『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 旧浦添村・前田

 

以下、内閣府ホームページ 証言集 で公開されている『沖縄県史第9巻』(1971年琉球政府編)および『沖縄県史第10巻』(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、必ず下記のリンクからご覧ください。 

旧浦添村前田(PDF形式:454KB)PDFを別ウィンドウで開きます

 

字前田の戦前の人口は、約一二〇〇名であったが、戦争で多数が犠牲となって、その約四分の一が生き残り、二九五名になっていたそうである。一家全滅も少なくなかったとのことである。

 

その大きな原因は、住民のほとんどが指定された国頭の疎開地に行こうとしなかったことが挙げられる。後に激戦地となることを知らず、住民のほとんどは米軍が目のあたり来るまでとどまっていたのであった。それには、各家庭に、兵隊が二名か三名、大きい家には四名か五名、分宿していたので、住民の日本軍への信頼感が左右したことも考えられる。その上、地形上の問題があり、当時の前田は、周囲が丘で、村落は鍋の底みたいな盆地に存在していたという。周囲の丘陵の木が日本軍によって若干伐採され、やがて戦火で全部が焼きはらわれるまで、前田はまだほとんど無傷であったのである。

 

 

親富祖清武

(十二歳) 小学生

三月二十三日の空襲の日は、ちょうど小学校の卒業式だったんですが、ぼくが学校に行ったら、空襲警報になってすぐ家に帰されてですね、それからもうずっと楽と家を通っていたんです。

 

そして四月二日の日に、最初の砲弾で母さんが亡くなったんです。それは朝の七時頃でした。母さんが豚のエサをやってですね、それからシンメーハンの鍋の裏のススを包丁でけずり落としているとき、隣の前の家に砲弾がとんできてですね。その破片で、母さんはやられたんですがね。当ったところは、脳じゃなかったかと思うんですが、一発で、ぜんぜんなんの声もしなかったですよ。ぼくは母さんが豚にエサをやっている間に、畑に行って、キャベツを取って、大きなの二つ左と右に持ってですね、持ってきたキャベツを置いてですね、母さんと話をしていました。ちょうど砲弾がくる方向とぼくとは、後向きになっておったんですよ。母さんも後向きなんですがね、ちょっとは砲弾の方に向かっていましたがねいきなり砲弾が落ちてきたときに、ぼくは思わず伏せていたんですよ。そのとき、爆風で、ぼくの身体は一尺ぐらい持ち上げられてですね。気がついたとき、砲弾が落ちたなあと思いました。それから後、離れたところへ何発も落ちてきたんですが、その最初の一発のとき、ぼくは起きて、母さんと呼んだけれど、ぜんぜん声もないんですよ。ぼくは最初は夢かと思ってですね、母さんの顔を叩いたり手を引張ったりしたんですが、起きないもんだから、ふと死んだ人は熱がないということを思いだし、手をさわってみたんですよ。そのときからは少し冷たくなっていましたね。それで母さんは死んだんだなぁと思いました。

 

それからぼくは、家の裏道に出て、通りがけの人に、母さんが死んでいるようだけど、見て貰えませんかと言ったんですよ。そしたら、その人は自分はそれどころではないと言って行ってしまったんで、ぼくはもう一度確かめに引返してきたんですよ。そのときあらためて、母さんが冷たいもんだから、やっぱし死んだんだなあと感じましたね。家は壁も破れていて、柱時計も相当ゆがんで止まっていました。


それからぼくは、壕に一人で向かったんですが、敵の偵察機に気を配って木蔭に隠れたりして、四、五百メートルしか離れてないのに二、三時間かかったようです。

 

十一時過ぎにに着いて、母さんが死んだことを話したら、みんな信じられないと言ってびっくりしていました。祖父さんは、今は砲弾が激しいから、夕方まで待とうと言いました。それから夕方六時頃に、祖父さんが行ってみて、母さんが死んだことがはっきりしたわけです。ぼくの母さんは、村での最初の犠牲者でしたから、親を集めてですね、墓をあけて、みんなで葬ったそうです。

 

ぼくは祖父さんから、母さんが死んだことを聞いてから、急に恐怖症というか、こわって、ぜんぜん外に出ることができなくなったんです。

 

ぼくはずっと壕の中にいました。祖父さんがたびたび畑に行って、甘藷を取ってきたりしていました。また祖父さんはぼくの家にも行って、味噌などを運んだりしていました。日本軍はいつの間にかいなくなっているということでした、ぼくの家には豚が何頭かいましたが、小豚は日本兵がぜんぶ持って行ってしまって、親豚が一頭残っていたらしいんです。ところが何日かして行ってみたら、その親豚もいなくなっていて、裏の壕の中に親豚の頭だけが捨ててあったそうで、祖父さんがそれを持ってきていました。その豚の頭は、みんなで分けて食べました。

 

それから何日かして、母さんが死んでから二週間ぐらいしてから、アメリカ兵が学校の近くに姿を見せたんです。みんながアメリカ兵の噂をするので、ぼくも壕から出て、入口近くからアメリカ兵を見ました。

 

いよいよ大変なことになったというわけで、その日の夜、ぼくたちは壕から逃げ出すことになったんです。そのとき、ぼくの父はもともと足が悪い上に神経痛だったので、あとで迎えにくるという約束をして、父と親戚のおじいさんとおばあさんの三名を、に残して、ぼくたちは逃げたんです。ぼくたちというのは、祖父さんと祖母さんと、妹(小学四年)と弟(六歳)と、兄嫁(二十三歳)と義弟(三歳)、それにぼくを入れて七名でした。

 

ぼくたちは、山を越えてですね、首里石嶺の虎頭山に行ったんです。首里では簡単な小さい穴の中にいました。ぼくの兄(二十四歳)は防衛隊に行っていたので、兄嫁自分のは子供と一緒に自分の親もとのところへ行くといって、ぼくたちと別れました。ぼくたちは五名になり、そこに二、三日おりました。

 

それからぼくたちは、繁多川を下だって識名に上がって、上間という所を通って、一日橋から津嘉山に行きました。夜通し歩いたんです。照明弾が上がって、とても砲弾が激しかったんですよ。もあっちこっちに転がっていました。ぼくは歩いていて、死人のお腹に足を踏みこんでしまったんですよ。死体は腐っていて、膨張していたんじゃないでしょうか。気味悪く、こわくてですね、夜道を歩くときずっと頭から離れませんでした。

 

ぼくたちは山の中へ入り、ずっと木の下をくぐってですね、そして夜を明かしたんです。夜が明けてから簡単に食事をして、朝早く出発したんですが、津嘉山をちょっと過ぎたところで、偶然にもぼくたちは兄さんと遇ったんですよ。

 

最初、兄さんは後向きになって立っていたんですよ。ぼくは兄さんじゃないかなと思って見ていたんですよ。近寄って行ったら、兄さんだもんだから、声をかけたんです。兄さんも驚いて、それからすぐ自分の妻のことが心配らしく、兄嫁のことをきいたんです。首里で別れたことを話したら、ちょっとがっかりしたような顔をしていましたがね。それから兄さんは日本軍の壕に入るように言ったんです。兄さんの所属の兵隊の壕は、ものすごく大きかったので、家族がいたらつれてきてもよいと言われていたんじゃないですかね。それで兄さんにつれられて、そこの壕に入ったんです。そこは多分、津嘉山と外間のあいだになっていたと思います。祖父さんと祖母さんと、ぼくと妹と弟は、その壕で厄介になってですね。

 

その日本軍の壕には、二十五日間ぐらいいました。そこでは兵隊たちが、畑からキャベツやキビやイモを取ってきて、みんなで食べていました。戦争が激しくなって、それからある日、その壕の兵隊たちに、首里の運玉森に特攻隊として出るよう命令がきて、ぼくたちもそこにはおれなくなって、ぼくたちは兄さんと別れたんです。その頃からは、砲弾が激しく、その壕も危険でした。ちょうど大雨が降りはじめていました。その中を、ぼくたちは南部へ下がり、兄さんは運玉森の戦場へ出向いたんですよ。

 

ぼくたちは、ときどき民家に寄って隠れたりしながら、東風平村に行ったんです。その頃からは、祖父さんは栄養失調ですっかり弱っていました。雨には打たれているしお腹もこわしていました。道はまでぬかるんでしまうような泥道でした。祖父さんは、倒れてしまい、手足を痙攣させて、ぜんぜん曲らないんですよ。目はあいたままで、声も出ないんですよね。そんな道の真ん中で倒れてしまったもんだから、ぼくは荷物を置いて、起こそうとしたが起こしきれませんでした。祖母さんはちんばをひいていて、自分一人でやっと歩けるくらいでしたから、祖父さんをそのまま放ったらかしにするほかはなかったのです。

 

そこから二、三百メートル離れたところに一軒家がありました。そこには避難民がいっぱいいました。ぼくたちがそこへ辿りついたときちょうどそこへ叔母さんが入ってきたんですよ。叔母さんは目立つほど妊娠していましたが、その叔母からすると祖父さんは父さんに当りますから、話を聞いて非常に心配してですね。弾は激しかったんですが、ぼくと一緒に行ったんですよ。そして、叔母さんと二人でやっとのことで祖父さんを引張って、小さい崖の木の下に寝かせたんですよ。叔母さんが声をかけたら、ぱっちり目をひらいて、ちょっと動かしただけでした。叔母さんは一度戻って食べ物を持ってきたんですが、弾が激しいもんだから、後で迎えにくるといって、祖父さんを置いたままで引返したんですが、もう後へは引き下がれませんでした。

 

叔母さんの家族や、他の親戚や、ぼくたち四名も一緒になって、そこで四日間避難してから、具志頭村に行ったんです。字具志頭に辿りついて、少し行ったら、こわれた橋がありました。そこで小さ渡り橋をみんなで作って、渡ったんです。こえたところに、玉城村の前川というところがありました。そこの一軒家に一週間ぐらい落着いていましたが、叔母さんは着いてじき、そこでお産をしました。味噌ガメを置くところはクチャぐゎといって、少し凹んでいますが、そこで子供を産んだんですよ。

 

また砲弾が激しくなったもんだから、そこから八重州岳の周囲をぐってですね、真栄平から、真壁村の新垣という部落に入ったんです。そこも激しくて、おれないもんだから、山の中に入って、山の中に大きな松の木があったんですよ、その木の下にぼくたちはながいいました。

 

そこにいるときの情報がですね、海づたいに山原の方に逃げれば、あっちの方はなんでもないということでしたよ。だからぼくたちはその気になって、新垣から引返して、また川に行ったんです。

 

港川は砲弾の音も聞こえないで、しんとしていました。こわれた橋があって、そこを渡ろうとしたとき、日本の兵隊がきて、あっちは敵のところだから、戻りなさいと言うんですよ。夜でしたから、死人が転っていたかどうか、判りませんでした。戻れ戻れと言われて、山原への突破はできないと諦めて、また元の新垣に引返してきたんですよ。

 

新垣では、親戚のおじいさんは水を汲むし、また叔母さんたちは食糧探しをしていました。ぼくはよくキビ取りに行って、朝のうちにキビ畑の中に入ってですね、夕方までその中にいてですね、飛行機が見えないときにキビを束ねておいてずっと隠れて、夕方に持ち帰って、みんなに分けてやりました。

 

新垣で捕虜になったのは、六月二十日なんですよ。それで、六月十八日に、みんな怪我をしたんです。

 

その前日、親戚のおじいさんが、山から降りて、部落から米や肉や味噌や鍋を探して持ってきていました。そうして、もうどうせ死ぬんだから、食べられるものは食べておこうと言って、火を燃やして飯をたいたんです。敵の軍艦の見えるところで、ぼくたちはみんな一緒にご馳走を食べたんです。そのときはなんでもなかったんです。ところが、その夜明けに、まだ薄暗いとき、急に艦砲がとんできてですね。直径一メートルほどの松の木は一ぺんに倒れてですね。その松の木の根もとに、おじいさんと孫さん(ぼくより一つ年上でした)が、寝ていたんですが、その二人はふきとばされてちりおりになってですね。

 

ぼくたちがいたところは、松の木から少し離れたところで、一尺ぐらい低いところでした。弾が落ちたあと、ぼくはぜんぜん怪我をしてないと思っていたんですよ。怪我した感じではなかっんですよ。びっくりしてですね、木の下をくぐってですね、隣の壕(約二○メートルの所)に朝鮮人の軍夫が三名いたんですが、そこへぼくは夢中で行って、助けを求めたんですよ。助けを求めたら、その兵隊たちは、こっちきたら殺すというんですよ。ぼくは諦めて、帰ってきてみたら、子供たちはわあわあ泣いているんですよ。みんな怪我しているんですよね。

 

妹は膝のあたりから切れて、足がたれさがっていました。ぼくは妹を抱き上げて下の壕へつれて行きました。そこの壕に寝かしたんですが、手当てのしようもなく、二時間近く経って、妹は弟を頼むよといって死にました。ぼくは妹が死んでから、急に立てなくなったので、見たら、右足の踵が怪我していて、破片が中に突き刺さっていました。そこへ這ってきた弟も祖母さんも足を怪我していました。

 

ぼくたちは艦砲がはげしいのでじっとしていたんですが、夕方、さらに下の方にある壕に行ってみたら、そこはがら空きになっていたんです。住民は逃げた後だったらしく、そこへぼくたちは移ったんです。壕の中には、ちょろちょろ水も流れていて、こっちはいいところだから、こっちにずっといようということになったんです。ところがその翌日、ぼくたちは戦車砲でやられました。叔母さんたちとぼくたちは、二つの壕に別れて入っていたもんだから、往ったり来たりしているうちに、叔母さんは手などを、弟はまたも足を怪我してですね。上の方の壕の様子を見たら、米軍がきていて、火焰放射器でぼんぼん燃やしているのや、飛行機から機銃掃射するのが見えるんですね。これは大変だと思って、ぼくは壕の中に閉じこもっていたんです。

 

そして二十日の昼頃、アメリカ兵がぼくたちの壕の中に入ってきたんですよ。二、三人だったと思います。銃を下に向けて、「デテコイ、デテコイ」と叫んでいたんですよ。みんなこわくてですね、すぐには出て行きませんでした。とうとう叔母さんが最初に出て行ったんです。なんでもないときは、みんなついて出ておいで、と声をかけながら、叔母さんが出て行って後、引返してきて、何もしないから出ておいでというもんだから、残っていた人たちは、ぞろぞろ手をつないで出て行ったんです。ぼくは、歩けないもんだから、一人で残っていたんです。そこへ二人のアメリカ兵がきて、ぼくの様子を見てから、幅五寸ぐらいに長さ三尺ぐらいの板を探してきてからに、それにぼくを跨がらせて、運んだんですよ。

 

アメリカ兵に担がれて、山の上までつれてこられたら、そこには別のアメリカ兵たちがいました。避難民も茫然と立っていました。坐らされたぼくに、一人のアメリカ兵が罐詰をあけて、食べろ食べろしました。しかしぼくは、毒が入っていやしないかと思って、食べませんでした。ほかの誰も食べようとしませんでした。そこでアメリカ兵は上半身裸になって、罐詰をあけて食べてみせました。アメリカ兵たちは揃ってぼくたちの前で食べてみせたんですよ。ちょうどそのときに、真壁の部落あたりから日本兵がちょっとの間こっちに弾を撃ちこんだんです。するとアメリカ兵たちはみんなあわて逃げ隠れしたんですよね。ぼくたちはそのわずかな隙に、逃げよう逃げようと騒いだんですが、結局、逃げないで、アメリカ兵たちが残したまま捨てた罐詰を拾って、みんな食べたんです。自分の罐詰は食べないくせに、アメリカ兵の残したものは大丈夫だからと言ってですね。

 

それからまたアメリカ兵たちがきて、ぼくたちを重傷者と軽傷者に分けて、GMCトラックに乗せてつれて行ったんです。ぼくは玉城村の百名につれられ、二日ぐらいしてそこの病院で、叔母さんたちとちょっと逢いました。それから、輸送船が沖に浮いていて、水陸両用車で運ばれ、その船に乗せられたんです。夕方、船に乗せられて、翌朝、金武村についていました。

宜野座野戦病院

金武の仮病院に二日いて、それから宜野座の大きなアメリカ病院に移されました。テント小屋でしたが、そこには何千人という負傷者が収容されていました。ぼくはそこで病院生活をしているうちに、アメリカ兵とも仲良くなりました。二か月経っても足の踵は脹れてよくならないので、手術をして破片を取り出したんです。そしてさらに一か月入院していました。

 

病院生活は、朝は茶碗一杯のご飯と、塩のおつゆ、たまには日本製のカンパンがおつゆに浮いているときもありました。それだけが朝食でした。夕食は、四時頃で、大豆の煮物と塩のおつゆだけでした。その二食が一日の食事で、みんな栄養失調になっていたようでした。アメリカの罐詰類はどういうわけかぜんぜん配給がなかったですね。治療などは、アメリカ兵がまわってしていましたが。

 

戦争が終ったのは、病院の中にいるときだったでしょうが、ぼくは気づきませんでした。日本が負けるということは感じていました。

 福山の孤児院で

それからぼくは、両親いないので、隣の福山という部落にある孤児院に送られ、そこにずっと収容されたんです。そこには、満一歳ぐらいから十四、五歳ぐらいまでの子供たちが、約二百人収容されていました。そこではアメリカ兵たちがよくしてくれて、食事もよく、罐詰もあり、ご飯も腹一杯ありました。毎日、山の上の原っぱで、大きい子供たちだけを集めて、日本人の先生が勉強も教えていました。ほとんど英語の勉強だったので、ぼくはただ少しの単語を覚えただけでした。


宮城カメ

(三十三歳)家事

一番初め、青年の防空壕として掘られてあった平良ぐゎの墓の前の壕に、私たちは何日間か、もうすぐ敵がくるよと騒がれるまで、そこにいました。

 

壕と自分の家を往き通いして生活していましたが、四月半ばすぎてから、父さん(夫)とおじいさん(父)たちは、その壕に残して、おじいさん一人残すのは忍びないということだったし、私は子供たちを戦からしのがすために、私は妊娠八か月でしたが、子供たち六名を引きつれて、ずっと歩いて逃げて、津嘉山まで行きました。


津嘉山の部落に他人の家の空いた壕があったので、そこに八、九日いました。その頃から雨が降っていましたが、そこから南風原の方に逃げました。私は二歳になる次女をおんぶして、頭には荷物をのせて、十六になる長女は食糧を持って、十四になる長男は七つになる三男をおぶって、また私は十一になる次男の手を引いて、ずっと夜道を歩いて、心配のし通しでした。

 

東風平に向かっているとき、清武(親富祖清武・甥)たちに逢いましたが、おじいさんはどうしたのと訊いたら、道で倒れておられるというので、それは大変だ、さあ一緒に行こうとつれ立って、行ってみたら、おじいさんは死んだように倒れておられました。おじいさんはいつも私のことを心配しておられたということだし、私はカミーと呼ばれていたんですが、それでカミーですよと言ったら、ちょっと目をひらいておられたんです。

 

私はまだ大丈夫だと思い、よその家の小さいの近くに坐らせて、それから私は急いでおかゆを持ってきて、食べさせました。こんこんと二度飲みましたが、それっきりでした。もう死んだも同然なので、そのままにして、弾が激しくとんでくる中を逃げたんで

 

それから三家族揃って、玉城村の前川に避難しました。そこの一軒家で、私はお産しました。そこに三、四日いて、敵がまた来たようということだったので、八重州岳のそばを回って、真栄平を通っ新垣に行きました。それから後の道順は、甥(親冨祖清武)の話した通りです。私は童(子供)を前からも抱いて、おぶってもいて、頭には荷物をのせて、大きい子の手を引いて弾のくるのをさけながら歩きました。お腹も足もどういうわけか脹れてしまって、熱も出て、おっかあが死んだらどうすればよいかと、子供たちは心配してたびたび泣いていました。

 

それから山原に逃げるつもりで港川まで行きましたが、日本兵に追い返されて、また新垣にきました。

 

生まれて九日ぐらいしか経たない赤ちゃんは、乳が出ないので、ただ砂糖をまぜた水をなめさせるだけでした。その子は、新垣の一本松のところに着いて間もなく、栄養失調で亡くなりました。それから三日経って、そこにも砲弾がどんどん落ちてきたわけです。そして、次男(十一歳)と四男(六歳)が亡くなりました。四男は、長女が抱いていましたが、弾の破片が四男の背中を貫通して、長女の膝に当っていました。長女は膝を怪我しただけで命には別状ありませんでした。次男は小便したいといって外に出ようとしたとき、今行くとあぶないよと私が声をかけたのですが、出て行くと同時に弾の破片が顔にあたって、即死しました。長男は足のすねを二か所怪我していました。私は右手をやられて、血がたらたら垂れていました。

 

それから下の壕におりて行ったら、アメリカ兵が「デテコイデテコイ」と言っていましたから、私はこのままではどうにもならないと思い、みんなに私が出て行って何もされなかったらみんな出ておいでと言い残して、出て行ったのです。そしたらアメリカ兵は食べ物をすすめていましたから、私は壕に戻って、食べろ食べろというだけでなんでもないからみんな出てきなさいと、私はみんなを出してやったのです。

 

長女と長男と三男と次女を救い出して、そのへんに坐っていると、アメリカ兵は罐詰なんかを食べろ食べろしました。でも誰も食べませんでした。アメリカ兵たちは、食べてみせたので、私たちは安心して、みんな一緒に食べました。それから、私の傷や子供たちの傷を、アメリカ兵は薬をつけたりして手当てしました。

 

新垣の壕の上の原っぱにみんな集められていましたが、どういうわけか、カンカン照りの中に、夕方まで放ったらかしに置かれていました。ようやく夕方になって、アメリカ兵たちがきて、歩けない子供たちは担架で運ばれて、みんなトラックに乗せられ、百名につれて行かれました。

 

百名の収容所の病院で、長男は足の傷の出血のために亡くなりました。それからすぐ、私たちは無理矢理に船に乗せられ、宜野座につれて行かれました。宜野座ではアメリカの病院に入れられましたが、三か月ぐらいしてから、長女の膝はひどく疲れて、そのために亡くなりました。食糧も少なく、みんな衰弱していました。

 

次女(二歳)は軽傷だったので、ずっと私と一緒でした。三男(七歳)は孤児院にやらされました。私たちは別のテントに移されましたが、そこへ三男は探してきていました。おっかあとは離れたくないといって、泣いてばかりいましたので、私も可哀そうに思い、一つのベットに親子三人でねていました。それをアメリカ兵が見つけて、三男を孤児院につれ戻しました。だけどまたその子は戻ってきていました。そうして三人で病院生活をしているうちに、戦争は終ったということを看護婦からきかされました。

 

石川カメ

(三十一歳)家事

最初はシマ(部落)の前の自分の墓の中にいました。そっちにどれほどおったかなあ。敵が城址の近くまで来てから、今日中に敵がこっちに上がってくるようと言うもんだから、それですぐに私は、夫とおじい(父)と別れて、子供たち五人、それに十九歳になる妹も一緒に、夕方七時すぎだったかなあ、子供たちをおんぶしたり荷を持ったりして逃げて、経塚を通って、首里に...。

 

首里儀保を通って、崎山に行きました。崎山ウタキ(御嶽)という所がありますが、そこに、住民が掘った壕だったのでしょう、そこに入りました。裏には石部隊のがあったのですが......。最初そこにいた兵隊は、顔見知りだったんです、前田にいた兵隊たちで......。その人たちが、私を覚えていて、小母さんたち、そこに楽があるからと、すすめてくれたので、だから入りにくい小さい穴ぐゎに私たちは入っていました。東の海に向かっている穴ぐわ。そこに何日いたか、正確には覚えていませんが............。

 

兵隊たちは、服など、これも縫ってくれ、これも縫ってくれと、針仕事をもってきていたし、またご飯の余ったものなど持ってきて子供たちにくれたりしていました。そこには二十日間はいたでしょかか。

 

そしてそこでの生活が終りに近い頃、壕の中で私は三人の子供を亡くしたのです。
その日の昼すぎ、外で煮物をしているときに、私はとんできた破片で尻を少しけずり取られて、負傷していました。傷が痛くて、出血していましたが、我慢するほかはありませんでした。そうして夜、三時頃になっていたかなあ。砲弾が壕の中にとんできて、いっぺんに長女(十四歳)と長男(十二歳)と次男(十歳)三人、大きい方の子供たちは、いっぺんに......。

 

私は壕の中の壁にもたれて坐って、三女(二歳)を抱いて、乳をわえさせていましたけれど......。急に破片がさあッととんできたかと思うと、私の右手首から左腕に突き刺さり、また同時に両足にも傷を受けてしまい、痛みも知らないうちに全身がしびれてしまっ...............尻も怪我していたので、動くこともできないで、ずっと寝転んでいました。
次女(五歳)は私の側にねていて、無傷でした。足を怪我している妹がみんなの食事の世話をしました。子供たちの死体は、泥や石粉を被って、真っ白くなっていました。長男は背中を三か所、長女は腹、次男は右頭をやられているということでしたが、そのままにして、妹が毛布を被せておきました。砲弾ははげしいし、妹は私たちの世話をすることで精一杯でした。私はそのままの恰好で、死体となった子供たちの側に、二日間いました。腕からは、血が糸のようになってずっと飛び出していました。あとで、妹が油塩

 

ぐわを傷口にぬってくれて、強くくびっているうちに、ようやく出血はとまりました。
三日目になって、残っていた兵隊たちがきて、私たちの様子を見て、驚き、小母さんたちはなんてことか、死人と一緒にいて......。死んだ子供よりも、生きている子供の方が宝じゃないか、早く出て行きなさい出て行きなさいと、兵隊たちから言われて、私たちはようやく出て行く気になったのです。


昼間から、雨が降りはじめて、滑る泥道でしたが......。足を怪我している妹は、葉のついている竹で杖をついて、次女(五歳)は荷物を持って、私は三女(二歳)をおぶって、かがんでゆっくりゆっくり歩いて、繁多川に降りて...............。それから坂を昇るとき、あっちこっち見ても誰一人いない中を、妹が私の手を引張ってくれたりして、私は坐りこんだら立てなくなってしまい、妹が引立ててくれたりして...............。


妹が、あんたたちはもう歩けもしないのに、死んだ方がましね、と言うので私は、これから死に場所を探して歩いているんじゃないこんなに苦労して、生きていてなんになるの、撃たれて死ぬのを待っているんじゃないの、と言い返して、やっとのことで歩いて行って...............。

 

そうしているうちに、頭の上から、ひゅるひゅる音たてて破片がとんできて、目の前の地面にぶすッと突き刺さるけれども、当たりもしないので、これにもやられないんだから私たちは死なないですむかもしれない、と私は泣声で喋ったりしながら前に進んで......。坂を昇ったら、墓がありました。もうこれ以上歩けもしなかったので、坐ったら坐ったきり立てないし、おんぶしている子供は水、水と欲しがって泣くし、妹が溜水を手ですくって飲ましたけど、カつきてしまって........。

 

もう仕方がないからそこで死のうねといって、その墓の穴の中に、這って入ってみたんです。穴ぐゎに入ったのはいいけれど、入ったきり動けなくなって、体の傷も痛いし、そのままじっとしていました。

 

そのまま一夜あかして翌日、妹が出よう出ようというけれど、足はもう動かすことができなくなって、坐ったきりで・・・・・・血もだらだら、体はびしょびしょ濡れているし........。妹は島尻に行こうというけれど、私は島尻がどこだかも判らないし、行っても助かるとは限らないし、もうここで死んだ方がましだと思って、行きたけりゃお前だけ行きなさいと言ったら、言う通りに妹は出て行ったんです。私は、ここで親子三人死ぬから、お父が兵隊から帰ってきたら、知らせて頂戴ね、と妹に別れを言って、妹は行こうねと言って出て行ってから、また戻ってきて、もう一度誘ってから諦めて、それからどこへやらまた出て行ったのです。

私たちはその墓の中に三日間入っていて、兵隊の残した飯盒や毛布はあるけれど食べるものは何もないので、何も食べず、壕の中の泥水だけを飲んでいました。小さい子供は、水のむ水のむとしょっちゅう泣いて、四日目の昼頃、とうとうアメリカーに気付かれてしまいました。そしてアメリカーが入ってきて、「デテコイ、デテイ」とふた声叫んで、また間をおいて「デテイ、デテイ」していたけれど、私は子供に手まねで黙っているよう合図して、知らんふりしていました。

 

すると突然ゴーンと音がして、アメリカーが逃げるのが見えたけれど、また来て、またゴーンと音がして、••••入口は赤い煙がもうもうとしました。製糖場の煙突の中のようになって、燃えて、••••••中にどんどん煙がきて......。私は息苦しくなって、深呼吸をときどきくり返して、鼻と口を手でおさえていました。そのとき女が兵隊の残した濡れた毛布を持ってきたので、それを親子三人で被って......そのままじっとしていたんです。その毛布がなければ、恐らくそこで死んでいたでしょう。実に不思議なくらい、私たちは生きていて、夜明けに、もう我慢できなくなって、子供たちから押し出すようにして先に出して、私も通って穴ぐゎから出たんです。それから次女が二歳になる子供を私におんぶさせて、一生懸命に道って這って歩いて、あてどもなく進んでいるうちに、夜が明けてきました。

 

私は早く逃げないと危ないと思い、次女をはげまし、丸太にひっかかったりして転んでは起き起きし、福木の葉で泥水をすくって子供たちにも飲まし飲ましして、進んで行ったのです。

 

思い出すと可笑しくもなる。アメリカーたちが、左手の松のある丘からわさわさと出てきて、集まってくるんですね。そして私たちの側まできて、非常に珍しかったんでしょうね、アメリカーたちは私たちを前からも後からも写真をパチパチ撮っていました。
私はアメリカーの顔を一度見ただけで、こわくて、ずっと俯いていました。そのうちアメリカーは罐詰をあけて、私たちにすすめるんだけど、私は子供たちに食べるなよと注意したんです。でもアメリカーが砂糖菓子を食べてみせるので、それをすすめられたとき、食べられるから食べなさいと言い直して、私も子供たちもそれを舐めたんです。それからまたアメリカーは、カンメンポみたいなものを手渡したけれども、私も子供たちも食欲がなくて、食べきれないで、目まいがするのをじっと我慢していました。

 

するとアメリカーはすぐ担架を持ってきて、親子三人を担架に乗四人で雨の中をどんどん駆けて運んで行って...。それから降りて行くところに泉川があったので、そこでひと休みして、アメリカーが水筒に水を汲んできて私たちに飲ましてくれました。

 

それからまた凸凹の山道を運んだんですが、溝など飛びおりたりするとき、私は身体がちぎれるようで、ヒーヒー声を思わず出して、アメリカーは振り向いたりして......運んで行きました。そして与儀あたりにつれて行きました。

 

そこは原っぱになっていて、アメリカの兵隊たちがあっちこっちにいました。洗面している兵隊も見受けられました。私たちは原っぱの真ん中に置かれました。雨はばらばら降ったり止んだりしていました。やがて一人のアメリカーが紙箱を二、三個持ってきて、その一個を押しつぶして、私たちをその上に坐らせ、ミルクやらパンやらいろいろ食べるように広げました。また雨が降りはじめると、大きな紙箱を広げてかぶせてくれて......。それから、一人のアメリカーは私の傷口に薬をつけ包帯を巻いてくれて・・・・・・。ほかにも怪我はないかと探しているようだったけれど、私は尻の方の傷は恥かし教えませんでしたよ。

 

それから担架で、私たちは黒んぼの乗っているトラックに乗せられ、首里まわりして大謝名に出て、大謝名から牧港のアメリカ病院に運ばれました。そこには二日間おりました。そこでは、手や足や尻の傷も手当てを受けました。また傷口の中にある破片も取って貰いました。その後、GMCに乗せられ、胡屋の病院に入院させられました。

 

一週間いてから、宜野座の病院につれて行かれ、十六日間いてか惣慶(旧金武村)の病院につれて行かれました。それまでは、日に食事は二度だったが、惣慶では、三食になって、ようやく私は元気になってきました。嘉手納出身の看護婦にとてもお世話になり、口では言いつくせないくらい親切にして貰いました。

 

私は元気になったのに、下の子供は、栄養失調で、痩せこけて、日に日に目玉がとび出してきて、何を食べても下痢して、「ニイニイ(兄さん)たちがやがてくるよね」と言いながら、とうとう亡くなりました。

 

次女は無傷でしたし、その子だけは最後まで無事で、いまも元気です。

妹は繁多川から志多伯の方へ一人で逃げて行って、知念で捕虜になったそうですが、いまも元気です。

 

石川トヨ

(三十歳)家事

最初は浦添城址の手前のクシパルの壕に入っていました。三世帯一緒に入っていました。米軍が上陸してから、幾日も経たないうちに、私の母親が家の便所で砲弾の破片に当ったということでした。

 

私はウヤスヤー(親の家)の少し離れた壕に入っていました。誰かが母親のことを知らせにきたので、私は母親と一言でも言葉を交わしたいと思い行こうとしたら、壕にいるおばあ(義母)が、これだの中だから行かない方がよいと、しきりにけの子供がいるし、止めるのもきかないで、私はふり切って行ったのです。

 

ところが母親のいるところに届かないうちに、十メートル離れたところに弾が落ちて、その破片で私は右腿を怪我してしまい、ちんばをひきながらそのまま引返してきました。おばあの言うことをきいておればよかったんですが、薬もないので、豚油をつけてタオルでしばるだけの治療をして、寝込んでしまいました。私の怪我した足は張れたもんだから、一週間ぐらいは立てませんでしたね。私のために、その壕の三世帯だけは、南部に下がるのが遅れてしまったのです。そしてもう、そのへんは砲弾が激しくなって、壕にいたら大変だからどうにか歩いて首里に行こうということになったのです。夕方、私は杖をついて、家族六名と隣の家族も一緒に、出ようとしたら、敵の戦車の音が聞こえてきました。そのとき私は忘れ物を思い出して引返し、それから壕の外に出てみると、おばあと次男(八歳)と三男(三歳)の三名は、みんなより少し先になっていたけれど、どこへ行ったのやら探しても解らず、照明弾が輝くとすぐ伏せたりして、とうとう別れ別れになってしまいました。

 

それから、そこから夢中で前の方へ進んで、オカンジャという所へ行ってみたら、一緒だった人たちが怪我していたので、これじゃ前にも進めないし後にも引返せないし、といってもどうにかしないことにはと思い、もう仕方がないから、道で死ぬよりは自分の墓で死のうねと子供たちに言って、近くにある先祖の墓に向かって、私は四男(八か月)をおぶって長男(十歳)をつれて行きました。墓の前には、大きな馬が死んでいました。墓の入口はあいていましたが、小さくて入れそうもなかったので、隣の墓を見に行ったら、そこは直撃を受けて跡形も残っていませんでしたよ。

 

そこで迷っていると、その隣の親戚の墓から、子供の泣き声が聞こえてきました。そこに人がいるんだなあと思って、声をかけたら、返辞があって、親戚の人たちだったので、ほっとして、強いてお願いして私たち親子三人入れて貰いました。
そこで一晩泊って、翌日の晩は、そこに入っていた十名の人たちと一緒に首里に向かったのです。途中で、私がおんぶしている赤ちゃんは、頭に弾があたって、即死し、私は肩と左手首を怪我しました。でも私は、死んだ赤ちゃんをそのままおんぶしていました。一緒の人たちのうち、ほとんどの子供たちは怪我をして、大人は四名亡くなりました。私の長男は無傷でした。そこはウジマといって、原っぱの裾になっていました。そして、前田の黒島原という所に、小さい壕があったので、そこへ入りこんでいました。もうすっかり疲れ切っていました。そこではご飯をたくと危いので、生米を噛んで、水を飲んで、ときには長男が探してきた甘藷をかじったりして、五日間すごしました。

 

それから夜の八時頃、逃げて、経塚の近くにきたら、砲弾がどんどん飛んできて、逃げ迷い、とうとう私は力つきて倒れてしまいました。起きあがる元気がなく、水の入った急須を持ったままでしたが、もうここで死のうと思いました。長男だけは助かって欲しいと思い、七百円入れてある非常袋を手渡して、お前はよそのおじいさんと一緒に逃げなさいと強く言いきかせたら、納得して、私は息子と別れたのです。
ずっと後になって、私は息子から聞いたのですが、よそのおじいさんを追っかけて行ったとき、見失ってしまったそうです。それから道が判らなくなって、また元の墓に戻ってみたら、そこには誰もいないので、淋しく心細くなって、一番最初の葉に行ったそうです。そこには、よそのおじいさんとおばあさんがおられ、一緒になったものの、砲弾で、はじめにおじいさんが亡くなって、すぐにおばあさんが亡くなり、一人ぼっちになったそうです。それから壕の土が崩れて、息子は腰まで埋められ、やっとの思いで脱け出て、隣の墓の棺箱の後に立てなくなって隠れているところをアメリカーに見つかったそうです。そして息子は孤児院にやられていたのです。

 

ところで私は、あのとき倒れたまま眠ってしまい、一夜を明かしました。翌朝、私はおぶっている死んだ赤ちゃんをおろして、急須から水を飲み、土の上に這ったままで、もうどうせ死ぬんだと諦めて、じっとしていました。足音が聞こえたとき、アメリカーかもしれないと思い、私は目を閉じて、死んだようにしていました。すると私は身体のあっちこっちを触って調べられ、手の脈もとられました。目をあけたらアメリカーでした。私はすぐに担架に乗せられて、つれて行かれたのです。トラックに乗せられたときも、これからどうされるか心配で、病院で傷の手当てを受けようとは、少しも思ってみませんでしたよ。

 

捕虜になって、胡屋の病院に行ったのは五月十八日でした。そこには一か月半ばかり入院していました。一週間は動けませんでした。看護婦のいたれりつくせりの看護には、涙が出るほど人の優しさにふれ、感謝の気持でいっぱいでした。

 

私は移動させられて、久志村の病院に約二か月入院しました。そこでは、朝と晩の二回、おにぎり一個の食事でした。傷がなおりかけた頃、私はマラリアに罹って、退院が遅れました。その後は、古知屋の開墾に行きましたよ。

 

私の家族で私のほかに生き残っていたのは長男一人でした。次男と三男とおばあも亡くなり、主人は防衛隊にとられて行方不明です。孤児院にいた息子は、半年ぐらい経ってから、私が石川まで行って、つれてきたのです。

 

比嘉真光

(二十九歳)現地召集上等兵

三月二十二日から、米軍の上陸前の空襲があったんですが、その頃私は読谷で軍隊生活を送っておりました。

 

部隊本部は、読谷飛行場の東側に、山岳兵舎を作ってありました。私らの第一中隊は、古堅小学校におって、中隊長は首里出身の新垣という人でした。すぐ近くに高射砲隊がおるもんだから、二十二日からは、もう昼中はぜんぜん出られなかったですよ。一日に爆弾は少なくとも読谷飛行場に百五十個ぐらいは落ちていました。晩になると、私らはみんな出て行ってですな、爆弾の跡を、小さい穴はモッコウを担いで土を埋めて、大きい穴はトラックから土を運んでローラーをかけて、明朝友軍機がきても降りられるように、その作業でした。その作業を、二十二日から二十八日まで、それば繰り返しやっておったですよ。

 

四月一日には、ちょうど屋良飛行場に米軍の落下傘が降りるのが、よく見えよったんですよ。私らは高い所の簡単な岩陰に散らばっておったのですから。

 

それから二十八日までは、あの高射砲隊は頑張っておったんですよ。なかなか米軍はそこには爆弾を落としきれなかったですよ。ところが晩になると、高射砲隊は引上げて行きよったですから、そうしたスキに、ちょうどある晩、そこの陣地に米軍機から爆撃があってですな。あのときにほとんど全滅してしまったんですよ。私らはその晩、二百二十高地というて東側の高台に行ったんです。するととはいうものの、立って歩けないくらい、昼みたいに照明弾がおちて明るく、一つが消えないうちにもう一つがおちて......。

 

私らはタコ壺の中に、四名別々に監視していましたが、明け方になってもその日は交替が来ないんですよ。一か所に固まっておると危険だからというて、中隊は後方に下がっておったですが、普通二時間で立哨は交替するんだが・・・・・・

で、明け方まで辛抱しても来ないもんだから、二人はそこに残して、私ともう一人は一応連絡してみるからと、部隊まで行ってみたんです。ところが部隊は連絡なしにそのまま下がって行ってしまっておるんですよ。国頭の方へ......。

 

そのときからは、猛烈に砲弾がとんでくるもんだから、もはや中隊さえ逃げていないんだから今更連絡に行くのも馬鹿くさいと思い、一応は屋良を通って、どうせ日本軍の主力は首里におるのだから、首里の方へ逃げようと考えて、屋良の近くまできておったんですよ。だがその頃はすでに米軍によって遮断された形勢だったから、私らは諦めて、国頭の方へ下がってですな。

 

私らは金武の寺の前にある大きな壕のことを思い出し、そこへ夜通し歩いて行ったんです。一晩はそこで泊って明日また出発しようと思って、その壕に入ってみたら、なんと中隊がおるんですよ。中隊長以下全部。で、中隊長は、よく帰ってきたなあ、これから連絡にやろうとしたが、もう危険だということで、とり止めたんだよ。これからは一緒に行動するから......と言っていました。

 

そこから中隊は、大宜味村と東村の間の、大保まで行ったら、むこうにもアメリカ軍が入っていて、もう進めなくなったんですよ。そこで、もう中隊がまとまって行動できないから、各自、友達同士でも、同じ出身地同士でも、好きなように二、三人ずつで、国頭に下がってもいい、自由行動を許すからといって、解散になったんですよ。そこで私らは(六名)その晩ずっと下がって、東村の東の部落を通って、安波まで行ったんですよ。

 

むこうまで行ったら、行詰り同様だから、引返して、東村の有銘にきました。その頃、雨が降りはじめたんですよ。今日は雨が降るから、大丈夫だろう、民家で飯でもたいて食べようかと、降りて行ったんですよ。そして、ちょうど十一時頃部落の家で飯をたいて、これから食べようとするときに、アメリカーが両方から四名あらわれて、やってきたんですよ。とつぜん発砲されて、そこで首里の人が一人やられたんです。私らはあわてて、溝みたいなところから山に逃げました。

 

有銘の後側に福地(?)という部落があって、そこには日本軍の歩兵部隊が十五、六名軽機関銃を持っておったんですよ。彼等は、私らが米軍にやられたのを見ておったらしく、待ち受けてですな、アメリカー四名を全部やっつけてしまったんですよ。だから私らは、もうそこにいたら大変だと思って、オーシッタイという部落に行ったんですよ。


それから何日か経って、大雨の晩、古知屋潟原の橋を渡るとき、橋の側にはテントが張ってあってアメリカーが二人監視しておったが、危険をおかして渡ったんです。翌日ふたたびオーシッタイに行ったら、アメリカーがたくさんきていて、ものものしい様子でしたな。斥候が戻ってこないもんだから、探しにきたのか、殺されたことで復讐しようと日本軍を探していたのか。

 

それから私らは、山の中に逃げて、ずっと山の中の生活です。恩納岳の方まで下がって行って、毎日甘畑をあらしていました。夜の十二時頃までは道路の近くにおって、アメリカの車が通らなくなる頃、渡って行って、万座毛の付近で甘藷を掘るんです。それを持てるだけ持って、夜の明けないうちに、戻ってくるのです。

 

避難民がよく山の頂上にきよったんですよ。九月の二十日頃だったでしょう。捕虜になったのは、最初、二世みたいな声で、出て来なさい出て来なさいと、マイクで呼びかけていました。そのうちだんだん、一人へり、二人へりて、投降していました。
私らは五名でしたが、避難民がいなくなったもんだから、どうせこのままだと死ぬし、食べものもないし、どうにもならないから降りた方がよいということになって、避難民が捨てたボロ着物をつけて、万座毛の方へ手をあげて降りて行ったんです。
ちょうどアメリカーはそこに作業員をつれてきておったんです。十二時前だったと思います。手をあげて行ったら、あわてる様子もなく、待ってくれと待たされて、一時頃、アメリカーはGMCを持ってきてですな、それに私らを乗せて石川につれて行ったんです。翌朝、アメリカーは自分たちを並べて、徴兵検査みたいに、私らを厳重に調べました。私は、自分は兵隊ではない、家族と一緒に国頭に避難したんだと頑張って、とうとう一般の捕虜と一緒になったんです。中には、拳銃をつきつけて調べよったですから、兵隊だったことを白状して、屋嘉の方へつれられて行ったものもいました。収容所で判ったのですが、私の家族はほとんど死んでいました。家族は南部に下がったらしく、私の両親と妻子、それから兄の子供たち、全部で十名死にました。私は兵隊に行ってかえって助かったのです。

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■