常井健一「沖縄県知事選と「國場組」」 (2014)

 

常井健一さんについて

ノンフィクションライター
1979年茨城県生まれ。ライブドアを経て、朝日新聞出版に入社。「AERA」政界取材担当。退社後フリーに。著書に「誰も書かなかった自民党総理の登竜門「青年局」の研究』(新潮新書)など。

 

沖縄県知事選と「國場組」

新潮45」(2014年11月号)

 

知事選を前に、沖縄政財界で地殻変動が起きている。仲井眞陣営にいる県内最大手の土建業者一族・國場幸之助衆議院議員は、この難局を乗り切れるか。

 


沖縄県知事選が一一月一六日、投開票される。保守系現職の仲井眞弘多に、那覇市長を務めた翁長雄志が挑む構図になっている。仲井眞は昨年末、米軍普天間飛行場を名護市辺野古へ移設するための政府の埋め立て申請を承認し、以前から反対していた翁長は反旗を翻した。今回は、事実上二人による一騎打ちである。翁長も、県議時代に自民党県連幹事長を務め、前回の知事選では仲井眞の選対本部長まで務めた保守政治家である。これまでの知事選は、保守と革新が接戦を演じてきた。それが初めて保守同士が激突する。仲井眞の前に知事を二期八年間務めた、稲嶺惠一が解説する。「これは保守分裂ではなく、基地運動に頼ってきた革新が自前候補を出せないほど退潮したということ。保革対立がバッと消えたら、日本の一部を担う)沖縄人的な意識と(本土に対抗する)琉球人的な意識の矛盾点が浮かび上がった」なるほど、同じ保守でも、仲井眞は官房長官の訪沖を歓迎し、自民党政権との近さを示す一方、翁長は盛んに琉球語を用い、民族的な誇りと主体性を訴える。九月、私は那覇市役所近くの翁長の選対事務所「ひやみかちうまんちゅ(「みんなで頑張ろう」の会」を訪ねた。

 


細長い部屋の一番奥に事務机が横一列に並んでいる。そこに陣取る一人に声をかけると、「自由民主党」の文字上にマーカーで線が引かれた名刺を渡された。「私、自民党から除名されたんですよ」男は現職那覇市議。今年一月、市議会として仲井眞の辺野古埋め立て承認に抗議する意見書の採択に賛成し、自民系の最大会派「新風会」(一一人)を挙げて翁長擁立を進めた一人だ。彼らは県外移設を掲げて昨年の選挙に勝ったが、仲井眞支持の党県連は今夏除名した。

 


長選対の中枢は新風会が固める。彼らは翁長と同様、前回の知事選では仲井眞選対を主導した選挙巧者ばかりだ。「新風会が生粋の自民党です。これほど自民党那覇で悪者扱いされた時代はなかった。今の国会議員よりぼくらの方が沖縄の代弁役を果たせると思いますよ」この市議が目の敵にするのが、那覇を含む沖縄一区選出の自民党衆院議員(当選一回)である國場幸之助(四一)だ。

 


「マックで話しませんか」

私が幸之助に初めて会ったのは首里城に近い十字路のどまんなかだった。
土曜日の朝、トム・ハンクスに眼鏡をかけたような顔の政治家はビニール袋片手にゴミ拾いをした後、窓の閉まった車列に向かって、スコットランドの独立問題を話すこと一五分。マイクを置くなり、「マックで話しませんか」と誘ってきた。那覇市では知事選に加え、市長選、県議補選、市議補選が同日に行われる。自民党の候補者選考委員会の責任者を任された幸之助は、有力者に出馬を固辞されるなど、すっかり振り回されていた。

 


「翁長さんなりの理想はわかりますが、仲井眞さんはリアリティを追求している。沖縄は常に苦しい判断の連続なんです。難問を放置するよりは一ミリでも二ミリでも前に進めているじゃないですか」

 


自分に言い聞かすように話す幸之助から、私は「昼に後援会のビーチパーティがあるので来て下さいよ」と誘われた。沖縄では夏に海岸で行う週末恒例のバーベキュー大会を、ビーチパーティーと呼ぶ。会場に向かうと約四〇人が談笑しながらアグー豚の薄切りを鉄板で焼き、オリオンビールで胃袋に流し込んでいた。開始から二時間、芸人のきたろうに似中年男性がテントに近寄ってくる。みんなが会釈を始めた。名刺を交換すると「沖縄県副知事川上好久」とあった。「県民所得ワースト一位、待機児童数日本一、学力最下位。いかに全国四七番目から脱却できるかということを仲井眞県政では目標を立て、成し遂げた。その流れを止めないため、幸之助さんと一緒に仲井眞を応援していただきたい」


パーティー気分が冷めた私は、数人に「代議士のブログに出てきた新風会の那覇市議は来ないんですか?」と訊ねると、「以前は来ていたのですが、今は距離があるようで.....」と口ごもってしまった。自民党新風会と幸之助との間に亀裂が走ったのは、昨年一一月二五日。午前中東京の党本部で、幹事長の石破茂自民党の沖縄選出議員との会談があった。幸之助は衆院選で「県外移設」を掲げた。だから翁長も新風会の市議たちも全力で応援した。会談前日、党県連本部三階の会議室で激論を交わした際、幸之助は持論を貫こうと意気込んでいたが、新風会の面々は疑念を抱いていた。

 


「みんなで言いましたよ、『お前を代議士にするのは相当な難産だった。思い出せ』と『席蹴って帰ってこい』とも。彼は『もう無所属はこりごり』と苦笑いしたので、嫌な予感がしました」

 


予感は的中した。石破は会談で幸之助らに県外移設の公約を事実上撤回させた。「県外移設の方針は取り下げられない。一方で、一日でも早く普天間基地の危険性を除去するための、あらゆる方法論や選択肢、可能性を排除すべきではない」

 


そう訴えた幸之助に、石破は迫った。「選択肢には辺野古移設も含まれるね」幸之助は、それを否定しなかった。その後、石破は党本部の記者会見場で表明する間、背後に幸之助らを並んで座らせた。頭をうなだれる彼をテレビで見支援者たちは怨嗟の声を上げた。私は幸之助にあの席での葛藤を訊ねた。「幹事長の言葉を認めたことだけクローズアップされた。正直会見もあるとは事前にわからなかった。沖縄と政府とのせめぎ合いで、辺野古か固定化かの二者択一を超えるためのギリギリの判断でした」

 


辺野古反対を貫き、今年自民党を離れた元県連幹事長の仲里利信は語る。「あの映像が流れた後、新風会の連中や翁長が我が家に来ました。『君らは公約を守ることに臆するな』と励ましました」同じ頃、政敵も仲里に接触を求めてき社民党社会大衆党の県議ら四人だ。「来る知事選ではオール沖縄という構図が大事だ。君らが革新共闘を前面に出し長を担いでも、保守系はついていけないよ。しばらく黙って、新たなグループの立ち上がりを待つ。そこが候補者を選び新風会が合流を決めた上で、革新が動き出す。そうしないと『翁長は革新になった』と言われて、保守の票は来ない」仲里が四人にそう話した通り、保守主導の「革新隠し」で擁立が進み、現時点では翁長の人気が仲井眞支持を凌いでいる。幸之助の元選対幹部で、今回の知事選では翁長陣営を仕切る人物は、普天間問題で躓いた幸之助を突き放す。「幸之助は國場組と縁を切ったら、次の選挙は勝てないと恐れたのだろうね」

 


キングメーカー「國場組」

那覇空港からモノレールにゆられて一五分ほど、県庁前駅に差し掛かると、てっぺんに大きく「國場組」と書かれた白い高層ビルが見えてくる。周辺には銀行の本店や新聞社、テレビ局、那覇市役所と県庁・県議会・県警の建物がひしめく。視界に入るそれらの建造物の大半は國場組が手掛けた「作品」と言っていい。

 


九州の建設業界で三本の指に入る同社は、土建業以外にリゾート事業なども手掛け、グループ一五社の一四年六月期の連結売上高は約七一九億円に達する。恐らく、沖縄で「國場」をコクバと読めなホワイトカラーは存在しない。

 


國場組は辺野古移設推進の旗振り役だ。元防衛事務次官守屋武昌の告白記『「普天間」交渉秘録』によると、〇七年、仲井眞の使者を名乗る元國場組会長は、V字滑走路案受け入れの条件として、創業者が夢見ていた那覇空港の滑走路新設、モノレールの北部地域延伸、高規格道路、カジノなど、仲井眞の「沖縄21世紀ビジョン」の原型のような案を示した。<仲井真知事の提案通りになれば沖縄全体の話であり沖縄で最も技術レベルが高い国場組が受け持つ事業が多い>

 


幸之助の人生は、親族が経営するこの國場組に大きく左右されてきた。

 


沖縄経済界の〝四天王”と呼ばれた國場幸太郎が一九三年、二千円足らずの元手で同社を立ち上げた。九人兄弟の長男で、一三歳から七年七〇円の身売り奉公に出た彼が、今のビルがある場所に作業場を築いたのは三一歳の時だった。実直な仕事ぶりが評判を呼び、國場組は瞬く間に沖縄一の業者となった。戦時中、旧日本軍の工事を次々と受注し、戦後の占領下では米軍と渡り合い、港湾荷役作業や払下げ物資の売買を独占的に引受け、米軍基地の建設も手掛けた。本土復帰後は沖縄海洋博の会場設営を皮切りに、湯水のように税金が注がれる「沖縄振興」の担い手となっていく。

 


七〇年衆院選では、幸太郎の弟、幸昌が自民党福田派から出馬し、当選した。以後、六期一六年、二度も沖縄開発政務次官を務め、中央と沖縄を利権でつなぐ地下水脈を作り上げたのだった。

 


幸昌の引退後は、後継者に國場組から秘書を派遣した。こうして政界遊泳術を会得した社員は、県内の選挙では凄腕の指南役として重宝がられ、出世を果たす。國場組は時の権力に寄り添うことで「政商」の座を恣にする一方、政治家の生殺与奪の権を握る「キングメーカー」の役割を果たすようになった。沖縄では過去一一回の県知事選があり、保革が入れ替わった例が三度ある。その背後では、賀の市長を務める吉田雄人はこう評する。國場組の政治力が一役買っていた。

 


一族の不和の中で

衆院議員・幸之助は、その華麗なる創業家に生を受けた。厳密には、艶福家の幸太郎が本妻とは別の女性との間にもうけた二男・幸治の長男として、である。


一族に向けられる奇異の目を幸之助は幼い頃から感じ取ってきた。著書『われ、沖縄の架け橋たらん』にもこうある。

 


周りの人たちから事あるごとに「あなたのお祖父さんは國場組の社長の國場幸太郎さんですよね」と言われていたからです。先生がそんな話を始めれば、クラスメイトの視線は私の方へ集まります。私はそれが嫌で嫌で堪りませんでした。

 


沖縄尚学高校卒業後、浪人を経て、日大に一年だけ通い、早大社会科学部に入りなおした。多くの政治家が輩出した「雄弁会」に入り、大学一の口達者を選幹事長選挙にも出た。幸之助は一度落選し、半年後にリベンジを果たしている。一年後輩で、基地の町・神奈川県横須の市長を務める吉田雄一はこう評する。

 


「理論派が幅を利かせている時代に、エモーショナルな語り口で勝負するタイプでしたね。上下関係が厳しいサークルの中で後輩を下宿に呼んでくれた先輩は國場さんぐらい。ガハハと笑ってその場を凌ぐキャラが印象に残っています」

 


雄弁会で安全保障をよく語る一方、國場一族のことを口にしたことはなかった。早稲田で在野精神を叩きこまれたはず幸之助が就職したのは、國場組の子会社だった。父は、國場組の三代目社長になっていた。入社後、九八年の知事選に出る稲嶺のカバン持ちに活動をシフトする。稲嶺は、実父が興した会社の、國場組が建てた本社で、ソファに身を埋めながら「彼は政治的にまじめ過ぎだから、これから苦しむでしょう」と私に話した。

 


二〇〇〇年、幸之助は二七歳で自民党県議になった。後援会長には、祖父の懐刀だった國場組のOBが据えられた。ところが〇三年、任期を残し、那覇ではなく、県北部の沖縄三区から衆院選に無所属で出馬した。同区には祖父や父が育った国頭村や、義父の西田健次郎(元党県連会長)の県議時代の地元・沖縄市がある。だが、國場幸昌の流れを汲む時の総裁派閥・森派の現職が相手だ。自民党は除名、國場組も幸之助から離れた。

 


元業界団体幹部は、「國場組は幸之助を応援しないよ。あなたがやれば、私とも疎遠になる」と、國場組の現副社長から釘を刺されたのを覚えている。落選後、幸之助は自民党関係者の勧めで対抗馬のもとを訪れ、裏切り行為に詫びを入れた。そして、復党が許された。幸之助と國場組の確執を地元関係者は想定していた。彼の父・幸治と現社長の幸一の不仲はあまりにも有名だからだ。

 


三七年生まれの幸治は、日大理工学部卒業後に入社し、幸之助が生まれた頃には主力の土木事業の担当常務になっていた。創業者の父の信頼が特に厚く、次期社長の本命候補として嘱望されていた。

 


ある経済人が、國場家の内情を明かす。「本妻は嫉妬して長男の幸昇に『妾の子に負けるな』といつもけしかけていた」

 


幸太郎は息子の幸昇と幸治、弟たちの長男である幸一郎、幸一という國場一族第二世代の四人に後継の座を競わせた。戦災孤児の身から、玉泉洞を開発して成功した南都グループ会長の大城宗憲は、父のように慕った幸太郎から生前、遺言とも予言ともいえる言葉を預かっている。「幸昇には『他人の保証人になるな』、幸一郎には『ウチナーの代表のように振る舞っているが、他人の土俵で相撲を取るな』、幸一には『裏でコソコソやるな』、そう三人に注意してくれと。一番優秀な幸治には何も言っていなかった」

 


初当選へのいばら道

幸太郎が八七歳で鬼籍に入った八八年以降、國場組に不幸が容赦なく襲う。長男の幸昇が社長、幸治と幸一郎が副社長となって再出発したが、國場家第一世代を代表して重石となった新会長の幸昌が八九年に交通事故で亡くなった。その後、國場組はバブル期の過剰投資で債務が膨張し、九三年までに九一一億円の負債を抱える。同年、三つの銀行か役員を受け入れ、社員七八八人体制に切り込む大リストラが始まった。

 


同じ頃、二代目社長の幸昇は、子会社の資産を担保にノンバンクから二九億円を借り、自ら経営するゴルフ場開発会社また貸ししたとして特別背任の罪で逮捕・起訴された(後に有罪確定)。幸一郎が会長、幸治が社長(三代目)、幸一が専務となって再建を進めたが、「同族経営では債権処理が進まない」とした銀行の圧力で三人は更迭された。

 


國場家の親族はこんな秘話を語る。「幸治は会社を追われた上、幸一との権力争いの末、自分の財産も取り上げられた。丸裸ですよ。創業者の立派な仏壇まで差し押さえられ、業者も処分に困っていたところ、幸治が泣きついて取り返してきた。だが、異母兄の幸昇は受け取り拒否。今はどこにあるのか.....」

 


九八年以降、一族以外の社長が二代続き、〇二年、第二世代の中で唯一表舞台に残っていた幸一が六代目社長になった。現社長でもある幸一は四一年生まれ、学習院大を卒業後、米テキサス大に留学し、帰国後は石油販売事業を任された。

 


國場組の幹部経験者はこんな話をする。「その幸一と、九月に沖縄ゼロックス会長になった幸也、リゾート事業のトップ、幸伸、つまり幸昌さんの息子三人が現在グループの実権を握っている。幸一に言わせると幸治は『國場組のA級戦犯』なんだとか。私は『人前で言うな』と注意したが、『だって、あいつが赤字を作って、俺が清算したんだぞ』と言い張る」

 


現在、幸一は、県経済団体会議議長や那覇商工会議所会頭を務める。前者は沖縄を代表して知事や閣僚に直接提言でき特別職だ。また、自衛隊在日米軍の活動を支える県防衛協会の会長も兼ねる。つまり、幸一は基地問題経済振興という沖縄の二大テーマに絶大な発言力を持つ最高実力者。そして、彼が「A級戦犯」と呼ぶ父を持つのが幸之助なのだ。

土建屋対決」

〇九年の衆院選。幸之助が沖縄一区に鞍替えして、再挑戦した際、対抗馬の下地幹郎の実兄は県内三位の大米建設社長のため、「土建屋対決」と言われた。当時、國場組は幸之助に推薦状を出したが、大々的に応援した形跡は見当たらない。


前出の大城は、安倍晋太郎小渕恵三の沖縄後援会の立ち上げを主導してきた「フィクサー」という表現がピッタリの強面の老大家である。彼は、幸之助が自民党公認を得られた舞台裏を明かした。「党の選対委員長だった古賀誠さんに頼んで枠を作ってやったんだ。『下地に勝てる人』という選考条件では、幸之助は公認を取れなかった。それじゃ古賀さん私の立場がないので、三人の理解を取り付けた。今回知事選で争う仲井眞と翁長、新風会の安慶田(光男・那覇市議会議長)の三人だよ。彼らの方向性を一致させて、幸之助の公認を通した」

 


しかし、國場組、即ち幸一の理解は取り付けていなかった。落選後、大城は幸之助に相談を受けた際、こう諭した。「次の選挙までに幸一を説得しろ。一族がバラバラだと手伝う方もやりにくい」

 


一方、勝って、野田内閣で初入閣した下地側も早くから幸一に秋波を送っていた。一二年の衆院解散直後、業界五六団体を集め就任祝賀会を那覇市内のホテルで開いた。発起人代表は、幸一に任せた。

 


だが、祝賀会の三週間後、那覇中心部の交差点で信じられない光景があった。「國場幸之助をよろしくお願いします」決別したはずの幸治と幸一、そして幸一郎が並んで共に車道に頭を下げている。その時、負けを覚悟したと政界歴四〇年の下地の参謀、渡慶次柴英は振り返る。「國場組が下地をやるという話はできていた。選挙前に下地と幸一の二人で会っそれが土壇場に副社長から『幸一は幸之助をやる』という情報が入った」

 


その一族融和を仕掛けた人物の名を、幸之助の義父、西田は興奮気味に語った。「古賀誠さんが世界的なゼネコンの幹部を連れて、國場組の社長室に乗り込んだのよ。『幸之助を応援して』と。部長たちもびっくりしていたよ。古賀さんは恐ろしいね。一度や二度じゃなかったよ」その日を境に、閑散としていた幸之助の選対は訪問客でごった返した。

 


そして、幸之助は初当選を果たしたのだった。私は沖縄に行く前、幸之助の国会事務所に寄ると、応接室の壁には皇室カレンダー、その隣に古賀のポートレートが飾ってあるのを見つけた。幸之助は、古賀が名誉会長を務める宏池会に属している。

 


辺野古移設でもそうだが、幸之助は集団的自衛権やTPPについても沖縄の「民意」を語って、安倍政権の方針に慎重な立場を鮮明に示している。昨年四月二八日にあった「主権回復の日」式典の定例化を巡っては、沖縄にとっては終戦後本土と切り離された「屈辱の日」だとして、党の会議で抗議の声を上げた。新人がこうも堂々とモノが言えるのは、古賀という後見人の存在があるから。希望通り国土交通委員会に所属できたのもドンのお陰と言われている。国政の場で國場組の代弁も果たせるというわけだ。

 


沖縄の地殻変動が起きている

前述の通り、國場組は辺野古移設推進の立場である。仲井眞後援会の副会長も務める社長の幸一は一二年、県防衛協会会長の立場で当時の辺野古区長と訪米し、政府高官や議会に要望書を提出した。昨年一〇月には、県商工会議所連合会長の立場で外相の岸田文雄に要望している。


同年一一月には首相官邸で安倍と会い、県経済団体会議議長として経済界を「辺「野古」で意思統一すると約束した。


その頃から、幸一は移設に慎重な県内の重鎮たちとも接触を繰り返している。「翁長雄志、平良朝敬(かりゆしグループCEO)と一年半前から定例で夕食会をやっていた。幸一は『県内移設で行けないか』と盛んに持ちかけたそうですよ。それでも翁長はブレなかった。それを見た平良は翁長にほれ込んだそうです」(翁長に近い元業界団体幹部)

 


その平良は辺野古移設に反対する経済人の代表格となっている。幸一の政界工作は「独断的」と見なされ、経済界の中枢からも批判の声が上がり始めた。

 


九月二一日、普天間飛行場に近い宜野湾市民会館で保守系政治団体が仕掛け「沖縄21世紀ビジョンの早期実現をめざす県民大会」*1を覗いた。そこに集まった千人以上の誰もが仲井眞の登場を心待ちにしているようだった。「私がな・か・い・まです。いいですか~もう一回知事選に挑戦します。普天間問題を解決したい。これが第一です」仲井眞は五分だけ挨拶して、消えた。

 


配布資料の中に、告示までに二〇万筆を目指している署名運動の呼びかけ人リストがあった。会長は「國場幸一」となっている。代表世話人には元國場組社長宮城宏光、元沖縄電力会長の嶺井政治、東開発会長の仲泊弘次、仲本工業会長の仲本興成、前沖縄観光コンベンションビューロー会長の安里繁信らの名がある。だが、ある地元メディアの幹部にそのリストを見せると、きっぱりと言った。「過去の人ばかりが仲井眞に集まっているね。かつて『黒幕』と呼ばれ、県の仕事をもらって大きくなった人たちです」

 


一方の翁長陣営は、前出の平良、沖縄ハム会長の長濱徳松のほか、金秀グルー会長の呉屋守将を中心に据えている。金秀とは、県内四位の土建部門を持ち、県内にスーパー「かねひで」を約七〇店舗も展開する五千人規模の老舗企業だ。九月二九日、翁長の激励会が那覇市内のホテルで行われ、約千人が詰めかけた。しかし、各党派からの挨拶を聞いていると、翁長でなく、スポンサーの呉屋が会の主賓なのかと錯覚するほどだった。

 


社民党の県議は、「今、『かねひで』に行って、沖縄ハムを買ってというのが流行っている」。社大党の県議も、「最近は、『かねひで』に足が勝手に向いてしまう」。ヒゲ面の呉屋はそれを満足げに見守ると、翁長の退場後、「68」のナンバーを付けたセンチュリーに乗り込んだ。「呉屋の父で金秀創業者の秀信は國場幸昌の選対責任者。でも、國場組からは『金秀は選挙のお陰で大きくなった』と見下されていた。秀信は國場組の下請けでいながら、いつか見返そうとしていた。今ではスーパーで成功して、國場組より元気な会社ですよ」(前出メディア幹部)

 


現会長の呉屋は四八年生まれ、名古屋工業大から米ジョージア大大学院に進んだ。大経営者の一族で米国留学経験もある点は國場幸一と共通する。ところが、しばらく前から國場組と金秀が経済界を二分して睨み合う状態が目立ってきた。呉屋一族と親しかった人物が明かす。

 


「國場幸太郎が住んでいた広大な屋敷 *2 が昔あった。そこも國場組が傾いた時に取られ、その後、県立武道館を作ることになってね、國場組はゆかりの地を工事したくて画策したみたい。それを金秀が横取りする形で受注した。最近では新聞社がビルを建てる際、地元業者でJVを組ませた。やはり國場組の主導になるんだけど、鉄骨を得意の金秀ではなく別の業者に注文した。それで悪化した」


金秀の呉屋も、かりゆしの平良も、八年前は國場と共に仲井眞知事を生む原動力だったが、〝國場びいき"の県政下では冷や飯を喰わされた。今回は保守の基礎票二〇万の三割を奪い、革新二〇万票への上乗せを狙っている。

 


複数の経済人は地殻変動に期待する。「翁長が当選すれば、経済界のトップが國場組から金秀に代わる。もう土建屋が沖縄の顔という時代も終わった」國場組に支えられて漸く国会議員になった幸之助の動きが新風会の造反を生み、その地殻変動を促進させ、仲井眞を窮地追いやったのは何とも皮肉な結末だ。

 


前出のメディア幹部は、九月に知事選の情勢調査に来た政府高官にこう伝えた。「翁長は辺野古移設に『反対』であって、『撤回』とは言わない。安倍政権が続く間は工事が進む、とわかっている。ただし、翁長が勝てば交渉力は格段に上がる。反対派に声を上げさせながら、嘉手納以南の米軍基地の早期返還など何らかの見返を政府に求める。経済人の一部は翁長はリアリストだと気づき、政府へのアピール以上に仲井眞を応援しなくなるよ」

 


その人物は、「沖縄空手って、寸止めなんです」と冗談めかしながら、過去の傾向から國場組もどこかで仲井眞陣営からフェードアウトすると予測している。その時、幸之助はどうするのか。沖縄の選挙では「三日攻防」という言葉が使われる。最後の三日は何でもアリの総力戦が繰り広げられるということだ。翁長陣営に流れた選挙巧者は「もう幸之助を応援しない」と口を揃える。心配した有力後援者は、幸之助にこう囁いた。

 


「翁長には楯突くなよ。知事選後にこちらから話を持って行けなくなるから」
鵺が跋扈する世界がそこにあった。

 

 

 

 

 


November 2014

 


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*1:応援!沖縄21世紀ビジョンチャンネル - YouTube

*2:みなと村