伊江島にあった「慰安所」 - 伊江島の戦いを生き延びた一人の女性の写真が物語ること

f:id:neverforget1945:20190417123553p:plain

沖縄には、わかっているだけで 140か所の日本軍の慰安所がありました。

 

日本軍は、その島に、東洋一とよばれるほどの立派な飛行場を作った。

 

そのため、いったん戦争が起こると、この島の住民の半数の住民が命を落とした。

 

伊江島の戦い、である。

 

それに先立ち、日本軍はこの島に二軒の慰安所をつくった。

 f:id:neverforget1945:20190417121608p:plain

(出典は『軍隊は女性を守らない-沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』2012年12月 WAM アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館)

 

日本軍は沖縄をどんどん要塞化すると同時に、送り込まれた兵士に「性」の提供施設も用意することを忘れなかった。

 

1944年5月16日、「陣中日誌」には、日本軍が伊江島慰安所を新設したと記録されている。日本軍の「東洋一の飛行場」という基地は、同時に「慰安所」の開設も含んでいたということだ。

 

その数日後、6月4日、急遽空き家になっていた民家をそのまま仮の慰安施設にした。これが二件目の確認できる慰安所である。

 

またその年1944年8月2日の「陣中日誌」には、「特殊慰安婦人10名ニ対シ救急法ヲ教育ス」と記されている。

 

戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音

伊江島にあった慰安所が問うもの

QAB NEWS Headline 

シリーズ戦後70年です。戦時中、日本兵たちのストレス解消や、戦意を高めるためなどとして、日本の植民地の女性たちに性の相手をさせた、日本軍の「慰安婦」制度。沖縄戦の最中、県内にも「慰安所」が数多く設置されていたことをご存知でしょうか。70年前、伊江島にあった慰安所の記憶をたどります。

 

f:id:neverforget1945:20190417124356p:plain

 

深い苦しみと悲しみの眼差しを向ける女性。彼女たちは、戦時中、日本が植民地にしていたインドネシアで、日本軍の「慰安婦」にされた女性たちです。写真にはそれぞれの体験が添えられていました。

 

「家から連れ出され、3年間、日本兵の性の相手を強いられた」

来場者の女性「もうこれ本当の、人間がやったことかねと思いますね」

来場者の女性「心が詰まる感じです。見たら1933年生まれの方、10歳の時・・・」

 

一方、10代の若者たちは・・・

千葉県からの修学旅行生「(Q写真展みてどう思いましたか?)うーん、ちょっと分からない」

 

以前は、中学校の全ての歴史教科書に記述されていた「慰安婦」という言葉。しかし、近年、歴史を見直すという動きにも影響されて、教科書本文から消され、今ではその存在すら知らない子どもたちも珍しくありません。

 

沖縄戦の激戦地のひとつ、伊江島。当時、大勢の日本兵が配備されたこの島にも「慰安所」が造られていました。

 

謝花悦子さん「(Q謝花さん、この場所だったんですか?)そう。ここは戦争で(破壊されたが)場所自体は変わらないわけ」

 

f:id:neverforget1945:20190417124149p:plain

 

沖縄戦が始まる前の年、当時5歳だった謝花悦子さんは、実家の畑の向こう側に、ある日、真新しい小屋が建てられたのを覚えていました。

 

謝花悦子さん「(母が)野菜はほとんどその石垣から渡してあげたことは覚えている。(戦後畑から)この人たちが使ったかんざしや櫛が出てきたのも覚えているけど」

 

造られていたのは、「慰安所」でした。

これまで県内外の研究者らが、住民や元日本兵らの証言、公文書を元に行った調査で、県内には140か所以上の「慰安所」が存在していたことが明らかになっています。

 

そして、伊江島にはもうひとつ「慰安所」が見つかっています。

f:id:neverforget1945:20190417124102p:plain

 

島袋初子さん「こっちが屋敷、大湾屋敷。こっちは民家で、民家の中に兵隊さんがいらしたみたい。そして向こうは道でしょう。この木陰からね、兵隊と女の人たちが遊ぶのをよく見よったらしいですよ。」

 

島袋初子さん「(Q民家を慰安所にした?)そうそうそう。民家もみんな疎開させていますでしょ。それで兵隊たちが民家に入り込んで」

 

f:id:neverforget1945:20190417123745p:plain

 

伊江島の戦争を体験した元兵士の証言にも「民家」という言葉が出てきます。

 

佐次田秀順さんの証言記録(伊江島の戦中・戦後体験記録より)『伊江島慰安所は民家を借りて作ってありましたが、ベッドとベッドの間に天幕を下げて仕切られていました。兵隊たちは何十人も並んで、順番を待っていました・・・』

 

f:id:neverforget1945:20190417123833p:plain

 

那覇市歴史博物館には、日本軍が1944年に書き残した陣中日誌が保管されています。そこには、5月26日、日本軍が「慰安所」を新たに造ったという記録がはっきりと残されていました。そして、その数日後の6月4日、今度は、急いで「仮慰安所の整備」を行うよう命令が出されていました。

 

f:id:neverforget1945:20190417123929p:plain

 

これは、慰安所の建設中に、慰安婦たちが島に送られてきたので急いで仮の慰安所を造ったのではないかという研究者の見方があります。

 

謝花悦子さん「慰めだよ、兵隊の。だから戦争に必要であるというのは何もないんじゃないですか。特に慰安婦というのは、女性を(戦争に勝つための)武器にして、女性をおもちゃにしているんだよ。言葉で言えば。おもちゃだよ」

 

f:id:neverforget1945:20190417124250p:plain

 

インドネシアの「慰安婦」たちの写真展に合わせて開かれたシンポジウムで、自ら元慰安婦たちに直接会い、取材してきたノンフィクションライターやジャーナリストたちは、この問題を沖縄から考える必要があると訴えました。

 

山城紀子さん「紛争下の中で、女や子どもに何が起きるか。軍隊とは、女や子どもにとって相容れない。圧倒的な被害の地である沖縄が、性暴力については加害の地であったことを、私たちは知らねばならないと思います」

 

謝花さんは、伊江島の戦争の醜さを伝え残す資料館を運営しています。目を覆いたくなるような歴史も、戦争の教訓として、しっかりと未来の子どもたちに伝え残すためだといいます。

謝花悦子さん「過去のあったことを、国側が有利か否かのことで消したり、今の日本の国はやっていると思うんですよ。事実なんだから、良いことも悪いことも、事実は永久に歴史に残る」

 

伊江島慰安所には島の外から来た沖縄の人たちもいた」という住民の証言が残されていますが、今も詳しいことは分かっていません。

 

島民の半数が命を奪われた伊江島の戦いでは、軍に戦時要因として訓練を受けていた「特殊慰安婦」たちも、また戦争にまきこまれていった。

 

伊江島における慰安所の特徴は第一に、第32軍創設以降飛行場建設のために上陸した部隊が設置したという点、第二に、慰安所建設を急いだ理由が、兵士たちのストレス解消のためであると同時に、労働力として動員された住民と軍隊との「協力関係」を円満にするという目的もあったという点、第三に、慰安婦に戦闘参加の教育が行われ、軍隊に「性」の「慰安」を提供する以外に、戦闘員としての「動員」も準備されていた点である。』(185頁)

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 183-183、185頁より》

 

neverforget1945.hatenablog.com

 

女たちまで爆弾を背負って切り込み隊をしたという伊江島の六日間の激戦 (4月16日~22日) が終わったとき、行き場を奪われ、戦闘要員として訓練をうけていた彼女たちもまた、みんな戦死したのではないかと思われた。

 

1944(昭和19)年8月2日「陣中日誌」には、10時から12時まで (伊江島の) 特殊慰安婦人10名ニ対シ救急法ヲ教育ス」という記録が残っている。救急法の教育まで受けた慰安婦たちも戦闘に巻き込まれ全員戦死した可能性が高い

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 183-183、185頁より》

 

実際、東風平村の慰安所でも慰安婦が救急法の訓練を受け、従軍。砲撃で全員戦死したという記録が残っている。

 

東風平村の慰安所にいた十人の女は、補助看護婦として従軍、砲撃で全員戦死。

琉球政府厚生局援護課の資料による)

《山川泰邦『秘録沖縄戦記』おきなわ文庫 (1969)》

 

しかし、我々はここで米軍が4月24日に撮影した一枚の写真に注目したい

 

米軍捕虜となった一人の女性が、米軍収容所で日本の軍医と共に、懸命に救護にあたっている姿である。

 

f:id:neverforget1945:20190724234656p:plain

《AIによるカラー処理》Natives of Ie Shima, Ryukyu Islands after American occupation. Jap army doctor and Geisha girl nurse working in Military Government camp.【和訳】 米軍占領後の伊江島の地元民。軍政府の収容所で治療を行う日本軍医と女性の看護要員。
撮影地: 伊江島 (1945年 4月 24日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍は日本兵を Jap と、そして慰安婦を (ex-) geisha girl と記載することが多い。

 

ゆえに、この伊江島の戦いのすぐ後に米軍によって伊江島で記録された写真は、少なくとも慰安婦たちの一人はあの伊江島の戦いを生きのびて、米軍捕虜となり、米軍の収容所で同じく日本の軍医と共に介護にあたっていた、という可能性を示す。

 

沖縄公文書館の和訳ではゲイシャの文字は読み飛ばされ「女性の看護要員」と訳されているが、米軍は正確には "Geisha girl nurse" と記載している。

 

米軍は、彼女が「慰安婦」であり、かつ日本軍から救護の訓練も受けていた「看護婦」であることを、捕虜におこなう尋問で正確に把握していたのだと思われる。

 

歴史の陽のあたらぬ場所へと追いやられた女性たちは、それでも懸命に生きて、傷ついた島民たちの医療にまわり、子どもや老人たちの命を救っていたのだ。

 

 

そんな彼女たちのことを、三流ネトウヨブログを貼りつけて「売春婦だった」と拡散するものたちがいる。歴史研究よりも、ネトウヨのヘイトとデマを信じる鰯の頭である。

 

f:id:nagowaykata:20190716113057p:plain

高須医院の高須克弥氏が悪質捏造デマサイト拡散 ← まったく関係ない文字にまったく関係ない画像貼りつけ「慰安婦は売春婦だった」と主張 - ご近所のネトウヨさん

 

しかし、切り込みを命ぜられた若き兵士たち、二つの軍のはざまでズタズタにされていく沖縄の住民たち、米軍に放置されて死んでいった孤児たち、傷つき弱っていく老人たち、・・・。日本の歴史に真の意味で寄りそったのは彼女たちの方である。

 

高須克弥ではない。

 

今の日本で、頭の空想世界でしか戦争を語れぬ者たちが元慰安婦女性についてのデマと中傷を拡散する。年寄りたちに聞いてみれば慰安婦のことを語ってくれる年寄りたちは周りにいた。高須克弥氏のように、高給取りの売春婦などと語る者など一人もいない。

 

恥知らずで罰当たりな歴史修正主義者たちの言論は、このひとりの戦場の看護師の姿の前では、何の意味もない醜い愚者のたわごとでしかない。

 

歴史を知るということは、

誠実にひとりひとりの過去のいのちに向き合うことだ。

 

それを、この写真は教えてくれる。

生きていてくれてありがとう。

 

f:id:neverforget1945:20190725213749p:plain

Natives of Ie Shima, Ryukyu Islands after American occupation.
Jap army doctor and Geisha girl nurse working in Military Government camp.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

こちらもご覧ください。

battle-of-okinawa.hatenablog.com

 

論文

田井等孤児院と日本軍「慰安婦」問題 ─沖縄戦直後の各地の孤児院研究その2と戦争犠牲者の類型

─ Taira orphanage and the Japanese military sex slave issue -- orphanages and war victims on the Island of Okinawa post WW2 -

浅井 春夫 ASAI, Haruo

田井等孤児院は、沖縄戦後に田井等収容所に開設された孤児院であり、コザ孤児院とともに もっとも初期段階で開設された孤児院である。沖縄において孤児院は、各収容所に設置され、養 老院とともに戦後の住民救済の最前線にあった。孤児院は沖縄本島で12~13か所が設置され、 養育係の女性たちは献身的に業務をこなしていた。その中に朝鮮人慰安婦」であった女性たち が従事していたことも証言などから明らかになっている。元「慰安婦」の女性たちがどのような 経路で孤児院に従事し、また帰国して行ったのかはわかっていない。しかし敗戦直後の孤児院で 多くの子どもたちが衰弱死する状況の中で、養育係として献身的に従事した歴史的事実は記録に とどめておくべきことである。

 

 

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

イアンフとよばれた戦場の少女 [ 川田文子 ]
価格:2052円(税別、送料別)(2019/4/30時点)

楽天で購入