独立混成第44旅団工兵隊壕 具志頭村安里

琉球新報 戦禍を掘る 出会いの十字路

[10 独立混成第44旅団工兵隊壕(上)]いまだ30柱が眠る

報復攻撃で小隊全滅

 「敵戦車がすさまじい砲撃を壕に浴びせかけている間、また、砲撃が終わってから米兵が引き揚げていくまでの間は全く生きた心地がしなかった」。独立混成44旅団工兵隊(球18800部隊703部隊)第3小隊の生存者、吉川正潤さん(70)=那覇市楚辺=はそういって小隊の最期のもようを話し始めた。

 

 九州で編成された同旅団は沖縄への配備途中、米潜水艦の攻撃を受けて多くの犠牲者を出した。昭和19年9月、名護市で現地召集など行い再編成。玉城村糸数城跡の陣地壕に布陣し沖縄戦を迎えている。

 

 戦闘が始まってから糸数壕を出た旅団主力は識名方面に進出。首里をめぐる戦闘に参加したが、敗退。以後、南部を目指し、各地で抵抗しながら、最期の地・具志頭村安里の陣地壕にたどりついた。6月4日ごろだったという。吉川さんが配属された第3小隊の壕は日本軍が構築した陣地壕だったが、吉川さんらの第3小隊は、先に駐屯していた石野隊が異動した後でその壕に入った。

 

 壕は岩山をうがって北向きに造られ、高さ2・5メートル、幅もそれぐらい。奥行きは20メートルほどもあり、鍵型になっていたという。米軍の激しい砲撃で入り口がつぶされてしまった。現在の壕跡は深い樹木に覆われたままだが、戦闘の最中、崩れ落ちてきた大岩が一つ38年前の当時の姿で横たわり、壕内には第3小隊の遺骨約30柱が掘り起こされるのを待ちながら静かに眠っている。

 

 吉川さんの証言によれば、悲劇の始まりは米軍攻撃前日・6月13日にのこのこと現れた敵の斥候兵に射撃を加えたことだった。「こちらが壕にひそんでいることを敵は全然気づいていんかっただけに、斥候兵への射撃が文字通り小隊全滅の“引きがね”になってしまった。あれほどの戦だったから、あの時は生き長らえたとしてもその後どうなったかは分からない。でも何人かは生き抜いたにちがいない」と声を詰まらせた。

 

 発見されたその日は何事もなく過ぎた。その夜のうちに他に移動すれば何十人もの人が犠牲になるのは避けられたかもしれない。しかし、前日12日には米軍が壕前を通過。南部へと前進して行ったのを見ていた第3小隊の井上中尉は「ここが死に場所」と覚悟を決めたのだろう、移動命令は出なかった。

 

 「小隊長がその思いならと小隊みんなが覚悟を決めた」と吉川さんは話したが、運命の日の14日、吉川さんは部下2人をつれて壕から少し離れたたこ壷に入るよう命じられた。「どうせ死ぬのなら、現地召集されて以来の短い付き合いだったとはいえ、同じ釜の飯を分け合った仲間と一緒だ」と激しく小隊長に食ってかかったが、聞き入れられず、崎本部出身の初年兵・崎山さん(名前不詳、当時25、6歳)と補充兵の仲宗根さん(同、35、6歳)の2人を連れて、たこ壷に陣取った。吉川さんの運命の別れ道だった。そして、いよいよその日の昼前、米軍は壕に通じる細いあぜ道を戦車3両を先頭にして押し寄せて来た。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年8月25日掲載

 

[11 独立混成第44旅団工兵隊壕(下)]壕の入り口崩れる

生存者の吉川さん証言 たこ壷で命びろい

 ズドーン、ズドーン。第3小隊に気づかれぬよう、壕のすぐ近くまで接近していた米戦車が火を噴いたのは午前10時すぎだったと吉川さんは述懐する。突然の砲撃で壕内から14、5人の戦友が飛び出してきたが、壕入り口にピッタリ照準を合わせていた機関銃は容赦なく次々となぎ倒していった。まるでアリの子でもつぶすような光景だったという。近くのたこつぼでそのもようをつぶさに眺めていた吉川さんは「壕内にいれば、生き延びられるかもしれない。出てくるな、出てくるんじゃないぞ」と念じるだけで、手の出しようもなく、ただ見ているだけ。「無念さだけが残った」とポツリとつぶやいた。

 

 そのうち、壕の上部が崩れ、大岩が吉川さんらのひそむたこつぼを覆い隠すように落下してきた。「そのお陰で命拾いしたようなもの」と言うが、攻撃が終わった後も立ち去ろうとしない米兵を前にして、砲弾の破片で右腕と胸の2カ所に傷を負った吉川さんは2人の部下に「音を立てるな。もう少しの辛抱だ」と励ましながら苦しさに耐えた。意気揚々と米軍が引き揚げていった夕暮れまで、およそ7、8時間も狭いたこつぼの中で息を殺していたという。

 

 シーンと静まり返った戦場跡。たこつぼからはい出た3人の目に映ったのは、壕前広場でむなしく戦死した戦友の遺体と無残にも崩れ落ちた壕。土石で埋まった入り口上部には、わずかながらも人の出入りできるようなすき間がありはしたものの、中で人が動く気配は感じられなかった。「転戦中に、足に負傷し、動けなかった垣花出身の石原伍長や本部出身の仲宗根勝正上等兵らを含め、約30人が中に埋まっている、とは思いはしたが、生きているとは考えられなかった」と、3人は心を後に残しながら、南部へと逃げた。吉川さんはその後、崎山さんや仲宗根さんと別れたが、戦後になってからも2人の消息は分からない―と話した。

 

 上部が一部分あいている状態の壕を確認しているのは吉川さん以外にもいる。仲宗根勝正さんの長男・宏さん(45)=那覇市首里=もその一人。本部の実家を訪れた吉川さんから、父親の最期のもようを伝え聞いた宏さんらは家族総出で具志頭に出かけたが、その時も「子供だったが。上の方があいていたのは覚えている」と宏さんは言う。「収骨できなかったので、その場所から石ころを遺骨代わりに拾って来ました。今でも仏壇に祭り、毎年慰霊の日には、壕にもうでます。埋まったままであるのをいつも気にしていた祖母も12年前に亡くなりました。私ら遺族からすれば、遺骨がそこにあると分かっている以上、一日も早く掘り出してほしい」。

 

 独立混成第44旅団工兵隊のモニュメント・萬朶の塔は第3小隊壕近くに、沖縄県遺族連合会の手で昭和43年に建てられた。村木福次隊長以下200余柱が合祀(し)されているが、具志頭村援護係の話では、戦後第2小隊壕を掘り起こし収骨したことはないという。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年8月26日掲載