一枚の写真が物語ること - 沖縄の孤児院で働いていた女性たち - 沖縄戦孤児と慰安婦

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[ AI によってカラー化しています。]

【原文】 Life in Shimobaru, one of civilian camps established on Okinawa in Ryukyus by U.S. Military Government. Old ladies' home and orphanage. Maintained by Military Government and manned by ex-geisha girls.

【和訳】 下原での生活の様子。この地には、軍政府によって設置された沖縄本島の民間人収容所の一つ。軍政府運営の老婦人用住居兼児童養護施設。ここでは、元「芸者ガールズ」(若い女性) が労役に従事していた。

撮影地: 下原 1945年 5月 10-20日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

沖縄県公文書館

ここに一枚の写真がある。

 

米軍が "ex-geisha girls" という言葉で表しているのは、元・慰安婦のこと。

 

この写真の説明書きは、元慰安婦の女性たちが、占領下にある沖縄の孤児院で献身的に働いていたことを示す数少ない写真である。

 

写真の左端に建物に寄りかかって両手で顔を覆っている女性、そして右側の、建物によりかかり、下を向いている女性。

 

どちらも表情をうかがうことはできない。

 

沖縄には140の慰安所が作られ、日本軍がその設立と運営の中心を担っていたことが近年の研究で明らかになっている。

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ポツダム宣言受諾と共に、日本政府は多くの機密資料を歴史から葬った。戦争犯罪の処分を恐れてのことである。

 

ポツダム宣言受諾と共に訪れた大いなる焚書の季節

www.asahi.com

 

おそらくは全く同じ理由から、沖縄を占領していた米軍のもとで設立運営されていた沖縄の多くの orphanage (孤児院) の資料も、あるいはアメリカのどこかの資料庫にひっそりと埃をかむり眠っているのか、それとも永久に葬り去られてしまったのか。

 

現在、公文書館で見ることのできる米軍の沖縄戦や戦後の米軍統治に関する資料を見ても、1945年の、米軍が運営していたはずの孤児院の写真は数えるほどしかない。

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/112-30-3.jpg

食事をする栄養不足の子ども。沖縄本島のコザにて。(1945年8月4日撮影)

Undernourished children having chow at Koza, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

 

毎日たくさんの孤児たちが亡くなっていたと伝えられている、米軍統治下の孤児院。どういう状態でどれだけの子どもたちの命が奪われたのか。米軍が運営していたのだから、米軍の資料がほとんどないというのは、まったく奇妙な話で、

 

沖縄戦を生きのびた多くの沖縄人の記憶に、非常に身近に記憶されていてる日本軍と慰安婦と呼ばれた女性たちの記憶とはうらはらに、慰安所運営の資料が多く残されているわけではない、というのにも共通している。

 

だから、ある意味この写真は、現時点で、沖縄戦孤児院で働いていた元慰安婦の女性たちの姿を今に伝える、奇跡的な写真といってもいい。

 

Shimobaru (下原) で撮影されたとあるが、米軍は、いまの泡瀬のあたりをシモバルと呼んでいた。

 

 4月3日に泡瀬方面に進出した米第七師団は、4月9日に泡瀬キャンプをオープン、その後の報告では4月13日現在の住民数は3,247人である。米軍は高江洲の南にある下原の名をとって泡瀬周辺地域をシモバルと呼んでおり、4月22日の報告ではシモバル地区に6,200人の住民がいると報告している。さらに4月29日報告は、中城村当間、津覇の両地区にあらたにつくられた住民地点から、キャンプシモバル、キャンプトウバルに住民を移動していることを報告している(「G2レポート」)。
読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所 

  

沖縄戦と孤児院の歴史研究で知られる浅井春夫氏の、名護市の田井等の孤児院と元慰安婦についての論文があるので、ここで引用したい。

 

田井等孤児院は、沖縄戦後に田井等収容所に開設された孤児院であり、コザ孤児院とともにもっとも初期段階で開設された孤児院である。沖縄において孤児院は、各収容所に設置され、養老院とともに戦後の住民救済の最前線にあった。孤児院は沖縄本島で12 ~ 13か所が設置され、養育係の女性たちは献身的に業務をこなしていた。その中に朝鮮人慰安婦」であった女性たちが従事していたことも証言などから明らかになっている。元「慰安婦」の女性たちがどのような経路で孤児院に従事し、また帰国して行ったのかはわかっていない。しかし敗戦直後の孤児院で多くの子どもたちが衰弱死する状況の中で、養育係として献身的に従事した歴史的事実は記録にとどめておくべきことである。

《浅井春夫「田井等孤児院と日本軍「慰安婦」問題 : 沖縄戦直後の各地の孤児院研究その2と戦争犠牲者の類型」2015年》

 

近年、見つかった田井等の孤児院の写真。

 

戦争孤児院(名護市)

| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

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名護市田井等地区に、沖縄戦で親と死別したり生き別れたりした子どもたちを収容する孤児院がありました。孤児院として使われた住宅は昭和初期に建てられました。50坪の母家は、この地区で最も大きな住宅で、60人あまりの子どもたちが生活していました。終戦後、親などに引き取られる子どもたちが相次ぎ、翌年の春に孤児院はその役割を終えました。今でも、住宅にはかつての孤児院で育った人たちが、たびたび訪ねてきます。

【場所】
孤児院として使われていた名護市の住宅は、国道58号線の田井等交差点の近くです。羽地小学校を目指して交差点から市道に入リ、まっすぐ進むと、その先に「田井等」バス停があります。かつての孤児院は、このバス停の近くにある赤瓦の住宅です。

 

米軍管理の孤児院で、服もなく、栄養失調で、汚物にまみれて死んでいった、たくさんの孤児がいた。 

 

孤児院の実態について、「毎日のように山から運び込まれて来る小さい子どもたちは、にされていましたが、どの子も栄養失調でした。縁側に寝かされても翌朝までに半数は死んでいましたが、『シニイジ』と言いますが、子どもたちは汚物にまみれており、朝鮮の女の人たちダンボールに入れて埋葬していました」[字誌編集委員会編(2008)『田井等誌』、p.127]という証言がある。

 

どの孤児院においてもそうであったが、各孤児院では栄養失調の子どもたちはせっかく戦場のなかで生き残ったのに、孤児院で死亡するケースは相当数あったことは多くの証言で確認することができる。しかし在園児童の死亡数に関して、正確な数字は残されていない。管理運営の前提でもある記録が孤児院に関して残されていないことは、米軍に都合の悪い記録は処分されたと考えた方が妥当であるといえよう

立教大学学術リポジトリ - 立教大学学術リポジトリ

1945年ごろ、羽地村(当時)の田井等孤児院で過ごした座覇律子さん(75歳、2008年当時)=本部町=と、沖縄戦中に朝鮮人軍夫が働く港近くに住んでいた友利哲夫さん(75、同)=名護市=が証言した。当時13歳だった座覇さんは孤児院で慰安婦だった女性らに育てられた状況を説明しており、「ササキのおばさん」と呼ばれていた元慰安婦について「日本語は分からないが、子どもたちの洗濯や世話をしてくれた。美人で、とても優しかった」と振り返った。孤児院近くにあった野戦病院でも元慰安婦の女性が看護師として働いていた。座覇さんは、孤児院を出た後に周りから女性らが慰安婦だったことを聞かされたといい、「慰安婦と言われてもまだ幼かったので、女性たちが何をされていたのかも分からなかった」と語っている。戦後、女性らが帰国する記事を見て、「当時は無事に帰国するんだと思ったが、女性が大変なことをされたことを後で知った。今、当時を振り返ると帰国後どんな気持ちで暮らしているのかと思うと胸が苦しい」と語っている[「沖縄タイムズ」(2008. 3. 16)「孤児院で子の世話」/沖縄戦当時の従軍慰安婦]。 

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米軍の軍政活動報告には、朝鮮人慰安婦の管理が各地区で問題となり、10月には約150人を送還する計画を立て、11月には引き揚げが完了している。1945年11月に、朝鮮人慰安婦」40人がキャンプ・コザに集められ、そのほかの収容所から集められた110人と合わせて、150人が朝鮮に引き揚げられたと記録されている[沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室(2005)]。「母国に送還されたる予定の朝鮮女性名簿」147人分が史料として確認をされている[女性たちの戦争と平和資料館編(2012),p.45]。


しかしペ・ポンギさんのように、引き揚げ船に乗ることもできず、沖縄で生涯を閉じた方々も少なくなかったであろう。また「こんなに汚れたからだでは帰れない」と帰国をあきらめて沖縄や日本に残った元「慰安婦」の人たちもいた。このような判断をせざるをえなかった人々は少なくなかったであろう。戦争が終わっても「慰安婦」被害者のその後は厳しく辛い生活であったと想う。

立教大学学術リポジトリ - 立教大学学術リポジトリ

 

朝鮮半島から連れてこられ、解放後も、献身的に、孤児院や野戦病院で働いた元慰安婦の女性たち。米軍の残した写真からも、彼女たちの多くが、今のおよそ高校生ぐらいの年頃だったことを示している。

 

座間味の戦火を生き延び、やっと慰安所から解放された少女たちの笑顔を米軍のカメラがとらえた一枚。

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< AI によってカラー化 > ”Geisha Girls,” Jap Korean women found on Zamami Shima, Ryukyu Islands, brought to the island by the Japs.
【和訳】 日本軍によって連れてこられた、朝鮮人の「芸者ガールズ」座間味島にて。
撮影地: 座間味島 1945年 4月 21日

 

朝鮮人慰安婦」には、日本名のよびながつけられた。上の3人に、日本名のトミヨと、ミッちゃん、アイコ、が加わった6人。

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< AI によってカラー化 >

【原文】Natives on Zamami Shima, Ryukyu Islands.

【和訳】座間味島の地元民。

撮影地: 座間味島撮影日: 1945年 5月 18日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

http://ir.c.chuo-u.ac.jp/repository/search/binary/p/11194/s/10177/

 

そんな彼女たちのことを、三流ネトウヨブログを貼りつけて「売春婦だった」と拡散するものたちがいる。歴史研究よりも、ネトウヨのヘイトとデマを信じる者たちだ。

 

高須克弥 on Twitter: "慰安婦が売春婦だった証拠が韓国ネットに上がった 

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どうやら高須は、金で売られていった少女たちを「売春婦」と呼び、性搾取することをなんらの犯罪とも思わぬたぐいの人間なのだろう。

 

しかし、マルレ特攻や切り込みを命ぜられた若き兵士たち、二つの軍のはざまでズタズタにされていく沖縄の住民たち、米軍に放置されて死んでいった孤児たち・・・。日本の歴史に真の意味で寄りそったのは彼女たちの方である。

 

高須クリニックの克弥氏ではない。

 

neverforget1945.hatenablog.com