米軍は7つの捕虜収容所を設置した。基地の軍作業に以下の収容人数は1946年4月時点のもの。沖縄戦の作戦参謀八原博通ら高級将校は1945年の年末に最初の復員船で本土に帰還している。
本部 屋嘉捕虜収容所 287人
第1支所 牧港捕虜収容所 3,531人
第2支所 楚辺捕虜収容所 (高志保) 2,075人
第4支所 奥武山捕虜収容所 1,560人
第5支所 小禄捕虜収容所 1,459人
第6支所 普天間捕虜収容所 (通称ライカム) 718人
第7支所 嘉手納捕虜収容所 2,874人
第9病院 187人
合計 12,691人
北東海岸に集中させた民間人収容所と異なり、捕虜収容所がそれぞれ米軍基地地域に設置されたのは軍作業に従事させやすいためであると考えられる。
捕虜収容所と 『沖縄新聞』
新聞発刊の主な動機
捕虜事務所長クレーマー中尉による、良好な 容所環境維持のための情報提供、及び復員に関わる正確な情報提供。
創刊・終刊月日
1946年5月4日(第1号) ~ 1946年10月18日(第 25 号)
発行人
松宮克也 (読売新聞経済部、戦後 NHK 解説委員)
発行責任者:
扇谷金作 (信濃毎日新聞記者) 取材担当
飯田 展 (住友生命保険相互会社) 印刷担当
岩橋一徳 (戦後、三菱銀行常務)
松本兼次郎 (元阪神タイガース監督)
村田正雄 (新派俳優)
中村時三郎 (日本舞踊篠塚流家元)
古川成美 (「沖縄戦の最後」作者)
内海庫一郎 (武蔵大学教授)
サーキュレーション
沖縄本島内の捕虜収容所全7か所
発行部数: 約2千部 閲読対象者:約1万2千人
発行形式: A4 版変形(縦 33cm 横 21cm)
カーボン原紙に鉛筆書き、タイプライター式回転ハンドルにて手回し印刷
配布方法
毎週金曜日に印刷、土曜日に屋嘉収容所からジープにて各収容所に直接配送。運転手は米軍収容所長。(楚辺 → 嘉手納 → 楚辺 → 牧港 → 小禄 → 奥武山 → 普天間(オバスカム)
姉妹/提携紙
「沖縄新聞」第8号
1946年6月21日
「恥ずかしくない」
小禄収容所 内海生
「見苦しい真似だけはしてくれるなと云った親兄弟や戦友の遺族に会わせる顔がない」と云う考えを未だに持っている沖縄の PW が 相当居る。そう云う考えの人間なら抵抗が殆んど無益になった状態の下に於て抵抗を断念したのは当然なことであるということである。
普通の人間が勇敢に自己を犠牲にし得るためには、自己の犠牲に よって勝利を齎し得るとか戦局を転換し得るとか云う大きな希望の 励ましが必要である。死んで見ても何にもならぬと感じた時には人は死ねるものではない事は諸君は深刻に経験した通りである。諸君は、捕虜になったことを恥ずる必要はない。 浅はかな考えを持った者共が諸君を白眼視したり嘲ったりするな ら、彼らが人生の何たるかを理解しない事を逆に嘲笑してやるがよい。(中略)
我々の故郷の人々は、今ではもう戦争から帰って来た人を賞めたり 貶したりする余裕はない今、『働けるだけ喰わせろ』『米を呉れ』と いう叫びの陰に餓えて泣く自分の妹、自分の子供の泣声を聞くこと の出来ない者は日本人でないのだ。
今我々の祖国が親兄弟が妻子が望んでいる事は、諸君が丈夫で帰って来て呉れることではないか。