琉球新報『戦禍を掘る』 32軍司令部壕

 

琉球新報『戦禍を掘る』 32軍司令部壕 (1984年)

 

泰然と歩く「閣下」~「名前も何も聞くな」

 「エッ、それではあの方が牛島司令官!」。渡名喜(旧姓宮平)文子さん=与那原町与那原=は一瞬全身の力が抜けるようだったという。

 

 何気なく聞いていたバスガイドの説明。まさか自分の体験とバスガイドが語る当時のもようが一致するとは思いもしなかった。渡名喜さんにとって“悪夢”の場所の一つだった摩文仁の壕だったが、その時まで同じ壕にいた「閣下」が沖縄にいる軍隊の頂点に立っていた牛島満中将だとは知るよしもなかった。終戦からその時まで20年近くもたっていたのに…。

 

 「最初から『部隊名を聞くな。名前も聞くな。何も聞くな』と言われ、とうとう知らずに終わった。またいつ死ぬか分からない身ではそんな必要もなかった」と渡名喜さん。

 

 24師団第1野戦病院(山3486)の看護婦だった渡名喜さんは、富盛の壕で部隊が解散となっていた。あてもないまま避難の途中に会った伝令の兵隊に「看護婦ならついて来い」と連れていかれたのが、摩文仁の壕だ。

 

 「8人いてジャンケンで決めた。勝った方なのか負けた方なのかは分からないが…。私のほかに学徒隊の2人。玉城トミ子さんと、そのいとこで“スミちゃん”と呼ばれていた人」という。

 

 連れていかれたのは摩文仁の集落側を向いた壕。入ろうとする渡名喜さんらは「待て!」の声で呼び止められた。「壕の上の方に軍刀を下げた中尉が立っていた。私たちのところに来て、いきなり髪をたくし上げ襟足を見た。『スパイではないな』と言うんです。いまだにわからないが…」。そして「何も聞くな」だった。

 

 頑丈そうな壕の中に入って見て驚いた。少し行ったところに広い場所があったが、そこにはたくさんの将校たちが缶詰箱を前に事務を執っていた。そばにはみんな軍刀を置いていた。「あれだけの将校がいるんで大変なところだとは思ったが、何も聞けないのでただかしこまっていただけ。壕も頑丈だし当分大丈夫だと思った」という。

 

 事務を執っている将校らの近くには壁側に棚が作られ、ベッドになっていた。そこに1人の少尉が熱を出して寝込んでいた。渡名喜さんらの仕事は、その少尉の看病だ。「薬品らしいものもほとんどなかった。水で冷やしたり頭をもむぐらい。岩からたれる水を飯ごうにためて沸かし消毒したが、その注射で一度は悪寒をさせたこともあった。看護の仕事よりも、近くの畑から夜、キビ、イモ、ニンニクなど取って来るのが大変だった。畑は戦死者の死体が横たわり臭くて臭くて」という。

 

 「何も聞くな」と言われて入った壕には、母子らしい女性が2人いた。その2人については軍医が説明した。「首里の医者の奥さんと娘だ」。母親は60歳ぐらいで娘は20歳前後だと渡名喜さんは記憶している。

 

 将校に交じって下士官、兵もいたが、そのうちの1人に県出身の兵隊がいた。「最初に壕の入り口で会った中尉の当番兵らしかったが、いつもいじめられていた。中尉は威張っていて『手入れをさぼった』と言っては靴や刀をくわえさせ犬のかっこうで自分の周りをはわせていた」。ある日、渡名喜さんはその兵隊に耳打ちした。「ウチナーンチュが自分の島でいじめられるとは情けない。何かの用事で出た時に帰って来なければいい。こんな状態だから逃げても戦死したとしか思わないサ」。その兵隊は帰って来なかった。渡名喜さんの言った通りに逃げたのか、戦死したのか分からない。

 

 そんな壕内の生活だったが、ただ1人恰幅のいい50代の将校が泰然と壕内を歩く姿だけは強く印象に残っている。軍服でいることはほとんどなかったが、将校たちはみんな「閣下」と呼んでいた。

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年3月12日掲載

 

一度は自決を覚悟 ~ 壕に米軍の投降勧告

 「閣下」と呼ばれていた将校は、いつも落ち着き払って行動していた。周囲の砲撃が激しくても、やんでも表情は変わらなかった。壕入り口を覆うむしろを払って外を見るのが日課だった。「おお、きょうは飛行機が多いようじゃないか」。“死”が間近までに来ていることをみじんも感じさせないほど泰然としていた。

 

 渡名喜(旧姓宮平)文子さんは、その日が何月何日だったのか、既に記憶はない。突然、壕内にものすごい爆発があり、あとは血のにおいだけが印象に強く残っている。

 

 壕内で将校たちの帽子の記章を直していた時だ。突然、ドドーンという音。そのあと何秒たったか何分たったか知らない。気がついたら、缶詰箱で事務を取っていた人たちのほとんどが死んでいた。「私の隣に座っていた“スミちゃん”も即死だった。私は左の耳が聴こえず、頭を手でたたいても感覚がない」。首里の医師の家族だと紹介された母子は、娘の方がでん部をやられ、その肉がもげていた。

 

 奥の方を見ると軍医が息も絶え絶えに「閣下」のそばにいた。「後生です閣下。けい動脈を切って楽にして下さい」と絞り出すような声で哀願する軍医を、赤子をさとすように「よしよし」「すぐによくなるぞ」と「閣下」は繰り返していた。あぐらをかいたまま語る口調は、泣いているようにも苦しんでいるようにも聞こえた。

 

 20分ほどして軍医は息を引きとった。それを待っていたように「閣下」は立ち上がり軍服を着た。渡名喜さんは、この時初めて見た。やがて副官に命じ、将校行李が二つ運ばれて来る。中にあった書類が出され、そして軍旗もていねいに置かれた。軍服を整えたあと「閣下」の合図で敬礼、書類も軍旗も燃やされた。

 

 “儀式”を終えると、「閣下」が渡名喜さんのところにやって来て、「近くに日本軍の飛行機が私たちを迎えに来ているので私たちは出て行く。迎えに来るまで、あとのことは頼む」と言い残し、部落側の壕口から出て行った。

 

 「その言葉を信じて待っていたが、もちろん迎えには来なかった。きっと私たちを慰めるつもりだったのでしょう」と渡名喜さん。

 

 壕内には傷ついた将校たちも残されていた。その中の1人に右ヒザが動かせないままうずくまっている者がいた。渡名喜さんらが壕に入る時、呼び止められた中尉だ。「最初から威張っていたが、ケガしてあとはもっと大変だった。近くから通るだけでも痛いといて、軍刀を握ったまま通さなかった」。

 

 数日してその壕にも米軍からの投降勧告が聞こえて来るようになった。意識がもうろうとしている将校の1人は夢遊病者のように外に歩き出して行ったのを全員で止めたこともある。

 

 そんな時だ。ヒザを痛めている中尉が渡名喜さんらを集めて「自決する」と言い出した。「(玉城)トミちゃんは『イヤだ』と逃げ回ったが、『どうせ死ぬから』とさとして輪の中に入れた」と渡名喜さん。

 

 渡名喜さんが自決に応じる気になったのは「靖国に行こう」という言葉だったという。看護婦資格を得るため、東京で暮らした時に見た靖国神社―「あそこへ行けるなら」という気持ちが強かった。

 

 医者の家の母と子、“トミちゃん”らと肩を組んで待っている間、その美しい光景を浮かべていた。周囲は砲弾で一木一草もなく、壕で息をひそめる生活のなかでやっとなごめる感じがした。

 

 だが、手りゅう弾はいつまでたっても投げ込まれない。不思議に思って恐る恐る頭を上げると、その中尉が突然わめき出した。「何をしている。早くめしを作らんか」。渡名喜さんは「頭がおかしくなったんですよ。それで命拾いしたが…」と振り返る。

 

 壕での生活はその後もしばらく続いたが、敗走する軍人のいやな行動を数多く見た。「どうせ死ぬなら明るい所で」と母子、“トミちゃん”らと4人は、その壕を逃げ出したが、すぐに近くで捕虜になった。

 

 その「閣下」について沖縄戦史刊行会の瀬名波栄さんは「年格好、温厚な点から牛島中将。壕が攻撃されたのは6月22日で、翌日に自決している」と補足する。渡名喜さんにとって司令部壕の出来事は忘れたい思いが強い。ただ「閣下」について話す渡名喜さんの話す口調は違った。取材に応じた日は摩文仁の現地まで足を運んだ。自決したという海岸側の壕に手を合わせた渡名喜さんは、しばらくそこから動かなかった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月13日掲載

 

安谷屋さん 重い口開く ~ ただ一人の県出身将校

 32軍司令部には、ただ一人、県出身の将校がいた。安谷屋謙さん(79)=与那原町与那原。教育畑にいた安谷屋さんだが、歴史の流れの中で軍隊という組織に組み込まれていった。沖縄戦を指揮していく組織と人間たちを、県人として身近に見てきた唯一の将校だ。

 だが、安谷屋さんは32軍司令部の“沖縄戦”を語るのは今回が初めてと言う。目の前で繰り広げられていった多くの犠牲。今でも6月23日が近づくと数日も眠れぬ日が続くという。そのことが安谷屋さんの口を重くしたかもしれない。

 「持久戦をとらなければ…、あるいは首里を最後で防衛線としていれば、住民の犠牲は少なくてすんだのに」―静かな口調で語りはじめた。

 

 32軍司令部付きになったのは昭和20年も明けて間もなくのころだ。嘉手納の農林学校教諭から2度目の召集、階級は中尉だった。すでに那覇の街は姿を変え、全県が米軍の射程内という緊迫している状態だった。

 

 首里城にある司令部壕には、当時、師範学校の生徒たちが動員され、未完成の壕を掘る作業が連日続いていた。5カ所の出入り口のある壕内には、壕掘りを指揮する築城部や、中枢の参謀部、副官部、経理部、軍医部などがあった。米軍の上陸が予想されていたとはいえ、まだ余裕のある光景だったかもしれない。

 

 米軍が沖縄に上陸してからは司令部の中は常に緊張したものになっていた。

 「司令部と各部隊との連絡は電話でやっていたが、戦闘が激しくなるにつれて普通になった。私は参謀部の命で、直接戦況を聞きに行ったり命令を伝えに行かされた」と言う。

 

 その指示は高級参謀の八原博通大佐から出された。下士官2、3人を連れて昼夜とない連絡の任務だった。戦闘といっても遠くから砲弾が撃ち込まれるところだったが、それでも至近弾にたびたび見舞われた。「部下の田中とかいう下士官が足を吹っ飛ばされたこともあった。司令部までは連れて行ったが、その後亡くなったのではないか」。

 

 「八原さんに感心したのは重要な局面では絶対に自分の目で見るか、仲の良かった長野さん(英夫、参謀・少佐)に行かせた。前田付近の戦闘のころには八原さんは負傷したこともあった」と言う。

 米軍の本島上陸から1カ月余、米軍はじわりじわり司令部に向かって進攻して来る。5月4日、司令部は最大の反撃を試みる。そのころの様子を安谷屋さんは「首里城の線を死守するというのが方針で、反撃した時にはだいぶ楽観していた。実際には石部隊は八分通りやられ、山部隊もほとんど使えない状態までやられたが…」と話す。

 

 反撃が計画されたころ、首里城の司令部に1人の訪問者がいた。佐藤喜一特高課長だ。安谷屋さんは佐藤特高課長を見つけ、用件を終えてあと首里城下の壕で落ち合った。安谷屋さんが聞くと、「島田知事の命で来た。軍がどのような方針を持っているのか、それによって民間の方針も決めたい。軍は首里の線を確保すると言っているのでそのように伝えたい」と答えた。

 

 32軍の攻撃作戦は、同司令部に到着する戦況報告に大した“戦果”もなく、多くは不利な報告だった。翌5日夕には、司令部から攻撃中止が各部隊に伝えられ、再び持久戦へと作戦が変更される。

 

 起死回生をかけた作戦だっただけに、その失敗は壕内の空気を重苦しいものにした。「そんな中でも牛島司令官は、壕内で時おり、部下に『今は昼かな夜かな』と冗談を言って雰囲気をなごませていた」と言う。

 

 1日2~3回は壕から出て双眼鏡で戦闘のもようをながめていた。4、5人の副官らが「閣下危ないですよ」の声に耳も貸さず、砲弾の飛び交う中をじっと見ていた。「戦況が良くても悪くても顔色一つ変えない。顔を見ただけで部下は安心したものです」―こんなふうに安谷屋さんは牛島司令官を評した。

 

1984年3月14日掲載

 

首里壕にまだ負傷兵遺骨 ~ 撤退できず青酸カリ

 5月も下旬になると軍司令部では首里からの撤退が検討されるようになった。撤退案は2通りあった。「知念半島」案と「喜屋武半島」案。戦史によると、喜屋武半島撤退を推したのは軍司令部をはじめ第24師団(山部隊)、軍砲兵隊で、独立混成44旅団は知念半島、海軍の沖縄方面根拠地隊は「意見なし」だった。第62師団(石部隊)だけは「現戦線維持」を主張した―すでに戦力は尽き、「首里の壕内には幾千の重傷者が充満、輸送する余力はない」というのが理由だった。

 

 安谷屋謙さんは「将官会議が何回となく壕内で開かれていた。会議室の前には下士官らが立っていて、通りかかるとそこから遠ざけられた」と、そのころのようすを証言する。

 

 やがて首里撤退が決定されたが、それは参謀など一部の将校しか知らなかった。「方針変更は重大な決定なので私たちは知らされなかった」。南部に向かう時も、どこに司令部を移すのか知らされなかった。「高級副官の葛野(隆一)中佐とは懇意にしていたので聞いてみたが、私にさえ教えてくれなかった」と、軍秘の撤退ぶりを話す。

 

 安谷屋さんが首里を撤退したのは5月26日。「明日は海軍記念日だと言いながら出発したので間違いない」。前日に先発隊がすでに出ている。「大里などに敵が一部来ているとの情報もあり、先発隊は大里経由で1隊、小禄経由で1隊と分かれて向かった。米軍の探索と掃討をやりながら軍首脳の撤退に安全な道を開くのが目的だったと思う」と安谷屋さん。

 

 安谷屋さんらが出発した26日の夜は大雨だった。70~80人ぐらいを率いて行き先も知らない出発。「とにかく山部隊の司令部へ行け」が命令だった。将校は安谷屋さん1人。

 

 午後9時ごろ、南向きの壕から出発、寒川から下って、右に識名高地を見ながら谷間づたいをぬかるみを踏みしめて進んだ。識名園にのぼり、一日橋―国場―津嘉山―豊見城の平良高嶺を通り、与座岳にある山部隊の司令壕へ―。一晩中歩いた。

 

 到着した時には、すでに夜は明けていた。気がつくと兵の数は半分ほどになっていた。幾度となく続いた戦闘で兵隊たちは疲労こんぱいしている。そして大雨の中をびしょぬれになっての移動。「砲弾が激しい時は止まって気をつけながらたばこも吸ったりしたが、一晩中歩き続けた。疲れた兵隊たちにはきつかったに違いない」と安谷屋さんは話す。歩き続けなけらばならないが、体力は限界に来ている。途中、次々と倒れていった。戦友が抱きかかえ、ようやくたどりついたのもいるが、多くは放っておかれ、その後、消息の知らないままだ。

 

 首里の壕内には負傷兵が数多くいた。撤退の時、動けない者はそのまま壕に残し、青酸カリが渡された。服毒して自決した者、手りゅう弾で命を断った者、やっとの思いで立ち上がり、部隊について行こうとした負傷兵もいたが、多くは行軍についていけなかった。

 

 首里を撤退する時、安谷屋さんは、負傷兵の措置をめぐり高級将校との口論を経験している。負傷兵を置き去りにすることに抗議すると、高級将校は「負傷兵1人を運ぶのに4人が3交代で12人必要。移動先には食糧も弾薬もなく、首里から運ばねばならず、多くの人手が必要。負傷兵には薬品を置いていく」と受け付けなかった。

 

 やむなく置き去りにしたが、摩文仁に着いてあとも気がかりで、部下に事情を話し、「何とか救えないだろうか」と持ちかけた。苦労して来た道をまた戻るつらさを知っているだけに心苦しかった。が、驚いたことに疲れているはずの兵隊たちが二つ返事で引き受け、約15人で負傷兵を連れてきた。安谷屋さんの喜びは大きかった。その負傷兵は民間に預けられたが、その後の戦闘で戦死したという。

 

 安谷屋さんは「首里の司令部壕は撤退の時、爆破することになっていたので、中には自決した負傷兵の遺骨が眠ったままになっているはずだ」と言う。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月15日掲載

 

すべてが残虐な光景 ~ 軍、住民の壕や食糧奪う

 多くの兵が犠牲になりながらも山部隊(第24師団)の司令部に着き、やっと休息ができた。山部隊はほとんど一線に出ていてわずかな将兵しか壕内には残ってなく、気がねもなかった。安谷屋謙さんは、そこで初めて先に来て待っていた軍司令部の副官から、行き先が摩文仁だということを知らされた。わずか1、2時間の休息の間に、食事を取りすぐに出発した。

 

 撤退の途中、多くの死傷者を見てきた。首里の司令部壕にいるころ、砲弾に吹き飛ばされ苦しんでいる兵隊から、「ひと思いにピストルで殺してくれ」と頼み込まれたこともあった。死にきれずにあえぐ声、うなり出す者、すべたが残虐な光景だった。

 

 山部隊の司令部壕から摩文仁に向かう途中、住民も含めた死傷者を見たが、すでに安谷屋さんらの目には、日常の光景としてうつりはじめていた。「人間の神経というのは異常な状況の中ではマヒしていく。摩文仁を脱出の時には、海岸に無数の死体が散らばり、悪臭を放っていたが、何とも感じなかった」と安谷屋さんは言う。

 

 どしゃ降りの前はその日もやまなかった。山部隊の司令部壕から敵にさとられぬように慎重に進んだ。朝早くの出発だったが、摩文仁に着いたのは午後2時ごろになっていたという。

 

 摩文仁に32軍司令部が移動を終えた時、最初の命令が出された。「丘陵の上に出た者は処刑に処す」だった。軍首脳が摩文仁に到着したのは安谷屋さんらから3日遅れた5月30日の夜明け前だ。

 

 「現在の黎明之塔の下の壕には軍の首脳と、参謀部、軍医部、副官部の一部が入り、残りは周辺の小さな岩陰に分散して配置された。師範の生徒たちも多かった。首里の壕にいるころは辻の女性が7、8人いたが、摩文仁に来てからは私は見たことがなかった」と言う。

 

 安谷屋さんは軍首脳のいる壕の南側の丘に配置され、そこから参謀部に1日1、2回通うのが日課だった。道らしい道はなく、岩にしがみついて歩くうちに道になった。「現在、健児之塔のあるところは炊事場。師範の生徒は水くみやまき取り、イモ掘りなどに使われていた。炊事は昼できず、夜炊いてバケツで運んでいたが、岩山を上るのは大変だったのではないか」。

 

 軍の撤退に伴い、すでに避難していた住民とのトラブルが相次いでいる。住民は兵隊に壕を追われ、食糧を強奪された。軍司令部に県出身の将校がいることを聞き、近くの住民が安谷屋さんを訪ねて来たことがある。「兵隊が毎日イモを盗み、砂糖も取る。どうにかできないか」と言う。「又吉という摩文仁の部落の人でしたが、私が行って兵隊たちを追い払ってやったこともある」と安谷屋さん。

 

 6月も中ごろになると摩文仁の近くまで米軍はやって来た。6月19日の夕方のことだが、安谷屋さんは丘の方から米軍の戦車4台がやって来るのを見た。戦車は現在の平和祈念堂付近から来て、軍司令部壕の部落側入り口の下で止まった。米兵が降りて来てスコップで穴を掘るなど15~20分作業した。早速、参謀部に報告した。「敵は司令部の場所を知っている。このまま壕の中に座って死ぬのは耐えがたい。相手にやられる前に攻撃させてくれ」と進言したが、参謀や副官から「単独行動は許さない」としかられた。

 

 しかし、近く攻撃計画があることを知った。「摩文仁の部落側から来る敵を、全員一斉に出て肉弾戦を挑み最期を飾る。牛島、長の両将軍は高台から眺めて自決するというものだった」と安谷屋さんは総攻撃計画を話す。しかし、それは間もなく中止された。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月16日掲載

 

島田知事最後の別れ ~ 長参謀長と深刻な話

 摩文仁付近には多くの自然壕があり、そこには民間人も多数板。夕方になると健児の塔下方にある水くみ場には多くの人たちが集まって来た。艦砲射撃も“休息”に入り、戦場でわずかに許されたのどかな時間だった。それがある日を境に一変した。

 

 「6月の15、16日ごろだと思うが、水くみ場に集まるのを米軍が知って初めて艦砲射撃を受けた。多数の犠牲者が出て、住民もその時から他へ移動を始めた」と安谷屋謙さんは言う。

 

 海には容赦なく火を噴く艦砲に部落側にも米軍が待ち受けている。逃げ場のない住民は、木の枝に汚れかかった白布を結び、振りながら前面の敵の方へ向かっていく。集団になった住民に一発も撃ち込まれることなく、ヅロヅロと具志頭方面へと向かっていく。

 

 子どもを負い、わずかばかりの家財道具を頭に乗せて歩く住民たちの後ろ姿は疲れきっていた。丘から安谷屋さんはじっと眺めていたが、気をつけて見ると住民の群れの中に軍服を脱いだ兵隊が多数まじっている。「米軍には分からないかもしれないが、軍隊にいる者からすれば一目で分かった。彼らが着ている者は軍支給のシャツやズボン下。子どもを抱いたりしてカムフラージュしても、私たちの目からは兵隊であることは一目りょう然」と話す。

 

 明らかに脱走。だが、軍の統制はすでになく、それを制止できる者はいなかった。

 

 司令部の犠牲者も日を追って増えてきた。いつの間にか米軍の“馬乗り攻撃”でやられ、艦砲が直撃して死者が壕内を埋めた。安谷屋さんは6月16日前後と記憶している。いつものように獣医部の壕のわきを通り過ぎて参謀部に向かっていた。

 

 「獣医部は司令部壕の南にある丘で畑側に面していた。私が参謀部に向かう時通りかかったら縦穴の壕入り口には2、3人の兵隊たちが中が暑かったからか座っていた」。安谷屋さんは参謀部で用件をすますのに大した時間はかからなかった。再び獣医部の壕を通ると近くの松林まで焦げ尽くすほどの焼け跡となっていた。「敵機に見つかる危険性もあったので、手を合わせてすぐに立ち去ったが、ガソリンをまかれて恐らく全滅だったでしょう」と安谷屋さんは言う。

 

 今でも忘れられない光景を参謀長室で見たのは、そのころのことだ。衛兵が守るようにして立っている室内には、1本のローソクに揺れながら二つの人影が見えた。

 

 「じっと見ると、こちら側を向いているのは長(勇)参謀長、背中が見えるのは国民服を着ている小柄な人だった」。参謀長は真剣な表情だった。向かい合って話す2人の言葉は聞きとれなかったが、深刻な話であることはうかがいしれた。安谷屋さんは「あれは島田叡知事が最後のお別れにあいさつに来たものと思う。民間人が近づける壕ではなく、知事であればこそ長さんと、あんなふうに話し合えたのだろう」と言う。

 

 その島田知事と対談していた長参謀長は豪放らい落な性格で知られた。安谷屋さんは「牛島さんと反対の性格。首里にいるころから戦況が悪いと怒鳴り散らし、逆にいい時は部下に『ビール持って来い』と命じて上機嫌だった」と評する。

 

 また長参謀長と作戦面で常に対立していた八原博通高級参謀は「陸軍大学でも秀才中の秀才で通っただけに頭が切れ、軍人としてはおとなしいインテリ型。長野(英夫)参謀も同じタイプでウマが合っていた。ただ米国駐在武官の経験もあってか合理的な考えの持ち主で、陸軍でも危険地帯にやらされるなど冷や飯を食わされていることもあり、常に不平不満があるように感じられた」と言い、「優秀な人だけに沖縄作戦では本土防衛の任務を忠実に実行している。しかし、八原さんが持久戦をとらずに首里での防衛線を維持する作戦を支持したなら、住民の犠牲ははるかに少なくすんだはず」と話す。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月19日掲載

 

「何言っているんだバカヤロウ」~ 牛島中将 降伏勧告に激怒

 6月の中旬ごろだったと安谷屋さんは記憶している。いつものように参謀部から呼ばれて司令部壕に入っていった。壕入り口近くで情報主任が受話器を取っている。その後ろには牛島満司令官が一人静かに座っていた。情報主任がどんなやりとりをしていたのか、はっきりした記憶はない。だが、牛島司令官に伝えた時の様子は今でも強く残っている。

 

 情報主任が「ニミッツ元帥からのものです」と伝えると、牛島司令官は「また例のことだろう。何言っているんだバカヤロウ」と吐き捨てるように言った。安谷屋さんが初めて聞く牛島司令官の激しい口調、激怒した表情だった。

 

 安谷屋さんは「今でも電話がどんな方法で通じていたのか、また米軍と直接か、第一線の部隊を経由しての連絡だったのかは分からない。しかし、牛島さんが怒っているのを見たのはこの時が最初で最後だけにはっきり覚えている」と言う。

 

 米軍から降伏勧告は、6月17日、バックナー中将から、第一線部隊を経由して牛島中将あてに勧告文が届いたことが、戦後、八原博通高級参謀の証言で明らかになっている。

 

 安谷屋さんに「バックナーの間違いではないか」と念を押すと、「いやバックナーの記憶はない。陸軍のバックナーではなく。海軍のニミッツからだったので記憶に強い」と強調した。

 

 そのころは明るい展望は何一つなく、司令部の歩む道は降伏か自決かの限られたものになっていた。

 

 安谷屋さんの目の前で何人もの兵隊たちが死んでいた。鉄血勤皇隊の若者たちが死んでいくのも見てきた。ある日、岩陰に座りながら、若者たちの死を考えた時、無性に怒りがこみ上げてきた。「どこのバカがこの戦争を始めたんだ」。だが、安谷屋さんにはどうすることもできなかった。ただ“軍命”に自らの生命をゆだねるだけだった。

 

 32軍は、すでに終局を迎えようとしていた。6月18日か19日のことだ。参謀部に呼ばれた安谷屋さんは、いつもと様子が違って各参謀がピストルの手入れなどをしているのを目撃した。「おかしいな」と思いながら聴いてみると、摩文仁からの脱出計画があることを知った。敵の後方かく乱、大本営への報告のためだ。

 

 関係者の証言によると、八原高級参謀が大本営報告の任務を与えられ、木村正治、三宅忠雄の両参謀が県内各地に潜入しての地下工作、薬丸兼教、長野英夫の両参謀が遊撃戦を行うというものだ。

 

 安谷屋さんも「北部に行って敵の後方かく乱に協力せよ」という命令を受けた。軍参謀や司令部の一部が摩文仁の壕を脱出したのは19日夜。安谷屋さんたちが命令を受けた脱出日は、彼らより1日遅れた20日の夜だった。

 

 「八原さんは牛島司令官、長参謀長の最期を見届けてから脱出するということだったが、残りは20日前後には摩文仁から脱出している」という安谷屋さんは脱出前に部下たちと話し合った。

 

 「これで死ぬかもしれないが、お互いに生き残った者が家族に伝えよう」―そんな話をしている時だった。突然、潜んでいた壕を艦砲が直撃した。見ると隣にいた部下の右足首がもげている。痛みに叫ぶ部下。安谷屋さんは「軍医を呼べ、衛生兵を呼べ」と大声で命じた。だが、周辺でも多くの人間が負傷、とても安谷屋さんたちの壕まで手が回らない。部下は間もなく息を引き取った。

 

 その部下は宮崎県出身。生日(いけめ)神社近くに家があり、入隊前は自動車の修理工をやっていたことなどを艦砲の直前に話していた。「戦後すぐに役所にたずねたが、ナシのつぶて。もう名前も忘れてしまったが、家族にどうしても伝えたい」―安谷屋さんの心にいつまでもひっかかっていた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月20日掲載

 

満月の夜、摩文仁脱出 ~ 懐に自決用手りゅう弾

 安谷屋さんが摩文仁を脱出した6月20日、午前中はいつものように砲声がやまなかったが、午後には不思議とやんだ。遠く真壁方面からかすかに聞こえるが、それは安谷屋さんがしばらく経験したことがなかった静じゃくの時間だった。「ほんとに戦争は終わったのだなア」―砲声の中断が安谷屋さんに沖縄戦が終わりに近いことを実感させた。

 

 脱出する前、以前兵隊にいじめられ、安谷屋さんに救いを求めに来た摩文仁部落の又吉という人を訪ねた。「ここを脱出することになった」と告げると、「これに着替えなさい」と1枚の着物を分けてくれた。濃紺の着物はヒザまでの長さで、農作業に使っていたらしかったが、安谷屋さんにはうれしかった。

 

 兵隊の中にも避難民を訪ね、ボロの衣料を分けてもらう者もいた。こうした“調達”ができなかった者は軍服を脱ぎ捨てるだけで、軍支給のシャツとズボン下だけになった。

 

 多くの高級将校は首里から運ばせた私物入れの将校行李から取り出した背広などに着替えて出て行った。

 

 脱出の夜は、これまでにないあざやかな月夜だったと安谷屋さんは記憶している。「戦闘の連続でそれまで月を見る余裕がなかったかもしれない。その夜は満月で昼のように明るい夜だった。きれいな夜だった」と思い出す。

 

 月明かりの下に部下が集められた。その数は20人ほどになっていた。首里を撤退した際に半減、摩文仁に着いたあとも半数ほどが目の前で倒れ、また消息を断っていた。「そのころは組織は崩れ、バラバラで、敗残兵も入り込み、上官も部下もなくなっていた」と安谷屋さんは言う。

 

 疲れ切った部下に安谷屋さんは「組織的な行動はもはや不可能な状態だ。近くに家族や友人、知人がいれば会って来るがいい。それがすんだら敵後方に行って合流、宇土部隊の指揮下に入れ」と告げた。安谷屋さんの最後の訓示だった。

 

 そして脱出に際しての注意も付け加えた。「中央突破という方法もあるが、危険が大きすぎる。できるだけ海岸線を利用した方が脱出に有利だ。また集団では敵に発見されやすいので、なるべく小人数になって行動するように―」。それは中央突破で失敗した将校が多いことを安谷屋さん自身が知っていたことにもよるし、斥候の報告により敵の配置を知っていたことにもよる。だが、何よりも沖縄に生まれ育った者が知っている地形によって、海岸線からの脱出をためらうことなく指示できた。

 

 最後の訓示を終え、解散すると、1カ月近くも生活した壕を捨て、脱出する準備にかかった。すでに深夜になっていた。

 

 安谷屋さんは岩陰の奥に軍刀とピストルを隠した。双眼鏡も軍服で包み、さらに風呂敷でくるんで同じ場所に隠して去った。「いつかは取りに来れる時があるだろう」という気持ちがその時はあった。だが、戦後数年して行ってみたら軍刀もピストルもなく軍服は腐りかけており、そのままにして帰っている。

 

 民間人に偽装するために武器は何一つ持てない。だが、手りゅう弾2個だけはタオルにくるんで安谷屋さんの懐の中に隠してあった。もちろん、自決用の手りゅう弾だ。

 

 安谷屋さんについていって部下は3人。当番兵と、「一緒に連れていってくれ」と頼まれたその友人の兵隊の2人だ。その夜の月の明かりは、敵に発見されやすい危険もあったが、暗やみを手さぐりで道を探すことに比べれば、はるかにいいと安谷屋さんは思った。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月22日掲載

 

国頭への脱出ならず ~ 収容所で軍隊生活に幕

 安谷屋謙さんらは海岸づたいを北に向かって摩文仁を脱出した。行き先は国頭の山中にいる宇土部隊。そこに合流して、敵と再び戦闘を交えることになる。

 

 海岸を進むとおびただしい数の死体が散乱している。海にも陸にも、戦闘員も非戦闘員もない。波間に浮きながら漂い、あるいは海岸ばたに打ち上げられている。それは月明かりにはっきりと映し出された。だが、そのころの安谷屋さんには特別の感情も起こらず、戦場の一光景に過ぎなかった。

 

 ギザーバンタの手前まで来た時だ。丘の上に米兵がたむろしているのを見た。近くを通るのを発見するとやみくもに機関銃を乱射した。そこからは進むことができず、岩陰にじっと隠れるよりほかなかった。

 

 「陸からそれ以上進むのは不可能と思い、海上から進むしか道はなかった」と安谷屋さん。しばらくすると部下が波打ち際に放置されているサバニを見つけて来た。破損していたが、「これを利用すれば脱出できる」と思った。

 

 4人は片手でサバニをしっかりつかみ、もう一方の手で水をかき分け進み始めた。だが、その方法も途中で断念しなければならなかった。「6月といっても寒かった。泳ぎ続けることは無理かなと思った時、頭上を弾が飛んだので引き返した」という。

 

 再び元の所に戻り、あてもないままに夜を明かした。朝になると脱出の道は容易に開けた。民間人がゾロゾロと海岸を具志頭に向けて歩いている。「男も女も老人も子どもも、それこそ集団になって歩いていた」。その集団にまぎれ込むと何食わぬ顔で歩み始めた。すでに軍服はなく、武器もふところに隠している手りゅう弾だけだ。ヒザまでしかないボロの着物を着た安谷屋さんは、戦争に追われ多くのものを失っていった民間人と何一つ変わるところはなかった。

 

 集団は間もなく米軍に“保護”される。国頭への脱出も収容所で機会をうかがうより仕方がなかった。

 

 収容所は具志頭小学校の向かいにある広場だ。そこに行く前、米軍の尋問を受け、部下と離ればなれになった。米兵は1人ずつ調査した。安谷屋さんに「年齢は?」と聞く。当時40歳の安谷屋さんは、とっさに「57歳」と答える。

 

 防衛隊員が45歳までということが頭にあったかもしれない。「髪は長い間刈っていないので伸びていたが、私は白毛なので幸いした。米兵は何一つ疑うことなく信用した」と安谷屋さん。尋問は年齢を聞くだけで終わった。だが、部下の3人は21、2歳の年齢。民間人と言ったが、米軍は信ずることなく金網の中に閉じ込められた。

 

 安谷屋さんの軍隊生活は収容所に入ったことで終わった。戦争が終わるまで民間人で通し続けた。「戦後になって近くに八原(博通・高級参謀)さんもいたことが分かった。ボロの背広で民間人としていたことが手記に書かれていた。でも、そのころから薄々知っていた。県庁や警察関係者も多くいるし、作戦主任だから知っている人は多く、やはり“密告”されたらしい」。

 

 教員としての生活からいや応なくひきずり込まれた軍隊。今、安谷屋さんは当時を振り返って言う。「何とバカなことをしたものか。大東亜戦争が始まってからというものは、教育現場も教練で銃剣をやり、食糧増産と言っては芋掘りをやる。教育らしい教育はなく、学校とは名ばかり。こうした揚げ句が、戦闘協力で若者が次々と戦死していった。恐ろしいことだ」―大きな力がゆっくりと国民をがんじがらめにした時、歴史は確実に不幸な方向に進むことを知っている安谷屋さんはつぶやくように言った。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月23日掲載

 

牛島中将の遺体確認 ~ 萩之内元中尉 沖縄戦で重大な役割

 昭和21年1月、那覇港から最初の復員船が、ゆっくりと岸壁を離れていった。前年、だれもが体験したこともない“地獄”の中で苦しみ、体力を消耗しきった将兵たちも、長い収容所生活で回復、明るい表情に変わっていた。「やっと家族の元に帰れる」―地形を変えるほどに傷めつけられた沖縄を去る喜びは乗船している全員が同じだ。

 

 玉城(たまぐすく)一夫と名乗ったその男の表情にも、故郷の鹿児島に帰れるという安ど感が読みとれた。彼についての米軍の記録は、「民間人」「那覇市の出身」「朝鮮での教員の経験あり」となっているはずであった。

 

 しかし、それは米兵に捕まった時に、口からすらすらと出たうそだった。本名は萩之内清。もちろん民間人ではなく沖縄憲兵隊副官の中尉だ。

 

 現在、83歳で鹿児島で元気に暮らす萩之内さん=鹿児島市=当時を振り返ってこう言う。「米軍も憲兵隊副官と知っていながら、収容所内で泳がしていたようだ。その方が都合がよかったはず」

 

 萩之内さんは沖縄戦に一つの大きな役割を担った。“沖縄戦”の幕引きとなる牛島満司令官と長勇参謀長の死体の確認だ。そしてまた、こに2人を介錯(かいしゃく)した32軍副官の坂口勝中尉に古式に乗っ取った作法も教えている。

 

 萩之内さんと熊本県出身の坂口中尉とは特別親しかった。年齢も同じで階級も同じ、ともに剣道4段で、2人を近づける要素はそろっていた。

 

 萩之内さんに坂口中尉が介錯の仕方を教わりに来たのは沖縄戦に入る前だ。「坂口は介錯憲兵がやるものと思っていた。『バカ言え』と言うと、「古式に乗っ取った介錯はどういうふうにするのか』と聞いてきた。私の知っていることはすべて教えた。米軍上陸のずっと前で1、2月ごろと記憶しているが、坂口ははるか前から、その日のあることを予知していた」と萩之内さんは言う。

 

 萩之内さんが捕虜になったのは6月中旬、玉城村内の壕。知念方面への脱出の機会をうかがっていた時だ。「部下に勝連准尉、平良曹長など憲兵隊10人ほどがいて、壕の中は民間人も20人ぐらい入っていた。私は脱出には軍服でなくセルの着物に着替えていた」

 

 部下たちと別れて民間人として収容された萩之内さんに、米軍の情報将校が不思議とひんぱんに接近してきた。「その時から分かっていたと思う」と萩之内さん。

 

 その情報将校は、萩之内さんに「牛島は戦死しないで潜水艦で逃げた」と6月20日ごろから何回となく繰り返し、萩之内さんはそのたびに「そんな方ではない」と否定した。

 

 6月25日ごろになって、「牛島を知っているなら死体を確認できるか」と言い、萩之内さんを摩文仁へ連れ出した。

 

 「“首実検”に連れて行かれたのは海岸側司令部壕の下方3、40メートルのところ。同じ場所に並べるようにあり、くぼ地に石を積んで埋めてあった」と言う。沖縄戦を指揮してきた2人の軍首脳の最期の姿だった。

 

 遺体の一つは首がなかった。略章をつけた軍服に白い手袋。坂口中尉に介錯の作法を教えた萩之内さんは、それが故郷の先輩でもある牛島司令官と判断するのに時間はかからなかった。

 

 もう一方の遺体は敷布2枚をつなぎあわせた袋の中に入っていた。ズボンは軍服だが上着はなく白い肌着を着ているだけだった。その肌着には墨で「忠即■命 ■忠報国 長勇」と書かれていた。

 

 そうした経験から萩之内さんは、米陸軍が撮影した両将軍の自決現場の写真を疑問視する。沖縄戦はまた多くの将兵たちが、自らの手で命を断った戦争でもあった。その写真の現場がどこであるのかを断定するには今となっては困難だ。

■は「儘」の人偏がないもの

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月26日掲載