[消えた戦跡 もの言わぬ語り部たち](3)安富祖の家族壕 恩納村
自分の手りゅう弾で3家族「集団自決」 ただ1人生き残った父は口をつぐんだ
「わったーうやー、ぬーんあびらんかった(私の親は何も話さなかった)。いくさゆーぬはなしぇ(戦世の話)」。松田真純さん(71)=読谷村=は16日、恩納村安富祖の山の一角を見詰め、静かにつぶやいた。
1945年4月6日、山の斜面に掘られた壕で「集団自決(強制集団死)」があった。当時の読谷山村楚辺から避難した2家族11人と、当時の首里市か那覇市出身の母子が死亡。当時17歳だった父眞一さんは唯一、生き残った。
「自決」が起きたのは、水くみを頼まれた眞一さんが約100メートル先の民家にある井戸に行って間もなく。防衛隊に召集されていた眞一さんが家族に会おうと壕を訪れた時に持っていた手りゅう弾が、壕に残る両親と4~16歳のきょうだい5人の命を奪っていた。
「おやじは1週間ぐらい、そこに(遺体と)一緒に居たらしい。母が聞いたと言った。自分の手りゅう弾。持ってこなければ…。悔やむよな」。父は壕を出る時、家族ごとに遺体を並べた話も人づてに聞いた。
真純さんは車の免許取得後、父と一緒に壕まで2度行ったことがあるが、父はいつも口をつぐんだ。56歳で亡くなるまで戦争体験を話すことは一切なかった。
「母もあまり聞けない感じ。父は全部、自分の中に押し込めたんだろう」。大工の棟梁(とうりょう)で人望が厚く、「眞ちゃん兄さん」と慕われた快活な父。仲間が集まる家はいつもにぎやかだった。「今考えると1人になることが嫌だったかもな」
沖縄戦時、恩納村は中北部出身の15~18歳の少年で編成された第二護郷隊が、米軍の北部進攻を遅らせるための橋の爆破などゲリラ戦を展開していた。米軍による激しい攻撃の中、住民や避難民も多数犠牲になった。
読谷山村(現読谷村)の住民は国頭村が指定疎開地で、多くが経由地である恩納村にも避難していた。読谷村史によると、安富祖の「集団自決」は壕内で受けた米軍の銃撃が引き金となり、追い詰められた避難民が自ら命を絶った。
松田さん一家を含む読谷村の2家族の名前は村史などに残る。犠牲になったもう一家族の母子はいまだ特定されていないというが、当時を知る當山幸輝さん(89)=恩納村=は「(安富祖で)住み込みの子守をしていた首里出身の女性と2歳ぐらいの双子の男の子2人だった」と証言する。
壕は2017年に特定されたが、すでに埋没していた。母子の遺骨が「まだ眠っているかもしれない」と話す幸輝さん。自身も厳しい戦世を生き抜いた。
「何もかも忘れようと思うけど、忘れられんよ」
(社会部・新垣玲央)
『楚辺誌「戦争編」』では、楚辺の字民の一部が避難していた恩納村安富祖での「集団自決」を次のように記している。
「当初《真末喜名口小》、《松田新屋》、《東喜名口》の三家族で、安冨祖のシラカチヤーという所に避難していたが、一か月後に《東喜名口》の家族は楚辺に戻って行った。その後、防衛隊に召集されていた《松田新屋》の長男が、面会にきたが、そのとき手榴弾を持ってきてあったとのこと。ある日、壕内で米軍の銃撃をうけてしまったことから、危機感を感じた二家族は、四月六日、《※※》の長男・※※を水汲みに行かせた後に、手榴弾で『集団自決』してしまった。そこでもまた、二家族一一人が犠牲となってしまったのである」(六四〇頁)。
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