沖縄戦証言 喜屋武村山城 マヤー壕の経験

 

《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 

ら艦砲も何もかもドンドン飛んで来る時でした」

「そこを出たら、アメリカの飛行機は低空でですね、非常に危かったんですよ。でも仕方ないですから、阿賀葉の下に穴を掘っていたんです」

「それから、部落民はバラバラです。こっちから下って行くと自然壕があるかないかは、はっきりわかっておったんですよ。それでこっちを出たら、もうおしまいだと思っていたんですよ。もうちょっとした丘の陰や、畑の畦くらいしかないということを思っていたんです」

「部落の人は、みんな海岸へ行ったんですが、あちこちに散らばっていたんです」

 

マヤー壕 (マヤーアブ, マヤーガマ)

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元々は,山城集落の避難壕でしたが,後に,陸軍の将兵が移動してきて,住民を管理下に置きました。住民を追い出したり,食糧を強奪したり,更には住民を虐殺したという証言があります。

 マヤーアブは「平和創造の森公園」の北西端にあり,入口の左側には「入壕するには公園の管理事務所に連絡するように」という趣旨の案内板が立っています。

沖縄県のガマと地下壕:マヤーアブ(マヤーガマ)

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ガマ所在地(三和地区)

70メートル中に入る。 300名ぐらいが入れる広さ。実際は 100名以上が入っていた。陣地壕が危なくなった頃、日本兵が押しかけてきて、住民の追い出しにかかった。山城の人々が畳で入口を塞ぐと、軍刀で畳を切り裂き脅迫した。次の証言がある。
  ※日本兵の仕打ち~・食料を奪う ・こどもを注射で殺す ・「三歳以下はこちらで処分する」という ・「出ていかないと斬る」 ・米軍の捕虜に なる者にはスパイ容疑で銃を向け「撃つ」というなど。
 住民は抵抗するが、結局壕を出る者もいた。また、日本兵は斬り込みに行くといって杯を酌み交わし歌を歌って出ていったが戻らなかった。一方、「民間人だけでも捕虜になりなさい」という日本兵もいた。生存者は 4名で 7月頃までいた。
・何度かの遺骨収集のため掘り返され中はかなりガレている。

三和地区ガマ解説

 

マヤー壕を追いだされ

仲門○○ (三十一歳)

マヤー壕から出た後、わたしたちは、四か所の家族がいっしょに阿檀林の中の石の丘の下に住んでおったんです。

 

そこで一か月くらいも暮して、後四、五日、一週間くらいで、大体講和(第三十二軍の最高幹部の最後の意味らしかった)になった頃からは、水汲みに行ったらですね、自分らのいる海岸端から上里へ水汲みに行きおったんですよ。約二千メートルくらいの距離ですが、自分らの隠れている阿檀林まで来る間に、一斗鱷を一つづ天秤棒で担いでいるんですが、途中で兵隊にかっぱらわれて、二斗の水がやっと両方で五升くらいにしかならなかったんです。その水汲みに行く時は、照明弾は上るし、直撃が一発来たら、前の方で四、五名は転んでしまったですよ。直擊弾は、一発落ちたら、四発くらいはつづけて落ちるんですからね、照明弾に照らされた中で。それで四発落ちたら、もう十四名はやられて倒れておるんです。後四、五日くらいして捕虜になるという頃であったから、その時は広っぱにですね、子供や女たちもごった返しておる、それは避難民なんですね。阿禮葉もいっぱい茂っているし、茅の原野も、それから畑なんかも、避難民は、どうせ命は覚悟の上でしょうから、そこに四、五十名、百名も坐っているんですが、照明弾が上って、そこに直撃を受けた場合は、あっという間に四、五十名は転んでおるので

す。

 

避難民は阿檀葉の下は人がいっぱいしているし、広っぱも畑も人がいっぱいしておるんですよ。それが全部せめられてですね、例えば一万坪の畑に一万人の人がいるとした場合に、これを百坪ぐらいにおし込められてしまっている状態になっているところへ直整を受けると、一発で何百名という人がやられるわけです。魚が網で囲まれて、一か所に集められているのと同じですよ。

 

マヤー壕から出た時は、袋報は持てるだけは持って行ったんですが、それがいつまでもありませんから芋を掘りに畑へ出て行くんですね。芋掘りは、壕から、二、三百メートル、四、五百メートル出かけて行きますが、掘って来た芋は生でも食べるし、情報(状況)によって煮て食べる場合もありました。

 

水汲みは、前に言った上里の井戸へ行くわけですが、マヤー壕から出てからは、三日に一ぺんくらいは行っていました。各しょたい、五、六名くらいがいっしょに行くんですよ。夕方日がくれる時には、掃海艇の方からうんと直撃やるんですよ。日が暮れる時は掃海艇が近くに沢山来て、浮んでおるんです。それが終ってから、炊事から食事から水汲みに、食糧取りに行くんです。

 

あそこにいた時の中間頃でしたが、三名行ったんですがね、チョさんの兄さんと、わたしの叔父さんですが、三名で担いで来た時でしたが、自分等から三メートルくらいで爆発したんですよ、艦砲が。二人はですね、そのまま畑に昨に転んで水も捨てたわけですよ。わたしはまた、水はそのままおいて、そこにしゃがんでいたんです。それから三発来て、その後は来ないんですよ。それから二人はまた行くわけには行かないので、わたしの水を三名に分けて、三分くらいずっ分けて帰って来たんです。

 

最初から女の人も行くこともあったんですが、弾は来るんです。しかし弾に対しては、長い間の経験で、わかりますよ。南部にいた人は、大勢そこへ来て汲んでいました。その井戸には死んだ人が浮かんでいたこともありましたが、光利さんがいう井戸とは違います。屋根は立派にコンクリーで造ってありましたが、水が溢れて流れるのでなくて、溜っている井戸です。今考えて見ると、ちょっといやな感じがします。余裕があれば、死んで浮かんでいる人を取り除けますが、弾が来るのを恐れて早く汲まねばならないから、それで死んだ人が浮いていてもその水を汲んで帰って飲まねばならないんです。

 

水を汲んで帰る時は前にも話しましたように兵隊に無理に水をくれろといって分けられることが多かったんですが、住民も子供をつれているお母さんなんかは、自分で汲みに行くことができないから、少し下さいといわれて、分けて上げることもありましたよ。度たびそれはありましたよ、子供をつれたお母さんはどうにもならないんですよ。それで何十回か上げたわけですがね。兵隊の場合はくれなければやるぞといった圧迫、脅迫的なのが多かったので、くれたくてもいやになったですよ。昼は汲めないから弾がしばらく止む時です。夏なら六時半から七時頃までは実に激しく弾を撃っんですよ、その後で、びたっと一時間近く止るんです。艦砲はその間、全然止ったですよ。

 

水汲みは、あまり弾が激しくて途中から帰ることもあったです。また弾が激しいので、少しだけ汲んで帰らなければならない時もあったんです。

 

捕虜になったのは、朝から宣伝マイクで、ガソリンをかけて山を焼くから、という宣伝が出たから、すぐ隣の部落も自分の部落も、またほかの避難民も大勢おったので、わたしはまだ三十一、二の若さでしたから、焼くという宣伝や情報も入っておることだし、みんな恐がっておるので、こうなっては出た方がいいんじゃないかと二、三か所連絡に行ったんですよ。

 

そうしたら友軍の兵隊が、「これはスパイだ」と友軍の兵隊がきめて、わたしに小銃を向けて、射殺しようと構えたんです。その場合に、自分の部落のおじいさんや女の人が、これはわたしらの親戚だが、スパイでもないし、もうどうにもならないから、お互に捕虜になろうかと、来ておるんですよ。それは沖縄の方言で言っているので、相手に通じないんです。それで一人は手榴弾、一人は小銃を構えて、もう殺すとやっていたんです。わたしは、その方がたと兵隊が話し合いをしておる時に、隙を窺って逃げ出したんです。そうでなければやられおったんですよ。

 

そうしてその晩は、そこで夜を明かしたんですが、翌日の九時頃ですね、ガソリンをかけてこの阿檀林の南がわを焼きはじめたんです。その場合に新屋さんの奥さんが、わたくしから出るからみんな後について来いといってですね、それで新屋さんの奥さんが出られたので、わたしたち十四、五名のものが全部出たんです。そうして出はしたものの、われわれから五メートルばかり離れたところに、拳銃を持ったのと、小銃を持ったのと、アメリカの兵隊がわたしたちへ構えて立っているわけです。

 

捕虜になった日は、六月の二十二日でしたが、自分等が兵隊につれられて行く時に見た死人は、道だけでも何百人ではなくて何千人だと思いましたね。米軍の方も負傷しているのは、ジープに乗せて担架で、運搬されて行くのも二、三台見たんですがね。

 

死人があまりひどいので、踏まないようにと思いながら歩いたのですが、もっとも多かったのは、喜屋武岬の望楼ですね。灯台が立っていますが、その東がわの約五メートルくらい行ったところに、喜屋武に向かって大きな道路がありますが、その道から喜屋武に行ったわけですがね、道路から喜屋武に行く場合には、死んだ人はあんまり見なかったですが、この道路に出るまでの茅の野原、畑、海岸ばた阿檀葉の下の光景ですね。そういったところは、何ともいえないくらいで、足の踏み場がなかったですね。

 

註、新屋さん発言。仲門忠一君の話のように死んだ人は大変でしたが、友軍がしたのか、アメリカ軍がしたのか、これははきっりしないが、自分の方の前原何とかさん、あの方は病気で阿檀の防風林の中に入っていたわけですが、この人は歩けないんだが、海岸ばたの岩のところに自分で出られたのか、あるいは、アメリカの兵隊にでも引っ張られて行ったか、これははっきりわからんけれど、この方は酷い殺し方をしてあるのを見受けました。後から拳銃でやったか、あるいは小銃でやったか、あちこち沢山の弾でやってありました。

 

それから子供や家内たちは山原にですね、石川あたりへ。わしらは那覇で一か月くらい作業やったですね。それで、嘘の病気をつくって、山原へ行こうと考えたんですが、そうしたら、屋比久(佐敷村)に移動させられてですね、今度は船に乗せるというんです。それで今度こそはいろいろの手をつかって、太平洋の真中に捨てるそうだ、という噂が出たんですよ。何百名という人が心配しておったんですが、デマであって何でもなくて、それから久志村に収容されて、向こうでまあ相当したんです。

 

山城へ帰る前に名城でして、それから山城に帰って六か月くらい暮らして、家も作ってあったが、フィリッピン部隊の練習所になって、また立ち退きになったんですよ。伊原にですね、向こうで、二か年程してこっちへ戻って来たわけです。

 

妊娠中で壕から追いだされ

仲門○○(二十三歳)主婦

夫は最初は徴用で、陣地の構築などにずっと出ていましたが、その時は武部隊だったと思います。徴用に行っていて、すぐ防隊に取られましたが、何月だったか憶えていません。うちの人が防衛隊に行っていますので、わたしは度たび慰問に行ったんですよ。お餅などもつくって行ったり、豆腐をつくって持って行ったり、芋なども煮て持って行きました。

 

また兵隊さんもうちによく来ましたので、食事をあげていました。待って貰って食事を上げることもありましたが、それは特別だったんですね。自分の夫もひもじい思いをしてやっているだろうと思いましてね。餅は、こっちは米がそんなにありませんで、うちなんかタビオカを作っておりましたから、その澱粉で餅をつくって持って行きました。

 

それでうちは怒られたことがありましたよ。兵隊が二人来ましたから、腹を空かしているだろうと思ってですね。あの時は、おじいさんもおばあさんも妹もおりましたから、おじいさんというのは夫のお父さんですよ。それで夕飯時分前になっていましたので、ちょっと待って下さい、といって夕飯を上げようとしていましたので、待っていました。そうしたら炊事班長は伍長でしたが、この伍長さんが来てですね。あなたがたがせっかくの親切だが、民間に兵隊をそんなに入れてはいけないから、今後はそんなことはしてくれないようにといわれたんです。それでその後からは、なるたけ兵隊さんに、伍長さんから話されたように、御飯なんか上げないように気をつけました。

 

夫は今の糸満町の照屋にいたようですが、あの時は、夫がどこにいるということはよくはわからないんですね。夫が防衛隊に出たのは昭和十九年でしたが、四月頃は、わたしが妊娠していることは人がわかりませんでした。主人は、昭和十九年に防衛隊に取られましたが、時どきは家庭訪問が許されて、帰て来ることがありましたから。

 

マヤー壊から出るどれくらい前でありましたか、二週間くらいしてから、マヤー壕を出たのではなかったですかね。主人が帰って来まして、財布と判子をですね、それをわたしに渡して、今日別れると帰って来られるか帰れないかわからないから、この子を立派に育ててくれといいました。あの時からは山城の人にも、防衛隊から帰って来てそのまま行かないでいる人もいたんですよ。それでわたしは、それを言って、行かないでうちにいっしょにいた方がよくないかと言ったんですよ。

 

そうしたら、「日本という国は、友軍は、お前がいう通りに逃げたら、自分一人だけ死刑にするとは思われないから、それでわれわれ夫婦だけ死刑になってもいいが、家族みんなが死刑になったら、どうするか、その時にお前が責任を引き受けるか」というんです。そう言われたので、うちもあの時代は子供(若い)ですから、わたしが数えの二十四歳で、夫は二つちがいの数え二十六でした。

 

それで「わたしはわたしの考え、あなたはあなたの考え、家族全体が死刑になるということなら、その時は家族に泣いて恨まれるか知らないから、あなたはあなたの考えだな」といって、そのまま別れたんです。それは六月の何日頃(初旬か)ですかね。わたしたちは六月二十四日のカシチー(柄米で御飯を炊く節日)は山原でしたから。それは旧暦の六月二十四日ですから、旧暦でいうと五月だったんですね。マヤー壕から出たくはなかったんですが、兵隊が来てですね、こっちから出ないと斬るといって、畳なんかも切ってですね、仕方なく出ました。それは部落の人たちみんないっしょに出たんですよ。

 

マヤー壕を出されましたから、そのマヤー塚の下に行って、ちょと右がわへ出て、海岸に通るんです。海岸へ行く途中に、阿極の林がありましたので、そこに二日か三日おりました。親戚の六所帯がいっしょになっておりました。みんなで二十二、三名ですね。

 

阿檀林の中におった時は、雨が降りましてね、持っていた筵を上に置いて、小屋をつくって入っておりました。御飯は、毎日は炊かなかったんですよ。天気がいい時に、あしたはどうなるかわからないので、御飯を沢山炊いて持っていて、水がっても食べないわけにはいきませんから、子供にそれをあげたんですよ。水で流れたというのは、雨垂れからですね、小屋は小さいもんですから、人間は濡れては困るんです。子供を濡らしてはいけませんでしょう。御飯や道具は濡しても仕方がないので、水ベチャベチャの御飯を子供に食べさせたんです。うちはまだあの時は食べられなかったんです。お腹に子供を持っておるもんですから、欲しくなかったもんですから、うちは澱粉水に砂糖を入れて飲んでいたんです。

 

そこから海岸へ行く時も夜です。下りたらすぐ海岸です。うちなんかがいた阿檀林からそう遠くありません。海岸といっても、やはり阿檀林です。海岸の上に阿檀林があるんですよ。阿檀林では、雨が降りつづいて、藪ですからしゃがんでいたんです。こんなにしてははいられないから、下へ下りて行こうといってですね、また中スダチというところへ行ったんですよ。

 

あっちで五日くらぃぃたんですけれど、そこも海岸との間の防風林で阿檀林がありましたが、ここでも阿檀の葉の上に英座を蔽うておりました。やはり雨が降りますので、ここにもいられないということになって、兄さんたちが壕をさがしに行ったんです。そうして、人が大勢いる方へ行くのがいいといって、海岸へ行きました。

 

そうしたら、海岸の阿檀林の中に、大きな岩が二つありまして、上はあいていますが、こんなになっていたんですよ(両手の掌をハの字形にして示す)。岩は西と東がわの二か所にありますので、海の方はあいていますが阿檀がありますし、ちょっと離れて、いいあんばいにそこにも岩がありました。

 

それでも艦砲が来まして阿檀の葉なんか散って恐かったので岩の中に入って蒲団なんか被っておりました。この方の、新屋さんの叔父さんですけれど、暑いからといって、足をこうして出してそとに出ていたんです。そうしたら、艦砲の大きな破片が、すぐ足のそばの阿檀の幹をたち切って、そうしておじさんの足も怪我したんですよ。それでもうそれからは、艦砲が激しいので、そとへは出なかったんです。「自分は今二十三になる女の子を持っていたもんですから(妊娠)、水汲みなども行かなかったんです。御飯炊きは行きおったんです。

 

それから夫の妹とこの仲門さんの妹とですね、飯し炊きに兵隊たちにつれられて行って帰って来なかったんですよ。それで、これをっれて来なければ大変だからというので、陣地の中に連れに行ったんですよ。そうしたら、あなたがた軍隊の言うことをきかないんなら承知しないよ、というんですね。それでも、こっちも子供たちをっれているもんですから、食糧なんかも取りに行くのですからね。それで帰えして下さい、といったんですが、ぜんぜんきいてくれない。あっちで喧嘩したんですけれども、仕方なく戻って来たんですよ。そうしてしばらくしたら、この二人が帰って来たんですよ。それで、あなたがた、また兵隊のところへ行くと、みんなは今日は、どこへ行くかわからないからね、といったら、この子たちは兵隊のところへ行かないようになって、いっしょに炊事などしてくれました。水汲みもしてくれました。

 

この子たちが来てからは、そう長くはいませんでした。何日といってはわかりませんが朝の十時頃だったと思うんです。上の方には糸満の人がいましたが、自分たちのところへ来て、捕虜に出る方がいいよ、といったんですよ。それで、今は激しくて出られないんですよ、といったんですが、まあ出て捕虜になろうと出たんですけれど、友軍の兵隊さんが出るなら撃つといったので戻りました。

 

そうして壕の中に入っているとまた友軍の方が二人来てですね。あの時は、軍刀持っている兵隊でありましたが、あの方たちは、ほんとに、いい方たちだったんですよ、ふたりとも。「避難民だけでも命を助かりなさい」といってですね。いいえ恐いから行かない、といったら、「でも避難民だけでも命は助かった方がいいですよ」といってですね。それで「兵隊さんたちといっしょだったら行くんですが、うちらだけでは友軍の兵隊さんに斬られたら恐いですから」といったんです。そうしたら、「兵隊ともあるものが捕虜に行くのは国の恥である」といって、手榴弾二つ持っていたんですが、一人はアメリカをやっつけて、一つは自分たちを処理するといってから、早く出なさい、出なさいといってこの方たちは行ってしまったんです。

 

それで捕虜に出て行ったんですが、出で行く途中で、男も女も、子供も年寄りも死んで寝ころがっていたんですよ。こんなになっては大変だと思いました。捕虜になる二、三日前からは、船からですね、早く出ないと、山は焼き払うからと呼んでいましたが、捕虜になる前の日には、明日は焼き払うから、命の惜しい人は朝の中に出なさいと言っていたので、出たわけなんですよ。「そうしてアメリカさんははじめて見たので恐かったんですよ、あの時は。子供たちは、あれは何か、あんな人見たことない、といって恐がりました。

 

アメリカは港川へっれて行くということでありましたが敗残部隊を恐れて、港川にはつれて行かないでですね、海岸に下して、また海岸の険しい崖を上ったんです。女は先きになって、男たちがお尻を押し上げて登ったんです。阿檀林の上に行ったら拳銃持ったアメリカさんが男たちを押すんですよ。押して歩け歩けというんですね。

 

それから百メートルくらい歩いたらですね、またこっちで休憩させるんですよ。そうして動いたらやる準備ですよ、アメリカさんは。それでお爺さんたちは、「一か所帯づっひとところに早く集りなさい、もう今日がおしまいだから、あなたがたは、わたしたちが生まなかったら、こんな目にあわさなかったが、もう仕方がないから、運命と思って諦めなさぃ」といって泣くんですよ。

 

自分も子供が一人いましたが、夫は兵隊に行っていないし、子供を見てですね、自分が生まなかったら、こんな哀にはあわさなかったんだけれど、と子供を抱きしめて泣いたんです。

 

また歩きなさいというので、歩いたら喜屋武の方へ行ったんですよ。喜屋武へ行ったら、親たちは亡くなって、みなし児になった子供を二人っれて来よったんですよ。そうして、若い人たちに、あなた方っれて歩きなさいといって預けるんですよ。この子供たちはどこへ連れられて行ったかしらないが、うちらは喜屋武からつれられて、小波蔵で水を飲まされて伊良波というところへ行ったんですけれどもね。伊良波では、二晩とまりましてそれから久志小(北部)へ行っていましたがそこでは生活が困難で、六か所帯がいっしょに宜野座の方へ夜逃げて移りました。

 

註、仲門○○さんは、妊娠中の体で、米軍の掃蕩砲爆撃のもっとも激しかった時期の南部地区を、生命を全うする一心で逃げ廻った。雨に打たれ、熱病に冒されたりして捕虜になって北部へ送られた。宜野座村の米軍の簡易病院でお産し、女児を得た。夫から養育方を頼まれた当時三歳だった長男は無事成長して現在琉球政府の公務員である。戦争中お腹の中にいた女児もすでに結婚し、共に那覇市に在住の由。子供の養育を頼み印鑑と財布を渡して行った夫は、その時が最後の別れでついに帰っては来なかった。どこでいつどんなにして戦死したか、全然わからないとのこと。二十三歳以来戦争未亡人生活をつづけているチョさんは、緑の山城南面の丘をすぐ前にするお住いで、八十一歳の姑と二人暮しのようである。春先きの山驚がしきりに鳴くのがきわ立って聞こえる静かな好もしいたたずまいの環境であった。

  

壕を接収し、住民を注射で「処分」

仲門○○(十六歳)

わたくしは小学校の高等科を卒業しましたら、大嶺飛行場(旧小禄村大嶺)の建設に用されました。今の那覇の飛行場ですよ。体は小さいし、馬車もひいていますからなあ、大変に苦しかったですよ。毎日泣いたですよ。今の小学校の六年生くらいの体しか、わたしなんかなかったんです。朝に行くと夜明通しの作業でしょう。また今日朝ここを出発すれば、明日の朝にあっちにっくという、こういうぐあいだったんですよ。一週間くらいあっちに泊って作業させられた、交代で。そうして一週間するとまた行くというように、重労働でありました。

 

食事は、向こうでやはり食べるわけですが、こっちで供出した芋などですが、これを煮て食べるが、水が出るようなのを食べさせて作業をやっていたんですよ。一回だけは御飯を食べさせたことがありました。

 

この徴用は長かったんです。ずっと十・十空襲が来るまでつづいていました。その後は、武部隊の兵隊が来ておったんですから、武部隊の兵隊に引き取られてですよ。食掘の運搬や防空壕の材料運搬をさせられました。

 

わたしの家は、お父さんが防衛隊で、兄さん二人が兵隊に召集されましたので、わたしが家の責任を持たねばならなかったんですよ。わたくしの家は瓦葺きで、三十三坪くらいありましたね。それで防空壕から晩御飯炊きに来たんですよ、家に。そうしたら、防衛隊が鶴嘴を持って家を壊しているんですよ。そうして兵隊が来てから、戦争に勝てば、これ以上の家を造ってあげるんだよ、といって壊させおったんですよ。戦争に勝てばこれ以上の家をつくってくれると思って、いうことは、別に悪いとは思いませんでした。壊されても当り前のように思いましたよ。そうして借用証もくれましたから。

 

うちなんか十・十空襲の後からは、晩の五時から集まって、ですよ、那覇の駅まで行って、夜材木を積んで来たんです。これは強制的だったんですよ。また腕の五時頃から出て、恩納の山田までも夜どうし歩いて、あっちからまた荷物を積んで帰って来たりですな。また越来飛行場(現在の嘉手納飛行場)から、いろんな地雷なんか、あんなものを、こっちへ積んで来たんですがなあ。今日は空襲がないという日は朝早くから夜まで、馬車も馬もずっとぶっ通しに使うわけです。

 

空襲の時には壕にいて、連絡があると行くのですが、嫁はマヤー壕といって、部落中の人が入れる大きな壕で、三百人以上の人が入ることができるんでしょうね。馬はヤキアブという壕に入れてあったんですよ。「山部隊といっしょに行く時、うちらはあの時まだ年が若いから、数え十八歳からは義勇隊に行っていたんですよ。わたしはまだ数え十七であったから義勇隊には出なかったが、同じ年の人が仕事に行っておったんですよ。その人なんか強制的に首里に馬車持って行ったですよ。うちの馬はまた別の人が持って行ったんですよ。うちにそういう話をしておったんですよ。うちは父が防衛隊でしょう。兄さん二人が兵隊に行っておったでしょう。それでうちが、子供何名ですか、五名、弟妹と母が、それだけおったんですから、わたしは、弟や妹が多いからということで、あっちへ行くことは免かれたわけですよそれでわたしは、うちにいたんですが、首里へ行った人たちには、亡くなった人も沢山いるんですよ。

 

石部隊が来てからは、住民の行動は、自由にはできなくなったんです。住民は全部マヤー壊に入っていますから、何戸ずっといって班をつくってですよ。それで班長をきめて、男何名、女何名といって、水汲み作業、飯炊き作業、野菜取り作業といって、やっておったんですよ。「昼は出られないので、夜行動するんですが、出るには証明書がいるんです。出入口には、衛兵がいました。そういうふうに住民は自由に行動するわけにはいかなくなったんですよ。

 

マヤー壕を兵隊に追い出されたお話がありましたが、マヤー壕にいた時でも、うちなんか小さい子供がいたんですよ。子供が泣いたらみんなが、いやがるわけですよ。それで自分としては、何とか出て行きたいという気持ちだったんですよ。

 

うちなんかは、皆兵隊へ行っておらないですから、そのマヤー壕の時は、みんな順番をつくって、銃剣術の棒を持って交代をして巡回をしておったんです、夜は。

 

出ろということになった時は、仕方がないから、出たんですが、わたしたちは、あっちから朝の九時頃に出ておるんですな、マヤー壕からは。そうして頼る方もないし、自分の知っている機関銃陣地があったんですよ。それで親戚のおじさんと共に、さああの陣地を見て来ようといって見に行ったんですよ。そうしたらちょうど海へ向かっているんですよ。海からすぐ見えるところになっていたですよ。それでこっちでは駄目だということで、ただ歩いておったんですよ山の中から。そうしたら大きい石があったんです。それでわたしはそのそばに顔をくっつけて覗いて見たんですよ。そうしたら、何だか風が来るような気持ちがしたんですね。それで、よしや、この石ひとつ転がして見ようと思って、坂だったから二人で転がしたんです。そうしてそこを掘ったんです。九時半頃から十二時半頃まで掘ったでしょう。下にボツンと穴があいたんです。そうして三時頃まで掘りっつけたら、ようやく足から次第次第に入ることが出来るようになったんですよ。そうして入って行ったら、大きな壕ですな。水も沢山あるんですよ。

 

家族たちは、防風林の中に避難していましたので、自分は、家族をつれに行きましたが、その時はもう五時頃になっていました。その壕は、入ることは百名も入るんです。その場は、傾斜になって、下には水もあったんです。そこに親戚たちが五十人くらい入ることにしました。どうして聞いたか、みんながやって来ておったんですよ。

 

そうしたらマヤー壕にいた石部隊から、機関銃部隊といって六、七名くらい、機関銃をうちらの壕のそばに置いて二、三回ドンドン撃ったんです。撃ったら、わたしたちの壕に入れるという考えだったと思うんです。そうして、自分たちを、そこへ入れてくれといって来たんです。それくらいの人数なら止むを得ないだろうと、入れることにしたんです。「そうして、機関銃を二、三発撃っては人り込むんです。多分、マヤー壕よりはこっちが安全だということで、逃げて来たんだと思ったんですがね。

 

註、ここで同席のみなさんが「ほんとのことだから言なさい」と口ぐちに言った。何か余程かわった事実があることを暗示した。

 

その後兵隊たちがまた十五名くらい入って来ました。この兵隊たちとは、二週間くらい耗していたんですよ。水もあって洗然やっても流れて行くと、この兵隊さんたちは喜んでいたんですよ。いいあんばいだったんでしょう。そうしていると、マヤー壊というところが、それから一週間くらいしたら爆雷かけられたんですな。アメリカ兵に発見されてですよ。そうしたら残っていた隊長なんか、六、七十名くらいだったですよ。すぐ晩なったらうちの壕に引っ越して来たんですよ。中身がおったんですが。そうしたら、うちらは子供がいたから一番奥のですよ、嫁も上等で、そこは二重で、あの鍾乳石が生えて(垂れてか)あったんですよ。その後に子供なんか置いてあったんですよ。こっちが一番上等だからこっちにおれといって、いさせたんですよ、うちらは。

 

そうしたら隊長が言うわけですな。あっちから来た隊長が、君たち飯はないかというんです。うちらもその時から飯もあんまり食ベないんです。澱粉ですよ。澱粉を水に溶かして、これを飲んでおったんですよ。それでも少しずっ持っている米を出してこの兵隊にやったんですよ。

 

その翌日ですよ。子供がいたらまたこっちも爆破かけられるからといって、「三歳以下は、こっちで処理する」といってですよ、三歳以下は五名いたんですよ。曹長がいたんですよ。それといっしょに四名来ているんです。注射やったんです。その前に、兵隊が、ちょっと、頭が変なのがいるでしょう、そんなのをつかまえて、全部よくやるのを見たんですよ。やっぱり注射してから一時間くらいですな。

 

この五名の中には、わたくしの弟と、姪も入っています。この五名を殺すというので、わたしたちは、この壕から出ようと相談したんですよ、隊長に。そうしたら、君たちがスパイやるからといって、門衛を立てて、もう一歩も動かさないわけですよ。そうして五、六名来て、一人ひとりつかまえて注射したんですよ。うちらは、どうにかして、弟や姪を助けようと思って、この壕を出るからと、お願いしたのですが、スパイされて、アメリカに自分等を知らすということで、出口に門衛を置いて鉄砲を構えて、動かさないようにしたので、もう仕方がなかったんですよ。

 

その時からは、兵隊がいっぱいなって動くこともできないくらいに入って、おりまして、民間としては、奥にいっぱい入っておりましたからね。

 

その翌日の朝ですよ。住民が生きているのは君たちだけだから、アメリカに捕えられて戦車に轢かれるよりは、われわれが処分してやろうというのです。そういわれたので、わたし等は黙っていました。それは、住民を処分して、残りの良雅を澱粉なんかあったら片分なんかが取る考えだったですな。八時頃、その話が出てもたもたしている中にですよちょうどいい場合に、アメリカがこの壕を発見してしまってですよ。爆雷、こっちの壊に投げ込んだですよ。その時兵隊は人口にいたのですから、五、六十人はやられたでしょう、一日中爆雷はかけられ通しでしたから。それでちょっと顔を出して覗いたら小さな入り口が大きくなっていましたよ。隊長は奥にいたので、さしつかえなかったんです。

 

それで晩になってから民間がこっちにいては大変だとみんなで相談して、この壕から出たんですがな。あの時からは出ても、文句はなかったんです。もうこっちが発見されているので、うちらが出たから発見されるということはないとわかっていたからでしょう。

 

爆雷が投げられなければ、やられたんですよ。隊長と住民とはすぐ近くで、こっちへ集まれということですよ。話を聞いたら、「住民が生きているのは君たちだから、君たちはこっちが処分してやるから何も心配しないでよい」ということになっていたんですよ。それが爆雷かけられたからもう生きることができたわけですよ。「住民で亡なったのはうちのお婆さんだけですよ。焼どした方は可なりいたでしょう。兵隊は住民をちょっとでも動かさなかったんですよ。小便も坐っているところでやらないといけなかったんです。

 

隊長は中尉でしたが、小尉もいました。注射したのは曹長だったんですよ。この隊長が今も生きているのか、それはわかりません。

 

隊長たちは爆雷を一日中アメリカにかけられても、奥の一番安全なところにいましたから、何でもなかったんですよ。「住民としては爆雷かけられた方がよかったんですな。九時頃からはじまって、住民を処分する話が八時半頃から出ておったんですから、もたもたしている中に爆雷をかけられたんですから。五十人くらいですね、住民は。

 

兵隊が言うように住民はいないとしかうちは考えていなかったんですよ。弟がいますが、あの時五っになるのが、それをつれてうちは出たんです。母なんかも、すぐ出て来なさいと言ったが、何か集めるといって、ひとところにかたまって、また親戚の人たちもひとところに集まって出ないんですよ。兵隊が沢山死んでいるから先きになってくれ、というんです。若い親戚の女の人もいたが、靴がないからさがして来るというので、靴は歩きながらさがされるから早く出て来いといったが出ないんですよ。それでうちらはそのまま行った。母なんかとは、いっしょに出なかったんですよ。五つになる弟と、また親戚の人などとわたしは先きに出たんですよ。

 

そうして阿檀のところへ行ったが、母なんかが見えなかったので、ちょっとこれを見ておってくれと弟を頼んで、西がわに向かって駈け足でわたしは行ったんです。そうしたら、叔父さんとうちの母がいっしょに歩いて来るのに出あったんですよ。そうしてからいっしょに阿極のところへ来て、それから捕虜になりました。捕虜になったのは六月の二十八日ですな。壕を出てから、七、八日、長くて十日くらいで捕虜取られたよなあ。あの壕にいた時は、水もおいしかったんですよ。阿檀のところに行ったら、もう水も臭くて、とても飲める水ではなかったんですな、あとから話聞いたら、井戸に死んだ人が落ちていて、水汲みに先きに来た人がそれを出して、水を汲んで行って、また死人が井戸に落ちていたら、出して、それが横れていたりして、そんな水を飲んでいたらしいですよ。もううちがあっち行ったら、その水は全然飲まれなかったんですよ。飲む時は、鼻をつまんで飲むんですが、鼻から手をはなすと臭いといったあんばいだったんですよ。しかしこんな水を飲んでもぜんぜん腹もこわさなかったんですよ。

 

あの壕での友軍の兵隊のやったことは、あの時のことは、今は考えたくありませんが、兵隊はわたしたちの食瓶も、これから切り込みに行く、戦争は兵隊がやるといって取りまして食べていましたが、うちらは、子供等にだけは二、三日前に炊いてあった糸の引くお握りをくれて、おとなたちは何も食べないで見ているだけでしたよ。食糧をくれという時は、「今から切り込みに行くが、何も食ベていないから、何かくれ」というんですよ。

 

註、仲門○○さん発言。もっとひどいやり方があったですよ。布呂敷包みに米があるのをですよ。痩せ死にする(栄養失調で死ぬ寸前の意くらいの立場にあるのだが、最後の米だといって持っている布呂敷包みの米を見てですね、あれをくれ、くれないなら手榴弾でやるぞ、といって脅かすので、やらなければならなかったんですよ。

 

新屋○○さん発言。わたしは防衛隊にずっといて、首里から帰って捕虜なるまで、長くはいっしょにおられなかったが、やはりそんなことがありましたよ。どこの部隊といってはあの時からはわからないんですが、こっちは何もわからないといってでしような。「切り込みに行くんだから、食糧をよこせ」と拳銃で脅しましたよ。まあ、無理矢理に食糧を奪って行きおったんです。自分だけ生きて、本土へ帰って行こうという考えだったと感じましたね。