【Archive 2-14】県立第一高等女学校 ひめゆり学徒隊 - 女学生の「集団自決」

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戦禍を掘る 第2部・学徒動員

[81]女学生の集団自決(1)「太陽見て死にたい」

やみ夜に「ふるさと」の歌

 

 波が打ち寄せる絶壁の上で、輪になって座っていた女性とたちはしくしく泣き出した。深夜だった。「もう一回、太陽の下を大手を振って歩いてから死にたいね」。輪の中の1人がそうつぶやくと、まもなくだれからともなく「ふるさと」の歌が始まった。

 

 すすり泣きが聞こえる。みんな精いっぱい歌っているつもりだが、思うように声にならない。暗くてお互いの顔もはっきりと見えない。が、涙がとめどなくあふれ出ていることだけは確かだった。

 

 「あの晩のみんなの声がいつまでたっても忘れられません」。翌日起きた悪夢の集団自決を、思いもよらないことから免れた宮城(旧姓)喜久子さん(56)=那覇市首里儀保=は、無残な最期を遂げた仲間たちのことを思い出して声を落とした。

 

 昭和20年6月19日、米軍の猛攻撃に追われて宮城さんたちのグループは沖縄本島南部の喜屋武岬にたどり着いた。

 

 メンバーは全員で12人。“ひめゆり学徒隊”として沖縄戦に駆り出された県立第一高等女学校の生徒のうち3、4年生の9人と、途中で仲間に入れてほしいと言ってきた地元に住む同校卒業生2人、そして平良松四郎教諭の顔があった。

 

 このグループは、その2カ月ほど前に“ひめゆり学徒隊”が分散勤務となった際、球部隊軍医部の経理部として南風原・津嘉山で組織され、当初の人数はもっと多かったという。激しい戦火に見舞われて南部へ撤退、糸満・伊原の第1外科壕に移ってきたが、1週間余りたった6月18日に非情の解散命令が出た。壕を脱出して喜屋武岬へ逃げ延びるまでに、何人かが爆風にやられ、息絶えている。行方知れずになった者もいた。

 

 岬に着いた時は、すっかり日が暮れていた。その時の模様を宮城さんは振り返る。

 

 「大雨の夜でした。私たちは、そこに着く直前にはぐれてしまったらしい石川義雄先生と仲栄真助八先生の2人を捜そうと必死で、アダンのトゲに足を刺されながらも一帯を歩き回ったものです」

 

 「せんせーい、せんせーい」と何度も大声を上げて呼んだが、いっこうに返事はない。女生徒たちはワーワー泣き出していた。雨足は弱まるどころか勢いを増すばかり。2人の先生がどうしても見つからず、あきらめの表情に変わった生徒たちは、とたんにものすごい疲労感に襲われた。

 

 「そのままアダンの根元に腰を下ろし、ずぶぬれの状態で横になりました。食べ物を口にしなくなってどれだけたっていたでしょうか。おなかがすいて、のどもカラカラ。せめてのどだけでもうるおそうと、何か臭いなと思いながらも近くのたまり水を飲み、いつの間にか寝込んじゃいました」

 

 あくる朝、目をさました宮城さんは周りを見渡してびっくりした。ブヨブヨに膨れ上がった死体がいっぱい。ウジも湧いていた。「そう言えば、昨夜、臭いと思いながらも飲んだ水は…」

 

 慌てて飛び起き、海岸べりへ一目散に駆け出して行ったという。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年4月3日掲載

 

[82]女学生の集団自決(2)投降呼びかける米兵

「ひどい目に遭う」と動転

 

 膨れ上がった死体の群れから逃げ出すように海岸べりまでやってきた宮城喜久子さんら“ひめゆり”の経理部グループ12人は、そこで多くの避難民を見た。宮城さんら県立一高女生と同様、“ひめゆり”として組織された師範学校女子部の生徒たちもいる。そこは大きな入り江になっていて、人々は波打ち際に群がるように休んでいた。

 

 宮城さんはその中に、師範生を引率していた仲宗根政善教諭を見かけた。

 

 「血だらけでした。確かその前の晩にも一度見かけたんですが、けがをしているということは暗くて気付きませんでした。日差しの下で見ると、もう顔面はそう白。ひと言もしゃべらず、ぐったりして岩陰に横たわっていました」。ただ先生の周りには師範生たちが何人かいて、「私たち一高女生が手当てに当たるには及ばない。大丈夫だろう」と宮城さんらは胸をなで下ろしたという。

 

 しばらくすると、その波打ち際に米軍の上陸用舟艇が近づいてくるのが目に入った。船上の米兵らは盛んに両手を動かして何か叫んでいる。投降を呼び掛けているらしい。「危害は加えない」「助けてやるから出て来なさい」などと言っているようだった。背すじが寒くなったその時の思いを宮城さんは振り返る。

 

 「捕まったら最期、いたずらされてひどい目に遭うに違いない。そのあときっと、戦車でひき殺されるんだ。そんなふうに信じ切っていました。幼いころからアメリカ人は鬼だ、としか教えられてきませんでしたからね」

 

 女生徒たちは背中を丸め、ガタガタ震え出した。アメリカ兵は今にも自分たちを襲ってきそうな気配。息を殺し、じっとしているしかなかった。

 

 半日くらいたっただろうか。依然として震えはおさまっていない。いたたまれなくなって、ついに岩場を飛び出し、みんなでアダンの木の茂っている方に移動した。が、落ち着く間もなく、生徒たちを激しい火えん放射器の攻撃が襲う。アダンの木は燃えさかり、炎に包まれた宮城さんたちは、いぶり出された形となってそこも飛び出さざるをえなかった。

 

 再び海岸線へ―。険しい岩場をはだし同然でくぐり下りていった。「卒業した先輩の瀬良垣えみさんと4年で同級生の宮城登美子さんが負傷していました。岩場を駆けるものだから表情が痛々しそうで、かわいそうでしたよ。でも、手当てをしてあげる余裕はなく、みんなで励ましてやるだけでした」

 

 着いた海岸も決して安全な場所とは言えなかった。「いつか米兵に狙い撃ちされてしまう」。そこで、海岸伝いに喜屋武岬から具志頭の港川方面に突破していこうということになり、波の打ち寄せる岩陰の下をカニがはうようにして恐る恐る進んでいった。宮城さんはその時のことをはっきりと覚えている。

 

 「どのくらい歩き続けていたでしょうかねえ。不自然な格好だったんで、もうへとへとの状態。と、その時、遠くに日本軍の兵隊たちの姿が見えたんです。そして怒鳴るんです。おまえたちはバカか。女、子どもがここを突破できると思っているのか。絶対にだめだ、とね」

 

 そういった声を耳にして生徒たちはお互いに顔を見合わせた。寒々とした波が一段と強く絶壁にたたきつけている。「もう潮時。先生、ここを登りましょう」と生徒の1人が言った。ところが、振り仰いであまりの高さに一瞬たじろいでしまったという。

 

 「とてつもない高い壁でした。けれども歯をくいしばってよじ登ったんです。今思うと、とても考えられない腕力と度胸でしたが…。そして、そこが集団自決の場所になったんです」

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年4月8日掲載

 

[83]女学生の集団自決(3)捕まったら八つざき

絶壁で車座になり死決意

 

喜屋武岬から波打ち際を伝って進んできた宮城喜久子さんたちは、荒崎海岸まで来て港川行きを断念、そこから岸壁をよじ登った。みんなで12人。ここ2カ月ずっと行動を共にしてきた仲間だった。

 

 「兼城さん(宮城さんの旧姓)、もう自決しよう。自決しないとだめよ」。全員が岩の上に登りつめたところで、3年生の1人が宮城さんに乞(こ)うような目で言ってきた。「もう少し待ってみましょう。師範生もいるようだし、ひょっとしたらはぐれた先生たちに会えるかも知れない。仲栄真先生も石川先生もきっと私たちのことを捜しているでしょうから…」

 

 最上級の4年生だった宮城さんは、そう言ってその3年生の後輩をしきりになだめた。「その子はとってもまじめな子でね。前の晩からしょっちゅう“自決しよう”とすがり続けていたんです」

 

 死を覚悟したその日は、宮城さんによると20年の6月20日。手帳にそう書いてあったという。

 

 夜になっていた。目の前に広がる海には数え切れないほどの軍艦が、薄暗い中で不気味に砲口を向けている。かといって後方に逃げ出すわけにはいかない。火炎放射のえじきになるのが目に見えているからだ。もう全く身動きの取れない状態だった。

 

 「軍艦からはマイクでしきりに何か叫んでいました。船は目と鼻の先のようなものだから船上で手招きしているのがよく見えましたが、私たちには悪魔の手招きにしか思えなかったですね。捕まったら八つ裂きにされる、としか頭にはなかったですから」

 

 途方に暮れたみんなは絶壁の上で輪をつくり、海の方に向かって腰を下ろした。

 

 「どうしよう」

 

 1人がそう言った。それに答えるように「自決する」とだれかのきっぱりした声が返る。

 

 「うん、自決しような」

 

 ここまで11人の女の子たちを引率してきた平良教諭も、しようがないな、という顔をして言った。車座になった生徒たちはつばを飲み込み、うなずいた。

 

 ところが、手りゅう弾が1個しかなく、果たして全員死ねるか心配になった。「戦後に聞いた話ですがね」と前置きして、宮城さんが手りゅう弾調達のいきさつを語る。

 

 「私たちのグループから少し離れたところに天願さんとかいう方がいらして、前に平良先生が自決用に手りゅう弾をあげてあったらしいんです。それを先生が再びその人の隠れている穴まで行って取り返してきたそうです。“ぼくたちは手りゅう弾が1個しかなく、12人が死ぬには足りないから”と言ってね」

 

 平良教諭は天願さんから取り戻してきた手りゅう弾を「兼城、お前が1個持っておけ」と言って宮城さんに手渡した。「それがあれば何とかなるから、いざと言う時はその手りゅう弾を腹に当て、みんなの中に飛び込むんだ。そうすればみんな死ねるから」

 

 そういった平良教諭の話を宮城さんは「ああ、そうですか」といった感じで平気に聞けるのだった。

 

 死ぬことが決まり、みんなは所持品を捨てることになった。宮城さんも入隊前の学生時代からずっと持っていた救急医療のかばんから中身を取り出し、暗い海の中へ次々と投げ込んでいった。その中には、入隊時に寮のアルバムからはぎ取ってきた家族の写真もあり、束ねられたまま波に吸い込まれてしまったという。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年4月10日掲載

 

[84]女学生の集団自決(4)自決覚悟、身の回り品整理

「父母に会いたい」

 

 自決を覚悟した女生徒たちはそれぞれ持ち物を整理、多くは次々と海へ投げ込んでいった。でも「どうしても捨てられないものがいくつかあった」と宮城喜久子さんは振り返る。

 

 一つは日記帳。今日、宮城さんが日時や人数を明確に把握しているのは、この日記帳の記録のお陰だ。「毎日の出来事を書き込んでありましたからね。捨てられませんでした」

 

 万年筆や書類も手元に残すことにした。行方不明の石川教諭から前に預かっていたもので、「書類は特に重要なものに思えましたので…」と宮城さん。軍服には大きな胸ポケットが付いていて、そこにしまい込んだという。

 

 しかし、多くは“証拠”隠しのために捨てた。「卒業式の日、みんなに回して書いてもらった思い出のサイン帳もそうです。後生大事に持ち歩いていたんですがね」。家族の写真なども絶壁の上から投じられ、海の中に吸い込まれていった。

 

 暗やみだった。「もう一度、お父さんとお母さんに会ってから死にたいね」。板良敷良子さんがポツリとつぶやいた。輪になって座っている女生徒たちのあちこちからすすり泣きが聞こえてきた。

 

 「やがて“ふるさと”の歌が始まったんです。だれが歌い出したか知らないけれど、みんながだんだんと声をそろえ始めてね。けんめいに歌ったものです」。宮城さんは懐かしそうに当時を思い出し、板良敷さんの話を続ける。

 

 「彼女は一人娘でね。私と同級生。とってもきれいなかたでした。“もう一度親に会いたい”という声を思い出すと胸が締め付けられるようです。本当にかわいそうです」

 

 いよいよ最期だということで、その夜、比嘉三津子さんという先輩の1人が持っている米をみんなの前に広げた。「ごはんを作ってあげるからね」と言い、再び米をかき集めて飯ごうに入れた。そしてアダンの葉のようなものを燃やして炊いた。

 

 「古くなった米でね。カビ臭くなっていました。それを塩水で炊くもんだからとても食べられたものじゃありません。でも、とってもひもじかったですからね。炊けたごはんを比嘉さんが“食べなさい”とみんなの手に少しずつ分けてくれました。みんなはそれを泣きながら口にしましたが、もう臭くて嫌な味。私だけはどうしても食べ切れず、もったいないと思いながらも残してしまいました」

 

 車座になって話していたみんなは近くに小さな穴を見つけ、そこにもぐり込んで体を横たえた。「疲れ果てていたはずですが、ろくろく眠られなかったですね」と宮城さんは振り返る。

 

 間もなく夜が明け、日差しがまぶしくなった。昨夜入り込んだ穴は意外に小さかったようで、窮屈だった。「私と3年生の比嘉初枝さん、それに平良先生の3人がその穴からはみ出しちゃったんです。突っ立ったような格好になってしまって…」

 

 3人の姿は、近くまで来ていた米兵からまる見えになってしまった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年4月11日掲載


[85]女学生の集団自決(5)避難した穴銃撃

出口に倒れる師範生たち

 

 仲間が方を寄せ合っている岩穴からはみ出してしまった宮城喜久子さんは、前方の海で銃撃される日本兵の姿を見た。

 

 「米軍の艦船が相変わらず投降を呼び掛けている時でした。“早く泳いでこい”とか“泳いできたものは助けてやる”とか叫んでいたんでしょうね。それを聞いて近くにいた日本兵の1人が上陸用舟艇に向かって泳いでいったんです。そしたら、その後ろから“憶病者”とばかりに別の日本兵が狙い撃ち。弾は命中、泳いでいた日本兵の周りはみるみる真っ赤に染まっていきました」

 

 日本兵が同じ仲間の日本兵を撃ち殺す―。そういった生々しいシーンも宮城さんは「無感覚で見ていられた」と言う。「連日の戦禍で神経がマヒしていたんでしょうね。あんな恐ろしい場面にも平気なんですから、戦争とは怖いもんだとつくづく思います」

 

 撃たれたのは朝鮮人の軍属のようだった。「軍服が普通の日本兵と違ってラフな感じでしたから」。当時、日本軍は朝鮮人のことを“半唐人”と呼んで冷やかしていたとかで、宮城さんも「半唐人がやられているなあ」という感じで様子をながめているだけだったという。

 

 ぼんやりしていた宮城さんの頭上に太陽が差し掛かってきた。「もう昼になったのか」。そう思った直後に異変は起きた。

 

 「敵兵だ」。突然、血だらけになった日本兵が大声をあげながら宮城さんらのいた岩場に駆け込んできた。はみ出ていたのは3人。平良教諭はとっさに生徒9人のいる穴に強引に突っ込み、宮城さんと比嘉さんの2人は反対側の小さな穴に反射的に潜り込んだ。

 

 同時に、米兵による激しい銃撃が襲ってきた。小さな穴は一瞬のうちに血の海。ほんの数秒、息をする間もなく起きた悪夢を宮城さんは振り返る。

 

 「もう、めくら撃ちだったですね。私たち2人の潜り込んだ穴は師範生のグループが何人かいて、出口近くにいた安富祖嘉子さんという人が即死。口から血を出し“ウーン”と私に寄り掛かってきました。“あっ、どうしたの”って声を掛けているうちに、周りでは上地一子さん、仲本ミツさんといった師範生たちもバタバタと倒れていくんです。すっかり動転してしまいました」

 

 死人が続出する中で、重傷の人たちも「痛いよう痛いよう」としきりに泣き叫んでいる。小さな穴は、うめき声と血の臭いでまさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)の状態。

 

 奇跡的にも無傷だった宮城さんは言う。「私は即死したみんなに囲まれ、助けてもらったようなものです。みんなは私をかばうようにして息絶えていましたからね」

 

 そんな状態だったから自分たち一高女グループの方がどうなったか心配する余裕などなく、その中に飛び込んでいった平良教諭のこともその時は頭になかった。

 

 隣の穴で平良教諭以下10人の仲間が自決しているのを目撃したのは、それからしばらくしてのことだった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年4月12日掲載

 

[86]女学生の集団自決(6)あまりの衝撃に絶句

目前に米兵出現 周辺は級友の死体

 

 「けが人は出せーっ」という大きな声で宮城喜久子さんはわれに返った。叫んだのは師範学校の与那嶺教諭だった。「ハッとしてね。気づいたら手りゅう弾をしっかりと握りしめている。そうだ、私は隣の岩穴にいる一高女の仲間たちと一緒に自決するはずだったんだ、こうしてはいられないと慌てて腰を上げたんです」

 

 米兵によるめくら撃ちで死傷者が散乱する壕の、奥の方の出口から宮城さんは飛び出した。そして、びっくりした。

 

 「銃を持ったアメリカ兵がいっぱい。構わず自分たちのグループがいた所へ行こうとしたら、取り囲まれて銃を突きつけられました。すると、そばにいた比嘉初枝さんが『兼城さん(宮城さんの旧姓)手りゅう弾を下に置いて』って叫ぶんです。どうしようかと考えたのですが、結局アメリカ兵の顔色をうかがいながらそっと手りゅう弾を下に置きました」

 

 米兵はそこで、突きつけていた銃を放してくれたという。が、ほんのひと呼吸おいて宮城さんは心臓が止まりそうになるほどの衝撃を受けた。近くの穴で平良教諭以下、一高女の経理部グループ10人が死んでいるのが目に入ったからだ。集団自決を遂げていたのだ。

 

 「駆け寄って見ると、平良先生が穴の真ん中で倒れている。生徒たちも周りでぐったり。肉が飛び散り、ある3年生の女の子なんかは顔面が血だらけでね。私の頭の中はすっかり混乱してしまいました。あまりのショックで涙さえ出てこなかったのを覚えています」

 

 しばらくぼう然としていた宮城さんはやがて気を取り直し、その岩穴の少し下の方に下りてみた。すると奥の方で、昨夜「お母さんに会いたいね」と言っていた板良敷良子さんをはじめ、4年生の宮城貞子さんや普天間千代子さんといった人たちが倒れているのが見えた。

 

 「その人たちは顔がちゃんと残ったまま息絶えていました。とてもきれいな死に顔でした」

 

 このほか、同じく4年生の宮城登美子さん、3年生の金城秀子さん、座間味静枝さん、浜比嘉信子さん、それに卒業した先輩の比嘉三津子さん、瀬良垣えみさんたちも最期を遂げていた。比嘉さんと瀬良垣さんの2人は“ひめゆり隊”のことを耳にし、途中から仲間に入れてほしいと願い出てきたばかりに、命を落とすはめになってしまった。

 

 浜比嘉さんは宮城さんの一番の仲良しだった。集団自決の前の晩に“敵に捕まったら殺されるから早く死のう”と言ってとてもおびえていたのが、この浜比嘉さんだ。

 

 幼い時に父親を亡くしたとかで、母親が手内職で育て上げ一高女に入れたという。「入学式の日、寮にお母さんが見えられて同じ部屋に決まった私に『娘をよろしくね』と頼まれたのを思い出します」と宮城さん。

 

 「お母さんは娘だけを頼りに生きていたらしく、終戦直後に娘が戦死したことを聞き、間もなく南米のアルゼンチンに渡って行きました」

 

 その母親が5年ほど前、30数年ぶりに一時帰国した。宮城さんの案内で、娘の戦死した糸満荒崎海岸を訪れた母親は「沖縄に帰るとどうしても娘のことが思い出されてたまらなくなるから、ずっと帰ってこれなかった。でも、初めて戦死場所でお参りできてホッとした」と言葉少なに話していたという。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年4月15日掲載


[87]女学生の集団自決(7)今も体に残る銃弾

冬の寒さに痛み走る

 

 級友たちの集団自決現場を目撃、ショックを受けていた宮城喜久子さんは、再び銃を持った米兵たちに取り囲まれた。そして、大事に持っていた万年筆を「オミヤゲ」と言って取り上げられた。

 

 「それは石川先生から預かっていた大事なもの。前の晩、身辺整理をした時にも捨てることができず、ポケットへしまい込んであったものでした」

 

 宮城さんはこう言って、悔しい思いをした当時を振り返る。「アメリカ兵は白人でもないし、黒人でもない。メキシコ人みたいな感じですね。顔だけは今でもはっきり覚えています。それと“オミヤゲ”とはっきり日本語で言ったのが印象的。“ヘイッ、スクールガール”とも言っていました」

 

 何人かいた女の子たちはおかっぱ頭にそろいの服。学徒隊であることを既に聞いていたのであろうか。「アメリカ兵たちに冷やかされているうちに涙があふれ出して、もうどうしようもなくなったんです」と宮城さん。

 

 泣いている間も米兵らは岩陰から負傷している人たちを次々と運び出していた。見ると、顔見知りの女生徒が近くで死んだようにぐったりしている。そこへ米兵が注射器を持って近づき、その女生徒の腕にうとうとした。

 

 「殺されていまう」。一瞬、宮城さんは飛び上がらんばかりに驚いた。注射しようとしているのはどうも衛生兵らしい。「針が入らない」とか言って何やら騒いでいる。

 

 「アメリカ兵に捕まったら八つ裂きにされる、としか教えられていませんからね。衛生兵とはいえ怖くて見ていられなかったんですよ」

 

 そうしていると、同じく近くにいた先輩の1人が「私が代わりにやりましょう」と言い寄り、注射器を衛生兵から奪い取って女生徒にうったという。「結果的にはそれで助かったんじゃないでしょうか」

 

 命拾いしたその女生徒から戦後聞いたことを宮城さんは話す。

 

 「彼女はその時、意識がもうろうとしていたそうです。あちこらけがしていて…。今でも体の中には弾が残っており、寒い冬になるととても痛むんですって。そこをどこかにぶつけた時、中で引っかかるのがよく分かるそうですよ」

 

 荒崎海岸から宮城さんは糸満の街まで歩かされることになった。けが人をおぶってアダンの木々をくぐっていった。炎天下だった。

 

 「本当に初めて太陽を振り仰ぎましたね。太陽の下を大手を振って歩くという気分にはとてもなれませんで、時には弾も飛んでくるなど異様な感じでした」

 

 後からは銃を構えた米兵が付いてきた。時折、持っていた水筒を差し出しては「飲みなさい」という感じで声をかけられる。宮城さんが「イヤッ」と顔をそむけると、「ノーポイズン」と説明するような目をして言うのだった。

 

 「毒は入っていないから安心しろ、という意味だったんですね。でもその時は全く意味が分からず、ほかにもガムとかいろんなものを出されたんですが、みんな“いらない”と言って断ったものです。のどはカラカラ、腹もペコペコでしたけれどね。絶対にもらわないという気持ちで、むきになっていました」

 

 そしてフラフラしながら歩き続け、やがて糸満にある大きな収容所にたどりついたという。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年4月16日掲載

 

[88]女学生の集団自決(8)級友たちがふびん…

水とおにぎりで供養

 

 糸満のはずれにあった収容所内は避難民でいっぱいだった。住民はほとんど死んでしまったとばかり思っていた宮城喜久子さんは、彼らの前を歩きながらとても不思議な気持ちがしたという。

 

 「自分だけが生き残り、捕まってここに連れてこられたとばかり信じていたので目を丸くしたものです。そこではみんな何かしら食べている。身なりはあまりよくないけれど、座って何やらおしゃべりしている人も。金網があって、その中にフンドシ1枚の男たちが入れられていたのも覚えています」

 

 やがて日が暮れ、宮城さんもそのまま地べたに横になり、体を休めた。肌身離さず持っていた日記帳によると「昭和二十年六月二十一日の晩」と書かれている。

 

 夜中になって、同じく収容所に連行されていた与那嶺教諭が宮城さんを呼び寄せ、小声で「あとでいろいろ調べられるだろうけど絶対に学徒隊員だったと言うな。ただ生徒だったとだけ言うんだ。看護隊だったことが知れると大変な目にあうからね」と強く口止めした。「そのことがとても印象に残っている」という。

 

 間もなく宮城さんは糸満から本島北部の久志地区まで移動することを命じられ、そこまでの長い道のりを歩かされた。「それからは孤児同様の日々。周りからはかわいそうにと言われていました」と当時を振り返ってにが笑いする。

 

 最初に仕事をさせられたのは米軍の病院だった。負傷している民間の人たちの手当てを手伝っていたが、その後、各地の収容所を転々。真栄原地区までやって来た時に父親を見つけ、思わぬ家族との再会になった。初めに収容されてから実に3カ月目で、9月になっていた。

 

 戦後、宮城さんは何度か糸満荒崎海岸の集団自決現場を訪れているが、その度に水とおにぎりを抱えていく。

 

 「自決した級友たちの最後の食事は潮水で炊いたごはん。それもカビ臭くなったお米でね。だから、おにぎりをいっぱい岩陰に供えてお参りするんです。たくさん食べてちょうだいって言ってね」

 

 戦後、結婚して子どもにも恵まれた宮城さんは「私なんか幸せです。楽しいはずの青春時代は奪われましたが、生き延びたあとで少しは人生を取り戻したと思っていますから。それだけに若くして生涯を終えた級友たちがふびんで…」と無念な表情を見せた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年4月17日掲載



[89]女学生の集団自決(9)短かった青春時代

32人の同級生を失う

 

 戦前、父親が美里村(現沖縄市)で教員をしていた宮城喜久子さんは、地元の美東小学校に入って6年生までをそこで過ごした。やがて県立第一高等女学校へ入学が決まり、親元を離れて那覇へ。安里にあった「ひめゆり学寮」に入って4年間の寮暮らしが始まった。

 

 「一高女は県下各地から生徒を募っていたので、都市部だけでなく田舎の人が結構いたんです。私も通学するには少し距離があったので寮住まいに踏み切りました」と宮城さん。

 

 寮は南、中、北の3寮に加え、別寮というのがあって当時としてはかなりの規模。全部で20室くらいあり、1部屋の広さは30畳ほどだったというから「ものすごく伸び伸びできた」という。

 

 併置校だった沖縄師範学校の女子部にプールなどがあり、設備面でも当時としては随分と恵まれていた。

 

 「いろんな面で恩恵を受けました。併置校というのはユニークで、うちの校長は師範の部長、というふうにかなり交わりがあったようです。だから仲宗根政善先生は師範の先生でありながら、私たちも国語を教えてもらい、恩師に当たるんですよ」

 

 国語といえば、宮城さんは小さいころから読書が好きでいつも本を手にしていたという。沖縄戦に駆り出されてからはそんな余裕はなくなったが、一度だけ本を読んだことがあったのを記憶している。外国の、それも“敵国”アメリカを舞台にしたものだった。

 

 「だれかが“風と共に去りぬ”をどこからか拾ってきて、みんなで回し読みしていたんです。確か岩波文庫の本だったと覚えています。ワイワイ言って騒いでいると、威厳のある兵隊が通りすがり“学生さんどんな本を読んでいるの”って声を掛けられたんです。もう、みんなびっくりしてね。すっかり顔がこわばってしまいました」

 

 当時は「鬼畜米兵」と言っていた時代である。女生徒たちもさすがに自分たちの手にしている本が見つかってはまずいことを知っていた。

 

 「でもその兵隊さんは少しもとがめるようなことは言いませんでしたよ。その人が牛島司令官だったことは後で知りました。周りで見ていた若い兵隊たちも“おおアシュレー”と叫んだりしてふざけ合っていました。その兵隊たちも間もなく前線に向かって行って戦死したようですが…」

 

 昭和20年春、沖縄戦が始まった時に最上級生だった宮城さんは、この戦いで32人の同級生を失っている。

 

 「私たち4年生は本当は42期生。ところが生き残った人たちの間では“43期”ということにしているんです。42は死に番号。縁起が悪いということで勝手に変えちゃったんですよ」と宮城さんは言っていた。(第2部 おわり)

 

(「戦禍を掘る」取材班)1985年4月18日掲載

 

 

  1. 宮城 喜久子さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス
  2. 戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 若者が語り継ぐ沖縄戦 – QAB NEWS Headline
  3. 元ひめゆり学徒隊・語り部の宮城喜久子さん死去 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス