川の米軍部隊がずっとやってきて、むこうからきたもんで、もう山におれなくなったんですね。晩のうちに志あたりの人が全部山をおりて、こんどは海岸の墓に、おやじに引っぱられて自分たちの祖先の墓にきたんです。墓の中でもだいぶやられた組がおるんですが、うちのもー。あんときはもう、うちのおやじが、トオ、もうここよりほかに逃げ道がないから、ここが最後だから、もうお互い逃げ道ないから、よそで死ぬよりは、ここで死ぬほうがいいと、自分たちもみな殺してことで、祖先の前で死ぬほうがいいんだからといって、やがてやられたそうですがね。そのときにはうちの弟が、みんなどうか、みんな元気であるのに、うちだけがそんなに早まることはないと。しのぐだけしのいでみようということで。そしてから、こんどはまた逆に、山にまた逃げるつもりで、暗いところを、今のめがね橋ですね、耕地整理の。うちの部落から耕地整理の橋のところに、聴きたらもう橋はやられてしまってですね。そしてもうこんな道は歩けないものですから、田んぼにとびこんでいったら、手榴弾とか、小銃弾で大分やられて撃たれて。プスプス田んぼに弾が入るのがわかりよったそうですね。強い子なんですが、そのとき全然泣きもしなかった子が、急に家内の背中でもうワァーッと泣いてですね。ワーともう二、三べん泣いたのを、撃ちよった米軍の連中が聞いてですね、ああ、これはみんな軍ではないということがわかったので、撃ち方やめてですね、照明弾をうちあげたんですね。そしたらやはりみな民間人ですから、民間人、そのまま、また山に逆もどりして逃げることができたというはなし、青年が話してくれたんですがね。もうやがて墓の前で死によった。もうおしまいだからと、ことで祖先の前で死ぬほうが一番いいんじゃないかと。わたしはその頃、仏印、いまのベトナム武装解除されてですね。そこで沖縄に上陸されたという情報があるのを聞いて、これはもう恐らく上陸されたんであれば戦争はあまりいい方向にむいていないとー。一番よく聞かされたのは、大浦に収容されていたときのことですね。わたしの弟の吉松と辰夫いって、すぐ下の吉松は摩文仁でやられてますがね。この子たちもみな兄さんたちと一緒に、むこうから、晩は食糧とりに帰ってきとったんですね。そして食糧とってまた帰るわけなんですが、そのときにこわかったのは、この敗戦兵ですね。敗残兵が途中に待ちかまえておってですね、食物くれと。少しでもいいからくれと。いうことを聞かなければですね、もうケンカにもなりかねない。しまいにはほんとにもう、一人二人の人がいっても聞かん、こっちは五、六名のグループ組んでいきますからね。もうぼくらもこれがなければ死ぬんだから、死ぬというより食糧たりないんだから持っていくんだというようにやりよったそうですが。

 

うちの一番弟がおやじやおふくろあたりはですね。晩ごはんを食べて子どもたちが遊びに行ったら非常に心配だったようですね。ちいさいもんですから、どんどん遊んでですね、腹減らして帰ってくるでしょう。晩もう、何もなければですね、一番弟がやんちゃで、何かなければ、もう、この足をすって尻をすって、どうしても寝ないというんですね。夜っぴて泣いて。やはり食糧というとー。

 

それから女でも、若い女の人たちは鍋の下の煤ですね。これをぬって、こうしてボロを着て、行ったり来たりしよったですね。男装してですね。大浦からは毎晩ではないですが、来てですね、そこでまとめたら、また行くというようにして。ですからこの大通りを通れないわけですよね。大浦では食糧はないわけです。配給では全然足りなかったから、やはり帰ってくるわけです。自分の畑にくれば話はあるし、残していた豚とか山羊なんかおれば、それをからめとってですね、食べる。

 

宮里 あのころ越境といって捕まえよったわけですからね。呉我か羽地にくるのは越境ですよ。羽地からまた今帰仁にくるのも越境。越境という咎でこう捕えるわけだから、嘉太郎さん(財政課主任書記)が大浦から食糧とりにこっちへきて、越境で捕えられて呉我のブタ小屋、監獄にぶち込まれていよったね。役所の同じ職員ですからね。

 

糸数 それでもうびっくりして、嘉太郎さんから救いださないとこれもう大変だと思って、わたしのおじが呉我の警察署長(米軍任命)しておるもんだから、おじにお願いして、村役所にいる先輩、呉我のブタ箱にぶち込まれているから、あんた相談してね、出してくださいとお願いして、相談して出さしたんですがね。越境のときにはもう少しで逃げきるというのまでも捕まえたんです。


宮里 こっちから十里の道を食糧担いでいっても、むこうで CP といわれた、もと馬車ひきや体の大きな男が多かったんですが、それに食糧かっぱらわれたりしたんですよ。羽地でも、途中でも、名誰でもですね、みなー。


糸数 あれらもまた、とったものを分けておったんですよ。

 

島袋 出てきて、食糧なんか荷作りしてまた帰っていきよったです。羽地に疎開中、子どもが掘った藷を巡査がとったんです。口惜しかったから忘れないでいたんですよ。のちに長女の婿(八重山の方)のところに遊びにきた人にむかって、これだうちのをとったのはー。こんなことがありましたよ。当時巡査というのは、田井等の米軍任命巡査でした。


与那 わたし那覇津波生れです。わたしが駐着したのは昭和十八年五月ですね。まだその頃はサイパンで戦さしている頃でした。戦争前、県の衛生課から今帰仁村は愛育指定村にされ、志の愛育館に駐在する保健婦として村中を歩いたんです。あの頃は産めよ増やせよの時代ですね。妊婦を大事にするという主要任務があったんです。各隣保班を通して愛育カードVを配ったりしたんです。このほかにフィラリアハンセン氏病などの伝染病予防の仕事がありました。村民にとけこんで、村民の健康をまもりなさいと、がんばってくれと、うんと指導されて、あんたがたはどこにも行くことができない、この沖縄でもし戦争があれば住民と生死を共にしなければならない人である、看護婦であると、こんこんと言われておるもんですから。今帰仁へきて、あの頃は若かったものでー。村役所にくるとですね、わたし希望をもってですよ、ぜひ健康を、今帰仁の健康を、住民の健康保持にあたらなければいけないという大きな希望を抱いて村役所にー。それからどうしても国民皆兵になるかもしれない。全部健康にするようにしなさいと。わたし意気込んで、今から考えるとちょっとはずかしいですけど。役所職員が朝出勤してくると、外に出してラジオ体操をですね、したのですよ。今から考えると、今の保健婦でそういうことしないものですよね。あのとき意気込んでいるものですから。

 

糸数 裸にされて何か一物あれに見せたかった。

 

与那 ラジオ体操したりですね。青少年の人々、全部保護しなさいと。全部健康健康でもうやったんです。今と反対ですね。今はもう家族計画、受胎しないといいますがそのころは十名でも二十名でもがんばるようにということしかいわないんです。そしてサイパンがですね、十八年の七月頃と思うのですけど、玉砕してしまって。今度はこっちにむいてきたわけですね。六、七月だったと思うんですよ。わたしがきて七日か八日。大変だねえと思って。七月だったかね、井上隊がこっちにきましてね。きたらさっそく保健婦のわたしが呼びだされたわけなんですよね。それで行ってみたら、保健婦はあんたひとりか。はい、ひとりです。じゃ各字からひとりづつ、しっかりした、看護婦を養成してほしい、どうですかねえと。わたし相談したのは喜友名さんでした。今、民生係している人。

各字からひとりづつですね、看護婦の一。忘れませんが、十月五日だったと思います。井上部隊のところで担架教練があったんです。その日、飛行機雲が見えましたね。そしたら血液検査をして、上陸して状況が悪くなったら、きみたちも一緒に従軍看護婦として―わたしほか二十名だったんですが。アケノという字がありましてですね、天の謝堂と首里原とあわせたアケノという字がありまして、その頃村は二十二か字でした。全部で二十何名かであそこに行って血液検査をしたり、担架教練ですね、いざというときにといって担架教練を五日間ぐらいやって。十・十空襲の前のことですから。そしたら担架教練って腰が痛いですよね。つらいけれども、これがもうあれだと思って一所懸命、一日練習してー。さあ、それからというものは、もう住民を守らなければいけないし、衛生課のいうことも聞かなければいけないし、軍部から言うことを聞かなければいけないし、もう大変でしたです。乙羽の山にハンセン氏病の方がいたんですが、あとではなします。

 

こっちに医者がひとりおったんですけど、疎開したのか、故郷に行ってしまってですね、もう東に医者は上運天に年寄りひとりしかいなくて、西にひとり、こっちに仲宗根にひとりおったんですけどそう働かないんですよ。わたしは看護婦であるうえ医者であるみたいなんですね。もう住民がわたしをみると、助けてくださいようといってすがってですね、わたしもやりたいが、あともう苦しくてー。もう住民が怯えてますからね。病気ではなくて、あのときは顔色はあれするし、怯えてしまっている頃に十・十空襲がきたんですよね。わたしはその頃ワルミの海の近くにいました。そしたらちょうど空襲がきた。朝の六時か七時頃でした。乙羽山から、なんといいますかね、飛行機が三機編隊できたんです。どこかねと思ってました。むこうがわの、アメリカの星のついたのが。子どもが、お母さん、お母さん、アメリカの飛行機だよというんです。すぐ運天へ行ってボンマカしたんですよね。アーサョー、これ大変したねえといって、子どもはもう、壕に入れて落ちつかして。練習だから心配するなといって。おばさんも落ちつかないで、わたしは担架教練で疲れているから、お話もしないで黙っていたんです。午前中はずっとうちにいました。午后からは空襲が遠のいたので出勤したんです。その日は天底の軍(白石部隊)慰問のために婦人会でいろんな御馳走をつくってあったんですけど、こちらでいただいてしまいました。空襲によるケガ人はなかったんですね。そして空襲のあと三時か四時頃、井上隊長と副官が馬に乗って大きな声でアビヤーレながら視察にきたですよ。


その日は飛行機がいったらすぐ、わたし出勤しなければいけない、保健婦だから。どうなってるかねえ、住民の方が。うちのことが気になるし、住民のことが気になるし。そしたら飛行機がまたやってくるんですね。やんだと思ったらさ。わたしが救急袋を、あの救急カバンをかけて、防空頭巾かぶって、待機して、わたしすぐ出ていこうとしたら、またやってくる。また休んでというふうで。運天港はもうほとんどやられたんじゃないかねえと、それだけ思ったんです。そのときわたしは天底の近くです。そのときもう早や、も海軍もきています。天底の学校にですね。大変だようおばさん。空襲だようといってからに、あの人たちがみな木蔭から、ワルミめがけて行ったんです。わたしは、待機していなさいよ、看護婦さんたちと。わたしが救急箱を持っているので、今どこかに行ったら大変ですよと。そしたらわたしは十二時頃、もう御飯を食べないで、もうガタガタしてますからね、子ども二人とおばあちゃんと四人家族だったから。ようやくやんだ頭が四時か四時半頃か、すっかりやんで。それでわたしは、おばあさんもまだ若かったから、おばあさんに子ども預けて村役所に出てきたんです。そしたら山というところまできたんですね。


製糖工場がやっぱり爆弾で煙突がやられてる。そして山嶽のほうはと見たら焼夷弾ですね、あれが落ちて二、三戸また仲宗根のほうでは焼夷弾が落ちて焼けてるうちがあったんです。そしたらわたしがとうして通ったら、アレー、与那さんよう、大変ですよう、といってもう、わたしにこうしてすがりついて、何とかあれだち助けてよう、心臓がもう止まりそうですと。わたしも心臓が止まりそうですけど、落ちつきましょうねえといって。今日海軍に慰問に行くんですけど、どうしようかねえ、これでは隙間にも行けないしさ、たくさんの食べ物あるが、どうしようかねえといって。そしたら、さあとの食べ物は、あんなに火を消したりした人たちにね、焼夷弾で建物焼けてしまったそういう人たちに、ご苦労だからあげたらどうなのかねえと。わたしもいただいたんですよ。そして海軍慰問はやめちゃったんですよ。


その日に、ハーニチおばさんのうちの前まできたんです。そした隊長はすぐ馬に乗ってね、副官つれて、アビヤーして(どなりちらして)歩くわけですよね。あの人は戦が済んでから、え、空襲が済んでからしか来ないんです。これはもうだいぶん焼けたねえ、とおっしゃってるんです。

 

わたし三か所は消してはあるんですけど、住民は大きな声でわたしにいったんですけどね。そうしてわたしは、ここのハニチおばさんといって、そこに救急品がおいてあるんです。そこから救急品もってあれして、ここ来たんですが、役所職員は半分ぐらい出勤しておられたんですがね、遅くから。その日はまああれしたんですが十五日になって、また日本兵井上隊に呼びだされて、婦人会やら村役所員全部呼びだされたんです。忘れませんですよね。井上隊長がいたですね。それで訓示をうけたんですけどね。住民は十・十空襲で負傷はしてないけど、みんながもう半病人と同じではないですか。人をみるとすがってくるくらいですね、恐怖といいますか、怯えてもう、生きた心地のないという状態でした。わたしも、これこそ、今こそ私が向うで指導されたものが行くべきだなあと思うのですが、うちのことは気になるしですね、また、空襲がきはしないかと怯えながら自分は働いたんですけどね。家族訪問はしなければいけない患者がおったりして。そしてその頃の乳幼児のミルクですね、ミルクは喜屋武さんといって配給係がおったんです。配給係に券をもらって。乳不足の方が多かったんです。赤ちゃんはみんなお母さんが怯えて、乳が止まって。券を喜屋武さんからもらって。照明弾の明かりを頼りに乳を取ったりしたんですよ。喜屋武さん非常に几張面な方ですから、きっちりとしか渡さないんです。ああもっとくださいね。可哀相だからー。西方面、謝名にもおった西、東みな母乳不足のお母さん方のところに配給しなければいけないし。金城商店にミルクがあって、自分で買わせるより買っていった方が早道みたいなんですから、自分の考えで、自分で買ってまた向うもってって、こんなことしておったんです。


ところで徴用のことですが、役所のほうに徴用割当とか、陣地構築とかなんとか言って、海軍がくる、陸軍がきて、軍刀をさしてきて、村長は島袋松次郎さんでしたが、刀抜きそうにしてですね。徴用が少ないとかいって。宮里さんが総務課長。はあもう村長さんがもう返答に困りましてですね。徴用は全部あててこなかった。病気の人もいるんですよね。さあ、村長さん、看護婦がおったんじゃないか、はい、わたしですがと、あ、こっちへ来なさいといってからに、徴用出てこないじゃないか、本当に病気か仮病か行ってみましょうといってからに、またわたしをつれて、体温はかったりするんです。体温はかったら、普通なんですよね。どこがわるいか。下痢しているんです。下痢すると体温はあがりませんですね。下痢してからにやせとけているのに、このぐらいでは働けといってですね、陸軍やら海軍やら行って、熱がなかったら大丈夫、出れば下痢がなおると、言ったこと今でも覚えてますけどね。こっちは異数が足りないといってしかられて、それで毎日のように太刀をもってきては村長さんをおどすし、村長さんも非常な苦労なさったと思うんですよ。あの、自分の子どもぐらいの年の兵隊にこんなに太刀でおどされて、悲しいことだねえといって。わたしはきばって下さい、元気をだしてください村長さん。戦さが勝ったら金鵄勲章もらえますよ、とわたしは慰めたことがあるんですけどね。それから、十・十空襲から三か月あとですかね。そのとき、また、伊江島からはじまって徴用が多いし、十・十空襲までは何ともなかったですね。宮里そのときはもう働ける人は陣地構築ですね。山のほうはずっと本部のあっちまで、全部防空壕でつづいていました。

 

島袋 当時働ける人は青年学校生以上だからね、うえは六十歳まで。

 

宮里 うちにいるのは年寄りと子どもだけ。学童までもだされるというふうでした。

 

島袋 もう地元では軍隊協力があるしね、部隊では伊江島の飛行場があるし、また海軍根拠地があるし、やがてまた防空なんかの坑木ね、坑木つくり出しや、山の徴用があるし。もうほとんどうちで農業する人は子持ちと年寄りだけでした。増産することができないくらい年寄り。殺されはしないが、足腰立たないぐらい働かされた。
戦争中に五十代の女の人がね、 (ママ) で精神がちょっと異常しとった。友軍がここたずねてもね、返事できないです。これがスパイだといってね、松にこうして後手にくびって、たいへんやられて、もう半死半生になってね、役所の前からこうして帰っとってね、毎甘いじめられとった。あと、役所のうしろに小屋つくってありましたがね、ここに入れて、そして給仕がですね、弁当つくって運んだですよ。その人がここで死んでですね。そしてわたしは給仕と二人で担がしてね、今の金城幸一さんの畑よ、モクマオ生えて密林だったです。そこに埋めさしたわけですね。そしてその人の子孫がね、わたしのうちに来て、あのときに埋葬した人はあんたでしょうかと、場所を教えてくれといってきたんですよ。

 

与那 十一月頃だったでしょうね。そっともう夜のうちに移動していなかったんです。わたしらは、従軍看護婦と、井上隊におったんです。十一月頃、秘密だったんでしょうね。玉城村の学校に行っていたとかいっていた。秘かに夜のうちに移動したらしい。

 

宮里 泊で、白兵戦でね、ただ六名残ったと。千二百名から。

 

与那 それからは壕の生活でした。いつなんどき、また空襲が来るかというような生活で、わたしは、から壕へ、どうしても乳幼児を抱えて、乳幼児を指導するようなあれでしたから。母親は、かわいそうですし、お乳は飲むし、ずっと壕の生活しながら、あの壕この壕とですね、病人も結核患者もおったですから。どの壕にいといえばそこの壕へ行って家庭訪問みたいにやってですね。しているうちに四月八日と覚えていますが、上陸して来たんですよ。湧川から女の方がね、ああ与さん、大変ですよというんですよね。どうしたのというと、上陸して来たよ、上は、どうでもいいです。も上なんか気にする必要ありません。山に山にというんです。とうとう上陸したんだねえと思ってー。首里からの避難者が呉我山でして、呉我山と、南のほうから来ているマッチャクのワキマチは、みんな疎開者です。そこもまた県庁から医者がきてわたしにそこを訪問せよでしたですから、わたしもマッチャクにこんどは山登ったんです。そこに首里の人とか、今帰仁にそうとう避難しておりましたからね。それをみなさいと医者から指示されていましたからね。わたしはおろそかにできませんし、年寄り連中が多かったもんですから。

島袋 一万人ぐらいの小屋(疎開小屋)作って来る連中皆受け入れて。

 

与那 マッチャクのほうにある疎開者の小屋は村がつくるんです。

 

糸数 一軒に対して、いくら保障するといって、県にそれを六百り当てられて、村民みんな、ブー作業出して作らせて、各字割り当てて作らせた。そこに各民間にはめて七千七百人受け入れているんだから、民間だけに全然入らないわけですよ。

 

島袋 陣地構築の徴用もあるし、そういうふうな県の方針での疎開小屋も作らなくてはいけないし、自分の防空壕も作らないといけないわけです。

 

与那 はい大変なことでした。

 

島袋 徴用も出なければいけないし大変でしたよ。

 

与那 わたしは自分の家もあれですけど、今帰仁村の住民の健康も考えなければいけないし。もしケガ人が出たらということもあるしですね。ちょうど救急品が、ここの前のですねこっちに防空壕があったんです。ここにもこっちにも、両方にも疎開させ、わたしの家にも疎開させてあったんです。今の石嶺コウリョウさん、あの方が、あんたは家にもおいておかないと、すぐ家から出ていく場合もあるし、ここまで来れなかったら、こっちにも、ここにもおいて、三か所においてあったんです。そしたら自分の家から持って行く、こっちにはもう来れないわけです。上陸してからは。救急薬品を道にこぼしてあったという話でしたよね。救急薬品は、マーキュロヨーチン・包帯・ガーゼ・胃腸薬(わかもと)・熱さまし、こんなもんです。マラリアの薬は、アメリカーが持っていました。あっちに収容されてからです。マラリア菌はアメリカーが持って来て撒いたんだはずです。救急品は県から配給して、こっちとこっちの防空壕に、こっちにあるのは自分で取りに来て。みんな山に避難した。だからわたしもよかったわけ。避難しながらわたしもあの、このと行けることができました。衛生課の医者が一度来て、こっちの衛生主任とわたしとずっと疎開小屋をまわって、検診して、もうその先生はそれっきりおいでにならなかったんですよ、わたしに預けてですね。首里の方は、呉我山の民家の脇にできるだけおいてあったんです。できるだけ年寄りのところをあれしました。年寄りと子どもですね。マッチャクにも、こっちも見なさい、あっちもみなさい住民もみなさいと、わたしも医者はいないし、大変なことでした。もう医者代わりさせられたんです。日本の衛生兵は、伝染病(ハンセン氏病)はですね、そこだけは自分らと関係があるから、万一状況が悪くなったら乙羽山に登らなければいけないんじゃないかという懸念から、今帰仁校にいた軍医はあぶない病気だから、乙羽山にいた病人を愛楽園やりなさいと言ったんですけど。この人は、どうしてもいうこと聞かないんです。あれはあとアメリカが上陸してから、奥さんがいつも一升ビンを、三つこうしてね、二つはこうして三つを組んでですよ、これにソーリ川というところで水くんでー。わたしは話していたんだが、どうして生活していますか、奥さん。日本人できれいな奥さんだったですがね、ただわたしね、水がなければ大変だからねと。三つ一升ビンに水をくんで頂上まで行って。ちょっとした小さい小屋でした。消毒薬もたくさん持ってきて、住民に危険なことさせませんからとわたしに言っているんですけど、衛生主任は困るしわたしも困ってしまってですね。そうこうしている間に上陸したのです。人の話をきいたら、上陸してあと下に水みに奥さんは行って、アメリカに強姦されたという話をきいたんです。助けてくれーといっていたんらしいですけど。その後どうなったかはわからない。食糧詰類とかー。病人の御主人はとってもお金持ちの坊ちゃんだったという話ですから。村の方とは全然関係なく住んでいたのですが、下に降りてきて野菜なんかは買っていたんじゃないですかね。軍医は軍医でおこってくるしですね。

 

島袋 結局隔離みたいなもんだったんですよ、ハンセン氏病だったから。

 

与那 ハンセン氏病になっていた主人は、帰ったんじゃないですか。奥さんは病気じゃなかったんです。わたしも四、五回ぐらいは訪問しました。あとはわからないんです。その頃はまだいましたが、わたしが衛生主任とふたりで行くと、いつも済まないような顔をしてかわいそうでした。そのあとがわからないです。

 

糸数 各家庭に、その家族構成を見て、配置したのですが全然おさまらないですよ。七千七百名ですから。その疎開小屋の補助金も一銭ももらわないですよ。

 

島袋 額はわずかですよ。首里那覇・宜野湾・伊江島から疎開してきた。

 

宮里 伊江島の人で、わたしの部落に疎開してきて、アメリカをみて逃げたといって浜辺でやられたー。

 

島袋 乙羽岳では、首里疎開者がたくさん死にました。夜、山羊つぶして焼いて食うために。食糧にうえているもんだから。そして友軍機に見られて。敵の陣地と思ったんでしょう。そうとう死んだですよ首里の方。疎開の主任で総務課長をしている当間という人もみんな死んでしまった、直撃を受けて

 

宮里 魚ですね、河川の内海、我部井でですね、家の長男が三中三年でしたから家に帰されて、一週間に一回羽地の本部に敵状報告するようになっていた。木の枝かぶって羽地の帰りに、六斤あるカツオを持ってきてあったが、石油くさくて食べられなかったですよ。糸数海は魚がいっぱいいたらしいが、船がやられて海はもう石油が浮いていますから、大きな魚が海にプカプカ浮いてから、子どもが喜んで集めて、山のように積んでありましたよ。

 

与那 海軍が十一名か戦死しました。十・十空襲の日に。あの時は、石油とか重油とかが流れて、魚をとって来ても食べられなかった。家畜はみんな放してあった。

 

宮里 班に一頭豚の割当てあったよ、白石部隊から。わしら班長だったからわしの豚六十斤くらいの出したことあった。

 

那 夜出てきて藷を掘ろうとしたら馬がこわかったですよ。馬は十頭ぐらい群をなして歩いていたですよ。

 

糸数 わたしがこっちに収容されてから、隊長の証明もらって婦人連中を連れて、憲兵も一緒になって掘りに行きよったです。憲兵も一緒につかんと、この辺の兵隊がいたずらするもんですから、みんなで護衛して掘らして、また連れて帰りよった。この辺は馬がいっぱいいて、リー、とっていこうといって、男の運巾集まってその馬をとろうとするが、どうしてもとれないわけさ。ぐるぐるまわしているのを、この辺のアメリカさんが見て、あれらも一緒になって、とってくれるといって、投げ縄投げてから。あれらが二つとって、ぼくらにくれて、これぼくらは持っていたら、これはニミッツ布告でこっちに全部登録しなければいけないといって、むこうにみんな登録させて。ひとつは足にケガをしていたので獣医に相談してつぶしたんですが、これを許可を得ないでつぶしたら、死刑に処するといって、これも許可得てからつぶしたんです。羽地に相当馬が集っていましたよ、この辺から。今帰仁の農具・家畜・家具一切全部羽地の疎開者が持っていってすっからかんでしたよ、こっちは。大浦や羽地の方へ収容されたあと、ずっとこっちに残っていた人は一人か二人と聞いています。

 

 

 

与那 呉我山辺に年寄りがひとりふたり残っているという話がありました。老人が山羊を養うために一人残っていたが、黒人兵がきてどうのこうのという話はありました。

 

島袋 七千名の南部から来た人たちも一緒に収容されたのです。あれらが先です。今帰仁疎開命じられたのは、食糧面では良かったですよ。

 

糸数 十・十のすぐあと頃に来たんです。三か月ぐらい。その間各民間に配置したら、首里那覇のほうから来た疎開者はいばって上座にしかおらないといって、家主は台所におらして上座に陣どっていた。そこの子どもらがさわいだら、バカといって足もってひっくりかえしよった。伊江島の方はその御礼に村の記念運動場の芝生だけでも提供させてくれといって実現しているが、他の村からは何の連絡もないですよ。

 

宮里 首里那覇の人はいばっていた。わたしは足が悪いから徴用にいかなかったんですよ。そしたら毎日、ムチもって各家庭見廻りにきて、わたし体が悪いから農業できませんといってわびしているんだが、この人はバカヤローいってムチで叩いて毎日怒っていた。わたしは縄ないしていた。漁労隊でしたから。そのあと踊りの大会があって、一班から十班まで勝負。その人はコティ節、団扇もってとても上手。翁長という人。わしは三味線弾いて歌ったら、その翌日から仲よくなったがー。

 

糸数 疎開小屋が出来次第、入れました。それまでは各家庭に分散させておった。あと、上陸したら全部一緒だった。

 

与那 宜野湾の人たちは謝名だったですよね。

 

糸数 一番気の毒だったのは伊江島疎開でしたね。その人たちは、慶良間に移されて、また今帰仁にきてですね。その頃は今帰仁の村民は家に帰って食糧も作っているのに。新規にまた慶良間から入ってきて、あっちこっちに小屋を作って。あれらはもう、のみがまっ黒くしていました。伊江島の人たちは漁業がうまくて、昼は海行って魚をとってきて、ぼくらに提供してくれた。久志から帰ってきてから。

 

島袋 米軍が四月に上陸した頃までは、戦闘状態はなかった。上陸してから戦闘が始まったわけです。

 

宮里 四月九日に、今帰仁の巡査部長、大湾朝光さんが亡くなられた。呉我山で住民に対して食糧を配給するために、制服つけて指導していたわけです。そのときにやられた。殉職ですね。

 

島袋 食糧を配給しているときに。

 

与那 名護から来て米軍に撃たれた。

 

糸数 あのとき、マブヤマにむかってたくさんの米軍が、地形地物の利用もしない、武器ばかりむこうはたよりにして。ぼくらが乙羽山の頂上で見たんですが、長い列をなして呉我山に進撃していくのを見たんですよ。機関銃なんかあれば、ぼく一人であれなんか全部やれるんだがなといったんですよ。地形地物の利用もなにもしませんよ。米軍は。


島袋 大通りからまっすぐ立って歩くんですよ。ゆっくりですよ。悠々と、機関銃なんかあれば、いっぺんになぎ倒されると思いましたよ。

 

宮里 うちの父は七十八歳だったが、久志にいくとき大通りから米軍にぶつかった。

 

糸数 慰安婦はね、昔の料亭の人たちですよ。

 

宮里 わたしの部落に慰安所をつくってアメリカーこうして並んでおった。最初は友軍の慰安所つくったんです。料亭だったのが仕方なくやったわけですよ。玉城セイロクさんの家にも慰安所があったんです。そのために友軍が逃げ廻っているうちにアメリカに、やられたもんだから。

 

与那 陸軍、海軍、だいたい別々にあったですよ。その人たちは疎開してきた辻の人たちです。それと料亭なんかの人たち。十人から十五名ぐらいですよ。

 

糸数 何百名という軍隊が、四列縦隊で軍歌を歌って行きよった。

 

与那 わたしらが採血して血液検査。血液型を井上部隊が調べるといって、行ったときに、ひとりひとり何か渡すんです。君たちももらうかというから、はいといってわたしはもらったんです。そしてみたら <突撃> と書いてありました。

 

糸数 米軍は上陸させない、明日上陸まで、何を供出せよと命じ、米兵が上陸したら、住民はわれ先に真先に逃げてひとりも居なかったです。

 

宮里 井上隊の隊長が十月十五日に村民を集めて講演した。あのときは千人ぐらい集まった。戦争は必ず勝つ、住民は騒ぐなと。そのうちに空襲がきた。飛行機五機がきたが、それでも話はやめなかった。騒ぐなといって、絶対話やめなかったよ。戦争必らず勝つ、この戦争終わらないうちにドイツにむかいくんだといっていた。与那でも帰りに空襲にあった。

 

糸数 山に入って避難しながら帰った。わたしもそこに入っていったら、与那さんもぼくについてくるわけですよ。わたしもソテツの下に隠れていたら、与那さんもハイエーエーして来るもんだから、ふたり同じ場所に死んだら、ぼくの家内がみたら、焼香もしてくれない筈だからキミと一緒にいないといって前に逃げていった。与那さんがまたついてくるので、あっちいって死になさいといって。与那それが十月十五日でした。

 

宮里 戦争の悲劇といったら、わたしの長女が師範の卒業式のときわしはいったですよ。昭和十八年。いったら専攻科というのが師範にあった。卒業して一か。長女がぜひ専攻科に入れてくれという。そのとき長男は中学、次男も受験にいっておったから、わたし三名も学資が出せないといったら、仲宗根政善先生、西平、仲井間という先生、三名と判して、うちの長女の専攻科の学資はみんなで出すからという。わしは人のお世話になりませんといったら、談判してどうしても聞かないですよ。それじゃ次男が受験にいっているから、電報で、来年受験するようにいうからといったら、それはいかんと。それではというてわしは、うちへ長女をつれてきたですよ。あのとき一緒に専攻科入っておったら、全滅 二十名が全滅。与那わたしは、捕虜されたのが六月。五月頃家に帰って増産しなさいであったので家に帰って増産してしていたら、六月二十日頃か捕虜し始めたんです、アメリカが。捕虜されたら殺されるとしか聞いていないもんだから、大変だと思って山から二日間逃げ廻っていた。とうとう6月22日に、目の前まで米兵が来て山で避難して、そこにもう捕虜する人たちがきて、部落全体捕虜して田井等行った。古我知というところでした。

 

最初は仲尾次というところへいったんですが古我知に診療所があった。捕虜されてからは、アメリカ兵が勝手でしていたんです。アメリカの衛生兵が、ここに看護婦した経験者はいませんかと。わたしは出来るだけ黙っていたほうがなんかいいと思って黙っていたら、誰かがあの人看護婦ですよといってしまってですね。来なさいといってジョージという衛生兵であったが、仲尾次から古我知に連れて来た。古我知に儀保先生(現在那覇で婦人科開業医)あのドクターのそばで、ナース班長しなさいといってさせられた。比嘉善雄さんから住民のために頼みますよといわれてさせられた。そこで今帰仁村などから疎開した人たち全部また、田井等地区におるわけ、今度は。戦争の爪痕といいますか、シラミと皮膚病・マラリア・栄養失調ですね。ひどくて、戦争よりも恐ろしかった。みじめだと思って、シラミたいじですね。毎日人が死んで、どんなに介抱しても、栄養失調とマラリアでふるえて、一日に十四~五名死んでいく。こんどは畑を掘って。きょうはこの上に埋める。またその次の人はその上に埋めて、五、六名重ねて埋めるんです。夜になったら、クロンボー (ママ) やアメリカーがたかって来て住民地区歩いて、女を目あてに来るんですよ。戦争後で自分も家族もマラリアにふるえるし、こんどは暇もあったもんじゃなる暇もなく、チャグルグルー働かされ通しで、よく命があったもんだねえと神に感謝しておるようなもんでですね。戦争て二度としたくないねえと思うんです。


宮里 しかし、その頃の村民の協力は、今頃だったらできなかったでしょうなあ、村民の協力ですね。徴用に出る、それから軍、それから自分の部落の防空壕も掘らなければいけない。また疎開小屋も村の方から人夫出してやる。収容が終ってから、役所もないから、帰ってきて、村有林から材木出してきて、大きなうち建ててあったですよ。村民の協力であのむずかしい時代を切りぬけた。あの大きなうち作るために千三百ドルだったかな、よくあんだけ、大木を谷底から出せたなあと。

 

糸数 なつかしいなあ。

 

与那 一九四六年一月頃あっちから帰ってきたら、大井川診療所、政府立があった。そこでまた看護婦長させられた。

 

宮里 戦後ですね、土地もあがって境界も解らないでしょう。わたしは土地主任をおおせつかってね、全村の測量。それから旅館もないでしょ。政府からいらっしゃる人、全部家に寝泊り、川上という人がいたですよ。あの人が部下を連れて寝泊まり。アヒル二羽五百円で二つ買って、松本村長が川上さんのみやげに五百円でアヒルもたせていきなさいと。わたしは一羽五百円のアヒル二羽もたせてよ。供出ですよ。

 

与那 その頃石けんが四十円。

 

島袋 ラッキーストライクがB円で三十円しよった。

 

島袋 小豚四千円。

 

与那 久志や羽地に行くときは日本円で、B円にかわったのは帰ってきてから、配給制度から有償になったときでした。1948年の8月15日にB円になったんです。わたしの給料は二百円でした。

 

糸数 戦争中にはお金はあまり価値がなかった。

 

宮里 山羊一万円、だいたい物々交換であった。

 

内間 私らが役場入るときは、給料は遅払いです。給料は税金自分たちでとって歩かないと給料はなかったわけ、四か月。税務課だけでは全部集めきれないので、結局は給料三か月分くらい遅れて、しまいには、役場総動員して税金とって来て給料をもらった。収入役は逆立ちしても金がないというもんだから、役人から借りてきて、一か月分払った。平衡交付金ですね、当間重剛さんの頃でした。それまでは、文字通り自治です。有償制度になってから税金をとりました。疎開小屋をつくったのは、賃金がもらえず、ただ働きでした。勤労奉仕でした。

 

宮里 部落ではやっていますよ。

 

糸数 伊江島の一万二千名の疎開者の生活は供出でした。

 

島袋 自分たち働いて、実際に食べ物をもらっていた。

 

与那 伊江島の方たちが天底に十家族ぐらい入ってきたんです。その中にひとり妊婦がいたんです。赤ちゃんが生まれた、ブンキチヤーにいる方でした。金城といっていたかね。生まれる段になってから何もない。看護婦なのにわたしはそのころ助産婦の免許は持っていなかった。それでも行ってみたら産まれそうで、お湯の中に裁糸を消毒して、包帯を切って処置して。男の子でした。着物は焼けたりしてないから、ジュパン柔らかいものー。HBTといってかたいものしかないので、婦人会長の立津ノブさんに言って頼んで、自分の古い寝まきなどおしめを作った。おしめをようやく二十枚ぐらいつくった。ノブさんのと合わせて三十枚ぐらいできて。そしてその子は助かって喜んでいた。一、二年してから、ジーマーミー(落花生)を送って来た。ようやくこれがつくれるようになりましたといって。忘れないですね。その子は、もう大人になっている。伊江島では、今帰仁に向って、オシッコもするなと言っているそうですよ。

 

糸数 朝鮮の方は今帰仁にはいなかった。

 

少年団

今帰仁村親泊仲尾次清彦(九歳)

 

昭和十八年の何月頃からかよく覚えていないけど、戦争というものが、自分の身に迫っているという感じ、もう身近かだなあという感じがしてきました。その時わたしは国民小学校三年生で、少年団訓練が毎日あって、地下に敵の米英がいるから、しっかり地面を踏みつけて歩けと訓示され、我等少年団は力いっぱい足踏みして行進しました。

 

米兵のイメージは、すごく体が大きいということでした。ころんだら自分では立ち上がれないから、出歩くときにはいつも小さなを腰にぶら下げていて、ころんだらその鐘を鳴して人に起してもらうのだと教えられました。また、米英は鬼畜米英と教えられたからか、あるいはヒージャーミ(山羊の目)だと聞いていたせいなのか、わたしの別のイメージでは、米兵は人間ではなくて、山羊のような動物でした。ですから、最初に米兵を見た時、米兵も人間だなあという驚きを経験しました。

 

この年の何月か、とにかく寒い頃でしたが、シマ(村)の海の沖で、日本の輸送船が難破したんです。そして、軍服を着た五、六人の日本兵が板片に乗って浜に漂着しました。

 

シマの人々が火を焚いて体を温めたり、水や食事を与えていたようでしたが、かなり弱っているとききました。今思うと、これらの人々は軍属で、ひょっとしたら朝鮮人ではなかったかと思います。シマから召集を受けた兵士を見送ることはあっても、まだ自分には戦争と直接むすびつかなかったわけです。だが、ここでやられた(潜水艦にやられたと聞いたが、実際はシケで沈没したのかも知れません)日本兵がいる、そのことが戦争は近いと感じました。

 

その年の何月か、とにかく暖い頃でした。わたしの親戚ではないが、よく知っている、涙に近い家の方が南方で戦死しました。それで従兄と一緒に行ったわけです。夜でした。親戚の方が集まっていて泣ておりました。家の周囲はしんとしておりました。子ども心にも切ない寂しさと悲しみを覚えました。その寂しさと悲しみの感情が、どうしてか知らないけど、三味線のかなでる「小浜節」の哀愁のメロディーと結びついたのを覚えております。その日、どこかでそのメロディーを聞いたせいなのか。今でも結びつくんですよ。

 

B2が最初に現われたのは、朝礼の時間であったように覚えています。或いは午後であったかも知れない、だがとにかく、朝礼の体形に全生徒が集合していたときだったということだけは間違いないと思います。双眼鏡で空を見ていた先生が、突然「B29だ!」と叫びました。それで、みんな空を見上げました。青空に白い線が細長く引かれてありました。自然の雲ではない。飛行雲だと分りました。雲がのびてゆく先に小さな飛行機がみとめられました。あれが敵機か。あれがー。鮮烈なショックでした。みんな一目散に防空壕へ逃げました。

 

十九年の五月か六月か、はっきりしません。その頃から授業はな毎日、兵隊や一般人夫の陣地構築の手伝いをやらされました。

 

六年から高等科二年までは防空壕掘り、三年から五年までは避難小屋づくりの手伝いでした。伊江島から疎開してきた生徒も一緒でした。

 

十九年の七月か、サイパン玉砕のニュースが入ってきました。うちと隣りのヌンドルチ(屋号)の家族にはショックでした。範吉叔父、里叔母が死んだのだといって。また沖縄もそうなるのだといって、重苦しい気分になりました。それから数日後、ヌンドルチの叔母が、「近いうちに沖縄にも米軍がやってくるよ。やがてアメリカ世(ユウ)になるのさ。だから、今からアメリカの名前でもつけておこうか」といって、誰は〇〇とつけました。

 

自分につけられた名前は覚えていません。従弟の健三に、「ケンちゃんはロースト」といったのだけは今もはっきり覚えています。みんな腹をかかえて大笑いしました。叔父叔母の死、戦争の恐怖から沈みがちな気分を引きたてるための冗談だったのだと思います。シマには園田小隊がいました。大きな事務所には兵隊がいて、小さな事務所には看護婦がいました。看護婦は数人いたような気もしますが、はっきりしません。わたしの友人で三つ年上の正行が、何かのひょうし、看護婦を指さしたわけです。すると看護婦が「きなさい」と手招きしました。彼は右の目が悪かったので、みてもらえるかと思って行ったのです。はじめ看護婦は正行の目をみる恰好をしていたが、いきなりバシッと右の頬を力まかせにぶったんです。看護婦が朝鮮人だということはきいておりました。朝鮮人は指さされることをとても嫌うということを、あとで大人からきかされました。

 

その頃、軍歌や、方言で戦争意欲をあおる歌が盛んに唄われていました。一方蔭では、えん戦の歌が唄われていました。今度の戦争は重大だ、日本の敗北は決定的だという内容の歌です。わたしもいつどこで覚えたか分りませんが、唄っておりました。巡査にきかれたら大変だよ、と年上の方から忠告されたけど。こういう歌です。「一つ人々チチミソリ、クンドゥヌイクサヤ マギイクサ ニホンウチジニ サダマユル マギイクサ」
その歌が巡査の耳にでも入っていたら、大変なことになっていたでしょう。巡査が最もイバリ、ハバをきかしていた時代ですから。

 

ある日、家の門の前を二人の兵隊を乗せた馬車が、西の方へ通り過ぎたところで、巡査にでくわしました。巡査は馬軍ムチャーを叱とばしました。馬軍ムチャーはすぐ馬車からおりました。顔はあおざめておりました。兵隊には何もいいませんでした。巡査が立ち去った後、兵隊が「のれ!構わん、のれ!」と彼をかばうようにすすめていたのが忘れられません。


教室が兵舎になってから、学校はずっと休校になっておりました。で校庭ではしばしば兵隊の演習が行われました。竹はりこの戦車を兵隊にかつがせて行進するわけですが、ときどき、上官の一人(中尉)がその上に乗ってどなったりしていました。かついでいる兵隊がとてもかわいそうな気がしました。その中尉がガニマタであったので、わたしたちはハベラー(あひる)中尉とアダ名を付けておりました。


マブヤマの砲兵隊が運天港へ行った帰り、うちに五、六人立ち寄りました。母が砂糖とお茶を出して歓待しました。兵隊の一人が「わたしたち兵隊は死は覚悟しております。だけど、この子どもたちは気の毒だ」とわたしたちを指さしながらいったこと覚えております。

 

ときはちょっとさかのぼるわけですが、近所に二中の生徒で国雄という方がおりました。彼はわたしたちの大将でした。彼がわたしたち五人(四、五、六年生だけ)にABCを教えました。なぜ教えたのか、その理由は分りません。覚えておりません。ただ暗記しろといわれたもんで、全部暗記しました。のちにABCが大変役立ったわけですが、そのときはABCが何であるのか全然わかりませんでした。


兵隊の演芸会が兼次校で二回ありました。一回は運動場でした。兵隊は皆地べたに座わり、将校だけ椅子に橋本大尉を中心に右左一列に坐わっておりました。兵隊と将校の中間に机を一つ置いて、二人の兵隊が何かやっていましたが、よく覚えておりません。退屈だったことが記憶に残っております。二回目は長い校舎がコの字型になっていて、その東の教室においてでした。愉快な演芸会でした。マガラ軍曹が手足を面白おかしく動作をつけ、床をドンドンさせながら、「早くこいこい機動部隊沖縄沖まで来たならば飛行機十機で体当り撃沈撃破の大戦果知らせて下さい大本営」とうたって景気をつけたら大喝采でした。又「まがってもまがらぬは、マガラ軍曹」とやったら、爆笑と拍手が起りました。

 

十月十日に最初の空襲がありました。その日の九時頃かと思いますが、わたしと弟(清勇)、兄(勝三)の三人でカーラボートゥ貝ガラの蓋)遊びをしておりました。玄関の板の間で。そしたら、南の方でゴロゴロと鳴っている。今日の雷はおかしいなあ、と三人でぶつぶついっていました。するとヌンドルチの叔父の「みんな出てきなさい!」という叫び声が門の方でしたのです。戸を開けて出てみたら、山の方(名護の方角)の上空で飛行機が上がったり、下がったりしている。下から高射砲で撃っている音がするし、その爆煙がみえる。叔父が、友軍の飛行機が来て、敵の軍艦を沈めているのだと説明しました。そして叔父がまず「バンザイ!」と叫びました。皆もしなさいというので、みな両手を上げて大きな声で「バンザイノバンザイ!」と叫びました。その方角から数機の飛行機がわたしたちの方へ向って飛んできました。ま上にきた時、みな「バンザイ!」を叫びました。


しばらくして、初めて空襲警報のサイレンが鳴り出して、それが敵機だということが分りました。そのときの驚きといったらありませんでした。すぐ防空壕に入りました。なぜ敵機が爆弾を落さなかったのか。機銃掃射をしなかったのか不思議でなりませんでした。飛行機のマークがどういうものであったか覚えておりません。しかし、どうして一発も撃たなかったのかということがナゾとしてわたしの内部にこびりつきました。マクをみたら、敵か味方か見分けがついた筈だと思いますが、その頃、偽装ばやりだったし、それに空襲警報がなかったことが、敵機を友軍機と勘違いした原因だと思います。それから、四機、六機、八機と編隊を組んだ飛行機が数秒おきに南から、東から、西から飛んできました。


十二時頃空襲はやみました。十二時は敵の昼食時間だからということをききました。周囲の様子を見にゆくという兄の正春と従兄の清治のあとからわたしもついて、サーラモウ(岡の名)へ登りました。岡の広い所には大きな松の木が数本あって、その下に多くの警防団の人々が立って伊江島の方を見ておりました。叔父は、青年になった兄には何もいわなかったが、従兄とわたしをみるなり大声でどなったので、二人は逃げるように岡をかけ下りました。そしてトクンチュミヤー(岡のふもとの屋号)の石垣に両手でしっかりとしがみつき、顔だけ出して、西の方を眺めました。敵機は渡久地をさかんに爆撃しておりました。そしてまた、編隊を組んだ飛行機が頭上を飛び交うようになりました。十メートル先へ行ったら簡単に戻ってこれないほどでした。数えきれないぐらい多くて夕方の赤トンボ
みたいでした。二人はもう帰れないなあ、といって心配しました。だが、母が心配していると思って、飛行機のこない数秒間をみはからって、かくれたり、はしったりして、やっと壕に戻りました。壕の中で母にこっぴどく怒られました。

 

十月十日の空襲のあと作戦の変更で、多分十一月の末か、北部の全部隊が中南部へ移動しました。親泊の園田小隊、兼次小校の橋本大隊、謝花小校の小野寺大隊も引きあげてゆきました。初め、友軍がいなくなったらどうなるかと心配したが、中南部で敵を討ち破るということをきき、納得しました。

 

十月十日の空襲のあと、数か月間、空襲はとだえていました。二月の末頃からか、また空襲が始まりました。二月の中旬頃だっただろうか、伊江島の徴用に行っていた父が帰ってきました。シマの人で徴用に行っていた者は、みなすでに帰ってきていたのです。しかし、クジが当らず残された者が父ともうひとりのシマンチュウの二人だったわけです。で空襲がはげしくなり、艦砲射撃の始まっている伊江島へ救出に行くのは困難になっていた頃です。区長の清一伯父(父の兄)がシマの二人のウミンチュウ(漁師)に必死に頼み込んだ結果、二人はわたしたちは年取っているのだから、死んでもいいから行くということになりました。夕暮に船を出すということをききました。夜明方、人々の話声で目をさましました。父の声がはっきり耳に入ってきました。ああ、父は帰って来たのだなあ、とほっとしたことを覚えています。

 

父が帰ってから、空襲がはげしくなり、艦砲射撃が始まりました。わたしたちは三家族(正行の家族七人、義兄の家族四人、うちの家族八人)一緒に墓に隠れたり、山に逃げたりしていました。逃げまわっているとき、数分おきに照明弾が打ち上げられまして、あたり一面が真昼の如く明るくなりました。そんなとき、先頭の正行のお父さんが「ナマヌウチドッハクナーハッケー」(今のうちに早く歩きなさい)とうしろをふりかえっていっていたのを忘れません。

 

山へ足を早めていたわたしたちの一団と、山の方から下りてくる一団が、あぜ道ですれちがいました。照明弾の明りの中で、防空頭巾をかぶっていましたが、幼ななじみで隣りの金一の姿をみとめました。瞬間、こちらから「キンイチ」と声をかけたら、「キョヒコ」と声がかえってきました。あとは全く皆おし黙ったままお互に遠ざかりました。なぜ、あの瞬間、名前を呼びあっただけで別れなければならないのか。なぜ、一緒の行動がとれないのかと心にひっかかり、どうしようもない運命みたいなものを身に感じて、道を急ぎました。

 

四月に入ったばかりですが、何日か分りません。午後だったと思います。正行のお父さんが、その日に限って、この壕はせまいから別に自分たちの壕を掘るんだといって、大人たちのとめるのもきかず、正行を連れて掘りにゆきました。しばらくして、鍬のひびきがしました。それから何時間後でしたか、義兄の妹で秀という十八歳で大柄な人がいまして、彼女が用足しにゆきました。しかし、すぐにまっさおな顔をして引き返してきました。体がぶるぶるふるえていました。何があったのかときいても、声を出せません。みんな緊張して、秀さんをみつめていました。「アメリカーネーャッタン」(米兵にみつかった)とやっと声を出しました。瞬間、わたしたちはふるえあがりました。しかし、不思議に思ったことは、米兵が秀さんに手真似で隠れていなさいと合図をしたということでした。誰かが正行のお父さんに知らさなければならないがといったけど、誰も行くことができません。数分して、「パン・パン」と二発の銃声が近くでしました。鍬の音はきこえなくなりました。壕の入口に、わたしの祖母ともう一人のおばあさんがすわりました。わたしたちは息をこらしてじっとしておりました。数分たって、正行が手にお菓子をもって、泣きながら来ました。お母さんを見るなり、「オットー、テイプーチ、イラッタン!」(父が射殺された)と言いました。お菓子を持った正行に、私の二人の兄が「ウヌクワーシ、ヒティレ。ウリート、イヤ、オットート、ヘータシト、ユヌモンヤンドウ」(このお菓子を捨てなさい。これは君のお父さんの命と換えたようなものだ)というと、正行はお菓子を下の畑へ投げ捨てました。わたしたちは、暗くなるのを待って、この墓を出ました。

 

話は前後しますが、食糧は豊かでした。肉類は特に豊富でした。毎日のように、豚、山羊、トリを食べました。豚肉はくれてももらわないときもありました。大人が「エーヨ、ヤーヌョー」(あげよう、もらわない)で押し問答していたことさえありました。

 

食事は、夜のうちに家で準備して、へもってゆくわけです。主食はでしたから、畑へいって話を掘ってこなければなりません。近くに藷畑がたくさんあったけど、決して他人の藩は掘りませんでした。父は三キロも離れたフプニバル(山畑)へ行きます。伯父は二キロ離れた海の近くの畑へ行くのです。は暗くなってからは掘れませんので、明るいうちに、まだ飛行機が飛び交っている頃、父は正春兄とを出ました。夕方になって藷を煮たり、おかずを作ったりするために、シマに下りる母に子供たちもついてゆきました。道端や畑に、飛行機からばらまかれた宣伝ビラが落ちていました。色とりどりの珍らしいものなので、たくさん拾い集めました。ところが、これには毒がぬられてあって、皮膚にしみこんだら死んでしまうときかされて驚き、全部すててしまいました。家で手を石けんで何度も洗いました。

 

一度だけ、弟とわたしと二人だけで墓の留守番をしました。あたりが暗くなってから、二人はさびしい気分をまぎらわすために、歌を唄いました。とだえたら、いいようのないさびしさが襲ってくるので、ますます一生懸命に唄い続けました。長い時間がたって、シマから皆が戻ってきたときは、涙が出るほど嬉しかったことをおぼえております。

 

夜、墓を出てから、ヌンドルチの一家のいるフプガマ(大きな洞窟へ行きました。清一伯父一家の元気な顔や、たくさんの人をみて、大変心強く思いました。しかし、ここも昼間、米兵に発見されたとのことでした。ここで一夜を明して、わたしたちの一団と伯父一家はフプガマを出ました。そして、少し離れた松の木とソテツの茂みの中に隠れていました。午前九時頃だったろうか、異ようなにぶい大きな音が断続的にきこえてきました。ニークン橋(親泊の橋)をかけるための作業をしているのだと、父からききました。米軍は機械で松(戦車妨害のために横たおしにされていた蔡温松)を簡単に片付けているよ、と伯父が感心したようにいいました。わたしたちの所に、一人のシマの青年がやってきて、米兵から貰ったものだといって罐詰(多分、貝)をみせました。食べてもどうもないよ、と言っておりました。米兵はどうもしないけど、あとで何をされるかわからないと思うと、怖くなって、山に逃げてきたのだと語りました。


昼過になって、米軍が住民は山からおりるようにといっている、もしも降りないと軍用犬を使って探しをするといっている、ということをきき降りることになりました。先頭はおばあさんがなり、次に子どもたち、それに大人たちが続きました。ニークン橋の側を通るとき、皆両手をあげました。うしろから手が低いよというので、高くあげたりしました。米兵が手をおろせという合図をしたので、みな手をおろしました。そして、初めて米兵をまともに見ました。想像とは全然ちがっていました。米兵も人間だったんだなあ、という印象が残っています。その日に、わたしたちはやっと自分の家に落ち着きました。


夕方、ヌンドルチに二人の米兵がやってきました。大きいなあと感じました。一人の米兵が、従妹とわたしにチョコレートを差し出しました。清一伯父が「チョウダイシナサイ」というので、二人ともチョウダイして、「ありがとう」といって受けとりました。で、少しずつ皆に分けて食べたが、大変うまかったことを覚えています。

 

海兵隊が兼次校からパンタ近くまでテントを張っておりまして、友人たちと一緒に遊びにゆきました。そこで、罐詰類や、お菓子類をたくさんもらいました。ほとんど全部、はじめて口にするものばかりでした。こんなうまいものが世にあったのかと思いました。マッチやタバコももらいました。タバコには色々の珍らしいものがたくさんありました。わたしは、全く新しい味覚の世界、色と形と匂いの世界を体験しました。

 

米兵の前で、ABCをいったら、米兵が喜んで、たくさんお菓子や罐詰をくれた、という事を先輩にききました。そこで、わたしもABCを使ってみることにしました。五、六人たむろしている米兵の傍へ行って、横を向き、知らん顔をして、ABCをいってみました。すると、米兵はびっくりして、すぐわたしを取り囲みました。わたしがいい終ると、米兵は手を叩いて喜びました。そして、将校のテントへ連れてゆかれました。そこで、ABCをいうようにと合図をするので、気をつけの姿勢でABCをいいました。それから、こっちのテント、あっちのテントと連れていかれて、ABCをいわされました。両手にいっぱいのお菓子が集まりました。ABCのお蔭で、詰、お菓子、タバコをたくさんもらいました。

 

米軍から儲詰やお菓子をもらっていることが、一般に知られているらしく、ある人が、これが山に隠れている友軍に知られたら大変だから、もらわないようにと伝えにきました。母はびっくりして、もう罐詰をもらいにいかないように、残っている罐詰の全部すてなさいといいました。しばらくして、今度は、米軍のものは少くさせたほうがいいから、どしどしもらうようにと伝えにきました。

 

米兵はよく「ユージャパン」とわたしたちにたずねました。「ノーオキナワ」と答えると、米兵は満足したようにほほえみました。米兵がそういうはずだから、こう答えよと前もって教えられておりました。また、米兵は、トウジョイッセーとか、トウジョーキーといって首を切る動作をしました。子どもたちも真似して、トウジョッセー。トウジョーキーとやっておりました。わたしも一度やりました。親しくしていたエリーという名の米兵に、トウジョーキーとやりました。するとエリーは手を横にふって、「ノ
トウジョー」といいました。十字架のクサリを首にかけていました。わたしはうつむきました。恥しくてたまりませんでした。

 

海兵隊は皆親切でした。その親切というものは、鮮烈な印象としてわたしの内部に残っております。おそらく、海兵隊は、戦場で子どもをみて、懐しさと平和の感情をもったのではないかと思うのです。

 

米軍はたえず移動していました。中南部へ行くようでした。五月中旬頃ですから、中南部は戦闘中です。雷の遠鳴りのようなものが昼夜とだえることなくきこえていました。こちらのほうは、約一か月前から農耕が始まっているわけです。夕方になると、いつも特攻機が西のほう、伊江島ふきんの上空に姿をみせました。きまって三機でした。米軍艦の高射砲が、ボンボコ、ボンボコと、打ち揚げるセッケンのアワのような丸い爆煙の中を、特攻機は飛んでいました。それが、ドラマチックなもの、絵のようなものとして映りました。

 

兼次校の校庭の県道ぞいの所に、テントが二、三あって、わずかの兵隊が残っておりました。その頃は、もうお菓子をくれることなど、ほとんどありませんでした。お菓子とお金の交換ができると兄の勝三がいうので、正春兄、勝三兄、わたしの三人で出かけてゆきました。正春兄がテントを背にして、県道の南側で財布からお金をだそうとしました。すると突然、マーカという兵隊(あとで射撃の名人と友人にききました)が弾丸をこめて、銃口を兄に向け、「カメン、カメン」といいながら、しきりに人差し指を自分の方へ曲げていました。兄は立ちすくんでしまいました。兄は、わたしに財布を取れというように差し出しました。わたしは兄から財布を受け取りました。すると、今度はわたしに銃口を向けました。マーカは手まねで財布をもってこいといいました。わたしはマーカの前に立ちました。兄が背後で「ゴール(兄が友人の米兵から、別れる際に、もらった一ドル銀貨をそう呼んでいました)ヤ、ポケット、ネエ、インレー」(ゴールをポケットに入れよ)とささやくようにいいました。わたしは財布をあけて、中のお金を、ちゃらちゃらさせながら、思い切って、右手でゴールをつかみ、上衣のポケットに手を突込むふりをして、入れました。それから、財布をマーカに渡しました。マーカは財布のなかみを調べて、二、三の銅貨(日本)を取り、代わりにお菓子をくれました。

 

六月の中旬頃、米軍によって、今帰仁、本部の人は強制的に久志に疎開させられました。久志に着いたときまだ南部の方で砲弾の音がきこえていました。それから、日がたつにつれて次第に弱まり、あとは全然きこえなくなりました。

 

親泊の戦争体験

今帰仁村親泊仲尾次清二郎(四六歳)

このあたりは撃ちあいの戦争はなかった。ただ、クビリ(現在の節子庭園付近)に爆弾がひとつ落とされたが、それは日本軍のイナバ上等兵が敵機を小銃で撃ったので、旋回してきて、報復であったんだよ。ウエバルは艦砲射撃)があった。沖から山へむけて撃っていた。


米軍が上陸してきた日(山からおりてきた日)米兵にひとりが射殺されている。わたしの親戚であるんだが、みんな一緒にいたんだよ。壕がせまいので、近くに別の掘るといって。そのときに上陸してきた。上(山)の方から。銃声は自分も聞いたが、パンパンと二発だけだった。服装が兵隊に似ていたからね、警防団の国民服―キャハンもつけていたから。


飛行機からビラまかれて、それで大騒ぎになって、墓へ入らなくなったんだ。わたしは墓へ入れというたのだが、そんなことはできないというて、掘るといって。そのときちょうど伊豆味から上陸した兵隊がウェバルのほうからおりて来た。その道ばたに壕掘りしていた。服装からしてやられたんだろうなあ。パンパンと音がした。十五くらいの男の子(マサユキ)にはお菓子もくれていた。その子がむこうから泣いてくるんだ。お父さんがやられたという。わしらは墓の中からパンパンという音を聞いているので、その話を聞いてすぐわかった。わたしはすぐ、墓の中から這い出していった。ちょうど、自分の掘った穴の中に倒れていた。それで手を合わせて、今は何も(葬式など)できないから、あとでちゃんとするからと死人にいって、小石を集めて来て埋めてやった。そのとき、あっちからもこっちからも上陸してきた、わたしと次郎のお父さんと二人で穴を石でふさいだ。後日兵隊たち(米軍の)は何度も、ほかの者が穴をあけるので、わたしは立札を立てた。「比嘉智勇」と書いた。その男の子はいま普天間にいる。その妹は、米軍の車にひかれて死んだよ。二十一年に。


米軍はそのころ、教会(兼次)の前の石段の辺に機関銃すえて山のほうの敗残兵を撃っていた。敗残兵はもういなかったがー。ムラには憲兵隊がいました。ヒラオカという二世の人が通訳するのにいた。


それから山に、敗残兵がたくさん集っているので、久志にみんな連れていってから、山を掃蕩戦やろうとあっちは考えて、すぐ久志に連れられていったんです。住民にケガさせたくないという噂があった。


久志にいく前には、自分の家々で藷を食べていた。山羊、豚、鶏など殺して食べた。久志にいくときはみんな家畜は放していった。そしたら、牛は牛で、馬は馬で、山羊は山羊で歩いていた。


久志には四か月ぐらいおった。久志でもまた飯も与えるし、あっちでも作業があったよ。作業も自分らに配給される食糧を船から運搬する作業であった。

 

久志から帰ってからはもう、備瀬からもうずっと米軍がおるんですよ。今帰仁(字)、新里、備瀬みんなです。それが二十年の十月から十一月頃です。そのときはもう南部の戦争は聞かなくなっていた。そのときには、もう戦争はやめたんだなあと、聞こえなかったんです。久志にいく前は、ずっと聞こえたんです、カミナリみたいに。シマの家はみんな、こわされていた

 

昭和二十年三月の末頃、伊江島の徴用から帰ったときー。伊江島にいたとき、敵の軍艦が沈んだのもわしはみている。また日本の飛行機だったと思うけど、海に沈んだなり、白い泡ばかり出して何も出ない。軍艦も、アメリカの軍艦もですよ。運天の、犠牲の舟(潜航艇)がぶつけて、ちょっと上にあげて沈んだのもみている。それをわしはっきりみた。


伊江島にいた頃から、もう駄目だということがわかって、あっちに万人といたのだが、みんな作業もせんでもいい、残念ながら日本は弱味だから、解散して家に帰りなさいといって。ところが渡久地とか、名護とか、舟のあるところは救いに来たんだが、わしのところは来ない。きょう救い舟が来るかと、のみ着のままで浜にていたんだよ。それが十日ぐらいつづいて、きょうも来ないなあといってまた引きあげて、墓の中にいって、墓の中は草を刈って敷いて寝て、それで夜のうちに、あしたの飯を掘って来て暗いところでさがして、そしてまた洗って、そしてまた夜のうちに煮なければ朝五時からはまた空襲が来るんだ。


アア、あのときは運がよかった。あのときはアメリカの軍人の休みであったと思う。探海燈もなにもない。毎晩、探海燈やって、伊江島にいる人が逃げるかといって昼のように照らしていたんだが、あのときに限ってー。こちら(今治)から、わたしらを救いに来たクリ舟、サバニが二人乗って来た。そのときもう浜には探海燈がない。浜には五、六百名、救いを待っている人がおるんだ。本島の人が。そうしたら「セイジロウ、セイセイ」して声が出る。そのときわたしはいねむりしていたんだが、セイジロウという声を聞いたんで、アイー来たなあと思って、そしてあっちの舟に乗る声がわかるんだ。わしらのシマの誰であるということがわかって、とび起きて、セイセイというわたしより年上の人と、シャンチュはそこに二人だけいたんだが。ありがとう、とあいさつだけした。三百人もの人がそれぞれ救いの舟待っているのだから、たかって来て乗ろうとして、女の人も胸のへんまでつかって。かわいそうであったがつきおとして。みんな乗ると舟が沈むから、今帰仁の人だけ乗せて舟を出した。もう、わたしも戦争だよといって、たかる人はなぐりとばして、かわいそうであったが、乗ったのはエークの数だけ。八人であった。クリ舟だから。アイーかしていなあと思ったんだが、シマの人たちも残されている人数がわかっていて、エーク八本、人数だけ持たせてあったんだ。わたしはこれ漕いだことないから調子とってな。イチ、ニイ、イチ、ニイしてな、立ってこう、こうしたら、舟の走ったことは~八人が調子あわせたら、機械と同じようにし走りよった。備瀬の岬を越えたから、もうこれからは、アーもう、アー命びろいをしたといってな、それからは、アーよかったといってみなよろこんで、歌をうたって、帰って来たよ。おじいとヌンドゥルチの兄が浜に迎えに来ておった。着いたのは朝であったよ。

 

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