日本軍が伊江島に建設した「慰安所」 - 伊江島の戦いを生き延びた一人の女性の写真が物語ること

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オリジナルでは不明瞭な写真を AI でカラー化、色調補正で、さらにより細やかな表情に。歴史の影に埋もれた一人の女性の表情をこうして可視化することができる。

 

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戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 伊江島にあった慰安所が問うもの – QAB NEWS Headline

 

日本軍は、その島に、東洋一と飛行場の建設を建設した *1。その要塞化された島で、いったん戦争が起こると、この島の住民の半数の住民が命を落とした。

 

伊江島の戦い、である。

 

それに先立ち、日本軍はこの島に二軒の慰安所をつくった。

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(出典は『軍隊は女性を守らない-沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』2012年12月 WAM アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館)

 

1944年5月24日、「陣中日誌」には、日本軍が伊江島慰安所を新設したと記録されている。日本軍の「東洋一の飛行場」の基地建設は、同時に「慰安所」の開設も含んでいたということだ。

 

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《洪ユン伸『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』インパクト出版会 (2016年) pp. 113》

 

その数日後、6月4日、急遽空き家になっていた民家をそのまま仮の慰安施設にした。これが二件目の確認できる慰安所である。

 

またその年1944年8月2日の「陣中日誌」には、「特殊慰安婦人10名ニ対シ救急法ヲ教育ス」と記されている。

 

・・・伊江島の戦争を体験した元兵士の証言にも「民家」という言葉が出てきます。

 

佐次田秀順さんの証言記録(伊江島の戦中・戦後体験記録より)『伊江島慰安所は民家を借りて作ってありましたが、ベッドとベッドの間に天幕を下げて仕切られていました。兵隊たちは何十人も並んで、順番を待っていました・・・』

 

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那覇市歴史博物館には、日本軍が1944年に書き残した陣中日誌が保管されています。そこには、5月26日、日本軍が「慰安所」を新たに造ったという記録がはっきりと残されていました。そして、その数日後の6月4日、今度は、急いで「仮慰安所の整備」を行うよう命令が出されていました。

 

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これは、慰安所の建設中に、慰安婦たちが島に送られてきたので急いで仮の慰安所を造ったのではないかという研究者の見方があります。

 

謝花悦子さん「慰めだよ、兵隊の。だから戦争に必要であるというのは何もないんじゃないですか。特に慰安婦というのは、女性を(戦争に勝つための)武器にして、女性をおもちゃにしているんだよ。言葉で言えば。おもちゃだよ」

戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 伊江島にあった慰安所が問うもの – QAB NEWS Headline

 

島民の半数が命を奪われた伊江島の戦いでは、軍に戦時要因として訓練を受けていた「特殊慰安婦」たちも、また戦争にまきこまれていった。

 

伊江島における慰安所の特徴は第一に、第32軍創設以降飛行場建設のために上陸した部隊が設置したという点、第二に、慰安所建設を急いだ理由が、兵士たちのストレス解消のためであると同時に、労働力として動員された住民と軍隊との「協力関係」を円満にするという目的もあったという点、第三に、慰安婦に戦闘参加の教育が行われ、軍隊に「性」の「慰安」を提供する以外に、戦闘員としての「動員」も準備されていた点である。

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 1185頁》

 

 

女たちまで爆弾を背負って切り込み隊をしたという伊江島の六日間の激戦 (4月16日~22日) が終わったとき、行き場を奪われ、戦闘要員として訓練をうけていた彼女たちもまた、みんな戦死したのではないかと思われた。

 

1944(昭和19)年8月2日「陣中日誌」には、10時から12時まで (伊江島の) 「特殊慰安婦人10名ニ対シ救急法ヲ教育ス」という記録が残っている。救急法の教育まで受けた慰安婦たちも戦闘に巻き込まれ、全員戦死した可能性が高い。

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 185頁より》

 

実際、東風平村の慰安所でも慰安婦が救急法の訓練を受け、従軍。砲撃で全員戦死したという記録が残っている。

 

東風平村の慰安所にいた十人の女は、補助看護婦として従軍、砲撃で全員戦死。

琉球政府厚生局援護課の資料による)

《山川泰邦『秘録沖縄戦記』おきなわ文庫 (1969)》

 

しかし、我々はここで米軍が4月24日に撮影した一枚の写真に注目したい。

 

米軍捕虜となった一人の女性が、米軍収容所で日本の軍医と共に、懸命に救護にあたっている姿である。撤退の際にしばしば傷病兵を「処分」させられた日本軍の軍医らは、米軍の捕虜となった後は、米軍の要請に従って収容所で医療活動に従事した。また、女子学徒や元慰安婦らも、看護活動や養老院・孤児院で働いた。

 

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《AIによるカラー処理》Natives of Ie Shima, Ryukyu Islands after American occupation. Jap army doctor and Geisha girl nurse working in Military Government camp.【訳】 米軍占領後の伊江島の地元民。軍政府の収容所で治療を行う日本軍医と女性の看護要員。伊江島 (1945年4月24日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沖縄公文書館の和訳では「女性の看護要員」とだけ訳されているが、米軍は正確には "ゲイシャ・ガール・ナース" と記載している。米軍は日本兵を Jap と、そして慰安婦を (ex-) geisha girl と記載する。

 

米軍は、彼女が慰安婦」であり、かつ日本軍から救護の訓練も受けていた「看護婦」であることを、米軍は尋問から正確に把握していたのだと思われる。

 

ゆえに、おそらくは伊江島のナーラ民間人収容所で記録されたと思われる写真は、少なくとも慰安婦たちの一人はあの伊江島の戦いを生きのびて、米軍捕虜となり、米軍の収容所で同じく日本の軍医と共に介護にあたっていた、という可能性を示す。

 

 

歴史の陽のあたらぬ場所へと追いやられた女性たちは、それでも懸命に生きて、傷ついた島民たちの医療にまわり、子どもや老人たちの命を救っていたのだ。

 

そんな彼女たちのことを、三流ネトウヨブログを貼りつけて「売春婦だった」と拡散するものたちがいる。歴史研究よりも、ネトウヨのヘイトとデマを信じ拡散するものたちである。

 

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高須医院の高須克弥氏が悪質捏造デマサイト拡散 ← まったく関係ない文字にまったく関係ない画像貼りつけ「慰安婦は売春婦だった」と主張 - ご近所のネトウヨさん

 

しかし、切り込みを命ぜられた若き兵士たち、二つの軍のはざまでズタズタにされていく沖縄の住民たち、米軍に放置されて死んでいった孤児たち、傷つき弱っていく老人たち、・・・。日本の歴史に真の意味で寄りそったのは彼女たちの方である。

 

高須克弥ではない。

 

今の日本で、頭の空想世界でしか戦争を語れぬ者たちが元慰安婦女性についてのデマと中傷を拡散する。戦後の年寄りたちに聞いてみれば慰安婦のことを語ってくれる年寄りたちは周りにいた。高須克弥氏のように、高給取りの売春婦などと語る者など一人もいない。

 

恥知らずで罰当たりな歴史修正主義者たちの言論は、傷ついた人々に真摯に向きあう戦場の看護師の姿の前では、何の意味もない醜い愚者のたわごとでしかない。

 

歴史を知るということは、

誠実にひとりひとりの過去のいのちに向き合うことだ。

 

それを、この写真は教えてくれる。

生きていてくれてありがとう。

 

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*1: 住民を総動員し、1944年9月にほぼ完成するが10月10日(十・十空襲)で破壊、その後修復するも翌年の310日には軍は飛行場の破壊を命令する。米軍の占領を恐れたためである。参照 ▶ 旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書 PDF