【Archive 1-4】読谷村伊良皆クニー山壕の悲劇 - いまも嘉手納弾薬庫内のどこかに眠る16名の遺体

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/81-17-3.jpg
写真解説:    【原文】 After learning that the Marines meant them no harm the native mother finally told them she had still another child who was sick inside the cave. The Marines later learned that she had choked the child almost to death to keep it from crying and disclosing
【和訳】 母親は、海兵隊が住民に危害を加えないことを知り、ようやく、壕内にはまだ病気の子供がいることを告げた。海兵隊は後日、その母親が、自分たちの潜んでいる場所が子供の泣き声で発見されないよう、子供の首を死に至らしめる寸前まで絞めたことを知った。(幸いにも)その子供は生き残った
撮影日:    1945年 4月 2日

 

 

1945年4月2日 伊良皆クーニー山壕の集団自決

 

伊良皆の人々は生き残った人たちもみな4月3日までには米軍にとらえられ、楚辺の収容所に送られた。それから20日後には東海岸の金武、漢那、宜野座の収容所に送られた。

 

読谷に帰ることができたのは翌年の8月頃からである。ところが多くの土地を基地として取られた伊良皆に住処を建てる許可はおりない。住居許可が出たのは、1951年11月からであり、全区民が帰還できたのはその翌年となった。

 

クーニーの壕は嘉手納弾薬庫の金網のなかにあり、遺骨収集もできなかった。44年後、やっと遺骨収集調査が許されたが、その時には一体の遺骨も見つけることができなかった。

 

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戦禍を掘る 出会いの十字路

[8]クニー山壕(上)薄暗い壕内で沈黙

米軍がガス弾撃ち込む

 

 住民はその壕の中でまる一日、じっと息を殺して潜んでいたという。米軍に気づかれることを恐れ、唯一の明かりの石油ランプも前日から消されたままだ。入り口からやっと届いた光も隣にいる人の顔をわずかに判別できる程度。薄暗い壕内の沈黙を破ったのは突然撃ち込まれた米軍のガス弾だった。

 

 幼児は泣き叫び、母親はわめきちらす。混乱した壕内にガスが充満していった。苦しさにたまらず何人かが「明るいところで死のう」と外に出た。さらに数人、また数人と続く。これらの人たちは米軍に収容され、命を失うことはなかった。

 

 だが、壕内には“鬼畜米英”の教育をかたくなに信じ切り、外に出なかった人たちがいる。その数は30人とも言われている。

 

 読谷村伊良皆のクニー山壕。今回、県の調査で初めて報告された壕だ。多くの証言者がいながら収骨はいまだにされていない。それは住民らが捕虜収容所から帰ってきたときには、一帯は金網が張りめぐらされ、入ることができない基地の中。現在の知花弾薬庫だ。

 

 伊良皆区の区長、上地盛勇さん(40)は当時2歳。クニー山壕に母親の胸に抱かれて避難した。他に家族は祖父と兄弟5人。父親と兄2人は兵隊、防衛隊員として家になくそのまま帰ってきていない。

 

 クニー山壕のことはよく話題になったが、収骨の話が出たのは今年2月になってから。「正直言って驚いた。当然終わっているものと思っていたから…。伊江島の収骨がそのころあったから収骨のきっかけになったと思う」と上地さんは語る。

 

 上地さんは「基地の中だからあきらめきっていたかもしれない基地内にはまだ遺骨が散在しているのではないか」とも言う。

 

 上地さん自身、終戦から10年たったころ、読谷岳で兵隊の白骨を見ている。鉄かぶとをかぶったままの頭がい骨。靴もしっかりと残っていた。その横には38式歩兵銃。「びっくりして一目散に家に逃げ帰った。あのほかにもたくさんあるのではないか」と言う。今は立ち入りが禁止される基地の中、米軍が収骨をやっているのかどうかは分からない。

 

 クニー山壕は日本軍が掘った壕。松の木でしっかりと枠が組まれ中はかなりの広さ。軍隊が壕を捨て退却したあとに、住民らがわずかばかりの家財道具を手に入ってきた。

 

 上地さんの兄の盛次郎さん(50)は当時のもようをよくおぼえている生存者の一人だ。「今でもふと思い出すが、いい気持ちはしない。知り合いも多かったし…」と言葉少なだ。

 

 米軍の本島上陸から3日目のことだ。クニー山壕でも、また集団自決があった。手りゅう弾で死ねた者もいるし、また家族同士が他の方法で殺し合ったことも何人かからは話されている。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1983年8月23日掲載

 

[9]クニー山壕(下)日本兵が米兵射殺

手りゅう弾で集団自決

 

 米軍が本島に上陸した翌日の20年4月2日、クニー山壕の“悲劇”は始まった。壕の中には伊良皆区民を中心に近くの楚辺、大湾らの住民も加わっていた。その住民らの不幸を大きくしたのは、部隊からはぐれた日本兵が2人交じっていたことだ。

 

 2日の夕方、クニー山壕も米兵によって発見された。包囲された住民らは、ただ沈黙で時間がたつのを待つだけ。そのうち米兵が中のようすをうかがいに入って来た。生存者によると米兵らに攻撃のようすはなかったと言う。民間人の保護のため、壕内を探索に入って来ただけだ。

 

 壕内の住民は緊張して暗闇に潜んだまま。その時突然だ。日本兵の1人が銃を発射、米兵1人を射殺した。米軍はすぐに退却、その後は重苦しい時間が壕内で過ぎていき、翌朝を迎える。

 

 呉屋正保さん(54)=読谷村伊良皆=は壕内で父親を失った一人。奥さんのトシさん(50)もまた長姉の母子、長男の嫁母子を失っている。呉屋さんはポツリポツリと当時のもようを語った。「朝になったら油のにおいがした。今でもそれがなんだか分からないが壕から出たときには山は全部焼かれていた」。

 

 やがてガス弾が壕内に撃ち込まれ、壕内では苦しさを訴える声があちらこちらでする。2時間ほどだって、午前10時半ごろにはなっていただろうか。日本兵らが「死にたいのは集まれ」と大声で叫び、その声を待っていたように、幾重もの輪が兵隊を中心にできる。やがて爆発音が壕内に走った。手りゅう弾による自決だ。

 

 「手りゅう弾の爆発音は1発しか覚えていない。うめき声も記憶にないから死んだ人たちは全員即死ではなかったか」と呉屋さん。そのとき死んでいったのは前列のグループだ。呉屋さんや奥さんの肉親もその輪の中にいた。トシさんは自分で首をヒモで絞めたが死にきれず捕虜に―。2人は記憶しないが、肉親同士がお互いに殺し合ったこともあったとの話も聞いた。

 

 手りゅう弾で死んだのは呉屋さん夫婦の関係者が5人。その他は「兵隊が2人。シナ帰りの兵隊だが1人は伊良皆の人。もう1人は波平の出身だが良く分からない。また姓は分からないが同じ字のヨシと言う女性、夫もシナで戦死しているはず」と呉屋さん。

 

 さらに壕内には80歳を過ぎた目の不自由な老女が2人いた。1人は伊良皆、もう1人が楚辺の人ということしか分からない。また同じ字内の家族が3人、そしてトシさんの同級生が1人―これらの人たちは壕内から出ることはなかった。

 

 呉屋さん夫婦がはっきりと知っているだけでも14人。壕内は暗くて広く、だれがいるかも判別できなかったから、その数はさらに増えると予想される。

 

 呉屋さんは「三十三回忌も終わったし、もういいと思ったが、いつまでもこのままではいけないし…。しかし、もう遺骨の判別はできないだろう」と、既に手がかりとなる遺品が土と化したことへの不安をもらす。

 

 だが、トシさんは「姉さんたちの遺骨はすぐに分かるはず」と不安はない。なぜなら、2人の姉はわが子を抱きかかえたままで眠っているはずだからだ。しっかりと38年間も―。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1983年8月24日掲載

 

クーニー山壕での「集団自決」

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第三節 それぞれの体験

 

 伊良皆部落の東にあるクーニー山壕は、今では地形が変わり所在ははっきりしないが、現在の嘉手納弾薬庫内にあった。


 クーニー山壕は旧日本軍が掘った壕で、松の木でしっかりと枠が組まれ、中はかなりの広さがあった。戦火が激しくなり、日本軍が壕を捨て退却したため、住民がわずかばかりの家財道具を持って入ってきた。それが「集団自決」という悲劇につながるとはだれも予想しなかったであろう。


 悲劇を予感させたのは米軍が本島に上陸した翌日の一九四五年四月二日の出来事だった。

 

 壕の中には伊良皆区民を中心に楚辺、比謝、大湾の住民らも加わっていた。その住民らが不幸だったのは、壕内に部隊からはぐれた日本兵が二人いたことだった。

 

 四月二日の夕方、クーニー山壕も米軍に発見され、米兵は壕内探索に入って来た。生存者の証言によると、米兵は攻撃のようすはなかったという。

 

 そんな中、突然日本兵の一人が銃を発射、米兵一人を射殺した。米軍はすぐに退却、壕内は重苦しい空気に包まれたままその日が過ぎた。

 

 翌日は、壕の周辺は米軍によって放火され、壕内にも放火用に使ったとみられる油の臭いがたちこめた。生存者の一人は「壕から出ると、山は全部焼かれていた」と後に証言している。

 

 壕内が修羅場と化したのは午前十時半ごろだったという。日本兵が「死にたいのは集まれ」と大声で叫び、十数名が集まったとたん手榴弾が爆発した。死者は住民一四人、兵士二人だったとされる。壕内は暗くて広かったため、何人が避難していたか判別できない状態だったことを考えると、死者はもっといたかも知れない。犠牲者の一人上地※※は、このほど新しく判明した。

 

 犠牲者や遺族の悲劇は戦後も続いている。一帯が米軍に接収されフェンスが張りめぐらされたため、収骨もできずにざらし状態にあるからだ。

 

 収骨話が出たのは一九八三年二月だが、米軍基地ということもあり厚生省もなかなか重い腰をあげなかった。ようやく一九八九年十一月二十九日から同省による沖縄戦戦没者遺骨収集」が行われた。しかし、遺族の願いむなしく、一柱の遺骨も収集できずに作業は終了した。いまだに全容が解明されぬままであり、遺族らは二重の悲しみを背負い続けている。