「二中通信隊無線班」琉球新報 戦禍を掘る (1984)
「二中通信隊無線班」琉球新報 戦禍を掘る (1984)
飛行場建設にも動員 ~ 士官学校にあこがれる
諸見里安弘さん(55)=沖縄市美里=が県立二中に入学したのは昭和17年。「海軍式の制服は国防色の学生服に変わってはいたが、白いゲートルまで陸軍式の巻き脚半に変わっていた」と当時を振り返って言う。
それでもまだ入学当初は授業も正常に行われていたから良い時代だった。ただ、初めて見る軍事教練の授業光景には驚いた。「先輩たちが銃を手に隊列を組んで歩いている光景は小学校では考えられなかった」
二中には名物の教練教師がいた。グラー先生とあだ名のついた大城有先生。年配の先生だったが、“ウチナー・ヤマトゥ口”での授業は生徒たちには有名で、諸見里さんにとっては前校長だった志喜屋孝信さんとともに郷里・具志川の先輩ということで、とりわけ親しみがもてた。
「ヤマトビトバカ(大和人墓)のメメグヮ(穴=ミーミーグヮー)めがけて突撃っ」の掛け声や、「ヤレバデクル」の口ぐせは、ピンと張りつめた教練の授業の雰囲気をほぐした。
2年になると勤労奉仕作業が多くなってくる。3年には学園生活の3分の2が作業という状態にまでなった。天久台やガジャンビラの高射砲陣地に駆り出され、1カ月泊まり込みで読谷飛行場の建設にも動員された。壕掘りなどは、あまり多すぎて、どこを掘ったかも覚えていないほどだ。
「労働は疲れたが働く喜びはあった。皇国のため天皇のため自分の体をささげるという意識を持っていた。日本が外国にいじめられ、この戦争はやむにやまれぬもので、存亡にかかわるものだと教えられた。“鬼畜米英”への恐怖心と怨念(おんねん)があり、銃を持つことにあこがれ、できない者は後方で尽くすという心構えができていた」。学園内から陸軍士官学校や海軍兵学校、あるいは予科練に進む先輩が多く、後輩たちのあこがれの目が注がれた。
19年のある日、諸見里さんが学校に行って見ると数十人の兵隊がぬれねずみになって武道場にいた。不思議に思ったが、それ以上のことは知らなかった。それが、南方へ向かう輸送船団が久米島沖で撃沈されたものであることなど「軍事機密」の名で生徒らの耳まで入ることはなかったからだ。
10・10空襲の日の朝、諸見里さんは那覇港付近のものすごい爆発音を聞きながら学校に走っていた。その日、天久台の陣地構築に向かおうとした時から大空襲が始まった。学校には同じように心配して駆けつけた教師や生徒らが既に集まっていた。
「消火に行こう」―誰かが言うと、すぐに話はまとまり、十数人の生徒が空襲の街を駆け出した。だが、空襲は少年たちの手では、どうしようもないほど激しいものだった。泉崎付近まで来ると一面火の海になっていた。
やむなく学校に引き返すと、教師は生徒らを城岳の壕に避難させた。そこには付近の住民らも逃げ込んでいた。初めて体験する大空襲に、不安の表情で過ぎゆくのを待った。
二中の校舎が焼失したのは午後になってからの空襲でだ。校舎が燃えている最中にのぞいて見たが、消火作業は困難だった。わがもの顔で襲って来る米軍機の前に、ただ身を潜めて校舎が燃え落ちるのを待つしかすべはなかった。
空襲が去って後の学園は二中記念会館が形をとどめているだけで、すべてが焼き尽くされていた。周辺のうっそうとしていた緑もなく、面影をとどめないほどに痛めつけられている。焼け跡にポツンと立つ記念会館は、むしろ哀れさを増した。がれきの山を前に、諸見里さんの目にはくやし涙があふれていた。
(「戦禍を掘る」取材班)
1985年1月17日掲載
至近弾で負傷 ~ 那覇港埋め尽くす米艦船
焼け残った二中記念会館で、通信隊への入隊テストが行われたのは昭和19年も間もなく終わろうとするころだった。諸見里安弘さんら3年生と、1級下の2年生が対象だった。
「テストの前に県出身の砂川大尉の訓示を感激して聞いた記憶がある。突然のテストだったと思うが、軍隊にあこがれていたので親にも相談しなかった」
数日後には合格通知があり、年明けには入隊するように命じられた。親の許可が必要だったが、具志川で国防婦人会の会長をしている母親は反対するはずもなかった。それと「サイパン玉砕」の報は、諸見里さん一家に、米軍への憎悪をみなぎらせていた。「サイパンで事業をしていた父親の仇を討ちたい」という気持ちも強かった(実際には父親は生きていたのだが…)。
入隊先は62師団通信隊(石3599部隊)の無線班。首里赤田にあった教会で入隊式があり、30人ほどの二中生がそろった。新しい軍服が支給され、3年生には旧式だが38式銃もあった。クラスでいつも低い方で、150センチにも満たない諸見里さんには軍服はダブダブで、銃はまた重かった。それでも軍服は体に合うように修理して着ることができたから、襟の赤地の上で光る一つの星の誇らしさの方がまさっていた。
「軍隊に入ってから、勤労奉仕のような肉体労働からも解放され、食事も豊富だったから楽しかった」。時折、壕(ごう)掘りの応援があるくらいで、毎日が通信訓練。トンツー、トンツーのモールス信号を早く打てるように古参兵たちからの厳しい教育が続いていた。
やっと古参兵たちの半分ほどの技術までになったころ、沖縄戦は始まった。3月末ごろになってから首里も砲撃を受けるようになり、近くの壕に部隊は移動する。生活もその日から変わった。
無線通信は諸見里さんら生徒の技量では、まだ及ばなかったから、飯上げと手動発電機を回すことが主な仕事だった。2人1組の2組が交代で通信機のハンドルを回すのは疲れる作業だ。時には壕入り口から100メートルほど離れたアンテナとを結ぶ線が切れることもあったから、それをつなぎに行く危険な任務もあった。
そんな中で飯上げだけは楽しみの一つだ。何よりも暗くて臭気の漂う壕内から出て、外の新鮮な空気を吸えるから喜びは大きかった。特に初めのころは、艦砲も頭上を通過するだけだったから、危険も少なかった。
高台にあったので、艦砲のやむ
夕方からは那覇港や中城湾が望めたが、視界に入るのは二重に取り巻いた米艦船だけだった。そこに向かう特攻機も何度か見たが、艦船から花火のように出る何千、何万発もの米軍の火器の前で、多くは途中で散っていった。たまに“体当たり”に成功、船から大きな火柱が上がった時、「バンザーイ」の声をみんなと上げたが、悲しさもこみ上げてきた。諸見里さんが通信班学徒の“負傷第一号”となったのは至近弾も激しく落ち始めた4月26日のことだ。その日の夕方、二中出身で南部から来た高良さんという初年兵と炊事当番の時だ。飯ごうを洗い、途中、民家の石垣に休んで、いつものように米軍の艦船で埋まる海を見たころまでは何も変わることはなかった。
壕に向かい、あと数歩で入り口まで来た時、突然、ドカーンという音。目の前が真っ暗になり、土が降って来る。入り口付近からは悲鳴が聞こえてきた。前の先輩は「ウーン」とうなったままだ。
衝撃で前にいた先輩に当たった諸見里さんは夢中で起こした。爆発の音に壕内から兵隊らが飛び出して来たので、先輩を運んでもらい、諸見里さんは散り散りになった飯ごうを集め出した。数歩歩くと、左足が焼けた鉄の棒をくっつけたように熱い。見たら血だらけだ。肉がめくれ砕けた骨も露出している。途端に意識を失った。
医務室で気がついた時には、太モモを締められた左足は天井からつるされていた。隣で胸や足に破片がささっている先輩がうなっている。その時の砲撃で、歩しょうは即死だった。たまたまトイレに入っていた兵隊もアゴをやられていた。その兵隊と先輩は翌日の晩、陸軍病院に移されたが、諸見里さんは重傷のまま壕内で1カ月ほど暮らす。
(「戦禍を掘る」取材班)
1985年1月18日掲載
味方同士殺し合い ~ スパイ容疑で首はねる
諸見里安弘さんが負傷する以前の4月20日ごろ、通信隊の壕に、1人の少尉が逃げ込んで来た。浦添方面から撤退して来た将校だったが、入り口で捕らえられ翌日の夕方、「戦線から脱走したスパイ」として処刑された。
丘の上にいた歩哨が見た少尉の行動は、確かに普通ではなかった。
白旗を掲げながら米軍機に追われ逃げ回っている。そして、通信隊の壕にころがり込んで来たのだったが、入った途端に米軍の砲撃が始まったのだと言う。掲げている白旗の布地も、米軍の落下傘のものだったのか、見たこともないものだった。
尋問後の結論は「敵に陣地を知らせたスパイ」。壕の前にできた砲弾の穴で処刑された。ピストルで撃たれ、日本刀で首をはねられたことを、諸見里さんは壕内で聞かされた。「まだ敵と交戦もしないうちに味方同士で殺し合いが始まったことが痛ましかった」
今となっては、事実を知ることはできないが、諸見里さんは「憶病な行動がスパイに間違われたのではないか」と言う。
激戦となった浦添の戦闘―国家の存亡をかけた戦いであろうと、目の前で繰り広げられる殺りくの応酬に耐えられなくなり、逃げ出した将校がいても不思議ではない。だが、「身を鴻(こう)毛の軽き」に置くことを教え込まれた時代には許される行為ではなかった。そしてまた、“スパイ”としての容疑こそ、「神州不滅」を信じて戦っている者たちが、不利な戦局を理解する最も容易な方法だった。
◇ ◇
負傷した諸見里さんは、1カ月余を壕内の医務室で暮らした。軍医はおらず、衛生兵が治療した。治療といっても、しばってヨーチンをつけるだけだから、負傷した左足は倍に膨れ上がった。熱も出て食事もできない日も続いた。
医務室にいる間に戦況は急速にひっ迫していた。首里付近も米軍の標的となりはじめ、艦砲が激しくなる。
4月末ごろ、二中の無線班から最初の戦死者が出た。同期生の安慶田茂さんだった。「越来の人だったから学校の往来に一緒になることも多く、残念で仕方がなかった」。それとともに「負け戦のような重圧感で悲しかった」。安慶田さんが、2階級特進としたことは同じ学徒兵から聞かされた。その後も学徒の戦死が相次いだ。
4月上旬ごろ、戦艦大和が沖縄に出撃したことを無線で知り、壕内は期待を大きくしていたが、一向に戦局は好転しない。ジリジリ追い詰められていく。「戦艦大和の沖縄出撃はどうなった」「大本営はどうした」―裏切られた思いが壕内に充満した。4月7日、大和が沈没させられたことなど知るよしもなかった。
無線班には諸見里さんの1期後輩で、縁故のある上原安栄さん(54)=沖縄市上地=もいた。5月下旬ごろ、“決死隊”が募られた時、希望したが、「背が低い」とハネられた。
「10キロ爆雷を背負って戦車に体当たりするのが任務だった。学生から20人ほどの希望者が募られ、“一人一戦車”を実行する予定だった。私は断られたが決死隊もどういう理由かわからないが中止になった」。上原さんは暗号班や有線班に配属された同級生らがすでに数多く死んでいることを聞かされていた。
5月末になると、南部への撤退命令が出される。間断ない艦砲をくぐって撤退は容易でない。ましてや重傷を負っている諸見里さんにとっては、死の淵をさ迷いながらの撤退となる。
(「戦禍を掘る」取材班)
1985年1月21日掲載
歩けないと自決 ~ 取り残される恐怖、孤独感
戦線が首里まで迫った5月末に、諸見里安弘さんらの石部隊通信隊は南部に撤退することになった。
壕内に10人ほどいた負傷兵に向かって中隊長はこう言う。「これから山城に向かって撤退する。もしも歩けるのならついて来い。歩けないなら自決しなさい」。手りゅう弾1個が配られた。ほかに靴下いっぱいの米と、2袋の乾パン。
諸見里さんともう1人、1等兵が歩ける状態ではなかった。中隊長の言葉は2人に自決を強要しているように聞こえた。「取り残される恐怖と孤独感があった」
だが、中隊長は2人に付き添いをつけてくれる。「今でも感謝している。ほかでは見捨てられた例が多いが、どういうわけか、私には桜井という上等兵、1等兵には初年兵をつけてくれた」と言う。
1カ月ぶりに出た壕の外は梅雨の真っ盛りだ。雨と同じくらいに砲弾も降って来る。見なれた丘も消えるほど地形も変わっている。ぬかるみは何度も諸見里さんの足を取り、転倒させた。桜井上等兵の作ってくれたつえも役に立たない。
下りの坂道は尻をついてすべることはできたが、上ることはできない。識名に向かう途中にある10メートルちょっとの川幅を越すのに時間がかかった。「2、30分ぐらいか1時間かわからないが、ものすごい時間が経過したように思う」。それでも道端に倒れていた死人の群れの中に自分も入るのかと思うと、生への執着がわいて来た。
「川を越えたと思ったらすぐに上り坂。やっと上ることができたが、疲労困ぱいして眠たくてしようがない。もうどうでも良くなって、桜井上等兵に『自分を残して先に行って下さい』と言うと、『バカ、ここで死んでどうする』と眠ろうとするたびにビンタを張り、近くの集落まで連れていってくれた」
雑のうに入れてあった乾パンや米は、ぬかるみをはっているうちに泥まみれになっていたが、それをなめながら進んだ。「途中、陸軍病院(一日橋分院?)に1泊したが、まだ学徒看護婦が残っていた。その時、女学生からおにぎりをもらい、うれしかった」
真壁の近くではグラマンに追われた。土手になった一本道を歩いているうちに夜が明けた。周囲はイモ畑で隠れるとろこもない。「もうダメだ」と思った。右手からグラマンの機銃が襲って来た。とっさに左側の斜面に隠れたが、今度は引き返して左側から襲って来る。あわてて右側の斜面へ―。「しつこいグラマンで5、6回繰り返したが、最後は根負けしたのか、死んだふりがきいたのか、ようやく引き返した」
「でも、そのあとに避難した民家では、黒砂糖を見つけ、数カ月ぶりに床の上で寝れた。九死に一生の喜びと重なって幸福感にひたることができた」
途中、民間人に銃剣を突きつけ、壕から追い出そうとする兵隊の姿も見た。日本軍の武器は弱い住民に向けられることが、そのころには多くなっていた。
部隊には山城のすぐ手前にある波平で合流した。すでに1週間が過ぎていた。壕はなく分隊ごとに石を積んで、枯れ木などでカムフラージュ、潜んでいた。だが、そこは戦争などは無縁と思えるほど静かだった。
日中は何もやることがないから、毎日、傷口にわいたウジの動きを見ていた。ウジはかゆいところもかいてくれるし、傷口も治療してくれる。カズラの葉を張るぐらいだったが、ウジのおかげで、足のはれもひいて歩けるようになっていた」
静かな日々も長くは続かない。間もなく首里での光景が再現される。それは終局に向けて、もっとすさまじい形で襲いかかって来るのだった。
(「戦禍を掘る」取材班)
1985年1月22日掲載
間近に銃持つ米兵 ~ “次の事態”皆が予期
波平では2人の二中学徒隊が戦死した。1人は諸見里さんの1期後輩だった。波平にもえい光弾が激しく降り始めたころ、直撃を受けて即死だった。井戸端に倒れた死体は頭の半分が吹っ飛ばされていた。その数日前、二高女に通う姉と戦場で再会している姿を、同じ二高女に通う姉を持つ諸見里さんは、うらやましげに眺めていた。
もう1人は同郷の親友、天願兼治さんだった。諸見里さんは「私たちの分隊は石積みの“壕(ごう)”だったのに天願君らは反対の北側斜面で岩の裂け目を利用して、いい“壕”だった」と言う。
しかし、米軍は反対側の斜面から攻めて来た。戦車から発した砲弾が直撃、岩石はひとたまりもなく崩れ落ち、全員が戦死した。
◇ ◇
成人の日の15日、諸見里さんは、波平を訪ねてみた。南側に広がる海を眺め、「あの海がどんなに憎らしかったことか」とつぶやいた。切れ目なくつながる米艦船の姿が、まだまぶたに生々しく焼き付いている。
やっと見つけた井戸は当時のままで残っていた。「これだ!この井戸だ。命をつないでくれた水だ」とすくい出し、手のひらでゆっくりところがした。艦砲のやむ夕暮れ時には、2、30人の人が周囲から水くみにやって来た。そしてまた井戸の周辺には、死体もるいるいと横たわっていたという。
親友の天願さんの戦死した現場は岩肌もむき出しにしていた。当時のもようを細かく説明していた諸見里さんが急に口を閉ざしてしまった。ゆっくりと手を合わせ、黙り込んだまま丘を見つめていた。しばらくして振り返ると、ハンカチが幾度も目にあてられた。
◇ ◇
米軍の猛攻が始まると、諸見里さんらの部隊は、さらに山城へと撤退する。そこに到着して間もなく、牛島中将の自決を知ったというから6月も下旬になっていた。
「山城の壕は陣地壕で、入り口は5カ所があった。そのころには足も回復していたので、壕内はもちろん、たまには壕外にも伝令に出た」。すでに、壕には他の部隊がいたが、割り込むように諸見里さんらの部隊も入った。壕内の壁側に並んだ2段ベッドには、負傷者がうごめいていた。
2、3日後には米軍が壕の目前までやって来る。兵隊や学生らの混成隊30人ほどが壕入り口付近で2度にわたって応戦した。機関銃や迫撃砲の米軍に対し、小銃での交戦は、はるかに戦力の差があった。
諸見里さんの1期後輩の上原安栄さんは戦闘隊長の伝令として現場にいた。「壕の前の丘をはさんでの戦闘だったが、午前10時ごろから始まって午後2時ごろには全滅状態だった、藤田少尉が『壕から応援を呼んで来い』と言うので戻ったが、壕入り口には戦車砲が盛んに飛んで来た」と言う。
壕入り口は1人がやっと通れるぐらいまで崩れ落ちていた。応援部隊とともに上原さんが引き返した時、藤田少尉の姿はなかった。銃を持てないほど体の小さかった上原さんは岩のくぼみに隠れ、戦闘を見守った。そこから見えるものは、岩と岩を移動する間に次々と倒れていく日本兵の姿だった。
戦闘は夕方には終わった。米軍が引き揚げたからだ。丘の木立ちに生き残った者5人が集まって来た。1期上の大城盛進さんもいる。壕の方を振り向くと上の方で、上半身裸の米兵らがいる。「真っ赤な肌でほんとに鬼畜米英だと思った」
米兵は馬乗り攻撃を仕掛けて来る。壕に戻るのも危険だ。5人の出した結論は自決だった。
5人は輪になり、迫撃砲の信管まで抜いた時、だれかが言った。「国頭はまだ優勢だ。1人でも残ればお国のために尽くせる」。信管はすぐに元に戻され、壕内に引き揚げた。薄暗い壕内には、米軍の削岩機の不気味な音が響きわたっていた。次に来る事態は、だれにも予想できたが、なす術(すべ)は何ひとつなかった。
(「戦禍を掘る」取材班)
1985年1月23日掲載
収容所に向かう1時間に ~ 無数の死体見る
2段ベッドに横たわる傷病兵らに自決命令が出された時のことだ。自決に使われるはずの手りゅう弾を、傷病兵が斬(き)り込みに向かう一隊に投げつけ、数人が死んだ。諸見里安弘さんは「私も首里で負傷、撤退する時に『自決せよ』と言われており、傷病兵の気持ちは分かるような気もした」と言う。
上原安栄さんらが壕(ごう)に戻って、しばらくすると削岩機の音はやみ、ドカーンという轟(ごう)音が響いた。壕内のあちこちには死傷者が出る。うめき声が聞こえて来る。
5カ所あった壕の入り口は4カ所が砲撃でふさがれていた。残る1カ所から米軍は火炎放射器で攻めて来る。壕内の支坑の松や寝台が燃え、硝煙のにおいも立ち込めた。防毒面をつけた集団が真ん中の壕入り口付近に集まり、みんなで開け始めていた。
その時、上原さんは意識を失い倒れた。「防毒面をしようとしたら、麻酔が効き始めたような感じでいつの間にか意識を失っていた」
壕入り口がやっと開いた。中隊長は「皇国が負けることはない。1人でも多く斬り込みに参加、思い思いの場所で名誉ある最期を遂げるように」と訓示、部隊の解散を告げた。
防毒面をつけた諸見里さんが周囲を見回すと上原さんが見当たらない。壕内をかけずり回った。「助けてくれ」「水をくれ」と、弱々しい声がどこでも聞こえ悲愴(ひそう)感が漂った。死体がいっぱいあるため踏みつけなければ進めなかった。「だれだ、おれを踏みつける者は」との声も聞こえたが、かまわずに進んだ。
壕入り口まで運ばれた上原さんが意識を回復したのは脱出の直前だった。
2人が壕を出て右の方に進んでいくと、暗やみに人影が見えた。近くまで追って行った時、日本刀が光り、「ついて来るとぶったぎるぞ」と追い払われた。やむなく引き返すと、教育主任だった吉田曹長の一隊に出会い、行動を共にする。
14人の一隊は、その晩斬り込みを行うが、機銃掃射に遭い、ほうほうの体で引き返す。歩哨を1人やっつけたという話だったが、反撃がすさまじく、照明弾が上がる中、腹ばいで引き返す一隊の背中の上を、ヒューヒューと機銃弾が幾度も通り過ぎて行った。
夜明け前にたどりついたのは海の見えるキビ畑の中だった。諸見里さんと上原さんは一隊から少し離れ、キビ畑の隅の方に腰掛けた。壕を脱出する時、倒れていた米兵の背のうに入っていた容器を開けるためだった。「見たことがないもの。しかし、カギ型のオープナーの缶詰を一度見たことがあり、缶詰かもしれないという半面、爆弾かもしれないとの怖さもあった」(諸見里さん)
爆弾であれば2人は即死だ。緊張しながらゆっくりと容器を開けると、プーンといい香りが漂った。上原さんは「今考えると、あれはジャガイモとコンビーフ。あんなうまいもの食べたこともなかった」と言う。
2人が夢中で缶詰を食べているころ、キビ畑は米軍が包囲していた。キビ畑の中で1人が目をさまし、米兵を発見、銃を構えた途端、周囲からの乱射が始まった。中から聞こえた悲鳴は間もなくやんだ。銃声がやんだ時、手を上げて助かったのは2人と、二中生の山城寛則さん、志良堂さんの4人だけだった。
4人は袴(こ)下1枚にされ、頭に手を乗せたままで並ばされた。米兵はうめき声を上げている者にとどめを刺した。北海道出身で色白の吉田曹長も戦死していた。二中同期の比嘉さんも中にいるはずだった。
4人の方に戻って来た米兵は英語でペラペラ話しかける。無言でいると胸に銃を突きつけられた。とっさに諸見里さんが「アイ・キャン・ナット・スピーク・イングリッシュ」と答えると、諸見里さんの前にやって来て笑顔で話しはじめる。分からずに黙っていると怒り出して、銃がこめかみに向けられた。
「スクールボーイ」と山城さんが言うと、そこに集まる。何か言っているが、やはり分からない。その時、諸見里さんは人数を聴いているのではと思い、「テン・フォー(14人=フォーティーン)」と言うと、またやって来る。仕方なく地面に足で「14」という数字を書くと、やっと理解してくれた。
収容所に向かう1時間、道端には死体の山がいくつも築き上げられていた。
(「戦禍を掘る」取材班)
1985年1月24日掲載
収容所に送られる ~ 何食わぬ顔の上官に立腹
諸見里さんら捕虜となった二中生4人は、近くの米軍のキャンプまで連行される。米兵が集めた日本兵の武器を担がされたが、諸見里さんは米兵らの無線機まで背負わされ、1キロほどを歩かされた。
数日も食事らしいものをとってなかったから足元もしっかりしない。そんな状態にありながらも上原安栄さんは逃げることばかりを考えていた。堀割りのある所へさしかかった時、「逃げよう」と今にも走り出しそうに言う。それを制止したのは諸見里さんだ。「体も弱っているし、米軍の銃器の威力も見ているから、『今に機会がある』と制止した」
キャンプでは、国頭出身の2世が食べるのを見て初めて安心、口にしたチョコレートで一息ついたが、すぐに伊良波の収容所に送られた。
収容所に向かう途中、諸見里安弘さんらが見たのは道端に積み上げられた死体の山だった。目や口からはウジがわき、牛ほどに膨れ上がった死体もあった。しかし、諸見里さんには捕虜となった自分たちの身の方が、そんな姿よりはるかに惨めに思われた。「生きているのは自分らだけだ」―死者の群れの目が自分らを見つめているようで生きていることが恥ずかしかった。
しかしそんな思いも収容所までだった。おびただしい数の将兵がいる。諸見里さんらの上官だった将校2人も何食わぬ顔で座っていた。そのうちの1人は壕脱出直後に軍刀を抜き、諸見里さんを追い払ったと思える将校だった。無性に腹が立った。
諸見里さんは、そこから嘉手納へ、さらに2、3日して屋嘉の捕虜収容所へと送られる。
屋嘉収容所にいたのも1週間ほどだ。ある日、広場に集められ、トラックに乗せられた。上原さんも一緒だった。荷台に捕虜がぎっしり座らされたトラックが数十台も続いている。
「捕虜が多過ぎるから殺されるんだ」―諸見里さんはそう思ったから無意識のうちに、自分の名前の書かれた帽子を、走っている車から投げた。後にその帽子が母親に手渡されることになるとは、知るよしもなかった。
砂辺海岸で降ろされた。何百人もの捕虜がいる。沖に停泊している船まで上陸用舟艇で運ばれたが、「遺体は海に投げ捨てるつもりだ」と思った。
上船後、すぐにシャワーを使わされる。「体を清めさせてくれた」。さらにDDTが全身に浴びせられた。だぶだぶだったが、白いランニング・シャツとパンツが渡された。続いてスプーン、おわんが渡され、その時にやっと諸見里さんは「殺されるのではない」と安心できた。
だが、その船がどこに向かっているかは知らない。船倉には10段ぐらいのベッドがあった。1日1回の日光浴の時間に甲板に出る以外は、船倉での生活だった。「食事は1日1回、羊の肉の入ったボロボロジューシーだった」と上原安栄さん。
諸見里さんは船がハワイに向かっていることを数日後、日系2世から聞かされた。途中、父親が玉砕したとばかり思っていたサイパンに立ち寄り、めい福を祈ることができたので思い残すこともなくなった。
ハワイに着くとトラックで運ばれたのが、赤土の露出した収容所。みんなは、そこを“アカンチャー(赤土)収容所”と呼んだ。収容所には真珠湾攻撃の時の特殊魚雷艇の生き残りもいると聞いた。上原さんは「『帰らぬ五隻九柱の玉と砕けし真珠湾』と軍神をたたえる歌の中で、2人乗りの魚雷艇がなぜ10人にならないのか疑問に思っていたが、そこで初めて分かった。都合の悪いことは常に隠され、船倉をやっていた」と話す。
身長150センチにも満たなかった2人は、そこで米兵らに「ショーリー(shorty=チビ)」と呼ばれてかわいがられた。
(「戦禍を掘る」取材班)
1985年1月25日掲載
キャンプで沖縄芝居 ~ ハワイ 心の不安まぎらわす
ハワイ・オアフ島のアカンチャー(赤土)収容所で3カ月ほど暮らした。仕事とてなく食事は豊富、栄養失調の体力もみるみる回復していく。米兵らから「ショーリー」と呼ばれてかわいがられた諸見里安弘さんと上原安栄さんにとっては特に快適な日々が続いた。しかし、生死の境をともに行動した2人は3カ月後には別れる。諸見里さんが足に食い込んだ弾片の摘出手術で入院中、上原さんは沖縄に引き揚げていた。沖縄に帰れたのは「少年組」と「フィラリア組(フィラリア患者だけを隔離して収容していた)」。諸見里さんも少年組で帰れるはずだった。
退院して間もなく諸見里さんはアロハ島・サンドアイランドの収容所に移される。「食事が質、量とも落ち、寝るのも4人用テントに折りたたみ式ベッド。毛布1枚で寒いくらいだったが雨の日にベッドから落ちると、ずぶぬれで朝まで眠れなかった」。
強制労働も始まった。飛行場や道路の草刈り。洗たくや炊事などもあった。労働に対する報酬は80セントの日給。食費を差し引き、キャンプ内の売店で使えるクーポン券が支給された。諸見里さんは途中、カネオヘの収容所で診療所勤務もはさんだが、サンドアイランドで多くを暮らした。
収容所で思いがけなく母親の健在を知る。屋嘉収容所から送られる時、トラックから無意識に投げた名前入り帽子が母親の元に届いていた。そしてまた母親の手紙が米兵から米兵、ホノルルにいる沖縄2世の手を経て届けられた。「死んだのではないかとの思いがあったから、生きていることを知り、安心して捕虜生活ができた」。しかし、他の捕虜たちは肉親の安否を気遣っていた。明るく振る舞ってはいたが、やけになっていることは分かった。キャンプ内でのとばくもはやった。
そんな時、米軍から娯楽を許可してもらい、みんながやったのはウチナー芝居だ。玄人が中にいて演技を指導、かつらなど必要な道具は自分らで作った。キャンプ内で演じられた芝居は、素人の演技だったが、捕虜たちにとっては大好評だった。舞台で繰り広げられる一つ一つに、観客は喜怒哀楽をあらわに出した。遠い異郷での捕虜生活―心中に複雑な思いを秘めて舞台に見入っていた。そしてまた金網の外からも涙ながら眺めている人たちがいた。ハワイの1、2世たちだ。金網の内にいる人たちよりも、郷愁の思いは強かった。
作業現場の捕虜たちと接触しはじめたのも、ハワイの1、2世たちだ。初めはMPの目を盗んで、こそこそと会っていたが、やがて大っぴらに会うようになった。親せきの2世からおにぎりや万年筆、時計をもらって来る人も多かった。
診療所勤務をしている諸見里さんは、外の作業に出た捕虜から「諸見里という名の人を捜している1世がいる」と聞かされた。その日、診療所を休み、他の人と代わって外の作業に出た。
作業現場でMPが目を離したスキに木陰に飛び込んで面会した。おにぎりをほおばっている間にも矢継ぎ早に質問を浴びせる。「生まれは」「親の名は」「ムートゥヤー(本家は)」。一つ一つに答えると遠い親せきになっていると言う。
「戦争で沖縄がどうなったか、親せきのだれが亡くなったかを知りたかったが、こっちはすぐに送られて来ているし何も知らず答えることもできなかった」。それでも帰り際には腕にある時計を諸見里さんに上げた。戦時中は逆に収容所で生活した遠い親せきからの温かいプレゼントだった。
諸見里さんが沖縄に引き揚げてきたのは20年11月だ。ハワイに送られた時、くるぶしにかかっていたズボンのすそは、15センチも上がっていた。「成長機に栄養のあるのを食べたおかげ」と言う。母親でさえ集団の中の諸見里さんを捜し出すことができなかった。
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今、医院を開業する諸見里さんは、いまわしい体験を振り返ってこう言う。「生き残った者として同僚や全学徒のみ霊を慰めることが務め。戦争への憎悪、平和の尊さは体で知っている。患者と接する時も、人間の生命が地球より重たいことをかみしめながら診察している」。
取材中、話を中断した諸見里さんが、部屋から大事そうに持って来たのはハワイでもらった時計だった。ネジを巻くと40年前と同じように時を刻み始める。諸見里さんは、40年前を思い出すように、黙ったまま秒針を目で追っていた。
(「戦禍を掘る」取材班)
1985年1月28日掲載
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