沖縄基地建設と國場組の歴史 ~ 沿革『國場組物語』

國場組は多くの日本軍拠点を建設し、沖縄戦ではこうした拠点が米軍の激しい攻撃の標的となり、おびただしい犠牲者を生んだ。しかし、国場組の公式 HP に掲載されていた「国場組物語」はこう記す。

 

幸いにも日米の地上戦に巻き込まれることなく、無事に終戦の日を迎えることができた。

國場組公式サイト 沿革「國場組物語」より

 

さて、いったいどういう事だろうか。

 

國場組のホームページに掲載された國場組の戦前からのわかりやすい沿革「國場組物語」、いつの間にか HP から消えていました。

 

とても残念に思いますので、以下に復旧し、記録しておきます。*1

 

國場組の歴史は、沖縄における日本軍と米軍の基地建設の歴史、つまり沖縄戦と戦後の基地の歴史の重要な一部なのです。歴史は大切にしないといけませんね。

 

というわけで、ご覧ください。

 

 

1931〜1945年 創業、戦前・戦中

1931〜1945年 創業、戦前・戦中

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 戦時下の沖縄で次々と困難な仕事を成し遂げ、信頼を築き上げていった創業者・國場幸太郎の奮闘。黎明期の國場組の歩みをご紹介します。

 

【國場組黎明期】

 國場組の創業者である國場幸太郎(1900〜1988)は、國場幸直、ツル の長男として、沖縄県国頭村で生まれた。家が貧しく、13歳で大工の年季奉公に出た。

 

 大工は、いい腕を身につけさえすれば食いはぐれのない仕事である、という父幸直の考えであった。数え19歳で宮古島に渡り、20歳で城辺村 (現宮古島市)の福嶺尋常小学校の校舎再建という初の請負工事を手がけ、晴れて一人前となる。その後、微兵検査で甲種合格となり、熊本工兵隊で2年務めた。

 

 大正12(1923)年の暮れ、除隊後すぐに上京し、大工として働き始める。東京で一旗揚げよう、という心づもりであった。

 

 この年の9月1日、関東大震災(死者不明142,807人、建物の全壊焼失575,394戸)が発生し、東京は空前の建設ブームであった。

 

 幸い兵隊時代の縁で、仕事の世話をしてくれる人がいて、幸太郎は早朝から夜遅くまで懸命に働いた。その仕事ぶりを見ていた周りの勧めもあって、棟梁として独立する決心をし、三男幸吉、 四男幸裕、六男幸昌を郷里より呼び寄せ、兄弟助け合って次々と仕事をこなしていった。

 

 東京での仕事は順風満帆であったが、長年留守にしている実家の様子が気になったので、後を弟の幸吉に託し、ひとまず帰郷する。昭和4(1929)年のことである。家の借金を整理し、家屋を建て直し、病に伏せっていた弟幸清を看取ってあと、再度上京するつもりであったが、両親をはじめ親戚中で引き止めにかかった。

 

 「なにも東京へ行かなくとも仕事はある」「一家の柱として家を再興してほしい」「沖縄の土建技術の向上に東京で磨いた技量を役立てるのもいいだろう」等などであった。

 

 ついに上京を断念し、故郷沖縄で精 一 杯仕事をしていくことを決意した。

 

【國場組創業】

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①入隊直前の幸太郎
②建設中の真喜屋用水路
③工事完成間近の首里市立女子工芸学校校舎
④建設中の小禄飛行場
⑤建築中の県立第二中学校講堂工事

 

 國場幸太郎は那覇で請負の仕事をしながら資金を貯め、昭和6(1931)年、弟幸吉、幸裕の3人の名義で國場組を組織し、土建請負業の資格を取った。國場組の誕生である。

 

 このとき、弟幸昌、幸仁も未成年ながら、実質、創立メンバーに名を連ねていた。創立記念日である7月2日は、國場組が創立第1号工事として請け負った国頭尋常高等小学校の校舎 (木造平屋1棟7教室)建築工事請負契約日である。請負金額は6,500円で、準備金として3,000円を用意して臨んだ。

 

 工期は5ヵ月であった。当時の社会情勢はといえば、第一次世界大戦後(1918年終結)以来の不景気に加えて、昭和2(1927)年には国内の多くの銀行が破綻するという金融恐綻が起こり、さらに昭和5(1930)年にはアメリカの株価大暴落に始まる世界恐慌の波が日本にも押し寄せてきていた。

 

 物価と賃金は下落し産業界の不振から失業者が増大した。購買カは激減し、貿易も振るわず、不況は深刻であった。

 

 分けても農村の疲弊は著しく、沖縄でも「ソテツ地獄」といわれる惨状を呈していた。ソテツは沖縄の古くからの救荒作物であるが、そのアク抜きが不十分な場合、中毒による死者が出た。

 

 ソテツ地獄とはソテツを食べざるをえない農民の窮状を表したものである。

 

 そのため民間工事はほとんどなく、創業当時の國場組の仕事も校舎や橋梁、災害復旧工事など公共工事が主体であった。

 

 中には東京で習得したコンクート工事も含まれており、羽地村(現名護市)真喜屋耕地整理工事として築造された用水路水門の橋梁にはアール(曲線)が付され、國場組のコンクリート建造技術の高い水準を示している。

 

 こう して確実に基礎を固め、やがて南北両明治橋や県下一円の飛行場建設などの大工事をつぎつぎとこなしていくことになる。公共工事を中心に手がけていたものの、資金繰りには創業以来苦労していた。

 

 そうした中、昭和9(1934)年に開設した製材および木工場での加工事業や製品阪売事業には経済的に大いに助けられた。國場組の経営多角化の第1歩であった。

 

【戦時下の國場組】

 國場組創業の昭和6年には満州事変が勃発し、昭和12 (1937)年に は日中戦争へと拡大した。こうして日本は戦時色一色に塗りこめられていく。

明冶橋と寿屋ブタノール沖縄工場

 この時期、特筆すべきは南北両明冶橋の架け替え工事(昭和17年竣工)と寿屋ブタノール沖縄工場新築工事(昭和18年酸工)の受注である。

 

 南北両明冶橋那覇漫湖に浮かぷ奥武山の、南北の対岸からそれぞれ奥武山に架かる橋である(北明冶橋約180メートル、南明冶橋約90メートル、現在は、北明冶橋が橋として残り、南の部分は埋め立てられた) 。工事は、内務省の委託を受けた沖縄県から昭和15(1940)年に請け負ったもので、なにより軍事上の観点から遅延は許されなかった。

 

 また、軍需景気にともなう物価上昇の中、経済的には苦境を強いられ、創業以来の大工事ながら大幅な赤字を出す結果となった。しかし、損失の代わりに得たものは大きく、工期どおりに竣工させた、という他の何ものにも代えがたい國場組の「信用」を手にすることができた。

 

 寿屋ブタノール沖縄工場の新築工事も、飛行機の燃料であるブタノールの製造工場という軍事的最重要の工事であった。

 

 県内4社との分担受注で、國場組は機能上工場の心臓部にあたる鉄筋コンクリート5階建製油工場(一部木造)を担当した。

 

 本工事でも、予定された工期の半分で仕上げ、出来ばえも申し分なかったことから軍部の高い評価を得ることができた。残念ながら、前者は沖縄戦時に日本軍工兵隊により戦術爆破され、後者は戦災により焼失した。

 

 この時期の主要施工工事の中には、その他、満州国に幸吉が出向して施工した満州協和タクシー会社(木造平屋、一部コンクリート)新築工事などがある。

 

 昭和16(1941)年12月8日、日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まると、沖縄の地理的重要性が日に日に高まっていった。

 

 軍事基地化が推し進められ、昭和19(1944)年4月に配備された第32軍は南方航空作戦に備え、沖縄各地に飛行場を設営していった。

小禄、読谷、嘉手納、伊江島、西原、城間の飛行場建設

 すでに小緑飛行場整地並ぴに拡張工事を皮切りに、読谷飛行場新設工事という大工事を成し遂げていた國場組は、沖縄の飛行場関係工事のその大部分(嘉手納飛行場滑走路新設工事、伊江島飛行場新設工事、西原飛行場新設工事、城間飛行場滑走路新設工事)を受注し、予定通り竣工させた。(予定通り竣工してないので読む際に注意が必要)

 

【解散】

 民問人を動員して、突貫工事で仕上げた各地の飛行場であったが、昭和19年10月10日の10.10空襲で米軍に攻撃されたほか、上陸後の米軍に使用されないよう日本軍自ら戦術爆破するという運命をたどった。

 

 その後も、米軍が沖縄に上陸する直前の昭和20(1945)年3月25日に解散するまで、壕づくりや避難疎開用の仮小屋づくりを続けた。

沖縄戦と国場組

沖縄戦の直前に、国場幸太郎は東京に飛ぶ。また従業員は北部に避難場所を構築し、「無事に終戦の日を迎えた」という。

 直前に東京の陸軍航空本部に赴き、不在の幸太郎に代わって、解散後は幸吉を頭に、國場組従業員140人は国頭地方の山中に仮小屋をつくって避難した。幸いにも日米の地上戦に巻き込まれることなく、無事に終戦の日迎えることができた。(続)

 

國場が建設に関わった日本軍の飛行場は、その多くがその機能を果たすまもなく、日本軍によって自ら破壊された。嘉手納と読谷の飛行場は米軍上陸の標的となり、動員された住民、自壊命令を下された部隊の犠牲も甚大なものだった。米軍は上陸後、すぐさまそれらを占領、「米軍基地」として整備・拡大して使用する。

 

1945〜1970年 戦後復興、多角化

1945〜1970年 戦後復興、多角化

戦後、焦土と化し米軍施政化下に置かれた沖縄の地で、地元の建設会社として果散に取組んだ米軍工事など、その苦難の歩みをご紹介します。

 

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■1950年〜1955年の主要な工事

①沖映劇場
②沖縄食糧倉庫
琉球大学本館及び校舎建設
琉球生命保険社屋(現 日生那覇ビル)
琉球大学志喜屋記念図書館
琉球政府庁舎(旧 沖縄県庁舎)
⑦経営の多角化と共に実現した商事ビル松尾本店

國場幸太郎、1946年7月密航船で帰還

【戦後復興に参画】

熊本で終戦を迎えた國場幸太郎(創業者)は、昭和21(1946)年7月密航船で沖縄に渡った。

 

当時、沖縄と本土の往来は禁じられており、密航という手段しかなかったのである。
2か月後の同年9月には、早くも沖縄の行政の中心地となっていた石川市(現うるま市)に國場組の看板を掲げている。

 

この看板の下に、戦後の混乱でちりぢりになっていたかつての従業員たちが一人二人と集まってきた。

 

島中が焼け野原になった沖縄で、瓦礫の撤去作業や道路の復旧工事、米軍の簡易旋設や民間の規格住宅の建設を手がけた。戦前の仕事に比ベればごく小規模な仕事ばかりであったが、どれも早急にとりかからねばならない仕事であった。

那覇軍港の荷役作業隊の支配人、「みなと村」の村長に

一方、同年12月、幸太郎は米軍から那覇港湾の荷役作業隊の支配人に任命された。当時の那覇港湾にはありとあらゆる復興用、民生用、軍用諸物資が荷揚げされており、その荷役作業に従事する人々の居住する特別行政区「みなと村」の村長も兼ねた大役であった。

米軍基地の建設

後に港湾作業は請負制となり、國場組に港湾作業部が設置された。戦後、米軍は沖縄を占領地としたものの確たる統治方針を持っているわけではなかった。が、昭和24(1949)年10月、中国に毛沢東率いる中華人民共和国が誕生すると、沖縄への垣久基地建設に乗り出していく。


翌昭和25年に勃発した朝鮮戦争がそれに拍車をかけ、沖縄は基地建設プームにわいた。國場組の記念すべき、戦後初の本格的な建設工事は、昭和24年4月の米軍発注による知花橋架設工事である。


これは沖縄の建設業者が、初めて米軍との間に契約を交わして施工した工事でもあった。


以後、たくさんの米軍工事を手がけ、米軍工事を通して多くのことを学んでいく。具体的には、まず機械化工法であり、さらに工事施工に際しての安全・衛生の思想、厳格な仕様と契約遵守の考え方、建造物に対する人間重視、快適な居住性の追求等々である。


昭和26(1951)年10月、従来の個人企業から会社組織に改め、合資会社國場組代表社員國場幸太郎)を設立した。本店所在地は那覇市奥武山区80号(その後、那覇市壺川94番地)で、設立資本金は1000万B円(1$は120B円)であった。

 

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■当時の主要工事に琉球大学本館及び校舎施設(昭和25年5月完工)、沖縄住宅公社外人住宅群 (昭和27年4月完工)、琉球政府庁舎(昭和28年4月完工) 、那覇航空隊大格納庫(昭和30年10月完工)などがある。

①「國和」創刊号
沖縄配電社屋
③工事完成したキャンプ・ハンセン施設(第一期)
④完成直後の米国陸軍病院施設
⑤西原製糖工場
⑥國場ビル落成テープカット
 (右から幸太郎社長、美代夫人、フェアリー民政官)
⑦落成記念祝賀であいさつをする幸太郎社長
那覇市市政50周年記念切手の絵柄に使用された國場ビル

 

【経営の多角化

昭和20年代半ば、本業の建設業を核に経営の多角化が推進された。

 

当初は建設業関連の事業であったが、次第に建設業の垣根を越えた業種にも拡大していった。國和会の歴史の始まりでもある。

 

建設業関連事業としては、戦前から手がけていた製材所および木工所をはじめ、港湾作業部に端を発する沖縄通運(株)(昭和27年10月設立、現(株)オウ・ティ・ケイ) 、火薬販売所の設置(昭和25年6月)、石材加工工場の設置(昭和27年4月)、沖縄セメント工業(株)(昭和28年7月設立)、沖縄モータース(株)(昭和28年10月設立)などがある。

 

また、新規事業という観点から、経営多角化の第一号ともいうべき商事部(昭和25年12月設置)や異色の映画興業部門(昭和29年11月、映画部設置)などがスタートしている。

 

【キャンプ・ハンセン工事とその後】

昭和30年代の國場組の歴史において、特筆しておかなければならない出来事はキヤンプ・ハンセン工事とその欠損による痛手からの再起の道のりである。


昭和33(1958)年、米軍は金武村(現・町)に800万平方メートルに及ぶ大規模な海兵隊基地(キャンプ・ハンセン)を建設するため、国際入札を実施した。國場組では、沖縄の最大手建設業者として日本や外国の建設会社に落札されたくない、という意気込みで見積もり額の設定に取り組んだ。

 

細部にわたり詳細な検計が行われ、翌昭和34年5月、満を持して入札に臨んだところ、みごと落札した。入札に参加した業者は8社で、沖縄の業者は國場組だけであった。
最終請負額はぎりぎりの価格であり、契約以前に採算に疑問を持つ声も聞かれたが、幸太郎社長の「たとえ多少の欠損が出ても強行する」との決意は固かった。

 

結局、工事そのものは立派に完成させたものの、当初の不安が的中した。採算がとれず、工事半ばで銀行管理を受け入れなければならない状況に立ち至ったのである。

 

原因はいろいろあるが、当初工期契約780日であったものが、追加工事が発生したため約三年 三カ月に延び、米軍インスペクター (工事検査官)による手直し工事の頻発、資材や労賃の値上がりなどに直撃された。

 

銀行管理が解除されたのは、工事完成から5年後の昭和42 (1967)年であった。

 

昭和30年代の主要工事は、キャンプ・ ハンセン (昭和37年10月完工)を筆頭に米国陸軍病院(昭和34年完工)、普天間飛行場(昭和38年完工)など米軍基地関係工事が多く、いずれの仕事も米軍から高い評価を得た。

 

しかしながら、この頃から米軍の基地建設が一段落し、発注者が軍工事から民工事へと大きく転回していった。

 

軍工事の減少衰退は、國場組の償還義務履行を苦しめたが、資産の売却や工事の受注など事業の伸展もあり、前途に明るい兆しが訪れた。

 

【株式会社國場組の設立】

キャンプ・ハンセン工事で受けた痛手から立ち直り、銀行管理が解除されたのが昭和42 (1967)年12月31日で、一夜明けて翌43年1月1日をもって株式会社國場組(代表取締役社長・國場幸太郎、資本金10万ドル)を設立した。


同年3月には合資会社國場組を吸収合併し、合併後の新資本金は110万ドルで、合併に当たっては國場一族以外から多くの人材を役員陣に加え、新時代にふさわしい人事の近代化を実現した。

 

【國場ビルの建設】

次に、社屋建設に着手した。現在の國場ピルである。この地は、創業間もない昭和9(1934)年に國場組の事務所兼製材・木工所を建設した場所であり、創業者である國場幸太郎とその兄弟たちにとって思い出深い土地である。

 

昭和43年7月に着工し、國建設計工務(株)(現(株)国建)の設計、國場組施工により昭和45年11月に竣工した。建物は沖縄の自然環境やメンテナンス、防災等の観点から、庇を兼ねたフレームを取り入れ、その庇の先端に柱を配置した。

 

これにより、沖縄の民家建築の手法である雨端による彫りの深さと中間領域的空間を創出した。

 

建設資金は琉球開発金融公社より融資を受け、これは同公社のピル建設融資第1号となった。

 

國場ビル完成間際の昭和44(1969)年11月、佐藤・ニクソン会談が行われ、戦後27年間の米軍施政下から日本への復帰が決定した。復帰を目前にして完成した地下3階、地上12階の國場ピルは、沖縄始まって以来の事務所用高層ビルであり、沖縄の明るい未来を象微するかのようであった。(続)

 

※参考文獣 「沖縄ん建築紀伝ー横断する眼差し」 國場幸房

 

日本は沖縄を米軍占領に譲り渡しておきつつ、一方では占領下の基地建設に日本のゼネコンを参入させることで大きな利益を得ていた。

 

下の写真はおそらく、牧港住宅地区 (1953年に土地接収、1987年に返還され那覇新都心に) の建設工事の受注。

 

沖縄の土地を強制接収し、米国の土木建築技術を使い、日本のゼネコンを通し、沖縄の安い労働力を使って基地を、大量にしかも低コストで建築する方法、それが定着していたのである。つまり、沖縄の基地建設のうまみは日本と日本のゼネコンに流れるしくみである。

 

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米陸軍: On this proposed site, a portion of 279 family dwellings will be erected under the supervision of the Okinawa Emgr district for the use of US Army dependents on Okinawa. American technique, a Japanese contractor, and native Okinawan labor is being used to mass produce the typhoon-resistant homes at a lower unit cost than previously attained in this stle of construction.
米陸軍家族用に279の住宅の建設現場。米国の技術を使い日本人の土建業者を通し、沖縄の労働者を使って防風住宅を大量にしかも低コストで建築する方法が定着した 1953年10月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米陸軍: Overall view of the dependent housing area in the Sukiran area.
瑞慶覧地区にある家族用住居の概観 1953年 9月 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

沖縄戦から立ち上がるどころか、さらに土地の強制接収も行われ、カバヤーやキカクヤー暮らしを強いられている沖縄人を労働者として雇うことはさぞかし「低コスト」であったことだろう。

 

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石川市の教員住宅。当時、カバヤもまだ多かった。(1953)

写真でつづる那覇戦後50年 1945-1995, p. 100

石川市の教員住宅 : 那覇市歴史博物館

 

國場組の戦後の戦いは、米軍と日本に搾取され一方的に吸い取られた沖縄基地建設のうまみを、いかに沖縄に還元するか、というものでもあったが、

 

その基地建設ゲームの勝者は一体誰だったのだろうか。

 

沖縄の海を埋め、米軍基地を作り、日本のゼネコンがそのうまみをすいあげる。少しでもその旨味にあずかるため自民党を支援する、その構造は、今もまったく変わりない。

 

 

国場幸一郎氏に借金し返さない沖縄自民党最高顧問の仲井眞元知事。

 

1970〜1984年 祖国復帰、海洋博

1970〜1984年 祖国復帰、海洋博

復帰に伴う経済的混乱と急激に社会資本が整備された激動の時代。精力的な事業拡大や海外進出など、今日の國場組の基礎を築いた時代の歩みを紹介します。

f:id:neverforget1945:20210903081343p:plain①平良県知事から沖縄県功労賞を受ける幸太郎
②日本ハワイ経済協議会に出席の幸太郎
③海洋博開催予定地を案内する幸太郎(右端)
衆議院議員4回当選のときの幸昌議員
⑤新入社員辞令交付式(昭和59年度)

 

【復帰と海洋博】

昭和47(1972)年5月15日沖縄は戦後27年間の米軍施政下から日本へ復帰し、晴れて沖縄県となった沖縄戦で焦土と化した沖縄は、特殊な政冶行政組織の下で復興への道を歩んできたが、道路、港湾など各種公共施設整備は、著しく立ち後れていた。

 

道路整備を例にとると、昭和45(1970)年当時、政府道と呼ばれる県道に相当する道路の舗装率は、簡易舗装を含め25パーセントに満たなかった。

 

同年12月に閣議で決定された「沖縄振興開発計画」では、「戦後長年にわたる本土との隔絶により経済社会等各分野で本土との間に著しい格差を生ずるに至っている。


これらの格差を早急に是正し、自立的発展を可能とする基礎条件を整備し、沖縄がわが国経済社会の中で望ましい位置を占めるようにつとめることは、長年の沖縄県民の労苦と犠牲に報いる国の責務である」と記されている。


同計画に基づき、特に公共工事の多い土木部門において発注が増えた。また、米軍工事に代わって防衛施設庁関係の工事が目立つようになった。

 

加えて昭和50(1975)年に開催された沖縄国際海洋博覧会(略称海洋博)関係の工事も集中し、國場組の土木関係完成工事額は、第5期(47年)の13億6000余万円から第9期(50年7月〜51年6月) の74憶2000余万円へと跳ね上がった。

 

復帰後、本土から大小500の建設業者が進出し、とりわけ海洋博関連では本土業者の進出が目立った。地元業者では國場組を含め数社の有力企業が 単独または本土大手とのJV(共同企業体)で参加し、大半は下請けに回った。


國場組では、これらのJV工事を通して本土業者の管理方法を修得し、その後の海外工事やCTS工事への発展の推進力となった。 海洋博は沖縄経済に大きなインパクトを与えたが、短期集中的に行われたことにより歪みを生じ、終了後は失業、経営不振、倒産など深刻な経済の落ち込みが見られた。

 

【土木部門の発展】

 

國場組では、復帰前年の昭和46年(3971)年4月1日、機構改革が行われ、土木部・海上土木部・土木企画部の3部を合わせて土木事業部とし、建築事業部と並立して2事業部体制となった。以後、昭和50年代にかけて特筆すべき土木工事に海中道路建設工事(昭和46程47年) 、安波ダム(昭和50〜58年)などがあり、当時着手され、その後、完成した事業に沖縄自動車道都市モノレールなどがある。

 

海中道路建設工事(ガルフ石油社 昭和46〜47年)うるま市与那城屋慶名より平安座島間を結ぶ、幅10メートル、長さ4000メートルの海中道路である。ガルフ石油社は平安座島の3分の2を借地して原油タンク群と精油所の建設を進めていたが資材搬入が工事の進渉に大きな影響を与えることから、輪送効果と島民の長年の夢を叶えるために海中道路が建設された。


資材運搬の利便を図ることが主目的であり、当初100日の工事日程で着手したが、60日目で資材運搬等工事車両の通行が可能になった。その後、昭和57(1982)年に竣工した平安座島の沖にある宮城島と伊計島を結ぶ伊計大橋の架橋工事では國場組が沖縄における実施権をもつ特許工法のプレシネ工法による整備工事が行われた。

 

■安波ダム関係工事(沖縄総合事務局昭和50〜58年) 国頭村安波の安波川下流に建設された多目的ダム。國場組は単独で調査工事を行い、建設に当たっては西松建設、竹中土木とのJVで参加した。当時県内最大のプロジェクトであり、工期は8ヶ年に及んだ。

 

【建設(建築)部門の発展】

昭和48年(2973)年、建築事業部(昭和52年に建設事業本部に改称)と土木事業部はそれぞれ事業本部となった。

 

建設事業本部は管工事部や電設部の他、海外工事、プラント、建築等國場組の主要工事部門を包括した。広範囲な守備能力の背景には、沖縄県内という限定された地域に有力な協力企業が育ちにくかったこと、また狭いテリトリーながら各種類の工事が発生し、自らの手でこなしていかなければならなかったことなどの事情があり、幅広い層の人材が育つ好結果をもたらした。

 

昭和40年代の画期的なできごとは、エッソ、ガルフ両社の石油基地建設に参加し、プラント部門進出の足がかりを得たこと、また、サウジアラビアでのプロジェクトに人員を派遣するなど海外工事に進出したことである。続く昭和50年代の主要施工工事一覧を見ると、海洋博に照準を当てた沖縄ハーバービューホテル(昭和50年開業、現沖縄ハーバービューホテルクラウンプラザ)ホテル西武オリオン (同、現ホテルロイヤルオリオン)ロイヤルビューホテル(同、 現チサンリゾート沖縄美ら海)、ホテルムーンビーチ(同)と今日の観光沖縄を支える老捕ホテルの建設工事を手がけている。
海外進出に当たっては、復帰前の米軍工事の実績をベースに沖縄でのプラント工事、本土大手エンジニアリング企業、商社等とのつながりを素地とし、企業としてのリスクを最小限に止めながら、漸進主義をとってきたことが特微的である。

 

復帰以後、昭和50年代にかけて東南アジア、中近東、アフリカ各地へ社員を出向派遣し、実績を残した。

 

【復帰当時の主な事業部門とその発展】

復帰前、電設部と管工事部は建設事業部に所属し、一括発注方式に威力を発揮していたが、復帰後、本土の「建設業法」が適用されると公共工事は分離発注方式がとられるようになった。

 

その対策として前者は昭和48(1973)年に株式会社沖縄特電として、後者は昭和50(1975)年に國和設備工業株式会社として独立した。また、建設用機械を管理、運用する機械部は昭和56(1981)年、機械開発事業本部となった。

 

その他、復帰前に設置され、復帰後も國場組の屋台骨である土木・建設各事業本部を側面から支えた事業に砕石部門、火薬部等がある。

 

また、復帰後、商事部ではKFCや、シェーキーズに加入するなど外食産業に乗りだし、順調に売り上げを伸ばした。

f:id:neverforget1945:20210903081911p:plain①海洋文化館(海洋博)
②安波ダム
海中道路
④機械部車輌
⑤沖縄CTS
⑥送電線工事
⑦石油ターミナル
シェーキーズ店舗
⑨創立50周年式典で挨拶する幸太郎

 

【國和会の結成】

國場組は誕生以来、事業拡大とともにさまざまな系列会社を誕生させてきた。復帰後まもない昭和47年9月、相互の親睦と団結、発展をめざした組織づくりをめざし、「國和会」が結成された。


昭和58(1983)年当時、個人会員数2,635名に上った。(続)

 

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