以下、内閣府ホームページ 証言集 で公開されている『沖縄県史第9巻』(1971年琉球政府編)および『沖縄県史第10巻』(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、必ず下記のリンクからご覧ください。
オーラル・ヒストリーの記述について。だいたい、人は論理的に筋立ててわかりやすくしゃべっているわけではない。聞いているときには雰囲気や表情やジェスチャーでわかることも多いが、文字にしたとたんに、意味が分からなくなる。だから、多少わかりやすく補正しなければならない。この項目では、文字お越ししたままで、かなり読みにくいものとなっている。おそらく記録者は理解できているのかもしれないが。
上原座談会(西原村)
宮城 聡
時 一九六九年十一月二十日
場所 字上原公民館
解説
出席者で一番若い方が現在、満七十歳で、戦争を生き抜かれた高齢者ばかりだった。満で八十二歳、七十九歳二人、七十七歳、七十六歳、七十五歳といった方がたであった。死線を越えて、また酷い負傷を負いながら、上記のように高齢を全うしていられる方がたばかりだったが、これは特異な例として、よかったと思う。
爆風を受けて、耳が聞こえないで、話しを巧く進めることができないうらみはあったが、しかし、戦争当時、五十代の主婦の戦争体験は相当にはっきり、簡明に記録された。
戦争による負傷者の後遺症やその酷い跡の方は、他の座談会でも、あちこちで見られたが、現区長の喜納さんと、屋良ウシさんの負傷には驚かざるを得なかった。
上原の場合は、高齢者の戦争犠牲(負傷)だけに、日本政府が、それ等の人に、何等かの処置が取られてないのを不満に思い、それを期待しているような気分が、ほとんどの方に見られた。
この戦争記録篇の座談会を、戦災身体の調査とさえ思っていられる方もあるように推察された。
上原は、中城村の南上原の南端で、一日に朝夕二回はバスが通るとのことであったが、座談会を終えた編集所の上原所員とわたくしたち二人は、二キロメートルに近い字棚原まで、乗りものがないので、歩くことにした。
すると、たまたま、作業から帰るピックアップが、宜野湾へ行くという。宜野湾へ行けば、バスやタクシーの便が得られると思い、ヒッチハイクを頼んで乗せて貰った。しかし驚いたことには、通る道が浮世離れの人里離れた未知の山間であった。谷越え堀り割りを越えて、電燈の灯る宜野湾街路に辿りつくことができた。その山間の道が、今日の座談会をより悲しく体にしみる感じだった。
喜納信政
(五十三歳)
戰争協力
わたしは上原を家内よりも一足先に立ちまして池田の墓に来ていました。池田で落ち合うように話し合ってありましたので、そこでいっしょになって島尻へ下りました。
具志頭の後原部落へ東風平を経て行きまして、壕をさがして家内たちを入れました。
具志頭村の有力者でしたか、を廻って、戦争協力者を強制的に集めていましたが、わたしは、それに引っ張り出されました。怪我したのは、東風平から糸満へ軍の食糧運搬の途中でした。糸数の壕の手前でした。
この怪我については、厚生省から書類が来ていましたが、二級にするか、三級にするかと判定中だと書かれてありました。
捕虜に取られるとアメリカは、ただちに担架で運んでくれて、すぐ病院へ送られました。腰の方も破片ですよ。破片が当ったんですね。腰の方は、最初はもっととんがって大きく出て、下の方は反対に深くへこんでいたんですがね。足も破片が打ったんですが、骨が一つは、取れてなくなっています。すじが切れているのか、曲げたりのばしたりが巧くできませんね、いつも、びっこを引いているんですよ。
喜納さんの背中を、服の上からだが見て驚いた。第十二胸椎から上の三つくらいの胸椎がそとへ突き出て、反対に、第一腰椎から下の三つくらいの腰椎が、約十五センチくらい陥没して、無くなっているように思われる。その穴はかなり深いことが服の上からもわかる。胸椎、腰椎が、脳と共に人間の中枢神経を形成する脊輝の通る人間の中軸だから、腰椎の三個が無くなったり、胸椎が断絶したりしては人間は生きられないのではないかと思われるが、喜納さんの背中は、胸椎と腰椎とが断絶しているようになっている。同席の奥さんは、この人はわたしがおらなかったら命はなかった、この人が生きると思った人はいなかった、と言葉をはさんだ。
屋良ウシ
(五十歳)主婦
わたしたちは、夫と夫の弟と二人防衛隊に取られまして、男の子一人女の子が二人、孫たち、それに夫の弟の妻子六人とがいっしょに、自分たちの墓に入っていました。墓は棚原の上であります。
こっちがあんまり激しくなりましたので、ヘンサノスク(現在の池田部落へ行きまして、そこから夜明け通し歩きまして東風平へ行きました。
食物も少しずつは持ちました。油味噌や砂糖も少しずつしか持つことはできません。
それから真境名に一夜は泊りまして、そこの家の人が芋をくれたので、一つずつ食べました。
またそこも激しくなりましたので、家も壊されるし、牛馬も逃げ出しますし、そうしましたので、またここにも居られませんので、親慶原(玉城村)へ行きました。
そうしましたら、壕の口は、たたきぶされて、閉じられてしまって、八名の人間がそこに即死しているんですよ。十二人は元気でありますのね。そうして弾に当っているのはわたくし一人でありますが、残りは爆風を食ってしまって、死んでいるわけですが、十二人は、はい出て行っていません。それでわたしも八名の死んだ人とはいっしょにおられませんので、わたしもはい出て見ましたら、足も立つことができません。膝坊主で足を引きずって、十日余の間野原の中で暮して、残りは捕虜取られてしまって、知念へ行って、いなくなっていました。その十日余りの間は、骨芋を掘じくったり、甘蔗を折って食べたりして、芋も雨が降ると洗って生まのままかじって、人間というものはこんなにしても生きられます。容易には死にませんのね、死ぬ人が死ぬので、人の命は天が持っていられるので、わたしがさえこんなに生きておるんだ、といっているんです(ここでは急に当時の悲しい姿を想い浮べた様子で涙声になる)。右のお臀の先に当って、左の腰が今になっても利きません。十日余り野原の中をはいずり廻っていますと、血はだらだら流れて、絣の着物を着ていましたが、これも着られなくなって、かなぐり捨てました。またズロースも脱ぎ捨てました。着ていられないようになっているので、どうにもならないので脱ぎ捨てるほかはなかったんです。人間は、死に恥も蔽うということがありますのに、わたしはこんなにして、はいずり廻って歩きました。
そうして十日余りもはいずり廻った後で、山羊小屋がありました。そこには、与那原のいいおうちの御隠居さんらしい方が一人で、栄養失調になっているように見えましたが、おられました。幸いなことにそこに、一つ着物が干されて有りました。着物といっても、ずいぶんつぎはぎした妻でありましたが、それを着ることにしました。そうして、その与那原の御隠居さんが、着物の布をちょっと下さいました。それでわたしは、メーチャー小(女性用褌)をつくって、つけることができました。
そうしたら、ずっといっしょに親慶原まで来て、生き残って早く捕虜にとられたいとこが、わたしが生きているということをきいたといってさがして来ました。わたしの娘たちは、わたしはあの壕に死んでいるものと思って、「わたしたちのお母さんよう」といって、壕に向かって泣いていたそうです。
そのいとこに連れられて、馬天から船に乗って、安部と嘉陽の間浜辺に下されて、そこの磯辺にテントを張って、これだけの人がそこで生活することになりました。
わたしたちは、何一つ持っていません。それで、いい天気の時には、与那原のご隠居さんがくれた布でつくったメーチャー小を、川の方へ行って洗濯して、これが乾くまでは阿檀の中に隠れていて、これが乾くと滑るようにして暮しました。食べ物を煮るのは、罐詰の空罐に、小さい芋を入れて、石を三つ並べて、それで煮ました。何一つ道具を持ってはいません。
それからわたしは、杖にすがって歩いているのでありましたが、娘たちは、食べ物をさがしに行くことができません。それでわたしが、芭蕉を盗みに行きました。繊維にする芭蕉を食べるのです。麻袋を持って、その芭蕉を取りに行ったら、女巡査というのにつかまえられて、持っていた包丁も取り上げられました。この包丁は娘が、ずっと大切に一つだけ離さないで親類の方から持たされて来たものでありました。そのことは一生忘れません。この女巡査の家の名は、安部のKU...といいましたが、山原(北部の異称)のことでわたしたちには、それがその女巡査の家の名であるのかどうですか。
長男は親慶原の壕で爆風をうち食って死んだんです。死んだ八人はみんな近い親戚でありますから、行けるようになってから、みんなの遺骨を取って来ました。
長男がそんなにして死にましたから、娘には一人しか男の子がいませんが、わたしはこんな体で仕事はできませんので、ずっと娘に世話になっているんですよ。
山原では、二年間も大変苦しい生活をして、それから棚原に移されて、棚原からここへ来ましたが、あの山羊小屋で盗んでつけた着物、それはほんとの襤棲でありましたが、わたしは命の恩人と思って、棚原まで大事にして持って来ましたよ。
親慶原で爆弾にやられまして、ほんの小さい穴が入口に見えましたので、そこの土をかきわけて、血はだらだら体中から流れ出しながら、着ている着物も捨てなければならない、つけているズロースも脱ぎ捨てねばならない、そうして山原の野原で、持ったものは何一つなくて、芋を他人の畑に行って盗んで来て、罐詰の空罐一つが鍋で、海の藻(ホンダワラ)を拾って来て塩も味噌もなくて、食べる生活、このように、すべての苦しみは自分たちばかりが背負っておるように思いました。
時どきは頭が変になって、大変に苦しみます。どうして、こんなに全身に疵したのか、わかりません。右の臀の方が一番大きくしまして、引っ込んでいます。わたしは右臀のちょうど先が骨まで当って取られましたが、左の腰の方が痛いのと具合が悪いのとで、はだしでしか歩けません。冬は、あまり体が冷えて、湯たんぽをそこに当てないと眠ることはできません。女の子に世話になって、こんなに生きています。
註、屋良さんは自分では体については、わたしたちが見た実状よりも苦痛も愚痴も訴えられなかった。体の大柄な方で、しかも肥っていられるように見えるが、上体と足などを見せて貰った。頭から、顔から、両手、背中、胸部、見られる範囲の両足、とにかく全身が疵で、皮膚は変形している。大小さまざまので、驚くほかなかった。相当大きい跡がところどころあって、体の表面がへこんだりしているが、よくもこれで生きられるものだと、わたしも心中で不思議に思った。これまでにも、さまざまの人の負傷の痕跡を見て来たが、この方のように体中が跡で変形している人は初めて見た。写真を撮らして貰って、実状を本記録に収めたらという気持ちも浮かんだ。体が肥っていられるので、致命傷はどこにも受けなかったのが、生命を全うされた原因だろう。疵は何百ではなく何千だろうが、そのから血を吹き出しながら十日余も野原をはいずり廻って、雨にも降られ、泥土の中もはい廻ったそうだが、破傷風にも侵されなかったのも不思議で、ご本人がいわれる通り人の命は死のうと思っても死なれない、天が支配している、という心が出るのも無理ないと思った。一言にいえば、凄惨である。しかし見苦しいようなお顔の変形ではない。付き添いの人がお伴して来られた。
喜納ウト
(五十三歳)
わたしの家は兵隊が入り込んでいましたから、お茶を沸かして上げたり、芋を煮てやったり、大変難儀でした。
わたしは、男八人と女三人の子供がおりましたが、末っ子の八男だけが家に残って、男七人は全部兵隊に出て行って、家には残っていませんでした。
女は、兵隊たちとずっといっしょに軍の勤めについていました。お父さんは、昭和十九年の六月に脳膜炎で亡くなりました。それは、西原飛行場をつくるために、六月の暑い時でありました。当時、区長していましたが、首里から来る学生たちといっしょに、ぶ通しで炎天下でやっていましたので、九日間毎日そんなにやっていて、脳膜炎になってしまいました。あの人は、何事も、とことんまでやらねばならない性でありましたので、六月の災天に当って、倒れてしまいました。
いくさが押し寄せて来た時、家は八男と二人きりでありますが、孫や、兄弟たちもいっしょになって逃げました。
わたしたちは、真境名(大里村)でも長らくおりました。真境名の上の野原に、ここに按司の墓がありました。与那原の人が、これを開いて、こっちに入りなさいといって入りましたらですね、ウトミーが、打ち食われてよ、わたしたちの弟の娘、わたしの姪ですよ。ウトミーが、わたしから入るといって入ると同時に、咬まれましてね。それは大変大きなハブで、まるで猫のように異風な格好して坐っていましたよ。幸いにくすりを持っていたから命が助かることができましたよ。それでこのハブはわたしの弟が殺して取りましたが、それは、どんなに大きいもので、何十年もこもっていたよう凄いものでしたよ。
それからまた先に行きますと、そこは何というところかわかりませんが、兵隊たちがいましてね、こっちからウロウロしていると射殺してやるぞ、と言われましたので、驚きまして、当てなしに歩きました。
それで親戚の子供たちもみんないっしょでありますよね。島尻の真壁の前で、木の下に隠れていましたが、そこへ二回落ちましたからね、これ等みんなやられてしまいました。わたしの子の七男ですね、防衛隊でありますが下ってそこへ来ましていっしょになりましたが、これは顔の頬をすっかり引っ取られてありません。それで、お前はそこに居てね、壕さがしてつれに来るからといっていたんですが、五男の兵隊がつれて行って、縫って治療させて、これはしのいでいます。五男は兵隊(米兵であろう)に見当てられまして、打ち込まれて居なくなっています。これも兵隊でしたよ。
またわたしたちは、どこを歩いたかわかりませんが、行ったところはギーザバンタへ下りて行きましてね、そこでは、何一つ食べるものがありません。岩の下でありますよね、岩から落ちる水を溜めて飲んでおりました。ここに長らくいました。二週間くらいしていましたよ。
そうしていると二世が来ましてね、「あなた方、ここにいられると大変なことになりますからね、わたしについておいでなさいよ、捕虜に取られなければ大変なことになりますから」といって、わたしたちの八男をこれが背負ってね、出たから命をしのいだわけですよ。
それから川へ行って、富里に一晩は泊って、それから東垣花(知念村)にちよっといまして、またそこから嘉陽につれられて行きました。嘉陽にはおよそ二か年ばかりいただろうな。
嘉陽では、食べる物がありません。海の藻草を取ってくれていました。嘉陽では、八男と孫と次男の妻もいっしょにいましたが、次男が捕虜取られた後に来て、これもいっしょになりました。
これが、あっちでマラリヤに罹りまして、大変でした。食べる物もありません。わたしは毎日海の上の岩の上にあがって、ンザナ(野生のにがいが食べることの出来る草)を取って来て、これをつっついて飲ましましてね、そうしてようやく癒しましたよ。
一番恐かったのは、真壁で艦砲が落ちた時です。わたしの主人は五男でしたが、四男の(義兄)家族は、わたしたちみんないっしょでありました。最初に落ちてわたしの七男が頬の肉を取られた時、四男叔父さんの長男が、腹をえぐり取られて即死しました。二度目の時に、四男(義兄)を始め子供等五人が一度にやられました。四男(義兄)の家族七人までが一度にやられてそこで亡くなりました。真境名の墓でハブを見た時も身の毛が立ちました。苦しかったのは、ギーザバンタに二週間くらいいた時でありました。
屋良ツル
(五十五歳)
わたくしたちはですね、六つになる子がいましたが、兵隊たちに馴れて、いつも兵隊たちと歩いて、捕虜取られて、山原へ行っても知らない余所の人といっしょに歩いて、さがせないで心配しました。
わたしたちの家は、嫁はですね、長堂(豊見城村)を越えたところで弾に当って即死しました。それからわたしの夫、爺さんは、(孫たちを対照としている呼び方)軍の仕事していましたが、軍の仕事している時に馬が弾で殺されたので、孫二人と四人は島尻へ越えました。孫は三つになる男、六つになる女です。息子は一人ですが防衛隊に行きましたが、帰っては来ませんでした。嫁と息子とは年は二つ違いでしたが、二人戦争の時に亡くなりました。しかし孫は立派に成長していますよ。
わたしは、わたし一人で子供たちをつれて大変苦労しました。わたしたちは、伊敷(旧真壁村)の部落で、兵隊が片隅に、可哀相に思って入れてありましたよ。そこに四、五日おって捕虜になりまして、比嘉・島袋(中城村)へつれて行かれましたが、島袋でも四、五日はいましたが、また、山原の福山へつれられて、あっちに二か月ばかりおりました。
食べる物といいますと、これくらい(手で示す)の掘飯、島袋でくれましたよ。向こうで煮てくれるんですが、これくらいの掘飯を一人に一つずつくれるのですが、この三つになる子が二つ食べても食べたとは思ってないくらいでありました。その時には何とも言えない苦しいことでありました。
わたしたちの姑、おばあさんは、自分の家の蝶で、艦砲に当って、亡くなりました。
そのわたしたちのおばあさんは、「なび」名でありますのに、戸籍を作る係りが「かめ」名といって出しましてですね、出しましたら政府から、「かめ」といいまして戸籍が当らないということで、わたしは家庭裁判で、大変面倒を見ましたよ。わたしの孫は「かめ」といっていますが、わたしは「かめ」ではありません、「なび」でありますと、わたしは何度も行き戻りして、大変苦労して直しました。わたくしの夫は、馬も死なして、わたしたちがいる山原に捜して来ていましたよ、わたしたちは山原の山にいますから。そこで行きあいましたが、もうすっかり疲れ切っていまして、フラフラして、ころっと死んでしまいました。来てから十日ばかりしかいませんでした。
わたしたちは、孫と三人で帰りましたが、畑にある芋を掘じくって来ては二人の孫にくれて暮しました。昔はこんな暮しから始まっていますよ。
注この方もくわしい苦労の具体的な話を聞き出すことは無理であった。現在数えで八十歳の方であるが、孫二人との三人暮しをずっとつづけて来たわけで、この祖母がなければ、三歳と六歳の孫は孤児だったわけである。
稲福かまど
(五十八歳)主婦
あのですね、前原屋というところにわたしたちが避難していましたら、艦砲が落ちましてね、それで耳をたたき切られて、耳聾になっております。
わたしたちの人数は、親戚たちが集まって、三十名ばかりいっしよでありました。
わたしたちのいる前原屋の離れにも艦砲が落ちて、子供が一人死んでおるようでありましたが、わたくしたちの連中には、さわりはありませんでした。
艦砲が落ちました時に、耳たたき切られましたから目も見えなくなりました。
また艦砲で、この足も切られて、こんなになっています。
わたくしは、山原へ行きまして、一年も入院してこれを癒しました。
捕虜取られたのは、もう食べるものも何もありませんので、海岸から逃げて、港川へ行こうとしていた時に、港川の近くで捕虜取られました。わたしたちの連れはみんないっしょに捕虜取られました。親戚の中から、亀川の御隠居さんと、わたしたちのと、甥と三人は、歩きながら、やられて死んでしまいました。艦砲ではありません。何か変った弾に当ったのであります。
乳呑子は、山原で食べる物がないために栄養失調になって死んでしまいました。
稲福さんは、八十四歳の方だが、付き添われて、呼吸も喘ぎながらやって来られた。お坐りになるのも、立つのも苦しそうで、話して貰えそうにない健康状態に見受けた。われわれが大声で訊いても全然聞き取れない。付き添いの人が、われわれの言葉をくり返すと、三つに一つくらいは、正しい返答をする。
家族は八人全員無事で戦争を終えたと答えたのに、長男と次男が防衛隊に取られて、長男は帰ったが次男は戦死して帰っていないことを部落の人たちが知らしてくれた。北部で孫が栄養失調で死んでいるのはやっと訊き出せた。
最初に聾になっているのは艦砲といっているが、そうではなくて爆弾ではなかったかと思われる。耳の鼓膜を切りになっている人びとはほとんど爆風である。
上記の本文に略したが、いっしょに歩いた全員無事に終戦を迎えたといわれたのに、歩き乍ら三人死んだことを語っていた。も少しくわしく部落の方から稲福家の事情を訊こうとしたが、大声で病苦、不自由、いろいろ日常の苦痛を訴へ「助けて下さい」といわれる。わたしたちが、戦災の援護関係調査に来ていると感違いしているらしかった。長男の事情も聞き出せなかった。重病人をつれ出して来た感じで、絶えず呼吸を喘いでいられるので、これ以上訊く気持は失なわれた。
大城カメ
(四十六歳)主婦
わたしたちは、自分たちの墓に、中にあった甕をそとへ出して、二、三日はおりましたがね、いくさがここまで攻め寄せて来ているから、早くみんな逃げろよ、というので、わたしたちばかり、そこにおられませんので逃げることにしました。
棚原馬場へ行っている時でありました。長男が、今艦砲が落ちるから、伏せろ、といいましたが、艦砲はも早や落ちてしまっていたんですよ。わたしは女の子を負ぶって歩いていましたが、その子供に破片が当りました。
わたしの横腹も大きく怪我していましたので、そばの家の人がお128前のものも治療しに行かなければ、大変だぞ、行って来い、とすすめていました。女の子は兵隊の病院がありましたので治療にやってありましたが、わたしは行かないでひとりそこに坐っていました。わたしは大きく怪我しましたので、却って命にさしつかえありませんでしたが、この子は島尻で破傷風になってやられてしまいました。
わたしが怪我した時に、喜納小のお爺さんもですね、ここ股を破片で引っくり返されて、どこへ行かれたかわからなくなっていましたが、翌日は、またいっしょになりましたよ。
わたしたちは、それから稲福(大里村)の部落へ行きました。そうしましたら、怪我している女の子が破傷風になって、物もよう食べませんので、口に入れてやったりしていましたが、もうこれは怪我もしているからと思って、人の家を借りて入れてありました。それでお父さんから、また長男の太郎も、この女の子もいっしょに眠っていて、やられて亡くなってしまいました。ここで沢山やられていますよ。あっちにもこっちにも寝ていますので、どこの人かわかりませんよ。
その時、喜納小のおばあさんが、孫をどこへつれて行ったか、いくら捜しても見当らない。まだ三つしかならなかったが、わたしの女の子の子供ですよ。そうしたら女の親は、このおばあさんがどこへ逃げて行ったかといって、ソウスゲテ(無我夢中)になってね。とうとう一晩中見つからない。翌日の昼飯後になって、人の壕に入っていたといって帰って来られましたよ。
そこでは、あっちにもこっちにも死んでいましたが、わたしたちのお父さんはお金はですね、白い帯に縫って入れてあったんですね、即死したから(ケーシザクト)金は血がついて、飛び散ってですね、そうしたら叔父さんが、長男一人にくれるといって拾い取ってありましたよ。そうして叔父さんは、長男にくれるといって持っていましたよ。
それでわたしは、長男に、今度の戦さは、今日やられるか、明日やられるかわからないから、この金を取るなよと、長男に言ってありましたよ。そうして、わたしの長男は、今もおりますが、叔父さんがやられたので、これが取るようにしました。
叔父さんがやられたのは、前川のです。薪木を取って物を煮て食べるというので、壕から出ると同時にやられました。それで葬り方(直訳)をしました。
その時には、わたしは、わたしたちのちゃんは出さないようにしたんだが、「いいえ、わたしは今行って来ますよ」なんて言って、そうしてわたしの長男もですね、わたしたちのいる壕でここやられましてね、今でもこれくらい入りますよ(場所と長さを訊き漏らしたが相当の怪我だろう)。それで一時気狂いみたようになっていましたよ。
捕虜取られて百名へ行っていましたが、作業にも出ませんでですね、やがて家に帰る時になってから、ちょっとだけ作業に出たくらいです。
長男はですね、本土へ召集されたが、一か月ばかりで帰されて、それから召集されないで、わたしたちといっしょにずっと歩くことになりましたよ。
わたしたちは捕虜取られる前に、前川の壕に長らくいましたよ。それはもうウジ虫が湧き出ましてね、これを見ては眠ることもできませんで、夜もすがら起きていて夜を明かしたことがありました。その壕は、大変大きいので人が沢山死んでいたんですよ。行くところがないから、死んだ人といっしょにいたんですが、死んだ人には、鯛が湧くんですよ。
わたしたちはここで捕虜を取られましたよ。このは大変大きなでありますから死んだ人も沢山あったが、避難民も大勢いるわけですよ。
そうしてアメリカーが、こんなこんな(デテコイの手真似き)しましたので、今に撃ち殺されはしないかといって、名嘉山のお爺さんなど、おい、隅の方に隠れなさいといったが、松島のお父さんという方は、一番に手を上げて出ました。そうして出ましたら、さあ、早く大城へ行け、といいまして、手真似、足真似でしましたよ。それで子供たちが泣き叫びましたら、アメリカーがお菓子をくれてありましたよ。そうしてわたしの娘のかめ子が、取って捨てましたよ。捨てましたら、これは何でもないから食べなさい、といって自分から食べて見せましたよ。大城にいったらどんなことをするかと思っていましたら、友軍の米があっちに沢山あるから、それを取って来て食べろ、とアメリカーが手真似、足真似でいいました。取っては来ましたが、味噌や塩もありませんので食べませんでしたが、百名へ移動する時には二、三升ずつ持ちました。長男の疵は頭ですが、引っ込んでいましたよ。神経がやられてしばらくは何もわからん。一度は兵隊が連れて行って金網に入れられて、どこへ行ったのかわからないで大分困ったことがありました。これは、家内とは行かないで、姉さんとでなければ行かないといって、わたしがいつもついて行ったんですよ。これ一人頼りにしているのに、神経がこんなになってはどうするかと大変心配していました。
わたしの夫は、元気でいますと、このお父さん(現区長さん)と同じ年でありました。わたしとは七〇年がちがっていました。三男は防衛隊に取られて、帰っては来ませんでした。次男は台湾(武部第九師団)に行きましたので、元気に帰って来ました。ここの勤務でありましたが、わからない中に台湾に行っていなくなりましたので、びっくりしていました。長男の嫁と子供とがいましたが、子供は誕生してじきでした。
この戦さでわたしの子供は三人亡くなりました。お父さんと、孫の子と家族から五人亡くなりました。わたしと長男、次男、嫁、四人は残りました。
屋良ウト
(五十五歳)主婦
当時のわたしたちの家族は十四人でありました。わたしの子供は、男が五人、女も五人で十名おりました。
戦争になりましたので、はじめは自分の墓に入っていましたが、こっちからはみんな越えていますので、あなたがただけ残っていると大変ですよ、いくさはもうここまで来ているよ、といいましたから、こっちからヘンサへ行きまして、糸数というところの近くにも入っていましたよ。そこでもまた敵がそこまで来ているので、出なさい、とせき立てられました。こんなに大勢子供たちつれていますので、いつでも誰もいなくなってから、おくれて立つことになりました。
兵隊に二人は行っていますし、三女と次女とは別になっていましたが、子供たちが八人でありましたから、これだけ連れては、容易には出られませんので、いつでも人の後になりました。またヘンサからも、出ろよといわれましたので、こっちから越えた部落は、トーフ小ヒラ(豆腐坂)の下から真直に行きましたが、何という字でありましたか、忘れてしまっています。あの辺は行ったことはなかったのでありますから、どこがどこやらわかりません。それで子供たちが多いので、子供たちはまだ何も出来ませんので、食物はぜんぜん持つことができませんでね、豆腐小坂の下から行った字で、わたしの主人が知った兵隊でありましたのか、あっちに米がありますから、こんな大勢の子供たちですし、持っていらっしゃいと米をくれました。
兵隊にいつでも前へ前へと追い立てられまして、穴を掘って入っていても、出ろ、出ろよ、といって出されまして、後は、澱粉工場というのがありましたね、そのそばに穴がありましたので、そこに入っていました。そこには長くおりましたが、またそこから出て、福地というところに行きました。そこで穴掘っていようとしたら、そこで、四男と女の子の子供とここでやられましてね、破片でやられました。娘の女の子は五歳かになっていましたが、わたしの後に立っていて、「おばあさん、白髪取って上げましようね」といって、わたしの背中に負われるような格好でいましたが、わたしのそこから、黒いのが通るようにありましたのに、この子供の頭に当りましてね、そのままでしたよ。
四男も穴掘ろうといって穴に入っていたんですが、頭の右がわにこれくらいの破片が入っていましたが、頭でありましたので、豆腐のようなジーアンダ(脳味噌)が大きな粒つぶになって出まして、そのままになりました。これ等二人はここで、そのままになりましたから、一尋(一メートル半)ばかりは穴を掘ってありましたが、こっちに納めておきました。
わたしたちのヤッチー(長男)は穴を掘ろうとしていましたが、兵隊は大刀も捨てて、軍服も捨てて、死んだ人の着物をさがし当てて着ていましたのか、着物を着ましてね、わたしたちについて歩いていました。それで、「お前がこんなにしてわたしたちについていると、わたしたちも大変だから、離れて歩きなさい」といったんですが、くっついて離れませんでした。それで、「わたしも穴を掘ってやる」といっておりました。そうして交代でこれも穴を掘っていました。
それで中で掘っていたわたしたちの兄さん(ヤッチー)と、兵隊と交替するといって、わたしたちの兄さんが出て、この兵隊が入ると同時に兵隊はやられて、わたしたちの兄さんは、汗を拭くために出たので命を助っています。
それで、四男も、女の子の子供も、ここに納めました。「お前たち入れるといって穴は掘ったんだな」といいました。
わたしたちの兄さんはまた、歩きながらであったでしよう。左の腕の肉は全部なくなっておりますので、破片が取って行ったんでしよう。骨にはさわりませんでしたので、命は助かりました。
わたしたちの兄さんはまた、歩きながらであったでしよう。左の腕の肉は全部なくなっておりますので、破片が取って行ったんでしよう。骨にはさわりませんでしたので、命は助かりました。
これから出ては、喜屋武岬といいましたかな、あっちへ行けば、甘蔗の中に隠れても命は助かると人がいいましたから、あそこへ行きましたが、行くと同時に、これだけの子供たちみんな怪我をさせました。
その時までは、お爺さん(夫のこと)は、グテー(体格、五体)も有り余る程有りましたので、怪我している子供たちを背負って歩いていました。歩いている時にやられましたか、血が、だらだら流れていましたので、「何であなたは」といいましたら「何も差支えない、早く歩きなさい」というんです。
その時、兵隊が下りて来ましたから、ここから逃げないと大変よ、といって逃げて、そのさきざきで穴掘っては出、また穴を掘って出なければならない、というようにしまして、遠くへ行って、子供たちは、小石を拾い集めて、それで弾をよけて、小さい穴に入っていましたが、こっちでは、わたしの次女母子から、わたしたちの兄さんの嫁もここで死にました。兄さんは、もう子供も四人できていましたが、次男と三男は亡くなってしまいまして、長男と、まだ乳呑子だった女の子との上下の二人は残りました。
お爺さん(夫)は、怪我していますが、この人は俵も担いで、子供もぶって、怪我は血もだらだらしているが、それでも何もいわない。弾は抜け出して、繃帯もしないで歩いていました。兄さんは、死んだ人の新しい物がありましたが、それを引きのばして、これで結んだそうです。生きているとは思いませんでしたが、山原から帰る頃になっていっしょになりました。
喜屋武の岬から東になっていましたが、そこにも壕がありました。そこへ行ったら、日本は降参したという話がありました。それでも弾は、パラパラ音を立てていました。
それから山の中を歩いて、また山の中から出て、与座・仲座といってありましようか、海に近い、岩の断崖に阿檀垣の近くに(与座・仲座からギーザバンタまでの距離を錯覚している記憶と推察する)、ここへ、お爺さんは俵も担いで、ギーザバンタというちょっとした坂の甘蔗の中に入っていました。そこから出なさい、出なさいしました。軍艦が前にはいましたよ。それでそこから下りるといって、岩にすがっては下り、少し下りては岩にさがって、海の浜辺に下りているんですよ。そこは、人も死んでいて、ゆっくりゆっくり下りましたよ。そうしたら死んだ人を足で踏みすべらしたりして、その時からは冷やっとしました。
そうして浜辺へ下りて行きましたが、アメリカーが、早く出て来い、早く出て来い、と呼んでいましたので、呼び出して殺すつもりだろうと、いっていたんですが、「食べ物も沢山ある、飲み物も沢山ある、早く出て来い」と軍艦から呼びましたよ。そうして、そこで捕虜になりました。喜屋武から、ここまで来たのは十四人から、七人残っていました。
阿檀垣のところから戦車(上陸用舟艇だろう)で軍艦まで送られて、軍艦から糸満へ来て、それから座安・伊良波というところで、甘蔗を取った跡に、テントが張られていました。そこでお握りをくれました。そこで一晩泊ってから、山原の久志小へ、車に乗せてつれられていきました。
わたしの娘の子もつれていましたが、この子は坊主のところを怪我していましたよ。その膝は真白くして引っくり返って、裏の筋二つでぶらんぶらんして引っかかっていまして、片足は残っていました。兄さんの子の三男も、頭の大事なところに破片が入っていましたが、これは、わたしの末子の十二になるのが負んぶしました。またお爺さんは、嫡子孫が足の踵のすじをたたき切られまし歩くことができませんので、これを負んぶして、一人はわたしが負ぶっていましたが、これもわたしの孫ですから、わたしにつれさせてくれと頼んだんですが、兵隊は、その子をカンマンカンマンといいながら、押して行って、この怪我している子供は、車に乗せてつれて行ったんですが、どこへ行ったのか、この子供はどこで世を失った(死んだ)かわかりません。わたしの次女、足を怪我していた子です。生き別れして、どこでどうなったか。
元気の子はわたしと共に車に乗せて、わたしたちは、山原の久志小へ行きました。あっちには、一年ばかりいました、西原に帰るまで。
お爺さんは元気でありましたので、これだけの子供たちも、残っているのを生きさせることができました。
久志小では、食べ物は、何とか過しましたが、戦さに追われて歩く時は、玄米の飯で、食べることもできないで、ひもじい思いをして歩きました。
わたしの子供は男五人、女五人でありましたが、男は兄さん(長男一人だけ残って、兵隊に行ったのはみんな帰りません。娘も五人でありましたが、三人は戦争に命が負けて二人残っています。十四人西原から出て行きましたが、帰った時には六人残っていました。
わたしの四男ですが、これは兵隊といっしょに歩いて、ずっと弾を運んだり、食糧を運んだりして、軍属になって協力したんですが、どういう間違いですか、これは国から何にもありません。満十六歳で数えで十七歳になっておりましたが。
喜納ウト
(五十二歳)主婦
こっちから出る時、わたしたちは、お爺さん(夫)と孫と三人がいっしょでありました。孫は、わたしの娘の子で、数えの三つでありました。頭の上にも荷物をのせて、両手に持てるだけ持って、孫は背負って、威勢よく出かけることにしていました。
わたしたちには女の子が四人いましたが、これたちは、四人とも兵隊たちといっしょになっていますので、わたしたちとは別べつでありました。
そうして、家は兵隊がいますので、わたしたちは生活をしていましてね、壕から出る時は、こっち(同席の区長さん、夫を顎でしやくって示す)は先になって、わたしたちは後になりました。
わたしといっしょの人たちは、西原(村)小那覇の人でありましたが、わたしたちの壕に入って、この人たちといっしょになっていましたら、わたしたちは、ここでアメリカーに捕えられましてね、自分等の壕で。こっち(夫のこと)は友軍の兵がどこへもやらないでいっしょになって、わたしたちは西原村小那覇の人たちといっしょ、女たちばかりいっしょですよ。こっち(夫)が先になったのは、友軍の兵隊が、アメリカーはあっちから来るのだからと引き入れられて、南へ先になったわけです。
そしてわたしたちは自分の壕にいたらアメリカーがこっちに上陸して来て、そこでアメリカーに捕えられました。小那覇部落の人たちもいっしょにです。さあ、大変なことになったと思いましたが、「あっちに男たちは行っておるから、そこへやってくれ」といったら、あっちへ行くなら鉄砲で撃つぞと構えるわけです。
それで、捕虜取られているものは、後の方へ行けというので、「はい」と言って、そうして後の方へ行ったら、兵隊はいませんよ。アメリカ兵です、友軍の兵隊はとっくの前に後へ行っていませんでしたが、アメリカ兵も前の方へ行って、後にはぜんぜんいないんです。
わたしといっしょの小那覇の一人のおばあさんはアメリカに長くいて帰って来た人で、アメリカ語を話しました。それで何といっているのですかと訊くと、こうこういっているよと言ってくれました。小那覇の人たちも男はいなくて、女ばかりですよ。
それでわたしは、鰹節や米など食糧も持っていたのに、これを放り投げて、わたしたちの津嘉山のわたしの隣の古屋敷に、木が沢山ありましたよ、そこへ逃げて来て、今度はまた、夜通し歩いて、池田へいったわけでした。わたしたちの墓の前に、この小那覇の人たちもいっしょに。
これから出ては、喜屋武岬といいましたかな、あっちへ行けば、甘蔗の中に隠れても命は助かると人がいいましたから、あそこへ行きましたが、行くと同時に、これだけの子供たちみんな怪我をさせました。
その時までは、お爺さん(夫のこと)は、グテー(体格、五体)も有り余る程有りましたので、怪我している子供たちを背負って歩いていました。歩いている時にやられましたか、血が、だらだら流れていましたので、「何であなたは」といいましたら「何も差支えない、早く歩きなさい」というんです。
その時、兵隊が下りて来ましたから、ここから逃げないと大変よ、といって逃げて、そのさきざきで穴掘っては出、また穴を掘って出なければならない、というようにしまして、遠くへ行って、子供たちは、小石を拾い集めて、それで弾をよけて、小さい穴に入っていましたが、こっちでは、わたしの次女母子から、わたしたちの兄さんの嫁もここで死にました。兄さんは、もう子供も四人できていましたが、次男と三男は亡くなってしまいまして、長男と、まだ乳呑子だった女の子との上下の二人は残りました。
お爺さん(夫)は、怪我していますが、この人は俵も担いで、子供もぶって、怪我は血もだらだらしているが、それでも何もいわない。弾は抜け出して、繃帯もしないで歩いていました。兄さんは、死んだ人の新しい物がありましたが、それを引きのばして、
これで結んだそうです。生きているとは思いませんでしたが、山原から帰る頃になっていっしょになりました。
喜屋武の岬から東になっていましたが、そこにも壕がありました。そこへ行ったら、日本は降参したという話がありました。それでも弾は、パラパラ音を立てていました。
それから山の中を歩いて、また山の中から出て、与座・仲座といってありましようか、海に近い、岩の断崖に阿檀垣の近くに(与座・仲座からギーザバンタまでの距離を錯覚している記憶と推察する)、ここへ、お爺さんは俵も担いで、ギーザバンタというちょっとした坂の甘蔗の中に入っていました。そこから出なさい、出なさいしました。軍艦が前にはいましたよ。それでそこから下りるといって、岩にすがっては下り、少し下りては岩にさがって、海の浜辺に下りているんですよ。そこは、人も死んでいて、ゆっくりゆっくり下りましたよ。そうしたら死んだ人を足で踏みすべらしたりして、その時からは冷やっとしました。
そうして浜辺へ下りて行きましたが、アメリカーが、早く出て来い、早く出て来い、と呼んでいましたので、呼び出して殺すつもりだろうと、いっていたんですが、「食べ物も沢山ある、飲み物も沢山ある、早く出て来い」と軍艦から呼びましたよ。そうして、そこで捕虜になりました。喜屋武から、ここまで来たのは十四人から、七人残っていました。
阿檀垣のところから戦車(上陸用舟艇だろう)で軍艦まで送られて、軍艦から糸満へ来て、それから座安・伊良波というところで、甘蔗を取った跡に、テントが張られていました。そこでお握りをくれました。そこで一晩泊ってから、山原の久志小へ、車に乗せてつれられていきました。
わたしの娘の子もつれていましたが、この子は坊主のところを怪我していましたよ。その膝は真白くして引っくり返って、裏の筋二つでぶらんぶらんして引っかかっていまして、片足は残っていました。兄さんの子の三男も、頭の大事なところに破片が入っていましたが、これは、わたしの末子の十二になるのが負んぶしました。またお爺さんは、嫡子孫が足の踵のすじをたたき切られまし歩くことができませんので、これを負んぶして、一人はわたしが負ぶっていましたが、これもわたしの孫ですから、わたしにつれさせてくれと頼んだんですが、兵隊は、その子をカンマンカンマンといいながら、押して行って、この怪我している子供は、車に乗せてつれて行ったんですが、どこへ行ったのか、この子供はどこで世を失った(死んだ)かわかりません。わたしの次女、足を怪我していた子です。生き別れして、どこでどうなったか。
元気の子はわたしと共に車に乗せて、わたしたちは、山原の久志小へ行きました。あっちには、一年ばかりいました、西原に帰るまで。
お爺さんは元気でありましたので、これだけの子供たちも、残っているのを生きさせることができました。
久志小では、食べ物は、何とか過しましたが、戦さに追われて歩く時は、玄米の飯で、食べることもできないで、ひもじい思いをして歩きました。
わたしの子供は男五人、女五人でありましたが、男は兄さん(長男一人だけ残って、兵隊に行ったのはみんな帰りません。娘も五人でありましたが、三人は戦争に命が負けて二人残っています。十四人西原から出て行きましたが、帰った時には六人残っていました。
わたしの四男ですが、これは兵隊といっしょに歩いて、ずっと弾を運んだり、食糧を運んだりして、軍属になって協力したんですが、どういう間違いですか、これは国から何にもありません。満十六歳で数えで十七歳になっておりましたが。
喜納ウト
(五十二歳)主婦
こっちから出る時、わたしたちは、お爺さん(夫)と孫と三人がいっしょでありました。孫は、わたしの娘の子で、数えの三つでありました。頭の上にも荷物をのせて、両手に持てるだけ持って、孫は背負って、威勢よく出かけることにしていました。
わたしたちには女の子が四人いましたが、これたちは、四人とも兵隊たちといっしょになっていますので、わたしたちとは別べつでありました。
そうして、家は兵隊がいますので、わたしたちは生活をしていましてね、から出る時は、こっち(同席の区長さん、夫を顎でしやくって示す)は先になって、わたしたちは後になりました。
わたしといっしょの人たちは、西原(村)小那覇の人でありましたが、わたしたちの壕に入って、この人たちといっしょになっていましたら、わたしたちは、ここでアメリカーに捕えられましてね、
自分等の壕で。こっち(夫のこと)は友軍の兵がどこへもやらないでいっしょになって、わたしたちは西原村小那覇の人たちといっしょ、女たちばかりいっしょですよ。こっち(夫)が先になったのは、友軍の兵隊が、アメリカーはあっちから来るのだからと引き入れられて、南へ先になったわけです。
そしてわたしたちは自分の壕にいたらアメリカーがこっちに上陸して来て、そこでアメリカーに捕えられました。小那覇部落の人たちもいっしょにです。さあ、大変なことになったと思いましたが、「あっちに男たちは行っておるから、そこへやってくれ」といったら、あっちへ行くなら鉄砲で撃つぞと構えるわけです。
それで、捕虜取られているものは、後の方へ行けというので、「はい」と言って、そうして後の方へ行ったら、兵隊はいませんよ。アメリカ兵です、友軍の兵隊はとっくの前に後へ行っていませんでしたが、アメリカ兵も前の方へ行って、後にはぜんぜんいないんです。
わたしといっしょの小那覇の一人のおばあさんはアメリカに長くいて帰って来た人で、アメリカ語を話しました。それで何といっているのですかと訊くと、こうこういっているよと言ってくれました。小那覇の人たちも男はいなくて、女ばかりですよ。
それでわたしは、鰹節や米など食糧も持っていたのに、これを放り投げて、わたしたちの津嘉山のわたしの隣の古屋敷に、木が沢山ありましたよ、そこへ逃げて来て、今度はまた、夜通し歩いて、池田へいったわけでした。わたしたちの墓の前に、この小那覇の人たちもいっしょに。
そこに行ったら、お爺さん(夫)はいない、わたしたちの女の方の祖先の墓がそこにありましたよ。そうして、誰かが先になっても、そこで待ち合わそうと話してあったので、わたしより先にここの墓に待っているんだと思っていたんです。そうしてわたしは親戚の同じ崎原のところに孫を負ぶって行ったんですが、持っている荷物を捨てて来たので、食べるものはない。親戚の人たちは大勢だから案じていると、「まぁ心配なさらないで、お父さんを捜すまでは、ここにいなさい」といわれて、そこに三日いました。池田への道は、上長から、元の役場のところへ下りて、艦砲の撃ち込まれる道をよけて、山の中を歩いたり溝にそうて歩いたり、艦砲が激しい時に木の陰などに隠れたりして歩きました。
そうして、わたしの母方の墓で、三日は親戚のところに泊ってから、お父さんといっしょになりました。
池田の方が激しくなりましたので、東風平から具志頭村の後原のへ行きました。後原の壕で、お父さんは、戦争協力に取られてしまいました。
それで、また後原も激しくなりまして、いられなくなりましたので、そこを出ましたが、道に人が死んでいるのは、大変でした。女の方で死んでいる人、男の人で死んでいるもの、兵隊で死んでいる人、死んではないが足が切れたり、手がなかったり、重いを受けていたり、そういう人も道をはいずり歩いていて、ほんとに歩くことが出来ませんでした。
わたしたちは、島尻の福地というところへ行きました。わたしの男の親、わたしの兄さん、兄さんの妻、それに兄さんの女の子、それから小那覇の人で「禿げお父さん」という方にわたし六、七人がいっしょでありました。
わたしのお父さんは、当時六十余りでしたがわたしたちと歩きました(七十余りの間違いだろう、当時喜納ウトさんは五十二歳だし、しかも上に兄さんがいるので)。
わたしの兄、一人息子でありましたのに、この戦争に取られてしまいました。福地に、工場があったそうでありますが、この工場の跡に井戸があったそうです。その井戸に兄さんは、わたしの女の子といっしょに、水汲みに行ったんです。わたしの女の子とは、そこでいっしょになったそうです。兄さんは、背中から、胸の方へ貫通されていたんです。あの火が出るあれ、何というんですかね、わたしの女の子が、体を伏すようにいったそうですが、体が大きい人だから、背中からやられて、つき抜けたそうです。わたしの女の子といっしょで、福地の工場の釜があったそうですが、その釜に兄さんといっしょの人が休んでいたそうです。それでこの人たちが埋葬って、くれたそうです。そこをわたしの女の子に、「そこで休んでから行こうね、かめちゃん」といって、そのいっしょの人たちのいるところを見せてあったんだそうです。
わたしは弟もいましたが、これも兵隊で病気になって死んだんです。
捕虜には、福地の先で取られました。兄さんが福地でやられましたから、ここにいては大変だといって、先の方へ行きました。山城ではなくて、上里というところだったように思います。
わたしは、少しも怪我をしませんでしたので、お父さん(夫)の命を助けられたんですよ。お父さんは生きるとは思いませんでした。糸満で、いっしょになって見ましたが、すぐ病院につれて行かれたので別べつになりました。
わたしは、捕虜になると、すぐ美里につれられて、それからコザの蒲原へ移動しましたが、そこに長らくいました。食べ物は不自由はちっともありませんでした。アメリカの食べ物のあることにはびっくりするくらいでした。
お父さん(夫)は癒るとは思いませんでしたが、杖をついて、衛生班長をしていっしょにいることができました。
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