『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 八重山 ( 5 )

 

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 「離島の戦争遺跡・国境をめぐる国際交流から平和教育を考える」琉球大学リポジトリ (2007) pdf から地名を書き入れ

 

二、キナ樹の皮汁を飲んで命拾い

富村字西表星勲(四一歳)那根武(三八歳)良伊ウムチ(三九歳)西表貞子(十九歳)

 

「米をつくるな、軍作業に」

初めて軍隊がきて内離外離に砲台を築いたのは昭和十六年十七年でした。

 

昭和十八年には、護郷隊300名ほどがきて外離で砲台を築いていました。このころから、住民に軍作業の動員命令が出され、毎日、仕事に応じて人数を各部落に割当てていました。軍からの命令は、区長か防団に出し、区長や警防団は、それを住民に割当て、動員していました。手弁当を持ち、クリ舟をこぎ、外離にいって壕掘り、砲台つくり、砲弾上げなどの作業で、ただ働きさせられました。

 

昭和十九年になると、部落で働ける者、女も男も連日の徴用にかり出され、自分の仕事はほとんどできなくなりました。軍作業を終って、夕暮れから暗くなるまで、自分の田で仕事をしたのですが、仕事ははかどらず手入れもゆきとどかず、収穫は以前より少なくなりました。

 

軍の方では「米をつくるな、軍で食糧を確保してあるので軍作業にでよ」といって、毎日徴用にかりたてていました。当時、軍命令は絶対であり、強制的であったので命令に従うしかありませんでした。

 

供出といって、軍ヘツハブキの茎、豆かす、野菜を婦人の方々に出させていました。
また、婦人の方は、玄米を白米にするため前泊の浜にウスをならべて、白米にし、軍へ奉仕していました。

 

とにかく、食べ物は微発されるし、働ける者は徴用でかりだされて、住民の生活を考えてくれませんでした。

 

 

外地で戦争が激しくなってきたせいか、軍は各部落に避難地を指定し、壕つくりをさせました。住民は、避難地の壕に食糧をたくわえて、いつでも避難できるように準備をしていました。そのころに、初めてグラマン八機による空襲がありました。

 

昭和二十年になると、空襲は激しくなりました。その中でも軍要員として毎日作業させられました。二月頃に、軍から避難命令が出て、部落の女、子ども、老人は、避難指定地の祖納岳、ハテロマ森に避難しました。部落の働ける男子は、軍要員として部落に残されました。軍は住民に対して食糧の供出を命じていました。

 

空襲が激しくなっても避難用の食糧に対して軍は容赦なく発し、命令で米を部隊へ持ち運ばせました。このころから、食糧は不足がちでした。食事は、朝早く準備し、十日分つくっていました。準備できなかった時は、その日の夜までひもじい思いをしなければなりませんでした。

 

避難生活でつらかったことは空襲時に子どもが泣くことでした。泣く子はの外へほうり出せ、とみんなに怒鳴られ、叱られました。子どもが泣けば、飛行機に見つけられ空襲をされるので、泣く子をあやす母親は、口に手を当てたりして泣かさないようにすることに精いっぱいのことをしていました。

 

それから、困難なことは、お産でした。お産は、壕でさせず田小屋にばあさんと行ってやっていました。ばあさんがいない者は、産婆の経験のある者にお願いし、お産をしていました。中には自分一人でお産した人もいました。

 

終戦まじかになると、避難所の食糧も不足をきたしやせおとろえるばかりでした。
八月十五日、謎郷隊の隊長が部落民を集めて、終戦を知らせてくれました。
避難所への知らせは、部落の者がしてくれました。部落へ帰ろうとしたら、軍が部落へ帰るな、という命令をしたが、一人逃げ二人逃げで、とうとうみんな帰ってきました。

 

避難中に持っていた食やモミ、とってあった保管米も、みな食べつくしておりました。部落に帰った時には、栄養失調と疲労困しておりました。部落に帰っても食べ物もなく食べられるものは何んでも取って食べました。ヘゴ、マ二(くろつぐ)、クバの芯、アザミのイキ、ツノマタ、ギイラ(シャコ貝)、カテチ(ウニ)、ゆりの根、特にソテツは多く食べました。ソテツは切って箱につめてくさらし、つつき、布にほしてアクをとり、そして食べました。

 

食糧難の上に体も衰弱していたので、マラリアに殆んどの者がかかりました。マラリアは避難中からかかっていた者もいましたが避難から帰って来てからひどくなりました。食べ物はない上に、マラリアにはかかるし一家全員が枕をならべて高熱を出し、うなっているところ、乳飲み子が、熱でうなされている母親の乳の出ない乳房をくわえて泣き出しているところ、死の寸前をさまよって助けを訴える老人、水をほしがる病人、見るにたえない悲惨な状態でありました。

 

薬もなく、医者もおらず、以前からあった西表島マラリア防遏所の職員では何もなりませんでした。熱のさがった者は、ヨモギ、ニガナ、サクナ、バショウをせんじて、その汁をマラリア患者に飲ませて一時の熱さましにしたことが精いっぱいの治療でした。

 

食べる物もなく、マラリアでうなされ、熱がさがった者が食べ物をさがしてくる、病人の頭を水でひやす.......このような状態が長く続けば部落全員が死んだでしょう。

 

ところが、西表島マラリア防遏所の職員が稲葉で営林署の造林地キナを発見し、その皮をはぎとり、三枚鍋にキナの皮と水を入れて煮、この煮汁に水一斗、稀塩酸、苦味チンキを加えて沸騰させ、これを各戸に廻ってマラリア患者に湯呑み一ぱいを強制的に飲ませました。このことが二週間も続く内に、マラリア者はよくなり、マラリアの犠牲者をだすことがなく、その後、各部落へキナの皮を配りました。そのため西表島でのマラリアの死亡者がたいへん少なかったのでしょう。

 

マラリアが猛威をふるった終戦直後、軍へ薬をお願いしたが軍でも手持ちの薬がないといってことわられました。軍の方でもマラリア患者はたくさんいました。
島外との通信、交通の途絶えた中で、マラリア患者の治療と食糧さがしをやるだけで精いっぱいでした。

12月25日に米軍上陸

十二月二十五日に初めて、米軍が来ました。日本軍の武器、弾薬をとり上げ、海へ捨てました。その時に、日本軍の壕に、たくさんあった米を運び出し、深海へ投下しました。住民は米軍がすることを、ただ傍観するだけで、米をください、とも言えず、訴えることもしませんでした。


住民は、米軍をこわがり、おそろしいものと思っていました。その後、米軍から、キニーネ、アテプリンのマラリアの薬が配られ、また強制的に飲まされ、マラリア患者も少なくなり、食糧生産に励むことができました。

 

三、盗った品を首にかけられて

小浜島黒島精耕(九歳)

戦後の食糧難と集団暴行

太平洋戦争、沖縄戦の悲劇は、決して戦場だけのものではなかった。戦争の悲惨さはなお戦後へと続く。惨めな敗戦のあと、人々を待ちうけていたのは、衣・食・住なかでも食生活困窮であった。日本全国いたるところで戦後の食糧難が続いた。ここ八重山でも、「ムイゾッコン」を食べ、ソテツをもって生命をつないだ。

 

このような戦後の食糧難の状況のなかで、今もって子ども心にやきついて離れない出来事が私の郷里小浜島であった。このことを記すことはある意味で勇気のいることであるがどうしても書かずにはおれない。事は沖縄戦が終り、復員兵が吹き吹きと帰ってきつつあった。一九四六年(昭二一年)の春のことである。食糧難にあえぐ島の苦しい生活の中で、生命をつなぐために、盗ってはならない他人の物を盗んだことが島の人たちに知れわたると、その犯人たちが部落の中心地、そこは島でオオミチと呼んでいる)に呼び集められ、当時復員したばかりの戦争で心は荒すさんでいる当時二〇代か三〇代の血気盛んな若者たちから集団暴行を受けるという事件が起きたのであった。

 

犯人のなかには島の人が二人含まれ、あとは島外の人たちであったが、その状況はまさに悲惨そのものであった。部落の中心地で、しかもそこには島の人たちがその状況を見るために沢山集っているなかでの集団暴行である。イモを盗ったものはそのイモを首にはかされ、山羊を盗って食べたということで、その山羊の骨を一人ひとりの首にはかされ、さらにはひざまずきをさせられたなかで、なぐる、けるの暴行を加えられたのである。その行為があまりにもひどく、気の毒だと知りつつも血気盛んな軍隊帰りの若者たちのふるまいに、誰がそれに手を止めることが出来よう。気の毒だ、あまりにもひどすぎると知りつつどうすることも出来ずたその状況を見守るだけである。まさに戦場そのものである。戦争の醜さ、戦争の無慈悲、戦争の非人道さがそこにある。私は戦争とはこんなものか、こんなに恐ろしいものなのか、戦争が終ったとはいえ、そこに戦争の本質を見る思いであった。

 

盗みをはたらき、それがばれるだけでも、人間としてたいへんな思いであるのに、まして大衆の面前でしかも集団で暴行を受けるということがどんなに心苦しいものであるか、それは当の本人ならずとも人間誰もが感ずるものであろう。

 

その人たちとて他人の物を盗みたくて盗んだのでもなく、飢餓の一歩手前で死に絶えることが出来ず、何とかして生命つなぎのためにやむにやまれず、つい他人の物に手が出たはずである。戦争の悲劇は決して、戦場のみにあったのではなく、戦争が終って後も、このような形で人間を苦しめ、人間性を失なって、ただ生きることのみにあくせくしていたのである。

 

人間が人間をこらしめる。これが戦争ではないのか。私は人間が人間をこらしめあう社会のしくみがなくならない限り、戦争がこの世から失せることはないと思うし、したがってこのような社会のしくみを改めない限り、私たちが求める真の平和はいつまでたっても私たちのものにはならないものだと信じている。盗みをはたらかなければ生きていくことの出来ないこの世の中のしくみをこそ問題にしなくてはならないと思うのである。

 

四、台湾疎開と食糧難

女手一つで、帰郷後の食糧難

登野城石垣タマヨ(三一歳)

当時の私の家族は、子供が五名で、上の子が三年生、末の子が一歳に満たない頃でした。夫は戦地で、不在でした。私たちは別に疎開で台湾へ行ったのではなく、疎開の始まる以前に台湾へ渡りました。そこで戦争がいよいよ激しくなったので、住んでいた基隆の昭和町からトウホク郡のトナンへ疎開しました。基隆にいたときから防空演習があって、それに出ないと罰だというので、私はマラリアにかかってふるえながらも強制的に参加させられました。

 

五名の子供のうち、末の子が病気でめんどうをみる人もなく、上の子は栄養失調で三歳なってもまだ歩くことが出来ないという状態でした。夜間の空襲などにあうと、隣りのタンクに親子六名ローソクの灯をたよりに一夜を過したこともあります。

 

台湾での生活は大変な食糧難で、ドジョウをすくってきたり、子供たちの釣ってきたカエルまでも炊いてたべました。野菜などは勿論手に入らないのでシマホロギクを野菜がわりにしたり、とにかく雑草のうちでも食用になるのは何でもたべました。

 

終戦はトナンでした。男手のある家庭はみんな引き上げ、私たちは最後までとり残されてしまいました。集団疎開した人々もほとんど引き上げていきました。金のある人々は何とか上手に帰っていきましたが、私たち一家は幼な子をかかえて、途方にくれる毎日でした。

 

家主で、台湾の人ですがたいへん親切な方がいて、その人にお願いしたら荷物などもきちんと整理してくれて、一日がかりでトロツクというところまで牛車で行くことができました。

 

そこで親戚の四、五人と合流して、他人の軒下に寝泊りして二、三日を過しました。
そこからまた汽車に乗って行くのですが、当時客車にはとても乗れない状態ですので、やっと貨車に乗せてもらい、豚と一緒の貨車でスオウというところまで行きました。


その貨車にも当時のヤミで乗ったので法外な料金を支払わなければなりませんでした。また途中で機関車が止まるとさらに料金の上積を払わなければ貨車を引いてくれませんでした。

 

船はスオウから出るのでそこでしばらく滞在し、やっとの思いで八重山帰ってきました。その船は六トン程の小型船でそれに百名程の引揚げ人が乗り込むのですから身体を横たえる事も出来ず、膝をだいて坐り込んだまま身動きひとつ出来ないという状態でした。そのうえ途中で船が故障してしまい一時与那国にたち寄ってから出なおすというようなこともありました。帰り着いたのは昭和二十年の十一月でした。ほっとして見ると年老いた人々はみんな白髪でやせおとろえ、見るも哀れな姿をしていました。


私の家族は八重山へ帰ると祖父(当時七十歳)を加えて七名になりました。台湾から引きあげるときに三升の米をもってきたのでそれに祖父のもっている米五合程をあわせて、それでやっと一時の急をしのぐことができました。


その三升五合程の米をたべつくした頃から私たち家族には食糧地獄がやってきました。帰ってきたばかりで島の状態もよく知らないまま、あちこちと食を求めてさまよいあるかなければなりませんでした。

 

食糧難は台湾同様石垣でもたいへんなもので、畑に出てもイモのカズラ一本みることができませんでした。私たちは幸なことに親戚にイモ畑をもっている人がいたので、そのイモを親戚がみんなで順番に掘りおこしてたべることにしてもらいました。しかしそのイモも、親戚が多い上にイモの量はわずかでほんの一時しのぎ程度のものでしかありませんでした。


四、五日に一回しかその順番は廻ってきませんでしたがその一回の量も手さげカゴの下半分あれば良いほうでした。それを次に番が廻ってくるまでたべつながなければなりません。それで一日のたべられる量は、手のひらに数えてのせられるぐらいしかありませんでした。皮をむくのも、もったいないので水洗した親指程のイモをアオサの汁に小さく切って浮べるようにしてたべました。


当時は調味料も勿論ありませんので海水を汲んできてそれで汁をたくというぐあいでした。野菜とよべるのはありませんので野生のやわらかそうな雑草はかたっぱしから食用にしました。頼りにしている親戚のイモもせいぜい一か月程しかもちませんでした。食いつなげるうちに何とか次の手だてを考えなければなりませんので、荒れ放だいになっていた自分の畑を少しずつ耕してイモを植えることにしました。

 

毎朝四時に起きて長男に朝食の準備をするように言いつけると私と次男は肥桶をかついで畑に出かける毎日が続きました。当時肥料と呼べるものは便所の水肥しかありませんので各家庭自分の便所の水肥は自分で汲み出す分しかなく、どこへ行っても便所の水肥すらもらうことはできませんでした。私たちも自分の水肥をかつぎ終るとそれからは学校の便所(現登野城小学校)へ目をつけ、離れも起きてこない早朝に毎日水を汲みにでかけました。


イモのカズラもたいへん貴重なものですので、植え付け後に雨が降らないからといって枯らすわけにはいきませんし、植付にしても雨をまって植えようなどという余裕もありませんでした。それで、女手ながら私が井戸を掘ろうと決心し、とりかかりました。


井戸といっても荒れ地に掘るわけですし、どのくらい掘れば水が出るのかもわかりません。年寄におしえてもらいながら水のでそうな地点に掘ることにしました。クワとショベルとザル、これだけが唯一の道具でした。掘り下げた深さが私の頭上を越えると、長男がザルにひもをつけて掘りおこした土砂を上に引きあげます。一日も休まずとうとう水を掘りあてたときは、うれしさに泣きました。


こうして植付けてから四か月程すると小指程のイモができました。それこそ一家の命綱ですからできるだけ長期間食いつなげるようにと一株から一個ずつ順々にとってたべました。当時はほとんどの人々がイモを掘るとは言わずイモを「ひく」というほどでした。根元をヘラであさって大きなものから一個選んでとる、そして次の株の根元をあさるというぐあいにだいじに数えながらとっていったものです。


配給もありましたが、ほんの少量で夕食に少しずつ混ぜてたべるという程のものしかありませんでした。またソテツもずいぶんたべました。ソテツは幹を切りたおして皮剥ぎ、その芯をカンナで削り木箱に入れて二、三日発酵させるとそれに箸の先ぐらいの小さな白い虫が湧きます。そのときが食べごろですので、それをイモに混ぜて練り、大きなウムニ(イモのダンゴ)にして食べました。今でも子供たちは当時を思い出して虫もいっしょにたべたウムニーの事を語り合うことがあります。

 

昼は畑仕事のあい間にソテツ採り、薪採りそして生活を維持しながら家屋の修理もしなければなりませんでした。八重山に帰った当時家は兵隊によって壁や畳といわず取れるものはみんな剥ぎとられてしまい、ただ屋根と柱だけになっていました。それで私たちは比較的屋根瓦の丈夫な中心部に板の切れ端を集めて仕切をして雨露をしのいでいたのです。


夜は配給のHBTの米軍用軍服をほどいて子供たちの衣服に仕立てなおしをするというように、昼夜別なく働かなければなりませんでした。台湾で発病したマラリアは未だなおっておらず過労のため時々発作のふるえをがまんしながら戦後の一時期を生きぬいてきました。

 

台湾疎開の食糧難

石垣市字大川慶田城カメ(三二歳)

私が台湾へ疎開をしたのは昭和十九年でした。当時私の家族は長男が八歳、次男が六歳、三番目が四歳、末の子が六か月で五名でした。疎開したところはシンチク省トウエンというところで八重山の人たちで九十名程いました。当時の疎開はだいたい一班で四〇名程の班別にしてありました。

 

そこでの私たちの生活は、まず食糧の確保に最も苦労しました。台湾へ着いてしばらくは配給もありました。子供が一日に七句、大人が一合五勺程の米がありました。それでも半月程はわずかながら持参した金十五円もありましたので、それで不足分の食糧を求めて生活できました。しかしほんとうの苦しさはその後からでした。だんだんと当時は食糧を金では売らずに着物(衣服)や相手の要求する品物との物々交換が主になってきていました。私はだいじにもってきた衣服を一枚、また十日程して一枚と食糧にかえながら子供たちの生命は何としても守らなければならないと頑張りましたが、衣服が相当数ある訳でもなし、とうとう着のみ着のままにされてしまいました。

 

いったいこれから私たちの生活はどうなるんだろうと空腹と不安で毎日が生きた心持もしませんでした。とにかくもうなめる塩さえもありませんので、何がなくとも塩だけは確保せねばと人が寝静まった午前0時過ぎ、隣の人と共に声もたてないように田のあぜを通り、二キロメートル程離れた「やみ」の塩販売人のところまで行ってとうとう着ている着物まで剥ぎとって塩を手に入れて帰ってきたこともありました。

 

私たちが住んでいたところは山中でしたが、土地も赤土で草木を植えてもなかなか成長しないという程やせた土地でした。イモのカズラの植付もしてみましたが三か月たっても地面を這うほどにも成長しないといったぐあいでした。こうした生活で子供も私も栄養不良で次第にやせこける一方でした。

 

空襲の場合など、食糧のある人は壕の中へ避難しますが、私たちの家族は壕へ避難して生きながらえても出てきたら食糧のないまま飢え死するしかないので、もう避難などしてもどうしようもないと子供たちにも言い聞かせていました。また仮に避難するにしても、子供は栄養失調で歩く事さえ出来ない状態でした。


そのときはかえって「神デン仏デンオールカー、バガダー、ウイカイウヌタマバ、ウタシ、ヒヨーリ、ウヤファー五人マーズンイクカー、ウムイヌクサンクトゥニ、イカリーキ、ドーデン、神仏ヌオールカー」(神や仏がいるなら私たちの上にその爆弾を落してください、親子五人が共に死ぬなら何の思い残すことなく死んでいけます)と手をあわす程の気持でした。ただ食糧難をどうのりきるかそれだけしか念頭にありませんでした。

 

こういう生活をしているうちに、私たちの隣の村のジュリンコウというところに兵隊がいて、私たちの生活をみたのか私たちを四、五人集めて、「あなたたちはどこから疎開してきたのか」、「ここでの生活はどうか」などと色々質問していましたが、私がありのままの生活状態を話すとその兵隊は「私の部隊で働きなさい、子供たちでも、何名でもよいから」と言ってくれました。私はまっ先に「お願いします、生命一つだけは助けて下さい」とお願いしました。

 

翌日その部隊の廻してくれた車で私の家族とその外に四所帯の希望する人たちはジュリンコウに行きました。終戦の二か月前のことでした。そこでは砂糖の配給もあって、月給ももらうことができました。給料は私たち大人が三〇円、子供が三円という額でした。仕事の内容は、軍が台湾の人から供出させた家畜(ヤギやウサギ等)の飼育でした。それから毎日末の子をおぶって草苅りをすることが日課になりました。

 

終戦一か月前から軍は私たちに飼育させた家畜を毎日殺して食べるようになりました。本土の兵隊たちで家畜の手や足、頭等はたべなかったので、私たちはそれを貰ってたべることができました。ヤギの頭などは子供たちと大喜びでたべたものです。

 

このようにして二か月程は何とか食糧にありつけたと思うとまも終戦になりました。終戦のしらせを聞いたときは、又どんな生活になるのか、どうしたら生きて八重山へ帰ることができるだろうか、とそれだけが心配になってきました。

 

兵隊が「早く帰らないとたいへんなことになるからできるだけ早や目に帰りなさい」と言ってくれましたが、当時汽車に乗るのもたいへんな事で、そもそも目的地の基隆までどのくらいの距離があるのか、何日かかるのかもまったくわからない状態でした。それに上の子が九歳で末の子はまだ歩くことすらできないのです。子供五名つれて基隆までゆくのは至難な事でした。相談する相手もほかにいませんので親切にしてくれた兵隊に相談すると、倉庫の品物をわけてあげるから、それを売って旅費にして帰れと言ってくれたので、リヤカーを引いてその品物を買いにいきました。品物は、軍服の夏あわせて五着とカヤ、毛布などでした。そのうえその兵隊がトラックで基隆まで乗せて行ってくれました。

 

基隆で、その品物を売りはらって旅費をつくりました。船があるまで基隆で滞在しなければなりませんでしたが、生活のために旅費に手をつけると帰れなくなるので、他人のあばら屋ののき下をかりて雨露をしのぎ、難破船の残骸をひろってきて薪にしつつ十日程を過ごしました。当時の基隆はたいへん物騒なところで、毎日のように殺人や物盗りの話題がたえない程でした。

 

八重山へ帰るための船もヤミ船で大人、子供の区別なく一人三百円の船でした。私たち五名で千五百円をも支払わなければなりませんでした。乗客の定員を二、三倍をこえる客を乗せるので寝るすき間もない程いっぱいでした。故郷を目の前にした観音崎の神で船が故障し、一時はどうなるかと心配しました。

八重山の食糧難

こうして八重山に帰ってきたのは十月の十日過ぎだったとおもいます。船から降り立った八重山は、人の姿もみえず、栄養不良らしく頭の毛がはげおち、やせて腹だけが異状にふくれあがった子供たちがあちこちにたむろしていました。とうとう桟橋から家につくまで大人にあうことはありませんでした。

 

家に帰ってみると屋根はないし、戸も畳も壁もないし庭には雑草が背だけ伸び、足の踏み場もない。全く連絡も絶えていたのでもしやと思って隣に聞いてみると家に残っていた父や母は死んでしまったということでした。ただ位牌だけが人一人いないあばら家に放置されてありました。

 

私はもう茫然として立ちつくしたまま何をしてよいか見当もつきませんでした。
それでも生きて帰ることができたのだ、今からは子供たちと一緒に何とか生きぬかなければと決意しました。台湾から持参した米三升が残された今後の食糧のすべてでした。

 

その後は親戚の人の情にすがりながらも何とか生活しはじめました。野の草、ハノール(雨が降った後に雑草等の根元にはえるノリ)、ソテツ、パパヤの根元と、食えるものは何でもたべました。カタツムリまでも食べました。

 

自分の畑もありましたが、疎開に行った留守に他人が耕作していましたので急にとりかえすことも出来ません。それでも自分で作物をつくらなければ誰もたすけてくれはしません。とうとう帰って一か月目に畑を返してもらって自分で耕作することにしました。それからはもう明け方から夜中まで働きずくめの生活でした。配給もありましたが、生命を維持するためにはたいした量にはなりませんでした。

 

現金を得るためにオモト岳の白水まで行って薪をとって金にかえました。良質の薪でなければ売れないのでそうとう山深く入り込まなければなりませんでした。また日雇に出ても一日働いてイモの十斤しか日当として貰えませんでした。

 

自分で植え付けたイモが翌年の三月ごろにはたべられるようになり、その後はそれをソテツと練りあわせてたべながら何とか生活を維持することができるようになりました。

 

五、石垣島事件の戦犯として

鳩間小浜正昌(十七歳)

日本軍がミドウエイ、ガダルカナルソロモン海戦で敗退を余儀なくされた一九四三年(昭和十八年)、私は八重山農学校へ入学した。入学一年次は戦況の実態を知るすべもなくもちろん知ろうともせず日本は必ず勝つのみを信じておった。

 

昭和十九年頃から戦況は、不利な立場に追込まれていたであろう。わたしも希望をもって入学した学校も学ぶこともできず、毎日が軍隊訓練や防空壕掘りや陣地構築などの作業に従事しておった。

1945年3月航空隊に入隊、一年後に死刑を宣告される

昭和十九年の暮から昭和二十年に至って空襲は連日連夜はげしくなり、住民も軍の命令によって避難の生活が始まった。戦況は、八重山にも敵が今にも上陸するかの情勢であった。毎日の如く学徒作業で勉強することのできない状態であったので、海軍飛行兵に志願することを決意し、その手続きをとり試験を受けて合格した。学校当局には退学の手続もとらず、西表島上原に避難している家族のもとに帰った。三月中旬頃、三重県航空隊入隊の通知を受けた。私が避難地の上原から旅立った日は、風雨波高く、くり船での旅立なので、見送り人も家族と周囲の若手の人々で淋しい旅立ちであった。戦いは敗色濃くなっていたでしょう。沖縄近海はすでに敵の制覇権にあり戦局は一段と激しくなり入隊基地である三重県に行くことはできなかったので、佐世保所属一般小兵に編成、現地入隊となった。部隊は、石垣島海軍警備隊第一小隊で田口少尉の配下に配属された。昭和二十年四月上旬入隊して二週間目に私は三人のアメリカ捕虜を虐殺する事件に加担させられ戦争犯罪人として東京巣鴨拘置所で初審絞首刑、一年二か月目に減刑、重労働五か年の刑を科せられた。

 

今、その事件を想起するだけでも身の毛が弥立ち語りたくないが戦争のもつ残虐性、非人道性を考えるとき、二度とこのようなことがあってはならないと思い事件の概要を話すことにした。ただし、私はその当時最下級兵であったので、執行までの具体的内容等については、知るすべもなかったが公判中からの内容、聴問、見た事等をまとめて述べることにする。

4月15日、米軍機の不時着

昭和20年四月第二次大戦末期、日本海軍が守備する石垣島米軍機一機が撃墜され、その搭乗の将兵三人はパラシュートで降下して、日本軍の捕虜となった。「日本軍幹部は直ちにその内二名は斬殺し、一人は兵士の士気昂揚のためと称して立木にしばり付け、十人余りの兵士に命じてれを刺殺させた。私達関係者は逮捕され、横浜軍事裁判所に於て、四か月余りの審理の結果、46名の内、41名は絞首刑の判決を言渡された。」

搭乗員の名前は、VL・テボ中尉(二十八歳)R・タグル兵曹(二十歳)、W・Hロイド兵曹(二十四歳)であった。彼らは、石垣島飛行場爆撃のため、ウルシー海域で行動していた航空母艦から飛び立って来たということだった。

 

敵機撃墜、飛行士降下の情報によって、井上司令官は、部下の大浜地区隊長佐藤少尉、海軍特務少尉前島勇市に三名を逮捕せしめ、バンナ岳麓にある警備隊本部へ連れて来いとの命令のようであった。三名の捕虜が逮捕されて本部に連れて来たのは午後二時頃であった。捕虜は両手を後に縛り両足も縛りつけ、防空壕にほうりなげたままの監視だった。三日位続いたと思う。三日の間、敵の情報をキャッチするために厳しい追及の質問が繰返され、その質問者は副官の井上勝太郎大尉であった。捕虜は疲れていたと見えて、多くしゃべらなかった。質問の内容は、大統領が死んだことを知っているか。何処から来空したか。アメリカは勝つと思っているか。空艦の数とかいろいろと質問されたようである。その答の中にアメリカは必ず勝つとはっきり言い切ったと後日、話を聞いたのである。

50人で突き刺す残虐な捕虜の処刑

処刑の理由は

 一、捕虜を台湾か沖縄に送るための船便又は飛行機がなかった。それは石垣では、国際法による捕虜を裁く機関がないためである。

二、捕虜を監視するための監視兵の不足、それに食糧不足、長期にわたる捕虜収容施設がないと言うことだったらしい。

 

私たちは、捕虜が処刑される前日の事だったが台湾からの輸送船が(軍の必需品を積んだ)石垣に入港した。その荷揚げ作業のため、朝食ぬきの朝七時頃荷揚げ仕事中、敵の空襲にあい、無防備のダイハツ船で命からがら陸地へ避難することができたが、残念な事に、戦友三名が目の前で銃撃を受けて死亡した。三名の戦友を介抱する寸暇がない程のはさみ撃ちの襲撃であった。

 

その事件があって隊員は、捕虜に対する殺意をむきだしにし、なお、かかる戦局の中で興奮している最中なので捕虜の処刑には積極的に参加せずにはおれない状態にあったことは確かである。

 

処刑当日は、先任下士官の指揮で処刑現場に行った。処刑現場は警備隊本部から南東約六百メートル位離れた位置であった。現在はパイン畑となっている。処刑現場は殺害後、埋葬すべく深さ一・五メートル、縦一・五メートル、横二・五メートル位の穴が準備されてあった。処刑は、午後十時頃から始まった。最初はデボ尉とタグル兵曹の処刑が行われた。二人とも処刑場へ連れてくる途中相当暴行を受けた様子で穴の側まで歩ききれず、引ずられて、穴の前に、ひざまずきされた。手は縛られ目かくしされていた。最初の一人デボ中尉は幕田大尉が斬首し、スグル兵曹は、田口少尉が斬首した。

 

そして準備されている穴の中に落され二人の処刑は終った。二番目のトラックからロイド兵曹が乗せられて来た。十時三十分頃だった。ロイド兵曹は穴の側で準備されてあった棒に目かくしのまま縛りつけられた。榎本中尉の指揮による刺殺である。榎本中尉は「教えられたとおり一人ずつ突け、下士官は誰か出て模範を示せ。」と命じた。藤中兵曹が進み出て突いた。つづいて成迫兵曹、途中で榎本中尉の模範突きが示され、各小隊は順番通りつぎつぎと刺突をした。処刑には約50余人が参加し、刺突は、三十分程つづいて十一時過ぎ三人の処刑は終った。そして昭和二十年八月十五日終戦、日本は敗けた。処刑に関する一切の書類を焼却した。三人の遺体も九月発掘し椋本少尉の指揮で火葬され空缶に納骨して、西表島近海の海底に沈めたようです。それは証拠滅の策であったでしょう。

 

私は米軍の武装解除と共に、ほとんどの武器を石垣島の西近海の海底に沈める仕事に従事していた。十月末頃現地除隊して、故里鳩間島に帰り、農業に従事していた。

1947年8月の逮捕

かように約六か月間の悪夢の軍隊生活も終ったかのようであった昭和二十二年八月、その夜はきれいな月夜であった。鳩間島の白浜での月夜は格別である。四面海にかこまれた周囲四キロの小島は昼の様であった。私は戦犯として逮捕される夜は、旧学校の運動場の大樹の枝が護岸まで雄々と伸びきっているその下で、友人といろいろな想い出話しゃ、私達青年の今後の課題等を語り合いながら、月夜のひと時を楽しく遊んでいた。

 

すると、石垣島の方向から八時頃五トン位のポンポン船が岬に着いた。今頃なにしに、どこから来たのかと他人事のように話し合っていた。ところが自分に関する事であったのである。母が血相を変えて呼びに来たのである。特に田舎では警察と聞くだけでもとび上がるぐらい恐れていたものである。それは、田舎には犯罪という事がなかったからである。母の話しによると区長さんの案内で石垣警察から刑事が来ているので呼びに来たとの事であった。母は震えながら、なにか悪い事をした覚えはないかとしつこく聞くのでなにもないと答えた。しかし、警察に呼ばれるような悪事をした覚えはないので、とにかく会うことにしようと刑事と自分の家で会った。刑事が言うには、貴方を連れて行く内容は知らないが署長の命令で連れに来たので、すぐ石垣に行ってもらうとの事。用件が済めば明日はすぐ帰えられるから着のみ着のままで、よいとの事でしたので半袖の開襟シャツに白ズボン、下駄ばきのまま島から連れ出された。

 

石垣島に着くとそのまま留置所入りで皆目見当がつかない。「用件が済んだら明日は帰す」と言って連れて来て留置所に入れるとは何事かとどなりつけたら、監視員も理由は解らないと言っておったが、実際は、わかっていたようである。それは取調べる時に石垣島事件を尋ねたからである。最初は見当がつかないので隣室を覗くと同小隊に勤務していた白保出身の前内原君が留置されているので色々聞いて見ると彼も全然わからず突然留置所に入れられたとの事だったので、その時はじめて捕虜殺害の石垣島事件に関連していることが判明してきたのである。刑事の取調で確認したのである。「明日は帰えられるから」と言う刑事の進行手段にも怒りをおぼえたが敗戦国の刑事にも苦しい事情もあったのであろう。八重山留置所で一夜明し、米軍から取調官(裁判での検事)が見えて、井上部隊の司令官や私の小隊長、隊員の写真を見せて、それらを知っているか等を確認しただけで、知っていると答えたら軍船で那覇行きとなった。船内では小銃をもった監視付きの軟禁であった。那覇に着とMPの護衛で軍の施設内の一人みの小屋にぶちこまれた。

 

那覇での本格的取調べが始まった。ピストル又はカービン銃をもった兵隊が監視しての取調べであった。私は取調べについて事実は全部認めた。それはうそもかくしも出来ない程完璧な資料をつきつけられたからである。取調中、貴方は一水兵で上官の命令でやったから証人として東京へ連れて行くから心配することはないとの通訳であったが、捕虜を突いた事を認めた者が証人として済まされるか片心は心配であった。

 

三日間の取調べは終った。飛行機で東京行である。午後七時頃東京羽田飛行場に着いた。のみ着のまま、下駄ばきでの東京到着である。寒さを知らない南方育ちの私には、東京に着いた時は肌が突き切られるような寒さを感じた。軍の軍で、ものものしい護衛付で東京豊島区にある巣鴨拘置所の独房に監禁された時に、覚悟はしていたものの証人ではなく米軍捕虜三名殺害による戦犯として逮捕されていることに気がついたのである。

裁判、1947年11月26年から4か月間

 裁判は昭和二十二年十一月二十六日から昭和二十三年三月十六日までの約四か月余り、長期裁判で、横浜裁判では一番長かった裁判であった。公判は日曜日を除いては毎日行なわれた。公判中一番つらかったのは、寒さに閉口した。公判は冬の最中であるので朝七時、東京から横浜にある裁判所に行く前の服装の検査があるが被告全員(三〇〇名位)の検査が終るまでは裸のまま待っているのである。その服装検査が朝、晩繰り返されるのであるが南国生れの私には堪えられなかった。その服装の検査は秘密もれや、外部からの危険物持込みを防ぐための処置であったようだ。

 

石垣島事件は、被告四六名の内一審で四十一名が絞首刑の判決を言渡された。私も死刑の宣告を受けた。一時は自分の耳を疑い間違いではないかとも思ったが判決を言渡されると同時に側面に立っている監視兵によって手錠をはめられて間違なく絞首刑であると感じた。四名の石垣事件担当の弁護士の必死の努力にもかかわらず予想よりもはるかに重く四一名の多数の絞首刑を出した事を非常に残念がられていたようで本当に弁護士には頭が下がる思いが一杯であった。人間が作った法で人間が人間を裁くという矛盾を感じるのである。ましてや戦勝国民が敗戦国民を裁くのですから公正な裁判とは言ってもそこには感情が入ってくることは避けられないことだったのである。

 巣鴨で死刑囚として

私は死刑囚として一年二か月を経過した昭和二十四年五月頃死刑より重労働五年に減刑された。私と一緒に減刑された者は四十一名の内二十八名であった。続いて第二回目の恩典によって六名の被告が死刑を免れた。最後に絞首刑として残ったのは七名であった。その七名は四月八日未明(午前零時)巣鴨の絞首台において刑が執行されたのである。合掌心から冥福をお祈りします。

 

前述したように第一審判決は絞首刑での独房生活を一年余りさせられた。その間太陽の光りを浴びたことはなかった。人間は太陽の光りを浴びないとが黄色に変色することを始めて知った。死刑囚での生活は、毎朝五時起床六時~六時二十分までMPの手と手錠をかけての運動(監舎と監舎の間を十五分から二十分ほど歩く運動)その時間以外は外部とは断であった。やりきれない気持であった。いつ刑が執行されるかわからない。死刑囚に対しての取扱いは慎重であった。朝鮮戦争が勃発してからは死刑囚の取扱いもいくぶん緩和され軟らかくなって来た。食事は朝食は洋食、昼食と夕食は和食の二流であった。洋食の場合最初のほどはなじめなかったが空腹のためたべざるを得なかった。洋食といっても粗末なものでパン一個(ちぎるとポロポロと落ちる粗品)でそれにバターかチーズとコーヒー一杯であった。昼、夕食は湯呑茶碗の一杯の米飯と汁。タクアン二切で、食べ盛りの青年でカロリーより腹一杯の食物が欲しかった。

死刑囚の一日の日課は朝五時起床、六時~二十分まで監視つきの散歩、七時朝食、八時呉行、十二時昼食、五時夕食、十時寝床とい単調な日々を一年余り過したわけである。週一回坊さんが仏教の指導にこられた。読書は許されていたが殆んど宗教の本であった。監視員は三分にぐるぐる廻ってきた。自殺を防ぐためであったようである。自殺者が出ると監視は厳しくなる。実際自殺者が出た。その自殺者は、毎日約三尺五寸位のチリ紙を配るのであるがそのチリ紙でコヨリをつくりそれを縄にして首を絞めて自殺したとのことであった。

 

死刑囚は常に毎週木曜日がなにより恐れられていた。その理由は、死刑執行される者はMPが名簿をもって来て各室の前に書いてある名前と照合していくのである。それによって今週はだれだれが執行されるんだと言うことがわかる訳である。又、金曜日は入浴があるのだが、入浴日が無事に済めば、今週は死刑執行はまぬがれたと安心したのであった。一週間一週間が死刑囚の闘いであったのである。死刑執行は土曜日の未明ラッパの合図で執行された。私は死刑から五年の刑に減刑される前に、MPが名前照合をしていたのでさては死刑執行かと思っていたら、呼び出しがあって、減刑になったから室で準備して待っていろと言われほっとした。

 

減刑されて出て行く者と残されている者の心境はどういう言葉で表現したらよいだろうか。よろこびの反面悲しい気持であった。私は死刑から重労働五年に減刑されてA級戦犯の方々と一緒の棟で同室であった。仕事は階室の仕事の配分係りであった。特にA級戦犯の方々は仕事は割当しないでもよいことになっておったが本人達から申し出によって軽い仕事をさせてやったが、そこで感じたことはこの人達が戦争を指導した人達であったかと疑問をもちたいほどよい方々ばかりであった。起した罪は憎んでもその人は憎まずである。戦争を起して国民を地獄のどん底におとし入れた責任は免れないが新日本の民主社会を築いていく上に戦争は負けてよかったと思っている。減刑後出所までの約五年いろいろの事件や問題もあったが省略します。

1952年の帰郷

 拘置所を出所して懐しい故里鳩間島に帰って来たのが昭和二十七年十一月であった。島では部落民総出で生還を喜んでくれました。後で聞いた事ですが仏壇に約二年ばかり私の位牌がおかれてあったとのことです。

 

思えば、志願兵として入隊し、東西もわからないままただ皇国日本の勝利を信じつつ上官の命令するまま動かされて来た青春、そし戦犯として五年余り刑務所生活を余儀なくさせられた青春、平和時の今日よく考えてみると同じ人間でも戦況下の人間は精神状態が異状になるのです。それは戦前の教育に問題があったのです。戦争は各国の事情で起しているのではない。精神状態の狂った人間をつくりだすことによって起しているのです。そういうことを私は学ばされました。人間の生命、人格が尊ばれる社会こそ戦争を否定する社会だと思います。それは真実を教える教育がなされてはじめて可能だと思います。そしてわたしたちは毎日毎日の生活の中で正しい教育、正しい社会をつくるためがんばらなければならないと思います。

 

最後に私たち沖縄出身の七名の死刑囚に対し当時沖縄連盟会長伸原善忠氏、青年同盟書記神村朝堅氏、浦崎氏、吉野高氏、その他の方々を中心に郷土兵、戦争犯罪減刑署名の運動を展開されその願書によって減刑の恩典に浴し、現在一社会人として働かさせてもらっていることを心から感謝申し上げまして筆を止めます。

 

家族十六名全滅し、私一人生き残ってー

波照間大泊ツ(二四歳)

波照間にもどって

十九歳で結婚した私は二十一歳で男児二人をかかえた未亡人になり、主人(先夫)の実家で大勢の家族の中で生活したのです。主人は現役兵満州事変に参加して、五かで満期して帰りましたものの、戦争の疲労のためか、結核をわずらい、結婚後一年半で他界してしまいました。私達一家は石垣で生活をしていましたが、主人の死亡後は波照間に帰り、主人の実家でくらすようになりました。

 

主人の実家は主人の母をはじめ、長男夫婦にその子供、三男夫婦、四男の嫁(私)と子供と云うふうに、嫁兄弟が三組も揃って一家で十七名家族が生活をするということは、今の世代では考えられませんが、封建の世の中ではよくも家長によって家族の統制がとれたものであったと今思い出すと懐しくなります。

 

当時は篤農家の一つに数えられておりましたので、生活は何不自由なく、親や義兄嫁姉達も農業に従事し、なれない私をいたわり家で子供の世話と炊事を割当てたのです。
二十一歳の若さで未亡人になった私を励ましてくださる親、兄弟に感謝しながら、子供の成長を楽しみにして、再婚と云う事も考えず、女は一生一夫一婦で人生をつらぬくのが本当の女である、と考え、当時流行の「軍国の母」と云う歌「歓呼の歌や旗の波・・・・・・東洋平和の為ならば何で泣きましょう国のため、散ったあなたのかたみの坊や、きっと立派に育てます。」

 

若い私はこの歌を自分の身にたとえて、主人は戦死こそはしないけれど戦争のために病死した(お国の為に立派に死んだ)ものと、信じていたからでした。そしてこの歌を歌うのが心のなぐさめでした。今でも、当時を思い出して、歌って涙ぐむこともあります。

 

その頃から、第二次世界大戦もはげしくなったので、男の方は殆んど石垣島へ防衛徴集されて行きましたので、私が郵便集配員として働くようになったのです。当時は毎便、郵便物と一緒に石垣島と波照間を五時間余りもかかって、往来して集配員の任務を果さなければならない時でした。当地ではすでに二、三度も空襲を受けていたので、敵機の襲来をおそれて、夕方の五時あとから運搬船は石垣向け夜間運航を始めたのです。約二時間半かかって新城島の近くに行く頃は日も暮れてやみ夜になっていました。新城島の近くは浅瀬があるので、一夜を船の中で明し、翌朝、未明に船を走らして石垣に着くのは朝の八時頃でした。夜間航海なの空襲のおそれはないけれど、途中で敵の潜水艦にやられはしないかと不安で胸いっぱいでした。何しろ自分一人の身なれば、さほどまで心配はないが、幼い二人の子供を家族に預けての事なので、心配はたえなかったのです。その当時の船員の苦労が思いやられます。

波照間の強制避難

昭和二十年三月の末、軍の命令で波照間住民は一人残らず西表島南風見に避難せよとの事でしたが、もともと西表島マラリア地帯であると云う事を知っていましたので、西表島へ行ってマラリアで死ぬよりは、いっそうの事死んでも島を離れないと云う方もおりました。しかし、疎開地への引率者、山下さん(軍から派遣された)と云う方の指示はきびしく誰一人として、反抗する人もおらずその方の指示によって、働ける男と、子供に手のかからぬ女は、みんな南風見へ避難小屋を作りに行かされ、残る人は隣組総動員で疎開の準備をしました。


私の班は九戸で六十人余りの人数になりました。食糧品(穀物)はひとまとめにしてわらで作ったたわらにつめて荷造りをし、豚はつぶして塩づけにして避難所でのおかずの用意にしたのですが、多くの家畜はこのように自ら殺したのです。なぜそのようなことをしたか、と言うと、南風見へ疎開した後は家畜の世話は出来ないし、餓死させるよりは自分達で処理したほうがましだと考えたからです。


当地では、昔から飢饉に備えて、ふだんは粗食をしながらも、四~五年になる米や粟も穂のまま蔵に保存する習慣がありましたのでどこの家庭にも、多少の食糧品は用意されていました。わずか、一週間位で準備はととのいました。当時、波照間ではカツオ漁を主として経済をまかなっておりましたので、七隻ぐらいのカツオ船がおりましたが、軍に徴用され、又二隻は空襲でやられましたので、三隻(進幸丸、豊福丸、大福丸)で疎開人を運びました。

 

昭和二十年三月三日(旧暦)、第一回目の疎開人を乗せた大福丸は、夜中の二時頃、老人、婦人、子供を乗せて風一つない静かな波9の上をすべるようにして走りました。
島が遠ざかるにつれ、生きて再び自分の島にもどれるか、もどれないかと思うと、悲しみと不安で涙がこみあげてくるのでした。船の中では、すすり泣きの声も聞こえてきたので、みんなで、日本は決して負けない、きっと勝つのだと励まし合いました。

 

静かなでしたので、誰一人、船よいする人はいないと思っていましたが、「ゥーン、ウーン」と苦しそうな声が聞えてきたので、誰が船よいしているのかと、たずねてみると、そばにいたじいさんが、自分の家の嫁が産気づいていると言われました。彼女は初産でした。私はしや船の中で赤ちゃんが産まれたらどうしようかと、ひやひやでした。間もなく船は夜のとばりがあける頃には大原の東海岸の近くまで来たかと、思うと急に機械が止ってしまいました。四~五名の船員は竹ざおで船をといだり、機械をなおしたりしている中に太陽は東の水平線を離れて来たのです。

 

そうこうしている中に、機械も動き出し、大原の東海岸で私達をおろし、船は大原の東海岸を廻って、南風見の浜で食糧品をおろしたのです。大原に着くと避難所から迎えの方が来たので私達はその方につい避難所に向いました。何しろ老人、婦人、子供ですから足もおそいし、また、大原から南風見までは約二里の道のりですので、避難所に着いたのは昼頃であったと記憶しています。産気づいていた彼女もどんなに苦痛であったのか、避難所にたどり着き、そこですぐ男の赤ちゃんを産みましたが、その児もマラリアで死んでしまいました。


避難所には班員の入れる程の簡単なかやぶき屋根と、炊事場がつくられてありました。当時、二十四歳の私は炊事班長として六十人余を食べさせるのにずい分なやみました。
主食は米、粟、いも等でおかゆをたき、それにはったい粉を入れてかためて食べさせたのです。島から持ってきた野菜類がなくなると、南風見の東海岸まで行って、ニガナを取ってきてみそ汁に入れ、栄養の補給をしたのです。敵機に見つからぬようにと、昼間は子供達も浜で遊ぶことを許されず、夕方になるのを待って、子供達は浜辺で遊びました。

 

私の班、四班は六十人余の中、老人と子供を合わせると、三十人余りおりました。六十人余の人々が一世帯になって共同生活をしたのですが、みんなが協力しあって、自分の子他人の子の区別なく、面倒を見てくれました。船は毎日、日が暮れてから南瓜見より波照間に着き波照間から、夜中二時に出し、朝の未明に南風見に着くのでした。このように敵機に見つからぬように人や食糧品を運んだのです。荷おろしした船は岩の近くに止め、黒縄であんだ網を船全体にかぶせ、その上に木の枝をのせて昼間は浜におりないように、注意していたのです。このようにして、一応人を運びおわると、みんなで力を合わせて敵機のこない合間を見計って、かやや丸太を切ってきて倉庫をつくりました。

 

そうこうしている中に収穫期に入り、米、粟の収穫に男の方と子供の世話のいらない女は島へ出かけ、収穫して送ってくれました。南風見にいる私達は送ってきた作物を頭割にして、各班に分けたのです。このような状態が何時まで続くかわからないので草を切り払っていもを植えたり、そてつのみきを切り干しにしたりして、食糧品の用意をしたのです。梅雨期に入ると、雨も多くなり湿地帯なので衛生上とても悪く、特に便所は砂地を掘ってその上に丸太をのせてつくったので、雨が降ると、うじ虫は丸太の上まではいるので便所を何か所も移しました。

マラリアの蔓延

避難して、一か月はみんな元気でしたが、五月に入ると、病人が出始めました。マラリアと言う病気はこんなものであるのか、寒気がしたかと思うとふとんを二枚かぶせておさえても、はねかえす程ふるえるのでした。しばらく時がたつと、ほっさはおさまり汗びっしよりで、熱はまた、平熱に戻るのでした。しかし、これが何回もくり返されると体力は弱まり、看病のかいもなく死んでしまうのでした。

 

当時、山盛と言う医者がおられましたが、何しろ薬が手に入らない時でしたので、思うように医者の治療も出来ず、よもぎの葉をすりばちですって、その汁を飲ませたり、バショウのみきを切ってたたき、汁は解熱によくきくと言って飲まし、たたいたみきは熱をさまさせるため、枕にして、頭からは水をかけるやら、元気な人は代わる代わる看病しました。病人が一人出たかと思うと、次々に枕を並べて高熱を出してしまうので、私達元気な人は炊事病人の世話やらで大変なものでした。

 

私の家では長男の嫁が、兄の防衛徴集中に十六歳を頭に六人の子供を残して一言の遺言もなく死んでしまいました。(当時三七歳妊娠六か月)また、隣では六年生を頭に五人の子供と病弱な夫、年よりの祖母を残して他界したのです。その家は空襲でやられたけれど、その御主人は家は焼けても要さえ元気でおれば、子供は何とか育てられるのに、病弱な自分はこれから先、どうすればよいのか、と男泣きに泣いておられました。
六月に入ると、敵機の数は多く見えるようになったが、友軍機は全くと言うほど、姿を見せなくなりました。戦争はいつまで続くものか、病人、死人はふえる一方だし、毎日不安でした。葬式もアダむしろにくるまいて、穴を掘って埋めるという悲惨なものでした。

 

私は郵便集配人としての任務がありましたので干潮を利用して、南風見より仲間川を渡って、古見に行き、古見の配達の方に郵便物をことづけて、石垣へ郵送したり、又郵便物を取ってきたりして、任務を果していました。避難所にいる間に、二~三回仲間川を渡りましたが、或日は、敵機が私の頭上を低空して飛んでいったので、生命は今日限りと、あきらめていましたが、幸い弾も落さず、無事に帰る事が出来たのです。又避難所に居る間も敵機は何回となく南風見の南海上を飛んで行くけれど、避難所には幸い空襲はなかったのですが、病気との戦いの苦しみは戦場の人達と変わりはなかったと思います。
ある日、疎開者の責任者山下さんは波照間から帰ってくるなり、各班長と、炊事班長に集合しろと命令したので、四~五人の班長


私(女は一人)は集まりました。身体の大きな山下さんは太い長むちで、力いっぱい一人一人をたたきました。弱い私は、たたかれと同時に地べたにたおれたのです。何の理由でたたいたのか、その時のことは今でもわかりません。

 

七月頃になるまでには、各班にもたくさんの死者がでました。班員の大半は病気でしたので、熱がさめると炊事の用意をしたり、バショウを切ってきて、熱発した時の解熱させる準備などしたのです。たしか七月の中旬頃と記憶しておりますが、疎開解除の知らせを受けた時はほっとしたものです。しかし、私は自分の力になってくれた姉と、その子供一人は疎開地で死亡しましたので、悲しくてなりませんでした。

 

私は炊事班長の責任もあったので、最後の船で帰りました。私の子二人と、姉の子二人をつれて帰ったのです。夜中の二時頃波照間の桟橋に着きましたものの、元気でない子供達をやみ夜に歩かすと言う事は大変なものでした。三、四か月も人の通らない道は草がおいしげり、子供は草むらの中に、かくれるほどでした。何度も何度も休んでは歩き、うす暗いあかりのもれている我が家を見つけて、やっとの思いで家にたどり着き、急ぎ足で「おかあさん」と家に入ると、母は熱発して寝ていましたが、私がそばへ行って「今、帰ってきたよ。」と、言うと、力のない小さな声で、
「みっちゃん、母はもうだめだ、姉さんの子供も自分の子と思って育ててくれ。あなたは夫はいないが、男の子二人いるから、この家にとどまって子供を育ててくれ。」と、おっしゃってあつい手で私の手をにぎって、涙をおとされましたが、よく日、母は高熱を出して亡くなりました。

 

母が亡くなった頃までは、私も三男の嫁姉もまだ元気でしたので人を頼んで棺もつくらし、棺に入れて葬式もできました。家族が多いだけに、その後食糧に困り、栄養失調と、薬もなく、看病もできないために次々と病気は悪化して死んで行くのでした。私の次男は、当時四歳で、家族の中で四番目に死んでしまいました。父のいない子供だけに、私の子供への望みも多く、きっと立派に育てると、期待していた私は、ほんとうに大きなショックでした。その後、身体の疲労からとうとう私も熱発してしまいました。一日に二人も死んだ時などは、元気でない自分にむちうって、杖をつきつき草のおいしげった道をつまずいたりして、元気な方をお願いし、葬式させたのです。アダン葉むしろでまいて、墓も空かないので隣鉱会社があった当時掘り出した石ころを利用して埋めるというふうに、まるで動物を埋めるようなむごいやり方でした。もうこうなって来ると、死を悲しむよりはどんなにして葬式をするかとの心配が強かったのです。ある家ではじいさん一人でしたので、なくなってくされるまでも知らないという状態でした。

 

こんなに苦しみながらも、日本が負けたと言うことは信じられませんでした。間もなくして二人の兄達も防衛徴集より帰りました。長男兄は妻子をなくして、どんなに悲しく、くやしかったかがさっしられます。

 

三男の嫁姉は、子供がいないだけに夫婦仲もよかったけれど、夫を待っていたかのように、兄が帰って三日目に他界しました。
二人の兄が帰ってきたので心強くなりました。兄達は、私達家族にもみをついておかゆをたいて食べさせたり、魚を取ってきて食べさせたりしたのですが、無理をしたためか熱発してしまいました。その頃までには、十七人の家族の中、半数以上、マラリアのため死んでしまったのです。

 

私の実家の兄も、防衛徴集から帰ってきてパパヤのスープをびんに入れて、私を見舞にきてくれました。そして、家に帰ってきなさい。自分が看病するからと言って帰っていきました。その時までは熱発しながらも、熱が下がると炊事の手伝いぐらいはできるのと、家族の事が気がかりで実家に行けなかったのです。でも、子供の死後は淋しくて、親兄弟の顔が見たくてたまりません。兄達の許しを得て、何度も休みながらやっと実家にたどり着きました。「お母さん。」と言って入った私は話す言葉もなく、その場に泣きくずれました。

 

実家でも、兄は家族に魚を取って来て食べさせたりして、無理をしたため、熱発したんだ、と母は言って、お前の兄は高熱で気ちがいになっている。嫁も死ぬか生きるか、わからないと泣いていました。父も熱発して寝ていましたが、私を見るなり「なにしに帰ってきたか、女は嫁いだらこの家の人ではない。何を食べるためきたのか、明日、すぐ帰りなさい。この家にはお前に食べさせる物はない。」と、親子でありながら、私をひどくしかりました。私は悲しくてなりませんでした。


兄と嫁姉を見て帰ろうかと思って、裏座敷に行きますと、兄は高熱で脳症をおこして意識不明でした。姉は髪を切って全く男みたい丸坊主でした。「姉さんなぜ髪を切ったの。」とたずねると、「しらみがいっぱいだし、取ってくれる人もいないので、分家のおばさんに切ってもらった。」と言っていました。

 

兄も姉も重体でしたので、私までここで面倒をみせられないと思い帰ろうかと、思っている間に日が暮れて、とうとう帰れなくなりました。そのよく日から、ひどい発作を起して兄の死もわからない状態になってしまいました。

 

幸い実家には、母をはじめ、妹、卵、姫達もまだ少々元気でしたので、看病してもらったのです。意識を失った私は、死んだ子供の名を呼んだり、家族の名を呼んだりしたそうです。私が実家に帰ったのは九月初め頃で、意識ついたのは、たしか十月頃であったと思います。

 

私が実家に帰っている間に、好家の家族はみんな亡くなってしまいました。葬式も隣組や親戚の方々がしてくださったそうです。私はいつまでもその方々の親切な好意を忘れることは出来ません。ようやく元気になった私は、家に帰って仏壇の前で、自分一人生き残ってほんとうに申しわけない、と心ゆくまで泣きました。私は人のいない家に一人おる事が出来ず、又実家に戻りました。

 

十二月に入って、ぽつぽつ元気になってきた私は、自分の手で亡くなった家族の死亡届を書きました。家族はみんなやさしいいい方ばかりでしたのに、何の罪があってこんな破目におちてしまったのか、一時は生きる望みも失い、一生き残った私は悲しくて悲しくてなりませんでした。いっその事、家族みんな一緒に死んだほうが幸せであったと、思い、人から、あなた一人でも生き残ってよかったと慰められると、かえって恥しくてなりませんでした。

 

終戦で世の中も変わり、人間の考え方も変わってきて、ようやく生きてよかったと思うようになり、自分の使命感も持てたのです。終戦のよく年の六月、親戚の方々の進めによって先夫のいとこ(現在の夫)と再婚して全滅した家を継ぐことになり、現在、ささやかながらも一家そろって、健康で幸せな生活をしていますが、やは戦前の大家族の中で、楽しくくらした事は忘れる事が出来ず、みんなが生きておればどんなに幸せであったかと、思わずにはおられません。

 

毎年、お盆のにぎわいが聞えてくると、亡くなった家族の事が思い出されます。その頃が多く亡くなったからです。私はお盆の供え物をするたびに、当時が思い出されて泣けてくるのです。人間が生きている限り又と戦争をおこさぬように、人類の幸福と世界の平和を祈りつつ......。

 

八、波照間の疎開死線を越えて

富村議仲本信幸(四九歳)

波照間の強制移住と「山下」

疎開の命令を受けて

昭和二十年の初め頃、当時私は、竹富村の村会議員をしていたので、登野城の大浜家(信泉の生家)を宿にしていた。ある日の朝、竹富村長の玉盛淳博君がやってきて、
「波照間の住民は全員西表へ疎開せよとの軍の命令だから、その手配をせよ。」と言った。私はおこって、
「何を言うか。君は波照間の千七百名の住民の食糧と医薬品を準備してのことか。」
と聞きかえしたら、「それはない。」と言った。「バカを言うな、それもないで君はそれを引き受けたのか。」
「軍命だから仕方がない。」
「では君は軍命だからと言って、千七百名の人間を死にに行けというのか。西表島マラリア地帯だというのに、その準備もないで、そこに行けと言うことは、死にに行けと言うことと同然だ。敵軍が波照間島に上陸することはないと思うが、例え上陸したにしても、住民を全部殺すようなことはないはずだ。たとえ殺されても、戦って死ぬなら深いがマラリアで苦しんで死ぬのは忍びえない。住民を守るはずの村長が、その対策もないで疎開を引き受けるとは何ごとか。それでも行けと言うものなら、行く前に君を殺して行く」と言って腕をふりあげたら、おどろいて靴を片足捨てたまま逃げて行った。


その日の午後、護郷隊の波照間担当の指導員の山下寅夫(本名は酒井喜代輔)がやってきて、
「君は宮崎旅団長の命令に従わないといっているらしいな、何たることだ。」とかかってきた。
「何を言うか。君は波照間の住民を守るために、護郷隊として来ているはずだのに、波照間の住民を死にに行けと言うのか。住民を守気持ちがあれば死にに行けということは承知できないはずだ。君は旅団長を説得したか。すでに慶良間は米軍によって占領されている。米軍はバカでない限り、逆戻りして八重山に上陸するはずがない。上陸するなら本土に向かってするはずだ。今頃になって波照間に上陸するから、西表島疎開せよとは非常識な話だ......」と、山下にきつく言って返した。すると、旅団長は返事に困ったのか、三日ほどして、また山下がやって来て、
「旅団長に話したら、君の言うこともよく理解できるが、慶良間島敵の潜水艦が上陸して島の有力者をとらえ、日本軍の配置がもれたので、たやすく陥落したのだ。八重山にもそのことがおこらないと限らないので、日本全体のため、また八重山全体のために、波照間の住民は涙をのんで、犠牲になって是非引き受けてくれとのことだ。」
と嘆願するのでやむなくそれを受け、島で協議することにした。「行くことならマラリアの少ない由布島を指定してくれ。」と申し出たので、山下もそれを受けた。

疎開についての字民集

◇島民の周章狼狽するなかで
疎開のことが島に伝えられると、島民はおどろいた。当時、台湾沖海戦で波照間の上空は毎日のように飛行機が飛び、砲撃の音が西南方の海上に聞え、夜になれば海上からサーチライトの光がひっきりなしに立ちのぼり、また撃墜された飛行機が火をふいて海中に墜落する様子が目の前のように見えた。

 

そのような情勢のなかで、もうその時がきた、早く疎開した方がよいと思う者、私のようにマラリアをおそれて疎開に反対する者、などさまざまで、周章狼狽の様相そのものであった。そのようななかで疎開についての字民集会が持たれた。私は波照間には、洞穴が多いので、空襲や艦砲射撃にも心配はない。また、すでに沖縄に上陸しているので波照間に上陸することはない。たとえ、上陸したにしても波照間の洞穴には、全島民入るととができるので、何でマラリアの地にわざわざ死にに行くのか。と字民を説得したが、山下の威しの前には、軍の命令だから仕方がないと考え、また大多数は空襲や上陸を恐れてもうその時が来たと思っていた。

 

結局疎開することになった。ではどこにするか、と言うことでもめた。私はマラリアのない由布を主張したが、部落の役員には由布は遠いので鹿川湾から輸送するのに困難である。また小浜島に近いので、空襲や上陸の恐れがある。南風見は近くもあるし、洞穴も多いので空襲にも心配がない。耕地も広いなど主張する者がいて、意見がまとまらなかった。私は南風見はマラリアの発生地でもあるし最もマラリアの多いところだから、そこに行けば空襲でやられる前にマラリアで全滅する。生命が欲しいので疎開するのだ、南風見に行けば、死にに行くようなものだ、と主張したが、マラリアの恐しさを知らない島民は南風見に賛成する者が多数だった。

 

私は富嘉部落(私の部落)の人々に言った。「南風見に行くと、まちがいなく全滅する。南風見の中でもできるだけ西の方の小浜(ナイヌ涙とも言う)にはマラリアが少ないので、そこに行ってできるだけ山の上の方に、小屋を作った方がよい。」と進言したがそこにはかやがなくて困る、と言う声があったのでそのことが心配なら、私の船を無料で貸すからそれで南風見のカヤウチバンタンでかやを取ってきてはどうか、とのことで皆も承知した。ところが、富嘉部落民の一部には、「もし、富部落だけ字民の協議を破ってそのようなことをするか、という声が出たらどうするか。」と言う者もいた。

 

「協議は法律ではない、協議を破ったと言って罰する理由はない。私の進言によって富嘉部落は最も西側に疎開することになったのだから、私が全責任を持つ部落民は心配する必要はない。」と言うこと部落民を納得させ、富嘉部は南風見の西端に疎開することになった。

 

疎開をすることになったら全島民その準備にかかった。食糧は班ごとにまとめられ、荷作りなどすべて跳単位に準備が進められた。マラリアにそなえて、ヨモギ、ニンニクを大なべに入れてせんじ、あめ状にしたエキスを作って広口びんに入れ、健康増進と胃腸病熱病治療にそなえた。また、黒なまこをくん製にしたものをニガナと栗を入れてせんじたものも用意させた。漢方療法を知っていたことが幸いであった。

島の豊かさと軍による家畜の接収

▽ 軍が家畜を徴用
疎開が開始されると、軍は波照間の豊かな家畜を目あてにその徴用にやってきた。
当時波照間では、私が畜産組合長をして、その増産奨励を行なってきた。
就任当初は牛は三百頭しかいなかったが、疎開前は八百頭へ、豚七五頭から四百頭へ、にわとり一千羽から五千羽へと増産がめざましかった。特ににわとりは全郡一の豊かさで、全郡の卵の需要を波照間の卵で満たしており、「卵は波照間」として特に知られていた。

 

運搬船が石垣港に着くと卵を求める人々が集まるほどであった。徴用に来たのは、軍の獣医広井少尉であった。日本軍は横暴で、島の住民に向って抜刀しておどし、家畜の徴用を命じた。

 

彼らが来た日、当時は空襲がはげしかったのでヤーグ(地名)の洞穴の中で全島の家畜の屠殺、処分についての協議が行なわれた。「君たちは西表に疎開することになっているが、西表に持って行ける家畜は持って行きなさい。持って行けない分を取るために来たのだが、どうするか。」と広井少尉が言った。

 

問答がはじまった。私は言った。
「私たちは全部持って行きます。」
「じょうだん言うな、どんなにして持って行くんだ。」
ダンベー(大きなテンマ船のこと)を連れてきて、私の船で引っぱって持っていく。」

ダンベーが借りられるものなら、何で私たちが苦労してくん製にする必要がありますか。ダンペーに積んで持って行きますよ。「それじゃ、あなたは私たちがダンベーを連れてきたら、家畜を積んで行っても文句は言いませんな。」
「おー言わない。」と言って、それができるものかと言わんばかりの顔つきであった。

 

それからその獣医は一週間ばかり島に滞在して「家畜は一匹たりとも残すな、残したら米軍の食糧になるから全部殺させよ。」と日本刀を振りかざして指導にまわった。
当時島のいたるところに肉だけ取って残った頭、骨、内臓が森や洞穴に捨てられ、また肉さえ取らないでそのままらした牛がいたるところに捨てられ、その腐敗した匂いといい、その様相は家畜の生地獄さながらであった。

 

私は仲間川に空襲を受けて沈没していたダンベーを浮き上がらせ修理して、私の班の家畜(牛)十数頭を数回にわたって、夜間運搬した。
軍用した牛は博労の嘉手刈恒優がダンベーを連れてきて、積んで行った。

 

今になって考えると、軍は島の豊かさを見てその徴用のために疎開させたようにも考えられる。各戸で殺した家畜は、くん製にして疎開地での食糧にそなえた。島内で疎開の準備をすすめながら、一方疎開地には各班から先遣隊を送って土地のようすを調べ、仮小屋を建て、疎開民を迎える態勢を整えた。

南風見と由布島に分かれて疎開

いよいよ疎開地へ

食糧、医療品、荷物などの準備ができ、いよいよ疎開地へ行くことになった。まず、荷物類を夜間漁船で鹿川湾に運び、そこへ荷揚げしてまた夜間、山道さえないけわしいところを、干潮を見はからって海岸づたいに重い荷物を南風見に運ぶことは大変なことであった。荷物を運び終って婦女子を連れて行った。

 

私は富嘉部落の私の斑(一班)を連れて、由布疎開した。富嘉部落は私の進言した南風見田の西端に疎開した。前部落の慶田盤毛牛君は私の言うところには何か理由があるということで、自分の班を連れて富嘉部落の班の西側に移ってきた。前部落の私の親戚の連中は、「自分の班だけ救って自分たちのことは考えないのか。」と言うので「私の後について来るなら来い。」というわけで、由布にやってきて別に班をつくっていた。慶田盛君も私の後を追って、由布にやってきた。山下も自分の宿(西島本)の家族を連れて由布にやってきた。

疎開地での軍による田の接収 - 軍隊の米作り

◇横暴な日本兵
由布に来て三日目の晩、私のところに二人の兵隊をつかわして、
与那良田の米作りの労働に出ろ。」との命令を通告してきた。私は「できない。」とつっぱねた。その理由は私たちは勝手に来たのではない。宮崎旅団長の命令で疎開したのだ。まだ荷物も運んでないし、小屋も作ってない。それを終えてからなら、協力できるが今はできない、ということであった。相手もそれを納得し、沖縄兵であったので親しく夜遅くまで語り合って帰った。

 

三日ばかりして早く開墾していもでも植えて、食糧対策をしなければならないと思って耕地を調べに行ったら、向うから兵隊が一人何か物を言いたげにやってきた。
その兵隊は私の前に立ち止まって、

「仲本というのは君か。君はぼくが使った兵隊をきれいになめて、追い返えしたなあ。」とかかってきた。
「私は追い返えしたのではない。ちゃんと相談をして理由をつけてことわっただけだ。つまり、私たちは軍の命令によって疎開に来たばかりで鹿川湾から荷物もまだ進んでいないし、小屋も作ってないのでそれが終ってからは協力を惜しまないが、今の段階ではできないと言ったまでだ。」と言ったら、くってかかってきた。
「君は村会議員をやっているそうだな。」

「そうだ」

「村会議員たる者が、国家総動員法を知らないのか。」

「では、君に聞くが国家総動員法は何年何月何日に国会を通過したか。知っているなら答えろ。」相手は答えきれなかった。

「君は、日本兵と言っておりながらそれぐらいのことがわからんのか。日本人ならばそれは常識だ。君はそれぐらいのことがわからなければ日本人ではない。朝鮮人か、支那人かが日本兵に化けてきて、日本兵と言って我々をいじめているのだ。それならば、きようは君を殺してやる。おれは琉球の空手の名人だから君を殺して捨てるのはわけない。覚悟しろ。」と言って腕をめくって見せたら、顔を真青にして逃げていった。後を追って行ったら、川にさしかかったので逃げることができず立ち止った。すると、今度は相手からやわらかく出て、「君はたばこを吸うか。」と言い出した。

「こんな苦しい時にたばこ吸っておれるか。」とかえしたら、自分が持っているから上げると言ったので、三本もらってマッチをつけてやったら帰って行った。彼は伍長であった。私はそれから開墾地に火をつけて焼いて帰った。

 

それから四日ぐらいして竹富の大石部隊の曹長が前の伍長の行為をあやまりにやってきたので、
「君たちは兵隊と言って住民をばかにしている。住民を守るためにきた部隊だはずなのに住民を酷使し、苦しめるとは何事か。」としかってやった。彼は曹長だけに、物事は知っていたので、ていねいにあやまって帰った。ちょうど富嘉部落の本田貞君が、彼の部隊に所属していたので、貞吉君に「君のおじさんという人はおそろしい人だ。あの人にいろいろ教えられてきた。八重山で、あんなかしこい人に会ったことがない。」と話していたとのことである。


しばらくして、部下だけでは説得できず、これでは与那良田の水田の耕作ができないと思ったのか、大石部隊長自ら、前に来た曹長と、他に二~三の部下(伍長は来なかった)を連れてきて、「与那良田は自分たちが水田にするから、君等はフネラに行きなさい。」と言った。

「とんでもない。私たちは宮崎連隊長から、疎開せよとの命令を受けたときに、耕作できる土地があれば耕作してよいとのことで、疎開を承知したのだ。この辺で田にできる土地はひとつも耕やしてないではないか。今でさえできないのに、この与那良田の広い土地をあなたたちだけでかかえこむとはどういうことか。あなたたちの力でほんとにできますか。気の毒ですな大石さん。島を守るために竹富に来た部隊長自らが部隊を捨てて、田を作って食べなければならないと言って、西表島までくる日本軍とは情ないことですな。ここまで来て米を作るより、なぜ竹富でいもをつくらないのですか。どちらが早く食べられますか。もし、君等がここに来て米を作っている間に、竹富が占領されたら誰が竹富を守りますか。」などと、さんざん言ってやったら、顔をまっ赤にしていた。

 

結局、与那良口の水田は半分ずつ分けて耕作することになった。彼等の土地は私たちが疎から引き上げるまで結局手をつけてなかった。

由布疎開者と南風見の疎開

疎開地での生活は共同炊事で、朝食を済ませるとその日のスケジュールに従って作業を分担し、男は開墾や田畑を耕やし、家畜の世話をし、女は山に入って薪を取り出し、食糧の調達と食事の準備をしたりした。耕作した地は与良田では、本原君(小浜出身)の借りていた西島台地の一五ヘクタールの畑と原野、台地の海岸近くのしやすいところにいもを植えた。田は七ヘクタールの土地であったが、夏であるので時期が合わず整地だけしてあった。小浜には畑があるし、開墾する必要がないので、かつお節を三千斤ばかり持って行って、大豆と交換してきたり、また村会議員の仲盛一雄君や吉野君をたよりに土地を交渉して、吉野君の土地を貸してもらいいもを作った。

 

疎開地の住居は木の下に小屋を作り、厳重に偽装し、煙や光の漏れには特に気を配った。住居の近くに防空壕をつくり、空襲の時は私は木にのぼり、頭だけ出して大きな声で飛行機の動態を皆に知らしたもんだ。直接由布を目標にした空襲はなかったが、小浜への余波を受けて流弾が来た。空襲で死んだ人は一人もいなかった。

 

海岸に敵が上陸したときにそなえて、山奥にも避難小屋を作れと村役場から指示があったので、古見岳の前の川の上流に避難小屋を作って食糧を分けて運搬し、番人を交替でつけておいた。臆病者はそこへ行きたがった。湿地地帯だから床を高くあげ、食糧と寝具を置き、マラリア蚊が入らないように、山のピパージを小屋の隅に燃やしてくすぶらした。そこは人里離れた山の中腹にあったので、近くにいのししが子どもを産んであり、夜間いのししの親子連れがしばしばやってきたものだった。

 

由布においてはマラリアにかかった者はほとんどいなかったが、小浜に農耕に渡った者の七名がかかってきた。幸い漢方療法を知っていたし、島から準備してきた漢方薬が役立って、一週間でなおった。南風見では八〇余名が現地で死に、悲惨なものであった。

波照間への引揚げ - 徴用船の補償なし

与那良田を耕やすためには、人手だけではできないし、また、マラリアにかかったら人手だけでは農耕できないので、西表の護郷隊に役牛を連れに行ったとき、終戦になったとの知らせを聞いて、引返した。早速、南風見田、由布に行って、終戦になったので空襲の心配はないから、引上げる用意をしろと伝えた。

 

島には牛がいないので農耕ができないし、繁殖ができないので由布にいる本原君の雌牛一頭と、与那良田のいも(収穫はまだやってなかった)と交換し、また小浜に渡って雄牛一頭を求めた。小浜の部隊もまだ終戦を知っていなかった。再び竹富に渡り雄牛を求めて由布に帰り、皆におくれて、最後にイカてんま船で帰った。

 

引上げは私の漁船進幸丸二号と昭洋丸、大福丸の三隻で、波照間の疎開民を全部運んだ。私の漁船の進幸丸一号は古見の後良川の奥に二号は古見の岩陰に偽装して避難させておいたが、岩陰のものは空襲を受け、爆弾投下されたが、直撃を受けなかったので持ち上げられただけで無事だった。

 

第一号は新鋭船であったので、終戦直前台湾から食糧運搬のために徴用されて台風にあい、なれない兵隊が操縦していたので遭難し、兵隊はその船を捨てたまま帰ってきた。台湾でそれにたずさわった巡査は日本人であったので人命救助のお礼にその船をもらいうけ、修繕して、ヤミ貿易で与那国にも二~三回来たようであるが、マラリアのため倒れていたので、取り返しに行くこともできず、そのうち、長でヤミ貿易で接収されたとのことである。その船については補償も何もない。三万五千円の小切手をその補償として、もらったが、当時、銀行に現金がないとのことでもらえず、そのうちに米軍の統治下になったのでそのままになっている。

飢えとマラリア  マラリアの爆発的蔓延

飢えとマラリア

半年振りに島に帰ってみると、耕地は荒れ果て、農作物、家畜は全滅でその様相は荒涼たるものであった。それに飢えとマラリアでたんたるものであった。荒地を耕やすためには、牛を使わなければならないので、小浜、竹富から連れてきた牛を班に与え、豚は由布から買ってきたので、それを繁殖用として班に与え、また、疎開に行く前に妊娠していたので、畑に放っておいた玉城家の母豚も九頭の子を産んで、大きくなっていたので、繁殖用として共同飼育することになり、それから繁殖させた。

 

そのうちにマラリアがひどくなり、この島は生地獄そのものとなった。特にひどかったのは北、名石、南の三部落で、家族全員マラリアで倒れ、十七名の家族から一人生き残った大泊家や家族全員マラリアで倒れているので葬式できず死後三日過ぎて庭の防空壕に引きずって入れた浦伸家などのようすは実に悲惨なものだったと言われている。当日は毎日のようにマラリアで人が死に、なかには、一日に一家で二名も死ぬということがたびたびあった。葬式も家族に元気なものがいるときは幸いであったが、なかには家族全員倒れているので、他人を頼んできて葬式したり、二、三日過ぎて葬式したりすることもあった。北部落の新里じいさんは一人者だから誰も見てあげる人もなく、死んでから三週間目に衛生斑が見つけて葬式した例もある。

 

その間に私も栄養不足と無理が重なって、マラリアにかかり、十二月頃には重体になっていた。記憶のもうろうするなかで次のような手紙を竹富町長宛に書いた。


波照間では、マラリアで全島民死ぬか生きるかの事態になっている。このようにさせたのは軍と村役所の罪である。それだのに村役所からこの窮状調査になぜ来ないのか。波照間の全島民を見殺しにするつもりか。この事態を救護しないものなら私は今マラリアで重体になり苦しんでいるが回復したら近いうちに波照間から二十名の青年を連れて行って私が先頭になって村役所と農協をたたき割り、生き残っている軍人の頭をたたき割りに来るから覚悟しておけ、こんな事態をどのように救済するかを考えておけ・・・・・・」

 

という内容の手紙であった。それを受けた村役所と宮崎旅団長は早速救援隊を送ってきた。それは食糧班と衛生班に編成され、食糧班は石垣から食糧を集めて持って来て、それでおかゆをたいて病人を見舞ったりしてまわった。衛生班は治療と予防対策にあたり、死人をかたづけたりして、対策にあたった。

 

宮崎旅団長には疎開の通告を受けたときは反発してやったが、彼は軍医二名(共に中尉であった)を派遣してもらい、私には彼の私物として米三升と乾燥野菜を送ってもらった。またその軍医の一人は私のために特別に配置されたと言って、彼は、
「仲本さん、私は宮崎旅団長からあなたの生命を必ず救って来いと特別に命令を受けているので私の思うとおりにさせてください」と言っていっしょうけんめい私の治療にあたってもらった。注射するときは注射針をさす筋肉がないのでもものつけ根だけには針をてられるところがあるがそこは痛いのでがまんしてくださいなあと言って注射してもらったことを考えるとよっぽど衰弱していたものと思われる。その後三日目頃から自分で寝がえりができるようになったのでその軍医も「やっとあなたを生かすことができた、これで大任を果して旅団長に報告できる」と言って喜んでいた。その軍医は一週間ばかり滞在して帰った。その軍医には深く感謝しているがマラリアのどさくさにまぎれて名前も忘れてしまい申し訳けない。私が決死の覚悟でその手紙を書かなかったら私の生命もどうなったかわからない。またこの島にどれだけの人命が失われたか知らない。今になってもあの三日がかりで手紙を書いた当時のことが思われ、書いてよかったと思っている。


そのうちに一月の末頃には私も元気になり、歩けるようになったので石垣に渡り、波照間の窮状を杖をつきながら訴えてまわった。当時私はマラリアでやせ細り、見る影もなかったので石垣では私だと信じない人もいた。

米軍統治下の波照間の復興

 

その時は八重山の日本軍は武装解除され、米軍の管理下にあったので、三月には八重山駐在の米国軍政官ラブレス中尉に直接訴え、彼は軍船で三回来し、食糧品や医療品の配給を受けた。彼は軍人であったが言語学者で、波照間の方言についていろいろたずねるので私は病後で元気もなかったが彼に応答してやったら、そのお礼に箱詰めにされた食糧品をおいて行った。

 

四月には八重山支庁長の宮良長詳氏をはじめ、政府関係の調査員がやって来て本格的な復興対策がなされた。その都民政府の社会課長の桃原用永氏が波照間の復興対策をどのようにしたらよいかと私の意見を聞くので、私は彼等の来る前から私案を持ってそれに従って復興対策をすすめてきていたのでそれを示した。それは「復興委員会」を設置して、その中に食糧班と衛生班をおき、衛生班の中に予防係と治療係を設置して復興対策にあたるというものであった。委員長は提案者である君がやれということで、私がやり、各委員は各部落の班長がそれにあたった。食糧班は各戸が農耕ができ、自立できるようになって三年後に解除した。

 

その解除式のときは波照間がこの苦境から救われたのはソテツのためであり、それに恩義があるということで、波照間にソテツが初めて伝えられたと言われる大泊の浜の東の岩陰で「ソテツの感謝祭」をした。衛生班は継続してマラリアの撲滅にあたり、五年後にその委員会を解除した。

波照間の戦没者数 - 戦後補償なし

この戦争で波照間では疎明とマラリアで、八重山では最もひどい目にあい、1700名の人口のうち680余名の尊い人命と多くの家畜、財産を失なった。戦死した者には恩給があるがマラリアで死んだ者には何の補償もない。何と非情なことか。また戦争に徴用されて失なった私の漁船などにも何の補償もない。また戦前の郵便貯金残金が壱万八千円、生命保険が五千円口と一万円口の二つ、徴用された船の小切手参万五千円、最もひどい目に合っているのは老後にそなえた年金で、五二歳になれば毎月六十円もらえることになっていたものが、みな水の泡になってしまい、この年(七七歳)になってこんなに苦しい思いをして生活している。


老後にそなえた貯金にしろ、年金にしろ、みんな国家のためにやったものだが今だに何の補償もない。戦死した者には恩給はあるが今なお生きている者には何の補償もない。何と皮肉なことか。補償は生きている人のために、その生命のためにされるものではないのか。

 

国家は人民の生命をもっと大切にすべきではないか。戦争中、日本軍が人民の生命をそまつにしたように、今日の国家も人民の生命をそまつにしていないのか。強制疎開によって、罪のない住民をひどい目に合わせ、その莫大な犠牲をどのように補償するか。また現にそのために苦しんでいる人民をどのように救済するか。戦後三十年を経過する今日になってもとの問題が未だに解決されず残されていることは実に残念なことである。


われわれはこの戦争の償いを国の歴史の続くかぎり問題にしなければならない。そのためにも戦争中の事実を正しく伝え、また真の福祉国家とは何かを追求しなくてはならない。歴史はいかに裁くだろうか。

 

八重山自治政府」樹立の胎動

終戦直後の混乱の中で、八重山には自治政府樹立への動きがあった。その当時関係していた次の方々に自治政府樹立への動きを語ってもらった。


宮良長義 当時小学校長利当時教員

島袋金利 当時教員

崎山里秀 当時教員

与那原孫祐 当時 民防衛隊長

宮城光雄  当時 青年学校教員

本盛茂 当時 当時現地入営終戦除隊

 

一、夜警団、自警団のできる背景

自警団 - 日本軍から婦女子と食糧を守る

島の女性たちは働き手を奪われ、老人と子どもたちをつれての強制疎開、帰還、食糧の手配、マラリアの看病、極めて厳しい状況に追い込まれていた*1。そこにつけこむ兵士たちもいた。

宮良 終戦直後の社会は、食糧難とマラリアでたいへんなものであった。マラリアで寝ていても、マラリアの薬であるアテプリン、キニーネもなく、毎日のように死人は続出した。マラリアの熱が下がるのを待って荒れた畑に、ネギなどを植えたりなどしたが、すぐ盗まれるという状態であった。少々元気な者は昼夜の区別なく、食物を求めて、名蔵、川原、ヘーギナーなどへ行った。あっちこっちで食糧のことで、いざこざが絶えなかった。おまけに現満兵も終戦と同時に戦闘活動はなく村、町に降りてくるようになり、島の人たちと婦女子、食糧の問題で衝突するようになった。上級現満は食糧とかキニーネ横流しできるので、それ欲しさに島の女子には体をゆるす者もでるありさまであった。下級現満たちは食糧を求めて、所かまわず芋などを盗んだりした。そういう横着な現満から婦女子を守る、食糧を守るというのが直接のきっかけとなって、青年を中心に夜警団ができていった。

 

本盛 夜警団、自警団がつくられる前に、ぼくたちは青年団をつくり、芋を集め、困っている人々を助けるために農民と一緒に活動した。盗難から守るというけど盗むのも生活をするための自衛のためだ。それよりもみなで「助ける運動」をおこさないとだめだということで、大川のホンナヤー(本名屋)に青年団、農民が集って、その対策などを話しあった。当時山城興常さんの所に多くのいろいろの物があるというので、そこの物をとってきて、困っている人々にわけあたえようなどと話しあった事があった。そういう青年団の活動が発展していって夜警団となっていったように記憶している。

 

それから長義先生が現満から婦女子を守るため自然発生的に夜警団ができたと話しておられたが、もう一つ、兵役時代に将校にいじめられた腹いせも手伝っていたのではないか。ぼくは幹部候補兵として現地入隊したが、部隊内で将校たちは、八重山民謡など軽べつする発言などよくやった。あまりしにさわるので文句をいったことがある。「ほんとに八重山の防衛にきているなら、島の人々の生活の中にとけこんではじめて、島は防衛はできる」と偉そうに言ったら、にまれて、ひどいめにあった。また現地入隊者を差別していた。東畑という副官が沖縄人をスパイ扱いにしているということなどもよく聞いた。八重山、沖縄の人がしかられると腹わたがにえくりかえるような怒りに燃え、なみだを目いっぱいうかべ抗議しようとするがふるえてできず憤まんやるかたない思いで、幹部候補兵としての悲哀をあじわされていた。どうしても上官になって下級の兵隊たちをかわいがらなければならないと、沖縄のいじめられるごとにそう思った。

 

島袋 たしか当時は警察の機能は停止し、支庁長代理翁長さん一人というかっこうで機能麻痺、とかく無政府状態で、民心は荒廃していた。畑はあらされ、家もあらされ、現満は現満で帰女子と懇ろな関係を結ぶし、兵役時代のうっぷんはある。食糧はない。そういう中で、自然と青年が中心となって、その解決のため夜警団組織をつくった。十月ごろには、字登野城、大川、石垣、新川に、夜警団組織ができた。

 

与那原 登野城の夜警団長は石垣信良氏で、登野城の玉那覇酒屋が詰め所であった。
大川は島袋全利氏で高シップ(今のバンガローの所)新川は、亀谷長行氏で前乙婆お獄の前(新川公民館の所)、石垣は与那原孫祐宅であった。主な仕事は、現満から帰女子を守ること、食糧の略奪を防ぐこと、盗難の予防などであった。警ら場所は農学校の後の水道附近、護岸ばた、登野城の東などだった。夜警団は、三尺、六尺棒を護身用にもち、よからぬ者がいると、ティフキ(指ぶえ)を鳴らし、四方八方から攻めて来て、逮捕するという風であった。

 

二、自治政府をつくる動き

軍が牛耳っていた薬品、民間から徴発した資材や食糧などが不法に横流しされ、軍とつながっている一部の人間が利をむさぼるようになっていた。

12月15日郡民大会大会 - 8,800人の日本軍から婦女子を守れ

崎山 夜警団が市街地周辺を夜響するだけで、社会の混乱が解決する筈がなかった。八重山マラリアから解放され、生産を取り戻し秩序ある流通を回復しなければならなかったのに、貨幣は役にたたなくなりつつあった。小中学校の校舎の木材、かわらを部隊は、オモト山中に兵舎を作って持久戦に備えてあったが、元気で輸送の利く盗人は、オモトから自由かってに運び出した。軍の発電機等、各種機械、器材は、利権屋に横流しされた。一部特権階級がつくられれつつあったのである。軍の現地自活にとりあげられた畑は、元の所有者に開放されず、一部に横流しされた。まだ隣りでは、マラリアでやつれ、栄養不良になり、常時、おなかを空かしているのに、こういう状態を野放しにしてそれでよいのか、「平等に生きていける確実な社会にしなければならない。自治政府をそのためにつくろうという声があっちこっちから出され、しだいにひろがって、青年、壮年たちが、宮良長義氏、宮城光雄氏宅によく集ってその準備にとりかかった。


宮良 私が黒島から帰ってきたら、私の家に糸州長良、大浜用立、宮良高司、宮良孫良たちがきて、このままでは八重山はたいへんなことになる。早くどうにかしなければならないという事で自治会結成の話がだされ、その結成準備会を宮城光雄氏宅でもった。

 

島袋 十一月ごろだったと思う。宮城光雄氏宅に集った結成準備委は、宮良長義、糸州長良、安室孫利大浜用立、宮良高司、屋嘉部長佐、浦添為貴、宮城光雄、亀谷長行、崎山里秀、本盛茂、内原英勝の諸氏たちであった。そこで自治会の会長を宮良長詳、副会長に、宮城信範、吉野高善氏らにやってもらおうと話しがきまり、本人の了承を得るため、二回、三回と交渉をもった。その結果、ようやく宮良長詳氏は重い腰をあげてもらった。副会長候補もなかな引き受けてもらわなかったが、十二月十三日の吉野高善宅で最後の準備委員会をもって引き受けてもらった。

 

そして12月15日八重山建設のための郡民大会八重山館(現在の万世館)で催され自治会が結成された。宮城弁士は宮良長義、潮平寛保、安谷屋長能、宮城光雄等の各氏が熱弁をふるった。「為すことがないからといってマラの引き金ばかり引くな」という敗戦将兵に対する告発や、食糧問題、自治政府への抱負などが各弁士たちの内容でした。会長、宮良長詳氏、副会長、宮城信範氏、吉野高善氏の両氏が選ばれた。

 

与那原自治会の最初の仕事は自警団の編成でした。十二月十七日だったと思う。宮良長詳自治会長は、夜警団長の私を呼び、「外の三字の夜警団長は、いずれも本職は教職である。君は自由な身だから四か字の夜警団をまとめて、自警団を作り、自警団長になってくれ、いずれは正式の自治政府機構ができて警察活動も行なわれるようになろうがそれまで、あなたは、警察署で、自治警察長となってやってくれ」ということで自警団が生れた。もう戦争は終った。軍人でなければ人間ではないという時代は終った。軍人は軍人ではない。食糧を持った軍人が婦女子に飢えた狼となる。一 婦女子を守る」というのが自警団の第一の任務であった。何しろ、軍は三か月余の食糧をもっているし、キニーネももっている。郡外からきた兵隊は8,800人いた。その8,800人の軍から婦女子を守るということはなみたいていのことではなかった。

 

十二月十七日自警団が結成されるとすぐ市街地をデモ行進した。国民服にキャハンをはき、警察署に集まり、三尺、六尺棒をもって「自警団が出来たので住民は安心せよ。」「軍はかってに帰女子をいじめたりするな」との示威行進をした。そうとう意気込んだ。

 

自警団は、無報酬で各字(登野城、大川、石垣、新川)から有能な青年が警察署に集り、夜十二時前と後との交替制で、パトロールした。自警団結成以来わずか二週間足らずの間に、私は四〇人あまりの軍人を説諭した。「あなたたちも妻子がいるでしょう。島の婦女子も夫が居るのだ。娘らはこれからの日本の宝だ。よからぬことはしないようにとこんこんと説諭した。中には兵役時代、よくいじめた将校等がいた。一晩中留置場に放置して、蚊のえさにした時もあった。こういう時に反省させなければその機会がなかった。宮良長詳会長は「君がまちがった事をしても、みな自分が責任をとるので思いきって、八重山治安のためがんばってくれ」といわれ、大いに胸をはって仕事をすることができた。

12月23日米国海軍執政官の来島 - ふたたび軍政へ

宮良 自治会の事務所は、元地方庁舎東の部屋だった。そこで自治体活動の計画をねっておった。ところが12月23日南部琉球米国海軍軍政最高執政官チェイス少佐一行が来島し、八重山支庁で自治会幹部と会い、八重山の事情を聞いた。そして八重山の民意の結果の形で軍政八重山の代行機関の首長を選び推薦するようにという事で、12月27日、自治会役員、町村長、部落会長、各種団体長を招集し、石垣町役場会議室で、選出会議を開き、宮良長氏を選出した。翌28日チェイス少佐は、宮良長氏を八重山支庁長に任命し、三〇日、総務部長宮良長義、経済部長幾野伸、警察署長平良専紀、衛生部長吉野高善、事業部長崎山英保、郵便局長奥平朝親、文化部長安里栄繁氏等の諸氏が決った。

 

情勢はすでに日本帝国主義の支配から、米国軍政支配へと変っていたのである。そういう情勢の中で、宮良長詳支庁長は、住民の立場に立って八重山の行政にたずさわった。

 

沖縄戦八重山関係年表

(一九三〇年~一九四五年)


一九三〇(昭和五)年

 一〇月 日本教育労働者組合八重山支部結成
一九三一(昭和六)年

 一月 沖縄教育労働者組合結成(略称OIL)二月弾圧をうける
 四月 「重要産業統制法」制定
 九月一八日 満州事変勃発
 ※この頃、教員・村吏員の「給与不渡り」問題激化する

一九三二(昭和七)年
 十二月 石垣町登野城小学校教員一〇名検挙される
一九三四(昭和九年
 六月一日文部省に思想局設置
一九三五(昭和一〇)年
 ※この年、国防婦人会生る
一九三七(昭和一二)年
 七月七日 日中戦争始る
九月一二日政府「国民精神総動員実施要綱」発表
 ※この年電燈料二割値下問題で石垣町民大会開かれる
一九三八(昭和一三)年
 三月三一日「国家総動員法」制定公布

一九三九(昭和一四)年
 七月八日「国民徴用令」公布
一二月一日政府、全国における白米使用を禁止
 ※この年八重山で銃後公会と防団を結成
一九四〇(昭和一五)年
 五月一五日沖縄県、国民思想指導者会議
 五月二六日 国民精神総動員沖縄県本部の新設
 九月二日 日本全国に部落会、町内会、隣保班隣組等組織
 一〇月一二日 大政翼賛会誕生、一二月に大政翼賛会沖縄支部発会式をおこなう。
 ※この年、興亜奉公日を制定し、防空訓練実施を始める。
一九四一(昭和一六)年
 三月一日「国民学校令」公布
 四月一日「生活必需物資統制令」公布
 九月 西表島船浮要塞建設、初代司令官に下永憲次大佐命課さる
 一二月八日 日本軍真珠湾攻撃
 ※この年、八重山翼賛連盟結成、婦人勤労報国隊組織、モンペーを着用、

 

一九四二(昭和一七)年

 二月二日 大日本婦人会結成
 二月二一日 「食糧管理法」公布
 三月 はじめて日本軍下永部隊が西表の内離に駐屯
 五月八日 日本全国における金属の強制回収実施
 六月五日 ミッドウェイ海戦で日本艦隊挫折
 一二月一七日 大浜国民学校北の松林で全校生避難訓練実施
 一二月二三日 大日本言論報国会創立
一九四三(昭和十八)年
 二月一日 大浜国民学校で下永部隊長、時局講演会開催

 五月二二日 国民徴用援護会設立
 六月二五日 政府「学徒戦時動員体制確立要綱」決定
 七月二日 大浜国民学校で対熱強歩訓練実施
 七月二〇日「国民徴用令」改正、徴用人口、労働時間など増加をはかる
 七月三〇日 日本全国女子学徒動員決定
 一二月二四日 観音寺部隊、はじめて石垣島へーギナーに駐屯
 大本営、絶体国防圏の縦深強化のため南西諸島及び台湾の防備強化
※この年、大浜及びヘーギナー両飛行場建設作業開始、経済決戦婦人会結成、各町村部落で防空訓練強化、国防献金・恤兵献金・飛行機献金等相次ぐ、生産拡充稲刈奉仕作業隊活躍、石垣町畜耕挺身隊誕生

 

一九四四(昭和一九)年
 一月一日 沖縄県農業会発足、農業統制強化される
 三月一日 船浮要塞司令官更迭、丸山八東大佐命課さる南西諸島防衛のための第三十二軍編成発令、初代軍司令官に渡辺正夫中将補
 五月一一日 宮崎武之少将、独立混成第四十五旅団長に補任、先島群島守備担任を命ぜらる
 五月一一日 山田部隊が駐屯して白保飛行場の設営が始まる
 六月一一日 第一二八野戦飛行場設定隊、石垣島に陸軍(白保)飛行場設定に着手
 六月二七日 独第四十四四十五旅団主力を乗せた富山丸(七〇八九トン)徳之島沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没
 七月六日 サイパン玉砕、内南洋のトリデ崩れる
 七月一四日 第三十二軍渡辺軍司令官、第二十八師団長櫛淵中将に対し主力を以て宮古列島、一部を以て八重山群島の守備を命ず
 八月三日 三日から九月二〇日までの間に、作戦部隊約六千名が本土より続々駐屯
 八月八日 第三十二軍司令官更迭、牛島満中将親補さる

 八月 一般非戦闘員の台湾疎開始まる
 八月二三日 独混第四十五旅団の担任区域変更に伴ない、宮崎巽少将は八重山列島防衛の指揮を執ることになり、宮古島から石垣島に移動、八重山農学校に司令部を開設
 八月三一日 「学徒勤労令」、「女子挺身勤労令」実施
 九月 船浮在の重砲兵第八連隊主力、石垣島の守備強化のため、オモト岳山麓方面に移動
 九月三〇日 政府「新国民運動実施要綱」決定
 一〇月九日 八重山飛行場工事徴用の沖縄本島民帰途遭難約五百名の犠牲者出す

 一〇月十日米機動部隊沖縄本島及び周辺離島空襲(十・十空襲)
 一〇月一二日 米機動部隊八重山空襲(十二~十三日)
 ~十五日 台湾沖航空戦
 一〇月一九日 神風特別攻撃隊(特攻隊)編成される
 一〇月二六日 旅団司令部に於て八重山防衛作戦のための兵棋演
 一一月二七日 戦勝食糧増産推進沖縄本部設置
 一二月一日 沖縄、非常食糧整備週間はじまる
 一二月 沖縄各地に緊急特設挺身隊が結成される
 一二月 石垣島海軍警備隊司令井上乙彦大佐着任
日本陸軍部隊が各学校に駐屯したので児童生徒は疎開地で授業を行なう。各戸防空壕構築、一般住民軍指定の山岳地へ避難す


一九四五(昭和二〇)年
 一月一日 石垣島飛行場に空襲
 一月二三日 民家に初めて爆弾投下される
 二月一九 日米軍の硫黄島攻略作戦始まる
 三月一四日 文部省、決戦教育措置発表
四月一日より一か年間全国の学校授業停止を決定
三月二五日沖縄作戦開始、連続空襲始る
三月二六日沖縄県立農学校各校生徒、鉄血勤皇隊或いは通信隊等を編成各部隊に配属
第十七飛行隊長伊舎堂用久大尉(登野城出身)ら十名、慶良間沛の米艦船に突入、特攻のとなる
※この頃から空襲激しくなり、避難、疎開が始まる。三月下旬鳩間住民は上原、船浦、伊武田に、四月初旬、波照間住民は西表の南風見田(一部は古見由布)に避難(第一次避難)

 

 四月一日 米軍沖縄本島に上陸
 四月七日 第七方面軍司令官(台湾、安藤利吉大将)より先島群島の航空基地強化の命下り、所在部隊の全力を挙げて飛行場の機能維持と特攻作戦に協力

 四月一五日 海軍警備隊、米捕虜三名をバンナ岳麓で殺害 この頃、避難各地でマラリアが蔓延す
 五月三日 大舛支庁長、空襲のため支庁長官舎で殉職 
 五月二四日 大浜飛行場、米潜水艦による初の艦砲射撃受く

 六月一日 石垣島駐屯軍から「官公職員、医師等は六月五日迄に、一般住民は六月十日迄に軍の指定地に避難せよ」との命が町村長を介して下る(第二次避難)

 六月二日 状況逼迫に伴ない、官民に避難告示、一般非戦闘員の郊外疎開始る

 六月四日 米の配給、一人五・三二キロ
 六月八日 第十方面軍司令官、先島群島所在部隊に対し、迎撃態勢完整を命ず。第一回決死収穫隊六六名、豊福丸にて鹿川港より出発、六月半ば帰る
 六月一〇日  八重山群島所在全部隊に甲号戦備下令
 六月二三日 牛島軍司令官、長参謀長摩文仁山頂で自決大本営、沖縄での組織的戦闘の終了を発表
 六月二六日 第二回決死収穫隊一四七名を派遣、七月半ば帰る

 六月三〇日 台湾へ疎開途中の石垣町民百八十余名尖閣列島附近で敵機の銃撃を受けて遭難、魚釣島に漂着七十五名死亡、百余名餓死寸前に救助生還す
※この月に、前石垣町長山口盛包氏ら郊外移動中、米機の攻撃を受け死亡、非戦闘員の死傷続出


 七月四日 白水で住民救護に関する打ち合わせ会が行なわれる この頃、避難各地でマラリアが蔓延す

 七月二三日 甲号戦備解除、一般民市内に戻る

 八月一五日 終戦の大詔下る

 

 八月二五日 戰對行為停止下令

 九月一日 現地集兵復員

 一一月 本土派遣将兵の復員始まる

 一二月一五日 八重山自治会を結成、宮良長詳氏会長に推さる

 一二月二八日 南部琉球米国海軍軍政府最高執行官チェース少佐来島、軍政布告を公布、初代八重山支庁長に宮良長氏を任命す 

 

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