恩納通信所と恩納VOA送信所

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VOA送信所(国頭村)

所在地 : 国頭村字奥間・字鏡地・字桃原

返還面積 : 564千m2

 

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沿革

昭和26年: 放送施設建設のため強制接収

昭和39年: 22千m2が返還

昭和52年: 500千m2が返還され、ほぼ返還完了となる

 

接収の経緯

この施設は、国頭村赤丸岬の南端に位置し、奥間レストセンターと隣接していたが、接収前は米の特産地として知られ、水稲の他に甘藷や穀類 が栽培されていた。

中華人民共和国の誕生や朝鮮戦争の勃発等、極東アジア情勢の激変の中で、対共産圏への謀略宣伝工作を目的とした放送施設(ヴォイス・オブ・ アメリカ)を建設するため、米軍によって強制接収された。他に恩納村北谷町にも関連施設が設置された。

 

返還の経緯

昭和39年に22千m2が返還

昭和52年にVOAのフィリピンへの移転撤去に伴って大部分の500千m2が返還され、ほぼ返還完了となった。その後、残りの42千m2も返還され、全部返還となった。

 

現在の土地利用状況 返還跡地は、土地改良事業が実施されるなど、現在は農地、宅地、保全林、リゾートホテル敷地として利用されている。

 

返還状況            (単位:千㎡)

  国頭村  恩納村  北谷町  合計 
昭和39年 22 70 0 92
昭和52年 500 504 55 1,059
昭和53年 42 0 0 42
  合計 564 574 55 1,193
未返還面積 0 0 0 0

 

 

VOA 恩納送信所とVOA庁舎

 

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藤井智史「アンテナのあった風景 in「沖縄」」. 通信ソサイエティマガジンNo.44. (2018)

 

恩納通信所の土地接収

Ryukyu Police Reports ー 恩納通信所をめぐる土地収用問題

恩納村『広報おんな 405号』 (pp. 6-7)

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「万座毛にあった恩納通信所(左奥) 写真中央にはV.O.Aが見える(撮影年代不明)」

 

沖縄戦後史の中でも、「暗黒時代」と称されるほどのとりわけ厳しい時代で あった一九五〇年代、「銃剣とブルドーザー」という言葉に象徴されるように、米 軍が武装兵を出動させ、沖縄の人々の土地を奪い、基地建設を強行していった ことはよく知られているとおりです。一九五三年四月三日、米軍は布令第一〇九号「土地収用令」を公布、そのほぼ一週間後の四月十二日の真和志村(現・那覇 市)銘苅の強制接収を皮切りに、米軍は読谷村渡具知、小禄村(現・那覇市) 具志、伊江村真謝、宜野湾村(現・宜野湾市) 伊佐浜の土地を次々に強奪して いきました。

 

沖縄県公文書館に所蔵されるエドワード・フライマス氏の文書ファイル、 “Ryukyu Police Reports"(資料コード:0000024782)には、字恩納及び南恩 納の恩納通信所の土地収用をめぐる資料、“Meeting Held in Regard to Confiscation of Land for Military Use"が綴られています。

 

この資料に特徴的なのは、出席者である恩納村長、助役、土地担当者、恩納村土地委員会の委員たちの発言内容などがすべて英文に翻訳されている点で す。この資料が作成された本来の目的は定かではありませんが、資料中の「情報源」の欄に「米国民政府公安局」と記されていることから推察するに、土地収用に対する恩納村の内部動向を米軍側が把握するためのものであると考 えられます。また会議の開催日時や開催場所が明記されているだけではな く、出席者の実名までもがローマ字と漢字で併記されているなどの具体的な記載は、恩納村においても米軍による監視網がくまなく張り巡らされていたこ とをうかがわせます。

 

資料の冒頭には、会議は一九五四年四月十三日十五時から十六時五〇分にかけて恩納区公民館の前にて開かれ、米国民政府から「南恩納区の西側のすべてのエリア」を米軍に明け渡すか、もしくは譲渡するよう要求されていると記載されています。続いて資料には、土地委員会の委員長による報告が記されて おり、それによると収用の対象となった面積が十四万八千坪にのぼること、そ れによって恩納区及び南恩納区では農地の約三分の二が失われること、並びに「土地収用に反対である」との委員長の発言が確認できます。

 

続いてなされた恩納村長の発言は、村長としての苦しい立場をうかがわせ るものでした。村長は、「村長の立場として、私は土地収用に反対であるかどうかは言えない」と前置きしつつ、「地主たちから寄せられた意見に従って『土地 問題」の解決に努力する」と発言しています。土地収用問題に対する村長とし ての見解を避けつつ、村民の意見を要求するといった態度は、村長としての責 任を放棄したというよりは、むしろ米軍の圧力に直面し、米軍と村民との板 ばさみに立たされた恩納村長の苦しい立場をうかがわせるものです。

 

先の村長の発言に返答する形で、会議に出席したある地主は次のように述 べています。

「地主として、私は絶対に反対である。しかしながら、我々が何を言おうと関係なく土地を使用すると仮に軍が言うのであれば、この問題に関して我々ができることは何もない。しかし何はさておき、軍に使用されることのないように陳情するため、我々は行政主席、立法院議長及び米国民政府に代表者を送るべきである」

 

土地収用に関して、「我々が何を言おうと関係なく土地を使用すると仮に軍が言うのであれば、この問題に関して我々ができることは何もない」とする この発言は、米軍の圧政が恩納村の地域社会においてもいかに重くのしかかっ ていたかを伝えるものです。しかしその一方で、土地収用に「絶対に反対であ る」との発言は、字恩納及び南恩納の農地が農民にとっての生活の命綱であっ たがゆえに、すなわち一九五〇年代の「基地問題」が恩納村の農民にとって死活 問題であったがゆえになされたものであると指摘できます。 恩納村の地域社会に内在していた、米軍の圧政と農民の死活問題という相克のなかで、発言者は「軍に使用されることのないように陳情する」という方針 導き出していきます。この発言は会議の出席者の全面的な同意を得、米国民政府、行政主席、立法院議長に陳情書を提出することが満場一致で決定され たと資料には記されています。

 

各方面に提出された陳情書の原文こそ現時点では確認できませんが、「立法院会議録」の「請願(陳情)文書表」によると、陳情書の件名は「軍用地指定 保留方に関する陳情」、請願陳情者は恩納村長のほか一四一名とあります。請願要旨の欄には、軍用地指定地域が恩納村唯一の穀倉地帯にして、約1000 人の食糧を確保し得る優秀な耕地であること、軍用地に指定されるとなると食糧事情が深刻化し、耕地の皆無状態となり、約1000人の住民が路頭に 迷うこと、さらには「貧困なる村財政」の運営にも支障を来たすとして、軍用 地の指定を保留するよう記載されています。

 

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恩納通信所(南恩納区 所蔵)

 

《参考文献》

中野好夫新崎盛暉沖縄戦後史」岩波新書 一九七六年
沖縄県史ビジュアル版1 戦後1 銃剣とブルドーザー』 沖繩煤教育委員会一九九八年『恩納字誌』 字恩納自治会 二〇〇七年

1 “Ryukyu Police Reports" には、恩納通信所に関する資料のほか、真和志村銘苅、小様村具志、読谷村楚辺、北中城村仲順、三和村喜屋武、宜野湾村伊佐浜、伊江村真海に関する類似の資料の存在が確認できる。

2現在、「立法院会議録」は沖縄県公文書館のホームページにてPDFファイルで公開されている。本文に引用

 

25 会議名 第4回定例 第5号 会議日 1954.4.30
案件名 恩納村土地使用に関する請願決議案

http://www2.archives.pref.okinawa.jp/html2/04/04-01-09.pdf

琉球立法院会議録: <請願>

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