『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 国頭村

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》からコンコーダンス用にテキスト化したものを便宜的に公開ています。誤字や脱字がありますので正しくは下記からご覧ください。

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国頭山中の避難生活

国頭村奥間玉城清威(十歳)

国頭国民学校御真影

私が戦争を体験したのは満十歳のときで、国頭村奥間に住んでいました。

 

米軍が奥間に攻めこんできたのは四月十二日か三日で、ちょうどその日、私は父と一緒に部落から一キロぐらい離れたユレジ山で避難小屋をつくっていました。そこへ部落の人が顔色を変えて駈けつけてきて、敵が部落まできたからすぐ逃げろと、米軍は県道の方から戦車を並べて部落の中まで入ってきたというんです。

 

私の父は国頭国民学校の教頭をしていましたが、若い教員は兵隊にとられて、夜おそくまで残業が多く、また、軍部の宣伝を真に受けて、友軍は水際作戦で敵をせん滅するのだと信じて、また人にもそんな話ばかりやっていましたので、こんなに早く米軍がくるとは思っていなかったわけです。

 

部落の人たちは十・十空襲などの体験から肌で感じて危いと思っていたんでしよう、半年も前から避難小屋を作ったり食糧などを移したりしていました。私の家だけが中南部からの避難民同様に食糧も持たずに着のみ着のままで逃げるハメになったわけです。

 

知らせがあって、父はあわてて、私を近くのタコツボにいれて頭の上に木の葉をかぶせ、自分は母をさがしに山を駈けおりていきました。ところが、子供がひとりで銃砲の音を聞きながら穴の中でジッとしているのは無理なことで、私は恐くなって山の奥の方へ逃げだしてしまい、家族ともはぐれてしまいました。幸いその日の晩、父母とは四キロ奥の山の中で無事めぐりえたのですが、父は自分の家まで行くことはできず、とにかく臨月の母を伴って安全なところまで逃げてきたという次第でした。食べ物といえばわずかに私が持っていた一袋のユーヌク(はったい粉)だけでしたからまず食糧のことで困りました。

 

また、父が何より心配したのは、家で預っている御真影のことでした。仲村渠校長は本部の人で仮住いでしたから、山に近い私の家が安全だろうと父が預っていたわけです。この御真影を米兵にとられでもしたら死んでも死にきれない、早く安全な場所に移そうと、それで翌朝まだ暗いうちに父は山を降りていったわけです。そして部落の近くの山まで来たとき、もうそこの山の中腹には米軍の陣地ができていて、陣地の周りには地雷が仕掛けてあったわけです。もちろん父はそれを知らないし、まだ暗いうちですから、この地雷に触れてしまって、何米か吹っ飛ばされ、重傷を負って意識不明になってしまったわけです。幸い爆発は背後の方で起ったので内臓には達しなくて即死はまぬがれたわけですが、全身に無数の破片がつき刺っていました。

 

気がついた時は陽が登っていたそうです。歩くこともできず、必死に腹這いで逃げて、まる一日かかって川沿いの山の中にたどりっいたそうです。ちょうどそこには空っぽの避難小屋があったので、その中で父は一か月間ひとりっきりで重傷の体を横たえていたそうです。そこにあった水がめの水とニンジンとわずかの味噌でとにかく生き続けていたわけです。部落の人たちの噂では父は死んだだろうと言っていました。

 

私たちは部落から五キロほど離れたウナシナガシジという山の中に小屋をつくって住んでいましたが、母は臨月の体だし、私が食糧さがしをやるわけです。部落の近くへは昼は危くて近寄れませんから夜を待って降りていくわけです。当時私も日本軍の宣伝を信じていましたから、捕虜にだけは絶対になってはいかんと用心しながら行きました。暗闇の中で手さぐりで畑のものをさがすんですが、作物はほとんど避難民に取りつくされていて、私の手にはいるのは芋のかずらかソテツぐらいのものでした。

 

そのうち、村の人が父をみつけて私らのところに知らせてきました。叔父と部落の人たち三名に手伝ってもらって戸板にのせて運んできました。当時は米兵が二、三キロさきまで捕虜狩りにやってくる状態でしたので、朝の暗いうちに救出に向いました。父は重傷と栄養失調で声もでないほど衰弱していました。全身が黒くなって、無数の傷口には白い蛆虫が湧いていました。

 

後で聞くと、その日ちょうど父は自分の死期を予感して枕元の味噌瓶に木炭で遺書を書きのこしてあったそうです。そういう状態ですから回復するのも長くかかって、ようやくかすれ声が出るようになったのが十日目ぐらいになってからでした。歩くまでに半年はかかったと思います。傷がおさまるのも二か月ぐらいになってからでした。幸い辺土名で病院をやっていた伊礼東顕さんが近くに居ったので、この人から一升瓶にはいったクレゾールを分けてもらって、液を温めて朝昼晩私が傷口を洗ったり手製の竹のピンセットで蛆虫を抜き取ったりしました。

 

父が救出されて一か月後、六月十八日に弟が生れました。部落で産婆をしていた山川さんが近くにいたのでお産は無事済みました。それからは、私は父の看病とオムツ洗いと食糧さがしと重なって大人なみの仕事をしなければならなくなりました。

ソテツ地獄 - 北部の食糧事情

山の中での私たちの食べ物なんですが、芋があればごちそうなんです。桑の葉とかヨモギとか名も知らない草を、人が食えるというものは何でも食べてみました。ソテツが主食になっていましたが、ソテツを刻んで発酵させるまでは草や木の葉を食べて飢えをしのいでいました。国頭の山の中に園田という生物の先生が避難していましたが、この人は食用植物は何でも知っているということで、毎日のように避難民が問い合せにおし寄せてきたそうです。これでは自分の食糧さがしができない、ということになって「山羊の食べられる草や木の葉は人にも食べられます」と書いた紙きれをあちこちの木に貼りつけておいたそうです。皆が山羊にまでなりさがった状態であったわけです。飢饉の年は椎の実やイチゴがよくできると年寄りたちが言っていましたが、たしかにその年はいちばんよくできた年で、イチゴなど初めのうちはバケツの半分もとれたものでした。それがまたたく間に取り尽くされてしまったんです。

 

常食のソテツは幹を切りとってきて、皮をはいで、水にさらして白い木質のところを真黒になるまで朽して、発酵させてから食べるんですが、避難民のなかには処理法を知らずに、また知っていても発酵するまで待てなくて中毒で死んだのも大分いたようでした。

7月の国頭

私の家族も栄養失調で骨と皮になっていましたが、それよりもっとひどいのは町方からの疎開で、私たちが落した芋の皮を金蠅がたかっているのもかまわずに母親と女の子が争って食べていたのを覚えています。七月のはじめごろになると、山道には栄養失調で動けなくなった者、餓死した者がどろどろころがっていました。そこを通ると悪臭がたちこめて、銀蠅がブーンと飛び立って、いつかは自分もああなるだろうかとたまらない気持になったものでした。

 

ある夜、十時ごろから部落の近くに降りて食糧さがしをやっていますと、そこには何十名と人々が集まってきたので、これに気づいた米兵がすぐ照明弾を打ちあげて機銃を撃ってきました。辺りが昼のように明るくなってさかんに撃ってくるんです。私もねらい撃ちされて、近くにプスプスと弾が飛んできたことが五、六回もあります。私はなるべく陣地付近には近寄らないようにしましたが、大人たちは陣地の金網の下を掘ってカンヅメなど盗んでくるのもいました。またそのために殺されたのもたくさんいました。私はカマスをぶらさげていったんですが、一晩中畑を手さぐりしてやっと袋の半分ぐらいの芋かずらを詰めてきただけでした。部落から約一キロほどの山の中に一本松があり、そこまでくると前は崖になっていて、真暗だから歩くこともできなくて、仕方がないから松の下で夜が明けるのを待とうと寝てしまったわけです。真夜中ごろ起こすのがいるので、米兵かと思ってびっくりしたんですが、部落の人でタイマツを持った親子づれでした。事情を話すとたいへん同情してくれて、途中まで送ってくれたうえ別れるときタイマツを一本分けてくれました。この時のありがたさは忘れられないものです。

 

また、もう一つ忘れられないのは、ある日沖縄出身の兵隊が塩を持ってきて食い物と交換してくれと言ってきたんですが、私らは食べ物も持ってないし父親もこうして重傷で倒れているんだと話すと兵隊はひどく同情して塩を半分わけてくれました。この時の塩のありがたさというのは口ではとても営いあらわせないものでした。この塩のおかげで一家無事生きのびたようなものでした。

7月の敗残兵

七月になっても沖縄戦が終ったということは全然わかりませんでした。日本軍の敗残兵が近くにたくさんかくれていましたが彼らはいつも勝った勝ったとしか言いませんでした。日本兵は毎日のように住民の避難小屋に食糧徴発にやってきました。あと一週間したら連合艦隊やってくるから隠してある食糧は軍に供出しなさいと、デマをとばすのはまだましな方で、刃物をつきつけたり、手榴弾をふりかざしたりして乏しい食糧を奪っていくのがいました。私の家もやられましたが、床下から天井までさがしてもっていくわけですが、とくに米軍陣地から命がけで盗んできたカンヅメを途中で待ち受けてっていくのもいました。お前はスパイだろう敵に通じているだろうと脅かして強盗を働くわけです。

9月の敗残兵

これは後で捕虜になってからですが、避難小屋に蒲団を取りに行く途中、日本兵の小屋の前を通りかかったんですが、そこは住民の小屋より四、五倍も大きいもので、二段式の寝台まで付いて十二、三名の敗残兵が住んでいるようでした。その小屋の後にアメリカのカンヅメ設が山のように積まれているのを見て憤慨したのを覚えています。私らがカンヅメを持っているのがみつかるとすぐスパイ扱いにされたのに、彼らはそれを取りあげてたらふく食っていたわけです。実際にカンヅメを持っているというだけでスパイ扱いされて処刑されたという話もありました。この兵隊たちが捕虜になったのは九月になってからですが、十四、五名が降伏してきました。なかには餓死寸前の様子で杖にすがって山を降りてきたものもいましたが、ある連中はまるまると太っていたものです。沖縄戦は六月二十三日に終ったと言いますが、私らは前から後から日本兵と米軍にはさまって、なお一か月もがんばっていたわけです。

この一か月でとくに餓死者が増えました。日本軍のデマを信じたのがとくに犠牲を多くしたと思います。米軍が来てから一週間後に山を降りた人たちもいました。この人たちは早くから部落で畑を耕やして当時としては豊かな暮しをしていました。教育のある者がたいていバカをみています。

7月下旬の国頭

七月下旬になると米兵の掃討も少なくなってきました。このころは、山には食うものはなくなっているし、米軍は部落から退いて海岸の方に移っていましたから、私らは昼間からときどき部落の中まではいることもありました。私の家は米軍が進駐してから二週間目に火をつけられて焼けてしまっていました。父が気がかりの御真影はどうなったかわからないし、私が小学二年生のときから草刈りをやって兄弟みたいにかわいがってきた牝牛と子牛一頭もどこへ行ったかわからなくなっていました。草ぼうぼうの庭に立ってみるとほんとに戦さ世のみじめさが身に沁みてきました。そんなところへときどき米兵のジープがやってきました。逃げるとすぐ撃ってきます。私はまだ少国民という意識が強かったですから絶対に捕虜にはなるまいと逃げていくと、すぐ近くにプスプスと小銃を撃ちこまれたことがあります。近くの小川にとびこんでそこから山に逃げました。私の母もその頃には弟をおぶって食糧さがしに行っていましたが、ある日親戚の次郎おじさんと一緒に部落へ行ったところ、次郎おじさんが高台の家からジープがくるのをみつけて「アメリカーどう、アメリカーどう」と皆に知らせたところ、皆はクモの子を散らすように川沿いから山の方へ逃げていったんですが、次郎おじさんだけがどうしたわけか正面の山の斜面へ登っていったので米兵からねらい撃ちされて頭を撃たれて即死してしまいました。

7月下旬、捕虜となる

私たちが捕虜になって山を降りたのは七月の終りごろで日にちは覚えていません。米兵を案内してきたのはハワイ出身の二世の上村誠之という人です。この人は戦前から地元の奥さんをもらって奥間に住みついていました。この人も山に逃げていたんですが早くから捕虜になって、米軍に協力して住民に下山をすすめて歩いていました。村の人たちは前まえからアメリカのスパイだと言って評判は悪かったし、日本兵からも狙われていたそうです。実際この人本人ではないですが、この人の手びきで下山して一緒に住民の説得に歩きまわっていたもう一人の男は日本兵につかまって殺されたということでした。

 

上村さんと一緒に銃を持ったアメリカ兵が四、五名突然私らの小屋にあらわれました。七月下旬の午前十時ごろだったと思います。その時のショックといったら、初めて見るアメリカ兵が鬼のようにこわい顔をしていて銃も持っているし、こちらは声も出なくて膝はガクガクするし、腰を抜かしたような状態だったです。銃も持っているから当然殺されるだろうと思っていました。

 

殺さないと言うが、どうせ一か所に集められたところで殺されるだろうと信用しませんでした。父は重傷で寝たきりですからそのまま小屋にのこし私らは後から銃をつきつけられながら川沿いに降りていきました。父とはこれが最後だと覚悟して、隣りの小屋からニンジンを三本分けてもらって、一升瓶に水を汲んできて、もし生きていたら迎えに来るからそれまでとの水を飲んでいて下さいと言いのこして、弟をおぶって山を降りていったんです。

 

河原に降りていくとそこには三〇〇名ぐらいの避難民が集められていて、座りこんで、ヒソヒソ不安そうに話し合っていました。私はたぶんそこで殺されるだろうと思っていました。アメリカ兵はビスケットやチョコレートをくれるんですが初めは誰も毒がはいっていると思って食べないです。アメリカ兵は自分で食べてみせたんですが私はそれでも食う気にはならなかったです。敵から物をもらって食べるということは恥だと思っていましたから、栄養失調で今にも倒れそうなんですが山を降りるまで食べませんでした。

 

そこから行列をつくって、二〇メートルおきぐらいに銃を構えたアメリカ兵が監視をして山道を宇良の部落につれていかれました。大雨のあとで道は滑りやすくてけわしい坂道を歩いたり大きな岩をよじ登ったりしましたが緊張のせいか子供をおぶりながらもよく倒れなかったと思います。

アメリカ兵にねらわれる女性たち

途中のできごとですが、私の前でも後でも女の人たちがアメリカ兵につれ去られていきました。列のなかには那覇から避難してきたジュリ(遊女)たちも混っていましたが、この人たちは色が白くてすぐ目立つのでとくに狙われたようでした。あっちこっちで「アキサミヨーゥ」とか「助けてくれ」と叫ぶ声が聞こえました。私の見ているところでも五、六名ぐらいつれ去られています。その人たちは私たちが捕虜になって部落に落ついてからも帰ってきたという話はありませんでした。後で私が蒲団を取りにまた山小屋に行ったとき、椎の木の下に十二、三体の白骨があったんですが、ジュリとわかるような女性の遺体も混っていました。

 

その時のこと、私のすぐ前を胃腸を思って今にも倒れそうな六十ぐらいの爺さんと年ごろの娘さんが歩いていました。たぶん孫だったと思います。女たちはたいてい顔に泥をこすりつけたり男物の著物をつけたりしていたんですが、その娘さんは若いので目立ったのだと思いますが、アメリカ兵に手首をつかまれてっれ去られようとしたわけです。すると爺さんが全身の力をふりしぼって体ごとアメリカ兵にぶっつかっていったんですね。アメリカ兵はよろめいて離れたんですが、銃を向けてきて安全装置をガチャンとはずしたんです。すると爺さんは胸を張って撃つなら撃てと立ちふさがり、これを見て避難民たちもアメリカ兵をとり囲むようにして無言でにらみつけたわけです。アメリカ兵はだんだん後ずさりして、とうとう娘さんをあきらめてしまいました。

 

十二キロぐらいの山道を歩いて宇良部落につきました。そこで一泊して、翌日一里ほど離れた自分の部落に帰されたんですが、そこでまず米と塩の配給がありました。皆は配給されるのも待ちきれずにワッと塩の方にたかっていきました。それほど塩に飢えていたんで、砂糖みたいにうまそうになめたものです。

 

私たちははじめて沖縄戦が終ったことを知らされました。しかし、それでもすぐ平和になったわけではなく、捕虜になってもまだ安心できませんでした。山から降りてきたその夜から毎晩のようにアメリカ兵が女さがしにきて、どの家でも女をかくすのにひじょうに苦労したものです。もう一つは、山から降りてきてからも食糧事情は悪く毎日のように栄養失調で倒れていく者がでたことです。とくに老人がバタバタ死にました。部落で葬式のない日はないといったありさまでした。米軍がくるまえ二月ごろ私の家には読谷から疎開してきた人たちが四世帯二〇名ぐらい住んでいましたが、山から降りてきたときは五、六名ぐらいしか生き残っていませんでした。あとはみんな山の中で栄養失調で死んでしまったそうです。

 

私の父のことですが、私らがさきに奥間に戻ってきてから二日目に男まさりの叔母が山へ行って父を背負ってきました。やがて傷もようやく治ってゆっくり歩けるようにはなったので、そのころ学校が再開されて父も呼ばれたのですが、それもことわって家でブラブラしていました。それから一年ぐらいして、父は体が弱って死んでしまいました。

 

大宜味村登野喜屋の住民虐殺事件

1945年5月12日 渡野喜屋事件

那覇市泊仲村渠美代(二八歳)

避難「私の家は泊(那覇市)でじいさん(義父)の仁王(五七歳)さんと夫の元康(三〇歳)とで散髪屋をやっておりました。

 

十・十空襲のときは元康は防衛隊にとられて、読谷飛行場の部隊で散髪係をやっていました。十・十空襲で家は焼けて、民家の一間を借りて、さいわい店の鏡は泊高橋の下の水のなかにかくして無事だったので、空襲あとも仁王さんが散髪屋を続けていました。

 

長男の英一が生れたのは二月11(昭和二十年)で、このころはしょっちゅう空襲がありましたが、生れて四か目に夫がちょっと帰ってきて、ああ長男が生まれたか、と喜んで、すぐひっ返していきました。夫はそれっきりです。読谷飛行場ですからまっさきにやられたと思いますが、見た人もいないし、知らせも何もなくて、骨も返ってはきません。せめて、長男の顔を一目でも見たのが幸いだったと思っております。

 

山原に疎開したときは、私の家族は、仁王さんに、ウトさん(五五)、私に、義弟の正夫(十四)()、それに私の子供で長女の康子()と長男英一、それからウトさんの弟の嫁で宮城ツルさんとその子元成(十五)、全部で九名で逃げています。

 

長男がまだお腹にいたころ、内地に疎開しようという話はありましたが、じいさんが、そんな大きなお腹をしてどうして船に乗れるか、と反対したのでそのままになっていましたが、散髪屋に来る人たちが、もう上陸するよ、という噂をしていたので、こんどはじいさんが疎開しようと言いだして、私は船はもう危いからと言ったんですが、とうとう三月二十二、三日ごろに最後の船が出るというので、それで家を片づけて、黒砂糖とか節なんかみんな荷物にいれて、那覇の桟橋までいって荷物はぜんぶ船に積んで、十二時から人がのるといって並んでおったら、そこに空襲がきたわけです。船長さんが今日は船が出ないから皆んな帰りなさいといって、何も持たずに逃げてきたんですよ。船はすぐ空襲を受けて、目の前で燃えてしまいました。

 

泊の今の水源池の近くにうちの門中藍がありましたので、空襲のときはいつもそこにかくれていましたが、那覇桟橋からあっちかくれこっちかくれして逃げてくると空襲はもう激しくなって、どこにも行かれんからみんな壊()の中にかくれていたんですよ。すると、ちょうどその日の五時ごろから港川(具志頭村)に艦砲がはじまっているんですよ。お巡りさんがまわってきて、きょうから艦砲がはじまっているから皆んなこっちから立退きなさいと言われて、もう大変だと思って、それから子供をおんぶして、山原の方に発って、それから毎日ずっと空襲ですよ。昼は空襲で、五時ごろから飛行機がこなくなるから、歩いて、朝がたになるとまた編隊を組んでくるので、どこの壕にでもかくれて、こんなことをして名殴まで八日ぐらいかかりました。そこからまた、昼はかくれ夜は歩いたりして、東村の高江・新川まで四日かかって行きました。

 

途中何ども空襲にあいましたが、親子も散りぢりになって、あっちの壕こっちの嫁と、どんな小さな蛾にもとびこんでかくれましたが、ちょうど川田・平良(東村)に来たとき三〇〇機ぐらいの空襲にあって、すぐ近くの壕にとびこんだんですね。そこは軍の壕で、材木でワクをはめこんだ頑丈な嬢で、おじいさんとおばあさんはそこにはいったんですが、私は、子供が泣いたら敵の電波探知機に知れるからと兵隊がいれないで、弾はパラパラくるし、仕方がなくて私は子供たちを抱いて近くのニービ(泥板岩)のガマ(岩穴)にとびこんで、正夫と仁と私の子供二人を両手にかかえてかくれていたら、五十メートルぐらいはなれた軍の壊めがけて大きな爆撃が落ちてきて、向うの塚は何ともないのに、その感動でうちのガマがドッと崩れてきて、私たち五名いっぺんにニービに埋められてしまったんです。さいわい私は口から上は出ていましたから、その時の私のあわてかた、爪でこんなこんなして土をかきどけて、子供たちを騙からひっぱりだして、やっと窒息はまぬがれたですが、目にも口にる土がはいってワァワァ泣くし、あの時の苦しかったことは、もうこんなにしてまで生きなくてもいい、皆んな一緒に死のうねえ、と言いましたよ。

 

それからはもう生きた心地はなくてただフラフラと歩いていただけです。ちょうど、この川田・平良で、敵は上陸しているよう、と聞きました。それでびっくりして山に逃げたんですが、三、四日して山は大雨になって、雨がザーザー降るのにハブの恐さも忘れて、殺されるより逃げられるところまで逃げた方がよいと思って、子供を抱いて三歳の長女は歩かせて、木の下に雨がチョンチョン落ちてくるなかで夜をあかして、着がえもないから濡れたまままた山を歩きまわりましたが、ふしぎなことにカゼひとつひかずに生きぬいてきました。でもお婆さんはマラリアにやられてしまいました。

 

那覇から名護までは、昼はかくれて夜は歩いて八日もかかりました。途中民家の馬小屋にはいって、飼葉桶からイモ皮をあさって食べたりして、ほとんど一日一食、何も食べない日もあって、いちばん困ったことは乳呑児をかかえて乳が出なくなってしまって、私は何でも飲めば出るだろうと思って、海から一升瓶に潮水を汲んできてそれをゴンゴン飲みました。山原にはいると役場で炊出しをやっているというので行ってみるとおにぎりを一個ずつくれました。名護から江・新川(東村)まで三、四日かかっていきました。私たちはおくれて避難したので、どこも避難民がいっぱいで、それで東海岸までいったわけですが、東村の役場(平良)でおにぎりをひとつもらったのが最後でした。

 

高江部落は家は三、四軒ぐらいしかなくて、食べ物はなにもないところで、仕方がないからそこの裏山にのぼって避難小屋をつくりました。私たちと一緒に四世帯二十人ぐらいの避難民が一緒にいましたが、食い物はなにもなくて、二里ぐらい歩いてヨモギを一つかみとってくるのがやっとのありさまでした。高江にきて四日目どろ下の小川で地元の人が豚をこしらえていたので、おじさん半斤でも分けてくれないねえと頼んだら、避難民がもこれ食うかと断わられて、ほんとに情けなかったですよ。避難民はじゃま者あつかいされて、金はもっていても売ってはくれないですよ。

 

高江・新川の山には二週間ばかりいました。おじいさんが、こんなところで飢え死するくらいなら、どうなっても自分のところへ、那覇へ帰ってみようと言うから、私もそうしようといって山をおりたわけです。他の人たちもいっしょについてきました。それで南の方へ歩いていくところを平良でアメリカーにつかまったわけです。

 

日本兵による虐殺

海端の道を歩いていると、向うの浜の方でアメリカーがたくさん遊んでいたんですよ。私たちはすぐみつけられて、どんどん追っかけてくるんですよ。あのときは、初めてアメリカーを見て恐くて、もう今日は死ぬんだと思いながら山の方へワッと逃げたわけです。

 

するといきなり私の目の前にアメリカ兵がとびだしてきて、待て、と手をひろげたわけです。そのアメリカ兵が日本語が達者で、あんたたちはどこへ行きますか、ときくから、私らはどこも行くところがないから那覇の家に帰りますと言ったら、向うはいま兵隊さんが戦争をやっているから危い、というわけです。

 

それから男たちには煙草をくれるし、女子供にはチョコレートをくれるわけですが、私らは毒がはいっていると思ってだれも食べないですよ。するとそのアメリカ兵は自分が半分食べてみせてから私らに食べさせました。

 

歩いているところを、またジープをもってきて、四台か五台ぐらいに分散して乗せて、羽地の田井等につれていってくれるというわけです。それで山を越えていくと、ちょうど登野喜屋(現在の大宜味村白浜)のところへ来たとき六時ごろになって、その兵隊は、向うまで行く時間がないからあんたたちは今夜ここで泊りなさいね、といって私たちを降ろしてしまったわけですよ。そこが登野喜屋の部落の入口だったわけです。

 

私は初めからこの部落には気が向かなかったんですよ。というわけは、後のジープでおばあさんなんかが若くあいだ部落入口の道に立っていたら、アメリカ兵がひとりピストルをつきつけてきて私をどこかへひっぱっていこうとするんです。反対したら撃たれるし、ひっぱっていかれたら恥だし、私は子供をだいてどうしていいかわからず立っていました。運よく向うから上官らしいアメリカ兵がふたりやってきたので、そのアメリカ兵はすぐ逃げていってしまいましたが、私はおじいさんに、ここは恐いからどこかへ行こうと言ったんですよ。それで、一晩だけはここへ泊ってみようというから部落の中へはいっていったら、ここは何んでもあるんですよ。部落の人は山へかくれてしまって、イモ粕はあるし味噌はあるし塩なんかもあるし、あの時は盗み放題ですから、私たちは民家にはいって落ちついたわけです。おじいさんが、ここは何でもあるから、もうどこにも行かないで、ここで暮しておこうね、と言うから、そうかねえ、と言って落ついたわけです。その日東村からジープでつれてこられた人たちで、一軒の家にはいった者で、那覇の親泊さんたちは名前も覚えています。

 

渡野喜屋は収容所といっても囲いは何もなくて、毎朝三名のアメリカ兵が見まわりにきてすぐひっ返していくぐらいのものでした。十二、三軒ぐらいの民家に九〇名ぐらいの避難民が住んでいました。なぜ人数を知っているかというと、後でアメリカから配給があったとき、おじいさんは班長をさせられて、私が人数を調べにまわったので覚えています。

 

次の日にアメリカ兵がジープでやってきて、明日から配給があるから、うちのおじいさんに、あんた班長になれと任命しました。おじいさんは無学ですが、散髪屋で、黒い背広をつけていたから、それで目立ったかもしれません。

 

その次の日の午前中に配給がきました。一日食べる分しかありませんが、珍らしいものがたくさんありました。その日の昼ごろ、ボロボロの服をきた男がひとり部落の中をぶらぶら歩きながらあっち見こっち見して通っていきましたよ。おかしいね、乞食かねと思ったんですが、今から思うと日本兵ではなかったかと思います。

 

五時ごろ、私たちがはいっている家の家主という五十ぐらいのおばさんが山からやってきて、おじいさんと話していきました。あんたたちはタバコはあるしカンヅメはあるし、いいね、といっていました。おじいさんは、こんな時だからおたがい助け合って命を大切にしようね、といってカンヅメを分けてやりました。その人は、あんた達はこんな物をもらって、アメリカは何かやれと言わないか、とさぐるようなことをきいていました。私らは明日はどうなるかもわからないのに、アメリカはただやるだけで作業もさせないよ、とおじいさんが答えていました。

 

日本兵がやってきたのはその日の夜中です。部落へついて足かけ三日目の夜になります。そのころから、友軍はこわくなっていました。それまで避難民はチパッパー(フキ)など山に取りに行っていたんですが、友軍がきて取り上げてしまうという話は私も聞いていました。しかし、いくら何でもあんなおそろしいことをするとは思ってもみなかったですよ。

 

私たちが一軒家に三世帯で寝ていると、夜中に戸をドンドン叩かれたわけです。私は、アメリカが殺しにきたのかと思ってびっくりして、誰ねぇ、ときくと、友軍だ開けろ、という返事がしたので安心したわけです。すると、前の戸も横の戸も取りはずしてしまっていっぺんにはいりこんできたんです。

 

明りをつけろ、というから、私のおじいさんはランプをもっていたから、燈芯に火をつけてるってくると、刀を持った曹長みたいな人が、刀のさきでひとりひとり叩いて、起きろ起きろ、といって皆んなを起こしました。それから、何んにも言わずに、持ってきた長いロープで、ひとりずっジュズつなぎにしました。私は子供を抱いていたから縛られずにすんだんですが、その部落にはおじいさんと、そのほかに二十三ぐらいまでの男たちが七名ぐらいいたんですが、男たちは別に両手を後に縛って、兵隊手ぬぐいで口をふさいで、後で別のところへつれていったようでした。日本兵は、刀をもった曹長みたいな人と、それから、戦闘帽にO軍曹と書いた人と、そのほかには普通の兵隊が九名ばかりいました。兵隊たちの服装はまちまちでしたが、陸軍の半袖の夏服を着ていました。

 

軍曹がおじいさんに向って、おまえが班長だそうだな、というのが聞こえました。また、私の前にいた兵隊は私に向って、おまえの夫はどうしているか、ときくから、防衛隊にとられました、と答えると、そうか、おまえは夫に済まぬことをしたな、と言いました。私はそれで何となく不吉な感じがしました。でも、まさか殺すとは思ってもみなかったですから、暗い山道をひっぱっていくのではぐれないようにロープで縛ったんだろうぐらいに考えていました。私たちは兵隊に引っ立てられて海岸の方の広場につれていかれました。そこでおじいさんたちとは別々にされて、それきり帰らなくなったわけです。

 

隣の家に、読谷の人で四十ぐらいの人がいましたが、体が助膜か結核になっている背の高い男で、その人は縛られて歩けといわれても歩けなくて、それでその家の柱に縛りつけて、喉のところを刀で刺して殺してありました。それは私、翌朝荷物をさがしに戻ったとき見たわけです。その人の嫁さんは子供をおんぶして皆と一緒に広場に来ていましたが、その家の方から大きな声で、アキサミヨーと男泣きで泣くのが聞こえてきました。嫁さんはうちの父さんが泣いているがどうしたんだろう、と心配していました。

 

私たちは広場につれていかれて、そこに座らされました。班長の家族は前に出ろ、というから、私たちは最前列に座らされました。私は、何か訓示でもやるのだろうと思っていました。ところが、前の方に、兵隊たちが一列に並んで立っていて、皆んな手榴弾を持っていて、曹長みたいな人が号令をかけるんですよ。一、二、三ッと。ニイと言ったときに手榴弾の煙がシューシューシュと私らの方にふきだしてきたんですよ。私はねんねこをつけていたから、アキサミヨーとねんねこを頭からひっかぶったら、パンパン鳴ったわけです。アッという間ですよ。私のねんねこの上から弾が通って、ねんねこは裂けて頭のてっぺんのところの髪が焼けてしまっているんです。後の方では一言も声もださずに、皆んないっぺんにこと切れているんですよ。私はどうもないが、死ぬというのはこんなものかねえ、と思って、皆んな声もないけどどうなっているのかと思ってさわってみたら、皆んな仰向いて死んでいるんですよ。

 

私は元一を抱いて、いちばん前の列ですぐかがんだから助かったわけです。元一無事でした。おばあさんは私の側で仁を抱いていたのに、仁は直撃で即死してしまって、おばあさんは自分も傷を受けているのに生きていたので、仁はこんなになってしまって、とおろおろしているわけです。おばあさんは右手の指二本吹きとばされていました。康子は私の側に座っていましたが、いつもは泣き虫だったのに私のひざにもたれて黙っているわけです。私はこれも直撃で死んだものと思って、もうあきらめなさいね、友軍にやられたんだからアメリカにやられるよりましさ、もうあきらめてね、と言うたら、ウンと返事をするんですよ。生きていたんですよ。私はというと、頭の髪をはぎとられて、それに、今も傷がのこってますが、ひざのところに破片がつきささっていましたが、その時は痛いとも何とも思わず、半年後になってから、仲尾次の収容所で、何かおかしいから軍医にみてもらったら、はじめてわかって破片を抜いてもらったんですよ。あの時は食糧のことで頭がいっぱいで、自分の傷のことも気がつかなかったんですよ。正夫は片足をもぎとられて、病院で亡くなっています。宮城ツルさんは即死です。敗わたがみんなとびだして、ひどいやられ方だったですよ。その子の元成も破片でやられて、これは病院にかつぎこまれてから亡くなっています。

 

この手榴弾が投げられたのが午前三時ごろだったと思います。二時間ぐらいして夜が明けてきましたから。私たちが気がついたときはもう日本兵はいなくなっていましたが、また襲ってくるかもしれないと思って、百メートルぐらい離れた森のところに移ってかくれていました。夜が明けて、その森のところには毎朝十時ごろアメリカ兵が見まわりに来るんですが、その日もアメリカ兵がきて、あんたたちは何でそんなところに立っているのかときくから、あそこを見てごらん、と教えると、アメリカ兵もこれは大変だとあわてて、私に五本の指をだして、五分たつまでどこにも行くな、という意味のことを言って、すぐひっ返して、やがて通訳の二世がふたりと、銃をもって兵隊が五、六十名ぐらいやってきて、私に説明させるんですよ。

 

これは誰がやったかというから、友軍がやりました、というと、なかなか信用しなくて、それで私はいっしようけんめい説明して、ちょうどその広場から二間くらい離れたところに福木が一列に並んでいて、その木に手榴弾の破片がつきささっていたので、それを調べて日本軍にまちがいないとわかったわけです。アメリカ兵はまたジープをもってきて、負傷した人を病院へ送って、負傷した人は六、七名いましたかね、それでもやっぱりこの人たちは全部死んでしまったそうです。生きていて元気な者には、あんたたちは、ここは危いからすぐ羽地へ行きなさいと云われましたが、私たちはまずツルさん、仁の体をさがして近くの岩穴にかくして、それから、これからも生きていかなければならないからと、食糧や荷物を取りにもとの家まで戻ったわけです。その間にアメリカ兵は死体をスコップですくってトラックに積みこんでいました。

 

家に戻ってみると、荷物は何一つ残ってないんですよ。毛布からカンヅメから全部持っていってしまっているんですよ。隣の家に行ってみると、そこも空っぽになっていて、さっき話した読谷の人が柱に縛られて頭をたれているから、まだ生きているかと思って顔をあげてみると、喉のところに黒い穴があいてこときれていました。刀で一突きに刺したような穴でした。日本兵は食糧をとっていったわけです。

 

おじいさんたち男の人たちはどこへつれていかれたかもわかりませんでした。わかったのはずっと後で、新聞に出たので、私はすぐ登野喜屋に行って区長さんに聞いたんですよ。話では、部落から百メートルぐらい離れた裏に一本松があって、そこに六、七名の男たちが刀で斬られて死んでいたそうです。その遺骨は部落の人たちが一か所に葬ってありましたが、どの骨かも分からないのでそのままになっています。

 

あの事件の生きのこりで私が知っているのは、私の家族の四名(ウト、美代、康子、元一)と、内間(浦添)の島袋さんと、那覇の親川マカテという人と、それから伊波何とかという人、もうひとり那覇出身の当時六十歳ぐらいの女のひと、全部で十名もいなかったと思います。

 

私たちは仲尾次の収容所につれていかれました。そこにいても、いつも夜になると友軍がはいってくるような気がして恐くて二か月ぐらいはほとんど眠れませんでした。翌日から、収容所のスピーカーから山に向って、避難民はすぐ降りてきなさい、間もなく山にガソリンをまいて焼くから早く降りてきなさいと一週間ぶっ続けで放送していました。

 

<沖縄戦・渡野喜屋事件>「戦争は人を変える」住民虐殺 母の証言語り継ぐ

6/29(火) 5:31配信

◆太平洋戦争末期、日本兵が沖縄住民35人を殺害

 

戦後76年の「沖縄慰霊の日」は雨模様。晴れ間を縫って、大勢の遺族が平和の礎に参拝する姿が見られた。(6月23日、沖縄県糸満市摩文仁で撮影・新聞うずみ火)

76年前の沖縄戦で、非戦闘員である住民は米軍だけでなく日本軍にも生命を脅かされた。壕追い出し、食料強奪、「自決」強要、虐殺――。 1945年5月12日、沖縄県北部の大宜味村渡野喜屋(おおぎみそん・とのきや)で35人が日本軍に殺される事件が起きた。兵庫県尼崎市の仲村元一さん(76)は生後3か月で事件に遭遇、母、美代さん(2017年5月、99歳で死去)から「平和のバトン」を引き継ぎ「戦争は人間を残酷にする。だから、どんな戦争もしてはならない」と訴える。 (矢野宏、栗原佳子/新聞うずみ火)


◆避難中、米軍に捕まった仲村さんの家族

仲村さんは那覇市に生まれ育ち、高校卒業後、兵庫県で就職した。生家は理髪店で、祖父、仁王さんと父、元康さんが親子で営んでいた。

 

44年10月、米軍が南西諸島全域を無差別爆撃した「十・十空襲」で店舗兼住宅は焼失。母の美代さんは大きなお腹を抱えて懸命に逃げ延び、45年2月、仲村さんを出産した。4月1日の米軍上陸直前、親族9人で本島北部(やんばる)へ避難。5月に入り東海岸の東村平良で米軍に捕まった。

 

他の避難民とともにジープから降ろされた場所が西海岸の渡野喜屋(現在の白浜地区)だった。集落の住民は山中に避難しており、約90人が民家に分散して収容された。米軍は食料を配給するため、収容者の班長に当時57歳の祖父、仁王さんを指名した。

 

◆「貴様ら、敵の捕虜になり下がりやがって」避難民を襲った日本兵たち

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母からバトンを受け継ぎ「渡野喜屋事件」について語る仲村元一さん(5月30日、大阪市北区で撮影・新聞うずみ火)

 

事件が起きたのは渡野喜屋に着いて3日目の深夜だった。沖縄県史(1974年刊)に収録された美代さんの証言を中心に再現する。

「友軍(日本軍)だ。開けろ」。約10人の日本兵が集落を襲撃した。

「俺たちは山の中で何も食うものがないのに、お前たちはこんないいものを食っているのか」などと言い、仁王さんら約7人の男性を後ろ手に縛り連れ去った。女性や子供たちをロープで数珠つなぎにし、海岸に引っ立てて4列に座らせた。

班長の家族は前に出ろ」と命じられ、美代さんらは最前列に座った。
「姉さん、みんな殺すのだろうか」 「友軍だから大丈夫」。
美代さんは隣り合わせた14歳の義弟とそんなやりとりをした。

 

「貴様ら、敵の捕虜になり下がりやがって。それでも日本人か」と罵声が飛んだ。「1,2,3」という号令とともに、前に並んだ日本兵が手りゅう弾を投げこんだ。

美代さんはとっさに身を伏せ「ねんねこ」を頭に被った。元一さんを抱えていたため捕縛を免れていた。手りゅう弾が頭上をかすめ、「ねんねこ」が裂けた。
振り返ると、人々が声もなく倒れている。みなこと切れていた。

 

朝、米軍が遺体を収容、けが人を病院に運んだ。米軍資料によれば死者35人、けが人15人。残りは別の収容先への移動が決まった。美代さんが民家に荷物を取りに戻ると、食料や毛布全てが持ち去られた後だった。隣の家では、40歳ぐらいの男性が柱に縛られたまま、喉を短刀で突き刺され死亡していた。
仲村さんの親族は4人が亡くなり、祖父、仁王さんは帰ってこなかった。

 

◆食料奪いスパイ視

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「その通信兵もそうですが、一人ひとりはみないい人であっても、戦争は人を変えるのです」 家族で営む沖縄料理の店で三線を手にする仲村元一さん(6月1日、兵庫県西宮市池田町で撮影・新聞うずみ火)

 

沖縄県史(2017年刊)によると、事件を起こしたのは「国頭支隊通信隊の東郷少尉を隊長とする班」だという。国頭支隊は北部の守備に当たった独立混成第44旅団第2歩兵隊で、支隊長の宇土武彦大佐の名から宇土部隊と呼ばれた。

 

沖縄本島に上陸した米軍は北部方面にも進攻、国頭支隊は拠点とする本部半島を約2週間で制圧され、敗走した。沖縄県史は事件に関わった元通信兵の手記(1975年刊)を引き、「『各小隊あるいは分隊ごとの小人数に分かれ、自活しながら遊撃戦を展開』するようにと宇土支隊長から指示され、避難民や住民の食料を強奪しながら山中に潜伏していた」と記している。

 

避難民は仲村さんたちのような中南部の人々だ。45年2月、県が軍の指示で決定した中南部の老幼婦女子10万人を対象にした北部疎開。しかし食料不足は深刻で、栄養失調やマラリアなどで命を落とす人が続出。そこが敗残兵と同居する戦場になった。

 

米軍は敗残兵を掃討するとともに民間人の保護を進めた。一方、米軍に保護されたり、協力者と見なされたりした民間人が日本軍にスパイ扱いされ殺される事件が多発した。渡野喜屋事件も「大量の食料を支給されている」「日本軍の動向を通報している」としてスパイ視したという。元通信兵の手記によれば、集落を偵察した兵士2人が米軍に捕まったため、「復讐」として「襲撃し、スパイを逮捕」する計画だった。
捕まった2人は事件後、無事に戻ってきたという。

 

祖父、仁王さんに何が起きたかも記されていた。尋問の末、首を切り落とされたという。元通信兵は80年、美代さんを訪問し、現地への道案内を申し出た。仲村さんも98年、初めてその場で祖父らに手を合わせた。

 

◆母の証言 今度は自分が語りつぐ

仲村さんは事件から76年となる5月、大阪市北区のライブハウスで三線を弾き、美代さんから伝え聞いた事件を語った。

集会などで体験を話し始めたのは10年前から。きっかけは沖縄戦で日本軍は住民を守った。住民を殺すようなことはしていない」という知人の言葉だった。ヤマトンチュ(本土の人)は何も知らないと実感した。証言を重ねてきた美代さんも90代に入り、自分が語る番だという思いを強くした。

 

 「母は生前、私によくこう言ったものです。『お前はあの戦争で命を拾ったのだから、身体を大事にしなさいよ』と」


 
防衛隊に召集された父・元康さんは仲村さんが生まれて数日後、散髪道具を取りに寄り「ああ、男の子が生まれたか」と喜んだという。それが最初で最後の対面。いつどこで亡くなったかもわからない。

 

仲村さんは名護市辺野古の新基地建設で、激戦地南部の土砂を埋め立てに使う防衛省の計画に言及し、怒りをにじませた。

「戦後間もない頃、那覇市内でもボールを拾いに草むらに入ると、いたるところに遺骨がありました。祖母は『動かしてはいけない。戦争で歩けなくなった人を木の下や岩陰に置いて逃げなければならなかった。その家族が見つけられなくなってしまうから』と言っていました。沖縄戦で犠牲になった人々の遺骨を含んだ土砂が米軍基地建設に使われるなんて許されません」

 

国の責任を 

大宜味村喜如嘉知名ウト

私たち遺族にとって、どうしても納得のいかないことです。私の夫が、沖縄戦も終った昭和20年7月3日、日本兵に殺されたことについて、日本政府はどのようなつぐないをしてくれるのでしょう。

 

私は、事情をくわしく替いた陳情書を、昭和四十六年に政府へ提出しました。私の陳情の主旨をわかってくれる人は、どこにもいないようです。そこで私は、この陳情書を県史に記録としてとどめておいて、国の責任を永久に追及してほしいと思っています。以下はその陳情書の全文です。

 

私の夫、知名定一当時四五識は、太平洋戦争の終戦間際に、沖縄本島大宜味村字喜如嘉部落俗称当山という山林内で戦時中のスパイ容疑を受け、元日本兵数名によって虐殺されましたが、戦時中とはいえ、その残虐性は人道上のことからしても許されるものではありません。なお、汚名を返上してもらうよう、本土政府におかれましても実情調査の上、私たち遺族に適切なる補償をなしてくださるよう陳情致します。

 

一、夫の本籍、住所、氏名、年齢本籍沖縄県那覇市首里寒川町一の七番地当時の住所沖縄県国頭郡大宜味村字喜如嘉六五九番地元沖縄県巡査知名定一当時四五歳

二、夫の経歴及び遺族の氏名故知名定一は、明治三四年四月本籍地で出生、大正十三年沖縄県巡査を拝命、那覇警察署及び名護警察喜如嘉巡査駐在所勤務を経て、昭和十七年依頼退職し、その後太平洋戦争は肩書住所に居住していました。家族は、妻ウト現在六九歳、長女昌子三三歳、二女明子三一歳の三人暮しで、戦時中は戦災を免がれるため、台湾へ疎開し、昭和二二年九月、台湾から引き揚げ、しばらく大宜味村字喜如嘉の実家へ身を寄せていましたが、夫の虐殺事件を苦にし、昭和二三年肩書住所(那覇市真嘉比)へ転居し現在に至っております。

 

三、夫の死亡年月日和二十年七月三日

四、虐殺場所|国頭郡大宜味村字如嘉部落よりおよそ四キロメートル離れた俗称当山の山林内

五、事件の経過| 昭和二十年四月米軍が大宜味村喜如嘉部落一帯の民家捜索のため進駐して来た際、たまたま食糧取りに自宅に来た夫は、米軍により捕虜となり、国頭郡羽地村の難民収容所へ収容されておりました。収容中のキャンプで、羽地村、初め沖縄中、南部帯の住民は、避難先の山や塚から適切なキャンプに収容され、米軍から食糧、衣服類も住民に配給されており、治安状態も維持されていることを聞かされ、捕虜釈放後、夫は喜如嘉部落に帰り、部落民に対し、以上の情報を話し、早々山から下山するよう勧めましたところ、当時喜如嘉部落の俗称当山という山林内には、一般部落民から食糧の供出を強要し生活をしていた元日本軍の敗残兵紫雲隊と称する十五名内外の兵隊達が山林内に立てこもっておりました。夫は、部落民に対し、捕虜収容中に得た上記情報を部落民に話し、山から早く下山するよう勧めたところ、彼等は、スパイ行為であると曲解し、昭和二十年七月二日の夕方、紫雲隊所属の伊沢曹長以下数名が夫の住家へ来て、スパイ行為をしていると称し山へ連行しようとしたので、夫は軍機に触れる行動はしていないと釈明したようですが聞き入れず、目隠しをなし、両手を後手に縛りつけ、銃剣で刺殺し山林内へ埋めた事実。

 

六、部落民の反響

夫が警察官として在職中、永年に亘り喜如嘉の駐在巡査として勤務し、部落の治安維持のため精魂を根け、指導者として頼度も高く買われております。戦時中のスパイ容疑により悲惨な死を遂げた夫に対し、部落民は今なおその死を悼み、多くの同市が寄せられています。以上のような残座行為に対し、私達遺族は悟りを感じ、睡眠も充分にとれない日も多くあります。部落民の話によりますと、夫が羽地収容所よりの煙草並に食糧を持っていたとのことで、それを欲しさにスパイ容疑をかけたとのことであります。

 

なお、夫のほかにも数名がスパイ容疑でリスト・アップされていたようですが、部落民の下山が早くなってその難を免がれたとのことです。

 

何卒、以上の事実をご調査の上、夫の汚名挽回と私達道疾に対する生活補償ができますよう陳情申しあげます。

 

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)