『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 西原村村役所

 

 

以下、内閣府ホームページ 証言集 で公開されている『沖縄県史第9巻』(1971年琉球政府編)および『沖縄県史第10巻』(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。 

 

け聞いているのではなく、現に見ています。辻(那覇の遊廊)の女を連れて来て、戦争といいながらこの連中は贅沢していますよ」。「普通の兵隊はどうだったか知らないが、仲伊保の尚家(旧藩主、旧侯爵家)の別荘は、将校用でした」

「その経営者は、与那原の平識さん、あの方が慰安所のことはよくわかるはずです。その慰安所はですな、軍から物資も与えて、民間の名義でやらしておったんです。そうして経営者は軍属です」。「こっちに二か所あった。物資は軍から支給していた」。「辻は、ほとんど軍の慰安所になっていたという話しでしたよ」。「慰安婦の数はわからない」。

 

壕と村民の南部への避難行

「軍から、一週間以内に立ち退くようにという書面が来た。壕は軍がつこうから出なさいということも」。
「ほとんど南部に後退している。村で捕虜になった例は少ないでしよう」
「こっちは自然壕がないので、墓を境にするほかはなかった」。「面白いことには、残っている者はスパイということで脅しますから」。
「自然壕がなくて、壕はにわか造りで、掘る男手も少ない」。「石部隊の隊長から、われわれは、もうあさっては第一線に行くのだから村民が残っているだけは南部へいっしよに下るようにとい公文が来たですよ。それで古波津村長は各壕を廻ってですね、ここはもう駄目だから、みんな南部へ行こうといって、いっしよに行ったわけです。行ったところは八重瀬ですよ。向こうの壕には、五、六十くらいまでは入れたです」。
「われわれは知念に行ったが、知念から具志頭に行くものもあれば、具志頭から知念に来るものもおる」。
「友軍の兵隊が通っていたが、こっちは危険だといった。だから古波津村長は、わたしが安全なところを見つけて来るからあなたがたはここにいなさいといって行かれたので、その日に亡くなられたんですよ。八重瀬までは行かれて時どき連絡を取っておられたが・..」。
「病院は、翁長幸地にもあったと思う。池田のアガリサーにも。棚原から二百メートルぐらいの距離、区城は翁長だが、棚原に近かった」。
「西原は、翁長・小波津・池田・棚原・幸地・上原、こういう部落しか壕はできないんですよ、横穴です。それで、他の部落の人たちは身寄りを求めて、壕のあるところへ、食糧も苦労して運んだんです」。
「壕にいた時は、昼は艦砲が激しいし、夜は照明弾が上り通しであったが、それが止んだ時に水汲みや食糧取りに行った。そのために死んだのが多い」。


大城康秀

(五十二歳)村庶務主任

わたしは、自分の家族が艦砲で亡くなった点をちょっとお話いたしましよう。と申しますのは、わたしは役所におった関係上、下るにも古波津村長とあとまでおった関係で、妻子は、池田の、ほんとの地名は桃原の後原というところに墓の壕があったんです。そこに妻と姉さんと子供二人を置いてあったわけです。自分はまた村長といっしょに、つぎつぎ病院で怪我人がでるので、病院へ行って手伝いしておったわけです。それで朝ですね、食糧がなくなっているから、壕の方から姉さんをつかって、うちに行って残っている食糧を取って来るようにというふうに墓の主といっしよに来ているわけです。それを村長さんに申し上げたら、「艦砲も裏門は相当激しいので危険だから、晩行った方がいい、あんな遠いところまで行っては恐いよ」といわれたので待つことにした。暮れ方から、ちょっと艦砲が止んでおりましたから、行こうと相談して、ちょうど七時頃、日が暮れてから壕へ行って見たらですね、その壕には学校の先生もおりまして、十七、八名くらい入っておりました。その壕は昔の墓で、中には遺骨も直してあったんですが、そこに水があったんですね。それで向こうがわの避難民も全部その壕から水は取っておったんです。それが敵に見つかって、艦砲の集中射撃されたわけ。十七、八名の全員が埋まってしまってですね、墓の主の子供も七、八名でしたが、それを見たら手のつけようがありませんから、また村長のところへ戻って行って、こういうわけだと申し上げて、それで青年が七、八名くらい、いっしょに行ってですね、掘り出したら、また上から来るんですよ。照明弾もここに集中するわけですよ。ひとりの青年が、爆撃された墓の中の人の頭をさわってから、もう動きもしませんよといったので、それでわたしもさわって見たんです。やはり動きもしない。全部窒息して亡くなっておるから、もう止むを得ない。それで村長に申し上げた。も早や爆死したものは止むを得んから、この手伝いして貰っている人びとに万一のことがあっては大変だから、これで引きあげて、戦争が終ってから遺骨を取るようにした方がいいからというふうにみんなに断って引きあげたわけ。それで終戦後役所に来てから、掘って見ましたが、全部まだ遺骨になっていませんでしたので、出さないで、そこにおっただけ合同で焼いて、遺骨にしてから分けて持って行ったわけです。それから結婚していた娘のことですが、娘と絆はわれわれより先に、真栄平に行っていましたが、真栄平の丘で娘は艦砲に当って死んだと、に知らされまして、戦争が終ってから遺骨取りに行きました。行って見たら、この子の着物と畚と棒ですね、それを隣りの兄さんが持って来たので、聟はそれは自分のものだといって、そこに遺骨があるにちがいないといって、行って見たら、余所の人が持って行ってないんですよ、わざわざ行ったのに、自分の家族の遺骨がなくなっているのは何ともいえない淋しい気持でした。


島尻の方へ下って、八重瀬岳へ行きましたが、人員は五、六十名で、村長さんが軍の部隊長と話し合って、交代して壕に入れて貰いました。しかしそこでやられましてね、それから後は、昼は隠れて、夜は歩き通しで、それで捕虜になったのが、港川ですね。そこでは前村長の大城雄勝さんもいっしょで、カクイチさんもいっしょでしたが、アメリカーに、「君等は明日の十時に連れに来るから、そこから動かないようにしなさい」ということでしたよ。それをアメリカーから村長に話したわけですよ。それでみんなそのまま待っていたわけです。ところが前村長とわたしは、兵事関係もあることだし、捕虜になると、真っ先にわたしたち二人を役所につれて行って、役所の壕から、在郷軍人名簿や役所の機密書類をさがされた場合は、大変なことになるからといってですね、二人は夜中からまた逃げたわけです、そこから。それからが二人は非常に苦しみました。

 

それから二、三日間を置いてからですね、船からも、もう戦争は終っておるから、裸になって壕から出て来い、とスピーカーで呼んでいたんですよ。それでも気にしませんでしたが、もう止むを得んからということで、そこから飛び出してですね、行って見たら戦車なんかも並んでですね、また捕虜されたのも今の名城ビーチ*1 に収容されたわけです。そしてわたしは年齢の関係で、その時五十三歳(教え)であったので、前村長は若かったから別べつに分かれさせられ、越来へ送られてあっちに一時行ってですね、今度はまたそこから久志へ。

 

長男は郵便局から徴用されて山口県へ行っていました。次男は現役で満州へ行っておりました。三男が防衛召集されて戦死しましたが、これの戦死は早かったようです。長女は防衛召集(軍隊に同行し、弾薬運びなどの意か)されまして、最初はどうなったかわからなかったんです。三女はですね、他に嫁入りさせておりました。妊娠しておりましたが、大里でやられました。もう妊娠九か月になっていました。

 

墓の中で全滅したわたしの家族はですね、家内と七つと五つの子供二人、それに長男の嫁さん、孫が七つになっておりました。嫁さんは二十いくつでしたかな、妻はわたしとは八つか九つの年下で妊娠八か月になっておりました。一番小さいのが五歳ですね。

 

帰って山原から野嵩に来た時、長男も次男も帰って来ないものと思ってですね、生きているのと、死ぬのとどれがいいかなと思ったのですが、しかし遺骨が散らばっておるでしょう、自分が生き残っていないと、遺骨を集めることができないと思ってですね、生きておったんですよ。

 

池田でも妻子が死ぬし、真栄平でも嫁と孫と次女が死にました。大里では三女が死にました。しかし長女は助かっていまして、帰って来ましたので二人でおりました。そうしたら、死んだだろうとあきらめていた長男と、満州へ召集されていた次男の二人は、戦死しないで帰って来ました。

 

運玉(丘)に近いところに樋川原といってですね、そこは避難民相当に亡くなっていますよ。わたしの家内や子供たちがやられた墓にいっしょに入っていられた、平安座から来ていられた先生は何という姓名であられたですかね。わたしの姉さんといっしょに、わたしのところへ来ていられた墓の主は、安谷屋エイコウという方ですが、わたしの姉さんと安谷屋さんは、わたしのところから帰って行ったら、家族は全滅していたわけですよ。わたしの姉さんと安谷屋さんも、わたしたちのところへおつかいに来られなかったら、みんなと同じようにやられたんですね。

 

 

大城政吉

(三十歳)警察官

わたしは当時那覇警察署に勤務していました。署長が具志堅宗精さん、小隊長が安座間喜平さん、与那原署の署長、分隊長が玉那覇文雄さんです。繁多川の方に那覇署の職員ともう一つ警察本部と県庁の職員との擦がありました。わたしたちの壕に島田知事さんもいっしょにおられました。島田さんも、四月の何日かには、日本軍は空襲を行こなうので必ず勝つからといって、御下賜の煙草も配りました。

 

戦争が悪化しまして、繁多川の壕に避難していましたが、まあ昼中、夜も敵の対空監視と、首里の司令部からの情報を蒐集して避難民の方へ情報を聞かしていました。そういう対空監視とそういう任務で住民の治安維持をしていましたが、戦争が悪化してから繁多川の部落民がですね、お母さんと四つくらいの子供でしたがね、飯炊きするというので艦砲がパット来てですね、そのお母さんは顔面、顎からほとんどはなれておるんです。そして子供は胸部の方に盲貫銃創ですね、その時は子供も生きておるし、お母さんも意識はあったんです。それで壕に担架で担いで来て、治療は大宜味朝計さんですね、治療はしたんだが、もう手当のしようもなかったんですね。大きな怪我でした。そのお母さんは自分の怪我の痛さは知らん、意識もあったのだが、子供の名前ばかりいいつづけておったんです。そうして治療はしておったんだが、あれから間もなく亡くなったと思うんです。

 

それから、うちの隣りの葉は、りっぱなお墓だったので、食糧も相当に沢山詰めてあったが、そこに宜野湾村か、浦添村あたりから来た子供がいた。この子供等は、姉さんが六年生十三歳くらいの子でしょう、それから生れて四か月くらいの子供を負んぶして、三っ四つくらいの子の手を取って、わたしのところへ来ていた。「お母さんは」と訊いたら、貯金通帳と配給台帳と食糧を忘れているから取って来るといって、お母さんは行ったというが、いつまで待っても帰って来ないんですな。そうしてその子供たちに配給の粉ミルクがあったんですよ。それを水に溶かして与え、壕におりましたが、その子供たちが米軍の砲火に殺されなくても、果して生きているか、恐らくは、生命を全うし得なかったのではないでしょうか。そういうことから見ても戦争というものは、罪のない子供たちあんな痛ましい目に合した。そういう例はあっちこっちに見られたですがね。昼中は、まぁ艦砲とか、それから空爆ですね、もう隙き間がないほどでしたよ。

 

繁多川でも戦況はますます悪化してですね、対空監視をしていた国場セイゼン巡査が機銃で足をやられて、それから南部に下るように命令が出ました。それで真っ先に負傷した職員を連れて行かねばならないので、わたし等四名で国場巡査を担いで、真玉橋を渡ろうとしたら、その橋は空爆で、ほとんどやられて、ようやく二人くら歩ける程度でした。そこを四名で担いで行こうとしたら、上空にトンボですよね。羽を動かしておると思ったら、ちょうど真玉橋渡ったところで、艦砲と低空で空爆ですね、バンパンです。ようやく国場巡査を避難先の壕までつれて助けたんですが、その巡査は今も元気です。

それから隣りの日本軍の海上特攻隊 *2ですね。丸木船で火薬をつめて、敵艦目がけて体当りするその特攻隊がですね、明日は未明に敵艦目がけて決行するといって、演芸会ですかね、軍歌を歌って、さんざん飲んでですね、もう明日は死ぬか生きるかわからんとやっていたが、軍歌は、同期の桜みたいなのでした。後で話をきいたら、一つしか行かなかったそうですなぁ、途中で敵艦に近寄れなかったそうです。何とかかんとかいっている情報をききましたがね、全部玉砕したでしょうね。真玉橋の近く、真玉橋から部落へ向かって、右がわに大きな壕があったんです、今も残ってありますよ。
あれから下って阿波根(旧兼城村)の壕にもおって、向こうからまた伊敷のトドロキガマという大きな自然壕があるんですがそこへ行った。その壕の中には川も流れています。そこから水を汲んで飲んでいましたが、あそこでは署長の具志堅宗精さん、大城警部、山川泰邦さんもいっしょでした。警察の本部の方も相当おりました。その壕は可なり深い壕でしたが、もう出ようという時には、敵に包されて全然出られない、食糧は持っております。米です、それで二週間という間、生米をカジっていました。
それからどうしても逃げ穴をつくって、敵前突破をしなければいけないということで、壕を掘ろうとしたら爆薬ですかね、ボンボン投げ込まれて、照屋警部が顔面に怪我して、終戦後亡くなりましたがね。それからもうどんどん二世とか、何とか、戦争は終ったから出てこい、でてこいといって、マイクで呼ぶが、また友軍の兵隊は、出たら必ずやられるから出るなという。わたしは手榴弾を持っておりましたよ、もしもの時はやるといってもう捕虜なってもいいからとお互同僚の気持ちですね。兵隊は、出たら、いっしょに協力してくれといっていましたが、もう死んでもいいという気持ちで、梯子で出たですがね、その時は別に兵隊も危害を加えなかったんです。ようや壕から出て、そこで集まって捕虜になったですね。豊見城村の阿波根(座安・伊良波の記憶違いではないか)か、あそこに、一か所に集めて、あっち行ったら避難民が相当集まっておりました。


あの壕におって、生きるか、死ぬかの辛さですね、こんな戦争いうものは、こんなみじめなものかという、あの状況はちょっとでは言い現わすことはできませんね。生米もにがくてですね、中には負傷した子供もおるし、精神病者も入っておるしね。同じ兄弟でも、黄燐弾というかね、あれで顔を怪我してね、水を飲ましてくれとわめくんですが、兄弟でも見てくれない、助けようとしない、兄弟も自分のことでせいいっぱいだからね。


そうして、アメリカの兵隊が短刀を持って来たんです。それでこれは最後だなと思いました。罐詰を少しくれて、煙草をくれたんです。それから、隣りに壕を掘れというんですよ。それでわたしは、殺して埋めるんだなと思いました。そうしたら、罐詰の空罐を集めさせてこれに入れるように言ったんです。それで殺すのではないんだなと思ったんです。

 

それから、阿波根の収容所には四、五日間くらいいて、北中城の喜舎場へ移されて、宜野座村(旧金武村)の古知屋開墾へ連れられて行きました。あの時は、西平宗セイさんが警察部長でした。それから新垣淑重が警察の何かでした。

 

トドロキガマでは一応解散しましたので、敵前突破を企てて、亡くなった人もあるし、最後までおって助かったのもおるし、今の警察の幹部の方はほとんどいっしょですね。

 

アメリカはCPに対しては、住民の治安維持を考えて、大変協力を求めておりました。各部落、CP(警察)というのがありましてね。あの当時は向こうの言いなりで、一巡査が署長したのもおりましたよ。わたしは古知屋でCPをやりました。赤いヘルメット被ってですね、配給を貰ってやっておりました。

 

家族は、警察官は特別に本土へ疎開させておりました。ちょうど三つくらいなりましたかな、あしたは船が出るという時に、夜どう泣いて、絶対どこへも行かないというので、うちに帰ったら、村の方で国頭に疎開させて貰って、幸いに全部助かったですよ。お母さんと妻と妹と五名、全部元気ですよ。まあ何といっても戦争というのはみじめですね。何でもない人も殺し合いですから、助けようと思っても自分もいっしょですからどうにもならんです。

 

大城孝敏

(四十九歳)西原村収入役

名城ビーチで

わたしが感じたことは、戦争というものはほんとにこんなものかなと思ったのは、島尻行ってからですな。母親が死んで乳呑み児がおっぱいにかじりついてですよ、そして泣きおる姿を見たらですな、戦争というものはこんなものかなとつくづく考えておったところ、この子供までまたやられたんですから、それでわれわれの命今か今かで心配しておったわけです。場所は名城です。まだ若い母親でした。どこの人かわからんですがね、仰向けになっているが、子供が泣きおるもんですから、立ちどまって見たが、われわれがちょっと歩いたら、その子供がやられたんです。われわれもそこにいたらやられていたでしようね、人間の運というのは珍しいですよ、ちよっと動いただけで助かります。その時分からは、機銃ではやられなかったですよ。遠いところから撃ったのが恐かったんですよ。避難民には機銃はあんまりやらなかったです。

 

わたしが一番苦しかったというのは、わたしは、糸数(玉城村)ですな。あれを通って、具志頭へ行って、それから名城へ行ってですな、名城ビーチのある部落ですな、あそこで葉をさがしてちょっと入っておったんですが、あの当時、うちの娘もつれておったんですよ。その娘が四十度ぐらいの熱を出しておったんです。それで四十度の熱は非常に苦しい熱だったんですが、そういう時に、軍から追い出されてしまったんです。これが原因で娘が死んだわけです。それで、その当時は何とも言えない苦しさだったんです。四十度という熱の出ている娘をつれておるのに、いくらお願いしても、一日や二日ぐらい置いて貰えなかったということが情ないことと思って、それでわたしの一番苦しいのはその時です。四十度の熱を出しておる娘だが、後二、三日もここにいて治療すれば癒るという気持ちを持っておったんですから、そこを追い出されて、それが原因で死んだんですから、いつまでも忘れることができないわけです。場所は、名城部落の東がわです。そこのちょっとした壕ですよ。二日ぐらい置いてくれと頼んだが、どうしてもきかない。それでわたしは五名つれておったんです。家内と子供四人ですが、それが原因で二人亡くなったです。


この娘は、結婚させてありましたがね、夫は兵隊で、輜重隊の伍長ですが、これが召集されて、誰もいないものだからわたしがつれておったんです。夫の方も戦死です。娘はまだ子供はできていません、年がまだ二十でしたから。


もう一人亡くなったのは家内です。名城で死んだんではないんです。伊良波に収容されて、宜野湾へ行って、そこですぐ死んだんです、栄養失調ですな。
わたしは伊良波で別にされたんです。男は引き離されたんですから。捕虜なったのは、六月の二十日頃ですな。


新垣正義

(三十五歳)

わたしはセレベスに無敵上陸して、戦争中はあまり苦労はしませんでしたがね。
沖縄の戦況は、わたしは司令部にいまして報道係りがおって新聞も出しておりましたので、戦況が悪くなっていることもわかりました。

 

最後に戦争の情報が、沖縄は玉砕というので、沖縄は人間がひとりも残っていないものと思っておりました。

 

いよいよ日本の敗戦になりましたので、われわれは州軍の支配を受けて、一年くらいして、それから復員しました。

 

沖縄にいよいよ近づいたら、首里あたりも真白で、地形がすっか変っておるんですね。家が一軒もない。那覇の港に入っても、人間一人も見えない。もう人間は一人もいないんだな、と思いました。

 

それから久場崎(中城村)に来てですね、どこもかも、真白で、これはほんとに鉄の暴風だったな、そうしてわれわれの想像以上だったな、と思ったんですが、戦争の悲惨なことに心ひかれたんですね。われわれは向こうで戦争の危険に参加したことはないんです。それで沖縄戦は沖縄の住民が軍隊といっしょになってたたったともわかったんです。


それで戦車がいくらでも擱坐しておるんですね、米軍の戦車が。この辺の山野を歩き廻って見ると、日本軍の鉄兜とか靴とかが散乱しておるんですな、これは淋しかったな、非常に犠牲者が多かったなとはじめてわかったわけですがね。

 

それからいろいろの話を聞いたんですが、戦争が非常に激しかったということを。そうして日本の軍隊が沖縄の住民に対して圧力を加えたとか、虐待をしたという話が大きな話題になっておったんですがね。まあそれはわれわれ軍隊におって成程一方的にそうも必ずしも取れなかったんですがね、敗け戦だからそうもなったんだろうと。それからスパイ問題について、まあそれは、とにかくこう何ですね、非戦闘員と歩いておるとですね、敵味方ではあっても混同するんですね、接触する、まあスパイというものは味方でも、猜疑心を起す。つまり捕虜を取られるとですね、この辺に残ってる人はみんな日本軍がスパイと見なしたとかいう話、それはですね、アメリカに情報取られるんです。どこにどういう部隊がおるとかね、隊はどこへ行ったとかね、あれは止むを得ないんですね、戦争するとですね、兵隊は非常に気が立つしね。

 

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*1:かつて地元住民に人気があった有料ビーチ「名城 (ナシロ) ビーチ」 (沖縄県糸満市名城) は、ここにあるように米軍の捕虜収容所があった。名城海岸に米軍宿舎があり、帰村前の住民の収容施設としても利用された。

【FILMS】おめでた10ヶ月 名城ビーチ – 沖縄アーカイブ研究所

*2:饒波川タングチ(高安)の特攻艇秘匿壕