伊江島 - 集団死の背景
4月16日、上陸した米軍は一挙に城山の日本軍陣地に迫る。
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]
4月21日、伊江島の6日間戦争は米軍の占領宣言で終わった。軍の拠点となった島の「軍官民共生共死」は、島の半数の住民の死をもたらした。
伊江島での6日間の戦いで、米軍は4,706人の日本人を殺し、149人を捕虜にした。戦死した多くは民間人だった。戦闘中やその後の遺体の検査中に、兵士と民間人を区別することは非常に困難だった。1,500人の民間人が武装し、日本軍の制服を支給されたと推定される。他の何人かは米軍の軍服を着ていた。
また民間人の壕に日本兵、警備隊や防衛隊が手榴弾などを持ち込み、集団死を引き起こす「集団自決」が連続しておこる。しかしそれは本当に「自決」なのだろうか。
軍と民間人が混じる伊江島の壕では、連続して集団死がおこっていった。沖縄戦における住民の集団死は下記のような幾つかの条件が重なり誘発される。
- 離島などの孤立した地形で、逃げ道がない
- 日本軍の拠点が置かれ「軍官民共生共死」が徹底
- 中国などでの日本軍の経験あるいはその話が心理的脅威となる
- 日本兵あるいは防衛隊員が手榴弾などを持ち込む
- 日本軍が捕虜になった住民を実際に虐殺、あるいは殺すと脅迫
4月22日のアハシャガマでの集団死の翌日、アハシャガマのすぐ西側にある一ツ岸ガマでも、住民が米軍の捕虜にならないよう、防衛隊員が壕内での手榴弾での住民の集団死を主導的に実行している。むろん、防衛隊員が上からの指示なく勝手に何かを主導することはない。集団死は決して「米軍に追いつめられて」発生するのではない。
日本軍は「東洋一」と喧伝した飛行基地を建設するため住民を資力として文字通り総動員しておきながら、いざ占領が目前にせまると、住民が米軍の資力となることを恐れ、傷病兵と同様、住民に死を押しつけたのである。
伊江島・一ツ岸ガマの集団強制死
一ツ岸ガマは、前日に集団死のあったアハシャガマの近くにあり、ゴルフ場の中にあるため、下記のマップではおよその場所を示しています。
軍と民間人が混じる伊江島の壕では、連続して集団死がおこっていった。日本軍兵士が住民に捕虜にならないよう「自決」を強要するため、徴用した防衛隊員を軍令で厳しく統制し利用、住民に集団死を強制するという構図は渡嘉敷島の「集団自決」にも共通するものである。日本軍は防衛隊員に手榴弾を渡し、住民が捕虜にならないよう主導的行動をとらせたと考えられる。いわゆる「命令の形式をもってせざる命令」である*1。
伊江島「一ツ岸ガマ」の生存者、大城安信さんの証言
強いられた死「集団自決」から70年 ( 3 )
大城安信さん (1) 伊江村 今も残る傷の後遺症琉球新報 2015/3/30
スパイとして砲弾の中に追われる住民
英語がしゃべれるものは「スパイ」、投降する者は「スパイ」、軍に従わないものは「スパイ」。「スパイ」という言葉は魔法のように住民を呪縛する手段として使用された。
緑の芝生と空の青さがま ぶしい伊江島のゴルフ場の 中に「一ツ岸ガマ」はあっ た。70年前の1945年4 月に「集団自決」(強制集 団死)が起こった場所だ。 大城安信さん(19)=伊江 村、当時9歳はその時に 負った足の古傷の痛みをこ らえながら、ゆっくりと歩 いてガマに案内してくれた。
「戦争というのは殺し合いで、いずれ自分も死ぬか 殺されるのだろうと思っていた」。9歳にして死を覚 悟していたという大城さん は、70年前の遠い記憶をたどるように語り始めた。 ガマには防衛隊員3人を含む同じ門中の人たち約30人が隠れていた。
4月上旬にガマにたどり着いて、しばらくしたころだった。 「この中にスパイがいる」 という情報が入ってきた。 1組の夫婦がガマから出て 行った。「旦那さんの方が英語が話せたから、 スパイ と疑われたようだ」。 方言を話すだけでも日本軍にスパイ視されていた時代。 大城さんは「ガマからスパイ と疑われている人が出て行 かなければ、ここにいる全員がスパイ視されるという空気だった」と説明する。
4月23日午前9時すぎだ った。入り口で「出てきなさい」とフィリピン兵が日本語で呼び掛けてきた。し かし誰も出て行こうとしな い。 「投降すれば女は辱められて殺され、男はひき殺される」と教えられていた ことに加え、出ればスパイと見なされ、どこかに隠れている日本兵に殺されるのでは、という恐怖もあっ た。「日本兵は日中戦争で散々人を殺していると聞いていたから(米軍の)捕虜になることは考えられなかった。みんなで死ぬか、殺されるかのどちらかだった」。
防衛隊員が先導し住民を集めて爆雷を爆破
しばらくして米軍がガマ の中に発煙弾を投げ込み、 煙で目の前が見えなくなっ た。防衛隊員が1カ所に集まるように呼び掛け爆雷が爆発した。 死に切れなかっ 別の人がもう一つの爆雷爆発させた。
大城さんはしばらく気絶していたが、足の痛みで大泣きした。ガマの入り口近くにいた父親は、大きな岩 爆風が遮られ助かってい た。「安信、生きているの か」。父親に背負われガマから出た。周辺に首や胴体が飛び散っていた、その時の惨状は今も忘れられない。 後日、母親も米兵に助け られ、親子3人は奇跡的に無事だった。
ガマで負った傷は2年前から悪化し、痛み止めの薬と湿布、歩く時のつえが欠 かせない。医師から「古傷が原因。完治は難しい」と 言われた。大工の仕事も辞めざるを得なかった。70年前に負った傷の後遺症に今も苦しめられている 大城さん。「私のような者 もうこれ以上出してほし くない。そのためにも二度 と戦争はしてほしくな い」。 (知花亜美)
「皆、今死ぬから固まるように」
後年、壕を訪れた時の大城安信さん
4月23日、壕には24人がいた。そこに、敵軍の兵士が流暢な日本語で投降を呼びかけた。「民間人は心配しないで出てきなさい」米軍の捕虜になれば殺されると教えられてきた大城さんら住民は、投降に応じなかった。
数時間後、米軍は壕の割れ目から煙弾を投げ込んだ。その時、防衛隊員の大城梅吉さんが壕にいる住民に大声をかけた。
「皆、今死ぬから固まるように」
大城さんを含め24人は壕の中の石垣の裏に固まった。防衛隊員は2個の爆雷を準備。1個を破裂させた。隊員は死なず、大城さんも無事だった。
「目の前が真っ黒になり、周りがよく見えなくなりました」
防衛隊員は2個目を破裂させた。大城さんは気を失い、数分後、目を覚ました。
「周りは真っ白な土砂でそこに埋まっていました。人の頭が5つ転がっているのが見えました。一人は11歳の少年でした。残りの四人の頭は皮がむけて誰かはわかりませんでした」
「身体が痛みはじめ、埋もれながら泣き出しました」
バラバラになった遺体が記憶から消えない(大城さん画)
この「集団自決」で22人が亡くなった。生存者は大城さんと母の2人だけだった。父は壕の外の岩間に隠れていて、「集団自決」にあわなかった。大城さんは爆雷の破片で胸を負傷し、下半身を骨折した。
大城さんが壕の外に出ると、米兵が立っていた。大城さんは、収容所に連れて行かれ、そこで治療を受けた。
学校では生徒に「米軍の捕虜になれば殺される」と教えた。しかし、米軍は捕虜となった大城さんを治療した。授業はフェイクだったのだ。
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住民を殺すよう命じられた防衛隊員の青年は・・・
*1:See.伊藤秀美「沖縄・慶良間の「集団自決」~ 命令の形式を以てせざる命令」紫峰出版