那覇市立商業高校 たった一人生き残った15歳の通信兵

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【Archive 2-4】和魂の搭

 

沖縄に米軍が上陸する直前の3月末、中学生に対し学徒隊として動員令が下った。那覇市商工学校の生徒は鉄血勤皇隊を組織し、主に通信隊に入隊。無線、暗号、情報の教育を受け従軍した。学徒隊員として学業半ばにして犠牲となった那覇市立商工の生徒や職員165人が合祀されている。

出典:沖縄県平和祈念財団著「沖縄の慰霊塔・碑」より

 


今回の復刻証言は那覇市立商業高校の15歳の学徒兵、国吉真一さん。

 

那覇商業学校学徒は鉄血勤皇隊・通信隊を結成し、前者は第62師団歩兵第64旅団独立歩兵第22連隊に、後者は第32軍司令部と独立混成第44旅団通信隊に配属された。

 

地獄の首里から南部の最前線に於いて戦うこととなり、学徒動員数は不明、戦死者は114名という膨大な学徒の命を奪うことになった。

 

通信兵で唯一生き残った当時15歳の国吉さんの証言。

 

 

14~15歳の少年とは、現代でも平均身長は150cmほど。中学二年生~三年生。米軍が捕虜としてとらえたこれらの少年たちは本当は何歳だったのだろうか。

 

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《AIによるカラー処理》

【原文】 Two young Jap soldiers being compared to a full grown Korean which is three times the size of them. The first Jap is 17 years old, the 2nd is 19 years old, and the giant Korean is 28 years old. Okinawa.
【和訳】 朝鮮の成人男子と比較される二人の日本兵朝鮮人は日本人の3倍の体格をしている。左から17歳、19歳、28歳。沖縄。〔左の二人はおそらく中学生の鉄血勤皇隊か。〕

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

戦禍を掘る 第2部・学徒動員

(1)軍人に誇りと自信 晴れの軍服、母は喜ばず

昭和20年3月4日、大里第二国民学校の校庭に整列した那覇市立商業学校3、4年生たちの中に、ひときわ小柄な少年がいた。支給されたばかりの軍服を着ていたが、両腕は指の先まですっぽり隠れ、ズボンはダブダブ。戦闘帽や鉄かぶとも大きすぎて目を覆ってしまうほど。身の丈が150センチそこそこ、14歳の少年が着こなすには軍服はあまりにも大きく、ぎこちないというよりむしろ、こっけいだった。

 

 「生徒は全員で60人ほどいましたか。私はその中で後ろから2番目くらいの身長。変声さえまだでした。小学生と間違われることもありました。帽子は大、中、小とあり、小を支給されたのですが、それでも頭にかぶると目の前が見えなくなりました」

 

 当時、3年生だった国吉真一さん(54)=宜野湾市大謝名、個人タクシー運転手=は苦笑いしながら語り始めた。

 

 「軍隊に入ったことの悲そう感なんて全くなかったですよ。陸軍2等兵の階級章が入った軍服を着てうれしくてしかたがなかったです。こんなに小さな自分でも軍人として認められたんだという喜びでいっぱい。誇りと自信を持って、仲間と敬礼し合っていました」

 

 軍服のほか、小銃と銃弾120発、手りゅう弾2個をもらった。隊長の少将から「国難にはせ参ぜよ」との訓示を受け、胸を張ったという。

 

 だが、この日から3カ月余の間に起こった出来事は想像を絶するものとなった。米軍との激しい攻防戦で味方の部隊は壊滅し、次々と銃弾に倒れていく日本兵や住民たち。級友たちも前線に向かったまま再び戻ってこなかった。

 

 戦いの末期には、投降していく味方を後方から日本兵が撃ち殺してしまうシーン、婦人たちが黒人や白人の米兵に追い回されて暴行を受ける場面なども目撃。言葉では言い表せない衝撃は思春期の少年の心に深く刻み込まれ、今日まで忘れ去ることのできないものとなる。

 

米軍の馬乗り攻撃に遭った具志頭・仲座の自然壕からただ一人、奇跡的に生き残った国吉さんに沖縄戦を語ってもらった。

 

   ◇   ◇

仲里朝章校長らに引率され、大里第二国民学校に置かれた独立混成第44旅団司令部(通称・球18800隊)にやって来た国吉さんたちは、隊長・鈴木繁二少将の訓示を受けたあと情報部に入隊。無線班、暗号班、情報班の三つに配属された。

 

 翌5日から通信兵としての教育が始まり、無線班の国吉さんも必死になって訓練に臨んだ。10代半ばの学生たちは覚えが速く、「貴様らは優秀である。普通の初年兵が半年かかるものを1、2週間でたたき込んでやる」と教官の厳しい声が飛んだ。


「加瀬見習士官、真山軍曹、それに古堅上等兵。教官は主にこの3人でした。毎日試験、試験で食事を取るひまもないほどでしたが、覚悟はできていたし、つらいとは思わなかったです」

 

 3月10日、学生たちに家へ帰ってもよい、との通告があった。日帰りの条件つきではあったが、国吉さんは胸弾ませて那覇市楚辺の実家へ。「軍服姿を家族に見てもらいたい一心だった」という。実家では母親のカマドさんや弟、妹が出迎え、国吉さんを囲んだ夕食で和やかなひと時を過ごした。

 

 「それが母親に会った最後です。その年の夏、疎開先の山原 (やんばる) でマラリアとう飢えで死んだそうです。今思うと、夕食の時、口にこそ出しませんでしたが、息子が親元から離れていく寂しさを感じていたような気がします」

 3月10日は、国吉さんが満15歳を迎えた日だった。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年11月28日掲載

 

(2)攻防戦で親友失う 弾雨の中、伝令に奔走

 「貴様らは軍隊のメシを食った以上は初年兵と同様に扱う。甘えは許さんぞ」

 

 国吉さんたちは通信兵としての教育を徹底され、わずか半月後には送・受信ができるようになっていた。「イはトツー、ロはトツ・トツー。今でもはっきり覚えている」と言う。

 

 昭和20年3月23日朝、米機動部隊が沖縄方面に来襲。翌24日には艦艇から沖縄本島に砲撃が始まった。

 

 独立混成第44旅団司令部のあった大里第二国民学校の校舎は焼け落ち、司令部は同校前の壕に移動した。那覇市立商業学校の通信隊生徒もそれに伴って行動。砲弾の飛び交う中で通信教育は一応終わり、26日、生徒たちは独立混成第44旅団通信班、同旅団管下の第2歩兵隊無線班、独立混成第35連隊通信班の三つにそれぞれ配属され、正式に入隊した。

 

 国吉さんは大里村西原在の44旅団第2歩兵隊(通称・球7071隊)へ。同級生2人とともに、その中の第3大隊(隊長・尾崎大尉)無線班に入れられた。班長は稲垣軍曹。10人の班員は発電機の操作や発信、受信に当たる一方、雑役などに従事する日が続いた。

 

 およそ1カ月後の4月下旬。既に米軍は本島に上陸し、激戦の中心地が浦添の前田高地まで迫っていた。日本軍は主力の一つ独立混成44旅団の最前線投入を決定、同旅団に属する尾崎大隊も最前線へ。無線班の10人もひとまず首里城の東、弁ケ岳周辺に進出した。

 

 「無線班の任務は戦闘状況を探ること。常に敵の強力な戦車群と背中合わせで活動しなければなりませんでした。そこからさらに前田高地まで前進しましたが、敵の攻撃のすさまじさに圧倒されるばかり。3日間ほどしかいなかったと思います」

 

 国吉さんのいた無線班からの連絡で、後方にいる味方の砲兵隊から砲弾が敵の戦車などに命中。国吉さんらが小躍りしたこともあったが、日米の戦力の差はいかんともしがたく、「もう歯が立たないのではないか」と感じ始めていた。

 

 切り込みを続ける第2歩兵隊は、3分の2以上の200人近くが戦死。いくつかの部隊に配属されて戦っていた商業学校の通信兵たちもこのころ、数多くの犠牲者が出ている。

 

 一連の攻防戦で、無線班にいた国吉さんの親友2人が帰らぬ人となった。新垣盛孝君と大城喜幸君である。

 

 「4月の末ごろでしたかねえ。大隊本部の命を受けて伝令に奔走していましたが、相次いで出ていった2人がそのまま戻ってきませんでした。盛孝君は純心で、グラマンが低空してくると銃を構え、狙い打ちしておもしろがっていました。喜幸君は怖さ知らず伝令に出る時なんか“絶対に死なんよ”と言っていたのに…」

 

 国吉さんは、亡き友を思い出して声を落とした。10代半ばの学徒兵が倒れていくことに稲垣班長は悲痛な表情を見せ、以来、たとえ大隊からの命令であろうと国吉さんを危険な所へやらなくなったという。

 

 5月に入り、尾崎大隊は軍の命令で首里の司令部へ退却した。兵力が半減していたため、独立歩兵第15大隊と合流。無線班は古い墓の骨壷を出し、6畳ほどの内部に身を潜めた。無数の寄生虫に悩まされ、暑さや空腹で脱水症状を起こす人が続出した。

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年11月29日掲載

 

(3)班で一人生き残る 倒れた死体の下敷きに

 浦添の最前線から首里に退却してきた国吉さんたちの無線班は、司令部壕近くの墓に身を潜めていたが、通信活動はほとんどできない状態だった。

 

 「アメリカ軍が強力な電波を使うので自分たちの電波が妨害されました。通信機材はありますが、送・受信は全然ダメ。砲弾が飛び交う中を伝令で駆け抜けなければならないことが多くなりました。稲垣班長は“無茶をするな”と言ってくれましたが、みんあ戦意はおう盛。夜間の切り込み攻撃に参加する兵隊もおりましたよ」

 

 怖いもの知らずだった当時の話を国吉さんは続けた。

 

 「ある時、上級の班員から水をくんでくるように命じられましてね。班長はやめたんですが、敵の弾なんかに当たるもんかという気持ちで墓を飛び出しました。案の定、ものすごいグラマン機の爆撃にあい、バケツをつるした天びん棒とともに吹っ飛ばされました」

 

 しばらくして意識が戻った。火薬のにおいが立ち込める中、裂けたバケツが転がっている。立ち上がると、急いで地面のくぼみにたまった水をくみ上げ、墓へ一目散に走って戻った。

 

 「墓の中に入ると、みんなに喜ばれましてねえ。何日も水を口にしていない人ばかりだから感激の声ですよ。班長は私の不死身さに半ばあきれ返っていましたが、自分がみんなの役に立っているんだということがうれしくて…」

 

 昭和20年5月下旬首里の司令部は南部へ撤退を始めた。国吉さんの属する尾崎大隊も首里から識名、さらに八重瀬岳東方の具志頭まで退いた。そこに陣地をしいたが、残存する兵たちはいくつかの壕に分散。国吉さんたち稲垣無線班も米軍の馬乗り攻撃に逃げ惑いながら数度、壕を転々とした。

 

 「やっと落ち着いたのは108高地と呼んでいた丘の斜面の自然洞窟でした。無線班で生き残っていたのは稲垣軍曹、山田兵長、石丸上等兵、呉屋上等兵、関1等兵。私を入れて6人だけでした」

 

 米軍の攻撃はとどまることを知らない。容赦ない攻撃で全滅していく壕が相次いでいった。国吉さんのいた洞窟は入り口から急傾斜になっており、はしごをつたって下りると30メートルほどの奥行きがあったため、次々と逃げまよう兵隊たちが入り込んできたという。

 

 「ざっと50人くらい。壕の中でひしめき合っていましたね。年齢が若いせいか、いつも上級兵に食糧集めを命じられ、農家で焼死している豚の肉を切り取ってきてはほめられていました。命がけだったはずなんですが、ほめられたい一心でしたからねえ」

 

 今にして思うと、「おだてられ、利用されていたに過ぎないのに…」と国吉さん。そんな国吉さんの度胸も次第に発揮できない状態となってきていた。いよいよ国吉さんのいる壕にも火の手が近づいていたのである。

 

 国吉さんは、自分1人を残し全滅したその日のことを鮮烈に覚えているという。

 

 「折り重なって倒れてくる死体の下敷きになり、体の小さな私は全く身動きが取れなくなっていました。その時、名前も知らない将校が救い出してくれたのです。見ると、その将校も目が飛び出していて息苦しそう。顔中血だらけで間もなく息を引き取りました」

 

 終戦して数年後、国吉さんは再びこの洞窟を訪れ、驚いた。奇跡的に脱出した時のままだったからだ。白骨が散在し、中には軍服を着たまま岩にもたれかかってミイラ化した遺体もあった。

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年11月30日掲載

 

(4)悪夢の馬乗り攻撃 爆死者の下敷きに

 座布団が積まれるように、次々と倒れてくる爆死者に押しつぶされながらも奇跡的に生き残った国吉真一さんの話を続ける。

 悪夢の馬乗り攻撃は、昭和20年6月19日に起こった。米軍による馬乗り攻撃というのは沖縄戦末期にひんぱんに用いられ、洞くつの中にいる日本軍の全員殺りくを目的としたものである。爆薬を投げ込み、入り口から火炎放射器で噴きつける。抵抗が続けば洞くつの上部から削岩機でこじ開け、爆薬を投じるというすさまじい攻撃であった。

 国吉さんたちのいた具志頭村仲座地区の洞くつもその日早朝、米軍の近づく気配が感じられた。壕内に「気をつけろ!」という押し殺した声が響く。入り口近くにいた2。3人の日本兵が5メートルほどの高さにある入り口を目指して銃を構える。薄暗い中でみんなは息を殺し、光が差し込む上部の一点だけを見つめていた。

 何分ほどたっただろうか。突然、入り口からのぞき込む米兵の姿が視野に入った。それっ、とばかりに日本兵が発砲。その後、米兵の「オーケイ」という大声が聞こえるやいなや、手投げ弾のようなものが次々と壕内に飛び込んできた。

 「それはそれは、何ともすさまじいものでしたよ。発砲した日本兵は吹っ飛んで全員即死。こちらが対応を考える間も与えず、ひっきりなしの攻撃でした。最後にどでかい爆薬を投げ込まれた時は、壕の奥深くまで響くような、ものすごい震動が起こりました」

 なすすべを知らず「縮み上がっていた」という国吉さん。当時15歳、150センチそこそこだっただけに、爆風でやられる日本兵にあっという間に押しつぶされていった。

 「爆風が次々と襲ってくるのでじっとしていると、前から後ろからやられた兵隊にのしかかられましてねえ。5、6人の下敷きになって、横を向いたまま身動きが取れなくなりました。既に息のない兵隊たちから血がドクドクと流れてきて、それが私の顔を覆い、口の中まで入り込んできました」

 米軍が壕近くに近づいてきたことを知った時、国吉さんはとっさに手投げ弾を手にしていたという。

 「その時は自決しようと手にしたのですが…」と国吉さん。実際、死体の下敷きとなってみると、何とか起き上がろうと努力していた。だが、どうにも動けない。馬乗りが始まってから既に1時間ほど。だんだん息苦しくなり、「このまま死んでしまうのだろうか」と悲しくなったという。

 全員、息絶えてしまったのだろうか。壕の中は静まり返っていた。と、その時、奥の方でかすかにうめき声が聞こえる。国吉さんもそれにこたえるようにうめき声を上げた。

 「誰かいるのか」と将校の声。「国吉2等兵です」とこたえると、その将校は手探りで国吉さんの方へ寄ってきた。

 「手探りだったのでゃ目が見えなかったからでしょう。右の目じりから破片が貫通し、目玉が飛び出していたんです。目玉はその将校が私の方へすり寄ってくるたびにブランブラン。顔面は真っ赤だし、まるで幽霊のようでした」

 この見知らぬ将校のおかげで、国吉さんはたった一人だけ壕から脱出することになる。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月3日掲載

 

(5)重傷の中尉が救助 逃げた摩文仁で捕らわれる

 数人の爆死者に押しつぶされ、うめき声を上げている国吉真一さんのもとへ、飛び出した目玉をブランブランさせながら寄ってきた将校は、国吉さんにのしかかっている死体を1人ずつ取り除いていった。

 長い時間、身動きの取れない息苦しさに耐えていた国吉さん。死体をどけてもらってひと息つくと、起立して「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。

 しばらくして、「中尉どのは目をやられていますね」と話しかけたが、将校は返事がない。国吉さんへの訴えというのでもなく、ただ「苦しい…」と息を弾ませるだけだった。

 沈黙が続いたあと、国吉さんは突然、将校から小銃を手渡された。

 「この壕を脱出して大隊本部の壕へ行くように」とのことだった。本部はおよそ200メートルほど離れた場所にあるはずだが、明るいうちはとても脱出できるような状態ではない。米兵に狙い撃ちされるのが目に見えていたからだ。

 それから1、2時間後。既に太陽は洞穴の真上に達しかかっているようだった。国吉さんは、ぐったりしている将校をゆすった。「中尉どの、大丈夫ですか」と声をかけたが、反応がなかったという。

 「目以外は無傷だったのに…」

 国吉さんは、自分を助けてくれたこの将校のことを戦後、かたときも忘れたことがない。

 「名前を知らず、ただ“中尉どの”といつも呼んでいました。この人がいなければ一番悲惨な死に方をするのは私だったのです。爆死するのでもなく、生きたまま死んでいく運命にあったわけですから。中尉の遺族に会って頭を下げたいのですが、名前が分からず今日まで来てしまいました」

 将校は意識がほとんどない状態で、ただ本能的に国吉さんを救い出していたのかも知れない。だが、いずれにしろ命の恩人には違いないのである。

 悲しみに暮れているうちに夜になった。気を持ち直し、洞穴を脱出。駆け足で本部のある壕を目指した。

本部壕を見つけ、中に入ると、ものすごい熱気だった。奥の方で、炎が見えた。火炎放射でやられてしまったようで、あたりは黒こげとなった死体が散乱していた。国吉さんたちの壕が馬乗り攻撃で全滅したことを報告に来たのだが、大隊本部も人ひとり生き残っていなかったのである。

 再び壕をあとにした。それからの数日間は米兵に捕まりたくない一心で逃亡生活が続いた。もう何日もメシを食った記憶がない。小便を飲み、のどの渇きに耐えた。

 「キビ畑の溝を見つけては、散乱している日本兵の死体をいくつか引き寄せて隠れみのにしていました。米兵の近づく足音が聞こえ、どうやら生存者捜しをしているらしい。私は完全に“死体”になり切ったものです」

 腐乱した死体にはハエやウジがいっぱい。耳や鼻、さらに肛門にまで入り込もうとするので、必死だったという。

 このように逃げまどいながら、いつしか摩文仁までやってきていた。摩文仁には「鉄血勤皇隊」として結集された学徒兵たちの姿が何人も見られた。

 「彼らも私同様、必死で生き延びてきたのですが、“五体満足のものは突っ込め”との将校の命で次々と敵に切り込みをかけ、散っていきました」。国吉さんもどさくさの中で気を失ってしまった。

 

 体中にはい回るウジで正気に戻った。ふと、足音が近づいてくる。とっさに手投げ弾に手をかけたが、その手のひらに激痛が走った。大きな靴で踏みつけられたのである。次の瞬間、引っ張り上げられた。見ると、目の前には米兵の顔。

 「小さい体でせいいっぱい“殺せ”と暴れたのですが、声になりませんでした」。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月4日掲載

 

(6)軍服のままの遺体 遺骨にすがり泣く母親

 国吉真一さんはハワイの捕虜収容所から昭和22年1月末、復員してきた。神奈川県の浦賀に上陸したあと、再び船に乗り、沖縄に戻っている。

 復員後まもなく、自宅に那覇市立商業学校で一緒だったある級友の母親が訪ねて来た。そして、国吉さんに言った。

 「真ちゃん、うちの息子はいつ帰ってくるの。ハワイで見かけたといううわさを聞いているけれど…」

 母親の問いに、国吉さんは絶句した。その級友の死を目の前にしていたからである。最後に米兵に馬乗り攻撃され、全滅した具志頭村仲座の洞穴が級友の戦死場所だった。当時、その洞穴には国吉さんたち通信班6人のほか、数多くの部隊の兵隊たちがなだれ込んでおり、その中に商業学校の学徒兵数人の姿もあった。息子は生きていると信じきっている母親に「馬乗り攻撃に遭って爆死した」と告げるにはあまりにも残酷な気がした。だが、いつまでも真実を告げずに期待を持たせるのはもっと酷な気がして、数日後、級友の最期を話してやった。

 母親は言葉を失い、ただ「息子の死んだ場所をこの目で確かめたい」とだけ話し、国吉さんに案内を求めたという。

 数日して、商業学校学徒隊の遺族数人は国吉さんに連れられて具志頭村仲座にやってきた。戦後まもないこともあって、洞穴のある一帯は“はげ山”の状態だった。

 国吉さんらは直径1メートルほどの洞穴入り口からロープをつたって降りた。中は暗く、明かりを手にしていた。ハブがいる危険性もあったが、遺族らの気持ちははやるばかり。底に足をつけた一同は眼前に広がる光景に一瞬たじろいだ。

 「全滅した時のままだったのです。多くは白骨化していましたが、中にはミイラ状態の死体も。軍服を着て岩にもたれかかり、右肩に鉄砲を担いでいました」

 洞穴内の各所で日本兵たちが死に絶えていた全滅の日の光景は、一日中じっと見つめていたこともあって国吉さんの脳裏に深く焼き付いていた。

 母親たちが「自分の息子は頭の骨の形や歯のはえ方で分かる」と言うので、国吉さんも記憶をたどりながら身元確認を手伝った。「あなたの息子は確かこのあたりにいました。ここにある五つの骨のうちのどれかでしょう」

 母親たちは、自分の息子の骨を見つけると拾い上げ、号泣した。死んだ学徒兵たちは10代半ば。小さな頭ガイ骨を胸にしっかりと抱きしめ、いつまでも泣いていたという。

 「何と言って慰めたらいいか分かりませんでした。死んでいく時、学徒兵たちはみな“オッカー(お母さん)”と叫んでいましたからね。何ともやりきれない気持ちでいっぱいでした」

 具志頭のこの洞穴は国吉さんが所属していた稲垣通信班が全滅した場所でもあるが、班長だった稲垣軍曹の夫人が最近になって国吉さんを訪ねている。終戦から35年目、大分から二男をつれてやって来た夫人は具志頭の洞穴に案内され、「お父ちゃん来たのよ! 二男もこんなに成長しましたよ」と涙声で語り、手を合わせていた。

 現在、個人タクシーの運転手をしている国吉さんは言う。

 「沖縄で戦争があったなんてうそでしょう、と若い観光客のカップルがゲラゲラ笑うんですよ。腹が立つのをこらえて言ってやるんです。肉親の死を決して信じようとせず、今でもかたくなに帰りを待っている遺族も多いのですよ、とね」

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月5日掲載

 

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