『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 米須 ( 2 )

 

以下、沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。 

摩文仁村 

 

徳元文子さん

 

徳元文子さんの証言は 17:40 から聞くことができます。

www.dailymotion.com

 

徳元文子 (十六歳)

米須 (旧摩文仁村)

時1970年八月十八日
場所宮城宅

瑞泉学徒隊

まえがき

徳元さんは、首里高等女学校の三学年の課程を修業して、四学年に進級していられた。同窓の特志看護婦戦死者と戦病死者、ならびに戦死職員を合祀した慰霊塔、瑞泉の塔は、元の学校敷地跡、首里の桃原町にあって、毎年十一月の第三日曜日に同窓会によって祭典が行なわれているそうである。

 

「生き残りの生徒より篤志看護婦としての教養を受けて戦闘に参加して各地で奮闘戦死した状況を詳細に調べ」てこの塔が建立されたと『慰霊塔案内』の著者、山城善三さんが書いていられる。

 

徳元さんの記録の中にも、篤志看護婦を予期して、看護学を修得されたことが出ていて、その予想通り、弾雨の激しい中を駆け廻って傷病兵の治療に尽粋していられるが、ずいせんの塔に名を連ねずに生命を全うされた。

 

米須部落の座談会は、東西二回に亘って開いたが、最後に話して貰った徳元さんには、時間の関係で、詳しく話して頂くことができなかった。


それに、白梅の塔、ひめゆりの塔、積徳高等女学校慰霊の碑など、女子学生が篤志看護婦として、弾降る中を傷病兵士の看護に身をもって尽し、自からもたおれて祀られているが、これ等の戦死女学生と同じく、篤志看護の任務を果しながら生命を全うした徳元さんのような、女学生篤志看護婦の体験を持った方には、これまで一人も出あわなかった。その上に徳元さんは、その時十六歳で、もっとも、記憶の柔軟性豊かな時期で、当時の実情を詳細に記憶していられることをわたくしたちは前の座談会の時に感じ取った。さらにもう一つは、成人された今日だが、当時の純情時代の感情を、戦後の混雑、汚濁の社会悪に禍いされることなく持ちつづけていられて、その純粋な人間的意見を、所どころで吐露されることをわれわれは知った。

 

以上の理由で、再録をお願いしたところ、心よく承知して頂いた。ご不自由なお体だがそれもいとわれず、長時間語って頂いた。したがって、本沖縄戦記録篇において、もっとも長篇だが、平明で淡たんと、感情を露骨に示さない叙述が当時を生きいきと再現して、われわれに見せている。蛇足のそしりをかえり見ず書きそえた。

有馬隊

徳元文子 (十六歳)

県立首里高女四年 有馬隊

学校が春休みで、三月の二十三日に出校することになっていました。その間、家にいましたが、その朝早く起きて、学校へ行こうと思っていますと、日本の飛行機がわたしたちの家の屋根すれすれに、物凄い爆音を立てて飛んで行ったわけです。おかしいなあと思っていると、それから五分間も経たないうちに何十機という飛行機が飛んで来て、空襲警報のサイレンが鳴りましたので、敵機だな、と分ったんですよ。

 

わたしは、十・十空襲で、馴れていましたので、まさかこの部落には弾は落さないだろうと思っていました。しかし母が、早く早く壕に行け、とあわてていうものですから、わたくしは、「わたくしは大丈夫だからお母さん早く壕へ行きなさい」といって、それで、父とわたくしが家に残りました。父が、お前も壕の中へ行けといいましたが、わたくしは、大丈夫だからといって、家の中に蒲団を被って寝ておったんです。

 

しばらくしたら機銃弾がパラパラ落ちて来るんです、屋根の上に。屋根は、母屋は瓦と茅と半はんなんですよ。それで茅の中に機銃弾がプスップスッと入る音が聞こえますけれど、大丈夫なもんですから、そのまま寝ておったら、後で父が、こっちでは危いから早壕へ行きなさいと言われてですね、それで壕へ行こうとしましたら、学校の方からオルガンの音が聞こえたんですの。

 

後の方が学校ですが、学校へ行きましたら、大田という若い先生がいられて、明日は山部隊の軍旗祭だから、二十四日の、いま「荒城の月」を教えておるけれども、文子さん教えてくれないかと言われるもんだから、それで校長先生のお嬢さんに、わたしが歌うたって、先生はオルガンをひいて、やっと教えたのです。でも、あんまり飛行機が激しいので途中で止めまして、後の山の方へ登って、松林の中で飛行機が何をしているかを見たんですね。大して恐いという気持はありませんから、山手の方から飛行機の様子を見ていました。


午後になってから、うちの部落に焼夷弾が落ちまして、あちらこちら燃え出したわけなんです。それでわたくしは、朝から母と別れていて、別の壕へ行ったわけなんですの。そこへ大田先生が、学校の裏門の壕の守備管轄をしていられた山部隊の長谷川中尉と飛行機の状態を見ていられましたが、四時頃でしようかね、敵軍の飛行機は引きあげまして、静かになったもんですから、各家庭へ戻ってお夕飯の準備をしました。

 

その晩は何でもなかったが、二十四日がまた朝早くから空襲警報のサイレンが鳴って、沢山の飛行機が飛んで来た。今日はもうそれこそ大変だから、父も母もいっしょに壕へ行けという。わたしは今行くからといって、母は先に行って貰った。父が家にいましたが、わたしはその時にも荷物を持って、壕へ行こうとするところですね。うんと早かったですけれど、学校の校門の近くに来ますと、学校の東がわの方は平野で畑です。

 

東の大渡という部落から米須の部落はすぐ近いのですが、大渡の部落から飛行機はやって来るわけなんです。そこで機銃掃射されましてね、学校前の道路との間の溝に飛び込んで伏せたんですが、飛行機が西の方へ飛んで行ったので、後の山へ行きましてね。従兄弟がちょうどいっしょでしたが、山の方から見たんですよ。ゆっくり見たんですがね、あの子は男の子ですが、お姉さん、お姉さん、向


こうに何か黒いのが見えるよ、というから、彼の指す方向を見ました。
あれは船みたいだね、といいましたが、ただ黒く見えるだけでその時ははっきりわからなかったわけです。サシチンガマという米須の浜辺の一番東がわの岩のところから小さく見えて来たんです。船だね、といってしばらく様子を見ていたら、ぐんぐん、ぐんぐん沢山ずらっと並んで近寄って来るんです。肉眼ではっきり見えるくらいになったんですからね。

船だということがわかりましてからね、それからわたしは長谷川中尉のところへ走って行きまして、只今南の方から船みたいなのが見えますが、といって報告したわけです。そうしたら、へぇー、そうか、といわれて長谷川中尉は、米須城の方へ駆け登って、ご覧になったわけですよ。その時もわたしは大田先生といっしょでありましたが、長谷川中尉殿もいっしょに見ましたら、だんだんだんだん近づいて、大分米須の部落の前あたりまで船団が来ているんです。

 

船は大きくなっていますし、飛行機がその上を飛んでいるんです。これは友軍かなぁ、とおっしゃるんですね、敵だったらそこに発砲するんじゃないかねと、中尉殿は申されましたけれども、しばらく経って、喜屋武岬に近いところに船が行きまたしら、ドドンと弾を撃ち始めたんですよ。その弾は摩文仁丘の東がわあたりに落ちたと思うんです。

 

それから大あわてで、国民学校の教頭先生が、御真影を国頭の方へ保管にいらっしたわけなんですよ。それでその奥さんと子供たち二人、現在は小禄の方にいらっしゃいますけれど、その先生のお子さんたちがまだ小さくて、その上病弱だったんです。それで大田先生と二人で、その子供たちを連れて来ましようということで、子供たちを負んぶして、教頭先生の奥さんも、艦砲射撃の中を、米須城の下の壕につれて来ましたけれど、物凄い艦砲射撃なんですよ。

 

後からひょーん、コロコロコロコロと行くんです。それが輪の中から金属の球が飛んでいるような物凄い変な音で、あれでも多分遠くに飛んだと思うんですよ。だけれども耳をつんざくような音で、あれが落ちたら、ぐらぐらっとまで揺れるんです。

 

わたしたちは、按司墓というところに入っていまして、その中にテーブルが二つ三つ入れてありましたが、上の岩でも壊れると大変だと思って、その下に入って、その一日過しました。

 

それから、そこにいる若い人は軍に協力するようにということでありましたが、わたくしたちも、学校から指示を受けていました。ちょうど看護学を習っているから、あなた方は地方の部隊に入って、そういった場合は軍の方に協力するようにといって。
父も母も、こういうあんばいだから、山原(北部)へ行こうかといった。夜から荷物を纏めて、みんな山原へ行くんですよ。だけどわたくしたちは、山原へ行くよりうちにいた方がよくはないかということで、米須の部落にとどまっておったのです。

 

部隊の志村大隊のヒヤラ隊という中隊ですが、その人たちがうちで炊事をしていましたが、その人たちがもし戦争になったら僕たちのところへ来てくれといいましたので、そこの壕に一時は避難することになったのです。それでわたしも、いっ時は、そこで炊事をやっておりましたが、大田先生と二人は、志村大隊の方で、看護婦として働くようにということになりました。

 

アメリカの飛行機は、五時頃になると退散するんですよ。どこに帰るか、軍艦の上に行くかわかりませんが、その頃からみんなは夕飯を炊きに出ていくわけですね。
二十三日の日は、最初の日ですから、ぴんと来ないわけです。山原がいいのか、米須がいいかわからないもんですから、みんなおうちにおりまして、晩ですよ、夕ご飯炊いて食べたり、いろんなことをしていて、二十四日になってから、空襲が二日もつづいているもんですから、焼夷弾も落されてあちこち焼けるし、それでもおうちは四、五軒だけ焼け残っていたんです。そうしたことから、山原へ疎開した方がいいんじゃないかということで、馬車を持った人は馬車に荷物を積み込んでですね、一応は東風平あたりまでは行って、そのまま山原へ疎開した方もいらっしゃるんです。けれども艦砲射撃の音を聞いて、あっちも同じだから、自分の部落へ帰って来た方がいいということで、戻って来た方も大分いられたようです。

 

それからは、朝起きると壕へ走って行って、荷物はもうすべて壕に置いてありますから、ただ寝泊りと、夜の食事をするわけですが、近くの屋敷でご飯は炊くんです。壕の中ではご飯は炊けないんです。煙がずっと入っていますので夜が明けた後も煙が出るということで、それに壕には入れるだけ、民間の人たちは入っていましたので、そこで炊事して煙が出たら爆撃されるからということで、人の屋敷でご飯は炊いたんです。

 

それから、中部や首里などから、南部の方がいいからといって疎開して来られる方がたもおられました。それは四月に入ってからであったと思います。それまでは部落の人だけで、夜は部落の中が賑かであります。昼はみんなが合同生活で壕におりますから、わっしよ、わっしょで壕が賑やかなんですよね。

 

わたしの父母は、部落の人に志村大隊の方から壕を一つ提供しましてですね、その部隊に働いている者の親戚たちをその壕に入れることにしてありましたが、何か、スパイがいるということで、一般民の場合は、夜芋を掘りに行く場合は、部落の兵隊がついて、連れて行くようにしていました。一班、二班と組をわけまして。それでわたしの父が一班の班長で、徳元正平さんのお父さんが二班の班長で、二つにわかれまして、芋を掘っていたようであります。

 

その時は、わたくしは隊の方の炊事に行っていましたので、畑に野菜取りに行ったり、半分の時間は炊事をするんですが、わたくしはほかの人のように、そういったことをしたことがないので、野菜取りに行っても、いつも五十メートルも百メートルもおくれてついて担いで行くといった有様でありました。野菜というのはおもにキャベツでありましたが、畑で米俵にそれをつめて持ちました。芋の方は、民間で取ったのを兵隊さんたちが、わけて持って来ました。まあ、供出ということで、部隊へ芋をわけて持って来ることもありました。

 

それまでは、ご飯というのは、芋ご飯を炊くこともあるし、米だけのご飯を炊くこともありまして、それを飯盒に詰めて、二人で一つの飯盒ということにして、兵隊さんに食事を与えていましたけれど、米は玄米で来ていましたので、それで米つきという作業もありました。

 

四月の初めに、山部隊と球部隊とが入れ替りになりました。山は前田戦線の方へ行きまして、球が米須部落に来たわけです。それで志村隊が交代して球の有馬隊になりましたので、わたくしたちは、そのまま有馬隊の方に勤めたのです。

 

志村隊の頃は、看護といっても大した仕事はありませんで、六、七名の隊員が、炊事の時に何か爆発して焼けどしたのがいたので、それを手当てしましたが、そのほかは、作業で怪我して来たのを手当てするくらいで、その頃は楽な仕事でございました。

 

そういったふうにすごしていましたが、さみだれですね、その雨が降る時だけは、飛行機の方も少くなったんですけれども、四月の初め頃からは、飛行機が、まるで暴風前のトンボが飛ぶように、物凄く多かったんです。

 

わたしたちは有馬隊に来てから、中村隊という四中隊の方に今怪我人が出たからすぐ来い、といって呼ばれたんです。その時に、大田先生と二人で行きましたら、敵に見つかって機銃射撃されたんです。中隊は山の方でしたが、途中岩に隠れまして無事に四中隊まで行きつきましたけれども、四中隊に行って見たら、壕を掘るために怪我をしていたのですが、怪我をしていても壕を掘っておったんですよ。それでこの人たちを治療して帰りましたが、四時頃になっていましたでしょうかね、最後の飛行機でしたが、途中でまた機銃掃射をされました。そうしましたら衛生下士官が、その人が途中まで迎えに来ました。隊長が今、お目玉だから、迎えに来たということで、途中でバッタリ逢ったんですけれど、有馬隊では、沖縄人はみんなスパイと見ていたのかも知りません。臼井という下士官ですが、その人に有馬隊が、ただただ娘たちを手離してはいかんぞ、といったといって、それで僕が、あなたたちが、今、髪洗ったり、洗濯をしたりしに井戸へ行っていますから迎えに行きますといって出ていらっしゃったそうですがね。

 

有馬隊に替りましてからは、四月の初めから五月にかけて、山城部落の前の境にいまして、それまでは患者が少いですから、看護婦は二人に衛生下士官がついているくらいで、軍医もいらっしゃらなかったんです。それでわたしたちは各中隊を廻って、ちよっとの怪我人の治療をしたり、山部隊の焼けどの人たちの治療したり、楽でありました。

 

四月の末頃からか、山城のから昼は全然そとへ出られません。夕方の五時頃からは飛行機がいなくなりますので、その頃から、壕のそとでご飯も炊いています。五月のはじめ頃までは、まだそんなにきびしくはありませんでした。

 

それから、球部隊の有馬隊は、米須の裏がわの米須城趾へ移動しましたが、五月の何日頃でありましたか、ちょうどその時から大雨でした。そうしたらの入口まで浸水しまして、井戸の水がつかえなくなって、その水を濾過して飲んでいましたがね。何日くらい雨がつづいていましたかね、雨降りの時だけは割りと静かでありました。

 

はっきり日は憶えていませんが、前田戦線や、首里の戦線から下って来るんです。追われて来るわけなんですね、首里の戦線から、ドンドン、ドンドン追われて来る。一般の人たちもみんな南の方へと来ました。五月の末頃ですね、わたくしの先生方も見えていました。それから四年生なんかも来ていましたので、その人たちと学校の入口であってね、「あいえー、元気だったね」と大声で叫んだら、「君たち、戦争だぞ、もっと静かにせんか」と兵隊に叱られました。それでも、生きているという感激で抱きついて、同窓生でしたから、「ああ、元気だったね」と涙を流して喜んだんですけれど、その同級生は戦争から生き抜いて、現在元気で与勝(与那城村・勝連村)の方で教職についております。それからうちの部落の一期先輩も来ていまして、その人も一年間ずっといっしょでありましたから、喜び合いました。

 

また二年の時の担任の大庭先生、あの先生と、機織の小橋川とい先生、このお二人の先生がわたくしの家をたずねて見えたというので、今その先生方どこにいらっしたの、とわたしは喜んで母に訊きましたら、井戸の方へ水汲みにいらっしたかもしれないよ、といったんです。

 

米須部落は、井戸が少いんですね、東と西と後と三つしかありませんが、後の方の井戸は部隊が占領していますし、西と東としか使用していませんでした。

 

西の井戸は水が少いし、東がわの井戸へこの先生方は水汲みに行かれた。わたしは各中隊へ治療しに行くところを、その井戸へ寄って先生方を迎えに行きましたもんですから、ちょうどバケツに水を持って上って来られるところで、先生わたし持ちましょうといって、先生方ご元気でいられましたね、と懐しくてですね、生きていてあえた、互に元気であうことができたという気持でしょうね、涙が出ました。


そうして、わたしの母のいる壕に入って下さいと申し上げて、母の壕に先生方入って貰いました。わたしの父は、五月の一日か、五日か、はっきりわかりませんが義勇隊に取られて、母だけがほかの人たちと壕にはいりました。

 

そこへ石部隊がやって来ましたが、石部隊は首里高女のわたくしたちの学校の四年生が勤めておりましたので、小橋川先生は、年を取っておられて、体も弱っておられたので、学校の生徒たちと石部隊といっしょの壕に入られました。


五月末頃か六月のはじめ頃、各部隊の団体看護婦は、石部隊とともに後方へ下りました。しかし看護婦を極めておく壕がありませんから、一応解散して、自分自分で各中隊や小隊と相談して入るようにということになりました。わたしの一期先輩の姉さんは、うちの部隊ではないんですが、山部隊の怪我人が下がって来ていまして、その山部隊の倉庫の中に怪我人が二、三十人おりましたので、そこの看護婦としていて貰いたいと向こうから頼まれた。そうしましようと相談して帰りがけに、わたしたちがこのから出て五十メートルほど行ったところで、その壕は直撃を受けたんです。それでわたしたちは命は助かったが、その境にいた兵隊たちは全滅したんです。それからこの姉さんは、前の自分の壕へ行ったんですが、その日その姉さんたちの壕が落盤して、そこで石が割れてしまったので、安室さんという方に担がれて実家の壕に行きましたが、実家の壕で、安室さんと二人自爆して亡くなりました。

 

また大庭先生のことになりますが、二十名ほどの生徒といっしょに、その壕で、生徒たちの責任者みたいになっておられました。今のひめゆり服装学院の大庭先生ですよ。先生は終戦まで、学校の東がわの壕におられました。

 

五月の末頃だと思いますが、ドンドン、ドンドン怪我人が入って来るし、山部隊の人たちも暁部隊の人たちも入って来ますからもう昼夜ってないわけですよ。看護婦二人だけですからね。睡眠なんかとれないんですよ。

 

怪我人が引きつづいて入って来ると治療してやる。たとえば腕を怪我して腕の上を止血帯で強くしめてあったと思うんですよね。そこでしめられておるもんですから、それで腕の先が真黒になって、骨と皮がくっついたまま、肉は腐って、その真黒い肉が垂れ下っているんです。そういう腐った肉を切り取って、そこをオキシフールで洗って繃帯をしめてやるのですが、思うようには行きません。軍隊の場合は、山なら山、球なら球というんですが、この人の場合は所属部隊を言わないのですよ。それでも、わたしたちが軍医殿にお願いしたので、後で軍医殿も見えてこの人は、切断して貰いました。

 

この人たちは食べる物もないから、ずっとひもじい思いをして来ているわけです。一人の人はつんぼ(ママ)で耳は遠いし、一人はこういうように怪我して来ていたんですが、つんぽの人も怪我をしていましたが、頭が少し変になっていたと思いました。
この怪我した人が、看護婦さん、何かお握りでも残っていませんかというから、すべてみんなに配って、何にも残っていませんがといったら、何かありませんかなあ、それではお塩でもいいから嘗めさせて下さい、というので、わたしはお塩を貰って来て、嘗めさせてやりましたけれども、この人たちが、前で話しました直撃をくらった壕、あそこに入っておったのです。


これが山だとわかると治療させません。絶対ほかの部隊の兵隊は治療してはいけないといわれていたんですよ。同じ日本人でありながら、どうして部隊がかわれば、他の部隊の兵隊の治療はしてはいけないんですかと訊いたら、各部隊に医療薬品は配られているので、その範囲内しかないから大事に使わないといけないんだ、と注意されました。だけれどわたしたちは、気の毒でそういうことに構ってはおれないんです。そんなに区別していることはできませんから、片端からみんな治療してやりました。
暁部隊の何とかいう中尉が来ていましたが、この人が怪我して、治療してくれと来ましたが、ちょうどわたくしたちは睡眠時間なんですけれどね、看護婦さん、看護婦さんと起されたもんですから、どなたですかと訊いたら、僕は部隊の小隊長だけれど全員、みんなが怪我して、今、ここの部落に入って来たが、治療してくれんかといらっしたわけなんですよ。


衛生下士官もどこかへ行かれておりませんで、わたしたち二人だけ医務室にいましたが、そこに見えたから、じゃ、治療しましょうといって、治療しまして、治療している間に貧血なさったんじゃなかったでしようか。ちよっと泣いように思ったので貧血だと思いましたから枕を下げて、休んで貰いました。多分栄養失調にもなっていられたと思いました。それで、大分疲労して、いられるようでありましたから、炊事の方にお粥を作って頂戴と頼みました。炊事の方は全部わたくしたちの同じ部落のものでありましたから、遠慮なく頼むことが出来ました。そうして上げたわけです。


そうしたらすぐ眠ってしまわれたようでありましたが、しばらくすると、寝言か何かわかりませんでしたが、あーああ、と仰有るんです。それでわたくしたちは、少尉殿、少尉殿と起して、どうしたんですかご気分でも悪いんですかと訊きましたら、いや、今、小隊長殿、天皇陛下万歳といって兵隊が死んで行くような夢を見ていたようであったから、僕はうなされていたのか、とおっしゃったんです。それからは大そう元気になられました。しかし怪我はかなり深いようでありました。

 

そうしたらその中尉は、もう僕は食事も要らないけれど、僕の部下がそこの道路わきに三十名くらいいるから、もしご飯があったら、小さいのをひとつずつでもいいからやってくれないか、と仰有ったもんですから、それでは炊事の方へ頼んで見ましようということで、わたしとマキお姉さん(前出の大田先生と思う)と二人で、バケツ二つのいっぱい、特別につくって貰って、昼ご飯といってつくってあるのをほかの人は、少なくしてもいいからというのでそれから分けて貰ったんです。

 

炊事の方ではいつも余分に炊いてあったらしいんですね。それをバケツ二杯分持って行ったら、それは大変です。腋枚ついた人などが、ぞろぞろ、ぞろぞろ、われ先に岩陰や木の下から出て来るわけですよ。それで後一人という時に無くなったんですよ。
それでそこで奪いっこしましてね、喧嘩みたようになって、何だかああいう状態を見ていますとね、戦争って、こんなに非人間的なもんか、人間を浅ましくするものかなあと思いましたよ。一つの握り飯を奪い合って喧嘩するんですからね。喧嘩はしないで下さい。「すぐ貰って持って来ますからしばらく待って下さいと子供をなだめるようにして、走って持って来て上げたんですけれど、飯を見ると飛びつくんですよ。それでああいう杖をついた人たちが、握り飯を奪いっこするのを見ると悲しくなりましたけれどもね...。

 

それから患者はドンドンふえる一方ですから、やっぱりこの暁部隊の人たちばかりではなかったと思うんですよ。わたくしたちは、余分に握り飯をつくって持って行きましたから、ほかの部隊の患者たちもいっしょになっていたと思うんです。

 

それは五月の末頃だったと思うんですが、六月の初め頃になると、あちこちの山が艦砲やいろいろの弾でやられているもんですから、各中隊へ治療に行きながら、俳句を作ったり、「サイパンの島よー」というサイパン玉砕の歌がありますね、あれを、沖縄の島よーに代えて、「沖縄の島よ、泣き、怒り、奮えよ、撃てよ、奮えよ、撃てよ」と道を歩きながら、小さい声でよく歌いました。俳句といいましても自然に心に浮かぶまま「今朝の山、今夕べには池となる」といったものでありました。

 

わたくしたちが治療に行く時は夜ですからその頃からは人通りのないところは静かだし、道に出ると人がいっぱい後方に下るといって行きました。

 

その頃からは、部落の人たちにも怪我人が出ました。うちの母は、学校の東の壕に入っておりましたが、その学校の東がわの壕は部隊が入るから、あなた方一般民は出なさいといって追い出されたわけなんです。

 

それから母は一人だからさがしして、自分の兄弟を頼って、学校の裏の壕へ行きました。その境というのは、入口がただ一つなんですよ、人ひとり下りられる程度の、一メートルか一メートル五十センチの梯子を置いて下りるくらいの深さの壕なんですよ。そこへ下りたら中は部屋みたいになっているんですね。そこにみんな何かを敷きつめて生活しているようでございました。

 

けれども、うちの母なんか後から入って来たもんですから、ずっと奥の方へ。まだ下の方に洞穴があるわけですが、その洞穴の中間くらいのところに板を敷いて、そこにおりました。

 

わたくしがそこへ行きましたら、母方の遠い親戚ですけれど、この人が艦砲射撃の破片が頭に当りまして、骨が砕けていたわけなんです。そこから、脳味噌が脈と同じように、むくむくと出て来るんです、一遍には出ないで。あき姉さんと二人で出たのは取って、これをそのままにして全部出しては脳だから大変だといって、ガーゼであまり出ないようにしておさえまして、頭を繃帯で巻いてやってですね。

 

出血がひどいもんですから物凄く痩せてしまって、そのにはこの患者は置けないから、今度は学校の裏がわの東がわの壕ですね、納骨堂がございますが、ご覧になったことありませんでしょうか。下は畑で、壕には部落民が入っておりましたけれど、そこの入口の方に寝台を置きましてこの患者を寝かしておりました。夏が近づいて、六月といいますともう暑くなりますね。それで暑いもんだから、その患者を暑いところに置いたら大変だから、とは、いたんですが、そのままにしていたんです。

 

そうしたら、このお母さんは意識はあるんですね、たしかなんですよ。それで、文ちゃん、あきちゃん、毎日来てわたしの頭を癒してくれよ、というから、はい、何んでもないですよ、すぐ癒りますよ、というて、ねえ、わたしのところは豚の脂も沢山あるから、これも持って行って食べなさい、というんですね。何か食べ物でも与えていればいつも来てくれるという気持があったんではないでしようか。それで、軍は、わたしたちは食べ物はいくらでもあるからおばさんたちが、食べ物に困るからいいですよ、それいりませんよ、わたしたちは持って行ったって自分たちでつくって食べることもできないし、ちゃんとつくられているものを食べるんですから、いいんですよ、といったんですけれど、何かくれて、毎日来て貰おうと心にかかっておるんですね。


それで、毎日夕方の五時頃に来ますよといって、それで毎日行っ帯を取りかえてやっていましたが、その度に脳味噌が出て来ているもんですから、それを奇麗にしましたが、頭をやられていますから駄目だと思いました。

 

それから二、三日経って、その壕にもおられないで、もっと裏の山陰の人のおらないところの岩陰になったところに寝台を置いて、この方たち夫婦はおられたそうですけれど、子供たちは向こうは危険だからといって行かなかったそうですが、それから一週間くらいで亡くなったそうです。

 

それからわたくしと同級生で年は二つ上の人でしたが、額の下に破片が当っていました。脳にはさわっていませんでしたので、怪我をしたら絶対に水は飲まないようにといいましたら、それをよくつつしんで水を飲まなかったので毎日治療しましたら、早く癒って元気になりました。わたくしたちは、このようにして、部落の人が怪我したと聞いたら、いつでも行って一般民を治療しましたが、これは部隊には内証なんですよ。部隊に知らすと怒られますからね、絶対一般民は治療してはいかんという規則がありましたが、だけど聴いたら治療してやらないではいられませんでした。今教員をしている仲宗根千代子という人も足を怪我しましたので、この人も治療してやったら早目に癒りました。

 

こういったふうに民間の人も治療したし、それから兵隊もドンドン来るし、忙しくなりまして、両親に会う機会もぜんぜんない。父はもう行ったきりでぜんぜんあわないし、母のところへは、治療の帰りにたまには寄りますが、寄る暇がない、ほとんどないというくらいでしたからね。

 

六月の十日頃ですかね、八重瀬岳に敵が来た頃ですよ。与座岳あたりに来た頃ですかね。自分の中隊からほかの中隊に治療しに行っ帰りがけに母のところに寄ったわけです。母の壕は学校の裏がわで、ちょっと山手、上にあがったところでございましたから、そこから真栄平ですね、向こうの前の山が、ポンポン、ポンポンと何といいますかね、榴散弾ですかね、何んという弾ですか、この弾が一つ落ちると、ポンポン、ポンポンと山が全部焼けて行くんですよ。破片みたように飛んでですね、その破片みたような弾で焼けたのか、ほかの弾で焼けたのか、それはわかりませんが、ポンポン、ポンポン弾が撃たれて、山がボウボウ、ボウボウと焼けて来るわけです。

 

それでわたしはお母さんに、お母さん敵は、アメリカーは、すぐそこまで来ていますね。家も山もあんなに焼けているものといったから、お母さんは、あなたも疎開していればよかったのに、こんな情勢になるとは夢にも思わなかった、あなたでも疎開しておれば、わたしも安心して死ぬことができた筈だのに、もうアメリカーがここまで来ているとすれば、あなたが死んでも、わたしが死んでも母を恨まないで頂戴い、というので、今からがわたしたち孝行するんだと思っているのにお母さんどうしてそんなこというの、といって、それからその壕で話し合って泣いたですね。

 

そしたらその日は、どうしてなのか、夕方からずっとおそくなってからも、船から何機銃といいますか、ポンポン撃って来るんですよ。その弾が山手に来るとこう上るんですね。そうして平坦地に来ると下って行くんですよ。そういう弾がポンポン来るんです。それでお母さん、わたしが一応見てから出なさいよ、危いからといって、その壕は梯子をかけて上りますから、前の方の葉の入口には、石で囲んで弾よけがつくられていました。まだ弾が激しいから今は出なさるなと止めました。その頃はご飯炊きにも出られなくなっていましたので、うちの母は澱粉を大事に持っていましたから、その芋の澱粉に砂糖を溶かして、これは栄養価も高いからこれを飲みなさい、とくれました。

 

その時母は、わたくしに、アメリカの兵隊はそこまで来ておるというし、あなたは部隊といっしょだし、そこにずっといると兵隊にスパイといって摑まえられるから、若い子はやはり軍にいないといけないから、どういうことがあっても、もう親を恨まないで頂戴いね、こういう戦争なんだから、ということで話し合って別れましたけれども、弾が静かになって、日が暮れていました。

 

それでわたくしはその壕を出ました。その壕から二メートルくら行くと下り坂になります。そこをおりて行きますとそれからわたくしたちの壕は五百メートルくらいしか離れていませんから、まだ離れていますかね、米須の後がわの井戸のところでした。そうして別れたのが、母との最後でした。

 

それから時は、六月の十七日、馬乗りされるという日、わたしたちは夜も昼も、眠らないでみんな兵隊の治療でしたね。今では通信隊が来るし、うちの壕はごった返しなんですよ。奥行が百メートルぐらいありますが、壕の入口が四つあるんですよ。山の中間くらいに一つ、山の麓に大きな入口がありますし、それから向かって右がわに二つ入口がありました。四つの壕がありまして、右がわの壕と、山の中間くらいにあると、真直ぐに埃が掘られていましたが、これは武部隊の掘った壕で、米須城趾の下に、このような大きな壕を掘ってあるわけなんですよ。

 

それで真正面が百メートルくらいありますからね、縦横百メートルくらいあったんじゃなかったですか、それでわたしたちはその中心の四つ角のところに医務室を置いてありましたが、そこはもう全部患者ですよ。真正面の入口に、通信隊が来ているんです。球部隊の通信隊とかいっておりましたがね。

 

兵隊がいっぱいで入ることもできないんですよ。片一方に寝台があって、片一方は通路ですが、寝台といっても戸板を並べてあるんです。奥の方には患者もおるし、ほかの部隊もみんな入り込んで来ているわけです。ですから壕の中は、奥の方からずっとごった返しですよ。

 

これが六月の十日くらいではなかったかと思いますが、また二、三日したらこの通信隊はどこかへ移動して行ったんです。ツウッウテンテンしていましたから通信隊だろうと思いましたが、ごった返していますから何が何やらはっきりはわかりませんよ。ただ動作を見て通信隊だと思ったが、それがどこへ移動して行ったかもわからないですが、そうするとまたほかの部隊が入り込んで来るし、患者は患者で、壕の中は人間のうずまきみたいです。

 

それから医務室では足の切断やらもあるし忙しいんですよね’切断は昼間やりますが蝋燭も灯してありますが電燈も、普通の電灯がありますからね、看護婦は、赤十字の方たちも来ていましたので、わたしたちもその人たちといっしょに看護をして、それが済むと、患者への飯上げまでもやりました。

 

それが十何日頃ですか、そんなにごった返していた人間が、全部引き上げました。後方へ下ったつもりだったと思うんですよ。それで、手榴弾が不足だということで、大田先生、あき姉さんとわたしと二人に一個渡されたわけです。そうしたら、あき姉さんという人は慶良間の方の看護婦さんと、軍医中尉と、それから衛生下士官二人と、どこそこの中隊に行かなければいけないからということで、そこで大田先生と別れてしまったんです。

 

それでわたしは、自分の中隊では一人しかいないから、ほかの人たちと行動を共にすることもできません。わたしはこの部隊を守ってここにいますということで、炊事も同じ部落の方でありましたし、また親戚も一人いましたので、わたしはあなた方といっしょに行動させて頂戴いとお願いしまして、いっしょにいました。他の人たちは、軍医中尉や衛生下士官なんかと後方へ下って行ってしまったわけですね。これが六月の十五、六日頃ですね。

 

そうしてうちの部隊は、十七日か十八日頃馬乗りされているんですよ。それとも十九日ですかね、そこがはっきりわかりませんですね。

 

それで明日馬乗りされるという日に、うちの母が井戸まで来ていたそうですけれど水汲みにというので。その時わたしは他の中隊にでも行っていたのか、わたしがいなくてですね、母はあえなくてそのまま帰ったんですけれど、母は十九日の晩、焼かれているんです。母の入っていた学校の裏のに何かドラム罐で石油か何かを流し込んで焼いたらしいんです。

 

わたしは、その日はわかりませんでしたが、後でそういう話を聞かされましてね。それで母だけでも自分といっしょに壕においておくことができたならと思ったんですけれど、後の祭りでどうすることもできなかったんですよ。

 

これも後で聞いた話ですが、父は摩文仁岳の方へ行っていたが、解散になって、母がその壕にいるということを聞いて、あしたやられるという日に父がまた母の壕に来ていました。

 

教員している叔父がいたんですが、その叔父もその壕に来ていたということで、叔父と三名この壕でいっしょにやられて死んだそうです。その叔父は、叔母(叔父さんの奥さん)も教員でありましたが、子供たち二人をつれて、三月一日に出るはずの船が、空襲、空で三月三日に出て、三月六日に電報が届いたそうですけれど、その電報も直接ではなくて政府からの通知らしいんです。その電報はブジツイタというのであったが、叔父はそうあっても一隻だけブジツイて、他のものはそうではないかもわからん、ほんとは見込みはないといっていたそうです。

 

教員していた叔父でも、アメリカ兵が来たら竹槍で刺し殺してやるといっていまして、世界の状勢を知らなかったというのか、今になると、ほんとに日本は、世界の文化の発達しているのを何にもわからないで戦争やったんだなあ、とつくづく思われるんですよね。わたしは、アメリカがどれだけの武器を持っているか、日本と比較できない、あんなに武器を持っているあんな大きな国と闘かったんだなと、今になって考えられるわけですよ。


今晩は馬乗りされるという日の何時頃でしたかね。防衛隊の隊長当番で、比嘉さんといって羽地の人ですけれど、この人はわたしと同年で防衛隊でしたもんですから、その人に、お兄さんは今教員しているらしいんですよ、羽地で。前は羽地だったんですけれど、その人に貴方もね、わたしを手伝って患者の飯上げをやって頂戴いといってお願いしたんです。そうしたらうんうんといって喜んで引き受けてくれました。
二人で飯上げに行こうとしたら、バンバンと撃たれたもんだから、わたしはバックするし、あの人は坂を下りればもうなんですからね、その壕に飛び下りたわけです。そうして、父さん、文さ


んとすごく大きな声で呼ぶんです。わたしがやられたと思ったんだそうです。呼んでいるがわたしは、敵がそこにいるから、返事しなかったわけですね、そうしたら駆け登って来てから、元気だのに返事をせんか、と怒鳴ったので、敵はそこにいるよ、といって、吃驚してですね、まあ、よかった元気だったね、とそれから下りて行って、握り飯を貰ったんですが、わたしたちのところへ撃ち込んで来たのは戦車砲でした。真壁から撃たれた戦車砲が、パット明るくなって来たわけだったんですが、それまでは戦車はなかったんですが、それからは戦車砲が、やると同時にパラパラ、バラバラと音がするんです。破片が下に落ちる音か、何かに当る音か、霰でも落ちる音がしますでしよう。そういうふうに、パラパラ、パラパラッと音がするもんですから、そとに出たら怪我するよ、ということがあるもんですから、わたしは、黙っていて比嘉さんに怒られてからまた下りて行ったわけです。

 

そのわたしたちの壕の上に、米須城の按司墓というのがあります。そこには大勢の兵隊がいました。という、岩陰という岩陰はすべて兵隊ですからね。そういったところはほとんど怪我人が入っていたのではないですかね。その人たちは艦砲射撃の直撃を喰ったわけですよ。そのように入っている様を、トンボがですね、飛んで来て、グルッと廻って来て、変な空中返りみたようにして、引っくり返って行ったらですね、そこへ艦砲射撃がボボンと来るんですよ。もうトンボが逃げて行ったかねと思ったら艦砲射撃が来るんですからね。

 

その艦砲が来たら、頭も飛んで来れば、手や足の骨が飛んで来たんですがね、後で行って見たら、死人がいっぱいですよ。頭が飛んだり手足が飛び散った人たちは、恐らく外にいたのではないですかね。壕のそとに立ったりしているのが吹っ飛ばされたのではないかと思うんですがね。それがわたしたちの壕にも飛んで来たので、あっちの人たちは滅茶苦茶にやられているね、と思ったんですが

 

そればまだ中隊が境にいた時のことですが、六月の十何日頃になっていましたか、日は憶えていません。わたしが、学校の東がわの壕へ治療しに行った時に、山と山との間、そこは掘り割ではありませんが、そう広くない道ですよ。その道のそばに、大きな巨体の人が倒れておるんですよ。もう六時頃になっていた。それからは日が暮れるのが遅くなっているんですよ、六月になりますと。

 

それで昼間が長いもんですから、飛行機が飛んでいる間は出られませんから、飛行機が飛ばなくなる時に中隊へ治療しに行くわけです。その時に、いつも通っている、方言ではアンチョーミーといっていますが、小さい橋ですね、道路のところに排水溝の橋があるわけです。そこは畑で、田原という道です。それからずっと行ったらわたしたちのですけれど。その橋の袖が全部兵隊やら一般民やら、少しでも隠れるものがあれば、入っていっぱい詰っていたんですね。そこが直撃喰ってですよ、多分大きな大砲だったと思うんですよ(爆弾ではなかったかとも想像される)。大きな池になってしまってですね。

 

そこから吹っ飛ばされた人が、土の中から顔だけ出している人もいるし、それから背中だけ見える人もいますしね。土に体は埋って、足だけ曲って出ている人もいるし、あちこちにそれが見えるわけなんですよ。あれっと、そこの近くまで来たらもう道を歩けなくなりまして、またバックしましたが、そこには三十名くらいの人が、その(暗渠)には入っていたそうですけれどもね。この橋はちょっと大きかったんです。馬車が通れるくらいでしたが、それでそこをバックしまして山の麓の方から歩いて来たことがありました。その日、帰りに軍服つけた人が、軍服がはち切れそうに大きくなって倒れているのを見て、おお、そこにもいるねと驚いたんですよ。


それからしばらく行くと、学校の東がわですね、あの道路がいっぱいですよ。人がいっぱい。第何中隊お願いします。第何中隊お願いしますとしきりに呼んでいるわけです、怪我人が。自分は第何中隊に運んでくれというんですが、それなんか聞く暇はありませんよ。道路の真中を北の部落から後方へ、一般民やら兵隊やら元気な人たちがみんなわっしょいわっしょい、もう現在の那覇の平和通りのもっとも雑闇している時の人くらいいたんじゃないですか。

 

それだけの人がさっささっさ通って行くから怪我人は、そばに這っているんです。わたしは自分の中隊、第四中隊だったと思いますが、そこまで行って治療して来ましてですね。その帰りがけに、学校の方に、こういう患者がいるってよ、というもんですから、行て見たら、壁の近くに動脈をやられてです。その血がザアッとコンクリートの壁に血が散っているんですよ。それを見た時は大変だったでしょうねと思いましたけれどもね、ああいう患者は、今から考えたら一発で死ぬことができて、却って極楽ではないかなと思いましたが・・・。

 

わたしの姉なんか、後で遺骨拾集に行った時に見たら、足の骨は砕けていますけれど、即死ではないんですよ。そして一人助かっている人は、わたしの姉と自分のお母さんとが一メートルくらい離れていて死んだわけですよ。お母さんは即死で亡くなって、わたしの姉は生きていて春子、春子、すぐ立ってね、一発で当って死になさいよ。わたしのように生きていて、苦しんだらいけないよ、といったというから、死ぬくらいなら一発で当って死ぬ方が極楽だね、とつくづく思いました。それで後になって遺骨拾集の時に姉の遺骨を調べたら、足の骨やあちこち折れてはいましたが、急所はやられてないから意識はあったというわけですね。そういう死に方の人も沢山いたのでないかなあと思います。

 

そういった人たちには、夫は戦死するし、本人(妻の意味、徳元さんの姉さんの意味を含んでいるようである)も戦死しました(が残った子供には援護金はありません。)兵隊で戦死した子供がおれば、親は働き盛りであっても援護金は与えられますよね。ところが兄弟は生きて、不具者(ママ)であっても援助金というのは涙金くらいも全然ない。何といいますか、年金とかいって与えるでしよう。だけれども、みなし児であったり、怪我をして自分は重態であっても働かなければ食べることができない。親はいなくても子供は育つかもしれませんけれども、終戦当時はそうでありませんでね。

 

わたしが日本政府にもっとも訴えたいことは、あの孤児たちが、どういうふうに苦労して、悲しい思いをして、肩身の狭い思いをしてね、一人前に育って来たかと思うと、そういう人たちにこそ戦争の援護金を与えて、戦後のその子供たちの正しい教育をすべきでなかったか、そのみなし児になった人たちがですね、いろんな不良児になったり、祖母も二、三日前刺し殺した例がありますね。ああいう人たちでも、この戦争のためにそんな性格になったんじゃないかね、とその新聞を読んで思いました。だからわたしは、そういうみなし児たちにも日本政府はある程度考えてやるべきではなかったかなあ、とわたしは思いますけれど。

 

註、現在の高校一学年の年齢の徳元さんが、父母をはじめ、身寄りをほんど全部失ない、しかもこの後で自分も重傷を負い、現在も身体傷害者である徳元さんが、自分みずからその苦難を負って今日になっているので、それは切実な実感であろう。ちょうど徳元さんの意見を書き終ったところへ、今朝の新聞を開いたら、偶然にも、徳元さんの意見を如実に実証している新聞記事が目についたので、この戦争孤児の具体的例を挿入することにする(一九七一年二月十三日、沖縄タイムス朝刊)。

 

『○・・・本土で働きながら夜間中学に学んでいる沖縄出身学生が、戦争で、生き別れとなり行方がわからない妹さんを捜している。喜屋武久明さん(二九)=荒川区第九中学校二年で、出身地は西原村桃原四一番地、両親を戦争で失ない、当時四歳で戦災孤児として放り出された。

 

〇...そのとき二歳の妹ユキ子さんと宜野湾村野嵩付近ではぐれた。喜屋武さんは、昭和四十一年、二十五歳で、職安を通じ和歌山県集団就職で本土に渡るまで、沖縄で妹の行方を捜し出すことができなかった。

 

○...昨年四月、働きながら学ぼうと上京、荒川区第九中の夜間部二年に編入、常に妹のことが忘られず「どこかで生きているのでは...」と担任の河原先生を通じたずねてほしいと依頼してきた。荒川第九中学校は荒川区東尾久二ー二三。』

 

この記事の喜屋武さんの部落、西原村桃原部落は、一家全滅が五十パーセントをこえる。部落の半分の家が全家族戦争の犠牲になっているが、前記の記事中の喜屋武さんのように一人しか残っていない家は全滅に数えられていない。当時二歳の妹が、四歳の喜屋武さんとはぐれているが、現在までのわたくしたちの調査では、二歳の孤児を顧見てそれを助けてやった例はなく、永久の行方不明になっている。しかしこの二歳だった妹さんが、どこかで助かっていてくれることを祈る気持が湧然と起こる。

 

わたくしの姉は、米須と伊原の真中あたりで、畑の中ですけれどね、部隊に勤めていました。そのころ行動を共にした春子さんという人は元気なんですよ。その人のお母さんとうちの姉と三名、兵隊は後方に下るんですよね。自分たちは戦争だ、戦争だといっていますが、戦争どころではないんですよね。武器がちがいますから。わたしたちが見た範囲でも、戦争というものはこんなものかねと思いました。

 

ちょうどわたしといっしょにいました手の無い姉さんのお姉さんといって、「たま」という姉さんですけれどもね、その姉さんが子供何名かを連れて、夫は戦争に出てですよ、その壕がナーシンドアブ小(アブは自然壕のこと)といって、学校の近くの壕です。ある中尉が来てですね、「君たちはなぜ疎開しなかったか、君たちは手足まといだからこのから出ろ、ここは兵隊が入るから出ろ、君たちはそこから出ないのなら刺し殺してやるぞ」って、いったらしいですよ。何という中尉かしりませんけれども。
そういったから、殺すなら殺して下さい、あなた方に殺されて死ぬならわたしたちは、本望だ、兵隊は壕の中に入って戦争をするんですか、わたしたちを出してこの壕に入りたいなら、わたしたちを殺してから入って下さい、といったら後は物も言わず引き上げて行ったらしいんですがね。そういうふうにして、一般民を壊から出そうとしておるんですよ。それをききましてね、それは、一般民の壕であって兵隊のではないのに、どうして一般民のを奪って取るかといったところがね、日本軍は間違っていたのではないかといっていましたけれど。

 

それでわたしの姉なんかも、第一線だから、あなたがたはそこにいなさい、といわれたので、お墓を開けてですね、徳元門中と久保門中の二つのお墓があるんです。そのお墓の骨を全部出してですね、そこを兵隊の壕にしてあったんですがね。これは山部隊の壕でしたが後では球になっていたかもしりませんが、それまでは委しく聞いていません。その兵隊たちは、その壕を出る時、あなた方はその壕にいなさい、と言われたらしいんです。そこに二、三日は馬乗りされていたらしいんですけれどもね、もうそこにいてもいかどこかへ移動しようということになって、自分たちの米須部落へ行って、死ぬなら死んでもいいから、という考えだったらしいんです。

 

米須の前にお墓が沢山ありますが、米須の南西の方に畑を越えて山手の方にお墓が沢山ありますよ。そのお墓から出て、米須の部落へ向かって歩いて行く途中で、夜ですね、やられているんです、畑の真中で。それで一人が助かったために後でアメリカ兵が来てですね、二人を埋めて、水筒なども置いて、この春子というのはまだ若かったけれど、その子一人を捕虜にして、それは二十日後だったと思うんです。沖縄が玉砕になった後でなかったですかね、その人が捕虜になったのは。

 

六月十六日か十七日の晩、わたくしたちは馬乗りされたと思うんですよ。その日にちがはっきりしませんがね。その日から二、三日経ってからと思うんです。ほかの壕に突破しようとするところを、宮城さんとおっしゃったですかね、屋我地に散髪屋さんをしていらっしゃるらしいんですよ。この人が手か足かどこか無いんですけれど、その人といっしょに突破しようとしたところ、あの人が倒れたからもう駄目だということでわたしたちはそのまま壕にいました。

 

ちょうど壕に帰ったところを看護婦さん、看護婦さん、と呼ぶんですよね。それで、あなたはどこの炊事婦だったの、とわたしが訊いたら、看護婦さんお水下さいというから、女の声だけれどな、そしてあなたどこの炊事婦だったのといったら、いいえ、僕は防衛隊ですよ、という、おや、あなた男なの、女かと思ったら男なの、というと、そうです、といってから大変水が飲みたいから水飲まして下さいというので、あなた水飲んだら危いから出血するから水は飲まないで置きなさい、我慢して頂戴いといったら、じゃね、ガーゼに口拭くだけ含まして下さいという。わたしは口拭いたり顔拭いたりするなら、ちょっと濡らしましようねといって濡らしたわけですよ。濡らしてやったら、それをしきりにスウスウスウと吸っているんですよ。あ、あなたそんなにするために濡らしなさいといったの、それくらい口を濡らす程度だったらいいが、ゴクンゴクン飲んだらいけないよって、注意しました。

 

ちょうどその日はもう医療の方もごった返していましたの。重態な患者はみんなモルヒネですか、モヒモヒといっていたんですが、重態の患者は見込みなしだから飲ましなさいということで飲ましましたけれども、また注射をうったりして、やはりモルヒネの注射です。飲ますと、余計飲まさないと死なないんですね、それで注射を打つんですね。

 

患者は、寝たっきりの人たちは壕から出られないが、這える人はみんな壕から出て行くのでした。やっぱり突破しようという気持ちがありますから、足がなくても這って出られるくらいの人はみんな出て行きました。いくらかしか残っていません。それでその晩馬乗りされたんですよ。

 

晩で、井戸でご飯を炊いていましたから、その部隊のご飯は、ほかの防衛隊とか、ほかの隊の人とか、みんなめいめいで飯盒に炊きます。

 

ちようどうちの隣村の知っている人で防衛隊の人がおりまして、わたしなんか、やがて弾にやられるところを防衛隊の壕に駆け込んで行ったといったでしよう、いっぱいしていましてね。それでこの人は新垣ツネヲさんというんですがね、名城の方で。

 

この人が、あれ、あなたがたもここだったのかね、元気だったか、今日はこうこういうんでおいしいご飯が残っているが、あなた方食べるかといったが、今は腹いっぱい食べたからいらないよ、というのに、おい罐詰などもあちこちの倉庫から沢山盗んで来ておいしいご飯をいっぱい炊いてあるから食べなさいという。いいよ、いらないよといったのに、まあ、半分でもいいからまず食べてごらんといわれ、じゃ、こんな沢山食べられないから、半分は比嘉さん上って、といって半分ずつ分けてですね、食べたらおいしいんですよね。それで、わたしたちの部隊の御飯よりあなた方のご飯はおいしいねといって笑ったんですが、そういった面、知った人にあうと懐かしくて、楽しかったわけですね。そうして話し合いをしましたが、それからまたお握りをつくって患者の翌日の食事とですね、自分たちの食事とを運んで行きましたけれど。

 

そうしたら今晩のうちにこのから早く出ないと危いと思っていたが、案の定、その夜が明けたら馬乗りされたと思うんですよ。それからもう一歩でも出ると弾でバンバンやられるという話でした。

 

その前に、一人の炊事婦は足を怪我しまして亡くなりましたけれども、その人は壕の入口で半の皮をむきながら、機銃でやられたんですよ。弾が入ったところの口は小さいが、出たところ大きいわけなんですよね。それは馬乗りされる十日前頃のことでした。

 

それからまた、あしたは馬乗りされる、移動しなければ危いと思った晩ですよ。隊長が、隊長当番はいないかあ、と大きな声で怒鳴りながらリックサックにいろんなものを詰め込んでから逃げるんですよ。その時ですよ。オイ、軍隊のお偉い人たちは大変だね。自分の命ばかりしか考えていないね、あんなにみんな逃げるといっ逃げる準備だけしかしないよ、といって話して笑ったんですけれどもね..................。

 

それに防衛隊長といって中尉なんですよ、その人は中村中尉といったんですがね、それから何とか準尉といって二人は、壕の中から一歩も出ないんです、そとに、馬乗りされないうちから。戦争というものを、あの人たちは全然わかりません。やっぱり兵器廠の人で、戦闘部隊でないから、そういうのが恐くて出ることができなかったかもしりませんが、だけれどもあの隊長が、怪我をして兵隊が帰って来ますでしよう、「君は武器はどうした、武器は軍人の魂だぞッ」といって怒るんですけれどもね、あれを見て、ほんとにこの隊長は偉いのだろうねと思っていたのに、敵が目の前に来て、馬乗りされるといったら、もう逃げるといって大あわてなんですよ。あんなのを見ていると、沖縄の人はもう真面目で、ほんとに純真で、国のためならとあんなにして、弾運びなんかですね、防衛隊なんか一生懸命にやっているのに、隊長たるものがあんなに壕の奥に隠れて、そして逃げて行くのかねと思ったら、もう憤慨しましてですね。今になると、ほんとにあんな戦争といってあるもんかとわたし思いますがね。あの時、隊長がああいって逃げる場面なんか見ていると厭な感じではありましたが、その時までは、隊長、隊長といって偉い人だとしか考えなかったんですね。それで戦争のために、人間の心が、どんなものであるということがわかって来たような気もして来ました。

 

それからわたしたちは、八月三日までその壕にいまして、馬乗りされてからは一歩も出られませんので、水汲みに行くことができないわけですよ。

 

壕の中には炊事婦に寝台二つですから、一つの寝台に三名ずつ横になりまして、その前に少佐殿といって、六十歳くらいなりましたかね、年寄りなんですよ、見たところよぼよぼのおじいちゃんなんですの。その方は少佐だとはいっていましたが、ほんとの少佐であるかどうかはわかりません。その少佐殿がいらっして、その前に防衛隊の中尉と准尉がいて、その隣りに少佐がいて、少佐の後に炊事の五名とわたしと六名いたわけなんですが、それから寝ころんでですね、二、三日ご飯も炊きません、みんな飲まず食わずですよ。それで上の岩からちょんちょんと水が落ちますね。その雫の落ちるところに軍の食器を置いて、その水がたまる時に飲むんですけれどもね。こんな大勢の人数ですから、いつ誰が飲んだかわからないんですの。それで、何時間くらい人が歩く様子がなかったから、水が溜ったんじゃないかなと、その間隔と、それから水の音を聞きわけるんですよね。最初水が空っぽの時はカンカンとするけれど、水が溜ったらポンポンと音がするんです。その音を聞いてわたし水飲みに行きおったんですがね、それでわたしが飲む間は沢山水があるんですよね、またわたしが起きて行くと女の人がみんな起きて水吞みに行きますから、あの人たちの分は残して置かんといかないと思って、食器は五〇六つ並べてありますから、それを一つずつ飲んで、早く飲んで来なさいというふうにして、水だけ飲んでいました。馬乗りされて二、三日して、今度は、戦車砲か何か知りませんけれども、もうハッパかけているとしかわたしたちには思われませんでした。壕の中にいますから、何が何やらわかりませんが、物凄い音で、バンバンとしますからね。これは壕の上でハッパをかけて、わたしたちの壕はやられるんだね、と思ったんです。


ところがそうではなくて、あのこの前でいっしょでありました久保田次郎先生(米須部落東地区座談会同席)方が捕虜されて行く時に、わたしたちの壕の前に戦車をですね、六、七台並べて、盛んに撃っていたそうですよ。戦車砲を撃っている音ですけれど、ハッパをかけておるんだと、この壕を壊すためだねと思っていて、その時は感ずかないわけです。


今から考えて見たら「あはあ、牛島閣下がそこに逃げて来たことを、アメリカはわかって、そこに戦車を並べたんじゃないかな」と想像されるんですよね。何しろ牛島閣下がいらっしたのが、二十一日か二日頃の腕ではないですかね、牛島閣下と二人のお伴の人と三名いらっしたわけです。それが何箱といいますか、これは貴重箱といいまして、球部隊か何部隊のものかしりませんが、壕の四つの入口の山の中間頃にある入口は、一メートル五十センチくらい下りて来てから真直ぐの壕はありますがね。一メートル五十センチくらい下りますとちよっと行って、角になっていますが、その角のところに板を敷いて部屋をつくってあるわけです。その上の方に箱が三つかさねてあったんです。大きな救急箱でも医療箱でもなかったようですよ。医療箱はわたしたちのところに二つ置いてありましたけど、大きな箱三つ並べられているのは見ましたけれど、その箱の前に三名坐られていましたよ(牛島というが他の参謀では?)。

 

そのちょっと前ですが、わたしたちのところは、晩なると静かでみんなじっとしていたが、中村中尉という防衛隊長が、その方が、僕たちはこの壕から突破するが、君たちはどうするか、突破したい人は、僕たちについて来てもいいし、自由でいいから、もう今は戦争ではないから、僕たちは突破するぞ、といわれる。

 

じゃ、中尉殿たちが突破するなら、わたしたちもいっしょに突破しようかなといって、出ようとして中尉殿たちの後をついて行ったわけです。そうしたら中尉殿に向かって、わたしなんかそれまで牛島閣下であるか、誰であるかはっきりはわからないですけれどね、中村中尉がみんな下れ、下れ、というんですよ。その中尉に、今突破する人は早くそのから出なさい、僕たちは今爆雷かけるから、出なさいとおっしゃったらしいんですよ。わたしたちはうしろの方だからそれまでは聞こえなかったんですよ。

 

それで中村中尉が下れ下れというもんだから、わたしたちはその四つ角から奥の方へ入って行ったところにいたので、そこへ下ったわけですよ。そうしたら、今、牛島閣下がここで爆雷かけるから、出たい人は今のうちに早く出なさい、といわれたが、「僕たちは牛島閣下がそこで自爆されるなら、いっしょに死んでいい」といって、またもとのところにこの人たちは寝たわけですよ。わたしたちも、そとへ出たってアメリカ兵に摑まったら、女の子はどんなにされるかわからんといっていたので、恐いから出られないわけですよ。それでそのまま壕に止っていたんです、少佐殿もいられたし、また一般の兵隊ら大勢おりましたから。

 

それからどれくらい経ってからでしょうね、「もうみんな出たか」という声が聞こえたが誰も返事をしないし、牛島閣下のいられるところからの道路に沿って、患者も寝ていますし、わたしたちの通りにもあちこちに患者が寝ていましたからね。それから天皇陛下万歳という声を三回唱えると同時に、ババンと音がして、万歳万歳という声が聞こえたんですよ。


ああ、もう自爆なさったんだね、ということで行って見たら、もう、散りぢりばらばらですよ、そこが。その箱も全部駄目ですよ、真近かには行かなかったけれども、ある兵隊が行って来てですね、沢山お金があったよ、取って来て塵紙にしなさい、といったので、何するの、そんなもの取って来て、といったんですが、そのために戦車が来たのではないかと今は思うんですけれど。戦車は、牛島下が見えた晩頃からではなかったかと思いますが、その後二、三曰くらい、戦車砲を撃つのはつづきましたよ。壕に撃ったのではなかったですかね。

 

わたしたちはただハッパかけているのではないかくらいにしか考えていませんでしたからね。兵隊が壕掘る時によくハッパをかけていましたから、ハッパをやっているんだなと思ったんです。蠟燭をお皿に入れて、火を照けても、震動によってパット消えるもんですからね、今つけたかと思うと消えるし、また照けたら消されますからね。これはどうしたのかね、今この壕を壊されているのではないかね、ハッパかけられているのではないかね、と思ったんですがね。もうそれからは、そとには出られないんですよ。ずっと壕に入り込んで、飲まず食わずでやっていましたが、わたしたちは水を時たま一日に二回くらい溜った時は飲むというぐあいで。それから四、五日くらいは、一食も食べなかったんです。それからもう体が寝台に引っついているみたいにですね。御飯も欲しいと思わなければ起きようという力もないわけですよ。ただただだらっとしているだけで、ご飯を炊いて食べようという人は誰もいないし、またそとに出たら大変だという考えしかありませんから。


それから軍医中尉、大田あき先生を連れて行ったという人がうちの壕にまた舞い戻って来たんですよ。大尉ですよ、軍医大尉。「大尉殿、あき姉さんは」といったら「戦争だよ、僕たちわかるか。戦争だもの構っておられるか」とおっしゃるから。「大尉殿がつれて行かれたでしよう」といったら、「戦争だものそんな女なんか構っておれんよ」とおっしゃるから、そこでわたし少し口論をしましたけれど。「もう戦争はすべてすんでいるんだよ、そとは静かで、まだ君たちは飯も食っていないのか」とおっしゃるもんですからね、ああそうかねと思って夜そとに出て見たらほんとに静かなんですよ。それからはじめて戦争は終ったんだなと思って、その晩からみんな飯炊け、炊けと中尉殿や准尉がいうんです。少佐殿は何も言いませんでしたけれども。

 

それで飯炊け、炊けいうもんだから炊事の女たちも水汲みに行って、水も飲んでないもんだからそこで水を飲もうとしたら、「ねえ、この水にがくて飲めないわよ」といったら「毒が入っているのではないか」といって、まず汲んで行って見ようねということで、バケツの一杯汲んで行ったら、ウジが浮いているんですよ、ウジがいっぱい湧いているんですよ。あっちでころころして足にかかっていたの、あれは人間の骨だったかもしれないね、と話し合いましたが、その水をそれでも飲んだらにがくて、黄燐弾というのが入っておるわけですよ、黄燐弾。あれを投げつけられた跡は青く光っておるんですね。土なんかに当ったかもしれませんが、土や岩が青くして螢の光ともちがって、変なのが光っておるねえって、感じましたが、黄燐弾を投げられているとはわからないから、汲んで行って見たんです。中尉なんかが、黄燐弾を投げ込まれているんだよ、といったが、みんな渇いているもんだから、これをみんなガブガブ飲んだんです。わたしは、にがくてどうしても飲めませんでしたので、雫の溜ったのを飲みましたけれどもね。

 

でもその水でご飯を炊きました。にがくて食べられませんでしたが、それでも腹ごしらえはしておかなければいけないと大変と思って、火を通してありましたから食べましたけれども、そんなに食欲は出ないですね、欲しいとも思いません、死ぬ、生きるとも考えないただ無意識のうちに食べる欲が出たんじゃないですかね。そういうふうにしているうちに夜になると静かだし、昼は出られないということがわかりますからね、米須の前部落にテントが沢山張られておるよ、という話をききましたし、だから今うっかりそとに出ると、何か、ガランをつけて、線が引っ張られているのでそれを切ると、爆雷ですか、何か仕掛けられているという話があったし、それが動くと、照明弾が上るようになっているという話もききましたので、ただの付近を、芋畑だったところを掘じくって芋を取って、お米を少し集めてあったが、もう食集めです、それからは。それで近くのほかの壕にお米があるということもわかりましたので、そこから比嘉さんという人ですね、防衛隊長当番していた比嘉さん。あの人は男だからといってあの人に担がして、女は後から持ち上げるようにして、六袋くらい集めたと思うんですよ、お米も。大きな俵ですよ、二斗俵ですか、わっしょいわっしょいして持って行って六袋ぐらい置いてですね。

 

それから芋を掘られるだけは芋を食べて、野菜も暗闇ですけれども野菜をさがして取って、どうして食べたかわかりませんが、葉っぱがあるということもわかったし、また芋蔓の葉ですね、それも取って食べました。

 

それから前に落盤した様に、とう麺という今の春雨ですね、ああいったもっと太いのがあったんですよ。そういうものも向こうにあるし、鰹節もあるということで、取って来ました。鰹節はめいめいの救急袋に一つずつ配給して入れてあったわけです。万一の場合はそれをかじるようにといって。それからとう麺ですね、春雨みたいな大きなものを切って、そこで炊いて食べました。そういうふうに食糧集めをやりました。
それから兵隊は筏を組んで黒潮に乗って沖縄から本土へ行くという計画を立てているわけですよね。それは七月の初め頃だったのではないかと思いますが、筏を組んだらその筏の上に水を積まなければいけないから、海の方に井戸があるらしいね、とおっしゃるから、清水が流れておるんですよ、大浜のところに、というと、米須の浜にもあるんですが大渡浜が歩きやすい、米須の浜はアメリカが占領しているから水汲みはできないということで、大渡浜へ行ったんです。

 その頃は、夜歩くと、太郎、次郎だったと思うんですよ、太郎、太郎といったら、次郎、次郎という合言葉があるわけです。一郎とまた何とかと合言葉がありましたが、大渡辺のところへ連れて行きまして、大渡浜の水のあるところに大勢の人が坐っているんですよ、太郎、太郎と言っても返事をしないから、あれ、大変だよ、といって砂の上を後に伺うようにして下って行ってから、また太郎、太郎といったら「はい、日本軍だよ」というから、ヘーえと言ってそこが水ですよ、と知らしましたけれども、そこに三、四十名くらいいたと思いますが、どこかあのあたりの山にこもっていた人たちではなかったですかね。その人たちも元気だね、とわかりましたが、もうわたしたちだけが生きていて、他の人はみんな死んでいるとしか思っていなかったですよ。今申し上げるのは七月のはじめ頃のことですよ。

 

もうそれからはほんとにモグラ生活ですよね、昼は壕の中にとじこもって、夜は夕飯炊いて、それから食糧集めに行って、毎日がそれの繰り返しなんですよ。生きるということも考えなければ、ただ食糧を集めるというその欲と、ご飯を炊いて食べるということと、その別に何も考えなかったんではなかったですかね。兵隊なんかは筏を組んで逃げることを考えているもんだから、井戸を見せてくれという。それでいっしょに行って、その井戸を見せてやっただけのものであってですね。

 

ところがその井戸見せた翌日は、もうこの兵隊たちは、大渡の浜へ行って筏を組むことにしたんです。大渡の浜は木麻黄の防風林がありましたが、葉はアメリカ軍の砲火で焼かれて、木だけが立っているのを、その木を切って筏を組んで、それを浜へ下ろそうとした

 

時に、アメリカ軍が地雷を埋めてあったのではなかったですか。その地雷が破裂すると同時に、あちこちからパンパンパンパンと集中射撃をされてですね。そこに、曹長といって何であったか知りませんけれども、その曹長がやられて来るし、その前に爆風で聾なった兵隊がいた。中村中尉という人と何とか少佐という人はそこにいてですね。只今誰それは怪我して戻って来ましたといって報告しているんですよ。

 

そうしたら、その怪我している曹長が、得体のしれない苦しそうな喚き声を出していたが、「貴様はこんなことをしなければ、僕たちはこんな怪我をしないのに」とこの兵隊を追っ駆けて入り込んで来るんですよ。

 

この兵隊がまずかったのかどうかしらないけれども、その曹長は、「ガスエソ」みたようになってですね、そこの筋肉がやられているもんですから、すぐ見る見るうちに出血はするし、そこが腐れて来ますからね、水は欲しいもんだから寝台に転がったまま、汗はかきかき、水飲ましてくれ、水飲ましてくれというので、曹長殿、水を飲んだら大変ですよ、水は飲まないで下さい、というのに、「いや、僕は水が欲しい、水が欲しい」といっていたが、炊事婦の人たちが水を汲んで来たら、ゴーゴーゴーゴーと飲んで、二、三日して亡くなりました。あれからは、もう筏は取り止め。

 

それから、食糧の芋掘りや野菜取りなどして過して、八月の二日の晩ですね、その日は食糧さがしをして来て、豪の入口に坐っていたら、一機の飛行機が飛んで来たんです。その飛行機が、探海壁ですか、あれが与那原の上の海から光って来るんですよ。そうしたらそれを挾もうとするんですよね。ところが、それが挟まれな
けです。その一機は無事に帰ったと思うんですよ。三日に入っているか二日の晩になっているかわかりませんが、もう明日は日本軍が逆上陸をして来るという話し合いをしました。

 

壕の中に入ったものが、翌日の十二時前頃、アメリカがサアサアサアサア音のする電灯ですね、サアサアサアサアと音は聞こえますけれど明りをつけながら来たと思うんですよ。何とかかんとか英語でベラベラしゃべりながら来るんですけれど、わたしたちに英語はわからないわけです。

 

そうしたら一メートルほど前でしたね。そこに寝台が二つ並べられた、その葉は一間幅くらいあったんじゃないですかね。そこは半分は何か壁があったと思うんですよ。土の壁であったのか、何かの壁だったのか、その半間が通路で、半間は寝台、戸板ですね、それを敷いてありました。

 

そこに毛布を引っ掛けてありましたからね、その毛布は三枚くら引っ掛けてあったと思うんですよ。電気をつけて来ているから、その毛布をあけた時にわたしたちは電気をつけたんではないかと思ったが、その時に、ババンとわたしはビンタをはられた気持になりましてね、わたしたちの上の方では、バンと破裂してしまったんですよ。それが手榴弾ともわからん。ただ何か弾だなと思ったんです。

 

わたし弾の音も聞いておるし、ビンタもはられておるし、自分はもう駄目だろうと思ったが、痛みは感じないんですよ。膝を立てて坐っていたんだが、前の寝台に少佐がやすんでおられたが、その寝台越しに前を見ている時に、パット明りがつくと同時に、ピシャットびんたをはられた気持ちで、わたしは何の弾でやられたかなあ、と思ったが、でもアメリカがそこにいるということはわかっていますので、じっとしていました。手の切れた文姉さんという人が、文さん文さんわたし怪我したよといって、うええと泣いたんですよ。それでわたしは、アメリカ兵がそこにいるよ、みねさん。わたしも怪我したから泣かないで頂戴い、みんなつかまったら大変な目にあうからと、やっぱりアメリカに摑まるのがただ恐いというわけなんですね。

 

それから足痛めたカズさんという人ですね、その人もわたしも怪我したというので、じゃわたし治療してあげようといって、自分のは痛くないし、怪我していても仕方がないとしか思わないですよね。それで、あの姉さんにどこよ、どこだね、と暗いところで手さぐりして、手でさわっておしてみたら、ひっこんでとろっとしたところがある。ああ、ここだね、といって、その場を手で押して、自分の救急カバンをさがしたらもう無いんですよ。弾で吹っ飛ばされて。それでポケットに入れてある帯でさえて応急処置をしたんです。それから繃帯でしめようとしたら、わたしのバンドでしめて頂戴いといって、バンドをはずしたから、じゃバンドで止血留めして置こうね、といって、手でさわってしめてやった。それからまた信姉さんという人がわたしもということでその人たちみんなの治療を一通りしてあげました。わたしは足を立てて坐っていたので、その線だけ、肩からずっと足までやられたわけですよ。自分は痛みも感じないので自分のことは、大して考えませんで、あきらめた気持ちでいました。

 

わたしより小学校時代一期先輩のカズさんという人がおりますが、この人は弾が落ちてからぱっと逃げたわけですがね。この薬指を一本飛ばされているわけなんですよ。それで、カズさん、カズさんと呼んだら、はーい、といって奥の方から飛び出して来たんですよ。炊事の兵隊のところへ怪我してから飛んで逃げたんですって、後で話を聞いたら。「わたしあっちへすぐ逃げたよ。だけど足、こっち怪我しているさ」というもんだから、この人も治療してあげた。

 

今度はわたしの母の従妹に当るシゲ姉さんがいないので、この人はやられたのかなと思いながら、シゲ姉さん、シゲ姉さんと呼んだら、長いこと経ってからですね。「あれっ、お前たちはどうしたのか」というから、「みんな怪我したけれどもシゲ姉さんは大丈夫か」といったら、「お前たちは怪我したら有難いことだ」という。それで「怪我したから有難いことだということもあるの」といったから、また「お前たちは怪我したら有難いことさ」といって、それからもう変な話をするわけですよ。「もうこっちにはおれなくなるから、アマンソー壕へ行こうねえシゲ姉さん」といったら「うん、アマンソー壕はわたしがよく知っている。昨日武部隊の作業で昨日行ったよ」とずっと以前のことを昨日のことのように思っているわけですよ。

 

それで怪我で脳をおかされているのでないかと思って、後で電気をつけて見たら、この人の目が大きくはれて変になっているもんですから、あはあ、この人は脳にも破片が入ったんだなということがわかりました。それで、「シゲ姉さん、あなたも怪我しているよ」といったら、「へえっ、わたしは怪我はしない、どこも痛くはないもの」というから大丈夫と思ったんですけれどね、「いいえ、怪我しているよ」、「そうか」というので、「アマンソー、シゲ姉さん、ほんとにわかるの」といったら「うん、わたしは昨日、ミーヤーアザ(屋号)のお婆さんの芋を頭にのっけて持って来たよ」とまた変なことをいってから、「おい、われわれこれだけで米須の前を道から着物を持って舞って見よう、そうしてアメリカーたちを魂消げさせてやろうじゃないか」、「シゲ姉さん、何んでそんな変なことをいうの」、「何で、夕飯を早く炊きな、カンダバー(芋の葉)を入れた雑炊を炊きな」

そういうような話をしていますと、ほかの隊の衛生兵がやって来て、指を怪我したが、自分で帯したんだが、指が全部引っ付いている、メスで切り離してくれないかといいますので、わたしもそれくらいのことはできますので、やりましょうね、といって指を別べつに離して、繃帯も別にやって、癒ったんですよ。

 

伍長か軍曹かだったんですが、そうしたらこの衛生下士官の方が、今度はわたしが恩返しして上げましようといって、わたしの足に指を突っ込むんです。指が入り込むもんですから、ああ、これでは、わたしは長いこと生きられないかもしれない、と自分で思ったんですが口から出してはいいません。言ったらあの人たちを心配させてはいけないからと思いまして、それだけはわたしは自分でいくらか気丈夫だと思いましたが、もうそれからは歩くことができないんですよ。ぜんぜん歩けないし、だからその壕から出る時も四ツん匐いで出ましたけれど。

 

それから日が暮れて、兵隊なんかめいめいでご飯を炊いて、突破の準備ですよ。わたしは救急カバンを一旦は見失っていましたが、土の中に埋っているのを掘り出してそこに置いてあったら、みんなを治療している間にこの救急カバンが行方不明になりましてね。また後でさがし出して調べて見たら鰹節なども誰が取ったかもうないわけ。でも命が大丈夫だから今度は逃げる準備もしないといけないということで、明日までここにいると、どんな目に会わされるかわからんからといって、みんな食事も取らないで準備をしなさい、突破の準備、カズさんが一番疵が浅いから、シゲさんを負んぶして買い、とわたしが頼んだわけですよ。

 

そうしたら、カズさんは「いいや、わたしは自分の体を持つだけでもできないんだもの」というから、「シゲさん一人置いて行くのは気の毒だから、カズさんそう言わんで、頼むよ」といったんですが、カズさんは「いいや、わたしはできないの、できないの」というから、「そうなの」とわたしはそれ以上もいいませんでした。


それから突破ということになれば、お水も持っていなければいけないと考えたし、お米は、日本軍の靴下を配給貰っていましたので、これに詰めて二つずつお腹に結びつけて、紐につるしたんですよ。わたしはって歩くことしかできません。一応馬乗りされた時にわたしたち着物は、置いておくと、アメリカに取られてあれたちに利用されては馬鹿らしい。わたしたち死ぬのであれば、水の中に突込んで駄目にして置こうとしました。しかし今のところ、壕から出さえしなければ命は大丈夫だと思いましたので、生きている間は着物がないといけないからということで、またその着物を出して洗って、壕の中に干して乾してからみんな着換えしたわけなんですけれどね。着換えして残っている分は、持てるだけ持たないと、と思って体に全部巻きつけて、肩までまきつけて持ったつもりなんですけれどね。

 

お米も持つし、わたしたちはもうそれだけの範囲しか持てないから、これで出かけることにしましたが、シゲ姉さんのことです。それでシゲ姉さん、あなた歩けますか、と起しましたら、もう頭がぐらぐらして安定しないわけですよね。もうじっと坐っていられない。手をつかまえて坐らしても体が前後左右によろめいて、体が心とは離れてしまっているようなわけですよね。それで、「なんでシゲ姉さん、あんたまだ眠たいの」といったら、「そうではないよ、わたしは船を漕いでいるんだよ」、「シゲ姉さん、しっかりして坐って頂戴いよ」といったが、手をゆるしたらすぐ倒れて寝転んで起きて坐れないんです。脳神経が侵かされているのかそれはわかりませんが、全然坐ることができませんでした。

 

それでこの調子では連れて行くことはできないし、わたしたちが移動して場所が決ってからシゲ姉さんは連れに来ようということで、わたしは四ツん匐いで出ました。
それから手のない姉さんも、出血がひどい。それでも最初の日ですから、その日は充分歩けたんですよ。それでわたしの母のまで行って、向こうの壕に入れたら向こうの壕にいようねということで、行ったら、誰か足の丈夫な人に見て貰おうということで、カズさん、壕見ておいでといったら、カズさんは、「いいえ、わたしはできないもの」というので、それでは「わたしが見て来るからね」といって坂で山の上ですが匐って行ったらそこの壕は滅茶苦茶に埋ってしまっておるんですよ。

 

それで戻って来てから、その壕は散ざんで理ってしまって入ることができないことをみんなに知らして、米須の大通りで学校の東がわに出る道なんですが、そこを出て山と山との中間ほどにわたしの実家の畑があるんです。

 

その畑を越えて行くとナーシンダーアブ小といって、嬢が三つあるんです。その一つは文子姉さんの家族が入っている壊です。そこに行こうねといって、その壕に辿りついた時に夜が白じらと明けて来るわけなんですよね。ほらもう大変、もうこれからそとにいると大変だから、すぐ壕に入りましようと第一番目の壕に入ろうとしたら、壕にいたかったからかどうかしりませんけれど、山原の人とかいっていましたけれどね、この壕にわたしたちも入れて貰えませんかといったら、「いや、こっちはアメリカーが来るよ」というんです。それでは大変だと思って、隣りの壕はどうですかねと訊いたら、「隣りの壕は来ないよ、わたしたちはアメリカーの作業をしているのよ」なんて嘘言ったのか何かしりませんが、甘撫をガサガサ食べていたんです。

 

それから隣りの壕へ行ったら、何か骨だったと思うんですが、骨みたいなのがゴロゴロしているんですよ。もう終戦二か月になりますからね、疲れていますからって来て、骨だったと思うんですけれど、すぐその上に横になったんです。

 

そうしたら顔などにボタリポタリ上から落ちるもんですから変なぬるぬるしたものが落ちるよとわたしが言ったから、「これはわたしがやったんだよ、血が胸の上に溜っていたから、それを取って捨てたんだよ」と文姉さんがいうんです。「文姉さん、そんなにして捨てないでよ、わたしたちの顔に落ちて気持ちが悪いわ」、「血が溜って気持ちが悪いのよ」、「気持が悪くても、取ってそばに捨てて頂戴い」、文姉さんは手を胸に置いたらそこに血が大分溜るんですね。止血どめもやってあるわけですがね、動脈でなくて静脈ですけれどね。静脈でもコットン、コットンと垂れる血が一晩中で溜るわけなんですよ。それからもうげっそりなってしまいましてねその一日で。

 

日が暮れかかろうとしたらわたしたち、今度はアマンソー壕といって、マイアンといったところにね、大渡部落の上の方です。マインソー壕という壕は大きいからそこへ行ったら、みんながいるという気持があったんじゃないですかね。そこへ行こうねえといって出たものの、その文姉さん、ぶらぶらして歩くことができないんですよ。「文姉さん、わたしでもこんな四ツん匐いで歩くから行こうねえ」といったら、「うん、わたしはどうせ駄目だから、あなた方はマイヤーまで行って、もしうちの両親がいたら、こうこういうふうであったと話して頂戴いね、わたしは生きる見込みはないから、水も腹いっぱい飲んでわたしは死にたいから、あなた方は行って頂戴い」、「いや、姉さん、大丈夫よ、わたしでも四ツル匐いで行くんだから行こう」というんですけれども、「もうできない」といったんです。

 

その壕から突破する時、日本軍の頭の髪の薄い兵隊でしたが、この兵隊をほかの兵隊がつれて行かないもんだからわたしたちについて来ておるんです。それでこの兵隊は、わたしたちが突破する時は見えるんですが、壕の中に入る時は見えないんです、どこへ行くかわからないが。それでこの兵隊が水筒に水を持っておるもんですから、あなた、この人が水を欲しがっておるから飲まして頂戴いと頼んだが、飲まさないというわけですよね。それで、「あなた飲まさないなら連れて行かないよ、わたしたち壕へ案内しないから」といったら「うん、そうか」といって飲ましたんです。

 

そうしたら文姉さんはぐうぐぐっと飲んだんです。この兵隊は文姉さんを払ったつもりだったかもしれないが、ビンタはねたんですよ。その力で文姉さんは倒れてしまったんです。もう大分衰弱していましたから。それで、「もう、あなた、たたいたから連れて行かないよ」とみんなで怒ってやってですね、まだ子供だったと思ったんですが。

 

そうして姉さんが、自分は最後の別れかもしれないからといいましたが、この人は頭が鋭くて、家庭が貧しいために女学校へ行かなかったが、珠算がとてもよかったんです。その人が農場で会計をしまして勤めておったんですが、武部隊の兵隊が貯金通帳を預けてあったらしいんです。その武部隊の兵隊のうちに、これに住所があるから、何処そこに送ってくれないかという。文子姉さんは自分は駄目だと思ったのでしょう、あの亡くなったカズさんに頼んだそうですが、「いいえ、わたしそんなもの預からないよ」といって全然引き受けなかったそうですよね。今から考えるとその人は、自分の生命はどれだけしか持たないということをわかっていたのかなと思うんですけれどもね。その時、カズさんあなた一番も浅いし、あなた生きるだろうから、戦争が終ったら送って上げなさい、というが、ううん、わたしそんなの預からないよ、と絶対預からないですよね。人間はできている人なんだが、何でもいやだというんですよ。それで文姉さんは、もういいさね、無くなったら無くなったで仕ん行くん様がないよ、といってマヤン壕をたよってぐんぐん行くんですよ。文姉さん、あなたできるだけ自分で元気になるようにしなさいよね、わたしでも四つん匐いでついて行くのに、いっしょについて行くのに、といったら「できないよ、もしアメリカに摑まったら大変だから」とこれだけしか言わなかったんです。その日でもといたの近くの井戸まで行って、どんなに水が欲しかったかしりませんが、やっぱり出血していますから水が欲しかったと思うんです。


その人が井戸まで下りて行って、夜が大部明けてですね、水も飲んで、八月の真ですからね、暑くて木陰でなくてただ木のそばに坐っていたそうです。その時にアメリカが、グワァグワ来たもんだから、びっくりして、自分の畑に桑畑があったんです。葉っぱは全部落ちているけれども、桑畑の中に逃げたらしいんですね。そしたら五、六人といっていましたが、抱きかかえられたそうです。そして足をバタバタしながら助けてくれ、助けてくれと叫んでね、そこからもとわたくしたちが出た大通りに車が止めてあったそうです。バタバタバタするのを車に乗せられて、山原の久志小の病院というんですか、そこへ連れられて行って、手もそこで切断してこの人は元気になりました。


手も腐ってしまって、わたしたちといっしょだったら、あれから一か月余りですからね、別の壕に行って、やっぱし戦後なって姉さんは別れてほんとに運がよかったのね。人の運命はわからないものね、と話しをしていると、わたしの同級生が、巡査しているんですけれど、その人がね、おい、米須のところで食糧さがしに行く時に、真昼だからどこそこの壕へ行って食糧さがしに行こうな、といった時に、アメリカーに抱きかかえられて助けてくれーとあばれている女がいたがトラックに乗せられて行く女がいたよと話したら、「ああ、これはわたしだ」といったので「ああ、あなただったの」と笑い話しになりましたけれどもね。その人はわたしたちと別れて、翌日捕虜されて命拾いしたわけです。

 

それからわたしたちは、その晩でアマンソーという壕へ行きましたら、ちょうど三日月が出た時ですからね、新橋の八月の四日か五日頃だったと思いますね。旧もあまり日がちがわないで七、八日になっていたのではないですかね。その時にマヤンというところへ行きましたら、カズさんという人が、「ここはみんな死んだ人だよ」といったんですよ。それでは入れないね。またそこにいたら殺される、とはいったんですが、それでもみんな疲れているもんだから、そこは山ですから、横になって倒れていると月が見えるわけです。わたしは月だけは見えるけれども、何だか自分の目前は一本の線で張っているように真開くなって、何かで塞がれているようで、わたしは目が見えなくなっていたんです。ただ月の量だけが滝に見えたんです。人の顔も全然見えないし、珍しいね、どうしたのかね、と思ったんですが、近い人は黒くなって見えるが、遠くから歩いている人は見えないんです。四日か五日の月ではないですか。

 

そうしたら兵隊が水汲みを担いで行く、水汲みかもしれないよ、というから、民間の人もいるかもしれないよ、またもあるかもしれないからね、その兵隊たちに早くついて行きましよう、といって後を追っ駈けて行ったつもりだが、見えなくなってしまったよ、というので、それではもういいさ、ということになった。そうしているうちに夜は白みはじめたわけですよ。それから大渡の上の甘蔗畑に下りて来ましたが、甘蔗畑といっても、葉っぱはないし、短い甘蔗で隠れても頭が出るといったところでした。この甘蔗畑に昼中は寝ておこうねといって、わたしは歩くのは億劫なもんですから、持っている着物で、甘蔗を柱にして日をつくって、その陰に寝転んでいたんですが、変な音が、ヒューポン、ヒューポンといった機銃の弾が落ちる音だと思ったが、ごく間近かに落ちるんだね、シュット来たらポット落ちる。自分を目がけて来ているかもしれないねと思うんですが、それでも平気ですよ。死ぬという恐わさもないから、無意識に、弾が飛んでいるね、というくらいしか考えませんしね。

 

それから信姉さんとカズ姉さんは、もう足も歩けましたからその人たちは山へ行って草叢に寝ているわけですよ。そうしたら兵隊が昼間に来て、甘煎をポキポキ折っているんですよ。それで、あなたそこで昼間に甘蔗を折っていたら敵に見つかって殺されるよ、とわたしが怒鳴ると、ちょっと折るのを止めて退いて行くが、また来て、ポキポキ折るんです。珍らしいな、この兵隊、頭がどうにかしているのかもしれないと思いましたが、取るだけは取って行ってしまいました。


そうしてその一日甘蔗畑でわたしは過し、あの人たちは、どこの草叢か木陰があったかしりませんが、そこで過して来ましてね、日が落ちようという頃まだ明るかったんですけれど、米須の部落の前に見えるわけです。「おい、あのテントよ、あんな沢山のテント」といいますので、「どれ」と首を起したら見えるわけですね。「もう、米須の人は誰一人生き残ってはいないだろう」といったんですね。そうして学校のところを見たら、兵隊が二、三名何か担いで来る、「おい、抹拾いの兵隊たちが来るよ、」というから「あれたちが来るまで、上の部落の道まで出るようにしなさい、そうしないとわたしたちどこへ行けばいいかわからないから」というてそこへ行くことにしました。そこは兵隊たちが山に上るところになっているのです。

 

そうしたらあの二人は早いから早く出ているんです。わたしが刮って出た時に兵隊たちは来ましたので、「兵隊さん、どこへ行きますか」と訊いたら、「摩文仁岳だよ」という。「摩文仁岳には人がいますか、」「うん、沢山いるよ、君たちもおいでな」といってから行くんですよ。

 

それを聞くと、摩文仁岳までは遠いのに、わたしは足も痛いし大変だな、と思ったんですけれど、着物もあるだけ、足を巻いてくびって四ツ匐いになって歩いているので、もう足が痛くなっているんですよ。洋服でもぐるぐる巻いて後では匐ったんですけどね。あんな遠いところまで行くとなると、わたしはどうしても駄目だはずだがどうしようかね、と思いながら、そこに気だれして止っていたわけですよ。

 

そこへまた、後の兵隊さんが来たので、わたしはまた「兵隊さん兵隊さん、どこへ行きますか」と訊いたら、「おい、あんたはどこの人か、沖縄ンチュ(の人)かね」というので、「わたしは米須の人ですよ」。「へえ、ワッターン沖縄ンチュヤサ(わたしたちも沖縄人なんだ)」というから、「それではどこへいらっしゃるんですか」。「すぐその近くの方に米須の人がいるよ」。「何という人ですか」。「勝ちゃんという人と、春子という人と」、もう一人勝ちゃんという人の妹とがいるよというので、「じゃ、この勝ちゃんという人は、シゲ姉さんという人の妹だから連れて行って頂戴い」。「でもあなたが行ってもアブ軍曹という人があの人たちも出すというから、入られないよ」「いいよ、入られないでも、部落人にあえるというだけでもいいから、あの人の姉さんが、こうこういうことで、あの壕にいるし(シゲ姉さんのこと)、あなた方がこんなに食糧を集める苦労をしないでもいいし、あのへ行けば、わたしたちが集めてあるお米が山積されてあるから、あなた方抹の苦労しないでもいいよ」といった。そうしたら兵隊たちはせき込んで「そうか、ほんとにあるのか」「ほんとにありますよ、とにかくこの勝ちゃんという人、わかりますから連れて行って頂戴い」といってようやく案内して行って貰ったんです。そうしたら、そこはわたしたちの五中隊なんですよ。

 

五中隊の壕はアマンソー壕といったわけですが、その壕へ行ったら大隊本部の看護婦さんが来ていますよ、と誰かがいったらしいんですよね。したら、その軍曹という人は、僕治療して貰おう、といって、その人は頭にカスリをしていましたが、それで壕の中にずっとひそんで大威張りしていたらしいんですがね。

 

それでわたしたちには入っていいけれども、この勝ちゃんや春さんは、もう出なさいというんです。この人たちはなぜならば、T島の人でですね、部落に嫁に来ている人がいるんですが、男の子ができている人ですが夫は兵隊に取られて、その壕に来て、この軍曹と特別の関係ができて、いつもいっしょに寝起きしているわけですが、この勝ちゃんや春さんが、その人たちのそばに寝ていたわけで、それで邪魔になるんですよ。それで、出ろというわけです。そこでわたしたちが、わたしたちのそばでいいから、いっしょにいさせて下さいと頼んだのですが「いや、いけない、出ろ、出ろ」というんです。わたしたちがついた日に出ろというのを翌日まで待って貰ったわけです。この人の姉さんが向こうでこうこう怪我しましたのを放って来ましたから、連れさせるようにして今晩だけここにおいて下さいとお願いしたので、やっと、いいだろうといってくれました。

 

それで中頭の人で名は訊かなかったんですが、それから慶良間の人で中村という、後でわたしと英語訓練でいっしょになった人ですが、この人たちがお米を取って来ながらいっしょに行きましたら、この姉さんやられてもう、三日目になっていたわけです。三日目ですけれど寝台を覆い被されて死んでいるんですね。その妹は、「変な気持だったわよ」とその妹は帰って来ていいました。一番末の妹がですね、「あなた姉さんの顔を見て来たね」と訊いたら、「ううん、わたし恐くなって、寝台がい被されていたから、だけれど寝台は片づけて来たけれどねえ」といっていましたが、寝台というのは、人家の戸です。それでアメリカ兵は、その翌日も入って来たんだなあということをわたくしたちそれから想像したんですけれどね。この人はもう死んでいたのか、生きていたのを殺されたのか、このことはわかりません。「あなた、あっちまで行ったのに、姉さんの顔も見ないで帰って来る、あなたは無情の人だね」と中の姉さんを責める言葉つきで、その姉にすがりついて泣きながら言っていましたがね、まだ十四、五歳くらいの娘でありましたね。あれを見ていると可愛想でなりませんでした。


そういうことを見たり聞いたりして、それから二、三日後のことですが、米を取りに行く兵隊たちに、あなたが米を取って来たらわたしたちにも一升くらいずつ分けて下さいねということで、それで一升くらいずつ貰ったんですよ。それから自分の持って来た米もあったわけです。それで、その米で雑炊を作ろうねということになりました。それで、前に申しました慶良間の中村さんと、富姉さんといって今新垣に結婚しています。久米島の人ですがその人と、大島の方で伊良部百合の花をよく歌っていた人がいましたがね、その方は元気で帰られたと思いますけれど、その方と三名で、その三名は同じ部隊であったらしいですよ。その三名でわたしたちに雑炊をつくってくれる約束をして、お米を半分ずつ分けてやったわけですよあの人たちにお米を半分やつて、わたくしたちはその半分で、そうしていっしょに食事をすることになる、あの人たちは二重に得するわけですよね。雑炊は、味噌と、芋蔓の葉を入れて作るんですが、どこからさがして来るかわからないが、空罐詰カンカンと、それで雑炊していつも食べて、大体そこに二十日間くらいいたと思うんですよ。米は少し入れてカンダバーを沢山入れて雑炊を作って暮していたんですね。

 

その御飯を炊かない前に、カズ子という人が破傷風に罹ってしまいましてね。うん、うんと口が開けられなくなって、「わたし口が動かなくなっているよ」というもんですから、「あら、それならカズさん、あなた破傷風だよ」といったんです。その前に、知念で兵隊が破傷風で死んだのを見たことがありました。そうしたらカズ子さんは、「わたしは、この病気にかかったらおしまいだから、家の夢もよく見たし、自分なんかほんとに親不孝でこんな目にも遭っているかもしれない」というのですよ。
それで「いや大丈夫よ、だから気をたしかに持って頂戴い」と話して、それからご飯が欲しいというもんだから、「じゃ、信姉さん、この間お米取りに行った人たちがご飯炊いている筈だから、その人たちにお願いしてご飯貰って来て頂戴い」といったら、「ううん、わたし行かないよ」というんです。そういう時に田舎の人たちは縁起をかついでか厭やがるんですよ。それで、じゃわたし貰って来るよといって、行って、すみませんが少しご飯を下さいといったら、ご飯はないよというんですよ。「あのねえ、破傷風罹っている人がご飯を欲しがっていますのでお願いします」といったら、じ少ししか残ってないからこれだけ上げようね、といって、ちょっとだけくれたんですよ。

 

それでこれを持って行ってやったが、もう喉から落しきれないんです。何とかして食べさせようとしたが、どうしても食べることができない。

 

今度は甘蔗を、銀行の息子さんといって軍曹かだったんですがね、その方が英語も達者のようでありましたから、この人は大学卒の人ではなかったですかね。この人が食糧さがしに行って、帰りに甘蔗を持って来て、「さあ娘さん」といって、通る道のそばに、壕の中ですけれども三畳くらいの部屋になっているんですよ。そこがわたしたちが寝ているところになっていましたので、そこへ投げてくれたわけですよ。それで、これを歯で皮をむいて、歯でかんで汁を搾って、カンカンに入れて飲まそうとしたらそれも飲むことができませんでした。「わたしはこの調子だからね、もう駄目だから今晩は起きていて頂戴いね」といいました。その時はちょうど昼でありましたから。「うん、起きているよ」といったんですが、その前に、「自分を起して坐らしてくれ」といいましたので、うんといって、じゃ信姉さん二人で首をつかまえて起そうねといって、首をまえて起こすと、首は真っ直ぐわばって、そり返っているんですよ。それを起して坐らせてやったら、もう、また寝かしてというんです。そんなことを何べんも繰り返していたんです。が、もうわたしは大変だと言ってから「こうこうだし、もうわたしの病気はらないから、あなたがたは、わたしが見守ってやるから、いつまでも元気でね」というんです。

 

「何でカズさん、そんなことをいうの、そんなこと言わないで頂強い、もう三名、いつまでも元気であるようにしようよ、」「わたしの病気が癒るならお祝してもいいのよ。もう今日は無理だから夜も起きていて頂戴い」というので、「はい、はい」といって起きていたんです。

 

そうしたら信姉さんという人は、「わたし疲れているから、ちょっと寝て置こうね」という。信姉さんがそういうのでわたしはもう眠ることはできないわけですよ。そうしたらこの人(カズ子)はスウスウ眠ったんです。こんなに眠るから大丈夫だろうと思ったんですが、それから約一時間半くらい経ってからですね、ワッと叫んで手と足が反り返るんです。腱が伸びたように思われたんです。「カズさん、何にかよ」と大声で呼んだが、もう何の言葉もない。「カズさん、カズさん」と呼んでももう全然、何も言わない。それでわたしは、「信姉さん、カズさんは死んだよ」と信姉さんを大声で呼だら、信姉さんも、「へえ」といって飛び起きて、二人で、「何とまあ、こんなに簡単に死ねるものかね、こんなに簡単に死ねるのなら羨ましいね。わたしたちもこんなに簡単に死ねたらいいのにねえ。カズさんはこんなに簡単に死ぬのに、わたしたち二人は生き残って、わたしたちが親不孝だったのね。まあ、今晩は、兵隊さんに、ころころだといってお願いしましょうね」と話し合いました。

 

アマンソー壕というのは、鍋の殻のようにぐるぐる廻ってですね。あちこち部屋みたいになったところがあるんですよ。そこに兵隊なんか入っておるんですよ。死んだ人は、その壕の入口に沢山集めてありました。

捕虜になる

九月七日ではなく、九月六日に壕を出た。

それからわたしたちが捕虜になったのは9月7日でありましたが、九月の六日の晩になって、わたしはずっと寝たっきりでありましたが、信姉さんという人が、後で丈夫になりまして、あの人が水を汲んで来たり、芋の葉を取って来たりして、あれをゆでて、粉味噌がありましたから、それであえて、命を繋いでいたわけですがね。

 

芋の葉は、堅いのですが、ゆでると柔らかくなって食べられましたが、もうそれまでには、すっかり骨と皮とになっていまして、わたし五十七、八キロあったと思いますが、三十何キロくらいに痩せていたんじゃありませんかね。


今から考えると、粉味噌と芋の葉を食べていたので元気だったかもしれませんよ。お米のある間は中村さん方が、雑炊をつくって下さいましたが、その後はもう粉味噌とカンダパーだけを食べていました。

 

九月六日の日でしたが、ある兵隊がアメカ兵に摑まえられたんですね。摑まえられて百名へ行ってですね、向こうに捕虜されて収容所ができているということもわかりましてね。この人が、わたしが住んでいる壕の人たちは、戦争が終っているということもわからない、こうこういうぐあいにみんな壕の中にいるから呼んで来ようね、といって、二世と相談して連れに来たわけですよ。

 

その一週間ほど前でしたが、アメリカ兵隊が、何か英語でしゃべりながら、弾を撃ちつづけてパッパッパッアとその壕に来るわけなんですよ。そうしたら奥の兵隊がエヘンと咳をしたので、日本語のわかる兵隊たちだったのか、「いる、いる、いる」というんですよ。それから吃驚して、一番の入口にいるのがわたくしたちですよ。ちょっと上にあがったら蝸の殻のようにして入口がありますでしょう。こう下りて来たらそこは壁になって、これを横へ行ったら、大きな鐘乳石をまわって、そこを渡らないと下りられないわけですよ。


それでアメリカ兵は弾を撃ちながら下りて来るんですよ。その前には、鼠か何か知りませんがチュチュ、チュチュという音がしてわたしたちの上を飛び廻って歩くんですね。何でかね、珍らしいね、と思っていたら、アメリカ兵が来たらもう、一遍も通って見ない壕ですけれど、匐ってドンドンドンドン下りて行ったり、また上にのぼったりしてそこへ行ったら、兵隊がいたんですよ。それでそこへ行ったら兵隊さんの壕に入れて下さいといってみんな、その壕に入ったんですが、アメリカ兵はその近くまで来ていたんです。その近くにお手洗いがあったもんだからそこを消毒してから行ってしまったんですよ。


それでその日は、何のこともなくアメリカ兵は行ってしまったんですがね。またその翌日も来ていたんですが、わたしたちはそれか頭だけ入るところのの奥に一メートル、ニメートルぐらいあったんじゃないですかね、そこに割りようにして入り込んで行ったんですが、そこにもまた兵隊がいるんですよ。兵隊が六、七名くらい、東京の銀行の息子さんというその人は軍曹でしたが、その人の部下に、北海道やあちこちの兵隊がいっしょにいるんですけれどね、夜になると秣さがしに行くんです。昼中そこに眠るんですね。


その人々が集めてある糧秣がいっぱい階段に向かって箱が並べられてあるんですよ。そこさわったら、アメリカの製の罐詰ですよ。チキンの罐詰やら小さいいろんな罐詰やら、ああいうのが沢山あんですよ。それを盗んで食べたわけですよ。こんなおいしい罐詰もあるもんだねと思いながら食べました。そういうふうにして一週間ぐらい過したんじゃないですかね。


それから前に話しました糧秣さがしに行って捕虜された人が九月六日の晩に来ましてね、こうこういうことで、今戦争も終ってみんな捕虜になっているから出た方がいいんじゃないかと、軍曹に話して、その軍曹が、今から壕にいると、却って国に反対したのと同じだし、天皇陛下がこういうふうに命令されたというから出た方がいいんじゃないか、と兵隊に話したら、兵隊たちもみんな出る準備をしていました。

 

そうして、わたしたちに、「娘さんたちは、そこにいたかったらいてもいいよ、食糧はいくらでも入っているから、あなた方、一か年分はあるよ」というから、「ああそうですか」とはいったものの二人だけその壕に残っていても、すもないし何もないから、いいよ、太陽見て死ねるなら、いっしょに出た方がいいでしようといってました。

 

この人五日の晩に来たずですよ、六ではない。六日の晩にその壕をみんないっせいに出たですね。わたしと信姉さんという人とはいっしょでした。だけどあの富姉さんという人が、あの人はほかの部隊の方ですけれど、あの人は一人で中村さんと大島の方と三名ですから、その人が、信さんいっしょに出てくれね、といったから、「いいえ、わたしはね、この人とわたしたち二人はどこまでもいっしょだよと言ったんだから、この人を捨てて、もしこの人が死んだら、わたしは罰が当って死ぬから、わたしはこれを放っては行「かないよ」と信姉さんが言ったんですよ。

 

それでわたしは、「信姉さんいいよ、わたしはどうせ短かい命だからね、信姉さんは富さんと出て行きなさい、信姉さんだけでも元気であればいいんだから出ていっしょに行って頂戴い」といったら、信姉さんは、「いやだよ、あなたたちを放ったらかして行くとあなたの罰が当ってわたしも死ぬだろう、わたしたち二人はどこまでもいっしょだよねえといったんだから」といってですね。その人がいっしょになってくれたわけですよ。それでわたしも今のように助かっているわけですけれどね。

 

それからその晩にも大渡という部落の前の方の井戸へ行きまして、わたしたちは長いこと浴びてもいませんので、垢だらけだはずだから、兎に角、捕虜収容所があるということを聞きましたから、捕虜つれる車が出ているということで、その晩に浴びて、翌日大渡の部落の、今の健児の塔へ行くアスファルトの道路がありますでしよう、あっちに来たつもりです。もう夜が明けていました。

 

日も長いこと拝んでないから、朝日の出るのを拝んで見ようといって二人で話して、米須の前を見ると兵隊がずらっと並んでいるようで、ほんとに戦争はすんだかねえと話し合ったのでした。

 

そうしているうちに、上の道を見たら、トラックが通って行くんですよ。あんなにしてトラックを止めてわたしたちを連れないから、まさか連れては行かないだろうと話していると、一台目も去って二台目も去って行って、三台目が来てですね、三台目が道の近くにまで来た。わたしは腋杖を棒でつくって歩いたんですけれど、どうしても棒では歩けなくなって、四ツん匐いになって歩きましたけれども、兵隊が手で合図するわけです、乗りなさいといって。わたしは乗ることはできませんので、信姉さんがトラックに先きに乗ってから、わたしの手を取って引き上げて乗せてくれましたが、これが捕虜収容の車だったと思います。


この車で健児の塔の入口へ行きましたら、大勢の兵隊や民間人がいるわけです。そうしてこの人たちは立派な服装していますしね。自分の足を見たら真黒くしていますし、帯も眞黒くしてみっともないから、今度は自分の夏の制服を巻いて持っていたが、これも見たら真黒くなっているんですよ。「いやなことだ、これでは大変だ」と思って、一番前に小さくなって坐っていました。

 

そうしたら二世らしい人がいて、罐詰や何か配給しているんですが、わたくしたち二人には何もくれんですよね。なんでわたしたち二人にはくれないかなと思いましたが、また別段欲しくもありませんでした。

 

わたしたちが壊からいっしょに出た人たちは、出る時に、具志頭何といいますかね、その川のところで待ち合すことにしようと話し合っていましたが、わたしたちがあそこへ連れられて行ったやはりそこにみんな待っていました。富姉さんもいたわけです。そうしたら富姉さんが、わたしもあなた方といっしょであったといって頂戴いね、といいましたので、いいですよ、といって富姉さんもいっしょになりました。
富姉さんといっしょになりましたので、わたしはの手当てをして貰って、それから兵隊さんたちといっしょに車に乗せられましたが、兵隊さんたちは屋嘉へ連れられて行ったのか、どうかはわかませんが、わたしたちは百名に下されました。

百名収容所で

百名へ行きましたら、作業隊が大勢な人ですよね。若い娘などお化粧もしていますので、癪に障りました。腹立たしくなって、わたしたちは今まで頑張っていたのに、この人たちが早く出て、こんなに作業なんかもしているので日本は敗けたのだと思って腹立たしく思いました。こんなに捕虜されるより壕にまた戻ろう、とも思いましたが、そこへ下されたら今度は金網の中に入れられたんですよ。わたしたちは何も訊問はされなかったのですが、金網の中に入れたんですよ。一高女の生徒も三名、金網の中に入れられていましたが、この三名は特別に小さい金網で囲われていました。わたしたちは大勢いっしょのところに入れられましたけれども。

 

わたくしは、病人だからというので、百名の病院につれられて行きましたけれども、それもMPもついてですよ。わたしは歩けないから、四ッん匐いに歩きましたら、防衛隊の人たちか兵隊か何かしりませんが、その人たちに、負んぶしてやれというんですよ。わたしは、いいですよ、わたしは負んぶはされませんよ、といって断りましたが、わたしはもう着物も無くなって、袖なしの着物で、まるで乞食みたいに、髪は脱けているし、ずっと頭から怪我しているもんですから、肩のあたりも疵だらけですからね、負んぶしろと言っても負んぶはされないで四ツんで歩くもんですから、MPは仕方なくわたしの後からゆっくりゆっくりついていました。

 

MPは前から一人、後から一人ついていましたが、病院へ行ったら、軍医がわたしの怪我を見て、二世に入院させなさいといったらしいんですね。それで二世から入院しなさい、と言われたが、わたしは、これらの手にかかって癒さなくてもいい、自分で癒すことができる、とはねつけて、米軍に治療されるのが腹立たしく、怒りを感じてそのまま帰って来ました。ちょうどその時、ひとところの怪我は化膿して、黒くなって口出して来ていたんです、破片が。その破片も取らないで薬を巻いたもんですから、それ位のものも取れない藪医者小、といってまた怒りましてね。

 

そうして金網に戻って来ましてから、一応解散なったわけです。そうしましたら、そこの隊長の何か、まあ、奥さんというわけですか、Sの方で、何とかいう方の嫁さんでしたけれども、その方は、わたくしの下宿先の親戚の嫁さんでしたけれどもね、もう奇麗な服装してですね、わたしなんかの先輩なんかもその人の召使いなんですよ。
それで、その人たちに頼んで、「わたしなんか何も着るものもないからね、着る物下さいよ」といったら、「あれっ、何で、あなた方怪我したの」といわれて懐かしくもあるし、何か腑に落ちないような気持ちもあって、「どうしてあなた方そこにいるの」と訊きましたら、「いいえ、こっち事務所だからよ」といっていましたが、事務を取っていたようでした。それでこの人たちが特別に配給して下さいまして、ほんとは一枚ずつらしかったんですが、二枚ずつ下さいまして、その日に、夏ですからね、洋服の袖先をちょん切って、そこをくけて、半袖にして、あのブルーの黒坊色といっていたあの服をつけまして、またズボンもさあっと裾を切ってからくけて着けたんですけれど、その日に捕虜された人たちのテントを作ってあったわけです。

百名の一番東、新原の近くの端っこの人の屋敷に、広っぱにテントを立てるまで、ここから行く間にわたしは貧血しまして、気持ちを悪くしていましたら、二世が来て、「何で君は入院しなさいといったのに入院しなかったか」といいましたので、「いいえ、わたしは入院しなくても自分で癒しますよ」といいましたが、後で薬をわたされましたので、自分で治療しました。

 

でもわたしのは三年ぐらい肉がしまりませんでした。わたしのは蜂の巣みたいに細かい破片が入っているのです。それを取り出すことはできません。それで政府の厚生局で援護の話しもありまして、レントゲン写真も何度も取って出してありますけれど、どうなりますかね。何回も呼ばれたり行って戻ったりしましたが、あなた方ののは、何にも当てにはならんといいました。肩や腕は肉が厚いからか、そう時どき化膿することはありませんが、それは無理しないからではないかと思います。足の場合は歩いて疲れると痛みが来たり、骨にさわってはれるんですよ。はれる時に、山羊肉や鶏肉などを食べると、余計に悪くなりますので、そういったものは食べないようにしています。

 

十月の末頃ですが、石川行って来た人が、福本という人が衛生班長しているってよ、というので、それではうちの父に違いないということで、十一月の一日に百名から、玉城の何小学校といいますか、田圃のあるところ、船越、そこまで百名から歩いて行かなければ石川行きの車は出なかったんです。そこまで歩いて行くのですが、みんなはさっさと歩いて行くのに、新原の付近から中山というんですか、その頃そこではよく黒ん坊事件があるという話でありました。その時からようやくびっこで歩けるようになっていましたので四ツん匐いはしませんでしたが、あっちまで行くのは大変だからわたくし行けるかねと思いましたけれども、力いっぱい頑張ってようやく船越まで行って一日で石川の方へ行きました。

 

石川へ行きましたら、うちの父の従兄弟の姉さんなんかが向こうにおりまして、そのおばさんの妹の主人が、百名からいっしょに行ったもんですから、その人たちが迎えておりました。

 

それで、うちの父が元気だと思って来ましたけれど、といいましたら、その人たちは、「あなたのお父さんはいられないよ」というので、わたしは、すっかりがっかりしてしまいました。

 

そのおばさんは、大変いいおばさんでしたので、「じゃ、あなた、うちに行きましょうね」といって連れて行ってくれました。そうしておばさんは、「あなたはこんなに怪我しているから、ここには病院があるので明日、その病院へ行きなさいね」といってくれました。

 

どこそこだからと教えられて病院へ行きましたら、わたしたちの化学の先生だった方がそこの看護婦長をしていらっしゃるんです。わたしが骨と皮になっているもんだからご存じなかったと思います。そうして忙しいんですよね、沖縄の看護婦さんたちも。それで四、五日は通いましたが、何だか道から歩くのが恥ずかしいから、お薬をわけて下さいといって、自分で治療しました。

名城収容所で再会 - 米須の生存者は・・・

それから十二月か、新暦の一月のはじめにですね、名城という部落に、うちの米須出身の山原から引き揚げた人たちや、前原にいる人たち、あちこちに元気でいる人たち、山原に疎開していた人たちといっしょになったわけです。

 

それで、実際に米須の部落にいて生き残った人は三十何名だったんですよ。それから山原に疎開していた人たちがいっしょになって、百十名ぐらいだったと思います。

 

石川にいる時に父のいとこおばさんの家にいる時に、山原の大川から、疎開している人たちが石川がいいということでみんな寄っていらっしゃったわけですよ。何畳間でしたか狭いところでしたが、みんな詰め込むようにしていましたが、向かいに山原に疎開していたが捕虜になって来ていた。またいとこの姉さんのところが広かったので、狭いでしよう、うちに来ないかとおっしゃるから、そうですね、とまたいとこの姉さんのところへ行きました。

 

向こう行って一週間ほどして、びっこ引いていても軍の方は仕事に行けるよというもんですから、軍に出たら何か戦果が上げられると話を聞いておりましたから軍の仕事に行ったわけですよ。それが知花の軍病院なんです。いとこおばさんなんかもそこへ行っていたんです。わたしなんかは、患者の衣服を洗濯させるところで、たたむ仕事です。わたしの部落の外間という姉さんとわたしより一つ年下の女の子と三名、他の人五名と行こうね、ということで、もう恥かしいとか、気まりが悪いとか考えていたらこれは大変だと思いましたね。

 

それで話も、単語だけ、くっつけて話したら、いくらか通じたようで、やっていましたけれど。そこに友軍もいましたが、戦果をあげると、日本の国のためだからね、といって戦果をあげようとするんですが、今日は最初の日だから何か盗んで揺ったら大変だからと思ったりして、芋蔓の葉だけ取って石川へ帰ることにしました。その後で白いシーツですか、そういうものを盗んで帰ることにしました。そういうものを盗まないと自分の洋服が作れないわけですよね。洋服なんか作ったり、ブラウスなんか、ズロースなんか作ったけれども、こういった盗みを、戦後はやりましたよ。それから一週間程して仕事もなくなって、名城へ行きました。

 

名城ではまた、いとこの姉さんなんかといっしょにいました。その時、その姉さんの子供が肺炎を起して、水を汲んだり看護をしたりしていくらか役に立って上げました。

1946年6月、米須集落の帰村

二十一年の六月ですか、米須部落は、自分の部落に帰りましたが、元気の人たちは、隠れて、名城にいる時に畑に食糧をつおりましたが、わたくしは病人だから、どうにでもなれといった気持ちで何も作っておりませんでした。それにわたしたちの方は部落の後がわの方でありましたから、そこらにはおうちは建てられてないから隠れて作ることもできませんでした。だけれども家族は十一人だし、引き揚げがあるというし、引き揚げの場合は、わたしはお芋も作ってないし、どうしようかねと思ったりしました。

 

それから、女学校を三年まで出た人は、小学校の先生も勤められるよ、という話がありました。その時、誰かがわたくしへ高校に出なさい、という人がいましたが、わたしが高校へ出たらわたしの生活は誰が見てれるかね。わたしは他人の飯を食べて生きているのに、もう学校なんか出られないでしょう、自分の目の前を考えないと、学校は後廻わしだと考えました。糸満高校は出来ていましたけれど、出ませんで、仮職員として学校におりまして、自分の希望として、教員よりいい仕事はないと思ったんです。また一面看護学校でも行こうかと思ったんですが、こんな怪我人なんか雇う人はいないだろうと思って諦めました。戦争のお陰で、すべて中途半端になってしまいました。今になって後悔してどうにかして勉強したいという気持ちはありますが...

わたくしは、戦争のためにこんな境遇になったが、その戦争のためにひねくれなかったという点は自分としてはよかったと思っていますし、自分が中途半端な勉強ばかりして来ましたが、自分の子供たちだけは、大学まで教育を受けさせなくてはいかないと思っています。

 

そういうわけで主人も、一番末ッ子が生れると同時に沖縄大学を卒業しました。石に噛りついても勉強しなければいけないから、今からでも勉強しなさい、といって二部で夜間でありましたから、軍の方に勤めながら、たまには、わたしもレポートの手伝いなどもやって来ました。

 

今は子供たちも大きくなりましたので、一番下が小学校四年になっていますからね。一昨年は研修に行きまして、北海道での婦人会の交歓会にも出席して来たんですが、普段はお人形つくりや編物をしたり、仕事だけは自分で、やっているつもりであります。

 

問。昨年(一九六九年)NHKテレビに出られましたがあれは、何の問題でありましたか。

答。あれは終戦の日でありました。急に政府の厚生局から言われて行きましたが、何分か時間がかぎられていますので、ほとんど何もいうことができませんでした。やはり昨年の五月に、九州の赤十字大会に参加しました。婦人奉仕団に入っていまして、何か世のためになることをしたいという気持がわたくしから抜けないもんですから、一か月に二、三日は、一日二、三時間の暇はつくれるから、それで何かみんなのためになることが尽せる、という意味で婦人奉仕団に入ったわけですよ。

 

問。奥さんはこんなに半身全部、しかも大きな傷で、泥にまみれて、よく破傷風になりませんでしたね。
答。小さい傷の人が却って破傷風にはかかり易いんです。大きい腕の人には却ってかかりません。わたしはウジが出ました。ウジは大きなウジでですね、それが物凄い、骨から肉のあるだけ搾り取られるようだから、わたしのはきっと虫がいる筈ずだよ、と思ってアマンソー壕へ行ってから帯を取りましたら、虫がグズグズグズ出て来るんですよ。それでわたしは足を曲げることができませんから、カズさん洗って頂戴い、塩水があればできるからと思って、兵隊から塩を貰って、塩水をつくって、カズさん洗って頂戴い、といってさせようとしたら、いやだよ、わたしには恐くてできないよ、というんです。何が恐いの、これは虫だのに、といったんですけれど、いやだとカズさんがいうので、わたし自分で塩水を、さあとぶっかけたら、さらさらさらと全部出て来るんですよ。もうこっちもこっちも指が突っ込めるほどの怪我ですからね。それでわたしもガタガタ震えながら、このウジ虫を取って捨てたんですよ。ウジは堅いんですよ。

 


問。艦砲で怪我されたんですか。足首の関節が曲がらないのは、アキレス腱が切れたのではないですか。
答。怪我は艦砲ではありません。手榴弾の破片です。曲がらないのは、そこらへんにも破片が入っているわけです。その破片が動かせば体の組織にかかると申しましようか、痛むのです。ですから人の前に坐る時もほんとに坐ることができませんでお行儀が悪いんです。まだはれているんですよね、破片は点てんと無数といったぐあいに入っていますので、化膿して時どきはれて来るんです。化膿してそのまま引っ込む時が困るんです。化膿して、そこから破片が出るとそこはよくなるわけです。

 

問。ひどいのはやっぱり左の足ですか。
答。そうなんです、左の方は頭から足までずっと細かい破片が入っています。

 

問 (足のブツブツしているのを指でさわって) この指にさわるのですか。沢山さわりますが。
答。そうです。こっちは表面だからいいのですが、足首から、その近くの足の厚い方は深く入っています。それが移動します。その時が困るんですよ。左足だけならまだよかったんですが、右足も並べて先きの方が出ていたのでそれもやられたわけです。

 

問。手榴弾アメリカの兵隊が投げたのですか。
答。日本の手榴弾だと思います。アリカのは破片が大きいそうで、日本の手榴弾がこんなに細かく散るそうです。アメリカ兵が来たので、日本兵が投げたのが、中途で当って破裂してわたしたちに当ったらしいのです。破片は大小いろいろのようで、鉄でしょう


問。奥さんが捕虜になって百名へ行かれた日、めまいされたとおっしゃいましたが、あの時の情況をもう一度話して下さい。
答。それは、わたしたちの入るテントがまだできていませんでしたので、ほかの人たちのいるテントに寝ていたんです。わたくしは、手榴弾で頭の左がわは毛が無くなっていましたが、いっしょの信姉さんは、髪にあんまり虱が湧いていましたので、ひとの鋏を借りて髪を切って、布で頭を包んでいました。やはり虱が床へこぼれるよう落ちてはい歩くんですね。それを前からいた人たちが見て、汚い、と非難しましたので、二人はそこにいられなくなって、日の照りつけるそとに出たのです。そうしていたら、貧血を起して、二世に叱られたのです。

 

問。お父さん、お母さん、叔父さんが亡くなられたことは、どうしてわかりましたか。
答。母のいた様へ叔父が勤務先きの東風平小学校から来られて、いっしよにいました。その壕を訪ねてあいましたが、それから間もなくその壕は、前にお話ししましたように、石油かガソリンを流されて焼かれたことは、はっきりわかっていますので、叔父も間違いくそで亡くなったと思います。それから、父は六月の五、六日に南の方で母の弟とあって、母の嫁を教えられたそうですから、それが母のいた壕がやられた前日あたりになりますので、多分父も母と同じにいただろうと推察されるわけです。しかし、父のことは、はっきりはわかりません。父に、母の壕を教えた母の弟、わたくしの母方の叔父も六月十日に弾に当って亡くなっています。遺骨収拾の時にも、父、母、叔父の遺骨はわかりませんでしたので、そこで亡くなった人たちを合葬することにしました。

 

問。米須と伊原の間の畑で亡くなったお姉さんの遺骨はありましたか。
答。姉の遺骨はありました。脛や腿の骨が砕けていましたので、これでは姉さんは痛かっただろう、苦しんで亡くなっただろうと姉の頭蓋骨を抱いて泣きました。いっしょに歩いていた、春子さんが、ちゃんと覚えていました。春子さんのお母さんと一メートルくらい離して並べて葬ってありましたし、着ていたモンペなどで少しはわかりました。

 

問。ずっとまたいとこの方たちといっしょにいられたのですか。

答。またいとこの人たちに、そう長く厄介になりませんでした。米須に帰ってからは、東風平の学校の先生だった叔父の奥さん、おばさんですね。子供が二人、自分たちの屋敷にいましたが、わたくしは畑仕事をした経験がありませんし、足は負傷していますので、畑を耕すことはできません。その時久米島出身の先輩にあいましたら、久米島へ行って食糧を貰って来ましょうといってさそってくれましたので、舟艇でこの先輩につれられて久米島へ行きました。そうしたら、この先輩のお姉さんが、米を集めたり、インゲン豆に似たハワイ豆というのを集めたり、大豆を集めたり、沢山の米と豆を貰って、米須へ帰りました。それでわたくしは、この米や豆を売って、人を雇って四百坪の畑を八十円で耕すことを請負わして、芋の植えつけをさせました。おばあさんや、兄たちが帰っても食糧に困らないようにと思ったんです。小さなテント小屋にいました。おばあさんは、姉さん(兄の妻と二人の子、四人で大分に疎開していました。兄は支那事変にでて、ずっとあっちにいたんです。後でわかったんですが、兄は、大分におばあさんたちをさがして行ったそうですが、沖縄が玉砕したということで、宮崎へ皆を引きつれて行って、農業を始めたそうです。農業を始めて間もなく、谷へ落ちて足を折ったそうです。今もびっこを引いていますが、っています。兄たちが帰って来たのは昭和二十三年か四年です。兄たちが帰ってから、テントも大きいのにかえました。

 

わたくしたちの叔父には、今も東京都の商業高校の教官をしている人がおりますが、戦争のずっと前、戦前の国体の円盤投げの選手で上京して、東京がいいというので、ずっと戦争中も東京にいました。

 

わたくしは、終戦の頃には、もう十六歳にもなっていましたし、またいとこなんかもいい人で仕事ができなくても、いやな顔もしないで、いっしょにいさせてくれ、厄介を見てくれましたが、五っ六つ、七〇八つの子供等で、塵の山をあさって食物をさがしたり、人の家の床下などにもぐり込んだり、行くところもなくさまよい歩いている孤児も大勢見ました。わたくしは、多くの不良児は、このような戦争孤児の結果ではないかと、いつでも考えさせられます。身寄りもない、食べるものもない幼い孤児をそのままほったらかしておいて、この人たちが、どんなに悲しい苦しい肩身の狭い思 いで成人したかということを、わたくしはつくづく考えます。日本 政府はこんな孤児こそ援護すべきでなかったか、と新聞に不良児の 非行が出るたびに思うわけです。

 

1970年の記録。