「沖縄地方気象台」~ 二度破壊された沖縄地方気象台

 

戦後も、そして今現在も、けっして沖縄に「返還」されることがなかった小禄鏡水の「沖縄地方気象台」跡。そこは今もフェンスの向こう側にある。

 

沖縄戦後、米軍すら大切に復旧し総領事館として利用した「沖縄地方気象台」庁舎は、陸上自衛隊に移管後、1987年7月30日に解体された。

今は写真でしか見ることができません。

 

写真で見る沖縄地方気象台

 

1927年竣工 - 沖縄地方気象台

1927年4月5日小禄半島のガジャンビラ (蚊坂) 高台にルネッサンス建築様式を彷彿とさせる近代的鉄筋コンクリートの庁舎と、沖縄地上約90メートルの鉄塔2基が竣工され、5月5日から気象業務を開始した。

 

中央気象台沖縄測候所 : 那覇市歴史博物館

 

美しく均整のとれたルネッサンス風のモダン建築であった。すばらしい。

中央気象台所属沖縄測候所 : 那覇市歴史博物館

 

下は写真ではなく絵のように思われる。地上約90メートルの無線鉄塔2基がそびえる。左下は垣花国民学校

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那覇市歴史資料室収集写真/戦前

小禄/中央気象台沖縄測候所と垣花国民学校付近 : 那覇市歴史博物館

 

米軍が沖縄戦の半年前に作成した1944年のターゲット資料 (機密解除) にある「沖縄地方気象台」。特攻隊などに気象情報を提供するためであろう、「ターゲット13」として指定されている。写真はおそらくは戦前の刊行物からと思われる。資料は徹底した米軍の敵地研究の一例である。

ターゲット13。気象台から北西をのぞむ。

Okinawa Gunto cincpac-cincpoa bulletin 161-44; 15 November 1944

 

1945年 - 沖縄戦

1945年5月24日沖縄戦で米軍による爆撃をうけ沖縄地方気象台は機能消失。5月27日、職員は壕を放棄し陸軍第十野戦気象隊と共に南下するも、38人の職員のうち33名が戦死する。

 

沖縄戦から39年後の、1984年7月6日掲載、琉球新報「戦果を掘る」の記事の記録。

 

 

6月4日小禄に上陸した米軍は、庁舎を占領、修復し、那覇軍港の司令部として利用した。

 

米軍基地「那覇ホイール地区」の米総領事館

戦後、一帯は 「那覇軍港」の南側に広がる米軍基地 Naha Port Wheel「那覇ホイール地区」となり、気象台旧庁舎の美しい建造物は修繕されて American Consulate「アメリ総領事館」として使用された。

 

占領下での米国留学生親睦団体「金門クラブ」は沖縄エリートのシンボルでもあったが、金門クラブのパーティーは普段は立ち入ることのできない米軍基地内にある総領事館で催される。

USCAR広報局: Golden Gate Club Garden Party Held at the American Consulate (米領事館で金門クラブのガーデンパーティー) 1960年12月10日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

右側のアーチが特徴的な米領事館を戦前の沖縄地方気象台庁舎と比較するとよくわかるのだが、戦前の美しい建築物のデザインをそのまま復元して利用していることがわかる。この優雅で均整の取れた建築様式の価値を評価し、ガーデンパーティーなど、本来あるべき姿として利用している点はさすがである。

 

USCAR広報局: Garden Party at Consulate Unit (領事館内でのガーデンパーティー
米留帰還学生の米国領事官よりの招待パーティー) 1958年11月9日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

1972年5月 - 陸上自衛隊那覇駐屯地へ

米軍基地から自衛隊基地へ

沖縄「返還」と呼ばれた1972年5月15日は、雨だった。

 

返還される米軍基地はほんのわずかで、「返還」とした基地の多くは、米軍基地から自衛隊基地に、そのままトコロテンのように移管された。所有者が変わっただけの軍事施設で、いまだに土地はフェンスの向こう側だ。

 

旧「沖縄気象台」があった米軍基地那覇ホイール地区」は、そんな欺瞞だらけの「返還される」沖縄返還協定C表の米軍基地のひとつであった。フェンスの向こうの「那覇ホイール地区」では、雨のなか、返還という名目の「軍事式典」が行われた。米軍基地から陸上自衛隊那覇駐屯地へ。写真をよくご覧になってほしい。雨のなか、向こう側に見えるのが、旧「沖縄地方気象台」庁舎のファサードである。

 

米国陸軍通信隊: Military Ceremony - Japan, Okinawa, Naha Wheel Base (軍事式典−日本、沖縄、那覇基幹基地

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

上の写真では、軍事式典が行われている広場の向こうに、旧沖縄地方気象台 (アメリ総領事館) のアーチが確認できる。かつて日本軍の機密を担わされたことで、多くの所員の犠牲をもたらした沖縄地方気象台が、沖縄返還協定で、くしくも再び陸上自衛隊駐屯地のなかに囲い込まれてしまう。

 

1987年7月30日 - 「沖縄地方気象台」庁舎の解体

沖縄地方気象台はどこにあったのか

なんということだろう。日本海軍司令部がおかれたため壮絶な激戦地となった小禄の荒地にあって、沖縄戦をなんとか生きのびた旧沖縄地方気象台の美しい建物は、1987年7月30日陸上自衛隊のフェンスのなかで解体され消滅した

 

欧米のように、歴史ある建造物を改修しながら残すという意識が薄い日本では、米軍ですらが残した気象台の建物をなんとか生かすということにはならなかったようだ。

国有地であるため、地元への返還は難しい話であったかもしれないが、本当の意味で「返還」されていれば、修復、移転などして保存し、沖縄地方気象台の博物館としてその歴史を私たちに語ることもできただろうに。

 

沖縄地方気象台跡 | 那覇市観光資源データベース

 

陸上自衛隊那覇駐屯地のフェンスの外側に設置されている「沖縄地方気象台跡」のプレート。しかし実際に気象台があった場所からはかなり離れており、実際の跡地はもっと内側になる。

 

さて、今も跡地に入ることができない「沖縄地方気象台」跡地はどこにあったのだろうか。気象台庁舎は戦後に米沖縄総領事館として使用されたので、1969 Caltex Map of Naha Citiy, Okinawa (那覇ガソリンスタンド地図) を参考にするとおおよそこの辺りにあったことがわかる。

 

 

現在の地図に直すとおおよそこの位置となる。自衛隊駐屯地のフェンスの外にある「沖縄地方気象台跡」のプレートよりも北西側。現在はいかにも自衛隊の官舎のような味気ない建物が立つ。

 

 

例えば、日本統治下の台湾では、米軍の上陸こそなかったものの、激しい空爆が続き焦土と化した。しかし戦後は戦前の日本の建築家たちが設計した多くの美しい建造物を復元し、総統府、庁舎や学校や企業、場末の市場に至るまで、現在もそこかしこに見ることができる。

 

小禄にやってきた日本軍 (海軍) は、戦中に沖縄地方気象台に鉄塔を倒せと圧力をかけた。移管後の解体は、おそらく自衛隊は「保存は難しかった」の一言ですましてしまうのだろうが、アメリカ軍がその建造物の価値を認め、復旧して大切に使用した気象台庁舎の建物を、返還後に跡形もなく取り壊してしまうなど、性懲りもなく無粋である。

 

壊すばかりで、土地と文化を大切にするという事を学ばない。

 

駐屯地内の小さなメモリアルすら破損しているではないか。

那覇市にある陸上自衛隊那覇駐屯地、沖縄戦当時、この一角に「気象台」がありました。
沖縄地方気象台は、昭和2年に業務を開始し、観測記録を無線で南西諸島周辺の船舶などに発信していました。沖縄戦では、日本軍に気象情報を提供。当時、気象情報は重要な軍事機密でした。日本軍が気象観測を重視した大きな目的、それは特攻隊の攻撃を成功に導くことでした。風向きや雲の量などが、攻撃が成功するかどうかを左右するとされていました。
昭和20年3月、気象台周辺は激しい攻撃にさらされ、職員たちは観測機器を運び出し、気象台を後にしました。敵の攻撃を避けるため、向かったのは、気象台から南におよそ400メートルにある小さな丘でした。職員はアメリカ軍の上陸に備え事前に壕を掘っており、そこに身を潜めながら気象観測は絶やすことなく続きました。記録を日本軍の司令部などに暗号化して送りました。観測は、5月25日まで続きました。

気象台の建物は、戦後、アメリカ軍などに使われ、昭和62年にその役割を終えました。

気象台の跡は、陸上自衛隊那覇駐屯地の中にあるため、見学することはできません。

那覇市 特攻支えた気象台跡【放送日 2009.9.2】|戦跡と証言|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

 

沖縄地方気象台は、永久にフェンスの中に消えていった。

 


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