『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 上原座談会 (西原村)

 

上原座談会(西原村)

宮城 聡
時 一九六九年十一月二十日
場所 字上原公民館

解説

出席者で一番若い方が現在、満七十歳で、戦争を生き抜かれた高齢者ばかりだった。満で八十二歳、七十九歳二人、七十七歳、七十六歳、七十五歳といった方がたであった。死線を越えて、また酷い負傷を負いながら、上記のように高齢を全うしていられる方がたばかりだったが、これは特異な例として、よかったと思う。

 

爆風を受けて、耳が聞こえないで、話しを巧く進めることができないうらみはあったが、しかし、戦争当時、五十代の主婦の戦争体験は相当にはっきり、簡明に記録された。


戦争による負傷者の後遺症やその酷い跡の方は、他の座談会でも、あちこちで見られたが、現区長の喜納さんと、屋良ウシさんの負傷には驚かざるを得なかった。

 

上原の場合は、高齢者の戦争犠牲(負傷)だけに、日本政府が、それ等の人に、何等かの処置が取られてないのを不満に思い、それを期待しているような気分が、ほとんどの方に見られた。

 

この戦争記録篇の座談会を、戦災身体の調査とさえ思っていられる方もあるように推察された。

 

上原は、中城村の南上原の南端で、一日に朝夕二回はバスが通るとのことであったが、座談会を終えた編集所の上原所員とわたくしたち二人は、二キロメートルに近い字棚原まで、乗りものがないので、歩くことにした。

 

すると、たまたま、作業から帰るピックアップが、宜野湾へ行くという。宜野湾へ行けば、バスやタクシーの便が得られると思い、ヒッチハイクを頼んで乗せて貰った。しかし驚いたことには、通る道が浮世離れの人里離れた未知の山間であった。谷越え堀り割りを越えて、電燈の灯る宜野湾街路に辿りつくことができた。その山間の道が、今日の座談会をより悲しく体にしみる感じだった。

 

喜納信政

(五十三歳)

戰争協力

わたしは上原を家内よりも一足先に立ちまして池田の墓に来ていました。池田で落ち合うように話し合ってありましたので、そこでいっしょになって島尻へ下りました。
具志頭の後原部落へ東風平を経て行きまして、壕をさがして家内たちを入れました。
具志頭村の有力者でしたか、を廻って、戦争協力者を強制的に集めていましたが、わたしは、それに引っ張り出されました。怪我したのは、東風平から糸満へ軍の食糧運搬の途中でした。糸数の壕の手前でした。

 

この怪我については、厚生省から書類が来ていましたが、二級にするか、三級にするかと判定中だと書かれてありました。

 

捕虜に取られるとアメリカは、ただちに担架で運んでくれて、すぐ病院へ送られました。腰の方も破片ですよ。破片が当ったんですね。腰の方は、最初はもっととんがって大きく出て、下の方は反対に深くへこんでいたんですがね。足も破片が打ったんですが、骨が一つは、取れてなくなっています。すじが切れているのか、曲げたりのばしたりが巧くできませんね、いつも、びっこを引いているんですよ。

 

喜納さんの背中を、服の上からだが見て驚いた。第十二胸椎から上の三つくらいの胸椎がそとへ突き出て、反対に、第一腰椎から下の三つくらいの腰椎が、約十五センチくらい陥没して、無くなっているように思われる。その穴はかなり深いことが服の上からもわかる。胸椎、腰椎が、脳と共に人間の中枢神経を形成する脊輝の通る人間の中軸だから、腰椎の三個が無くなったり、胸椎が断絶したりしては人間は生きられないのではないかと思われるが、喜納さんの背中は、胸椎と腰椎とが断絶しているようになっている。同席の奥さんは、この人はわたしがおらなかったら命はなかった、この人が生きると思った人はいなかった、と言葉をはさんだ。

 

屋良ウシ

(五十歳)主婦

わたしたちは、夫と夫の弟と二人防衛隊に取られまして、男の子一人女の子が二人、孫たち、それに夫の弟の妻子六人とがいっしょに、自分たちの墓に入っていました。墓は棚原の上であります。

 

こっちがあんまり激しくなりましたので、ヘンサノスク(現在の池田部落へ行きまして、そこから夜明け通し歩きまして東風平へ行きました。

 

食物も少しずつは持ちました。油味噌や砂糖も少しずつしか持つことはできません。
それから真境名に一夜は泊りまして、そこの家の人が芋をくれたので、一つずつ食べました。

 

またそこも激しくなりましたので、家も壊されるし、牛馬も逃げ出しますし、そうしましたので、またここにも居られませんので、親慶原(玉城村)へ行きました。

 

そうしましたら、壕の口は、たたきぶされて、閉じられてしまって、八名の人間がそこに即死しているんですよ。十二人は元気でありますのね。そうして弾に当っているのはわたくし一人でありますが、残りは爆風を食ってしまって、死んでいるわけですが、十二人は、はい出て行っていません。それでわたしも八名の死んだ人とはいっしょにおられませんので、わたしもはい出て見ましたら、足も立つことができません。膝坊主で足を引きずって、十日余の間野原の中で暮して、残りは捕虜取られてしまって、知念へ行って、いなくなっていました。その十日余りの間は、骨芋を掘じくったり、甘蔗を折って食べたりして、芋も雨が降ると洗って生まのままかじって、人間というものはこんなにしても生きられます。容易には死にませんのね、死ぬ人が死ぬので、人の命は天が持っていられるので、わたしがさえこんなに生きておるんだ、といっているんです(ここでは急に当時の悲しい姿を想い浮べた様子で涙声になる)。右のお臀の先に当って、左の腰が今になっても利きません。十日余り野原の中をはいずり廻っていますと、血はだらだら流れて、絣の着物を着ていましたが、これも着られなくなって、かなぐり捨てました。またズロースも脱ぎ捨てました。着ていられないようになっているので、どうにもならないので脱ぎ捨てるほかはなかったんです。人間は、死に恥も蔽うということがありますのに、わたしはこんなにして、はいずり廻って歩きました。

 

そうして十日余りもはいずり廻った後で、山羊小屋がありました。そこには、与那原のいいおうちの御隠居さんらしい方が一人で、栄養失調になっているように見えましたが、おられました。幸いなことにそこに、一つ着物が干されて有りました。着物といっても、ずいぶんつぎはぎした妻でありましたが、それを着ることにしました。そうして、その与那原の御隠居さんが、着物の布をちょっと下さいました。それでわたしは、メーチャー小(女性用褌)をつくって、つけることができました。

 

そうしたら、ずっといっしょに親慶原まで来て、生き残って早く捕虜にとられたいとこが、わたしが生きているということをきいたといってさがして来ました。わたしの娘たちは、わたしはあの壕に死んでいるものと思って、「わたしたちのお母さんよう」といって、壕に向かって泣いていたそうです。

 

そのいとこに連れられて、馬天から船に乗って、安部と嘉陽の間浜辺に下されて、そこの磯辺にテントを張って、これだけの人がそこで生活することになりました。
わたしたちは、何一つ持っていません。それで、いい天気の時には、与那原のご隠居さんがくれた布でつくったメーチャー小を、川の方へ行って洗濯して、これが乾くまでは阿檀の中に隠れていて、これが乾くと滑るようにして暮しました。食べ物を煮るのは、罐詰の空罐に、小さい芋を入れて、石を三つ並べて、それで煮ました。何一つ道具を持ってはいません。


それからわたしは、杖にすがって歩いているのでありましたが、娘たちは、食べ物をさがしに行くことができません。それでわたしが、芭蕉を盗みに行きました。繊維にする芭蕉を食べるのです。麻袋を持って、その芭蕉を取りに行ったら、女巡査というのにつかまえられて、持っていた包丁も取り上げられました。この包丁は娘が、ずっと大切に一つだけ離さないで親類の方から持たされて来たものでありました。そのことは一生忘れません。この女巡査の家の名は、安部のKU...といいましたが、山原(北部の異称)のことでわたしたちには、それがその女巡査の家の名であるのかどうですか。

 

長男は親慶原の壕で爆風をうち食って死んだんです。死んだ八人はみんな近い親戚でありますから、行けるようになってから、みんなの遺骨を取って来ました。
長男がそんなにして死にましたから、娘には一人しか男の子がいませんが、わたしはこんな体で仕事はできませんので、ずっと娘に世話になっているんですよ。

 

山原では、二年間も大変苦しい生活をして、それから棚原に移されて、棚原からここへ来ましたが、あの山羊小屋で盗んでつけた着物、それはほんとの襤棲でありましたが、わたしは命の恩人と思って、棚原まで大事にして持って来ましたよ。

 

親慶原で爆弾にやられまして、ほんの小さい穴が入口に見えましたので、そこの土をかきわけて、血はだらだら体中から流れ出しながら、着ている着物も捨てなければならない、つけているズロースも脱ぎ捨てねばならない、そうして山原の野原で、持ったものは何一つなくて、芋を他人の畑に行って盗んで来て、罐詰の空罐一つが鍋で、海の藻(ホンダワラ)を拾って来て塩も味噌もなくて、食べる生活、このように、すべての苦しみは自分たちばかりが背負っておるように思いました。

 

時どきは頭が変になって、大変に苦しみます。どうして、こんなに全身に疵したのか、わかりません。右の臀の方が一番大きくしまして、引っ込んでいます。わたしは右臀のちょうど先が骨まで当って取られましたが、左の腰の方が痛いのと具合が悪いのとで、はだしでしか歩けません。冬は、あまり体が冷えて、湯たんぽをそこに当てないと眠ることはできません。女の子に世話になって、こんなに生きています。

 

註、屋良さんは自分では体については、わたしたちが見た実状よりも苦痛も愚痴も訴えられなかった。体の大柄な方で、しかも肥っていられるように見えるが、上体と足などを見せて貰った。頭から、顔から、両手、背中、胸部、見られる範囲の両足、とにかく全身が疵で、皮膚は変形している。大小さまざまので、驚くほかなかった。相当大きい跡がところどころあって、体の表面がへこんだりしているが、よくもこれで生きられるものだと、わたしも心中で不思議に思った。これまでにも、さまざまの人の負傷の痕跡を見て来たが、この方のように体中が跡で変形している人は初めて見た。写真を撮らして貰って、実状を本記録に収めたらという気持ちも浮かんだ。体が肥っていられるので、致命傷はどこにも受けなかったのが、生命を全うされた原因だろう。疵は何百ではなく何千だろうが、そのから血を吹き出しながら十日余も野原をはいずり廻って、雨にも降られ、泥土の中もはい廻ったそうだが、破傷風にも侵されなかったのも不思議で、ご本人がいわれる通り人の命は死のうと思っても死なれない、天が支配している、という心が出るのも無理ないと思った。一言にいえば、凄惨である。しかし見苦しいようなお顔の変形ではない。付き添いの人がお伴して来られた。

 

喜納ウト(五十三歳)

わたしの家は兵隊が入り込んでいましたから、お茶を沸かして上げたり、芋を煮てやったり、大変難儀でした。


わたしは、男八人と女三人の子供がおりましたが、末っ子の八男だけが家に残って、男七人は全部兵隊に出て行って、家には残っていませんでした。

 

女は、兵隊たちとずっといっしょに軍の勤めについていました。お父さんは、昭和十九年の六月に脳膜炎で亡くなりました。それは、西原飛行場をつくるために、六月の暑い時でありました。当時、区長していましたが、首里から来る学生たちといっしょに、ぶ通しで炎天下でやっていましたので、九日間毎日そんなにやっていて、脳膜炎になってしまいました。あの人は、何事も、とことんまでやらねばならない性でありましたので、六月の災天に当って、倒れてしまいました。

 

いくさが押し寄せて来た時、家は八男と二人きりでありますが、孫や、兄弟たちもいっしょになって逃げました。

 

わたしたちは、真境名(大里村)でも長らくおりました。真境名の上の野原に、ここに按司の墓がありました。与那原の人が、これを開いて、こっちに入りなさいといって入りましたらですね、ウトミーが、打ち食われてよ、わたしたちの弟の娘、わたしの姪ですよ。ウトミーが、わたしから入るといって入ると同時に、咬まれましてね。それは大変大きなハブで、まるで猫のように異風な格好して坐っていましたよ。幸いにくすりを持っていたから命が助かることができましたよ。それでこのハブはわたしの弟が殺して取りましたが、それは、どんなに大きいもので、何十年もこもっていたよう凄いものでしたよ。


それからまた先に行きますと、そこは何というところかわかりませんが、兵隊たちがいましてね、こっちからウロウロしていると射殺してやるぞ、と言われましたので、驚きまして、当てなしに歩きました。


それで親戚の子供たちもみんないっしょでありますよね。島尻の真壁の前で、木の下に隠れていましたが、そこへ二回落ちましたからね、これ等みんなやられてしまいました。わたしの子の七男ですね、防衛隊でありますが下ってそこへ来ましていっしょになりましたが、これは顔の頬をすっかり引っ取られてありません。それで、お前はそこに居てね、壕さがしてつれに来るからといっていたんですが、五男の兵隊がつれて行って、縫って治療させて、これはしのいでいます。五男は兵隊(米兵であろう)に見当てられまして、打ち込まれて居なくなっています。これも兵隊でしたよ。


またわたしたちは、どこを歩いたかわかりませんが、行ったところはギーザバンタへ下りて行きましてね、そこでは、何一つ食べるものがありません。岩の下でありますよね、岩から落ちる水を溜めて飲んでおりました。ここに長らくいました。二週間くらいしていましたよ。

 

そうしていると二世が来ましてね、「あなた方、ここにいられると大変なことになりますからね、わたしについておいでなさいよ、捕虜に取られなければ大変なことになりますから」といって、わたしたちの八男をこれが背負ってね、出たから命をしのいだわけですよ。


それから川へ行って、富里に一晩は泊って、それから東垣花(知念村)にちよっといまして、またそこから嘉陽につれられて行きました。嘉陽にはおよそ二か年ばかりいただろうな。


嘉陽では、食べる物がありません。海の藻草を取ってくれていました。嘉陽では、八男と孫と次男の妻もいっしょにいましたが、次男が捕虜取られた後に来て、これもいっしょになりました。


これが、あっちでマラリヤに罹りまして、大変でした。食べる物もありません。わたしは毎日海の上の岩の上にあがって、ンザナ(野生のにがいが食べることの出来る草)を取って来て、これをつっついて飲ましましてね、そうしてようやく癒しましたよ。

 

一番恐かったのは、真壁で艦砲が落ちた時です。わたしの主人は五男でしたが、四男の(義兄)家族は、わたしたちみんないっしょでありました。最初に落ちてわたしの七男が頬の肉を取られた時、四男叔父さんの長男が、腹をえぐり取られて即死しました。二度目の時に、四男(義兄)を始め子供等五人が一度にやられました。四男(義兄)の家族七人までが一度にやられてそこで亡くなりました。真境名の墓でハブを見た時も身の毛が立ちました。苦しかったのは、ギーザバンタに二週間くらいいた時でありました。

 

屋良ツル(五十五歳)

わたくしたちはですね、六つになる子がいましたが、兵隊たちに馴れて、いつも兵隊たちと歩いて、捕虜取られて、山原へ行っても知らない余所の人といっしょに歩いて、さがせないで心配しました。

 

わたしたちの家は、嫁はですね、長堂(豊見城村)を越えたところで弾に当って即死しました。それからわたしの夫、爺さんは、(孫たちを対照としている呼び方)軍の仕事していましたが、軍の仕事している時に馬が弾で殺されたので、孫二人と四人は島尻へ越えました。孫は三つになる男、六つになる女です。息子は一人ですが防衛隊に行きましたが、帰っては来ませんでした。嫁と息子とは年は二つ違いでしたが、二人戦争の時に亡くなりました。しかし孫は立派に成長していますよ。

 

わたしは、わたし一人で子供たちをつれて大変苦労しました。わたしたちは、伊敷(旧真壁村)の部落で、兵隊が片隅に、可哀相に思って入れてありましたよ。そこに四、五日おって捕虜になりまして、比嘉・島袋(中城村)へつれて行かれましたが、島袋でも四、五日はいましたが、また、山原の福山へつれられて、あっちに二か月ばかりおりました。

 

食べる物といいますと、これくらい(手で示す)の掘飯、島袋でくれましたよ。向こうで煮てくれるんですが、これくらいの掘飯を一人に一つずつくれるのですが、この三つになる子が二つ食べても食べたとは思ってないくらいでありました。その時には何とも言えない苦しいことでありました。

 

わたしたちの姑、おばあさんは、自分の家の蝶で、艦砲に当って、亡くなりました。
そのわたしたちのおばあさんは、「なび」名でありますのに、戸籍を作る係りが「かめ」名といって出しましてですね、出しましたら政府から、「かめ」といいまして戸籍が当らないということで、わたしは家庭裁判で、大変面倒を見ましたよ。わたしの孫は「かめ」といっていますが、わたしは「かめ」ではありません、「なび」でありますと、わたしは何度も行き戻りして、大変苦労して直しました。わたくしの夫は、馬も死なして、わたしたちがいる山原に捜して来ていましたよ、わたしたちは山原の山にいますから。そこで行きあいましたが、もうすっかり疲れ切っていまして、フラフラして、ころっと死んでしまいました。来てから十日ばかりしかいませんでした。


わたしたちは、孫と三人で帰りましたが、畑にある芋を掘じくって来ては二人の孫にくれて暮しました。昔はこんな暮しから始まっていますよ。

 

注この方もくわしい苦労の具体的な話を聞き出すことは無理であった。現在数えで八十歳の方であるが、孫二人との三人暮しをずっとつづけて来たわけで、この祖母がなければ、三歳と六歳の孫は孤児だったわけである。

 

稲福かまど(五十八歳)主婦
あのですね、前原屋というところにわたしたちが避難していましたら、艦砲が落ちましてね、それで耳をたたき切られて、耳聾になっております。
わたしたちの人数は、親戚たちが集まって、三十名ばかりいっしよでありました。

 

わたしたちのいる前原屋の離れにも艦砲が落ちて、子供が一人死んでおるようでありましたが、わたくしたちの連中には、さわりはありませんでした。

 

艦砲が落ちました時に、耳たたき切られましたから目も見えなくなりました。
また艦砲で、この足も切られて、こんなになっています。
わたくしは、山原へ行きまして、一年も入院してこれを癒しました。
捕虜取られたのは、もう食べるものも何もありませんので、海岸から逃げて、港川へ行こうとしていた時に、港川の近くで捕虜取られました。わたしたちの連れはみんないっしょに捕虜取られました。親戚の中から、亀川の御隠居さんと、わたしたちのと、甥と三人は、歩きながら、やられて死んでしまいました。艦砲ではありません。何か変った弾に当ったのであります。
乳呑子は、山原で食べる物がないために栄養失調になって死んでしまいました。
稲福さんは、八十四歳の方だが、付き添われて、呼吸も喘ぎながらやって来られた。お坐りになるのも、立つのも苦しそうで、話して貰えそうにない健康状態に見受けた。われわれが大声で訊いても全然聞き取れない。付き添いの人が、われわれの言葉をくり返すと、三つに一つくらいは、正しい返答をする。
家族は八人全員無事で戦争を終えたと答えたのに、長男と次男が防衛隊に取られて、長男は帰ったが次男は戦死して帰っていな200
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