与那国で遭難、慰安婦にされた女性たち

 

従軍慰安婦船の爆撃事件

1944年12月台湾から連行された朝鮮人従軍慰安婦53名を乗せた船が、宮古島に行く途中、久部良港に到着。夜出発する予定であった。しかし、アメリカの艦載機に発見され、機銃掃射とロケット弾の猛攻をくらい、46名の従軍慰安婦がなくなった従軍慰安婦は軍の機密事項であったため、おおっぴらには公表されていない。
遺体は、極秘のごとく火葬された。与那国島内での戦死者が38名であるのに対して、46名の死者の数は入っていない

与那国島の歴史 - 太平洋戦争 - 『島の散歩』

 

沖縄県史

朝鮮人慰安婦の遭難

平良町西里の医師 (三一歳)

 

昭和十八年、平良市西里で歯科医院を開業していました。当時は 篠原、西村、高磁、それに私の四か所がありましたが、戦争が次第 に悪化の一途をたどる中で他府県から来て開業していた篠原、西村 氏は各々郷里へ引き揚げて行きました。十九年、いよいよ、宮古 戦争にまきこまれると云う事で私も家内を島根県疎開させまし た。身重の体で、子供二人をつれ、家族別れをして、妻は旅立ち母と私と妹三人で宮古に残る事になりました。家族別れの生活は不本意だし私も一緒に行きたかったのですが、軍部はそれを認めませんでした。

 

十九年末ごろ、町の大半が空災で焼失しましたが、西里東部にあ った私の診療所が焼け残りました。

 

そこを軍医部が集会所として接収したのです。軍医部の脇田大佐 と知り合い、その情実で、召集からはまぬがれました。「本来なら 君も行くべきだが、それを免するから、台湾に行って来い」と云う のです。鏡原小学校にある陸軍病院マラリア思者があふれ、その 思者達を移動させるに担架が必要だが足りない。医薬品も欠乏して いる。台北帝大の医学部の分室まで行きその不足している物資をと って来るように云われました。

 

暁部隊と呼んでいた船舶隊の川辺中佐にかけ合い小型の機帆船が 用意されました。当時、町会誠風をしていた松原重夫が、疎開している町民の視察と云う名目で同乗する事を申し込んで来ました。船 が出る事を知って織物組合長をしていた座間味胡幸氏がたずねて来ました。宮古には生活物が払底しているし、ついでに何か買って来た方が良いと云うのです。織物組合の金を使って呉れないかと 時の金で五万円、寝耳に水です。好きな様に使って、タバコ、紙類 を買って来て呉れと云うのです。どんな世の中に変るかも知れんか ら二万円だけあずかろう、そうでないとあなたの身のあかしが立たん。但し、ひんびんと船が沈没させられているし、二万円あずか っても、それだけの品物をあなたにとどけると云う確実な約束は出来かねる。ここはいちかばちか、あなたは二万円出す。私は命がけで行く。事の成功、不成功は問わぬと云う一札を入れろと云いまし た。それはその通りだと云う事でしたが、言葉だけでなく必ず一札入れろと入れさせました。私と嵩原氏の二人だけを乗船させ、三日後、無事台北に着きました。台北駅前にあった医学部分室で話をつけ、台南の陸軍病院から担架と薬品類がとどけられました。

 

キールン港から眺部隊が別の船を仕立てる事になり、私はその間に宮古から来ている疎開者のいる所をたずねたり、物資の買入れを しました。宮古への船がある事を知り、当時の伊良部村長の友利カツ、城辺村長の友利正春、下地村長の下地恵知氏が乗船し、朝鮮人慰安婦五十三名を乗船させ、キールン港を出港しました。軍人二人が、その慰安婦たちについて来ました。キールン港を出て、午前 の四時頃シャリョウ町の桟橋の沖合一海里くらいにさしかかった時、同乗した村長三人が船長室のキャビンに集まり、昨夜の夢見が悪い、船がぼんぼんやられる夢を見た。そこの桟橋に船をつけてお ろして呉れる様、交渉してくれと云うのです。船長にその旨告げる と、軍命令で動かしている船を、予定にない勝手な場所につけるわ けには行かん、強いておりるならそこからおりて泳げと云うので す。桟橋から百メートルくらい沖を通り始めました。伊良部の村長をのぞけば五十歳すぎの人たちがとびこんで泳いで行きました。結局、民間人は私と慰安婦たちが残りました。

 

翌日の夜明け前に与那国に着きました。そこには船をつける岸壁 がないから、霧が晴れてから入港しようと、海外に船を止めまし た。

 

夜が明けそめる頃、北の方から飛行機が一機来ました。アメリカの飛行機なら編隊を組んで来るし、こんな小さな機帆船でも日本軍 は守ってくれるんだ、ありがたいものだと、甲板に出て、朝の空気を良い気持で吸っていました。慰安婦たちはハンカチを振って飛行 機を見ていました。北西の方向に来ると、日本の飛行機ではない! 急降下してくるのです。くもの子を散らす様に甲板に散って船底に もぐったのです。いつでも日本軍が守ると云う事だったしそれを過 信していました。最初の銃撃で十数名慰安婦たちがたおれました。 甲板の上には逃げおくれた女の人たちがなきわめいているのです。 第一波の攻撃がすんだかと思うとくりかえしおそいかかって来るの です。どうしたら命が助かるかと水タンクに腰をおしつけてふるえ ている私の右側に二人、左側には一人、朝鮮の女性がふるえて見動 きできないでいるのです。三回目の銃撃の時、ロケット発射と同時 に破片らしきものが私の上衣のボタンを砕き左手にいた女性の胸部 を貫くのです。ふりむく間もないあっと云う間の出来事で、ほとん ど即死です。発射されたロケット弾が、機関部に命中したらしく、 黒煙が上りました。それでも飛行機は去りません。このまま船上に いては、船もろとも沈められてしまうと、甲板をかけ出しました。 慰安婦たちについて来たシモワキと云う曹長が血まみれになり甲板 にころがっていました。肩からかけていた革袋のカバンを頼むと云うのです。それをうけとるなり、海へとびこみました。船はアンカーをおろしていたのでそのロープの方へたどりつき、それにすがりながら飛行機の来る方向から体をかくしました。だれかが先にイカダを海へ落していたらしくそれにすがりつく慰安婦たちが片方だけにすがりついたため、いかだが転覆し、アイゴー、アイゴーと叫び ながらおぼれていくのです。六回襲いかかったのち攻撃が遠のいたと思います。すきをねらって岸の方へ泳ぎ出しましたが、だんだん疲れて来るので寝泳ぎに変えました。何かが足にふれました。足に力を入れて見たら砂地です。体を反転させると足が地につく。ひざくらいの所を必死に泳いでいたのです。助かったと思うと、涙がボロボロこぼれて来ました。

 

クブラの警防団の人たちが沖の修羅場を見ていた様ですが執拗に攻撃している飛行機を見て、手がつけられないまま、 見ているだ けだったと云うのです。 ふらふらしながら、 たどりついた私を見 て、まだ生きている者がいると云う事で、 救助作業が始まりま た。くり舟を出して死んだ人たちを運んで来ました。生き残った朝鮮の女性は七名だけでした。この人たちは好き好んでイアンピーになったわけではない。日本の強権でつれてこられた人たちだったのです。

 

湾になった港のつけ根の所に小高い砂地の丘があった。五十体程、アダンの枝を集めて火葬し、その丘に骨を埋葬しました。生き残った女性たちから名前をきき三文字の姓名を記し簡単な塗標を立 てました。宮里さんと云う漁業組合長が警防団長も兼ねていて、その人が世話役になっていました。

 

宮崎武之 (ブログ註・独立混成第45旅団) と云う師団長の所へ、曹長から託された革のカバンをとどけました。何が入っているかは見ませんでした。師団長は民家の良いかまえの家に住んでいて、しばらく静養して行けと云っていました。生き残った七名の慰安婦をつれて伊良部島に着きました。伊良部青年学校には与那覇春吉氏が校長をしていて、台湾から着いたと云う事を聞いて疎開させていた妻子の消息を聞きに来ていた。アンペラ一枚が、一世帯のスペース。冬の寒さにこたえていた旨、冷えと栄養失調で宮古へつれて帰ってくれと泣いてすがる苦労の様子を若かったせいもあってありのまま話したら、春吉先生はシワブリ (心配のあまり意気消沈) している。奥さんの眼が悪化したのも、 あの時の栄奨失調が原因していると思う。

 

伊良部島を経て、着のみ着のまま宮古島に着き、七名の慰安婦を野原越の師団管理部へ連れて行きました。慰安所が今の沖縄食梱会社の西隣、西里、野原越にありました。野原越の管理部は垣花恵栄宅にありました。兵隊の性欲と云うのはそんなに強いものだろうか、連日、列をなして順番を待っていました。担架と薬品をとりに行って、それははたさず、二万円の物姿は無一物となり、朝鮮の女性七名をつれて帰ったわけです。

 

二十年五月、もう、町の中は無人化し、城辺村の字友利に疎開し ました。農家の馬小屋を借りてそこを診療所にしました。地方に行く程、物資があるのです。白米、罐ずめ類が。将校たちも治療に来るのですが、治療は二の次で、昼間から持参した日本酒を、私の借家で飲んでいました。軍規は乱れていたのです。

 

五月四日、友利そこばりから、東の海に、黒と灰色の軍艦がズラ リと海を圧する様に呼んでいる。艦上の人の動きがわかる。いよいよ、最後だと、青酸カリを前もって用意していたから、上陸して来 たら、これを飲んだら、"きれいになる" (楽に死ねる) からと老 母と、妹に一包みずつ渡たし、壕に入れた。いっせいに砲門を開 き、頭の上を、すずめが群がる様な音をたてて砲弾が飛んで行く。 三十分くらい間断なくその音が続いて、前方の軍艦が、北に動く。 平安名崎の方に向いている。そこから、上陸して来るのだと心配していたら、そのまま北上して行った。

 

 

オキナワ戦の女たち - 朝鮮人従軍慰安婦

福地曠昭

 

オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦 (南島叢書) [ 福地曠昭 ]

数年前、私は宮古平良市の池村歯科病院を訪ねた。池村さんから53人の慰安婦を台湾から連れて来た話しを伺った。

 

昭和19年の末頃、鏡原小学校にある陸軍病院マラリヤ患者があふれ、医薬品等が不足していた。当時、31歳の歯科医だった池村恒正さんは台北帝大の医学部にマラリアの薬を取りに行くよう軍医部から命令された。小型の機帆船が用意され、無事、台北に着き、医療品等を受け取りキールン港を出港した。機帆船で大型の木造船には朝鮮人慰安婦53人が乗船していたという。
 
 この慰安婦たちには渡辺大尉とシモガキ(下垣?)曹長がついていた。野原越にある陸軍司令部から、慰安婦を台湾から連れてくるように派遣された二人であった。

 

 この機帆船は暁部隊の船舶で、キールンを出た翌日の夜明け前に与那国へ着いた。そこには船をつける岸壁がないので、霧が晴れてから入港しようと、港外に船を停泊させた。久部良沖である。これが悲劇を招いた。空が白みかける朝5時ごろ、北の方から飛行機が2機飛来してきた。翼に赤いマークが見られるので友軍機が防衛に来たと思い、甲板に出て感激していた。

 

 慰安婦たちもハンカチを振って飛行機に感謝の気持ちを示した。北西の方向に来ると友軍機でないことがわかった。飛行機は急降下して機銃掃射で10数名の慰安婦が倒れた。米軍機は3~4回も旋回して銃撃してきた。

 

 甲板の上には逃げおくれた女たちが泣きわめいている。池村さんは水タンクを背景にして小さくうずくまっていた。ふるえている池村さんは水タンクを背景にして小さくうずくまっていた。ふるえている池村さんの右側に二人、左側には一人の朝鮮人女性が、ガタガタふるえ身動きができない。三回目の掃射のとき、破片が池村さんの上衣のボタンを砕き左手にいた女性の胸部を貫いた。ふりむく間もないあっという間のできごとであった。

 

機関部に弾が命中したらしく、もうもうと黒煙が吹き出た。万事休す!このまま船上にいては沈められてしまう。海に飛び込む以外はない。甲板へかけ出しシモガキ曹長が、陣頭指揮をとって甲板からイカダを海へ放り投げた。

 

 泣き叫ぶ女たちを次々と海へ突き落とし、「イカダにすがれ」と命じた。池村さんも協力して指揮をとった。シモガキ曹長が血まみれになり「革袋のカバンと背負うのを頼む。知れ部へ届けるように」といった。池村さんは海へ飛び込んだ。
5回目の機銃がむけられることを予感していたからである。

 

 船はアンカーをおろしていたので、そのロープの方へたどりつき、それにすがりながら飛行機の来る方向から体をかくした。船は燃えつづけていた。イカダにすがりつく慰安婦たちが片方だけにすがりついたためイカダが転覆し、アイゴー、アイゴーと叫びながらおぼれていくのが見えた。海はしけるし、泳ぎを知らない彼女たちは取り乱し、イカダにすがりながら手を放して、波にのみこまれていくのが多かった。

 

 米軍機は6回襲いかかったのち、攻撃が遠のいた。島がみえたので泳いで見ようと決心し、久部良に向けて泳ぎだした。だんだんつかれてくるので寝泳ぎに変えた。何かが足にふれるので足に力を入れてみたら砂地である。体を反転させると足が地につく。ひざぐらいのあさい海を必死に泳いでいたのである。

 

 助かったと思うと涙がポロポロこぼれて来た。久部良の警防団の人たちは沖の修羅場を見ていた様子で救出のた待機していた。しかし、執拗に攻撃してくる飛行機を見て手がつけられないまま見ているだけだったという。ふらふらしながらたどりついた池村さんを見て「どうなっているか」と聞いた。

 

 「船は燃えているが周囲には女性がイカダにすがっている。今のうちに助けて下さい。」と頼んだ。未だ生きている者がいると聞き、かつ米軍機はもう来ないと判断した警防団はすぐ救助作業を開始した。

 

 3~4隻のサバニで手分けして、イカダに助けを求めている朝鮮人慰安婦達を救助した。死体も久部良の海岸へ運んで来た。生き残ったのはわずか7名だけであった。

 

 久部良港のつけ根の所に小高い砂地の丘があった。約50体の遺体を、アダンの葉の枝を集めて火葬し、その丘に骨を埋葬した。生き残った朝鮮人女性たちから名前を聞き、3文字の姓名を記して簡単な墓標を立てた。宮里さんという漁業組合長を兼ねた警防団の世話役として活動した。その後、火葬してねんごろに葬ったと思うが、戦争中のことであり委細はわからない。

 

 丘のガマの中に葬ったままなおであろうか。

 

 重傷を負って辿りついた13人は与那国に駐屯する海軍部隊の衛生兵が応急手当をした。

 

池村さんは宮崎武之という八重山の旅団長を本部に訪ねて遭難の報告した。渡辺大尉も死亡したことを報告し、シモガキ曹長から託された皮のカバンもとどけた。何が入っていたのか分からない。旅団長は民家の良いかまえの家に住んでいて「しばらく静養して行け」といっていた。

 

 生き残った7名の慰安婦をつれて伊良部島へ着いた。伊良部を経て、着の身着のまま宮古島に着き7名の慰安婦を野原越の師団管理部へ連れて行った。慰安所はいまの沖縄食糧会社の西隣、西里、野原越にあった。

 

慰安婦たちは池村さんの家によく遊びに来た。池村さんが京城の歯科医専を出ていたので彼女らとできる親しくしてあげた。戦後も彼女たちは遊びに来た。

 

 戦後3年経って、偶然にも安謝で生き残ったその時の一人にばったり会ったことがある。「何故、沖縄に残ったか」ときくつもりであったが、彼女は「2~3人の遭難者の連中は那覇にいるよ」と語った。那覇に引き揚げ、すぐには朝鮮には帰らなかったようだ。

 

証言 佳村文子(当時将校軍慰安婦

 

佳村文子さん(仮名・当時22歳)は、今、朝鮮に帰っているが、彼女の体験もあわれである。

 

1944年12月10日、太田で川本某(韓国籍創氏名、当時50歳)より、日本本土に行き女工として働けば賃金を多くとれ、1,2年熱心に働けば親姉妹とうるおいある生活を営めるといわれて、ついて行った。

 

前金はほとんど両親に渡し、簡単な荷物だけを持って30名の女工希望者と共に、釜山から関釜連絡船で下関に到着、出迎えの日本人の案内ですぐ別の船に乗せられ鹿児島港に到着、指定された旅館に泊まった。鹿児島市内の工場で働くことになるのかと思っていたら、7日目に突然、軍用船に乗せられた。その時からどうもおかしいなと皆、不安がってふるえ、川本某に訴えると、心配するな大丈夫だ、というだけ。

 

船は夜間だけの運航で、昼間は小さな島に停泊し夜になると運航する状態で、出航して2日目、突然、空襲を受け、同僚30名のうち船首に乗っていた15名全員が死亡。空襲がおさまり、死亡した15名と他の日本人軍属の遺体を船員が簡単な読経ののち、火葬にふした。みんな驚きと恐怖のあまり川本某にすぐ帰してほしいとせまったが、川本某とてどうすることも出来ず、ただ運を天にまかすほかなかった。3日目に、傷ついた船は割合に大きな島に到着、その島が宮古島で、川本某は、ここで日本軍人の将校に皆を引き渡して去ってしまった。
 
将校は、村から少し離れたわら葺の仮小屋へ案内、将校が去った後、下士官がやって来た。「お前たちは明日から日本軍女子挺身隊員となり、軍人のため身を挺して働くことになる。ここにしるした規則は必ず守らなければいけない。若し規則に違反した場合は、直ちに厳罰に処す。」といって、紙切一枚ずつ各自に渡した。

 

それを読んで始めて、日本軍の慰安婦要員であることを知った。「空襲を受けたとき死んでいたら、こんな思いはしなくてもすんだものを・・・。」彼女たちは一晩中、お互い抱き合って、「オンマ」、「オッパ」を呼びながら泣きあかした。

 

佳村文子さんたちは、宮古についた翌日からわら葺の仮小屋で日本軍の慰めものになった。若くて美しかった彼女は滝田大尉の専用となり、多くの兵隊に接することなく過ごすことができたが、他の女達は昼2時から夜12時まで一日数十名の将校の相手をさせられ、片手にお金を持って列をなして順番を待っている兵隊達の姿が連日見受けられた。この光景は、想像を絶する悲惨なものだった。彼女たちは心の痛みをいやすために飲めない酒を飲み、故郷に思いを馳せながら毎日の悪夢を忘れようと努力した。

 

宮古でも空襲が激しくなり、防空壕に出入りする時間が多くなり、沖縄の戦況が不利、ということは、兵隊達の動きで推察できた。兵隊達は「いつ死ぬか分からないから・・・。」といって荒れ放題で軍規は無きにひとしいものだった。

 

宮古島には幸いに米軍は上陸せず、空襲と艦砲射撃だけで、やがて沖縄は米軍の勝利で終わり、つづいて8月15日、日本軍が連合軍に降伏したと知らされた。

 

8月26日、米軍が宮古島に進駐し、彼女達を郷里へ帰してくれることになり、鹿児島に送られ、ここでLSTでなつかしい故国への釜山に帰る事ができた。彼女はその船中で不幸にも滝田大尉の子供を宿していたことを知り、故郷で無事出産したが、6歳の年に病気で死亡した。その滝田大尉は沖縄本島の収容所にうつされたということ以外の消息は全然わからず、彼女もまた知ろうとしなかったという。 (高尾常彦 鎮魂より)

 

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沖縄 – 日本軍慰安所マップ